この街にも、冬がやってきた。
商店街にクリスマスの飾りが華やかに取り付けられ始めるようになったある日、美汐が学校の帰りに制服姿で歩いていると、ぽつんと、額に当たる冷たい感触を得た。
「雨かしら?」
空はどんよりと曇っていたので、とうとう降りだしたと思った美汐だったが、空を見上げると、そこには雨粒ではなく、もう少しゆっくりと降りてくる白い粉のような結晶があった。
「寒いと思ったら、もう雪なのね」
両手の手のひらを上向きにして、胸くらいの高さに掲げる。
少しずつその量を増し始めた雪の結晶が、何度か美汐の手の上に落ちて、溶けて消える。
美汐は、雪があまり好きではなかった。
この街に暮らす以上、長い冬を雪と共に過ごすことは宿命のようなものであったが、溶けて水になり、その水すらも跡形もなく消えてしまうというのが、美汐にとっては悲しみを連想させるものであって、痛いものなのであった。
寒さもまた、美汐が苦手なものであった。
制服のスカートは短く、この季節になるとストッキングをはいていてもその寒さは容赦なく女の子を刺激する。
かといって、制服のデザインを勝手に変えるわけにもいかず、確かに学校でこそは暖房が十分に効いていて過ごしやすかったが、登下校の寒さばかりは如何ともしがたいものがあった。
他の生徒たちに目を向けると、しかしながら美汐と同じような心配をしている女の子はほとんどいないようであった。
「男子にスカートの中を見られてしまった」などということを、そんなに嫌そうでもなく話すクラスメイトの声などが聞こえてくると、美汐は半ば呆れながらも感心するのであった。
そんな美汐だったが、この日もいつもの公園に向かって、わずかに雪の舞う中で、十五分ほどの時を過ごしてきた。
過去の思い出というものは、冷たい記憶であるにも関わらず、そんな悲しみの中に身を置いていると、現実の寒さというものをしばし忘れることが出来る。
気が付くと、美汐の制服と髪の毛には少しばかりの雪が積もっていた。
春や夏には青々としていた芝生も、秋に枯れ草のようになって、今は白く化粧を施されている様子であった。
さっと一度だけ吹いた風に現実に呼び戻された美汐は、無表情のままで自分の体にまとわりついた雪を払い落とし、帰宅した。
この雪で、本当の冬がすぐそこまで来ていることを、美汐は知らされた形になった。
「こほん、こほん」
いつものように学校に来て、美汐は自分の体の調子があまりよくないことに気付いた。
起きがけに、のどの渇きやちょっとした不調を感じることがあっても、体がきちんと動き始めて学校に着くような頃までにはほとんどなくなっているというのがいつもの姿だったので、家を出るときには気にしていなかったのであるが、この日は学校に着いてもその違和感はなくならず、寧ろ、暖房の乾いた空気を吸っていると、喉の不快感が増していくようであった。
授業中に、何度か咳をすることを我慢できないようになり、休み時間にうがいをして誤魔化して来たが、それでもあまり状況は好転しないようであった。
昼休みになり、喉の痛みまでが顕著になってきた。もともと少食であった美汐だったが、この日は更に食欲がなく、学食でうどんを一杯だけ食べて済ますことにしたのだが、それすらも食べきるのに一苦労という有様であった。
なんとか、午後の授業も全て受け終えたが、この日は教師の話していたことは半分も耳に入っていなかった。
重くなってきた体を引きずるようにして家に戻り、暖かい服に着替える。
「やっぱり、風邪かしら……」
そのまま、自分の部屋で寝ていようかとも思ったが、なんとかそれを我慢して、救急箱から体温計を取り出して熱を測ってみる。
仕事で両親のいない家が、普段よりも更に寂しげに感じられた。
かなり長く思えた三分が過ぎ、体温計を取り出してみると三十八度近くを示していた。
奥の部屋に置いてある棚から、保険証を取り出し、美汐は医者に行くことに決めて家を出た。
外は、今日は雪こそ降っていなかったが、また灰色の熱い雲に覆われた空で寒かった。
家の近くには、手頃な診療所はないので、美汐が行くことになったのは、あの公園の隣りにある病院だった。
受付に診察券と保険証を渡し、運良くそう長い時間待たされることもなく、自分の診察の番が回ってきた。
中で待っている医師は、まだ若い、三十代の男だった。
年ごろの娘と言うことで気を遣っているのだろうか、美汐には丁寧な言葉で話しかけてくる。
「風邪だと思うんですが……」
「そうですね、典型的な症状でしょう。雪も降り始めましたし、寒さに油断したのかもしれませんね。何か心当たりはありますか?」
「……いいえ」
美汐は、その心当たりについて正直なことを言う気持ちにはなれなかった。おそらく間違いなく、初雪の日に公園にいたことが風邪の原因なのであろうが、そんなことを話しても風邪を治すことに関しては意味がないであろうし、またその理由を問われたりすると美汐にとっては好ましくない。
「もしかすると、入浴後に遅くまで本を読んでいたのが悪いのかもしれませんけど」
「寒い部屋なのですか?」
「いいえ、暖房はきちんとつけていましたが、風呂上がりだったので温度を低めにしてしまったのかもしれません」
「そうですか。しばらくは、多少暑く感じても、きちんと暖かくしてください。喉が乾くと思いますので、ジュースやスポーツドリンクなどで、水分を十分に補ってください」
「はい、わかりました」
「あとは、普通の感冒薬をお出ししますので、それを毎食後に飲んでください」
「はい」
聴診器を当てるためにはだけたブラウスのボタンを留め直しながら、美汐は医師の指示に頷いた。医師も、そんな美汐の姿に特段の感情を向けることもなく、カルテの方に向き直って、ドイツ語で何かを書き込んでいる。
そんな医師に少しだけ恨みっぽい気持ちを感じて、そんな複雑さのある自分の心に、美汐は内心で苦笑した。
「ありがとうございました」
「では、お大事に」
診察室を辞した美汐は、今度は薬をもらうために窓口へ向かう。
診察はすぐに終わることが出来たが、薬をもらうまでには多少の待ち時間が必要なようであった。
美汐は、本を持ってこなかったことを悔やみながら、ぼんやりと周りの様子に注意を向ける。
病院というところは、意外に賑やかであった。
賑やかという言い方をすると多少の語弊はあるだろうが、医師や看護婦が慌ただしく行き来していたり、書類を持って事務方の制服姿の女性があちこちを往復していたり、検査に行く患者が廊下をゆっくりと歩いていたりと、人の移動は頻繁であった。
時には、車椅子に乗った人が看護婦や家族に付き添われて、慎重に移動先に向かっていることもある。
医師に診てもらったためか、若干、症状が軽減されたようにも感じられる美汐は、この非日常的な風景を、どこか幻想的な気持ちで以て眺めていた。
正面に目を向けると、薬が用意できるまでの整理番号が、まだかなり先であることが分かって、気が重くなる。
確かに普段とは違った場所ではあるが、美汐はあまりこの病院という場所にはいたいとは思わなかった。
行き来している入院患者も、長椅子で待っている外来の患者も、どちらかというと中年以降の人たちが多かった。であるから、美汐はそうした人たちの中では相当に若い方であり、それが居心地の悪さを更に感じさせるところともなっていた。
そんなときに、待合室の奥の方の廊下を、美汐とそんなに年の変わらないように見える女の子が歩いていくのが目に入った。
その女の子が、ふと立ち止まって周りをきょろきょろと見渡していた。
その子が着ているパジャマも、どこか年相応な可愛らしいものにも見えた。淡いピンク色のパジャマと、短めの茶色のかかった髪が、この時の美汐には印象的だった。
「美坂さーん、次の検査はこちらですよ」
奥の方から、看護婦の声が聞こえてきた。
美坂と呼ばれたその女の子は、自分に向けられた声に応じて、一瞬だけ笑顔を浮かべた。
美汐のいる場所からは多少の距離があったが、それでもそうとはっきり分かる笑顔であった。
自分が笑顔からは縁遠い場所にいるためもあって、そんな可愛らしい笑顔に強く反応してしまうようである。
同時に、美汐はその笑顔に既知感を覚えた。かなり前に、今と同じような笑顔をどこかで見たことがある……。
美坂と呼ばれていたその女の子は、無事に次の検査をする部屋に行くことが出来たのだろう、既に美汐の視界からはいなくなっていた。
同時に、美汐はこの美坂をいう名前に記憶をたどらせていく。
確かに、どこかで聞き覚えのある名前だったはずだ。
「……」
美坂、笑顔、病院……。
目をつぶって、しばらく考え込む。時々、チャイムが鳴って、美汐のものより若い番号の薬が用意できたというアナウンスが入る。
そうした機械的なメッセージをBGMにしながら、美汐は数分でそれらの単語を有機的に結びつけることに成功した。
美坂、確か、名前は栞である。入学式の日に、教室に戻る途中で倒れて病院に運ばれていったクラスメイトがいた。
後のホームルームで、その女子生徒の名前が「美坂栞」であることを教えられた記憶がある。
その後、クラスの中での席が決まったが、次の席替え、そして今日に至るまで、その席に主が座ることはなかった。
名前はともかくとして、栞のことを覚えている生徒などはいるはずもなく、確か、学級委員が一度、病院に見舞いに行ったという話を美汐は聞いたのみである。美汐自身は、長期欠席している同級生を多少かわいそうに思ったが、それ以上、その生徒に対して踏み込むことはなかった。
美汐の中でも、「栞の存在しないクラス」というのが日常になり、今日までやってきた。
その美汐が、こうした偶然から栞のことを思い出したのだった。
確かに、入学式の時の校長の話を、おそらく唯一、きらきらした目と笑顔で真剣に聞いていた生徒の姿がここにあった。遠目ではあったが、あの印象的な笑顔は忘れようがなかった。
「この病院に入院しているんだ……」
どんな病気かも聞かされていない。まだもうしばらく薬が用意されるまでに時間がかかりそうと判断した美汐は、暇つぶしがてら、病院の中を歩き始めることにした。
運が良ければ、この栞の病室も見つかるかもしれない。
病院の中というのは、どうにも歩きにくいところであった。
自分から歩き回り始めたのであるから仕方ないとしても、どの階も雰囲気や作りが同じで、足早な人とゆっくりな人が同時に存在しているというのが、なんともやりにくかった。
入院患者のいる病棟にいつの間にか入り込み、奥の階段へ向けて歩いていると、並びの病室は六人部屋から四人、二人と減っていき、最後には個室になっていた。
その個室の中に、美汐はどこかで探していた「美坂栞」という名を見つけた。
適当に歩いていただけであるから、本気で見つけだすつもりはなかったのだが、こうして実際に見つかってしまうと、ある種のとまどいは隠せない。
「このドアの向こうに、美坂さんがいるのね……」
そうつぶやいた美汐。だが、もしかするとまだ検査から帰ってきておらず、無人なのかもしれない。
もう一度、三〇四という病室の番号とその隣りにある「美坂栞」と書かれたプラスチックの札に目を向けた美汐は、急に掛けられた声に驚くことになった。
「お見舞いにいらした方ですか?どなたかをお探しなのでしょうか?」
「あっ、いえ……」
振り返ると、医療器具を運んでいるところらしい看護婦が立っていた。
「お探しの方がいるのでしたら、婦長室の受付で聞いてもらえればいいですよ」
「あ、ありがとうございます。ですが、見舞いではなく、ちょっと間違えてこの病棟に来てしまったようなのです」
「そうですか」
「たまたま、知り合いと同じ名字の人を見つけて、びっくりして立ち止まってしまったんです」
「ええ、よく、そういう方がいらっしゃいます」
「一階の薬の受け取り窓口へは、あの階段から戻ればいいんでしょうか?」
「ええ、降りたらすぐ左側です」
「ありがとうございます」
看護婦は、特に美汐を怪しむこともなく、本来の仕事に戻っていった。
とっさに言い訳を発した美汐だったが、かえって栞の病室のある場所をはっきり記憶する結果になった。そして、美汐の中で、これまでになかったような「他人への関心」というものが芽生えた瞬間でもあった。
次に美汐が病院にやってきたのは、三日後だった。
医師の言うとおりに水分と栄養を十分に取って、暖かい部屋で過ごしていたことが功を奏したのか、それとも、医者にかかるまでもない単なる風邪だったのか、この時にはだいぶ体調は良好になっていた。
今回も運良く、あまり待たされることがなく診察を終えた美汐は、薬をもらわなくてよくなったこともあり、早々に帰ろうとしたところで、ふと栞のことを思い出した。
ちょうど目の前に病院の総合案内板があり、それによると、入院病棟の面会可能時間はまだ一時間ほどあるようだった。
同じ学校の同じクラスにいて、ほとんど友だちがいないというのは、ひょっとすると美汐と栞の意外な共通点かもしれない。
美汐はそんなことは意識してはいなかっただろうが、しばらくその案内板の前で考え込んだ後で、歩みの向きを変えて、病院の二階にある、面会受付の窓口へと向かっていった。
「すみません、面会の受付はここでよろしいのでしょうか?」
丁寧な言葉遣いで、美汐が婦長風の中年の看護婦に話しかける。
「ええ。その黒い帳面に、お名前と、お見舞いする患者さんの名前、今の時刻を記入してください」
指さした先にある紐で綴じられた用紙に、美汐はボールペンを手にとって記入した。婦長が言っていた項目の他に、「患者とのご関係」という欄があった。美汐は、一瞬だけペンを止め、そこに「友人」と記入した。そして、時計を見て今の時刻を記入し、先ほどの婦長に一声掛けて、廊下の方へ向かっていった。
「美坂さんのお友達ですね。病室はご存じですか?」
「はい、存じています」
そう言って、美汐は階段を上り、件の三〇四号室へと向かう。
勿論、美汐は栞には自分が見舞いに行くとは一言も伝えていないし、それどころか栞は美汐には面識もないであろう。
それゆえに、病室の入り口まで来てさすがに躊躇を覚えた美汐だったが、ここまで来て引き返すことも出来ずに、思い切って、ドアをノックした。
コンコン……。
小気味のよい音がした。程なく、中から意外に元気な声が聞こえてきた。美汐にとっては初めて聞く声である。
「はーい、どうぞ」
「失礼します」
美汐はおそらく中には届かないであろう小さな声で言うと、目の前のドアを開いた。まるで、それが自分の生きていく道の一つの区切りのドアであるかのように、美汐は錯覚した。
「お姉ちゃ……」
ベッドに横たわったままで、栞は点滴を受けているところであった。そのため、起きあがることは出来ずに顔だけを入り口の方に向ける。
どこにでもあるような小さな風景画が一枚、枕元の小さなテーブルに花が一輪飾ってある以外にはとりたてて装飾といえる類のものは存在しない、殺風景な部屋であった。多人数部屋のようなある種の賑やかさもここにはなく、一つ取り残された空間のようなものであった。
「あの……」
見知らぬ人の来訪に、栞は戸惑いを隠せなかった。
美汐も自ら選んできたとはいえ、やはり実質的には知らない人間を前にして、踏み出すことに戸惑いがあった。
「こんにちは。美坂さんのお見舞いに来ました」
「えっと……」
「あ、美坂さんは、私のことはご存じないと思います。おそらく、多くても一度しか会っていないはずですから」
「そうなんですか?」
「美坂さんの通っている学校、そのクラスの同級生で、天野美汐と申します」
同級生に対するにしては、丁寧すぎるほどの言葉遣いが栞を再び戸惑わせた。美汐が栞の「通っていた学校」でなく「通っている学校」と言ったことは、美汐が自然に身につけている優しさによるものであった。
栞は自分の学校の同級生という言葉が嬉しかった。一度しか行くことのなかった学校から、こうしてほとんど自分を知らないはずの女子生徒が来てくれたというのである。
以前、クラスの担任や学級委員の生徒が来たこともあったが、彼らは明らかに事務的に栞を訪問しただけであり、かえって自分が学校に行けないでいる現実を見せつけられてつらい思いをするだけのことになっていた。
しかし、今日、初めてここに来てくれた美汐という同級生は、それとは少し違うのではないかという、直感に似た期待を栞は持った。
そのために、栞は自然に笑顔になった。
「わぁ、ありがとうございます。わたし、こうして寝ているばかりで……」
「病気、長いんですね。早くよくなって下さいね」
「はいっ。あ、立ってないで、その辺りにある椅子に腰掛けてください」
「では、お言葉に甘えて」
首を横に向けている栞に、美汐は改めて自己紹介をした。
どういう理由でやってきたのかは、美汐は話さなかったし、栞も今の時点では聞こうとはしなかった。
近いうちにまた見舞いに来るという約束をして、三十分ほどで美汐は栞の病室を辞した。
約束通り、その後も美汐は機会あるごとに栞の病室を見舞うようになっていた。
既に美汐自身の風邪は治り、そのために病院にくる必要はなくなっていたから、純粋に栞に会うために来ているといえなくもないだろう。
ただ、美汐はもともとこの近くには頻繁に来てはいたのである。
栞に会いに行くときも、毎回とは限らなかったが、すぐ隣りにある公園に立ち寄ることもあった。
そんな中、いつしかカレンダーは最後の一枚になり、二学期の期末試験も終了した。
試験直前からは、さすがに栞のところに行くことも出来ずにいた美汐が、テスト休みを利用してこの日は午前中に栞を見舞った。
「お久しぶりになってしまいましたね」
「少し寂しかったです」
笑顔ではありながら、栞はそうちょっとしたわがままの含まれる感想を伝えた。
「でも、たぶんテストだったんですよね」
「ええ」
「天野さんは、頭がよさそうだから、テストはきっと心配ないですよね」
「そんなことはないですよ。いつも、前の日はほとんど徹夜です」
「徹夜って、わたし、あこがれですよー」
「そうですか?いいものではないですよ。徹夜なんてしないに越したことはありません」
「そうですね。お姉ちゃんは、徹夜なんかしたことないって言ってましたし」
「お姉さん……、あ、二年生の学年トップの美坂先輩……、いえ、香里先輩のことですね」
「あ、お姉ちゃんを知ってるんですか」
「はい。お話ししたことはありませんが、成績優秀、容姿端麗ですから、学校の中では知らない人の方が少ないのではないでしょうか」
「あーあ、それに比べて、わたしは学校にも行けないし……」
「そんな考え方はよくないですよ。そうですね……、美坂さん……、いえ栞さんは香里先輩よりも笑顔が綺麗です」
「えっ?」
美汐の口から人を誉める言葉が出てくるのは大変に珍しいことであったが、決して出任せのことを言っているのではなかった。入学式の日に感じたあの印象は、それほど強く美汐の記憶の中に残っていたのだともいえる。
そして、病床の身でありながらも、その笑顔を決して失っていないことは、おそらくこの少女の強さなのであろうということが、美汐には心のどこかで直感的に理解できていた。そしてそれは、美汐にはない強さでもあった。
多少、気丈にも見える美汐の普段の振る舞いや冷静さというのは、逆に言えばそうした弱さの裏返しでもあった。
その証拠に、時間が相当にたっていても、美汐はあの公園に記憶をたどりに行ってしまうのである……。
これは美汐には気付かないことであったが、美汐が試験の間、公園に足を運ばないことはある意味で幸運なことであった。
栞は、窓から見える公園の様子をぼんやりと眺めていることがたびたびあり、そうしていたならば、美汐が何度も公園に来ているということも分かってしまったはずである。
公園に「外の世界へのあこがれ」を感じている栞は、窓から見えた女の子が美汐だと分かったら、それをおそらく話題にするだろう。
これは、いつかは話題になることは必至であったとしても、まだその機ではないといえる。
美汐が栞のもとを訪問する大きな理由を、本当の意味で気付くまではそうなることはふさわしくないといえるだろう。
「そういえば、天野さんはわたしと同じ学校なのに、一度も制服姿を見せてくれたことがないです」
ある日、栞がそんなことを言った。
「ええ、ここへは一度家に帰ってから来ますから」
「天野さんの家は、学校から近いんですか?」
「まあ、遠くはないでしょうね。学校へも、この病院へも歩いて行ける距離です」
「それだったら、ひとつ、お願いをしてもいいですか?」
「なんでしょう?」
「今度、来てくれる時には、学校の帰りに寄ってもらえませんか?」
「私の制服姿が見たいのですか?」
「はいっ。わたしと違うタイプの天野さんが、どうやって制服を着こなしているかっていうのが気になるんです」
「そうですか……、分かりました」
栞が制服にこだわる理由を、それなりに察して美汐は承諾した。
自分にとっては、あまり気に入っているともいえないあの学校の制服だったが、栞にとってはある種の憧れでもあるのだろう。自分が制服姿で見舞っては、学校に行けずにいる栞の心を悲しませるのではないかと思っていたのが、美汐が帰宅後に見舞いに来ている理由の一つでもあった。
他ならぬその栞が、自分の制服姿を見たいというのなら、強くそれを拒否する理由も特にはない。
「わたしも女の子なのに、女の子の制服姿が見たいっていうのは変ですか?」
「ええ、そうかもしれませんね」
美汐なりに冗談の気持ちを加えて返したつもりであったが、その真面目な表情はそのこころを栞に伝えることには妨げになったらしい。
「あ、ひどいですー」
頬を膨らませる栞に対して、慌てて「冗談である」と明言する美汐だった。
その表情の豊かさに、美汐はやはりうらやましさを感じるのであった。
他人に関心を持つことを拒否することにしていた美汐は、どうしてこういう風な気持ちになるのかを理解でなかった。
やがて、世間は美汐や栞には縁のない浮かれを見せることになった。
いや、栞には楽しみにしているドラマの中で代替体験を出来る余地もあり、無機質な病院生活の中で季節を感じることの出来る貴重な機会であったから、縁がないと言い切ることは出来なかっただろう。
一方、それほどではなくても、美汐にも、今年は多少の意味があった。
普段の見舞いの時の会話の中で、アイスクリームが好物だと知った美汐は、クリスマスイブを目前にしたある日に、途中で商店街に寄って、バニラアイスでデコレーションされた小さなケーキを買った。
そして、前に望まれたとおりに、家には帰らずに制服姿のまま病院へ向かった。
受付を通るまでは、若干の恥ずかしさを感じた美汐だったが、それも何とか乗り越えて、今ではすっかり慣れっこになった仕草でドアをノックする。
「こんにちは」
「あ、天野さん。今日は……」
「ええ、リクエストに応えましたよ」
「ありがとうございますー。天野さん、制服、よく似合ってますっ!」
「そうですか?私は正直、あまりこの制服は好きじゃないのですが……」
「えっ、何でですか。勿体ない!」
「特にこの季節は、この短いスカートでは寒くて仕方ありません」
「そ、それはそうですけど……」
それから、栞の制服談義が始まった。
話が本格化する前に渡したケーキを二人で食べながら、栞が楽しそうにいろいろな制服の話をする。
自分たちの通う学校を皮切りに、近くの他の高校の制服、チェーンのレストランやファストフードの店の制服、果ては最近増えてきた女性の駅員の制服に至るまで、病院にいてどこからそんなに情報を仕入れてきたのかというほどの栞の博識ぶりが披露された。
言うなれば、あこがれが知識自体への習得欲をかきたてたということだろう。制服というのは、ある組織にしっかりと所属できている証でもあり、ある意味では健康や健全の象徴でもある。
栞がそういうことを求めているのは当然の成り行きでもあった。
そして、栞はしきりに美汐の制服姿を誉める。
その中には、栞が敏感に感じている、美汐の心の中にある「影」をなんとか照らし出そうとする気持ちもあった。
美汐が認識しているような栞の強さと表裏一体で、誰にも話せない弱さも抱えていた。
その部分が、美汐が時々わずかに見せる影の表情の中に、何か自分と共通する負の存在があることを察していたのだった。