その次に美汐が栞を見舞った時も、栞のリクエストに応えての制服姿だった。
相変わらず、自分やその制服姿のどこがよいのかよく分からなかった美汐だったが、他ならぬ見舞い相手の栞が喜ぶというのならそれはそれでよいと自らを納得させる。
いつも通りの雑談の中で、栞はふと窓の外に目を向けた。
「ここからの景色が、わたしは好きなんです」
「今の季節ですと、木の葉も落ちているでしょうから、見晴らしもよくなりますね」
「はい、向こうの山まで見えるんですよ。それに‥‥、病室の壁を見ているよりも、ずっといいです」
「季節の移り変わり、でしょうか」
「そんな感じです。あ、季節って言えば」
「何でしょうか?」
栞の表情の豊かさに、美汐もついつい表情を緩める。そんな栞が、突然何かを思い出したように言いだした。
「この窓から、病院の隣にある公園がよく見えるんです」
「そうですね」
美汐は窓の方へ近づき、そこから外の様子を眺めてみる。視界にはまず、公園のシンボルでもある噴水が目に入る。雪の積もるようになった今の季節では、寒々とした印象しか与えなかったが、この季節であっても凍結防止のために勢いよく水を噴き上げている。
その隣に、美汐がよく来ていた広場があった。美汐が物思いに耽っていたあの場所は、今は真っ白になっているが、ここからはその場所までよく見ることが出来る。
「その公園では、子供連れやお年寄りなんかがよくお散歩に来てるんですよ。わたしも、体の調子がよくて、外出の許可をもらったときにお散歩に行ったこともあります」
「天気が良ければ、気持ちいいでしょう」
「はいっ。でも、秋頃になってからはほとんど出かけることが出来なくなってしまったんですが、ちょうどその頃から、時々わたしと同じくらいの歳の女の子が来るのに気が付いたんです」
美汐は、自分のことかもしれないと思ったが、まだそれを口には出さずに栞の話を聞いていた。
「でも、どうして美坂さんは、自分と同じくらいの歳だって分かったんですか?この距離じゃ、そこまではなかなか分からない気がするんですけど」
「いえ、簡単ですよ。その人は制服を着ていたからです。わたしや天野さんと同じ制服を」
「なるほど」
「でも、最近は見かけないんですよね。どうしているんだろう‥‥」
実際、冬になったこともあって、美汐が公園のあの場所に行くことは少なくなっていた。また、行くにしてもこの病院に来る前後ということが多くなったから、栞がこれまでに窓の外に目を向けていた時間帯とは微妙に異なるようになっていたのかもしれない。
「たぶん、用事が出来て忙しいのではないでしょうか」
そう答える美汐に、栞が悪戯っぽく微笑んで見せる。
「実は、わたしには予想付いてるんです」
「予想ですか?」
「わたしが見ていたその女子生徒さんって、実は天野さんじゃないんですか?」
「‥‥」
本当に、栞がこの病室から見ていたのが美汐であるかどうか、客観的な答えなどはなかった。だが、あの公園に用もないのに何度もやってくる生徒が他にいるとも思えない。
であるから、明確に肯定することは出来なかったが、同じように完全に否定することも出来なかった。
美汐にとっては、自分の中の触れられたくない部分を栞に見られたように感じ、一瞬、警戒した。
栞は、そんな美汐の心には気付かずに、得意げな表情を見せていた。それが、美汐の影の部分を更に刺激した。
「わたし、推理小説とかドラマって好きなんですよ」
そんな栞が、話題転換したことに安心して、美汐はほっとした。
「そうなんですか」
「ほら、こうやって長い間入院していると、退屈なんです」
「それで、小説やテレビドラマを見るようになったんですか」
「はい。特に、恋愛もののドラマで、悲劇のヒロインが素敵な男の人と結ばれる話とか」
「それは美坂さんの夢でもあるんでしょうね」
「あ、その通りです。天野さんも推理力ありますね」
現実に自分が持つことの出来ないものを、フィクションの登場人物に託すことがある、そうした美汐の考えだったが、驚くほど素直に栞はそれを認めた。自分には到底出来ない真似だと美汐は思う。
「推理力、ですか‥‥」
「はい。あと、推理小説も好きなんです。探偵さんと一緒に、自分も本を読みながら事件の真相を追っていくのが。わたし、体が丈夫だったら、探偵になりたかったなぁ」
「でも、実際にはとてもきつそうな職業だそうですよ」
「あははっ、それは分かってますけどね」
そんな栞が、再び話題を美汐に戻す。
「それで、制服姿の女子生徒が見えたこと、その人が、わたしのところに天野さんが来てからあまり見られなくなったこと、それとさっきの反応とで、天野さんだったんじゃないかって推理したんです」
「そうですね、たぶん、私だと思います」
見事に言い当てた栞は、そのために少々油断をしてしまったのだろう。自分がなんとなく思っていた美汐への印象を口にしてしまった。
「天野さん、どこか寂しそうな表情をしていることがありますよね。なんかこう、上手く言えないんですけど、時々、それがわたしに見えることがあるんです」
「あ‥‥」
他人に無関心だった美汐は、他人が自分に関心を払うこともあまり考えていなかった。学校でも、あえてクラスの中で孤立するような立場をとっていることもあって、最初の頃に何度かアプローチを掛けようとしていた男子生徒を追い払うと、自然、積極的に美汐に関心を示すクラスメイトの存在もなくなっていた。
それは、あの少年の記憶をとどめている美汐にとっては好都合でもあったので、特に厭うこともなく過ごしてきたのであった。
美汐が栞に関心を持つようになったのは、ある意味では偶然ではあったが、その結果として美汐が関心を持った栞からも同じく関心を持たれていたことに気付かなかったのは迂闊といえるのかもしれない。
例えていうならば、固い殻に守られた生き物というのは、その殻の中には壊れやすい繊細なものが隠れていることが多い。美汐の心も、そういった類のものなのかもしれず、それを栞に触れられることによって、狼狽を見せることになった。
「何か、天野さんって悩みみたいなものがあるのでしょうか」
どちらかというと、自分の方が栞の環境に気を遣う立場だったはずである。その栞からそういう言葉を掛けられた美汐は、何故か慌てるのであった。
「確かに、私は公園によく行っていましたし、今も時々は行っています。そして、それには理由があるんです」
「理由、ですか」
いつものような冷静さの中に、多少荒くなった口調を栞は敏感に感じた。
「お話しましょうか、その理由を」
「‥‥」
その気迫に押されそうになりながら、栞は黙って頷いた。さすがにその顔から笑みは消えてしまっている。
「事実は、小説やドラマよりもずっと悲しいものなんですよ。ハッピーエンドなんていうのは、お話の中だけのことなんです」
「そんなことは‥‥」
ない、とは栞は言えなかった。栞の口を遮って、美汐が話し始めたからである。
そんな栞に、美汐は自分が何年も前に経験したあの出来事のことを話し始めた。
自分の親を含めても、他人にこの出来事を話すのが初めてであるということに、実は美汐は気が付いていなかった。
語り部が伝承を語るように、淡々とした話しぶりの中に山場がいくつもある物語を美汐は紡いでいく。
男の子との出会い。
楽しく過ごした日々。
突然の変化。
そして、別れ。
美汐の中に、あの喪失感はまだはっきりと残っていた。その喪失感までも、栞に伝えてしまいたいとすら思える。その間、栞はほとんど瞬きすらしないで美汐の話に聞き入っていた。
それこそ、テレビドラマや小説の世界に没頭するように、美汐を見つめたままでその音楽的な声とその言葉を追っていた。
栞がこれまでに読んだことがある物語は、勿論、ハッピーエンドで終わるものばかりではなかった。だが、自身が不治の病に冒されているという現実を知っている栞は、心の中ではいつもハッピーエンドを求めていた。正直に自分の気持ちを叫んでよいものならば、
「せめて、お話の中だけではハッピーエンドであってほしいじゃないですか」
と言っただろう。だから、美汐の話を聞きながらも、栞は栞なりにそれを解釈し、美汐や狐の子にとっての「ハッピーエンド」はあり得ないものなのかどうかをずっと考えていた。
美汐は美汐の視点で語り、栞は栞の視点でそれを解釈した。
そして、全てを話し終えた美汐をしばらくの間、真っ直ぐに見つめていた栞は、最後に笑顔を美汐に向けたのだった。
「でも、またその狐さんが天野さんに会いに来てくれるかもしれないじゃないですか」
その言葉は、いくつかの意味で美汐の心を激しく打った。
伝承にもあるとおり、自らの命、いや存在そのものと引き替えに自分に会いに来た狐の男の子は、跡形もなく消え去って、美汐の前に再び現れることなどはあり得ないと思っていた。
しかし、だからこそ、栞の指摘に意表を突かれたことも事実である。
だが、もし仮に、栞の言うとおりに彼がもう一度自分の前に現れたとして、自分はそれに向かい合うことは出来るのだろうか。
今の自分は、人と深く接することを嫌う人間になってしまっている。ここに何度も栞を見舞いに来ていること自体が、自分にも不思議に思えるくらいである。
その当人が思いがけないことを言った。
それは、ある意味では美汐の期待を刺激するものであったが、美汐は根拠のない期待が後に自分を大きく傷つけるということも知っていた。
だから、美汐はそんな栞の笑顔を正視することは出来なかった。
逆に一瞬、どうして自分の奥深くにある漆黒の闇を見ながらそういう笑顔が見せられるのかという、怒りのようなものまで感じていいた。
あの別れの時に感じた気持ち。この人を失いたくない、という気持ち。そしてそれに対して突きつけられた現実に対する虚無感。それを栞は否定したとも言えるのだ。
同時にそれは、そこから今まで生きてきた自分の気持ち、あの少年のことを忘れまいとして公園に足を運び続けた自分の行動を否定されたようにも思えるのだった。
それに対して、そんな笑顔を向けないで欲しい。慰めの言葉ならば、たくさんである。
栞は決して慰めの気持ちで、軽々しく言ったのではなかった。栞は単に少しだけ重い病気で長期の入院をしている。そう思っている美汐は、栞がどんな気持ちでそう言ったのかを知ることは出来なかった。
だから、声を荒くして、栞に向かってこう言った。
「どうして、美坂さんはいつもそうした笑顔でいられるんですか?」
「えっ?」
栞の笑顔が固まる。
美汐も、心のどこかで再会を願っていると思うからこそ、栞もその可能性を指摘して見せたのだった。
「あの悲しみは、他の人には分かるものではありません。それを‥‥」
さすがにその先は美汐にも言えなかった。
栞は、いらだちを隠せない表情の美汐をじっと見つめたままであった。これまでいろいろなことを楽しく話していた美汐の、そのような表情を見るのは初めてであり、自分の思ったことが理解してもらえなかったことよりも、自分が美汐を思いも寄らぬ形で傷つけてしまったことにショックを受けた。
美汐を見つめたままの栞の両方の目から、静かに涙が流れてきた。
栞は、人前で決して涙を見せることがなかったのだが、不意に襲ったいくつもの感情の奔流はそうした自制をあっという間に破棄させたのだった。
目の前で友だちが泣いている‥‥。
それが、美汐にはにわかに信じられなかった。だが、栞が涙を流していることは事実で、おそらくその理由は自分の言葉にあるのだろう。
美汐の中にいる冷静な美汐がそれを指摘し、心が少しだけ落ち着いた。
だが、何故かそれに対して謝ろうと思う気持ちは起きず、また謝ることが最善のことであるとも思えなかった。
実際、栞は美汐に謝ってもらいたいなどと思っているのではなかった。
「美坂さん‥‥」
「ごめんなさい、ごめんなさい‥‥」
涙を流しながら、謝ったのは栞の方だった。
その理由が分からず、かといってそんな栞に掛ける適切な言葉も思い浮かばないまま、辛うじてベッドの脇まで近寄った美汐。そして、栞はそんな美汐に、涙ながらにこんな話を始めたのだった。
「わたしが、入学式の日に倒れて、そのままこの病院に入院したっていうことは、もう知ってますよね」
「はい」
「それと、わたしにはひとつ年上のお姉ちゃんがいて、いつも憧れていたっていうのも話しましたよね」
「そうですね」
「お姉ちゃんは頭がよくて綺麗なだけじゃなくって、妹の私にとても優しくしてくれるんです」
「今は天野さんもお見舞いに来てくれますけど、少し前までは、この部屋にいつも来てくれるのはお姉ちゃんだけだったんです」
「そうなんですか‥‥」
栞の寂しさ、心細さというものを唯一理解していたのは、一番近い存在である姉だけだったのであろう。それはある意味では当然のことであったが、そうした優しさを向けてくれるのが姉「だけ」であったことは、栞にとっては残念なことでもあったに違いない。ひょっとすると、栞がドラマや小説などのフィクションに傾倒するようになったのは、単なる病院生活の退屈さだけでなく、そうした理由もあったからなのかもしれない。
ともあれ、美汐は自分の不明確ないらだちを突然に栞に向けたことを後悔していた。しかし、そんな美汐に向かって、栞は意外な事実を告白する。
「でも、お姉ちゃんも、もう来てくれなくなったんです‥‥」
涙が新たにもう一筋、栞の頬を伝った。美汐は、その白く細い指を静かに伸ばし、そっとその涙を拭った。
「どういうことですか?」
あえて美汐は問いかける。そんな美汐に、栞はこう言った。
「わたしの病気、もう治らないんだそうです。世界でも数例しかない難病で、このまま徐々に衰弱して死んでいくんだそうです」
「美坂さん‥‥」
「そして、それをわたしに教えてくれたのが、お姉ちゃんだったんです」
「そうですか‥‥」
あとは、栞が話すに任せていた。自分がそうしたように、今度は栞の話を聞くことが大切であると美汐には分かっていた。
少し前のある日、いつものように自分に会いに来てくれて、楽しく話をした香里は帰りに栞の主治医に病状を聞きに寄った。その時に知らされたのがこの現実だった。
その次の日に、何気なく、退院した後の楽しみを話す栞に対して、香里はなぜか視線を背けるそぶりを見せた。
敏感にそれに気付いた栞は、そういう絶望的な現実が隠されているとも知らずに、隠し事をしようとする香里に我が儘を言って困らせた。
結局、香里は現実を隠し通すことが出来ずに、栞に真実を話してしまう。
自ら死刑宣告を妹にしたような罪悪感にさらされ、香里はその日以来、栞のもとに現れることはなくなっていた。夜に病院から家に電話をしても、姉の声を聞くことは出来ない。
自分のちょっとした我が儘が姉を傷つけてしまったことを知って、栞は自分を激しく責めた。同時に、電話にも出てくれない香里に、自分は嫌われてしまったのだと思って泣いた。
「おそらく、次の誕生日は迎えられないでしょう」
それが医師の冷酷な予測だったそうである。自分に残された時間は多くない。そして、姉に嫌われたままこの世からいなくなることには耐えられそうになかった。かといって、自分には関係を修復する手段は持っていない。
美汐が来てくれるようになったことは、栞には幸いであった。
だが、その美汐にも嫌われそうになり、栞はついにこらえきれずに涙を見せたのだった。
姉の前では、自分は常に笑顔でいることを心がけていた。大事なお姉ちゃんに、余分な心配をさせたり悲しみを背負わせたりはしたくなかったからである。
その分、夜の病室で一人で泣いた。夜の病室は暗く寂しく、泣くのにはふさわしい場所だった。
自分はなんでこんな不幸な境遇にあるのだろう。理不尽さを恨みはしなかったが、悲しみはした。
現実がこう冷たくのしかかってくるのだとしたら、自分の読むお話や、他の人の経験する現実の中でくらい、ハッピーエンドを迎えて欲しい‥‥。そう栞は思うようになっていた。
そして、その気持ちは、最も強く美汐に向けられたのであった。
「現実が変わらないなら、せめて大切な人と一緒にいる間だけ、笑顔でいたいじゃないですか。どうして、それは許されないんですか?」
顔を涙でくしゃくしゃにしながら、栞は言葉に詰まりつつそう美汐に言った。
美汐は、何も答えることが出来なかった。
「わたし、大切な友だちを失いたくないんです」
「美坂さん‥‥」
「私もそう思います」と、美汐には言うことは出来なかった。
自分を大切な友だちと言ってくれた栞の気持ちはとても嬉しかった。しかし、同時に自分の悲しみに向かって笑顔を向けた栞のことも忘れられず、気持ちの整理がつかない状態にあった。
栞のように、素直に自分の気持ちを言葉にすることが出来れば楽であっただろうが、美汐にとってそれは難しいことであった。
「ありがとうございます、美坂さん。それから、怒ったりしたのは私が悪かったと思います」
美汐は、栞を優しく見つめながらそれだけ言うと、鞄を持って病室を後にした。
栞は、ようやく止まった涙を拭きながら、静かにその後ろ姿を見送るのみであった。
それからしばらくの間、美汐は栞を見舞いに行くことが出来なかった。
ある程度の勢いがあったとはいえ、自分の心の中だけにしまっていたあの出来事を、人に話してしまったということがにわかには信じられなかったのである。更に、自分も栞に、おそらくは彼女がやはり自分の中にしまっておいたであろう事実を聞かされた。
美汐の悲しみと、栞の絶望を比べるとしたら、どちらが深刻で重く、暗いものなのであろうか。
美汐は、自分に死が降りかかることを今までに考えたことがなかったから、その重さというものを測ることは出来なかった。一方で、悲しい別離を経験しているので、死そのものよりも、残された人間の方の悲しみというものを経験している。
仮に栞が医者の予告通りに逝ってしまったとしたら、その「残された人間」になるのは姉の香里か、もしくは自分であろう。再び残される立場になることを、本能的に美汐は忌避したかったのかもしれない。
数日の間、美汐は一人の時間にそのようなことをずっと考えていた。
もしかすると栞が病室の窓から見ているかもしれないということを考えながらも、美汐は何度か公園にも足を運んだ。
もうすっかり雪の降り積もる季節になってしまったので、長い間そこにいることは出来なかったが、この場所は多くのものを美汐に与えたともいえる。
その中には当然、自分の腕の中で消えていったあの少年の感触も含まれている。
しかし、その中で美汐はあの時の栞の言葉を思い出した。
「でも、またその狐さんが天野さんに会いに来てくれるかもしれないじゃないですか」
あくまでも消えたのであって、死んだわけではない。もう一度、美汐の前に姿を見せる可能性‥‥、奇跡というものだってあり得るかもしれない、そう言いたかったのだろう。
だが、美汐は伝承を詳しく知っていたし、それが非科学的なことであったとしても、栞が楽観するように簡単に奇跡など起きるものではないと考える方が強かった。
栞は、美汐とはかなり性格の違う人間といえるだろう。だが、一方で美汐が感じ取ったように、美汐自身と共通するものも持っている。心の闇というのは、おそらくその一つであろう。そして、二人が未だ気付いていない別のものの中に、おそらく「優しさ」というものがある。
それに気付くためには、まだ多少の時間を必要としていたが、栞に残された時間はそうした時間を待つことを許すだろうか‥‥。
美汐は、何日か考えたうえで、再び栞を見舞う決心をした。
もし、香里が何らかの事情で栞の前に現れなくなったのだとしたら、何よりも心細い気持ちでいるだろう。
そんなことを考える美汐は、そうした自分の心の動きを不思議に思ったのだった。
久しぶりに栞の病室に足を踏み入れた美汐は、前と変わらぬ笑顔に迎えられた。
その笑顔が、時には痛くも感じられたが、あえて美汐はその痛みとも正対することにした。
再会しておしゃべりを始めて見ると、やはり栞は変わらず栞だった。その笑顔を見れば、生きることが許されている時間がそう長くない女の子であるようにはとても思えないだろう。
一方の美汐も、学校でいつも一人きりでいる、孤独な少女には見えなかっただろう。
栞の笑みは、時にはぎこちなさを感じさせたが、ひとまず、栞と美汐においては、お互いを悲しませるような結果にはならなかったと言うことが出来るだろう。
外には雪が舞っていたが、それも二人で見るとそれなりに美しい景色に感じられたのである。