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第4章 みちる

その白い羽根は、悲しみの象徴だった。だが、悲しみと幸せというものは表裏一体の関係であるから、別の意味では幸せをも象徴していると言えなくもない。

空のどこかにあって、ずっと大切なものを待ち続けているという少女がいるという。その少女は羽根を持ち、その羽根に自分の経験した様々な気持ち、記憶を籠めて、長い間その場所に居続けているという。

そして、どこかでその縛めから開放してくれる存在を待っているのだという。

勿論、ただ無為に待っているのではなかった。少女は、自分の出来る方法で働きかけをしていた。その多くは人の世界に届くことはなかったが、稀にその少女の心に感応する人間もいた。

そんな「偶然」が重なり、一つの幸せから始まった一つの悲しみの物語が終わりを迎え、それと共に空にいる少女の悲しみの記憶もその一つが消え去ることになった。

これはそんな物語である。

「ただいま」

「おかえりなさい、みちる。そろそろお夕飯も出来るわよ」

「うん……」

この家に帰ると、私は美凪からみちるになった。

母は、私をみちるとしてしか認識していないのだ。過去にあった悲しい出来事が、母を現実の世界にいるよりも夢の世界にとどまり続けることの方を選ばせたのだった。

その原因の一端に自分もあることが分かっていたし、大好きな母の夢を砕くようなことをしたくなかったから、私はその母の夢を受け入れることにしたのだった。

けれども、やはり寂しかった。大切な人に自分……、美凪という存在が認識されていないことが。

美凪とみちるを結んでいるのは、遠野という姓だった。もともとのその持ち主である父は既にこの家にはいなかった。新しい仕事先に向かう父が「一緒に来ないか」と声を掛けてくれたときの寂しそうな表情は今でもはっきりと思い出すことが出来る。

家の外では、確かに私は美凪……、遠野美凪という人間だった。けれども、家では私はみちる。その違いは絶対的なものであったけれど、出来るだけ私はそれを感じたくなかった。だから、外にいるときもなるべく、名前よりも名字で呼ばれることを望んだ。「おはよう、美凪ちゃん」と呼ばれるより「おはよう、遠野さん」と呼ばれる方が安心できる。私が、父の血を引く人間ということが、それによって再確認出来るのだ。そして、私という人間は、幻ではなくここに実際にある自分自身に間違いないということを教えてくれるものであったから。

だが、そうやって外の世界でも「美凪」が遠のくたびに、どこかでその名前自体の存在価値が薄れていってしまう危惧も感じていた。「みちる」が母の作りだした幻なのだとしたら、それと一心同体の「美凪」もまた幻になってしまうのではないかと……。

私は、父が付けてくれたこの美凪という名前が大好きだった。この町から見える海を見ていると、どこか心が落ち着いてくるのが分かる。

全ての生命は海から生まれてきたのだという。そうだとすれば、美凪と名付けられた私は、その大いなる故郷に、他の人よりも少しだけ近くにいる人間ということにならないだろうか。

その名前が、薄れていってしまうことは、やはり悲しいことだ。

妹となるはずだったみちるを待ち望んでいる気持ちは、私だって変わらない。

だけど、母がみちるを望み、私がみちるを演じればそれだけ、美凪という存在が薄れていってしまう。そのまま続けていけば、結局どちらもなくなってしまうだろう。それこそ、海中にある泡沫のように。

誰か、そんな悲しみの連還から私を解き放ってくれる人はいないのだろうか。

そんな時、家に飾ったままになっている一枚の絵を思い出した。

母がみちるを身籠もったとき、父が買ってきた絵だった。

そこには、何故か悲しみの表情で空中に浮かんでいる、羽根を持った少女の姿があった。不思議なことに、その表情が悲しみであることは他の人にはあまり分からないみたいだった。

今改めて、その絵に向かい合ってみる。

すると、その絵が自分にこう語りかけてきたような感じがした。

「どうしてそんなに悲しんでいるんですか?」

「わらわの、悲しみが分かるのか……?」

「そんな悲しそうな目を、今までに見たことがないです」

「そうか、大切な人を失うということは、自分自身を失うよりも悲しいことなのだ」

「大切な人を、失う……」

「そう。幸せというのはどこにあるものなのだ?それをわらわに教えてはくれないか」

「幸せのある場所ですか?」

美凪には答えることは出来なかった。美凪にとっても、それは失われたものであったからである。しかし、この少女の沈黙に耐えられず、美凪はこう抽象的に答えた。

「やはり、大切な人のいる場所ではないでしょうか。たとえ、その人が苦しんでいたとしても」

「わらわにも、大切な人がいた。だが、彼はわらわのために傷を負い、死んでいった。それでも、幸せな場所はあるというのだろうか」

「でも、その人にとって、あなたがいるこの世界はきっと幸せな場所であると思います。だから、あなたは悲しみ続けることはないのではないでしょうか」

「そう、思うのか……。それにしては、そなたも悲しい表情をしておる」

「はい、大切な人を取り戻すことが出来ないのですから……」

「失いたくはないのだな」

「はい……」

「そうか。もう何度も働きかけては効がなく、諦めかけておったのだが、もう一度だけ賭けてみることにするか。そなたには、余人とは違ったものがあるようにも見える」

「……」

「頼んだぞ、そなたの名前は?」

「……美凪、です」

「みなぎ、か。いい名前じゃな」

そう言って、少女の意識は美凪の中から消え去った。

気付くと、目の前にその少女の絵があった。表情は変わらぬままであったけれども、前とはどこか違うように感じられた。

少女の持っている羽根が、その数を減らしていたことまでは美凪には気付かなかった。

「みちる、ごはんですよ。今日は、みちるの好きなハンバーグよ」

「はい、お母さん」

台所の方から掛けられた声に答え、美凪はそちらへと向かっていった。

誰にも見られることのない場所にある少女の背中から、白い羽根が解き放たれた。波を漂うかのようにゆらりと空中を揺れ、地上へ向かってゆっくりと降りていく。雲の間を抜け、青空を背景にして到達したのは、まだ誰の手の届かない場所であった。

太陽の光を受け、その羽根が光った。その瞬間、羽根はもともとこの場所には存在しなかったかのように消え去った。

そして、一つの存在を生み出した。

夢の中に安住しようとすることは、責められるべきことなのだろうか。

夢というのは、願いでもある。その願いの力が強くなり、ついには夢が現実を変える力となる。

それでも、夢の中にいることは許されないことなのだろうか。

どんな夢も、いつかは覚めるときが来る。その時、幸せにいられるだろうか。

それが、一番大切なことではないのだろうか。

人を幸せにするために、悲しみの中から生まれてきたもの……。それが今、この町に降り立った。果たして彼女は、天使の末裔なのであろうか。


その日は、最後のあの日と同じように暑い夏の盛りだった。

そこが自分の楽園であるかを主張するかのように、蝉がけたたましい声で鳴いている。時々やってくる列車や車の音もそれにかき消されてしまいそうであった。

そんな騒がしさから逃れようと離れてくると、そこには駅がある。待合室では静かに扇風機が回り、微かな涼風を与えてくれている。蝉の鳴き声も、ここではゆっくり流れる時間の背景のように落ち着いて聞こえる。

美凪は、いつものように駅にやってきた。

もう帰ってくることはないと分かっていながらも、町の玄関となるこの駅で駅長を務め、自分にいろいろなことを教えてくれた父を迎えに来るために、いつものようにこの場所に足を運んできたのだった。

駅は多くの出会いを司る場所である。だから、駅に来ればきっと大切な人にも会うことが出来る。美凪は心のどこかでそう思っていた。

この日、美凪は一人の少女に出会った。

そろそろ日が傾き、ひたすら白かった太陽が赤みを帯びてこようかという時間だった。夏の日は長い。時刻的には夕方といってもよい時間であったが、日差しはまだ強くこの小さな駅前広場を照らしていた。

美凪が気が付いたのは、駅舎の脇にあるベンチに座っている女の子の姿だった。年の頃はそう……、六歳くらいだろうか。足をぶらぶらとさせながら、遠くを見たり、足元を見たりしてどこか不安そうにたたずんでいる。この町では見かけたことのない子だった。

耳の上あたり、二ヶ所で束ねた髪が、そんな少女の動きに呼応して時々揺れている。

美凪の心のどこかで、直感的な反応を感じた。

正確なところは分からないが、生き別れだった旧知の人間に期せずして出会ったような、そんな感覚だった。

少女は、何かをここに運んできたのだろうか、それとも何かに運ばれてきたのだろうか。

それでなくても、居場所を失ってしまったようなこの少女の様子に、放っておけないものを感じた美凪は、なんとかしてこの子に話しかけてみようと思った。

だが、一体どういう風に?

美凪自身も「知らない人に声を掛けられても、相手をしてはいけない」と言われている。まだこの子にとって自分は「知らない人」であることは間違いない。どこか怯えているようにも見えるこの子を怖がらせてはいけない。美凪はそう思った。

それは、扉を開けてしまうことへの恐れのようなものでもあった。

扉の先に変化が待っていて、それはおそらく美凪にとって望ましいものであるのだとしても、開けること自体に得体の知れぬ恐れを感じる、そんな感覚である。

迷いながら美凪は、ある一つのことに気が付いた。

最初は、言葉でなくてもいいのではないだろうかと。偶然であったが、美凪は雑貨屋でたまたま買ったシャボン玉のセットの存在を思い出した。もし今日も駅でひとりぼっちの時間を過ごさなくてはならないのだとしたら、その時に退屈しのぎになりそうな……、そう思って買ってきたものだった。柔らかいプラスチックの容器に入った石鹸液と、先の開いたストロー。

スカートのポケットの中に、それが入っているのを思いだした美凪は、女の子から見える位置でそれを取りだした。

女の子は、そんな美凪に気が付いたのか、こちらの方に視線を向けている。

今がチャンスかもしれない。

美凪は、努めて表情を変えないようにしながらも、期待を込めて口にしたストローから優しく息を吹きだした。

小さなシャボン玉が無数に現れ、ゆっくりと空に向けて浮かんでいった。

「わぁ……」

そんな声が聞こえたような気がした。美凪が想像していたとおり、それは可愛らしい声だった。

もう一度ストローの先を石鹸液に浸す。

そして、再び、シャボン玉を空に放った。

夏の日差しを浴びて、いくつもの色に輝いていた。

「わぁ、きれいだね……」

ベンチに座っていた女の子が、美凪の傍らに来ていた。そして、そう美凪に話しかけてきたのだった。

「こんにちは」

美凪は、女の子にそう挨拶した。そう、始まりは挨拶から。この町へ、私のところへようこそという意味を籠めて。

「うん、こんにちはっ」

美凪自身が失いかけていた笑顔がそこにあった。その笑顔は何でも包み込んでしまいそうな優しさを持っていた。だから、美凪も自然に笑顔になった。

「これは、シャボン玉っていうのよ。えっと……」

「あっ、わたしの名前だね、うんとね、わたしは、みちるっていうんだよ」

「みちるちゃん……?」

生まれてくるはずだった妹の名前……、それを聞いて美凪の表情がほんの少しだけ動いた。けれども、この子の姿を見かけたときから、それをどこかで予期していたような気もする。

「うん。お姉ちゃんの名前は?」

しばらくの沈黙。私の名前は、何なのだろうか……。

私が生きていく場所での、私の名前は……。

しばらくの躊躇のあと、こう答えた。

「……美凪っていうの。宜しくね」

「うん、美凪、よろしく」

「みちるちゃんもね」

「ううん」

「えっ」

「わたしは『みちる』だよ。『みちるちゃん』じゃなくて」

「ふふっ、そうね。みちる」

「うんっ」

二つの笑顔がそこにあった。

そして一つの出会い。

奇しくもこの場所は、美凪の父と母が、最初に出会った場所でもあったのだった。

美凪とみちるは、すぐに仲良くなった。

シャボン玉から始まった二人の時間。みちるも美凪に教わって挑戦してみたが、どうしてもうまく飛ばすことが出来なかった。

割れてしまったシャボン玉から弾けた石鹸液が顔にかかり「わぷっ」と困った顔をするみちる。手に持ったハンカチで、それを優しく拭き取る美凪。

二人の時間はそんなところから始まった。

まだこの町を知らないみちるを、美凪はいろいろなところに連れて行った。

特に名所の類もない、海辺の小さな町ではあったが子供たちにとってはかけがえのない遊び場の類はいろいろな場所にあった。

「みちる、お腹が空かない?」

「うん、ちょっと」

「じゃあ、何かお菓子でも買いましょうか」

「お菓子、大好きだよ」

「じゃん」

美凪が大げさな仕草でポケットの小銭入れを取り出す。

「今日はお小遣いの日なのでした。だから、みちると一緒にお菓子を食べることに決定です」

「やった!」

堤防に沿った小さい店の中に、二人は入っていった。

百円玉でお釣りが来るようなスナック菓子を買い、店の前の自動販売機でジュースを買う。

そして、堤防の上に登り、並んで腰を下ろす。

「美凪、風が気持ちいいねぇ」

「そうね。海の風はいつも気持ちいいよ」

「お菓子も美味しいね」

「でも、あまり食べ過ぎないようにしないとね」

「うん」

「いつかは、お菓子の代わりに、お弁当を持って遊びに行きましょう」

「美凪、自分でご飯が作れるの?」

「えっへん。ちょっとだけだけどね。みちるは、何が食べたい?」

「えっとね、みちるの好物は……、ハンバーグっ!」

「了解っ。その時までに作れるように訓練しておきます」

「やった、楽しみ」

そんな二人の会話を、静かな海が見守っていた。

「ほら、美凪。見て見て」

「どうしたの?」

「小さな魚がいっぱい泳いでるよ」

「あ、本当……」

「あれ、これは魚じゃないみたいだけど。えいっ」

みちるが水の中に手を入れると、驚いた魚が散っていく。

「んにゃ? なんか変な感じ」

イソギンチャクに触れたみちるがそんなことを言っていた。

「それも生き物だから、あんまり驚かせちゃだめだよ」

「うん、わかった」

みちるは、また別のものに興味を持ったのか、磯辺を軽々と飛び跳ねていく。

「危ないから気を付けてね」

「うん。美凪も、早くおいでよ、ほら、ここにも……」

穏やかな海を背景に、二人の時間が過ぎていった。

「おおっ、賑やかだねぇ……」

みちるが率直な感想を洩らした。

この日は、町はずれの高台にある神社で、年に一度の祭りが開かれている日だった。

普段はあまり人が来ることのない神社も、多くの人出で賑わっていた。

「そうだね。みんな楽しそう」

「美凪も、楽しそうだよ」

「うん、楽しいよ」

「浴衣姿の美凪も、可愛いオーラをいっぱい出しているみたいだし」

初めて着る浴衣を、そんなみちるらしい表現で褒めてもらったのが嬉しかった。

「ぽ……」

「あ、美凪、赤くなった。きゃはは」

終始楽しそうにしているみちると一緒にいて、美凪も楽しくなった。

「みちるも、浴衣を着てくればよかったのに」

「うーん、でもわたしには浴衣はちょっと似合わないかも」

「そうかな」

「うん、残念だけど、美凪の可愛いオーラに負けちゃうのも悔しいから、みちるはいつものみちるでいいよ」

「うーん、そうね。さ、何か食べに行きましょう」

「えっと、焼きそば食べたい。あと、お好み焼き」

「はいはい」

賑やかな祭囃子が、二人の時間を更に引き立てていた。

みちると一緒にいるとき、美凪は美凪でいることが出来た。

家に帰ると、美凪はみちるにならなければいけない。そうでないと、母は自分のことを認識してくれなかったから。

母は、夢の中にいるのだといってもよかった。現実に目を向けることが出来なくても、夢の中で幸せを纏うことが出来ればそれでもよいのではないか。母に少しでも幸せを与えることが出来るのだったら。

大好きな父はもういなくなってしまった。だから、美凪にはもう母しかいないのだ。そんな母を悲しませることがどうして出来よう。

そのためには、美凪はみちるでもあることを受け入れるしかない。

そんな美凪が、美凪でいることが出来るのは、みちると過ごしている時だった。

美凪と同じように家庭のことを話したがらないみちるだったが、彼女と一緒にいる時間は、そういったものを抜きにしても楽しい、幸せな時間だった。

だが、みちるの笑顔を見ながら、生まれてくるはずだった妹と同じその名前を心の中で反芻するとき、自分も夢の中にいるような奇妙な浮遊感を感じた。

仮にそれが夢だったとしても、その中にいることを誰に責めることが出来るだろうか。夢というのは、願いでもある。幸せを求めて願うことは、果たして責められるべきものなのだろうか。

どんな夢も、いつかは覚めるときが来る。その時、幸せにいられるか、それが一番大切なことなのではないだろうか。

みちるとの楽しい日々が続いていた。

時には喧嘩をすることもあったが、常に美凪はみちるのよき理解者であり、親友であった。そして、美凪にとってのみちるも同様であった。駅で、そしてこの町のいろいろな場所で、美凪はみちると一緒に時間を過ごした。

最初のきっかけとなったシャボン玉遊びを、みちるは今でも続けていたが、何故かいつまでたっても上手く飛ばすことが出来なかった。

遠くを見るような表情で、美凪がシャボン玉をふわっと空に向けて飛ばす。それを見て、みちるも飛ばそうとするのだが、いつもストローを離れる前に弾けてしまい、飛び散った石鹸液を浴びたみちるが困った表情をする。それを苦笑いしながらも優しい表情で見つめる美凪。

そんな日常が続いていた。


そして数年後のこと。

おそらく、美凪がみちると過ごした場所の中で一番長い間一緒にいたのはこの駅だったであろう。始まりの場所でもあった駅が、その役割を終えようとしていた。

美凪たちの遊び場にもなるくらいであったから、それほど賑わっていた場所でもなかったのだが、実際のところ、この鉄道路線の経営はもっと深刻であったらしい。

父の働いていた場所、そんな父を迎えに行った場所。父の旅立っていった場所……。

そして、みちるに出会い、同じ時間を過ごした場所。

ある意味では美凪にとって心の拠り所でもあった駅が、一つの役目を終えようとしているのだった。

多くの物を、そして心を運んできたこの路線が、廃止になることが決まったのである。

皮肉なことに、普段は地元の人間からも見向きもされていなかった鉄道が、にわかに多くの人の注目を浴びることになった。

学校が夏休みに入る頃、各地からその最後の姿を見ようと、多くの旅人が訪れた。そんな多くの人たちが、そういったものとは関係なく普段と変わらぬ姿を見せる海を眺めながら、この町をそのまま通り過ぎていく。

美凪とみちるにとって世界のほとんどであるこの町のことを、彼らが思い出すことはおそらくないであろう。

そして最後の日、美凪はみちるを連れて駅のホームで列車を見送っていた。普段はもう解散した後である時間なのだが、この日だけは他の多くの人と共に最後の列車が駅を出ていくのをホームから見送ることにしたのだ。

二両編成の列車は、立ち客が出るほどの混雑になっていた。これほどまでに混雑した列車を、美凪は見たことがなかった。普段から多くの人が利用していれば、この町を多くの場所と繋ぐこの鉄路が廃止されることもなかっただろう。

町の人たちも、今日ばかりは多くが駅に列車を見送りに来ていた。

普段は朝と夕方しかいない駅員が、そんな人々を気遣いながら旗を振って出発の合図をした。

星の輝き始めた夜空に、最後の警笛が鳴り響いた。重厚なエンジンの音を立てて、列車が動き始める。その最終列車は盛大に見送られて嬉しそうにも見えたし、この町にやってくることが二度とないことを知って悲しんでいるようにも見えた。

やがて、赤い尾灯を残して、列車は闇の中に消えていった。

祭りの後のように構内は静かになり、町の人たちも、ひとり、ふたりと帰り始める。

ほどなく、ホームの人の姿も疎らになった。

「いっちゃったね……」

その寂寥感がわかるのか、みちるが静かな声でそう言った。

「うん……」

一転しての静寂の中で、美凪がそう答える。

「この駅、どうなっちゃうのかな?」

「まだわからないみたい。でも、すぐに取り壊されることはないって聞いたけど」

「じゃあ、もう少しの間だけ、美凪とはここで遊べるね」

「そうね」

だが、駅は人がいて、列車が来てこそのものではないかと美凪は思っていた。そんな美凪は、半ば独り言のように、列車の過ぎ去った線路の方を見ながらこう言う。

「最後になって盛大に見送られるよりも、いつもみんなに見守られていた方が幸せだったはずなのに……」

「そう、だよね……」

寂しげに点灯しているホームの明かりが、薄い影を作りだしていた。

美凪とみちるは、名残を惜しむように空の星を見上げていたりしたが、やがてそれぞれの家と帰っていった。

その翌日も、駅のたたずまいは変わっていなかった。

列車がもう来ないという事実を思い出しさえしなければ、その様子は普段とほとんど変わらないともいえた。

いつものように、美凪が駅前広場にやってくると、先に来ていたみちるが駆け寄ってくる。

そして、ベンチに腰を下ろしながら本を読んだり、シャボン玉づくりに挑戦したりして時間を過ごす。

夏の日差しは相変わらず強かったけれども、それは二人の時間を損なうものではなかった。

誰もいなくなった駅に加え、まだ線路の剥がされていない路盤が美凪たちの新しい遊び場になった。

列車の走っていた線路の上を、駅から少し歩いていくと、その開けた場所に到達する。反射する二本の光が、夏の暑さを象徴していた。

今までは立ち入ることの出来なかったその場所が、実は景色のよいところだと分かったのは、この廃線が美凪とみちるに残した遺産といえるのかも知れなかった。

少し高くなった場所を走る線路からは、穏やかな入り江と、それを抱き込むように広がっている町の様子がとてもよく見渡せた。同じ景色を、今まで列車の中から見ることもあったのではあるが、それとは微妙に違っていた。海からの風、そして空からの日差しを直接感じることが出来るためであろうか。

「美凪、ほら、鳥が元気そうに飛んでるよ」

漁港のあたりを飛んでいるカモメが見える。その高度はちょうど自分たちの立っている場所と同じくらいだろうか。

明るさに満ちたその光景は、二人の名前の由来そのものといえるようなものであった。

「あ、これを持ったままでした」

美凪が、例のシャボン玉のセットを持っていることを思い出した。

「ここから飛ばしてみようよ」

「そうね」

ストローを手に取った美凪が、それを口に当てて優しく息を吹き出す。

最初は小さなシャボン玉がたくさん、そして、次第に大きくなったものが一定の間隔を置いて、夏の青い空へ向かって飛び立っていく。

空に少しでも近い場所から飛ばしたそのシャボン玉は、どこまで昇っていくことが出来るのだろうか。

日差しを受けて、いろいろな色に輝いている。

「やっぱり、美凪は上手だよねぇ……」

「褒められちゃいました……」

「でも、どうしてみちるはいつまでたっても上手くできないのかなぁ……」

「そうだよね。でも、その分も、私が飛ばしてあげるから」

「うん」

空の向こうを目指していったシャボン玉たちが、いつの間にか姿を消している。彼らは空にいる誰かに、まだ知らない町にいる誰かにその姿を見せることが出来るのだろうか。

結局、この線路が残していったものは何だったのだろうか。

この町への足は、鉄道の代わりに走ることになったバスが担うことになった。

一時間に一本というバスの便は、数の上では増えることになったといえるのだが、小さなバス一台で足りてしまうほどにこの道を往く人の数が減っていたという事実も示していた。

何日か後に、そのバスを見かけたことがあったが、真新しい車の中に、乗客の姿は疎らだった。

この線路が最後に運んできたのは、不思議な力を持つ一人の青年だった。

あれからちょうど二十二年後の出来事であった。

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