あの町の名前を宗弘が再び思い出すことになったのは、それから三年ほど後のことであった。
大学を卒業した宗弘は、故郷に近い場所に就職を得た。
故郷の町を含む地方全体を管轄する、国鉄の鉄道管理局に採用され、ある地方都市の大きな駅で、改札や集荷などの業務に携わった。
一年ほどたち、別の駅へ異動になった。
普段は姿を見ることもない名目上の上司に呼ばれた宗弘は、管理局の大きなビルに赴き、その一室で一枚の辞令を受け取った。
そこには、簡素にこれからの職場となる駅と、管理局長の名前、そして任命される宗弘自身の名前が書かれていた。
今の駅での勤務にようやく慣れてきたところだったので、多少のとまどいは隠せずにいた宗弘だったが、その赴任先の駅名を見て、心が少なからず動くのを感じた。
一礼して退室し、誰もいない廊下で改めてその辞令に目を向ける。
見知らぬ土地への赴任は不安が伴うものと思っていた宗弘だったが、その駅名に見覚えがあるのが分かり、多少、安心した。
何年か前の夏休みに、帰省の途中でふと気まぐれを起こして立ち寄った町を思い出す。その町の名前と、辞令に書かれた駅の名前が一致していたのだった。
海の景色、夏の日差し、そんなものが思い出された。そして、妙な縁で町を案内してくれた一人の少女の姿も浮かんだ。彼女は、今どうしているのだろうか。
一つの転機を、宗弘は感じたのだった。
独り身であったから、今の駅での業務の引き継ぎ以外には異動に関して大きな問題はなかった。
他の異動者も含めて、それなりに盛大な送別会が開かれ、その翌日に多少酒の残った体で新しい土地へ出発した。制服姿のまま車中の人となり、目的の駅まで行く列車に乗るために、かつて途中下車したあの大きな駅までやってきた。
駅の喧噪は三年前のあの時とほとんど変わっていなかった。本線のホームには、特急列車が到着して多くの客が乗り込もうとしている。一方でそこから少し離れたホームでは、宗弘の乗ることになる二両編成の気動車が、当時とほとんど変わらぬ様子で静かに出発を待っていた。半室の荷物室に段ボールや郵袋が積み込まれているのもあの時と同じだった。
エンジンのアイドル音が微かに聞こえる車内に腰を落ち着ける。
相変わらず、乗客の姿は少なかった。発車間際になっても、高校生らしい男女が数人乗り込んできただけで、この駅の騒がしさとは一線を画すような閑散を伴っている。
発車ベルが鳴り、列車はゆっくりと出発した。
(再びこの線路を行くことになろうとは……)
その偶然を、宗弘はかみしめていた。何か、引き寄せられるようなもののある町であったのは確かだが、実際にそうなるとはあまり想定していなかった。あの時に見た海は、まだそのままなのだろうか。それとも、今の季節の海は、夏とは違う姿を見せてくれるのだろうか。
列車は、新緑の中を静かに走っていた。
やがて本線に別れを告げ、山中に入っていく。
やや長いトンネルで山を抜け、しばらく走ると、海が見えてきた。
目的の駅は近い。今度は旅人としてではなくこの町を訪れることになるという事実を、宗弘は改めて認識するのであった。
ポイントを渡る列車が大きく横に揺れた。
慎重に列車は速度を落とし、葉桜の迎えるホームに停車した。
駅のたたずまいは、三年前とほとんど変わっていなかった。
この列車で到着することは予め知らされていたのであろう、初老の駅長が何もないホームに立って、宗弘の到着を迎えてくれた。
「君が遠野くんかい?」
微かに訛りを伴った声で、駅長が声を掛けてきた。
「はい、これからお世話になります。宜しくお願いします」
帽子を取り、深く一礼する。
「そんなにかしこまらなくてもよいさ。君と私を含めて四人の小さな駅だ。まあ、家族みたいなものだと思ってくれれば」
「はい」
駅長は、そのまま列車の後尾まで歩き、車掌と話を始めた。極めて日常的な会話のようだった。
多忙であった前の駅での勤務と比べ、確かに様相はかなり異なるようだった。上り列車を待った後、宗弘の乗ってきた列車は出発した。
「まあ、少しこっちで休むといい。話しながらこれからのことも説明しよう」
駅長が駅舎の方へ宗弘を案内した。事務用の机に、書きかけの書類が開かれたままになっている。他の場所から引いてきた椅子に、宗弘は促されて腰を下ろす。
「ご覧の通り、小さな駅だ。大した仕事があるわけではないんだが、逆に今までとは違って全ての業務を見なければならない」
「なるほど」
「乗車券の発売、改札、信号の確認、荷物の授受、安全点検。主立った仕事はそんなところだな」
「はい」
「あと、列車を待っているお客さんとの世間話、これは重要だ」
そう言いながら、駅長は大きな声で笑った。
「小さな町だから、すぐに町の人とは顔見知りになる。新参者の君は、しばらくは好奇の目で見られるかもしれないが、少し我慢してくれ。すぐになじめると思うから」
「わかりました」
「駅前にある雑貨屋と旅館には挨拶に行っておいたほうがよさそうだな。それと、住む場所は……」
「あ、指示を受けてきました。地図ももらってきたのですが……」
宗弘は内ポケットから茶色の封筒を取りだし、中の紙を開いた。覗き込むように駅長がそれに目を向ける。
「あのアパートか。ここからだと商店街を抜けて歩いて十分くらいだな」
「なるほど」
「荷物は届いているのか?」
「いいえ、明日だそうです。ですから、今日は仮眠室でもお借りしようと思っているのですが……」
「それがだな……」
駅長は困ったような顔を宗弘に向けた。
「どうかなさったのですか?」
「まあ、分かると思うが、この線には夜行列車なんか走っていないから、宿直なんていうのは実質的にないんだ」
「はぁ」
「そんなわけで、仮眠室などというのは、名目上はあるんだが、実際は物置のようなものだ」
「えっ?」
「というわけだから、申し訳ないのだが、どこか別の場所を当たってもらえると助かる」
「でも、私はこの町に知り合いなどいませんし……」
「うちに来てもらってもいいのだが、それだと君も気が休まらないだろう。駅前に旅館があるから、今日はそこに泊まるといい」
「あっ……、はい」
その旅館は、確かに宗弘の記憶の中にあった。三年前に出会ったあの少女は、ここに住んでいたはずだ。「住んでいた」と表現したが、それは今でも進行形のままなのであろうか。
「こっちの都合だからな」
そう言って、駅長は財布から一枚の札を取り出した。
「これだと多分足らないと思うが、悪いけど差額だけ負担してくれ」
「いいのですか?」
「ああ。言ったように、仮眠室が使えないのはこっちの都合だからな」
「わかりました。お言葉に甘えます」
「うむ、それでよい。おっと」
時計を見た駅長が立ち上がった。
「そろそろ上りが来る。この列車が行ったら、君は今日は上がってもいいぞ。明日からしっかりと頼む」
「はい」
「見ての通りの小さな駅に少人数だから、戦力として期待している」
「わかりました」
結局、降りてきた数人の乗客の切符を回収しただけで、この日の宗弘の勤務は終了したといってよかった。
駅舎の方を振り返ると、夕日が建物を赤く染めていた。
その赤さにどことなく安心感を持った宗弘は、多少の期待を籠めながら駅前旅館の方へと向かったのだった。
旅館は、三年前とほとんど同じ姿であった。
遠慮がちに入り口のドアを開けて中に入ると、それに連動した鐘の音が奥の方で聞こえてきた。
和装の中年の女性が現れ、宗弘は今日宿泊したい旨を告げた。
「ええ、部屋は空いておりますよ。すぐにご案内いたします」
ほとんど荷物もないので、宗弘はそのままこの女性に導かれて部屋に向かう。
六畳くらいのこぢんまりした部屋に案内された。
「すぐにお茶などをお持ちいたします。ゆっくりしていって下さい」
そんな簡単な言葉を残して、彼女は立ち去っていった。
そして、その言葉に違うことなく、すぐに新しい足音が聞こえてきた。
部屋を軽くノックする音が聞こえた。
「失礼します。お茶をお持ちしました」
その声は、先ほどのものとは違っていた。もう少し若い女の人の声……。宗弘の記憶のどこかにあるもののように感じられた。
「いらっしゃいませ」
やはり和服を着たその女性は、軽く一礼した後に顔を上げた。
その視線が、宗弘の向けていたものと重なる。
その瞳に、そして雰囲気に確かに宗弘は見覚えがあった。
「ひょっとして……」
宗弘の期待に応えたのは、笑顔だった。
「遠野さん……、宗弘さんですか?」
「ああ。君は、やはり康子さん……?」
「はい、そうです。またお会いできるなんて……」
お茶を用意している間、宗弘は今日ここにやってきた事情を説明した。
「すると、宗弘さんはこの町に住むことになったんですか」
「ああ、とりあえずはそういうことになる。改めて、宜しくお願いしたいんだけど」
「もちろんですよ」
宗弘の差し出した手を、康子がしっかりと握った。お互いの体温が心地よく相手に伝わった。
この町の物語が、もう一度始まったのだった。
例えば駅長にとって、新任の駅員と駅前旅館の娘が知り合いだったという偶然は驚きであった。昔に一度だけこの町を訪れたことがあるという話は、宗弘をこの駅の新しい勤務と、この町での生活にとけ込ませるのに少なからず有用な役割を果たした。
この駅での勤務はそれほど激務ではなかった。列車の数も多くなかったし、客が殺到する時間帯というものがあるわけでもない。この町にふさわしく、どこかゆっくりと時間が過ぎていくように思われた。
初めてこの町を訪れた乗客に宿泊場所を尋ねられ、駅前の旅館を勧めたこともあったし、そんなお礼に康子が駅に顔を見せることもあった。
日常的にも顔を合わせる機会があったこともあり、二人が単なる知り合いからその先の関係へ進んでいくことは自然な成り行きだった。
そして、それから数年後、宗弘と康子は結ばれたのだった。
幸せは、順調に積み重なっていくはずだった。
宗弘と康子の間にある、様々なものが、それを示していた。
二人の新しい生活が始まってほどなく、この町に小さな住宅団地が出来た。
宗弘にとっても無理のない計画で買うことの出来る、小綺麗な一軒家の家だった。
勤務地である駅や、いろいろな買い物をするための商店街からもそう遠くない、よい場所に建てられたその家を二人で見に行ったとき、既にそこでの新たな日常を二人は心の中に思い描いていた。
もう一つ気に入ったのは、海からもそう離れていないことだった。
潮風はいつの季節でも気持ちよくこの町を吹き抜けていたから、そんな海の香りと共にある生活を、宗弘は喜んだのだった。
初めて持つことの出来た自分の家、そしてそこを守ってくれる妻、美味しい手料理をつつきながら、楽しい会話の弾む毎日。そして、時々二人で見に行く海の景色。
ささやかではあるが確実な幸せがそこにあった。
そして、その中で、もう一つの嬉しい出来事が訪れた。
「病院に行って来た?どこか悪くしたのか?」
「いいえ、そうではありません。悪くないことを確認してもらいに行ったんです」
「悪くないのを確認に?よく理解が出来ないんだが……」
康子が、若干うつむきながら、ささやくような声で言った。
「その……、おめでたですって」
「なにっ? それは……」
「はい……。宗弘さんの子が私の中に……」
「そうだったのか、やったな、康子」
康子の手を握って、嬉しそうに上下させる宗弘。その喜びは、とても言葉だけでは表現しきれるものでなかった。
それから後、日々大きくなる康子のお腹を見ながら、守るべき家族がもう一人増える事実に感動していた。
男の身であるから、康子ほど実感は伴うことがなく、それが時に宗弘に焦りを感じさせることもあったが、臨月が訪れ、果てに病院の一室から元気な泣き声が聞こえてきたときには、本能による感動から、自然と涙を流したのだった。
年末の慌ただしさがこの町にもやってきていた。
商店街では年始に向けた飾りが準備され、人々もおせち料理の仕込みや、遠くから帰ってくる家族を迎えるための支度に追われていた。
列車から降りてくる乗客たちも、どこか先を急いでいるように感じられる。
そんな忙しさから少しだけ逃れようと、宗弘は勤務後の帰路に少しばかりの寄り道をしていた。
町の中心から少し離れると、そこの忙しさが嘘のような、変わらぬ穏やかさが支配していた。
かつて康子に連れられてきた海岸の小さな砂の丘も、その穏やかさの中にあった。
風はそれなりの冷たさを伴っていたが、日差しがそれをかなり和らげていた。
日溜まりの中にあるような海は、静かにその輝きを見せていた。ゆっくりと港の方に戻ってくる漁船には、正月を越えるために充分なだけの漁獲が積まれているのだろう。
「娘の名前もちゃんと考えてやらないとな……」
海を見ながら、宗弘はそう独語した。
ここに来れば、何かいい名前を思いつくと思った。
空をゆったりと飛んでいるカモメたち。海に浮かぶ漁船。そして穏やかな日差し……。
警笛が鳴り、駅を出た列車が少しずつ速度を増しながら次の町へと向かっていった。
この町で康子に出会い、この町で授かった新しい命。
だから、この町にふさわしい名前にしたいと思った。
美しく凪いでいる海……。
「美凪、なんていうのはどうだろうか?」
言葉の響きも悪くない。
「な、康子。『美凪』っていうのはどうだろうか?」
「どうしたんですか、帰り際にいきなり?」
勢いよく玄関の扉を開けて、待ちきれない勢いで居間に飛び込んできた宗弘。
「この子が目を覚ましてしまいますよ」
慈しむような視線を向け、静かに座っていた康子が、宗弘の方に顔を向けた。
「そう、その子の名前だ。いろいろ考えていたんだけど……」
「思いついたんですか?」
「そうだ。今言ったよな、そう、『美凪』ってどうだろう?」
「みなぎ、ですか?」
「俺たちを引き合わせた、この町の綺麗な海にちなんで」
「どういう字を書かれるんでしょうか」
「美しい凪と書くんだ。そんな穏やかで綺麗な子に育って欲しい。一緒にいて心が落ち着くような、そんな思いやりのある子になって欲しいと思う」
「いい名前ですね。私も、気に入りました。早速、明日にでもお役所に届けに行きましょう」
「そうだな」
「よかったわね、美凪。お父さんに素敵な名前を頂いて……」
そんな美凪は、安心しきった寝顔を二人に見せていた。
最初に宗弘からそのことを告げられたとき、康子は不安を隠すことが出来なかった。
ずっといることになると信じていたこの町を、離れることになるかも知れないと思ったからだった。
「そんなに悲しい顔をすることはない。話は最後まで聞くものだ」
「宗弘さん……」
隣に座っている美凪が、康子の表情を見て心配そうな顔をして見ている。
「ほら、美凪も心配そうにしているじゃないか」
「でも……」
「来月から、確かに勤務する駅が変わった。でも、それはここからそう遠くはないんだ」
「そうなんですか」
「二つ隣の……、何市というのかは忘れたが、そこだから、この家から充分に通勤することが出来る。東京のサラリーマンとかに比べたらこれでも天国だと思うぞ」
「この町から引っ越さなくてもいいんですね」
ちょうど、企業戦士とか単身赴任とかという言葉が身近になっている時代だった。
働くだけ生活は豊かになる時代で、人々はそんな豊かさを追い求める一方で、何かを失うのではないかとどこかで同時に心配もしていた。
だが、それは遠い都会の出来事であり、新聞やニュースの世界の話なのだと康子は思っていた。だから、宗弘が「転勤」になると聞いたときには、最初にそんな悲しみに駆られたのだった。
「ああ、大丈夫。今まで勤めていた駅、あそこから毎日勤め場に向かうことになるけどな」
「でしたら、毎朝、見送りに行きます。美凪も連れて」
「そうか、それは嬉しいな」
宗弘は笑顔の戻った康子をそっと引き寄せて、優しく口づけした。
「お前たちのために、俺も頑張るよ」
「はい……」
顔を赤くする康子を不思議そうに見守る美凪。そんな美凪が、宗弘のまねをして康子の頬に自分の唇を当てた。
「ふふっ、ちゃんと子供は見ているんですよ」
「そうだな。じゃあ、この子にもしてやるか」
美凪を抱いた宗弘は、その頬に優しくキスをした。
美凪は、母親によく似た笑顔でそれに応えたのだった。
美凪が小学校に入った年、また宗弘は一枚の辞令を受け取った。
それは、自分の人生が順調に幸せの街道を進んでいることを示しているかのようだった。
早く、これを家にいる康子に見せてやりたい、そんな気持ちでこの日の勤務を終えた。
定刻通りに走っているはずの列車が、この日ばかりはとてもゆっくり走っているように感じられる。
新しい勤務地になる、この自分の町の駅に列車がたどり着いた。駅の待合室では、美凪の手を引いた康子が迎えに来ていた。
「おかえりなさい」
「お父さん、おかえり」
二つの笑顔が迎えてくれる。
「あなた、今日は嬉しそうな顔をしてらっしゃいますね」
「分かるか?」
「何かいいことがあったんですか?」
「ああ、家に着いたら話すよ。美凪も、楽しみにしててくれ」
「うんっ」
本当は今すぐにでも話したかったのだが、これから部下になる駅員たちの前であまり浮かれるのも恥ずかしいように思えた。
家に帰った宗弘は、早速居間に腰を下ろして、鞄の中から、今日受け取ったばかりの辞令を取りだしてみせる。
「戻ってこられるんですね……」
「そうだ。しかも、今度は駅長としてなんだ」
「駅長さん?」
美凪が言葉の意味が分からずに不思議そうな顔で問いかけてくる。宗弘は、そんな美凪の頭を撫でながら、優しくこう説明した。
「美凪とお母さんがいつも見送ってくれる駅があるだろう?お父さんは今度はあの駅で働くんだよ」
「うん」
「駅長っていうのはね、その駅で一番偉い人なんだ」
「偉いって?」
「駅は町の玄関だ。その玄関を守る、大切な仕事をもらったってことなんだよ」
「そうよ、美凪。お父さんが、美凪たちの住んでいるこの町を訪れる人を、出迎えるようなものなの」
「うんっ」
果たして美凪が駅長の責務をちゃんと理解していたかどうかは分からない。だが、その美凪の表情を見れば自分を祝福してくれていることははっきりとわかった。
この異動とほぼ同時にあったダイヤ改正で、県都から直通してきていた一往復の急行列車が廃止になるというニュースが伝わってきた。
駅の発車案内から、ある意味で特別の存在だった急行列車が消えてなくなるのは寂しいことではあったが、それも新しい時代の到来の姿なのだと、納得させることにした。
クリーム色と朱色の二色で塗られた、この線では一番長い四両編成の気動車が、いつもよりも多い乗客を乗せてこの駅を後にした。運転手が、宗弘の手から通票を受け取る。彼は奇しくも同期入社の男だった。
「この急行も廃止か。寂しくなるよな」
「俺は明後日からは本線の急行の運転だ。お前も駅長なんて、ずいぶん出世したよな」
「まあ、駅長ったって、こんな小さな駅だ」
「それに、子供ももう小学生なんだろう。一番可愛い年頃だろう」
「そうだな」
「そろそろ、二人目でも、どうなんだ」
「ま、それはおいおいな。お前だって、人の心配をしている場合じゃないだろう」
「ははっ、それもそうだ」
宗弘が時計を確認する。腕木信号機が「出発」を示している。夕陽が、伸びるレールを赤く照らし出している。何かを象徴するかのように。
「それじゃ、な」
「ああ」
警笛が鳴った。ゆっくりと気動車が動き始めて行く。宗弘はそれを見送りながら、さっきの同期とのちょっとした会話を反芻していた。
「二人目、か……。美凪も、妹か弟を欲しがる年頃かも知れないな、確かに」
テールランプを見送り、駅舎に戻っていく。もう少ししたら美凪が迎えに来てくれる時間だ。
夏の盛りも過ぎて、陽もだいぶ短くなってきていた。
勤務時間を終えて家に帰る道のりも、徐々に暗くなり始めていた。
「あまり暗くなるようだったら、迎えに来なくてもいいんだぞ」
そんな宗弘の手を握る美凪は、強く首を振った。
「ううん、みなぎは、大丈夫だよ。それにお父さんとお話ししながら帰りたいから」
「そうか、美凪はいい子だな」
「うん。みなぎね、お母さんのお料理の手伝いも始めるようになったの」
「そうか」
「今日のお昼ご飯、一緒に作ったんだよ。でも、お母さんのよりは美味しくなかった……」
「お母さんだって最初から上手かったわけじゃないさ。ちゃんと頑張れば、美凪も上手に出来るようになる」
「うんっ」
「美凪は、どんな料理を作りたいんだ?」
「えっとね……、ハンバーグ!」
「ハンバーグか、どうしてだ?」
「お母さんのハンバーグ、とっても美味しいから、みなぎも同じくらい……、ううん、もっと美味しいのを作れるようになって、お母さんを驚かせるの」
「そうだな、びっくりさせられるようなのが出来るといいな」
「うん、頑張るよ」
ゆっくりと家路に就く二人を、一番星が見守っていた。
「おっ、星が出てるな」
藍色と茜色の混ざった、不思議な色の空の中で、一つだけ明るく輝く星の姿があった。
「あのお星様?」
「ああ、『宵の明星』って言ってな、夜になるときに一番最初に姿を見せるんだ」
「きれいだね」
「一番星を見つけて、願いを掛ければきっと叶うって言われてるぞ」
「そうなの?」
「でも、誰よりも先に見つけなくちゃいけない」
「残念……。あ、でも、そうしたら一番先に見つけたお父さんが、お願い事、叶えてもらえるよ」
「おっ、そうか」
「お父さんのお願い事って、なに?」
「うーん、美凪やお母さんがいつまでも幸せにいてくれることだな。それと……」
宗弘は急行列車を見送るときにかわした会話を思い出す。
「美凪?」
「うん」
「美凪は、妹や弟が欲しいと思ったことはないか?」
「えっとね、みなぎは妹が欲しいかな。そうしたら、一緒に遊んだり、みなぎの知っていることをいろいろ教えてあげる」
「そうか、いいお姉さんになれるんだな」
「うん」
「そうしたら、こうだ。美凪に妹が、お父さんにはもう一人の娘が授かるようにお願いしよう」
「やった!」
「美凪も、明日から祈ってくれるか?明日から、帰り道はどっちが先に一番星を見つけられるか、競争だ」
「うん。みなぎ、お父さんに負けないよ」
「お手柔らかに頼むよ」
笑顔の美凪を見て、宗弘は改めて自分の幸せを感じた。家では、康子が食事を用意して待ってくれているはずである。
美凪の願いを叶えてやれるように、今日はいつもより康子に優しくしてやらないとな……。
闇に移ろうとする空を見上げながら、宗弘はそんなことを考えていた……。
その願いは、やがて根を下ろすことになった。
美凪が出来たときと同じ喜びが、再び遠野家にやってきたのだった。
「お医者さんの話ですと、三ヶ月だそうです」
「そうか、待望の第二子だな。また、名前を考えてやらないと」
「気が早いですよ、お父さん」
「そうだったな、まだ男の子か女の子かも分からないのに」
「えっと、女の子だったらいいな……」
「美凪は妹が欲しいの?」
「うん。そうして、お母さんと一緒に作ったお料理を食べさせてあげる」
「そうね、お姉ちゃんになるんだものね」
「うん」
「きっと、女の子だと思いますよ」
「そんなこと、分かるのか、康子?」
「ええ、理由は分かりませんけど、そういう確信があるんです。それに、名前も本当は考えてあるんです」
「そうか」
「美凪の名前はお父さんが考えてくれましたら、今度は私が最初に考えました」
「ふむ、で、その名前は?」
美凪も楽しそうに身を乗り出してくる。
「『みちる』なんてどうかしら?幸せに満ちた家に、人生になりますようにって」
「それはいい名前だ。今度は俺が両手を上げて賛成する番だな。どうだ、美凪は?」
「みちる……? うん、可愛い名前だと思う」
「よし、それじゃ決まりだ。生まれてくる子が女の子だったら、名前は『みちる』だ」
「うん、みちるちゃん、早くおいでね。お姉ちゃん、楽しみにしてるから」
康子に促されて、そっとそのお腹に耳を当てた美凪が、そう話しかけた。
これから半年と少し後には、この家の幸せはもっと大きなものになるはずだった……。
「物心の付く年頃」というのはいつ頃のことを言うのだろうか。
正確なところは分からなかったけれども、美凪にとっては、そういったものを意識し始める頃には既に父親は大切な存在となっていた。
そんな記憶を引っ張り出してくる前の父親というものは、いつも大きく暖かな存在であったし、その隣にいる母親も然りだった。
「お父さんは、お母さんと美凪のために、いつも一所懸命に働いてくれているのよ」
休みの日に父親がいなくて寂しいと美凪が言ったとき、母はそんなことを言って美凪をたしなめた。
幼心に、確かにその通りだと思ったし、少しだけ待てば父は帰ってきてくれるのだから、あまり両親を困らせてはいけない。美凪はそう思った。
そして、父が帰ってくるのが待ちきれないのなら、自分が迎えに行けばいい。そんな名案も思いついた。
「うん。そうしたら、夕方になったらお父さんを迎えに行ってあげるね」
「そうしなさい。お父さんも喜ぶわよ」
それがいつだったかはもう覚えていないが、その時、初めて美凪は父を迎えに駅まで出かけたのだった。
母の言っていたように、父はとても喜んでくれた。
自分が父を喜ばせることが出来たことが、美凪には嬉しかった。
他の駅員の人にからかわれている父が恥ずかしそうにしていた。そんな他の駅員も、美凪に優しくしてくれた。だからお父さんやそんな人たちのいる駅が、美凪はますます好きになった。
帰り道、美凪は父といろいろな話をした。学校であった出来事であるとか、仲良くなった友達の事であるとか、ひょっとすると大人にとっては退屈な事かも知れなかったが、父は楽しそうにそんな美凪の話を聞いてくれた。
そして、父も美凪にいろいろ楽しい話をしてくれた。小学校を出た後は、中学校、高校、そして大学ともっと難しい勉強をするところがあるんだということも教えてくれた。美凪もきっとそんなところに行ってしっかり学ぶようになるのかもしれないななどと、そんなことを言っていたような気がする。
父はいろいろなことを教えてくれた。空にはたくさんの星があること、海の向こうには美凪もそして父自身も知らない町や国がたくさんあり、いろいろな人がそこで暮らしていること。そんな人たちがいろいろな物語を作りだし、演じているということ。
学校の勉強で分からなかったことなども、父に聞けばわかりやすく教えてくれた。
そのおかげでよい点の取れたテストの答案を見せたとき、父は優しく美凪を誉めてくれた。そんな自分が誇らしく思えたのだった。
そんな日常の中、ある帰り道でのことだった。
父が空を見上げて一つの星を教えてくれた。
今見えたのは一番星と言って、夜空に一番最初に姿を見せる星なのだそうだ。このお星様に願い事をすれば、何でも叶えてくれるらしい。
だから、美凪は父と相談して、「妹が欲しい」とお願いすることにしたのだ。
それから毎日、夜空の星たちのことを、父はいろいろ教えてくれた。
ただの光だと思っていた星には名前があり、星たちが動物とか楽器とかの形を作っているのを「星座」というのだということも教えてくれた。
そして、父と一番星を見つける競争も始めた。
最初のうちは全然父には敵わなかったが、お願い事は二人とも同じだったから構わなかった。でも、一所懸命に夜空を見ているうち、美凪の方が先に一番星を見つけられるようになっていた。
「美凪には敵わないなぁ」
とうとう、父がそんなことを言うようになった。父を越えることが出来たようで、とても嬉しかったのを覚えている。
そんな意味で、美凪はお父さんっ子ということが出来るのかも知れない。だが、それはあくまでも比較的といったことであり、美凪は母だって同じくらい好きだった。いろいろな料理を教えてくれ、自分で布を切ったり縫ったりしてどんな服でも作ってしまう母は憧れの的でもあったのだ。
そんなはずなのに……。
幸せな家庭の中に、いや、幸せな家庭だったからこそ気付かれずに来てしまった、微かな温度差があったのかも知れない。
美凪と父が仲良く時間を過ごしているのを見て、美凪の気が付いていないところで、母はどこか疎外感のようなものを感じていたのかも知れない。
娘を可愛がる父親、父を慕う娘、そんな姿に一抹の寂しさを感じていたとして、それを表に現すことが出来るものだろうか……。
けれども、そんな母の小さな寂しさはすぐに開放されるはずだった。
他ならぬ美凪と父の願いで、もう一人の家族が加わることになったのだから。生まれたばかりの子供は、ほとんど母親に付きっきりになってしまうのだと美凪は聞いた。美凪の生まれたてのころも、父は自分の居場所がなくなってしまって困っていたと、冗談交じりに言っていた。
きっと女の子だと、母は言っていた。そうすれば美凪にも待望の妹である。そして自分たちとその妹、四人で更に遠野の家は幸せになるはずだった。
母のお腹は日々大きくなっていった。
それがはっきり分かる頃になると、既に「みちる」と名付けられた妹は、母の体の中から何かの働きかけをするようになってきた。
母に促されて、おそるおそるそのお腹に耳を当ててみると、中で確かに新しい命が動いているのが分かった。
「みちるちゃん、私があなたのお姉さんですよ。宜しくね」
そんなささやきかけに、お腹の中のみちるも確かな返答を返したように思えた。
いよいよ出産が秒読みに入った頃、父が一枚の絵を買ってきた。
その絵には翼を持った少女の姿が描かれていた。
人間が羽根を持っているなんていうのは変だと思ったから、それを美凪は父に聞いてみた。
すると、父は優しく微笑みながらこう教えてくれた。
「これは天使と言ってだな、人に幸せを運んでくれる使いなんだよ」
「そうなの、不思議だね……」
確かに、その有翼の少女は不思議に見えた。父は幸せを運ぶ使いだと言っていたが、その少女の瞳はどこか深い悲しみをたたえているように見えたからだ。
大切な人をずっと孤独な場所で待ち続けること……、遙か昔にあり、ずっと続いている悲しみ。普通なら気付くはずのないそんなものに、美凪は気付いてしまったのだった。この少女の目を見ていると、どこか吸い込まれそうになってくる。その吸い込まれた先は、きっとよくない場所であるような気がして、美凪は慌ててその絵から目を離した。
自身が悲しんでいる者が、人に幸せを運ぶことなどが出来るだろうか。
だが、物知りの父がそう言っているのだから、きっと幸せを運んでくれるのだろう。
美凪はそう信じることにした。
しかし……。
水が僅かな隙間から浸食してくるかのようだった。
揺るぎない幸せの中にあるはずだった遠野家に、衝撃的な出来事が起こった。
それを原因に、幸せだった一つの家庭が崩壊の道を歩んでいく。
それを止めることは出来るのだろうか。
止めることが出来るとしたら、それは誰によってなのだろうか。
悲しみをもたらした存在があるのだとすれば、それから開放する存在もまたあるのだろうか。
突然の出来事だった。
ある日、美凪がいつものように学校から帰ってみると、台所にいる康子が苦しそうにしてそこにうずくまっているのが見えた。
「お母さん……、どうしたの?」
「み、美凪……。ちょっと苦しいだけだから、少し休ませてちょうだい……」
美凪は慌てて布団を敷き、そこに康子を連れて行った。
康子はお腹を押さえていたから、心配だった。もし、生まれてくるはずの妹に何かあったらどうしようと。
しばらく心配しながら様子を見ていたが、母の様子がよくなる気配がない。
顔色も普段とは全然違い、どこか青白くなっているように見える。
「お母さん、大丈夫なの?お母さん……」
康子は言葉を返さなかった。美凪はどうしてよいか分からなかった。
このまま見ていても自分には何も出来ないことだけがはっきりしていた。その時、もう一人の大切な人の姿を思い出した。
「お父さんに聞いてみよう」
美凪は、康子を残して駅に走っていった。
足が早いほうではない美凪にとって、それはずいぶんと長い時間に感じられた。
ようやく駅に着くと、いつもの駅員さんが迎えてくれた。
「美凪ちゃん、そんなに慌ててどうしたんだい?」
「えっと……、お父さんを呼んで欲しいの。お母さんが……」
その雰囲気から何かを察したらしく、急いでその駅員はホームの方へ駆け込んでいく。
ちょうど列車を見送った宗弘が、美凪のところにやってきた。
「どうしたんだい、こんな時間に」
「お母さんが、大変なの……。お父さん、家に戻ってあげて……」
「何っ?」
宗弘も美凪の様子からただならないことを感じたのだろう。一刻も早く駆け出したくなった。しかし、今はまだ勤務中である。三十分後には上り列車もやってくる。
「しかし……」
「美凪ちゃんの様子を見ていると、本当にただごとではなさそうです。何かあったら取り返しが付かなくなります。駅の方は我々で何とかしますから、行ってあげて下さい」
「済まない……」
「駅長もいつも言っているじゃありませんか。駅は一人だけで動いているのではないって」
「そう、だな……」
美凪を後ろに乗せ、駅の備品の自転車で宗弘は自宅へ急いだ。
普段なら心地よく感じられる海風も、今は単なる向かい風に過ぎなかった。
がちゃっ。
急いで玄関から中に入り、寝室の方へ向かう。
果たして康子は、まだ苦しそうに腹を押さえていた。
「最初に見たときと変わっていないか?」
宗弘が美凪に聞く。
「うん……。ずっとこんな風に痛そうにしていた」
宗弘が近づいて、康子の顔色をうかがう。どうも、このまま放置しておいていいものとは思えなかった。
急いで電話に向かって駆けると、一一九番をダイヤルした。
数分後、サイレンを鳴らした救急車が来て、白衣の隊員が康子を病院へ運んでいった……。
「残念ですが……」
「そうですか……」
予想していたとはいえ、その事実は宗弘を落胆させた。単なる早産ではないかと心のどこかに望みを繋いでいたのだったが、やはりそうではなく、流産であると宣告された。
「そして、大変申し上げにくいのですが……」
「……」
「奥様は今後は子供を産むことは出来ないと思われます……」
康子が無事であったことが、不幸中の幸いだと思っていた宗弘だったが、その言葉には更に大きな衝撃を受けざるを得なかった。
美凪が心配そうに宗弘の服を引いていたが、そんなことにも気が付かなかった。
自分が、そして美凪も康子も望んでいた新しい家族を得る機会が永遠に失われたということか……。
なぜそんな不幸が急に襲ってきたのだろうか。
宗弘はそう何者かに問いかけたが、当然、答えを示すものはなかった。
麻酔で眠っている康子を残し、宗弘は美凪と一緒に家に帰った。
何年ぶりかに、宗弘は食事を自分で作り、美凪と一緒に食べた。
言うまでもなく、それはとても美味しくない食事だった。それでも、美凪は全部食べてくれた。
それが、一層、宗弘の悲しみを深いものにした。
美凪は何も宗弘に聞かなかったが、何が起こったのか、おぼろげには分かっていたようだった。
康子が退院した。久しぶりに戻ってきた我が家に、少しは心を落ち着けたようだったが、いるはずだったみちるがこの家にはいないのだという事実を前に、顔を暗くするのだった。
不幸な出来事があったとはいえ、康子の体は無事だったし、よい夫である宗弘と、可愛い娘である美凪はちゃんと存在している。
一人の子も生むことが出来なかった母親だってこの世の中にはたくさんいる。そう言い聞かせて、もとの幸せの中に戻ろうと康子は努力した。
美凪も、宗弘もややもすれば悲しみの表情を見せる康子に、努めて今まで通りに接しようとした。
今までと同じように、美凪は康子にいろいろな料理、裁縫を教わった。そして、夕方には宗弘を出迎えに駅に行った。
だが、そんな日常は、既に本物ではなくなっていたのだ。
自分のもとに来てくれるはずだった娘のみちる……。一人になったときに康子の意識を支配しているのはその子供の姿だった。
宗弘が勤務に出ているとき、美凪が学校に行っているとき、日常の中に康子が一人でいる時間があったことが、悲しみを更に増長させることになった。いつしか、康子の中では現実を夢の世界が凌駕し始めていた……。
その夢の世界では、みちるがいて……。
ある一線を越えた日だった。
家に帰った美凪を、康子はこう言って迎えたのだった。
「おかえり、みちる……」
「えっ、お母さん、私は美凪だよ……」
「お菓子が作ってあるわよ、みちる、食べなさい」
「お母さん……」
あれだけ仲のよかった両親が、たびたび口論するようになった。
朝や夕方の会話は、ほとんどなくなっていた。みちるとして母親の料理を手伝い、それを宗弘は食べてくれていたが、どこに本当の美凪、みちる、宗弘、康子があるのか、どうしても分からない世界になってしまっていたのだ。
宗弘が美凪を「美凪」と呼ぶと康子は「いやですね、お父さん、美凪とみちるを間違えて」と笑顔で言う。
美凪はそんな言葉を肯定も否定も出来なかった。大好きな母の夢を壊すことは出来ない。残酷な事実を告げることは出来なかった。
宗弘も、悲しそうな顔をするだけだった。
夜になると、居間の方から宗弘と康子の言い争う声が聞こえてきた。
そんな声を聞くのが、美凪には苦痛だった。お母さんがあんな風になってしまったのは、私が今までいい子でいられなかったからなのだろうか。布団を被り、世界を闇にしながら美凪はそんなことを考えていた。
ふと、あの時に宗弘の買ってきた有翼の少女の絵を思い出した。
あの少女の持っていた悲しみも、こういったものなのだろうか。
大切な人がいながら、その人に自分の思いを伝えることの出来ない、その人の悲しみから開放することの出来ない悲しみ……。
そもそも、あの少女は何故あんな悲しそうな表情をしていたのだろうか……。
みちるの悲しみ、康子の悲しみ、そして少女の悲しみから、自分が救ってあげることが出来ればいいのに……。
美凪は、耳を塞ぎながらそんなことを考えていた……。
「これも天命なのかもしれないな……」
鉄道便で送られてきた一枚の封筒を開け、その中にあった一枚の文書を見ながら、宗弘はこうつぶやいた。
幸い、他の駅員はそれぞれの持ち場に出ており、宗弘のそんな言葉を聞く者はなかった。
それは、辞令だった。宗弘の人生の中で、何度か道を切り替えるポイントのような役目を果たしていた辞令。
自分の人生が、決められたレールの上を進んでいるだけとは決して思わなかったが、努力だけでは変えようのない人生の軌道というものは確かに存在しているのだと実感できる年齢にもなっていた。
その辞令には、遠くの街の駅名が書いてあった。今勤めている駅を考えると、それは栄転といってもよいものだった。だが、宗弘はそれを喜ぶ気にもなれなかった。
康子の姿が思い浮かぶ。
今の康子に、一緒に来るように言っても、きっとこの町から動くことはないだろう。康子にとって、この町は全てだったのだから。
もう十年以上前になる出会いの時を思い出した。人懐っこい、印象的な笑顔。あの海岸から見た海の姿……。
「俺には、これ以上康子を悲しませることは出来ない」
辞令を受ける決心をした宗弘は、誰にも気付かれないところで密かに涙を流した。
「お前さえよければ、一緒に来るか、美凪?」
出発の日、宗弘は美凪にそう声をかけた。
一緒に来て欲しいような、そうして欲しくないような、両方の気持ちが宗弘の中にあった。
正直言って、どうすることが幸せに繋がる道なのか、分からなくなっていたのだ。
しばらく考えた後、美凪は静かに首を横に振った。
「そうか……」
「お父さんには大切な駅があるけれど、お母さんには私しかないから……」
「そうだな。美凪は優しいな」
「美凪は、優しい……、の?」
「ああ、お母さんを、宜しく頼む」
それだけ言い残し、宗弘は住み慣れた家を出た。
時計を確認する。
乗るべき列車の到着までにはまだ少し時間があった。
「そうだな、あそこに行っておくか……」
初めてこの町を訪れたときのように、最小限の荷物だけを携えた宗弘は、この町の印象を決定付けさせたあの海岸へと足を運んだ。
様々な感情が宗弘の中を流れていたが、それらを全て持ち去るかのように、潮風が宗弘の体をすり抜けていった。
今日は少し風が出ているらしく、水面には幾ばくかの波が立っていた。その分だけ、陽光の反射が強く見えていたが、それはこの景観を少しも損なうものではなかった。
「どうですか、私のお気に入りの場所」
聞こえるはずのない声が聞こえたような気がした。
それを振り払うようにして、宗弘は駅の方へ向かった。
海は、いつもと変わらぬ表情で、そんな宗弘を見送っていた。
何度も列車を見送ったホームに、今度は見送られる立場として宗弘は立っていた。
やはり何度もこの場所に来てくれた康子と美凪の姿はここにはない。
代わりに今まで共に働いた部下の駅員に見送られ、入線してきた気動車に乗り込む。
彼らに、事情は話してはいなかった。
「駅長、新しい街でもお元気で」
「ああ、世話になったな」
「奥さんや、美凪ちゃんにも宜しく言って下さい」
「……そうだな」
ホームの前の方では、運転手が通票を受け取っていた。人の疎らなホームに、春の穏やかな日差しが差し込んでいる。それは皮肉なまでに心地よいものであった。
車掌が笛を吹いた。
「それでは、またいずれ」
敬礼する駅員に軽く手を振り、閉じたドアを背にして空いている席に腰を下ろした。
いくつもの年を過ごしたこの町を、宗弘は立ち去っていく。
線路は何を運び、何を伝えてきたのだろうか。
宗弘は、車窓の海を見ながらそんなことを考えていた。