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終章 海の見える町で

駅舎に泊まる往人を見送ったあと、美凪は自分の家に帰った。既に空は星々の支配するところとなっており、美凪はこの夜だけはこの駅舎で往人と一緒に過ごすことを求めたのだが、往人はあっさりとそれを却下したのだった。

「即答ですか」

「ああ。俺にもその気持ちがないとは言えないのだが、今日はもっと大事な場所があるはずだ」

「そうですね」

そう言って、美凪は笑った。

「また明日の朝に来てくれないか。出来れば食べ物も持ってきてもらえると助かる」

「かしこまりました。では、今日はおやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

家に帰った美凪を迎えたのは、こんな母親の言葉だった。

「おかえり、美凪。お夕飯出来ているわよ」

「うん。すぐに食べるね。今日のおかずは?」

「ハンバーグよ。今度は一緒に作りましょうね」

「うんっ」

確かに、美凪も康子もずっと夢を見ていた。現実を直視することを厭い、居心地のよい夢の中にいることを選んでいたといって構わないだろう。

だが、夢の中に安住しようとすることは、責められるべきことなのだろうか。

夢というのは、願いでもある。その願いの力が強くなり、ついには夢が現実を変える力となる。

それでも、夢の中にいることは許されないことなのだろうか。

どんな夢も、いつかは覚めるときが来る。その時、幸せにいられるだろうか。

それが、一番大切なことではないのだろうか。

そして今、美凪たちは取り戻すことの出来た現実の幸せの中にいた。

それは自分の力だけで得ることの出来たものではない。だからこそ、もうそれを手放してはならないのだ。

美凪たちの幸せ……。

靴を脱いで廊下に上がろうとしたとき、美凪は下駄箱の上に封筒が二つほど置いたままになっているのに気が付いた。

「お母さん、ここに手紙が置いてあるけど?」

「あっ、すっかり忘れてたわ。お米を持ってたから、そこに置きっぱなしにしたままだったのね。悪いけど美凪、持ってきてくれる」

「うん」

その片方は、毎月来ている電気料金の領収書だった。もう片方には、見慣れない文字の表書きでこの家の住所が記されていた。宛名は美凪だった。裏を見てみると、そこにはもう一人の大切な人の名前が書かれていた。

待ちきれずに封を開け、中の文章を読む。

美凪が考えもしなかったことがそこには記されていた。

ずっと音沙汰のなかった父親の近況……。新しい町での暮らしは順調だということ。美凪とお母さんには申し訳ないが、もうそっちに戻ることは出来ないのだということ。そして、驚く、若しくは怒るかも知れないが伝えておきたい事実があるということ。

実は、お前に妹が出来たのだ。今、父さんはここで三人で暮らしている。いろいろ悩んだが、父さんはその子の名前をこう決めた。その名前は……。

美凪の瞳が僅かに潤んだ。そこにあったのは、自分がずっと求めてきた名前だったからだ。

それから数日後……。

「やはり、行ってしまわれるのですか」

「ああ、あいつとの約束だからな。今までは漠然としか見えていなかったけど、きっと見つけだしてみせるさ」

「でしたら、お土産はその子の笑顔ですね」

「そういうことになるだろうな」

往人は、この町を出る決心をした。

それを伝えたとき、美凪は少しだけ寂しそうな顔をした。ひょっとするとその旅に一緒についていきたいと言いたかったのかもしれない。だが、美凪はそうせずにこの町で待つことを選んだ。

往人は、みちるとの約束を果たすためにこの町を離れるのだから。また戻ってきてくれることを知っていたから、美凪は笑ってそれを見送ることができるのだ。

それに、この場所にではないけれども、みちるは夢や幻の中ではなく、現実に存在しているのだ。ひょっとすると、そのみちると一緒に遊べるような日が来るかもしれない。

だから、永い時間の中の僅かな間だけ離れていることを悲しむ必要は全くないのだ。

本格的な夏の日差しが、容赦なくこの場所を照りつけていた。

青を更に濃くしたような青い空に、それと競うかのように無垢を主張する白い雲が浮かんでいる。色を失い、輝きだけが残ったような太陽が、木に止まっている蝉をけしかけるかのように、光と熱を与えている。

思えば、この小さな町で初めて耳にしたのも蝉の声だった。

そして、この小さな町で、初めて出会ったこの場所から、往人は出発しようとしていた。

そして、それを見送る美凪。

だが、これは決して別れではないのだった。

往人は、再びこの町に美凪を迎えに来ることを約した。その約束を違うことはないであろう。だからこそ、美凪は今はこうして、往人の出発を見送るのだ。

美凪の立っている駅のホームには、他に誰の姿もなかった。整備されていないホームのすぐ傍らまで、夏が育てた草木が浸食している。ややもすればその蔓は、足にからみつきそうでもあったが、美凪はそれを気にすることもなく、ただその砂利の上に立ち、旅立とうとする往人をじっと見つめていた。

往人も、美凪をずっと見つめている。まるでお互いを視線で抱きしめるかのように、しっかりと見つめ合っていた。

そんな旅立ちの光景を見守るのは、夏の太陽と、鳴き続ける蝉だけだった。

「そろそろ、出発の時間のようだな」

「はい……」

二人が交わした言葉はそれだけだった。

今はそれで充分だった。

お互いの心を知るための時間は、もう既に持っていたのだから。

そしてそれが、この瞬間を生み出していたのだ。

美凪、そしてみちるを幸せにするために必要なものを、往人は見つけに行く。そのために、僅かな間だけ離れていなければならない。それだけのことだ。

今まで居続けた不安定な世界の中に居続けることに比べれば、どれほどのものがあるだろう。

往人は、この町にやってきたときと同じ出で立ちで歩き始めた。古ぼけた人形と、それを操る不思議な力を供にして。

この駅に再び列車が来ることはない。

けれども、かつては多くの人々がこの駅を通り、この駅から旅立っていった。

もう、そんな旅人を送り出すことはないだろうと思っていた駅は、この二人をどんな気持ちで見ていたのだろうか。

既に剥がされた二本の線路の跡を、往人はゆっくりと歩き始めた。

その先にあるのは、夏。

そして笑顔に満ちた幸せだった。

築堤の上からは、それを象徴するような美しい海が見えた。その上の空を行く風が、一瞬だけ天使の形を取ったかのように見えた。

夏の海が、そしてこの海の見える町が美しく輝いた。

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