栞の病室の前に立ったとき、美汐の中に安堵が流れた。
なるべくこれまでと変わらないように心がけながら、ドアを軽くノックして中に入る。
「あっ、天野さん!」
制服姿の美汐の姿を見て、栞の表情が花開いたようになった。
「来てくれたんですね、嬉しいです」
「すっかりご無沙汰してしまいましたね。実は‥‥」
「しばらく、わたしって面会謝絶だったんです。ひょっとして‥‥」
「たぶん、それです」
「ごめんなさい」
「いいえ、美坂さんは悪くはないですよ。今は、少しは元気になったようでよかったです」
「はいっ」
それからしばらく、会えなかった時間の隙間を埋めるかのように、栞は美汐にいろいろなことを話した。
時々、外出出来るようになったことも話したが、実は無許可であり、学校に行っているということまでは言うことは出来なかった。
一方、美汐は栞の知らないことを話した。
年が明けてからしばらくして、真琴という女の子に遭遇したこと。
自分が確信した、真琴の正体。それに関わりのある相沢祐一という名の先輩の存在。
「祐一さん、ですか?」
驚いた表情で、栞が聞き返した。その反応に、美汐は学校で祐一と話をしたときのことを思い出した。半ば独語ではあったが、確か祐一も栞のことを知っているような話しぶりだった。
「美坂さんも、相沢さんのことをご存じなのですか?」
「そうなんです。ちょっとしたきっかけなんですけど」
「そうでしたか‥‥、やはりあの人が鍵になるのでしょうか‥‥」
「えっ、天野さん、鍵って何ですか?」
美汐の中では、祐一を中心にして動き始めた奇跡の前触れの姿が少しずつ形を成していくことが分かり始めていた。だが、少なくとも真琴のことは知らない栞には、その「鍵」という言葉の意味は理解できない。
「美坂さんが、前におっしゃいましたよね。願いが強ければ、奇跡は起きるかもしれないって」
「はい」
「それは、今でも間違っていないと思いますか?」
真剣な美汐の問いかけに、真面目な表情に戻った栞がしばらく考える。そして、言葉で答える代わりに、静かに頷いた。
「そうですよね。最初に美坂さんに言われたとき、そんなことは私は信用していませんでした。ですが、今は少し違うと思っています」
「えっ?」
「私や、相沢さんのもとにやってきたあの子たちも、願いが強かったために叶えられた奇跡だったことが分かったんです。そして、その奇跡から逃げ出してはいけないということも」
「天野さん‥‥」
「なんでしょうか?」
「私も、その奇跡を一緒にお願いしてもいいですか?」
真琴の気持ちを、祐一が理解できることを言うのだろう。栞の中ではある種の葛藤があった。それでも尚、栞は奇跡を願いたかった。
「わたし、やっぱりまだ死にたくないんです‥‥」
「美坂さん‥‥」
「わたしの誕生日、天野さんはご存じですか?」
「いいえ」
だが、栞が次の誕生日をおそらく生きて迎えられないということを、美汐は当人から聞かされて知っていた。どんなに遅かったとしても、三月までには迎えることになってしまうであろうその誕生日‥‥。
「二月、一日なんです」
既に、一月のカレンダーの一番下の段まで時は進んでいた。思わず目を向けたカレンダーからおそるおそる視線を戻した先にいた栞は‥‥、それでも笑顔だった。
だが、その笑顔から涙がこぼれたのに美汐は気が付いた。
「やっぱり、もっと生きたいです。天野さんや祐一さん、お姉ちゃんのいる世界で」
「今度は、美坂さんが願う番ですよ。そして、私もお願いすることにします、美坂さんに奇跡が起きることを」
再び栞が笑った。
「ごめんなさい、急に泣いたりして」
「いえ、いいんですよ。美坂さんは、あまりにも本当の感情を見せなさすぎます」
「それは、天野さんも一緒じゃないですか」
「いえ、そんなことはありません」
美汐のそんな言葉に、あまり説得力のないことは美汐自身がよく分かっていた。だが、そんな自分も少しずつ変わりつつあることにも気が付いていた。
「それはともかくとして、美坂さんにはそれだけ好きな人でも出来たということでしょうか」
「えっ‥‥。内緒です」
「そうですか、相沢さんのことが好きだと理解してもいいんでしょうか」
「ですから、内緒です」
美汐には、目の前の栞にそこまで命が残されていないことは信じられなかった。こうして笑いながら話すことも出来る栞は、確かに病人ではあるけれども、すぐにいなくなるという風にはとても思えなかった。
そうした栞の様子をよりどころにしながら、美汐はあらゆる奇跡を願うのだった。
第一の奇跡は、それからすぐに起きていた。
栞は、誕生日を迎えられたのである。
但し、この日、栞の病状が再び急激に悪化した。恐ろしくてこの日は病院を訪れることの出来なかった美汐は、幸いにも栞が集中治療室に運ばれていく光景を目の当たりにせずにすんだ。
翌日、栞の緊急手術が行われた‥‥。
一人きりの誕生日。不思議と寂しくはなかった。
栞は、この日を迎えられたことに感謝していた。最後に美汐が見舞いに来てくれた翌日から、栞は外出することをやめていた。
「祐一さん、ひょっとして心配してくれていたりするかなぁ」
そんなことを考えながら、美汐が向けてくれているのと同じ気持ちを、自分自身と、真琴という大切な存在にも向けていた。
誕生日の朝、目を覚ました栞はある種の満足感に包まれた。この日まで生きられないといっていた自分が、十六歳の誕生日を迎えたのだ。
これまでの栞なら、そのことにもう充分感謝するだけであったが、今はそれ以上の奇跡を願うようになっていた。
もっと生きたい。大事な人のいる世界に。
そんな気持ちが切なく感じられ、栞の心を揺らした。その瞬間、そうした揺らぎを妨げるかのように、体の奥から黒い波のようなものが盛り上がってきた。
息苦しさを感じ、激しくせき込む栞。
静かに口を覆っていた手を開くと、そこには真っ赤な鮮血がべっとりとこびりついていた。
ほぼそれと同時に朝食を運んできた看護婦が、その異変に気が付いた。
静かだった栞の病室がにわかに騒然とし、数分の後には再び静寂を取り戻すことになった。但し、それは別の形で。
薬の効果で、見かけ上はようやく落ち着いた。しかし、予断を許さない状況であることには変わらなかった。
栞の両親に連絡が行き、二人は最後の決心をする。
脈拍や呼吸が落ち着くのを待っているうちに、日付が変わった。
次の朝、栞を乗せた移動ベッドが手術室に運び込まれる。
その時、栞は夢の中にいた。
不思議な場所であった。何もないのだけれども不思議と安心感を持つことが出来る場所だった。
音もなく、他の人の存在も景色もなく、ぼんやりと白いものだけが周りにあるのみであった。
例えて言うなら、産まれる前の母の体の中‥‥、そんな場所なのであろうか。
しかし、誰もいないというのは栞の認識違いのようであった。
遠くの方から何か話し声のようなものが聞こえてきた。彼らが何を話しているのか、そこまでは聞き取れない。
微かに単語を拾ってみると、「それでも」「後悔」「思い」といったいくつかの言葉が理解できた。
栞は、自分が立てることを確認すると、その声に向かって歩き始めることにした。
足下すら白いもやもやの中にあったので、歩みを進めることが少々怖かったが、一歩一歩、実にゆっくり慎重な足取りで進んでいく。
やがて、影のようなものが見えてきた。人影であるかと思ったら、案に相違して、四本足の動物のものようであった。しかし、人の言葉を話しているのは間違いなくこの動物であるようだ。
大きいのと小さいの、二匹の動物が話しているようだった。
突然、小さい方の動物の姿が消え去る。消え去る瞬間、二本足で立ち上がったようにも見えた。
「それがお前の選んだ道ならばな‥‥」
そう言い残して、大きい方の動物も立ち去っていった。
栞は静かに、その二匹の動物のいた場所まで近づいていった。
わずかな気配が残るのみで、既にそこには彼らがいたことを示す者は何一つ残っていなかったが、そこに栞はぬくもりを見つけだした。
いつの間にか冷え切った体に、染み渡るような暖かさだった。
栞は不思議な気持ちになり、その場に腰を下ろした。腰を下ろすと、更にたくさんのぬくもりが伝わってくるように感じられる。
そんなぬくもりに身を任せているうちに、栞はだんだんと気持ちよくなり、そのまま目を閉じた。
そして、夢の中で栞はもう一つの夢を見始める。
祐一と美汐が、そしてそのすぐ後ろから香里が栞のことを見つめていた。
真っ先に気が付いたのはその三人であったが、少しずつ目を開いていくと、他にも何人もの人が栞のことを心配そうに見ているようだった。
どうやら、自分はベッドで横になっていたらしい。
そうだとしたら、死なずに再び戻ってくることができたのだろうか?
指を伸ばして、頬をつねってみる。
痛くはない。
ということは、まだ夢の中ということなのだろうか。栞は残念に思った。
三人の他に栞を見つめていたのは、自分の両親、中学の頃に仲のよかった友だち、そして、見知らぬ二人だった。
見知らぬ二人は、男の子と女の子が一人ずつで、男の子も女の子も、活発そうな服装をしていた。
その瞳を見たとき、栞には何か感じるものがあった。
どこかで「感じた」記憶がある‥‥、そしてそれはそう前のことでもないのははっきり分かっていたのだが、その正体がどうしても分からない‥‥。
もどかしくなった栞が起きあがろうとする。
「ダメよ、栞」
姉の優しい声が聞こえてきた。
「お姉ちゃん」
「あと少しだけ、おとなしくしていなさい。元気になれば、相沢君にもいくらでも会えるでしょ?」
「お姉ちゃん、どうしてそれを?」
「私はあなたの姉なのよ。そのくらい見通せなくてどうするの」
ふわっと香里が微笑んだ。それを見て、栞は涙をあふれさせた。
同時に、体の奥から不快感がこみ上げてきたが、既に栞はそれを押し出すことが出来るようになっていた。
お姉ちゃん、そして美汐と祐一。自分を支えてくれた人たちを、悲しませることは出来ない。それ以上に、この人たちと一緒に、自分は生きたい。
本当にそう願った。
そして、それはある存在に届いたのである。
それが分かったとき、栞は夢の中の夢から覚めた。
二人が取り戻したのは、笑顔だった。
手術は文字通り奇跡的な成功に終わり、それからひと月と少しの入院期間を経て、栞は無事に退院した。
最初は少し危ぶまれていたが、体調も日常生活を送る上ではほとんど問題ないほどにまで回復し、新学期からはあれだけ望んでいた学校に通えるようになった。
入学式の翌日から、栞は姉と一緒に同じ制服に身を包んで学校へ向かうようになった。
一度は妹の存在を否定することによって悲しみから逃れようとした香里だったが、最後にはどうしても栞を消すことが出来ず、手術室の前で一日中立っていたことを、後に祐一から聞かされたという。
「で、相沢君を本気で狙うわけ?」
「お、お姉ちゃん‥‥」
「あれで彼は、意外に女の子の人気が高いから大変よ」
「えーっ」
「近いところでは、名雪ね。それと、名雪たちと一緒に住んでる女の子‥‥、真琴っていったっけ?」
「名雪さんや真琴さんは、祐一さんとはお友だちなだけだよ」
「そうかしらね?」
含みを持たせた笑みを見せる香里。そんな香里の言葉にも、栞の心は微妙に揺れてしまう。
余談になるが、真琴は伝承の伝えていたとおり、一度この世界から消え去っていったらしい。数日の間、その冷酷な事実を突きつけられた祐一は不安定な状態が続いたが、そこからこれまでにない形で立ち直らせる出来事が起こったのである。
真琴が帰ってきたのだ。
真琴は、単に祐一を求めてやってきた存在なのではなく、美汐を悲しみから救い出す役割をあの少年から託されてもいたのかもしれない。
伝承は伝承であり、事実はどこでどのように起きているのかは分からなかったが、消えたと祐一から伝え聞いた真琴の姿を見たときに、一番驚いたのが他ならぬ美汐だった。
だが、同時にそこに起こった奇跡に感謝もした。
そんな美汐が、栞にも起きた奇跡を知らされたのは、それから少したってのことだった。
美汐は、何度も栞を見舞い、そのたびに栞は元気になっていくように見えた。
それが功を奏したのか、栞は春を迎える頃には退院し、今ではこうして元気に学校に通っている。
出席日数のことだけはどうしようもなかったので、もう一度一年生ということにはなってしまったが、それを悲しむ様子は、勿論、栞にはなかった。
そして、今の栞には大きな関心事があるのだ。
「おはようございます、美坂さん」
「あら、天野さん、おはよう。それは私と栞とどちらに言ったのかしら」
栞より先に美汐に向かって言葉を掛ける香里。
「両方ですよ。美坂先輩と美坂後輩」
「あー、天野さん、『後輩』はひどいです。わたしと同じ歳なのに」
「あら、でも、後輩であることは事実じゃない」
「あっ、お姉ちゃんまで‥‥」
「ふふっ、冗談よ」
それぞれの学年に属する三人が、並んで学校へ向かっていく。
新しい学年を迎えてほどない今の時期では、それは少し珍しい姿ではあった。
華やかな三人の女の子の姿が、既に葉の多くなった桜の並木道によく映えている。
「後輩でしょうが、同級生でしょうが、栞さんは私にとっては大切な友人ですから」
「天野さん‥‥」
「そうですね、これから私は、美坂さんたちのことを名前で呼ばせていただこうかと思います」
「そうしてくれると私たちも助かるわ」
「ですから、栞さんも、私のことは友だちらしく、名前で呼んでください」
「はい、美汐さん」
栞が可愛い笑顔でそう言うと、美汐もそれに負けない笑顔で応えた。
学校が近づいてくる最後の角で、後ろから大きな声が聞こえてきた。
「おはよう!」
ここまで走ってきたらしい、祐一と名雪の姿があった。
「香里たちに会えたのなら、もう間に合うだろうな」
「また走ってきたの?」
呆れたような表情で香里が聞く。
「『また』の原因のほとんどは名雪にある」
「うー、だって、まだ眠かったんだもん」
その表情を見ると、確かにまだ、寝起きから脱し切れていないようにも思える。
「眠いのは俺も同じだ。寧ろ、夜中に真琴のいたずらに悩まされている分だけ、俺の方がつらい」
「夜中のいたずらですか? 相沢さんもいろいろ大変ですね」
そんな微妙な口を美汐が挟む。
「おいおい、あんまり妙な言い方はしないでくれよ」
どこか、栞の心の落ち着かなかった。先ほどの、姉の言葉が思い出される。
確かに、祐一が女の子に人気があるというのは正しいのかもしれない。
「冗談ですから、気にしないでください」
「天野の冗談は、そう聞こえないことが多いからなあ」
「そんなことはないですよ」
賑やかさを増して、美汐と栞たちは学校へ向かっていく。
春の景色の中で、奇跡が、二人を見つめてくれているような気がした。