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第4章 奇跡の萌芽

世間の浮かれるクリスマスが過ぎ、学校も二学期が終了した。

西洋風の飾りに代わって、今度は和風の装飾が街のあちこちに見られるようになったある日のことだった。

美汐がこの日は私服で病院に向かっていた。学校は既に冬休みに入っていたから、制服を着ていないことは当然であったが、ひょっとすると栞はそれを残念がるのではなかろうかと、美汐はそんな想像をしていた。

いつものように、病棟の入り口で面会の意を伝えようとしたとき、驚いたような顔で、傍にいた看護婦に制止された。

「いつも、美坂さんをお見舞いに来ている人ですよね?」

「はい、そうですが……。ここに名前と時間を書いておけば……」

美汐の言葉を、その看護婦が遮る。

「申し訳ないのですが、美坂さんは昨日から、容態が急変して、面会謝絶になっているんです」

「えっ」

「ご家族にも面会はご遠慮頂くつもりですので、どうかご理解下さい」

「はい……」

「頂くつもり」という看護婦の言い方から、おそらく栞が前に言っていたように、姉の香里が来なくなったために、栞の家族そのものがほとんどここには来ていないのであろう。

この前来た時には、栞は、少なくとも余命幾ばくもない女の子には見えない程度の元気を保っていたはずである。

だが、目の前の看護婦の真剣な表情を見ていれば、そこには彼女の示す事実があることを認めざるを得なかった。

美汐はそれでも信じ切れずに、一度受付を辞した後に別の階段から密かに栞の病室に回ってみた。

だが、そこには紛れもない現実があるのみだった。三〇四という番号と、その隣にある「美坂栞」と書かれた札。扉の正面にははっきり「面会謝絶」と書かれた札が掛かっていた。中からは、専門的な言葉で様々な指示を出している医師の声と、それを受けている看護婦らしい女性の声が微かに聞こえてくる。

美汐は、どうすることも出来ずに、この日は家に帰ることにしたのだった。

栞の病状が、すぐに死に結びつくとは限らないにしても、この日の出来事は強い衝撃を美汐に与えた。

栞の言っていた、「わたしはおそらく、次の誕生日までは生きられないんです」という言葉が、聞かされた時とは別の重みを持って美汐には思い出された。

おそらく、美汐にとっては初めて人の死というものを本当の意味で実感した瞬間であっただろう。同時に、理屈として知っていた、「消失」と「死」の違いというものもはっきりと理解した。

美汐は、どうしようもない虚無感、そして無力感にさいなまれながら、この日から数日間を過ごすことになった。

学校が終わった今、部屋で一人でいることにも耐えられず、外に出たのだったが、行くべきところもなかった。

そんな美汐は、雪の舞う中を歩き続けながら、いつの間にか、あの公園へ足を向けていた。今ならば、あの場所に立っていたとしても、自分の姿を栞に見られることはないであろう。

栞の回復を、あの場所で消えていったあの少年に向かって祈るつもりだったのかもしれない。

そんな美汐は、祈ろうとしていることは、あの少年がどこかに存在している、つまり、消えてなくなってしまったのではないということを前提とした気持ちであることには気が付いていなかった。

そういう意味で、美汐は混乱していたといえるだろう。

これまで、あの少年の記憶と共に生きてきた美汐にとっては、栞に出会ってからのおよそ一、二ヶ月の間に、様々な出来事を経験しすぎたともいえる。それは美汐にとって必ずしも好ましいことばかりではなかったかもしれないし、美汐にとっては自分の生き方を変える大きな方向転換になる出来事であったかもしれない。

そんな美汐は、厚手のコートにロングスカート、ブーツにマフラーという完全装備で、酷寒の公園に向かっていた。

しかし、公園まで後少しでたどり着こうというところまで来て、その足をふと止めた。

足を止めた直接的な理由は、これから渡ろうとしていた横断歩道の信号が赤を示していたからだったのであるが、その僅かな立ち止まりの中で、美汐の心の中にいろいろなものが逆流してきた。

あの場所に行くことが、果たして正しいことなのか。

あの場所は、いったい何を司っていて、そこに縋ることはどんな結果を導くことになるのか。

そんなことを漠然と美汐は考えた。

やがて信号が青になり、美汐の周りにいた他の何人かの歩行者が歩き始めた。

しかし、美汐は結局、その足を踏み出すことはなく、青になった信号機に背を向けて、元来た道を戻り始める。

公園の隣にある病院の屋上にある看板が、そんな美汐を見送っているかのようであった。

そのまま家に帰ることを厭い、美汐は商店街にある書店にでも寄ることにした。

駅前まで続く商店街に入った美汐は、そこからほどないところにあるコンビニエンスストアの前までやってきた。

「あうー、これ、熱いよ……」

そんな言葉が耳に入り、美汐はふとその主の方に目を向ける。

見ると、雑誌などが並べられているガラス張りの店の店頭、軒のようになっているところに、一人の少女が立っており、聞こえてきた声はこの少女から発せられたもののようであった。

「でも、美味しい」

長い髪を二ヶ所で束ねた、幼く見える女の子だった。

よくコンビニエンスストアで売っている、中華まんを食べているらしく、それだけであるなら、多少の行儀の悪さに目をつぶるとすればありふれた町中の光景に過ぎなかったのであろうが、美汐は、その傍を通りかかった時に、この少女に特別な空気を感じ取った。それは、美汐がこれまでに経験したことのある既知感と言い換えることが出来るだろう。

その直感が美汐を襲ったとき、美汐は少なからず驚いた。思わず足を止めて、美汐はその少女の方をまじまじと見つめる。誉められた仕草ではないことは分かっていたが、止めることは出来なかった。

少女は、美汐が自分を見ていることには気付かず、目の前の肉まんと格闘していた。中の具が熱く、食べるのに難儀であったが、ようやくそれを攻略し終えて、残った包み紙を屑籠に捨てた。

それでもまだ、少々物足りないようであり、自分の手を眺めた後に、服のポケットに手を伸ばした。

「あうー」

何か困っているか、悩んでいるかのようだった。

「あうー、もう一つ食べたいよー」

財布の状況は、それを許していなかったのかもしれない。何度も財布の中を覗き込みながら、少女は同じように「あうー」という言葉にもならない言葉を繰り返していた。

通行人が何人か、少女の奇声に気付き、興味本位の目をそちらに向けた。それに気付いて、美汐は慌てて自分も同じ視線を少女に向けていることに気付き、多少わざとらしく、その目を逸らした。

少女は、しばらく「あうー」と悩んでいたようだったが、結局現実には勝てなかったのか、コンビニエンスストアの前を立ち去っていった。

美汐は何故か安堵の息を付きながら、ゆっくりと本来の目的地だった書店に向かって歩き始めた。

書店に向かって歩いていた美汐は、少し進んだ先の駄菓子屋で再びこの少女の姿を見つけた。

相変わらず、店先で何かを食べながら、「あうー」と困惑したような言葉を発していた。今度は、先ほどの中華まんよりも安いお菓子を見つけたのだろうか。

そんなことを考えながら、美汐はあえて少女のことは気に掛けないようにして、書店に向かって歩き始める。

感じた既知感には驚かされたが、その正体にまで立ち入ろうとは考えずにいたので、書店に着いて本を探し始めたときには、少女のことはほとんど美汐の意識の中からは消え去っていた。


年が明けた。

松の内が過ぎる頃になると、美汐の知らない間に美汐の周りの環境は静かに移り変わっていた。

美汐たちの通う学校に、一人の男子生徒が転入してきた。

彼は如何ともしがたい理由でこの街に七年ぶりに戻ってきた人間であり、この街のことは懐かしく思うよりも寧ろ、疎ましく思うところが多かった。

この男子生徒の名前は相沢祐一というが、彼は自分も知らないところで物語の大きな役目を果たす人物となる。

久しぶりに制服姿となった美汐は、放課後に商店街を歩いていた。

朝、制服に袖を通したときに、ふと栞のことが頭をよぎった。面会謝絶の札を見て以来、美汐は病院には行っていなかったし、あの公園にも結局行かないまま日を過ごしていた。年末年始は家族と月並みには過ごしたが、学校が始まるとそんな気分もすぐに失われて、いつものような日常へ戻ろうとしていった。

始業式の日は学校もすぐに終わったので、いつまでも残る必要のない美汐は、大げさに再会を喜んでいるクラスメイトたちを横目に見ながら、目立たないようにして教室を去っていった。

そして、商店街にやってきた美汐は、しばらく喫茶店で読みかけの本を読み進めた後、雪の降るアーケードに再び出てきた。

駅前に向かって歩き始めたとき、妙な人影に美汐は気が付いた。

明らかに不自然であった。

電柱の影に、一人の少女が隠れるようにして身を伏せていた。いや、正確には「隠れるつもりで身を伏せようとしていた」というべきであろうか。

悲壮な雰囲気のようなものを漂わせながらも、それはユーモラスにすら見えた。それほど、この少女のしようとしていることと、現実にはギャップがあった。端的に言うと、傍目には全く、隠れようとしている風には見えなかったのである。

それだけであったなら、美汐は単に変な子供がいるという認識だけでこの場所を通り過ぎていったであろう。

しかし、美汐はこの少女を見てすぐに、前にコンビニエンスストアの前で「あうー」と困惑していた少女のことを思い出した。確かに、美汐の記憶の中にあったあの少女の姿と、今目の前にいる彼女のそれはよく似ていた。

だが、美汐が一番強く感じた共通点は、この少女の纏っている、ある種の「匂い」であった。

美汐は、立ち止まってその挙動不審な少女のことを眺めることにした。

電柱の影から、何かを伺うようにしている少女。何かを尾行しているというよりは誰かを待ち伏せしているという様子であった。

そうして伏せている時間が長くなっていたならば、美汐もこの少女に関心を払い続けることをやめて立ち去ったのであろうが、程なく、何かに反応を示した少女が、勢いよく道路に飛び出した。

探していた人物が現れたのだろうか。

少女が飛び出した先に、美汐と同じくらいの歳の少年が立っていた。

当然、この少年は驚いてその場に立ち止まる。

「な、何だ……」

「ついに見つけたわよっ」

少女はそんなことを言いながら、少年につかみかかろうとしていた。

「なんだ、お前は」

「許さないんだからっ」

「許すとか許さないとかって何だよ。俺はお前のことなんか知らないぞ」

「そんなことないわよっ。私はねっ」

言葉を途中で止めて、少女が少年にいきなり殴りかかろうとした。

その表情も真剣で、不意を付かれた少年は顔にそのグーの手を食らうように見えた。

だが、実際はそうならなかった。勢いよく突き出されたはずの手は、それこそ美汐であっても避けきれるような緩慢なものであった。

少年は難なくそのパンチを避ける。

「なによー」

自らの意図が達せられない少女は、腹立たしく困惑しながら、もう一度その威力のなさそうなパンチを食らわそうとする。

どういう経緯かは分からないが、目の前の少年を憎らしく思う気持ちが先行してはいるのだが、体の動きがそれについていかない、そんな様子であった。

「なんで避けるのよー」

「いや、身に覚えのない襲撃を甘んじて受ける理由も見つからないし」

「わたしには理由があるのよっ」

四度目くらいであっただろうか、少女がまた少年に襲いかかる。今度はその緩慢なパンチを手のひらで受け止めようとした少年だったが、彼はパンチでなくこの少女の体そのものを受け止める羽目になった。

少女から力が抜け、倒れ込むようにしてもたれかかってきたのだった。

このちょっとした騒ぎは、商店街を行く人たちの目を引くものであったが、この展開は更にそれを目立たせることになった。

そのまま、力の抜けた少女を少年は抱え込む形になる。

ことの展開を最初から見ていなかった人からすれば、どうみてもこの少年が少女によからぬ危害を加えようとしているようにしか見えないだろう。

最初から見ていた美汐であったが、わざわざ騒ぎの渦中に出ていく気にもならず、そのまま野次馬の一部として少女のことを眺めていた。

理由はよくわからないが、おそらく眠り込んでいるのだろう。

少女の待っていた相手は当然、顔見知りだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしく、少年は非常に困った様子を見せていた。そんな少年に美汐は少しばかり同情した。

まさかそのまま放置して立ち去るわけにもいかず、少年は周囲の目を気にしながらこの少女を背負うと、この場所を立ち去っていった。

そんな出来事があった翌日、昼休みの学校に一人の女の子が訪れていた。

白いセーターにチェックのストールを羽織っている。短めのスカートは、この季節では少々薄着に過ぎるように思われたが、当の本人にはあまり気にならないようであった。

学校の中庭に、ちょっとした広場になっているところがある。春から秋までの間は、適度な日差しと木陰が与えられるこの場所で、弁当を広げる生徒たちも多く見られるのであるが、雪に閉ざされた今の季節にあっては、誰も近寄る者などおらず、雪の積もったベンチと共に寂寥とした雰囲気の中にあった。

この少女は栞だった。

年の瀬から病状が悪化して、面会謝絶の状態にあった栞だったが、ようやく体が回復し、多少は動き回れるようになった。

そんな栞は、病院に黙って密かに外出するようになった。

入学式の日以来、ずっと学校を休み続けている栞がやってきたのは、他ならぬその学校であった。あこがれの制服姿ではなく、私服のままであったが、姉から贈られたお気に入りのストールを羽織って、多少は気持ちも軽やかになっている。

授業が行われているであろう校舎を、ひっそりと人気のない場所から眺めている栞。

それでも、病院に黙ってまで学校にやってきたことを、栞は後悔していなかった。

残された時間はそう多くはないのだから、これくらいの我が儘を通しても罰は当たらないのではないかと、そんな風にも栞は考えていた。

やがて、学校は昼休みに入ったのであろう。外から眺めていても、校舎の中がにわかに賑やかになったように感じられた。窓ガラス越しではあったが、生徒たちの喧噪が聞こえてくる。廊下を行き交う生徒の頭がここから見える。そこには栞の好きな制服姿もたくさん見られた。

栞はそれを、外の立場から眺めていた。勿論、その中に入っていきたいという気持ちは充分にあったが、それを実現することが出来ないことは、栞自身がよく知っていた。

だからこそ、誰もいない病院で泣いていたのだ。もっと大きく悲観したこともある。

いっそ、病状が回復しなければよかったと考えたこともある。

木陰でそんな学校の様子を静かに眺めていると、突然、校舎にある大きな鉄の扉が音を立てた。

外では静かに小雪が降り続いており、それが周りの音すらも吸収しているかのような静寂の中にあったから、その音は栞にははっきりと聞こえてきた。

もし誰かが自分のことを見咎めてきたらどうしようかと考えている間に、開いた扉から一人の男子生徒が近づいてきた。

栞は、なるべく自然を装いながら、先んじてこの生徒に挨拶をすることにした。

「こんにちは」

「うん?」

女子生徒ほどではないが、首の窮屈そうなセーターがそれなりに特色であるその服装は、間違いなくこの学校の生徒のものであった。当然ではあるが、栞とは面識のない人物だった。女子と違って、すぐには学年も分からない。

「ずっと前からここにいるよな」

割と無遠慮に、この男子生徒は話しかけてきた。栞は自分の存在がこの学校で認められたように思えて嬉しくなり、笑顔でその問いに答える。

「はい」

「誰かに用事でもあるのか。だったら、呼んできてやるけど。まあ、編入生の俺に知っている人間はそういるとは思えないんだけどな」

「編入生なんですか」

この男子生徒は、相沢祐一といい、今年に入ってこの街に引っ越してきたのである。親の都合で引っ越しを余儀なくされ、今はいとこの家に居候している。

「ああ、まだこの学校に来て三日目だ」

「そうなんですか」

「でも、部外者のお前よりは学校にくわしいぞ、たぶん」

「部外者じゃありませんよ」

「だけど……」

改めて祐一が栞の服装を眺める。

「やっぱり、何か届け物とかじゃないのか?その、お兄さんとかお姉さんとかに」

「えっ、いいえ……」

お姉さんという言葉に、栞は一瞬反応した。しかし、祐一はそんな栞の心の揺れまでには気付かなかったようだ。

「わたしも、この学校の生徒なんです」

「そうか……、っておい、学校をさぼってちゃダメじゃないか」

「いいえ、さぼりではありません。病気で休んでいるんです」

「なのに、そんな格好で外出か」

「寝ているのにも退屈してしまいましたので」

「風邪か?だったら、外に出てちゃ治るものも治らなくなるぞ」

「でも、やっぱり退屈ですので」

「ま、俺がいくら言っても仕方ないけど、程々にして帰れよ」

「はい、そうします」

ちょうどその時、校舎から予鈴のチャイムが鳴り響いてきた。

「教室からそこにずっと立っているお前の姿が見えたから、気になっていたんだ。この寒さだからな、用が済んだら早く帰れよ」

「はい、そうします」

そう言い残すと、祐一は校舎の中へ戻っていった。栞はそれを笑顔で見送ると、どことなく満足な気分を味わいながら自分も病院に戻ることに決めた。

寒さは栞には耐えられないほどではなかったが、あまりベッドを開けていると、病院の方でも面倒になってしまうかもしれない。

そう考えた栞は、また明日もここにやってくる心づもりでいるのだった。

「祐一さん、っていうんですね。何年生なんだろう」

そして、栞はそんな風に、祐一に興味を持った。


病院に戻った後の栞は、おとなしくしていた。治療のない時間帯にこっそりと外出したつもりであったが、看護婦にはしっかりとばれていたらしい。

この気さくな優しい看護婦は、栞の病状が一応安定していることを見て、なんとか見逃してくれたのであるが、今後も外出して例えば祐一に会いに行くためには、病院の中にいる間は医師や看護婦の指示に従っておく方がよいとも考えたからである。

一方で、再び美汐が見舞いに来てくれるのではないかと期待していたが、それはまだ実現していなかった。点滴の準備をしている看護婦にそれとなく聞いてみるが、一度面会謝絶になったとき来て以来、姿は見ていないという。

栞が出かけていったのは、学校では授業をしている時間帯であったから、美汐と行き違いになったということもないだろう。

「そうですか、ちょっと残念です……」

そう言って、栞は腕に刺された針に身を任せた。その瞬間、栞の顔が僅かに歪む。慣れているとはいえ、体に針を刺されるときの感触は決して気持ちのよいものではない。

栞は、自分の方からは美汐に連絡する手段を持っていないことに気が付いた。自分から美汐に積極的に来てもらうように求めることは出来なかったが、やはり若干の寂しさは感じている。

今日、学校に出かけていって、期せずして祐一と出会い、その寂しさは少しは紛らすことが出来たが、病院に戻って個室で一人きりになると、そうした人恋しさが再び顔を持ち上げてくる。

一方、美汐はまだ栞の病状が回復していないと考えていた。

友人であるとはいえ、栞とはまだそれほど近しい存在ではなかったので、そう何度も病院を訪れることも出来なかった。

学校が始まり、再び制服に袖を通すようになって、栞のことは思い出されたが、それ以上の行動には移さなかった。

学校が始まると同時に、商店街で謎の少女を見かけるようになった美汐の関心は、一部がそちらに向いていたと言うことも出来るだろう。

ある日の放課後、美汐は図書館に残っていた。

テスト期間が始まるまでにはまだ少しあり、受験を控えた三年生はほとんど自宅学習のようになっていたから、放課後の図書館は人影もまばらであった。

ほどよく暖房が効いており、不届きにも机に伏せて寝ている生徒もいたが、美汐はそちらには無関心で、目的の本を探し出す。

それは美汐にとっては読み慣れた類のものであった。

この地域に伝わる神話や伝承の類の解説された、民俗学の本であった。学校の図書館らしく、書庫のこの付近には、町中の書店では手に入らないような本が何冊も置いてある。

中学生の時にやはり同じように図書館で見かけた、美汐があの少年の正体について知ることになった本も置いてある。

今回はそれには手を伸ばさず、隣にあったもう少し厚めの本を美汐は取りだした。

高いところにあったので、背伸びをして手を伸ばしたときに、微妙にスカートの中が露わになりそうであったが、周囲には他の生徒の姿もないので美汐は気にしないことにした。

机に戻り、寝ている生徒からなるべく離れた場所に席を取った美汐は、隣の椅子に鞄を置いて本を読み始める。

目次に目を通し、自分の求めている伝承の扱われているページを開く。

細かい字が三段に渡って並んでおり、決して読みやすい本とは言い難かったが、この程度であれば美汐にとっては厭がるものでもない。

暖房の動く音が静かに聞こえてくる中で、美汐はゆっくりその本を読み進めていく。

本の内容は、あらかた美汐の既に知っていることだった。昔話として伝わるいくつかのエピソードも、細部こそ異なってはいたが、美汐の経験したことと根本的には同じだった。即ち、人間に助けられてその恩を感じた狐が、姿を変えてその人間に会いに来る。だが、その変化は自らの存在を代償としたことによるもので、その「気」が尽きたときに、命だけでなく肉体そのものと共にこの世界から消え去ってしまうというものであった。

美汐は、再びあの時の喪失感を思い出した。

ページをめくる手を止めて、自分の手のひらを眺めると、その時に味わった感触が昨日のことのようによみがえってくる。同時に、自分へのやるせなさに心を痛めることになる。

消えてしまうのならば、どうして彼は自分に会いに来たのか。それが美汐にはどうしても理解できなかった。単に罠に掛かっていた狐を気まぐれで助けてやっただけのことである。それから、狐らしく山中で元気で生きていればよいのに、どうして存在を賭けてまで自分に会いに来たのか……。

そして、美汐はここ最近で見かける、もう一人の「狐の子」のことを思い出した。

「あうー」と困惑の声を出していたあの少女は、間違いなく狐の子だと思われる。

だとしたら、あの子は誰に会いに来たのであろうか。そして、また同じ結末が待っていることを、あの子やあの子の会いたがっている誰かは知っているのであろうか。

美汐はそれが気がかりであった。栞を除けば、他人と関わり合いになることを嫌っていた美汐が、そのようなことを考えるのはある意味では不思議でもあった。気付かないうちに、自分の傍にいる人たちの幸せを願っている栞の影響を受けていたのかもしれない。

だがこの場合、狐の子もその子が会おうとしている誰かも美汐には関係のない人間だった。

一方で、美汐の本来持っている優しさの中には、自分と同じ悲劇をこれ以上繰り返さないように願う気持ちがあった。

読み進めた本の中に、例えば栞の言っていたような話は出ていなかった。栞は、一度消えていなくなってしまったとしても、もしかしたら再び会いに戻ってきてくれるかもしれない、と言っていた。即座にそれを否定した美汐だったが、もし、伝承の中にそういうものが出ていたら少しは信じることが出来るかもしれないと思ったのだ。

似たような物語は、この地方だけでなく日本の中に数ヶ所、はっきり語り継がれていないものも含めれば更に何ヶ所か存在すると、この本には記されていた。だが、そのどれの中にも、消えた狐の変化が再び現れるということはなかった。そのほとんどが悲しい結末で終わっており、唯一、一緒にその狐と暮らしていたことがきっかけで伴侶を得た猟師が彼を祀りながら幸せに暮らしたという話が残っているのみだった。

だが、その中で美汐も、そしておそらくは研究者や学者も気付いていない一つの事実があった。

それは、同じ人間が二度、狐の変化した人間に出会ったことはないという事実であった。

一通り本を読み終えた美汐は、書庫にそれを戻して図書館を立ち去った。

過去の出来事に向かい合った美汐は、その過去をもう一度感じるためにあの公園に向かうことにした。

久しぶりの公園は、相変わらずの雪の中であった。

髪の毛や制服に粉雪が降りかかることを気にしないで、美汐はしばらくその雪の中に立っていた。

感じる寒さは単に物理的なものだけではなかったに違いない。

何かを思い出したかのように、美汐は灰色に曇った空を見上げる。

全てが悲しみだけであったこれまでとは違う、何かの予感を美汐は掴んでいた。だがそれが何であるかは分からない。

いや、そうした予感を掴んだことさえ、美汐は気付いていなかったのかもしれない。

だが、美汐と、そして栞の周りで、何かが静かに動き始めていた。

その翌日、栞は再び学校に来ていた。

前の日は特に目的もなく、あえて言うならば単に学校を見に来たというだけのことだったのだが、この日の栞にはちょっとした期待があった。

昨日、中庭で会った男子生徒……、祐一にもう一度会えるのではないかという期待だった。

栞と美汐が抱え込んでいる悲しみを解く鍵に、祐一がなり得るということをまだこの時の栞は知らず、同じ学校の少し格好のよい男の子と話せる自分……、そしてその自分は薄幸の少女であるということが、テレビドラマの運命の出会いのようでどこか楽しかった。

時折雪がちらついている中、栞は昨日と同じ服装にお気に入りのストールを羽織って学校までやってきた。病院暮らしであるから、服が同じものしかないのはこの場合は仕方ないことではあった。

ともあれ、学校が昼休みに入る一時間くらい前に着いた栞は、校門から中庭の方へ抜け、昨日と同じ木の下へとやってきた。

そして、いろいろなことをぼんやりと考えながら、時々、校舎の方に目を向けた。あの人は同級生なのだろうか、それとも先輩なのだろうか。

あの人のいる教室というのは、あそこに並んでいるうちのどこなのだろうか……。

栞の思索はそんなところから始まった。そして、次に自分が学ぶはずだった教室を探し始める。

一年生の教室が概ね一階にあることはわかっていたが、一度しか入ったことのない教室の場所を、栞ははっきりとは覚えていなかった。

そして、美汐……。

美汐は栞と同じクラスだと言っていた。自分のいるはずだった教室に、おそらく今も美汐はいる。それはあのうちのどこになるのだろうか……。

美汐は、どこか暗い影を持っている女の子だと、栞はいつからか敏感に感じ取るようになっていた。病室で栞と話していたとき、最初はぎこちなかった表情がだんだんと緩んだものになり、時々見えてくれる笑顔は、まだ子供っぽさを捨て切れていない自分からするとうらやましいほどに美しかった。

しかし、今から考えてみると、同じように時々見せる寂しさ、暗さというものがその笑顔の美しさを引き立ててもいたのかもしれない。

美汐は、栞の笑顔がうらやましいと言ってくれた。もしかすると、自分の笑顔も、夜中にこっそり泣いて悲しんでいる心が引き立ててくれているのであろうか……。

栞の予想していたとおり、美汐は深い悲しみを抱えていた。その話を聞いたとき、どうにも出来ない自分への無力感というものを感じた。だから、栞には美汐に笑顔を取り戻してもらうために自らも笑顔になることしか出来なかったのだ。

人と深く接することを拒否し続けてきた美汐だったが、自分のことは理解してくれたのか、それとも哀れんでくれたのか、拒絶することなくつきあってくれた。その直後から一度病状を悪化させてしまい、美汐にその嬉しさを伝えることが出来なくなっていたのが残念だった。

美汐には会いたかったが、この学校の中でそうすることは出来ないだろう。

そんな栞が学校にやってきて、見知らぬ男子生徒に声を掛けられた。

この街を「寒い、寒すぎる」と言いながら、わざわざ外に出てきて自分の話し相手になってくれた真意はよく分からなかったが、栞の女の子としての勘が、期待と共に再び栞をこの場所に導いていた。

雪の中で、ぼんやりと校舎を眺めながら考えを巡らせていたとき、四時間目の授業の終了を告げるチャイムが鳴った。

校舎の方が、にわかに慌ただしくなったように感じられる。椅子を引く音が微かに聞こえてきたような木もしたが、それは気のせいだったかもしれない。

渡り廊下を、多くの生徒が歩いている姿が見える。この距離ではさすがに、その中に祐一や美汐、もしくは姉の香里がいるかどうかということが判別出来なかったが、そのうちの一人に関しては、程なくそんな判別をする必要もなくなった。

重い扉が開く音がして、そこから一人の男子生徒が出てきた。その顔に、栞は見覚えがあった。

「こんにちは」

栞は、満面の笑みでやってきた祐一に話しかけた。

「今日もいたのか、こんな寒いところに」

「慣れればそんなに寒くありませんよ」

「いや、慣れても寒いものは寒いと思うが……」

「ところで、自己紹介がまだでしたよね」

「そうだな、俺は相沢祐一。二年生だ」

「あ、先に言わないでくださいよー。わたしは、美坂栞っていいます」

「この学校の生徒って言ってたが、一年生か?」

「なぜご存じなんですか?」

「そりゃ、それだけ小……」

言いかけて、祐一は言葉を止めた。栞が、確かにその小さな体から抗議の気を発していたのに気が付いたからである。おそらく、栞は自分の体が小さいことを気にしているのだろう。それを言うのは適切ではない気がする。

同時に、祐一は栞の名を、正確には姓を聞いて、何かを思い出していた。

「美坂、栞っていうのか。これから何て呼べばいい?」

「祐一さんの好きな言い方で構わないですよ」

「そうか、じゃあ、栞って呼ばせてもらう。ところで、ちょっと気になったんだが……」

「なんでしょうか?」

「栞には兄弟はいないのか?確か俺のクラスに、同じ『美坂』っていうのがいるんだよな……」

「そうなんですか」

栞は、姉の香里のことだと瞬時に悟ったが、言葉を濁して祐一の問いには答えなかった。

「まあ、たまたま同じ名字ということもあるだろうしな」

先走って祐一が独り合点してしまったので、栞もそれ以上、その話題には触れなかった。

そうした感じで自己紹介をした後、祐一と栞はとりとめのない世間話をした。

栞の言うことにいちいち驚いている祐一が楽しかったが、そんな時間はあっという間に過ぎてしまった。

この寒いのに、雪の中でバニラアイスを食べるのが好きだということ、病気で学校を長期欠席していること、いくつもの話が、祐一に本当に信用されたのか分からないまま披露された。

昨日と同じように、予鈴がなると祐一は校舎に戻っていき、栞も中庭を後にして病院へ戻った。

それからしばらく、日課のように栞は昼休みにこの中庭で祐一と会うことになった。

 話は少し戻る。

 中庭で栞に会っている祐一という生徒は、家庭の事情で三学期からこの街に引っ越してきた。

 祐一が住んでいるのは、母親の妹、すなわち、伯母の家であり、そこには祐一と同じ歳のいとこがいた。

 子供の頃は、祐一は夏や冬の長い休みの時期にはこの街に遊びに来たことが何度もあったが、ここ約七年間くらいは、そうした機会もなくなっていた。

 一緒に住むことになる祐一のいとこは、名前を名雪といった。名雪は独特のおっとりさ、のんびりさを持った性格の女の子であり、それが魅力ではあったのだが、祐一にはとっては不幸なことに、七年ぶりの再会の場で、その名雪の性格がいかんなく発揮された。

 待ち合わせへの遅刻……。それが十分や十五分程度のものであったら、女の子らしい可愛らしさと、ちょっと抜けた魅力に難なく水に流すことも出来たのであろうが、祐一が駅前のベンチに座っていた時間は、なんと二時間であった。

「遅れたお詫びだよ」

 ようやく現れた制服姿の名雪は、そんなことを言いながらホットの缶コーヒーを差し出した。その温かさが体の隅々に染みこむように感じられるほど、この時の祐一の体は冷え切っていた。

 雪の降る中を二時間も待たされて、風邪を引かなかったことが奇跡のようにも思える。

 そうした事情を別にしても、祐一は雪や冬、もっといえば、この街事態が好きではなかった。

 そんな中、祐一にとって更にこの街への印象を悪くする出来事が起こったのだった。

 引っ越しの荷物の整理も一段落して、早くも次の日から学校へ行くことになっていたある日の午後、商店街に買い物に出かけて行った祐一は、見知らぬ少女にいきなり襲いかかられた。

 襲いかかられて、何らかの危害を加えられたのだとしたら、まだその方がましであっただろう。

 襲いかかってきた少女は、自分に恨みを持っているようなことを言いながら向かってきたが、祐一には当然、その少女に対しての面識も、恨みに対して思い当たるところもなかった。

 パンチの威力もない、非力な女の子であったから、適当にあしらって立ち去ってしまえばよかったのだが、何度か殴りかかる少女は突然、力尽きて自分の胸に倒れ込んできた。

 やむを得ずそれを受け止める形となった祐一は、集まり始めた野次馬たちの好奇と非難の目に晒されることになる。実際の事情がどうであったとしても、傍目から見れば女の子といさかいを起こし、無抵抗な状態に追いやったとしか見えない。本来は、危害を加えられたのは自分であったのだが、どう考えてもその主張に説得力はなさそうだった。

 結局、祐一は倒れて気を失ったこの少女を連れて帰ることになった。

 気が付くまでひとまず名雪と看病して、その後はとっとと放逐するつもりであったのだが、家主である伯母の秋子が、この珍奇な客人をなぜか受け入れることにしてしまい、少女も相変わらず祐一を何かの仇と狙い続けていたから、この日から奇妙な生活が始まることになった。

 少女は最初、記憶喪失を主張していたが、やがて、自分の名前だけは思い出したらしい。名前は真琴というのであるが、その真琴の「復讐」というのは、言葉とは裏腹にまことに平和なものであった。

 夜中に祐一の部屋に忍び込んで、顔にこんにゃくを乗せてみたり、ネズミ花火を放り込んだりしていたのであるが、およそ半分くらいは祐一に見破られて、返り討ちに遭っていた。

 ひょっとすると、真琴は祐一に何かの恨みを返しに来たのではなく、単に構って欲しかったのかもれない。

 その証拠に、昼間は時間をもてあまして、放課後の時間を見計らって、学校に押し掛けることもあった。制服を持っていない真琴は、さすがに中に入ることは出来ずに、校門で祐一を待ち伏せる形になる。

 真琴が騒がしい女の子であったこともあり、美汐は何度かその様子を目撃していた。

「せっかく、迎えにきたっていうのに、なんでそんなに冷たいのよー」

「別に俺は迎えに来て欲しいなんて頼んだ覚えはないぞ」

「あうー、なによー」

 時々、一緒にいる名雪が祐一の多少の暴言を諫めることもある。

 祐一にとっては鬱陶しいことこの上ないのであろうが、傍目から見ていれば、まあ平和的な光景と見えなくもなかった。

 ただ、美汐だけは静かにその様子を観察していた。

 ある日の午後、美汐は最後の六時間目の授業で教室移動をしている途中に、校門の近くに立っている真琴の姿を見かけた。

 まだ少し時間があることを確認して、美汐はそちらの方へ向かった。

 美汐はこの女の子のことは、名前が真琴であることしか知らなかったが、自分がかつて一緒に過ごしたことのあるあの狐の変化と同じだということには既に確信を持っていた。

「あなたは?」

 美汐が、静かに真琴に話しかける。

「あうー」

 見知らぬ人間に話しかけられた真琴は、わずかに警戒を示した。それを予期していた美汐は、出来る限りの柔和な笑顔で真琴を安心させようと試みる。

「こんにちは」

「祐一の知り合い?」

 真琴が、おそるおそる口を開いた。

「いいえ。でもあなたの仲間を私は知っているかもしれません」

「?」

 美汐の言葉は、真琴には理解できないようだった。だが、その一方で、美汐は真琴の存在理由というものを正確に悟った。

「あなたは、祐一さんに会いに来たのですね」

「うん」

「そのことを、後悔はしていませんか?」

「こうかい?」

 美汐は、例の退化が既に始まっているのではないかと心配した。だが、単に自分の口が発した漢語が伝わらなかっただけなのだと気づき、「会いに来てよかったと思ってますか?」と問い直した。

 真琴は、しばらく考えている風であったが、やがて、小さく、しかししっかりと頷いた。

 美汐は、それをあの少年と重ね併せてみた。彼も、自分に会いに来てよかったと思っていたのだろうかと。

 最後には消えてしまい、つらい気持ちだけが残る。そうだったとしても、本当に彼は自分に会いに来たかったのだろうか……。

 真琴がどんなきっかけで祐一を思うようになったのかはわからない。しかし、美汐の持つ独特の感性で、真琴の気持ちに偽りのないことが分かった。だが、同時に美汐は真琴に待っている結末がどういうものかを知っていたので、にわかに逃げ出したい気持ちにすらなった。

 それに対して、必死に踏みとどまる美汐。

「祐一さんは、放課後にやってきますよ。少し、あなたは来るのが早かったみたいね」

「あうー、待ってる」

「ええ、そうするといいわね。頑張るのよ」

 そう言って、美汐は真琴の髪を優しく撫でた。美汐にとっては、それが真琴に対してはする事の出来る精一杯のことであった。

 チャイムの鳴る音が聞こえ、美汐は慌てて次の教室へと向かっていった。

 一度止んだ粉雪が、再び空を舞い始めていた。


 その後の授業を、美汐はほとんど聞いてはいなかった。教科書を開いて、一応、そちらに目を向ける振りはしていたが、頭の中ではずっっと別のことを考えていた。

 真琴という狐の変化の存在、そして彼女の求めている祐一という上級生。一方、その先行きを知っている自分。

 それから、病気で残りの命が限られているという栞。栞の病状は回復したのだろうか……。

 栞や真琴に出会うことによって、美汐は今までとは違う形で自分を見つめることが出来た。これまでは、あの少年の存在をずっと心の中に留め、他の人間とは関わりを持つことをなるべく避けて生きてきていた。

 人と深い関係になってしまうと、別れの時がやってきた場合に悲しみがより深くなってしまう。そのくらいならば、最初から人のことには関心を持たない方がよい。そんな風に美汐は考えていた。

 同時に、存在そのものが消えてしまったあの少年、そしておそらくは自分以外は存在していたことすら汁者はないだろうあの少年……、彼の存在をずっと記憶の中に留め、生きていた証を認識し続けることが自分に課せられた役割でもあると思っていたのだった。

 だからこそ、悲しみしかない場所であると分かっていながら、公園に何度も足を運んでいたのだ。

 ところが、そんな美汐の価値観を変えるような出来事、出会いがいくつも起こった。

 一つは栞との出会いである。栞もまた、自分とは別の形ではあるが悲しみを抱えていた。しかし、美汐がいつも悲しみの中で笑いというものを失っているのとは正反対に、栞は屈託のない笑顔を見せてくれていた。

 そんな栞に、徐々に美汐は惹かれていった。

 栞の持つ悲しみは、美汐のそれとは別の意味で絶望的なものであった。自分という友人を支えにしてはいたが、大好きな姉からも見放されていた栞は、一人でいるときはおそらく泣いているのであろう。そんな栞が持っている笑顔は、強さの一つの形であった。その強さは、何かを信じることによって得られたものなのだと美汐には思われる。

 現実をただ受け入れ、そこから先に進むことを拒絶した美汐と、根拠はないながらも、ひょっとしたら起きるかもしれない奇跡を信じている栞。見方によっては、美汐の方がずっと大人であるのかもしれなかったが、果たしてそれは幸せなことなのであろうか。美汐が考えるまでもなく、それは明らかであった。

 栞は、美汐の話を聞いたとき「ひょっとしたら、その子がもう一度会いに来てくれるかもしれないじゃないですか」と言っていた。そんな「奇跡」を、美汐はとうてい信じることが出来なかった。

 だが、もしかすると、それとは少し違った形ではあるかもしれないが、奇跡は起こり始めているのではないか、美汐にはそんな風に思えてきたのである。その奇跡の存在とは、真琴であった。

 真琴は、どんな思い出を抱えているのかは分からないが、強い望みがあって祐一に会いに来た。祐一は、当然、真琴……、狐を巡る伝承などは知らないであろうから、単に急に現れた鬱陶しい女の子にまとわりつかれて迷惑に思っているだけであろう。

 だが、真琴の思いの源泉に、いつかは気付くことになる。ただ、おそらく、その時は手遅れであろう……。

 祐一が自分と同じように心を閉ざすかは分からなかったが、美汐にはそうなって欲しくはないと思った。

 立場、もしくは気持ちというものは、見る場所を変えればその姿もまた変わって見えるものである。そんな事実に美汐は気が付いた。

 思考力と想像力は豊かである美汐であったから、そうなってみると悲しみや憎しみの連還を絶つためにはどうしたらよいのかということがすぐに分かってきた。

 即ち、自分が他者を拒絶していてはだめなのである。もともと社交的ではない美汐であったから、急に変わることは出来なかったが、既に関わりを持ち始めている人たちに対して、それを深めていくことは出来るだろう。

 そう思ったとき、美汐にはあの少年が何のために自分に会いにやってきて、何を伝えようとしたのかをようやく理解できたような気がした。

 まだ手遅れではない。

 そうはっきりと悟った美汐は、もはや躊躇しなかった。

「相沢、祐一さんですね」

 昼休みに渡り廊下から校門の方を眺めている男子生徒に向かって、美汐は落ち着いた声で話しかけた。

「君は?」

「もし遅れました。一年生の天野美汐と申します」

「うん?俺はこの学校に来て日が浅くて、一年生には知り合いはないんだけど……。あ、でも栞は確か一年生だと言ってたな」

 後ろの言葉は、独り言に近かった。だが、その栞という名前が祐一の口から出てきたことに、美汐は少し驚いた。祐一は、真琴だけでなく栞とも面識があるのか……。栞が昼休みに祐一に会いに来ていることは、美汐は知らなかった。

「はい、おそらく相沢さんは私のことはご存じないでしょう」

「そうだよな。で、その天野さんが、俺にどんな用で?」

 当然の質問だった。美汐の方を向いていた祐一が、やはり気になるのだろうか、再び窓の外に視線を向けた。

「あそこにいる子、相沢さんを待っているのでしょうか」

「あいつを、天野さんは知っているのか?」

「はい。何度か相沢さんに会いに来ているのを見かけましたし、商店街で会ったこともあります」

 前の日に、言葉を交わしたことは祐一には言わなかった。

「そうか。あいつの知り合いなのか。だったら……」

「何でしょう?」

「ちょうどいいきっかけだと思ってな。あいつの、真琴の友だちになってやってくれないか?」

 祐一が言う。

「いいえ、それは出来ません」

 だが、その言葉を、美汐ははっきりと拒絶した。もし、今までの美汐だったら、少年のことを思い出し、そこから産まれる絶望に向き合うことを嫌い、それを土台にした拒絶を表したであろう。

 しかし、今の美汐の拒絶は、それとは異なっていた。真琴に会うこと自体は、寧ろ美汐も望むところであった。

「真琴には友だちは必要ありません。必要なのは、相沢さん自身の『心』なのです」

「天野さんは、まるであいつのことをよく知っているように言うけど……」

「はい、信じにくい話ではあると承知していますが、私の話を聞いてもらえますでしょうか?」

「わかった」

 祐一がしっかりと頷いた。

 それを合図に、美汐が伝承のこと、真琴のことについて語り始める……。

「そ、そんな話が本当にあるのか……?」

 祐一は戸惑いを隠せなかった。無理もない、昔話に近いようなことを突然聞かされて、自分がその当事者であると告げられたのだから。しかし、美汐は、自分と真琴しか知らないはずの事実を次々と言い当てたのだ。

「なぜ、そこまで……」

「私も、相沢さんと同じ道を通ったことがあるからです」

「そうなのか……」

 幸い、祐一も理解力と想像力を備えた人間のようだった。

「俺は、何をしてやればいいんだ、あいつに?」

「簡単です、真琴の傍に、出来るだけ多くいてあげることです。さっき私が言ったようなことが起きるかもしれませんが、しっかり支えてあげてください」

「……わかった」

「相沢さんには、私のようになって欲しくはないんです」

 正確に言うと、「過去の私のように」であったが、そういう表現を美汐はしなかった。

 真琴は、本人も全く知らない部分で、美汐の支えとなる存在になっていた。だとしたら、美汐は祐一が悲しみの渦の中に巻き込まれないように導くことが責務なのではないだろうか。

 それこそ、栞の言ったように奇跡が起きて、真琴は消えずに済むことだって起きるかもしれない。

 美汐がとらわれていたのは過去……、伝承に記されたことも含めた過去であった。

 しかし、目の前の出来事は既に、伝承から徐々に離れた場所へ動き始めている。

 奇跡を願う気持ちが、美汐の中にも生まれていたからである。

 祐一は、美汐の最後の言葉には何も反応を返さなかった。すぐに予鈴がなったので、美汐は祐一に「ありがとうございます」とだけ言い残して教室に戻っていった。

 そして、もう一つの奇跡を栞に対して願うために、久しぶりに帰りに病院に寄ることを決めたのだった。

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