バスが音を立てて走り出していった。
海辺の小さな停留所に残されたのは、小さな荷物だけを抱えた一人の青年だった。
「暑い……」
それが第一声だった。
確かに、本格的な夏の日差しは容赦なくこの旅人を照らしつけている。
鮮やかに光っている海面、咲き誇っているひまわりの花、あちこちから聞こえてくる蝉の鳴き声など、どれも暑さを助長するものでしかなくなっている。
路銀が尽き、このような場所でバスを捨てることを余儀なくされたこの青年は、町を目指して歩き始めた。
そこには何が待っているのだろうか。
夕方が夜に取って代わろうとしている頃だった。
いつものように駅前広場で美凪はみちるとの時間を過ごしていた。
昼間はあちこちと歩き回り、そのままここに戻ってきて昼寝をしていたみちるが起きあがった。
「にょわっ、みちる、寝てた?」
「うん。気持ちよさそうにしてたので、見ちゃってました」
「んにに……」
みちるが困ったような表情をする。確かに、自分の寝顔を見られていたというのは恥ずかしいのだろう。
「もう、夕方だねぇ……」
「そろそろ、星も出てくる時間ですね」
「今日も、一日終わっちゃうね」
「そうね……」
「そうだ、美凪」
「どうしたの?」
「ほら、まだシャボン玉セット、残ってたよね?」
「うん」
「最後に、もう一度やってみせて」
「うん」
「でも、どうしてみちるはいつまでたっても出来るようにならないんだろう……」
「うーん、不思議……」
一緒になって考え込む。
振り返ってみれば、特に何もない一日……。いつもと変わらない時間というものは心を落ち着かせてくれるものではある。だが、一方で無為に時を過ごしてしまったような喪失感を感じてしまうのも事実である。
みちると過ごす時間というのは、美凪にとってそのようなものであった。
楽しく心休まると思える一方で、何かの変化を求めてもいるような。
そんな中、この日には一つの新しい出来事があった。
底の方に少しだけ残った石鹸液にストローの先を浸し、ゆっくりともう片方の端から息を吹き込む。
残り香のような陽光と、付き始めたばかりの街灯の光を浴びて、不思議な色に輝いたシャボン玉が、ゆっくりと美凪のもとを離れていく。
「わ、飛んだっ」
何度も見ている光景だったが、それはいつもみちるの心を動かしてくれる。
だが、今日はそれに加えて、もう一つの反応があった。
「わっ、シャボン玉……」
そちらに顔を向けた美凪が見たのは、同級生の一人だった。
「あっ、遠野さん」
「何だ、知り合いか?」
「うん、クラスメイトの、遠野美凪さんだよ」
彼女は、知り合いと一緒に歩いていたらしく、美凪のことを説明していた。
美凪はそっとそちらの方に目を向けた。膨らみかけのシャボン玉が、その勢いで弾けてしまい、霧消する。
「あっ……」
だが、それには構わず、美凪は向けた視線をそのままこの珍しい来客に固定する。
「こんにちはっ」
観鈴という名前の同級生がそう挨拶してきた。
だが、美凪は彼女よりも寧ろ、一緒にいる青年の方が何故か気になっていた。この町で見かける顔ではないが、観鈴の親戚かなにかなのだろうか。
「……」
何も答えずにいる美凪に、観鈴は困惑しているようだった。
「あっ……、こんばんは」
美凪は慌てて挨拶を返す。
そしてハンカチを取りだし、頬にかかった石鹸液を拭く。
「その人は……?」
「あ、えっと……、往人さん。旅の途中なんだけど、うちに泊まってもらってるの」
そう説明する観鈴の表情は笑顔だった。その笑顔が、美凪にはどこかうらやましく思えた。あまりクラスでも目立たない方である観鈴が、そんな顔を見せるのはこの人のためなのだろうか。
「旅人ですか……」
「そんな優雅なものでもないけどな」
往人がそう答えた。その声に、どこか懐かしいものを美凪は感じた。これが初めて聞く往人の声だった。
その時、シャボン玉を追いかけていたみちるが戻ってきた。
「美凪〜、次は?」
次のシャボン玉が飛んでこないのを見て、様子を見に戻ってきたらしい。
「あ、ごめんね」
「この人は、遠野さんの妹さん?」
観鈴がみちるに聞いた。
「ううん、みちるはね、美凪の親友だよ」
「そうなの、にゃはは」
みちるも楽しそうに笑っている。そう、ここでは美凪はみちるの親友なのだった。
「ねっ、続きをしようよ」
みちるが美凪を促す。
「そういうわけですので、また後ほど」
美凪が軽くお辞儀をする。
「うん、またね」
観鈴と、それを追うようにして駅前広場を後にする往人を見送る。
再び空に浮かんだシャボン玉を見ながら、美凪はこの出会いを反芻していた。
それからしばらく、往人はこの町にとどまることになった。
何度か顔をあわせているうちに、美凪やみちるは自然と往人と言葉を交わすようになっていた。
その往人の話によると、彼は自分の持っている人形を操り、大道芸のようにして日銭を稼いでいるらしい。
ここのところ、その人形芸の調子がふるわず、足代にも事欠くようになって辿り着いたのがこの町だったというのである。
夏の暑い盛り、積極的に外に出る人も少なかったし、もともと人の多い町でもなかったので、この町に来てからもほとんど稼ぎはないようである。
ひとまず、観鈴の家に世話になっているので、食べるものと寝る場所だけは問題ないのだが、いつまでもそんな居候同然の生活を続けていくわけにはいかないと言う。
駅のベンチに腰掛けながら、美凪はそんな往人の話を聞いていた。いつものようにみちるがやってくるまでにはまだ少し時間がある。
みちるは、何故か往人のことが気になるらしく、顔を見るたびにいろいろ言い合っている。そのほとんどが言い争いのようなものだったが、それが、どこか美凪には楽しそうにしているように見えたのだ。
そんな時、美凪はある名案を思いついた。
「そういうわけで、これからどうしようかと考えているんだ。まあ、その気になれば歩いて旅を続けることも出来るんだけどな」
「でも、それは大変です。この季節ですし」
「まあ、そうだよな。こうして外にいるだけで嫌になってくるし」
「いい案がありますよ。国崎さんにとって」
「案?」
「はい。国崎さんは寝泊まりする場所を探してらっしゃるんですよね?」
「ああ、結局のところはそうだ。いつまでも観鈴の家に厄介になっているわけにもいかんしな」
「ここがあるじゃないですか?」
「ここ? 駅のことか?」
「はい。この駅にはもう列車は来ませんから。ガスや水道はまだ来ているみたいなんです、実は」
「ほう……。でも、閉鎖されてるってことは、鍵がかかっていて中には入れないってことじゃないのか?」
実際、これまでも何度かこの駅に来てはいたが、駅前広場かホームで遊んでいただけで、建物の中に入ったことはない。
「実は、それも大丈夫なんです。じゃん」
そう言って、美凪は持っているポシェットの中から、小さな鍵束を取りだした。ずっと昔に、父親からもらったものである。
「駅舎の鍵か?」
「はい、そうなんです」
「でも、なぜ遠野がそんなものを持っているんだ?」
「実は……、父がこの駅の駅長をしていたんです。その時にもらっちゃいました」
そんな簡単に鍵を娘に渡していいものなのだろうかという素朴な疑問が往人の頭をよぎったが、現実的に駅舎をねぐらに出来るのはありがたいことなので、それは忘れて往人は鍵を受け取ることにした。
「そうか。じゃあ、ありがたく借りることにする」
「ええ。駅には人がいた方がいいですから……」
「……」
一瞬、寂しそうな目をしたのを往人は見逃さなかった。だから、往人は「その父親は今どこにいるのか」という質問を心の中でうち消した。
「それじゃ、早速」
鍵を使ってドアを開けた。かつては事務のために使われていた部屋と、その奥に仮眠の取れるような小部屋、簡単な炊事場がある。ずっと使われていなかったので埃っぽかったが、少しすればそれも大丈夫だろう。
無人の駅舎には寂寥感が漂っていたが、久しぶりの人に息を吹き返したかのようだった。薄暗かった駅舎の中が、心なしか明るくなってきたようにも思える。
「ほう、これなら快適そうだな」
「よかったです」
「ああ、サンキュ」
その時、外の方から元気な声が聞こえてきた。
「美凪、どこにいるの?」
みちるの声だった。美凪は慌てて外に出ていく。
「あ、こっち〜」
「あれ? 何でこんな所にいるの?あっ、国崎往人っ!」
「なんだよ」
「またいるのかぁ」
「ああ、いちゃ悪いか?」
こうしてまたいつものようなやりとりが始まった。
「仲良し?」と聞くと猛烈に否定する二人であったが、やはり美凪にとってはそう見えるのだった。そもそも、本当に嫌っていれば、相手にしようとは思わないではないか。
結局、この日も三人で遊んで過ごした。
寝場所は確保した往人だったが、まだ食事という問題が残っていた。
「お弁当、お持ちしましょうか?」
食材さえ手に入れれば、自分で何とかすることも可能だったのだが、往人は瞬間的にその好意に甘えることにした。
美凪の手料理というものにも興味があったし、食事はやはり誰かと一緒に取った方が美味しいと思ったからである。
事実、美凪の作ってきた食事は、非の打ち所のない出来だった。難点をいえば、みちるも同席して必要以上に賑やかな食卓になってしまったことだろうが、それも問題にはならなかった。
とにかく、この駅という場所で、三人の楽しい時間が積み重ねられていった。
一度その役割を終えたと思われた駅は、そういう意味で最後の役目を果たそうとしていたのである。
往人がこの町にやってきたことを機に、何かが動き始めていた。
最初は日常とほとんど変わらない微かな動きであったから、美凪はそれに気付くことがなかったのだが、何かのきっかけでそれを意識すると、急速にその存在は美凪の中で増していった。
往人は不思議な魅力を持つ人間だった。自分以外とはほとんど言葉を交わすことのないみちるが、あれだけ元気そうにしているのを見ると、美凪も嬉しくなった。
考えてみると、往人はみちると以外にもう一ヶ所、自分を「美凪」でいさせてくれる場所だったのである。
みちると美凪を別の人間として同時に認識してくれる存在が、往人に他ならなかったのだ。
往人は自分を「遠野」と呼んでいるが、心のどこかで、「美凪」と呼ばれたいと考えるようになっていた。自分が美凪でいられること、夢の中でなくそれが現実であることを認識したいと思うようになった。
自分が、夢の中にいるのではないかという意識は常にあった。だが、それは誰の夢なのかはずっと分からないまま、その危うい快適さの中に身を置いてきた。美凪自身の夢、みちるの夢、そして母親の夢……、それらは何を求めていたのだろうか。
往人が、夢から目を覚まさせる存在になるのだろうか。そうだとすると、往人は何のためにこの町にやってきたのだろうか……。
美凪にとって、自分の家は本来の居場所ではなかった。そうだとすると、美凪のいるべき場所はどこになるのだろうか。
みちるにとっても、心がどこかで変わり始めていた。
みちるが初めて往人を見たとき、最初に感じたのは警戒感だった。自分と美凪という盤石な間柄であるはずの二人に入り込んできた異分子のようにも思えたからである。
だが、美凪は往人を否定せず、三人で時間を過ごすようになった。無遠慮でがさつな人間だと思っていた往人も、それほど嫌ではないと思えるようになってきた。
手を触れずに人形を動かすという、不思議な力を持っているのだといい、実際にそれを目にすることもあった。だが、それは往人の持つ本当の力ではないのではないだろうか。そんな風に感じることがあった。
みちるには、自分の本当の居場所がなかった。美凪と別れて帰った後、どこで過ごしているのかを明確に思い出すことが出来ない。
そんな中、みちるはある夢を見たのだった。
空に浮かんで、じっと自分の方を見つめている少女の姿が見えた。悲しみを抱え込んだその少女の瞳は、自分の心の中に直接響いてくる感じだった。
「お前は、その子を助けてやらないといけない」
どこかからそんな声が聞こえてきたような気がした。
「誰?」
みちるはそう問いかけたが、返答はなかった。少女は変わらぬ表情のまま空に浮かび続けている。ずっと昔からそうであったかのように、微動だにしていなかった。
目を覚ましたみちるは、そんな夢の中の出来事を思い出しながら、こんなことを考えた。
「わたしは、どこから来たのだろうか」
「わたしは、何のためにここにいるのだろうか」
その答えが、間もなく得られようとしていた。
往人にとっても、美凪が特別な存在になり始めていた。
最初は、美凪が時々見せる寂しそうな表情が気になるとか、そういった類のものであった。生来の好奇心が、そこから美凪の中へ、そしてみちるの中へと往人を誘っていくことになり、最後にはその関わりから抜け出せないところまで到達していたのである。
ある日、星空を見上げながら、往人は美凪のこんなささやきを聞いた。
「星たちには、それぞれの役割があるんです」
これまでの旅の中で野宿を強いられたことが何度もある往人だったが、真剣にその星空を見たことなどはなかった。星空を綺麗だと思うことは確かにあったが、結局はその程度の認識だったのだ。
天文部に所属しているという美凪は、それだけでなく星々のことにも詳しかった。聞けば、子供の頃に父親がいろいろ教えてくれたのがきっかけだという。
「役割?」
その意味が分からず、往人は美凪にそう問い返した。
「はい。人は昔から、自分の運命を星になぞらえたりしたのだそうです。流れ星に願いをかけたり、星が流れると誰かが死ぬと信じられたりするのはそういった思想からくるんだそうですよ」
「なるほどな。星占いとかもその一種なんだろうか」
「そうかもしれませんね。ただ……」
「うん?」
「本当は、自分の運命を担っているのがどの星かなんていうのは、簡単には分からないんです」
「そうなのか?」
「分かってしまったら、悲しいじゃないですか……」
そう言って、美凪はその、時々見せる儚げな表情をした。
「遠野……」
往人には、何となく美凪の心が分かるような気がした。確かに、星の運行で人の運命が分かってしまうというのは恐ろしくもあり、時には悲しいことであるかもしれない。見たくもない事実を見せられるような感覚に近いのであろうか。
「遠野は、自分の星を知っているのか?」
「いいえ……。私は、自分の星も、居場所も分からないんです」
「……」
「私と、みちる、そして国崎さん。私たちの星、居場所はどこにあるのでしょうか?」
瞬く星に、美凪は見守られていた。唐突に、そんな美凪が往人には羽根を持った少女のように見えた。母親と別れるときに聞いた一つの物語。ずっと探し続けてきた少女が美凪であるというのだろうか。
「いや、それは違う」
往人は、直感的にそう結論づけた。だが、無関係であるという気もしない。
「はい?」
「悪い、別のことを考えていた」
「だめです、今は私たちのことを考えていてください」
「そうだな……」
その「私たち」に誰が含まれているのかは、二人とも明らかにしなかった。ただ、いつの間にか美凪の心が往人に向き、往人の心が美凪に向いているのはお互いが自覚し始めていた。そうだとすると、みちるはどこへいくのだろうか。
往人の役目は、この悲しみの少女の夢から彼女たちを解き放つことなのだろうか。
往人は知らなかったが、この時の美凪の目は、美凪の家にある絵の、あの有翼の少女の目と同じだった。
この時、みちるはもう帰った後だった。静かに流れる時間の中で、美凪は往人に対してこれまでに感じたことのない感情を持っていることに気が付いた。
「国崎さん……」
そう言って、美凪は往人の胸に顔をうずめる。
伝わってくる温もりを美凪は感じていた。そっと髪を撫でながら、往人の手が美凪の頭を包み込む。
居心地の良さを美凪は感じていた。みちるとは多くの時間を一緒に過ごしたが、こんな温もりを感じたことがあっただろうか……。
「私に、羽根はあるのでしょうか?」
往人には、傷ついた羽根が見えていた。だが、それは失われたものでも壊れたものでもない。ただ、今はまだ広げることが出来ないだけなのだ。それを広げる力に、往人はなることが出来るのだろうか。
「ああ、おそらくな……」
「恐いんです。夢から覚めるのが」
「夢、か……。でも、覚めたときに見る現実は、必ずしも悪いものだとは限らないぞ」
「でも……」
「あいつが言ってた。『美凪には笑っていて欲しいよ』って」
「……」
「どういう意味だって聞いたら、『国崎往人が考えている通りだよ』だってさ」
「国崎さんは、どう考えていたんですか?」
「考えていたというかだな、思ったという方が近いだろうな。遠野が、俺に向かって笑ってくれていたって」
「どういう意味でしょう?」
「みちるは、遠野に笑顔でいて欲しかった。そして、実際、そうあっていた。だけど、みちるは自分以外の人に見せる笑顔というのも見てみたかったんじゃないだろうか」
「……」
「まあ、俺もよくは分からないけどな」
美凪を気遣いながら、往人はゆっくりと立ち上がった。
少しだけ名残を惜しみ、美凪もそれに従った。
「こっちの方、少し歩いてみないか」
往人が、駅舎の向こう側を指差す。
「はい」
二人が寄り添うように歩いていく。
駅舎の奥にあるのは、既に使われなくなったホームである。新月に近く、足元は危うげであったが、その暗さは星の輝きを引き立てる役目も果たしている。駅舎から漏れてくる僅かな光が、うっすらとした影を二つ作っている。
「ここには、本当に列車は来ないんだよな……」
多くの人を見送り、出迎えた駅は、その意味では役目を終えていた。だが、その先の暗闇からは、今にでも列車がやってきそうな気がする。
「はい……。国崎さんのおかげで、少しだけ元気を取り戻したかのようにも見えます」
「そうか……」
「国崎さんは、また旅立ってしまうのでしょうか?」
「そうかもしれないな。俺は未だ、探しているものを見つけていない」
「翼を持った女の子ですか?」
「ああ……。でも、それはそう遠くないところにいると思うんだ」
そう言いながら、往人は顔を上げて星空に目を向けた。
「このどれかが、俺の星であり、俺の探している少女の星なんだろうか」
適当に明るい星を指差しながら、往人がそんなことを言う。
その往人の姿に、美凪はずっと昔の光景を思い出した。
「……」
「すると、星座というのは家族みたいなものなのかもしれないな」
呟くように往人が言った。
それはお互いを必要とし、お互いによって成り立っている存在……。
美凪の悲しみの原点がそこにあった。
星の瞬きが一睡の夢のようなものだとすれば、遙か昔の光がこうして届いていることは何を意味するのだろうか。
ずっと見続けてきた夢が、覚めようとしていた。
美凪から、みちるから、そして、彼女たちの母親から……。
夢が、覚めようとしていた。
全ての現実が動き始めていた。
みちるは、その役割を終えようとしていた。美凪に笑顔でいてもらうことがみちるの存在意義だったのだとすれば、往人が現れた今、その役目はみちるから往人に受け継がれることになるのだ。
みちるの変化は、美凪にも敏感に通じた。それが、美凪を立ち止まらせてもいた。みちるを失うことになるのだったら、このまま夢の中に居続けることを選んでもよいのではないかと。
だが、美凪の母、康子が夢から覚めた。みちるはこの世に生まれてくることが出来なかったのだという冷徹な事実が、ようやくこの人に受け入れられるところとなったのだ。長い間、みちるであり続けた美凪は、その時に存在を喪失しつつあったのだ。それを乗り越えることが、悲しみからの解放につながる道なのであった。
自分が何者で、どこにいるのか、それを最後に美凪は探さなくてはならなかった。
その答えを教えたのは、他ならぬみちるであった。
みちるが消えようとしている事実が、美凪が美凪であることを認識させる結果になったのである。
みちるは、やはりあの有翼の少女だったのだ。
美凪や往人も知らない、遙か昔にあった悲しみの出来事。愛する人を失った悲しみを一身に抱え込み、空の中にあってずっと涙を流し続けている少女がそこにいた。
彼女の持つ白い羽根は、それぞれが悲しみであった。時折、離れて地上に落ちたその羽根が、関わった者に悲しみをもたらす。
同時に、その悲しみから解放されることを願う気持ちの形でもあった。
みちるは、そんな羽根から生まれた存在だった。幸せだった家族が失ったそれを取り戻すために、美凪に笑顔を取り戻すために生まれてきた存在……。
だから、美凪に笑顔が戻ったとき、役割を終えたみちるは本来の居場所に戻らなくてはならないのだった。
しかし、それは別れを意味するものではない。言うなれば「再生」なのだ。みちるは、自分を生み出した空の少女に、その悲しみからの解放を伝えるだろう。そうすれば白い羽根の悲しみは一つ、幸せへと変わる。それは僅かな力ではあろうが、こうして解放が積み重なっていけば、空の少女もやがて幸せを得ることが出来るのではないだろうか。
往人の探している、羽根を持った少女というのは彼女に他ならない。その少女を救うために、往人はあの力を持って生まれてきたといっても過言ではないだろう。
一体、どれだけの世代を越えてきたのであろうか。そして、いくつの物語が生み出されてきたのであろうか。
海の見える町で、その最終局面が展開しようとしていた。
「まだ間に合う!」
往人が、美凪の手を引いて走っていた。しかし、どこへ行けばいいのか、それが分からなかった。
夕焼けが空を真っ赤に染めていた。それが、海の色も変えている。これまでに見たことのない美しさが目の前に広がっていた。
「みちるに、会いに行きます」
美凪がはっきりとそう言った。
「場所は、分かります。この町で、空に一番近い場所……」
確信に満ちた美凪が辿り着いたのは、自分の通う高校だった。屋上に向けて急ぎ足で階段を上っていく。
重い鉄の扉が開かれ、紅の光が美凪と往人を照らし出す。
「みちる……」
夕日を背に、みちるが立っていた。その向こうには輝く海があった。
「美凪、来てくれたんだね」
「当たり前じゃない……」
「国崎往人も、来てくれたんだね」
「ああ……」
「ありがとう。みちるは、最後にちゃんとお別れを言うことが出来るんだね」
そんなことを言うみちるの声は寂しげだったけれども、顔には笑みが浮かんでいた。嬉しいから、楽しいからというのではない、しかし、何かを隠すような偽りでもない笑顔だった。
みちるは、自分が何のために生まれてきたのかを知ったのだ。だからこそ、そのためにはここから立ち去っていかないとならない。そうでなければ、美凪を救うための夢が、美凪を悲しみで縛り続けるものになってしまう。
「お別れなんて……、みちるとお別れなんて!」
美凪にしては珍しく感情を大きく表に出していた。それほどまでに美凪にとってみちるというのは大きな存在だったのであろう。
「大丈夫だよ、美凪。みちるはね、美凪に笑顔でいてもらうために生まれてきたの」
「でも、みちるがいなくなったら、笑顔ではいられない……」
「そんなことないよ。美凪には、みちるの他にも笑顔を見せられる人が出来たんだから。ねっ、国崎往人?」
「……そうだな」
「……」
みちるが往人に微笑みかけた。往人は、その微笑みを反射させるかのようにそのまま美凪に笑いかける。
「遠野が俺に見せてくれた笑顔は、本物じゃなかったのか?そうじゃないよな」
「はい、国崎さん……」
「だろう?遠野も、今がどういう時なのか、分かっているはずだ。あとは、みちるを笑って見送ることが出来る勇気を、羽根を広げる勇気を持つだけだ」
「私の、羽根ですか?」
「ああ、みちるはもうそれを広げた。あとはお前だけだ」
「みちる?」
赤い夕日と海を背にして、みちるは輝いていた。
「うん、だから、最後にお願い。美凪は、笑っていて」
「……うん」
「国崎往人にもお願い。国崎往人の探している女の子に、ちゃんと伝えてあげて。もう悲しみは終わるって」
「ああ、約束する」
「今まで、楽しかったよ、美凪」
別れはいつも人を悲しませる。だが、みちるは悲しまれて消えていくことを望んではいないはずだ。ここに残った美凪が悲しみを捨てられなかったら、みちるが生まれて、そして空に戻っていくことが無意味になってしまうではないか。
それに、今の美凪はもう一人ではない。みちるはその人に出会うための手伝いもしてくれたのだ。
「また会えると思うから、美凪……」
海からの風が屋上を吹き抜けた。夕日と夜の帳の境目に、一番星が輝いていた。それに吸い込まれるように、みちるの姿が消えていった。
「遠野……」
往人が心配そうに美凪の方を見た。
美凪は、一番最初に空に浮かんだ星を、じっと眺めていた。その目からは涙が一筋こぼれていたが、顔に浮かんでいるのは、紛れもなく笑顔だった。涙を流しながら、美凪は笑っていたのだ。
「大丈夫、あいつは最後まで笑っていた。だから、遠野、お前も……」
美凪が、隣に立っている往人に体重を預けてきた。
「はい。今の私は、笑顔でいられていますよね?」
「ああ……」
「それと、みちるからだけでなく、私からもお願いがあります」
「うん?」
「これからは、私のことを『遠野』でなく『美凪』と呼んで下さい」
「……そうだな」
「だって、私は確かに美凪なんですから……」
往人は美凪の手をそっと握った。それに応えるように、美凪がその手にぎゅっと力を籠める。
その手は、温かかった。