ここは、どこにでもある半農半漁の田舎町といってよかった。それを変えていたのは、隣にいるこの少女であることは疑いない。
旅の途中で降り立った町で出会った少女。いくつかの言葉を交わし、それぞれの人生は再び別の方向へ分岐していく。それだけのことであるはずだったものが、別の変化を見せることとなっていた。
別れを告げ、あてもなく適当にこの町を歩こうと、宗弘が足を進めようとしたとき、康子が思いがけない言葉をかけてきたのだった。
「一緒に歩きませんか?」
最初に、「こんにちは」と声を掛けてきたときと同じ笑顔がそこにはあった。
「俺……、いや、僕とか?」
生来の性のためか、それほど社交的に答えてきたわけではないと自覚していた宗弘にとって、その提案は意外なものであった。
「はい。何もない町ですけど、少しでもこの町を気に入ってもらいたいと思うんです」
「何故、君が?」とは、どうしてか聞くことが出来なかった。
逆に、それを受け入れることが自然であるように宗弘には思えた。
可愛さと美しさが同居しているような、微妙な年齢の女の子とこの町を歩く。それは決して悪い選択ではない。自分の持っている遺伝子に響くような若干の違和感を感じながらも、宗弘は首を縦に振っていた。
「そうか。じゃあ、お願いしてもいいだろうか」
「はい」
のぞき込むような感じで、康子が宗弘の顔を見つめた。
邪心のない無垢な少女の笑顔は、天使を感じさせた。それに宗弘は引き込まれたのかもしれない。
ともあれ、主導権を握った康子の後に続く形で、宗弘はこの町の一時的な住人となった。
駅から出た道は、すぐに小さな交差点にあたった。
そこを曲がると、おそらくこの小さな町の中心地になるであろう商店街が延びていた。
道を行く車の数は少なく、炎天下、出歩いている人の姿もほとんどなかった。
小さな診療所、本屋、雑貨屋、そんな建物の並ぶ中を、康子が宗弘を導くようにして歩いていく。
「このあたりが、町の中心なんですよ」
「そうみたいだな」
「私も、ここのお店によく買い物に来ます」
康子が指差したのは、小さな米穀店だった。奥の方には米の袋がいくつも積まれ、精米器の稼働している音が店の外まで聞こえてくる。
「よく、って、君の家ではそんなに米を食べるのか?」
素朴な質問に、康子は明確には答えず、ただ微笑んだだけだった。からかわれているのかと思った宗弘だったが、その笑顔にはそういった邪心のようなものは感じられない。一方で、更に追及する気持ちもなくなる。
「ま、いいけどな」
再び歩き始めた康子の後を追っていく。
それほど賑やかでない商店街は、すぐに終わりになってきた。
終端の曲がり角を曲がった康子は、歩みを緩めた。
夏の日差しが短い影を作り出し、康子と宗弘の歩みに合わせて形を変えながら付き従っていく。
「小さな町ですけど、とても暮らしやすいんですよ」
自分の住んでいる町をこうやって案内しながら、康子はそんな風に言う。
住めば都、ということなのだろうか。大学に入って東京に出るまで、自分の住んでいる町に対して、宗弘はそんな感情を持ったことはなかった。その町に生まれたのは、無限にある可能性の一つに過ぎないことであり、特に不満もない家庭と社会環境の中にあった自分は、その故郷の町での暮らしを、空気のような自然なものだと思っていた。住みやすいとか、住み難いとか、そんな評価は宗弘の意識の外にあったのだ。
そして、初めてそこを離れて暮らし始めた東京は、様々な意味で故郷の町とは異なる場所であった。窮屈な下宿部屋と、学校の勉強、そして生活のためのアルバイトに追われた日々の中では、住んでいる町に対する愛着などは生まれようもなかった。学友やバイト仲間との友情というものはあったが、彼らはおおよそ東京とは異なる土地の出身であり、人に対しての親近感を持つことはあっても、町に対するそれというものはほとんど感じたことはなかった。
だが、目の前の少女は、自分が生まれ、おそらくはこれまでのほとんど全ての時間を過ごしてきたであろうこの場所に対し、明らかな愛着心を持っていた。そして、それを誇らしげに、通りすがりの人間ともいえる自分に対して話している。それが、どこかうらやましくもあった。
「暮らしやすい、か。確かに、そうかもしれないな」
「ええ。気候も穏やかですし、食べ物も美味しいです」
「海が近いからか」
「はい。小さいんですけど、漁港もあるんです。このあたりの漁場で穫れる魚を求めて、遠くの町の料亭から買い付けに来る人もいるんですよ」
「ほう、それは立派なものだな」
「もしよかったら、食べてみてくださいね」
「うん?」
先ほどと同じような笑顔を、康子が浮かべた。その言葉の真意がよく分からなかった宗弘だったが、康子は宗弘の表情には気付かずに、そのまま顔を道の先の方に向けた。
潮の香りが強くなってきた。海が近いのだろうか。
「でも、この町には有名な産業も観光地もないんです」
「ああ」
「だから、宗弘さんを案内してあげられるような場所も思い浮かばないんです。それがちょっと残念ですね」
「無理に案内してもらわなくても……」
「でも、私が提案したことですから。この町を、少しでも気に入ってもらって、来てよかったと思えるように」
「……」
「たまたま立ち寄ったって、そうおっしゃいましたよね」
「ああ」
「でも、『たまたま』に意味はなかったとしても、その結果には何かしら意味があるんじゃないかと思うんです」
「意味?」
「はい。宗弘さんがこの町に来てくださったこと、それはたまたまなのでしょうけど、この町を離れるときには、何かしら町の印象を残してくれるはずです」
「まあ、それはそうだろうな」
「いい町だったとか、退屈な何もない町だったとか、そんな程度のものかもしれないですけど、私は、出来ればこの町を訪れた宗弘さんに、いい印象を持って帰ってほしいと思うんです」
「なるほど」
「ですから、私がそのお手伝いを出来ればいいなあって、そんな風に思ったんです」
「……」
再び宗弘の方に顔を向けた康子が、何度目かの笑顔を見せる。
「でも、こうして歩いていると、なんか私が宗弘さんを引き回しているみたいですよね」
「まあな。でも、そんなことはない。俺も結構、楽しいから」
「そう思ってくれるんですか」
「ああ。それに、気まぐれであの駅に降り立ったまではいいけど、それからどうやってこの町を歩くか、全く考えていなかったからな。地図すら持ってないわけだし」
「ふふっ。それでしたら、私もちゃんとお役に立てたということですね」
「ああ。最初に声をかけられた時はちょっと驚いたけどな」
「私も、少しだけ勇気が必要でした」
何故自分に声をかけたのか、宗弘にはほんの少しだけ分かったような気がした。
「あ、それで話を戻しますけど」
「おっと、何の話だったっけ?」
「この町には、宗弘さんを案内してあげられるような場所がないっていう話です」
「そうだったな。でも、気にする必要はなさそうだ」
「そうなんですか?」
「ああ。さっきも言ったように、君と一緒に歩いていれば楽しいしな。たまにはこういうあてのない時間を過ごすのも気持ちいいと思う」
いろいろなものに追われた時間から、解放されるのがこの夏休みの時間だった。心のどこかで、そういったものを求めていたからこそ、帰省の途中で見知らぬ町に寄り道しようという気になったのだろう。
そうだとすれば、宗弘の気まぐれと望みは、思いがけない形で満たされたことになる。
「なんか、ロマンスみたいですね」
「ロマンス?」
「はい、そうです。だとすると、私たちはデートしているってことになるのでしょうか?」
言葉自体を楽しんでいるような言い回し。康子が自分にそういった感情を持っているのでないことは容易に見て取れる。それを知りながらも、その言葉の示す状況にあることをどこかで感じさせるような、微妙な雰囲気を康子は作り出しているといえた。そして、その中にあることを、宗弘は不快には感じてはいなかった。
「デートか。そう思うのも楽しいかも知れないな」
「そうですよね」
「まあ、本当のデートだとしたら、君にとってこんなに頼りない連れはいないだろうけど」
自分たちのいる場所のことを何も知らずに、女の子任せにしている自分を、簡単に宗弘は笑ってみた。
「でも、そういうことじゃないんですよ」
「まあな」
「楽しければ、それでいいんです、きっと」
「ああ、そういうことだ。この散策では、君に俺を導いてもらう。そうだ」
「はい、何ですか?」
「君が案内してくれるのは、この町で君が一番気に入っている場所。そういうのはどうだろうか?」
「私の好きな場所ですか?」
「ああ、それがこの町では一番の名所になるだろう」
康子は、下顎に細い指を当てて、しばらく考えているようだった。この提案を受け入れることを考えているのか、それとも、それは既に決まっていて、案内するべき場所を考えているか、どちらかは分からなかった。
やがて、顔を起こした康子は、一瞬だけ空の方に顔を向けて、宗弘の言葉を受け入れた。
「わかりました。宗弘さんが気に入ってくださるかは分かりませんが、ご案内しようと思います。ちょうど、一つ目はここを歩いた先にあるんですよ」
「そうか、それは好都合だな」
「はい」
夏の日差しは相変わらずだった。
話をしている間に、だいぶ海が近づいてきたらしい、道の先に、コンクリートの堤防のようなものが見え、その先の視界を遮っているのがわかるようになってきた。それを避けるように、道は左側の方に曲がっている。
蝉の声にかき消されてほとんど分からないが、注意深く聞き取ろうとすれば、波の音があることにも気付くだろう。
道を曲がり、堤防とその向こう側にある海に沿うように進んでいく。
少し先まで歩くと、堤防の上に登るための階段が設置されているのが見えた。康子はここから見える海に案内しようというのだろうか。
「ここか?」
「残念です。もう少し先なんですよ。この上からも海は見えるんですけどね」
「そうか」
「でも、この場所にもちょっと用事があります。こっちなんですけど」
そう言って康子が指差したのは、道を挟んで、堤防の階段の反対側にある小さな店だった。
東京では見かけなくなりつつある、駄菓子屋のような店だった。開け放たれた木の戸の奥に、お菓子やちょっとした玩具などが雑多に並べられている。軒の上に掲げられた大きな看板には「武田商店」という名前と、電話番号が書かれている。
「何か買っていくのか?」
「はい。暑いですから、飲み物なんか、欲しいですよね」
「そうだったな」
こうして歩いてきただけで、汗をかいている。康子が案内しようとしている場所までどのくらいの距離があるのかは分からないが、確かに、飲み物の一つくらいは持っていった方がよさそうである。
「こういうのって、憧れだったんです?」
「こういうの?」
「はい、こうして友達と駄菓子屋さんで買い物したりするのが」
「そうなのか?」
ちょっとした違和感を宗弘は感じた。これまでずっとこの町で暮らしてきたのだとすれば、そういった機会はいくらでもあったのではないだろうか?だが、それを言葉にして康子に聞くことは、宗弘にはためらわれた。
友達と康子に呼ばれたことに、くすぐったいような微かな幸福感を感じた。それを壊すことはあるまい。
「はい。宗弘さんは何を飲みますか?」
「そうだな、何があるのか見たいから、俺も行くよ」
「そうですね」
少しでもこの日差しから逃れたいという理由もあり、連れ添うようにして宗弘は康子と一緒に店に入った。
駄菓子屋などに足を踏み入れるのはいつ以来だろうか。
結局、缶入りのジュースを二人は買った。
冷やされた缶の冷たさが心地よかった。
店の外に出ると、再び蝉の声とそれに伴う暑さが宗弘たちを襲ったが、その冷たさが暑さを僅かながらも軽減させてくれる。
ちょうど、一日の中では一番暑い時間帯だった。
僅かに海側から伝わってくる風が、康子の髪を揺らしながら通り抜けていく。
その様子を見て、宗弘は自分の心の中のある部分が、何かの形で刺激されたのを感じた。
康子に付き従って歩いて行く先に、小さな公園と学校が目に入ってきた。
この暑さのためであろう、公園には人影は全く見られなかった。学校の方にも、夏休みに入っているためか、ほとんど人の姿は見えない。僅かに何かの運動系のクラブが校庭で練習しているのが散見されるくらいであった。
「君が通っているのは、この学校?」
短絡的な疑問だったが、宗弘はそんな問いかけをしてみた。
「いいえ、残念ですけど違うんです」
「ひょっとして、ここは高校じゃないとか?」
考えてみると、まだこの少女の学年などを、宗弘は聞いていなかった。自分は、東京に住んでいる大学生であることを話していたから聞いていた気になっていたのだが、まだ康子からはそんな話は出ていなかったのだ。
「いえ、高校です。うちから近いですし、この学校でもよかったんですけど、結局、別の高校に行っているんです」
「となると、あの駅から列車で?」
「はい、二十分ほど乗ったところに、別の高校があるんです。私は、そこの二年生です」
「そうか」
「あ、今までお話ししていませんでしたね、私の学年」
「そうだった。俺もすっかり聞いた気になっていたけど」
「すみません」
「いや、別に構わないって」
「そんなことないですよ。宗弘さんはちゃんとお話ししてくださったのに、不公平ですよね」
「そんな大げさなものでもないだろう」
「そうですけどね、ふふっ」
とにかく、笑顔の印象的な子だと思った。引き込まれるような笑顔というのは、こういうものをいうのだろう。
康子の表情を見ながら、宗弘はそんなことを考えていた。
「この町にしては、というと失礼かも知れないけど、なかなか立派な学校みたいだな」
「そうですね。私の学校と比べても大きいです。友達は何人かここに通っていますよ」
ちょうどその時、校門の方から数人の女子生徒が出てきた。海辺の学校であるからというわけではないだろうが、紺色の地に白のリボンを結んだセーラー服が、よくこの場所に映えていると思った。
残念ながら、康子の友達ではないようで、こちらの方に不思議そうな目を向けただけで、仲間内のおしゃべりに興じながら姿を消していった。
「三十五分の列車で帰るんでしょうね」
「そんなことまで分かるのか?」
「だって、この時間帯は列車が少ないですから。時間が近くなるまで、学校の中でおしゃべりしたりして時間をつぶすんですよ」
「なるほど」
「真面目な生徒だと、予習復習しているんですけどね」
「そうだな」
お互い、その笑いの中に、自分はそうではないという事実を籠めている。だから、それがおかしくもあった。
こんな風に、心から楽しいと思って笑ったのはいつ以来だろうか。ふと、宗弘はそんなことを考えたのだった。
夏にふさわしい笑顔が、自分と目の前の少女のもとにあった。
海岸に沿うように広がっていた町が、その幅を細めてきた。
今まで歩いてきた海岸線沿いの道は、町の中心を貫いている道路と合流する。
その合流点あたりに、小さな砂丘のような土地があった。
宗弘が康子に案内されてきたのは、少し寂しさの感じられるこの場所だった。
「ここです」
海風にスカートと髪をたなびかせ、康子が指を差した先にも僅かに自生している草がその身を泳がせている。
「登れるのか?」
「はい、ちょっとお行儀が悪いですけど、こうやって……」
言いながら、康子が道沿いの杭の間に渡された紐をまたいでいく。スカートの端がその紐に引っかかりはしないかなどと、宗弘は余計な心配をしながらその様子を眺めている。
どちらかというと物腰が上品だという印象がある康子のそんな仕草がミスマッチで、どこか楽しくも感じられた。
「宗弘さんも、来てください」
手招きをする康子に促されて、後に続くように宗弘も紐を超える。
その先は踏み固められたような砂の小径になっていた。となれば、他にもこの砂山に足を向けている人がいるのだろうか。
そんなことは気にも留めずに、康子の方は上に向かって歩いていく。前にある砂山、左手にこれまで歩いてきた町並み、右手には海岸線に沿うように曲がりながら延びている道、そして背後には緑がその色を強く主張する山の姿があった。
それらの個々は名前も知られないようなものたちなのであろうが、それらを組み合わせて作り出すこの景色、この町というものは、やはり固有名詞を与えられるにふさわしい、唯一の存在といえるのかもしれなかった。
その中心にある自分という存在を再認識する宗弘だった。
気持ちを自分に戻すと、既に康子が先の方に進んでいるのに気が付くことになる。
慌ててその後を追いかけて歩き始める。
ほんの数メートルの高さの、慎ましい砂丘ではあったが、その先に見える海を想像して、自分の心が躍るのを宗弘は感じた。先に頂上に着いている康子が、気持ちよさそうに風を受けながら立っていた。
その姿に、宗弘は懐かしいものを感じた。一瞬、たなびいた康子のブラウスが羽根のように見える。
その姿はどこか神々しくもあり、康子の立つ場所が何故かとても遠くのようにも思われた。
「暑さのせいか?」
思ったことをあえて言葉に出すことによって、自分の意識を再確認する。
目の前に立っている少女は、既に天使などではなく、康子であった。
「どうしたんですか?」
「いや、何でもない」
幻覚に近いそれを、宗弘はそうやって振り払った。
「変な宗弘さんですね。そんなことより、ほら……」
差し出した手に、宗弘が自分の手を伸ばそうとする前に、康子はそれを海の方に向けた。
そんな気まぐれに宗弘は苦笑しながら、そちらの方に視線を向ける。
そこには……。
美しく輝く海が広がっていた。
この砂丘は、絶妙な場所にあるといってよかった。
展望台や、山の上のような高い場所から眺める海は、確かにその大きさを知らしめてくれるが、逆にその海自身が遠くにあるように思えてしまう。
逆に波打ち際は、その水滴や波の音まで確かに海を感じさせてくれるのであるが、海そのものが持つ無限に近い広がりを感じさせてはくれない。
そういう意味で、この場所は海の魅力を両面から見せてくれる場所であった。
穏やかな日であったから、大きな音で波が打ち寄せているわけではなかったが、この砂丘を下った、数十メートル先には波が繰り返し砂浜に自分の跡を作り出している。
一方、視線を少し上に向けると、そこには海の持つ広がりがあった。
左手にある小さな港と、その先に続く堤防。右手には半島のように延びている緑の陸地。それらが正面で不意に途切れ、その先に水平線が輝く中で姿を見せている。
美しく凪いだ海が、無数の輝きを放っている。
その景色に同化するかのように、点在する漁船が往来しているのが見える。
そして、更に顔を上げると、海と同じように青い空が広がっている。微妙な青さの違いが、水平線というものを作りだしているのであろう。ところどころにある雲と、弧を描くように飛んでいる海鳥がこちらのアクセントとなっている。
「どうですか、私のお気に入りの場所」
「これは、すごいな……」
宗弘は素直に感心した。全国各地にある名所とは異なり、多くの人に知れることのない、奥ゆかしい美しさが宗弘を感動させたといってよいだろう。
勿論、隣にいる少女の笑顔が、この景色に対する感情を更に高いところに導いたという要素もある。
「時々、無性にここからの景色が見たくなる時があるんです」
「……」
「この海は、どこから来て、どこにつながっているのかなって、そんなことを考えるんですよ」
「どこへ、か……」
「はい。現実的な話になってしまいますけど、ごく稀に、大きなフェリーが入り江の向こうを横切ることがあるんです」
「フェリーが?」
「はい。その船がどこから来てどこへ向かっているのか、一度調べてみたことがあるんです」
ずっとこの町で暮らしてきた康子にとって、外の世界は憧れの中にあるのだろうか。例えば、地図を眺めながら、そこに記された土地に思いを馳せるのと似た感覚なのだろう。
「分かったのか?」
「行き先だけは分かりました。でも、出港地はいくつか候補が見つかっただけで完全には分かりませんでした」
「そうか……」
「大阪に寄って、東京まで行くそうです。私にとっては、どっちも遠くて縁のない場所だと思っていたんですけどね」
「……」
「でも、宗弘さんが住んでいるのは、東京なんですよね」
「ああ」
「そう思うと、不思議なんです。この海をずっと進んでいくと、自分の全く知らない場所にたどり着けるっていうことが」
「確かにそうかもな。別の方向に向かえば、外国にだって行ける」
「はい。海は、自分の知っている世界と知らない世界の境界みたいなものですね」
「ずいぶんと壮大な境界だけどな」
「ふふっ、そうですね。でも……」
「うん?」
「海を見ていると、何故か懐かしく感じられるんです。時々、その懐かしさに会いたくて、ここに足を運んでしまうことがあります」
「全ての生き物は、海から生まれたっていう話を聞いたことがある。俺たち人間がそう感じるのは、そのためじゃないんだろうか」
「あ……」
宗弘も、似たような気持ちを感じたことがある。そもそも、この町にやってきたのは、海に誘われてではなかったか。
「だから、その気持ちは何となくだけど分かるな」
「そうですか、嬉しいです」
「うん?」
「でしたら、宗弘さんをここに連れてきた甲斐があったというものです」
そう言って、康子は砂の上に腰を下ろした。膝を立てて、それを両手で抱え込むような姿勢になる。
「宗弘さんも、座りませんか?」
「そうだな、結構歩いたから、少し疲れた」
康子の隣に腰を下ろした。足はそのまま前に投げ出す形になった。
空が僅かに遠ざかり、その分だけ海が近づいてきたような気がした。
漁を終えたのだろうか、一艘の船がこちら側にゆっくりと近づいてくるの見える。
照りつける日差しの中で、海からの風が心地よく二人の脇を流れていった。
空に目を向けた宗弘が、眩しさに目を細めると、その傍らでは康子がほんの少しだけ宗弘の方に体を近づけていた。
それは、羽根を休めている天使のようにも感じられた。夏の幻が、そう思わせたのであろうか。
次に歩いたのは、細い砂利道だった。
両側には田圃が広がり、順調に成長している稲が、その緑色を一面に広げていた。よく観察すると、小さな蛙やどじょうなどが泳いでいるのが見える。
砂丘を後にした康子が、もう一つの場所に案内してくれるというのだった。
「こんなところに何かあるのか?」
「楽しみにしていて下さい。少し、町から離れたところにあるんです」
「戦国時代の城跡とか?」
「そんなに由緒のある町じゃないですよ」
宗弘の予想に、極めて現実的な答えを返してくる。
本当は、この町の起源をたどろうとすれば、相当に時代をさかのぼることが出来るのだが、そんなことは康子は知らなかった。
右手にはそれほど大きなものではないが山が迫っており、左の方角は程なく海に通じていることを考えると、ここはこぢんまりとした田園地帯であった。それでもある意味で見慣れた風景であることは確かであり、そんな場所を今日初めて知った少女と歩を並べていることがどことなく不思議にも感じられた。
既に飲み終えてしまったジュースの空き缶を二つ持って、宗弘がそれを交互に眺めている。
それに気が付いた康子が言った。
「ごめんなさい、私のも持ってもらって」
「大したことじゃないさ。ただ、くずかごがないのは不便だな」
「そうですね。でも、こんな場所にあっても、使うのは私たちくらいなものですよ」
「それはそうだな」
「ふふっ」
「それはともかくとして、また喉が乾いてきたな。もう一本くらい買っておけばよかったか」
「あ、それなら大丈夫です。もう少し先に行くと、川がありますから」
「それは好都合だな」
「はい」
康子の言うように、程なく川が見えてきた。今進んでいる砂利道に、小さな木の橋が架けられている。
橋の脇から、容易にすぐ下の川に降りることが出来た。
さらさらと流れる水が、実際以上に涼しげに見えた。宗弘は早速、手を伸ばして水をすくってみる。
とても気持ちがよかった。「うーん、冷たくて気持ちがいい」
「見ていたら、私も欲しくなってしまいました」
康子が、宗弘の隣に寄ってきて、同じように川の水に手を伸ばす。スカートの裾が水に浸からないかを心配しているようだった。
「おさえていようか?」
「はい、すみませんけど」
そちらが気になって、思い切って手を伸ばせないでいたようだった。
微妙に姿をのぞかせる白い肌を気にしながら、宗弘がそっと裾の布地を束ねるように抑える。
「美味しいです」
「暑いときは、こういう自然のものが体にいいのかもしれないな」
「そうですね」
水を飲みおえた康子が、ゆっくりと立ち上がった。宗弘は、もう一度水を口にすると同時に、その冷たい水で顔を濡らしてみた。
「男の人は、そういうことが出来てうらやましいですよね」
「君もやってみればいいのに」
「でも、髪が邪魔になってしまいますから」
「そうか。だけど、束ねてみたらどうなんだ?」
「いえ、これが気に入っているので」
言われてみると、康子は髪にリボンの類をいっさい付けていなかった。ある程度まとめるためのヘアピンすら使っていない。
胸や背中まで届くような長さでありながら、不自然さや鬱陶しさを感じさせず、柔らかな美しさだけを感じさせるのは、考えてみると不思議な魅力でもあった。
「みたいだな。よく似合うと思う」
逆に、そういった装飾を施してしまったら、康子の髪自体が持つ魅力を損ねてしまうのではないかと思える。
だから、宗弘はそう正直に評した。
「ありがとうございます。やっぱり、髪を褒められるのって嬉しいですよ」
「そうか」
その笑顔を見ることの出来た喜びを、宗弘も感じていた。
「さ、先に進みましょう」
「そうだな」
橋を渡り、その先に足を向けた。
やがて、砂利道は更に幅を細めた。
山に行き当たり、その先は小径のようになって登っている。
「こんな先に、何かあるのか?」
「はい。あと少しですよ」
「ああ」
山に入ると、日差しが遮られて気持ちがよかった。ただ、虫が飛び回るのには閉口したが。康子はそんなことは気にしていないようであった。
土を踏みながら進んでいくと、宗弘にも目的地が分かってきた。
目立たぬものではあったが、鳥居が見えてきたからである。
「神社か……」
「はい、そうです。年に一度のお祭りの時は賑やかなんですけど、普段はこんな感じです」
石段を登ると、本殿が見えてきた。本殿といっても民家よりも小さいような、ほこらに近いものではあったが。
「ここから見える景色も好きなんです」
木々の合間から、海が姿を見せていた。時間が動いていたので、先ほどとは少し違う角度で日が水面を光らせていたが、それはこの光景の素晴らしさを損なうものではなかった。
汗ばんだ体に当たる木陰の風が心地よい。
「あっちが町の方向か」
「はい、さっき見た学校も見えるでしょう?」
「あれか?」
「そうです」
高台というのは、理由無しに解放感を感じさせてくれるものなのかもしれない。本殿の正面は、日を遮るものもなくて相変わらずの暑さを感じさせていたけれども、それに見合うような心地よさもあった。
「折角だから、お参りしていくか」
「そうですね」
「ところで、この神社は何の神様を祀っているんだ?」
「えっとですね……」
首を傾げながら、康子が考える。
「あっ」
「思い出した?」
「よく分かりません」
そんなことを言いながら笑う。はにかんだような表情が可愛らしく思えた。
「どの神様を祀っているのかは分かりませんが、ご神体の羽根が中に安置されているというのを聞いたことがあります」
「羽根?鳥の羽根とかのあれか?」
「ええ、そうみたいです」
「何か由緒があるんだろうか?」
「人々の思いが籠められているという羽根なんだそうです」
「ふぅむ……」
「でも、その羽根って見たことはないんですけどね」
「誰も?」
「神主さんとかはあるのかもしれませんが、私たちは知らないです」
「ま、そんなものなんだろうな」
「そうですね」
宗弘は康子と並んで歩き、本殿の正面を歩いていった。
ポケットの財布から小銭を取り出し、勢いよく放り込む。
二礼二拝の作法で、祈りを捧げる。目を閉じる前に横に視線を向けると、康子も同じ仕草で祈ろうとしているところだった。
目を閉じた宗弘の脳裏に、先ほど聞かされた羽根のイメージが浮かぶ。
そのイメージの中の羽根は、淡く光を放っているようであった。多くの人の思いが籠められているというが、それは一体どんな感情なのであろうか。喜びか、それとも悲しみか。または、そんな単純な区分けでは割り切れないような複雑な感情なのだろうか。
そして、自分は今、どういう感情の中にあるのだろうか。
宗弘の中で、羽根の姿が消え去り、代わりに別のイメージが浮かび上がってきた。
霧の中から現れた粒子のようなものが、徐々に集結してその形を作りだしていく。やがてはっきりと判別できるようになったとき、そこにあったのは一人の少女の姿だった。流れるような黒髪の美しさが最初に宗弘の意識に入ってきたので、それが康子ではないかと一瞬誤解したが、それは違うようであった。
目の前の少女の一番の特徴は、背に羽根を持っていることだった。だとすると、最初に見えた羽根はこの少女の持つものなのだろうか。
少女の表情は、悲しみに満ちたものだった。羽ばたかせようとするが微かに動くだけの羽根に連動するかのように、悲しみの表情が周期的な変化を見せる。それは泣きじゃくっているようにも見えた。
手を差し伸べようと、宗弘はその少女の方に近づこうとしたが、宗弘が近づいたのと同じ距離だけ少女は遠ざかっていく。
そんな絶望の中に、少女はいるのだろうか。
絶望の一部を、宗弘が感じ取ろうとした瞬間、その少女の像は閃光を放ちながら消え去った。その光に驚いて宗弘が目を開くと、そこには閑静な神社のたたずまいがあるだけだった。
今感じたことが幻であることを示すかのように、蝉の鳴き声が辺り一面から聞こえてくる。
「今のは……」
宗弘は、回りを見渡した。そこは、来たときと同じ神社であり、日差しも、奥の方から見える海の様子も変わるところはなかった。
隣には、まだ目を閉じている康子の姿があった。それがあったことに、宗弘は安心感を持った。
やがて目を開いた康子が、真っ先に宗弘の方に顔を向ける。それは、笑顔だった。
「何か、お願い事をしていたんですか?」
「願い事……、そういえば、していなかったな」
「そうなんですか。心が無になるとかですか」
「そうでもないようだけどな」
脳裏に浮かんだイメージについては、康子に話はしなかった。話そうにも感じとったイメージをきちんと整理できていないというのが本当のところでもあった。
「君は、何か願い事を?」
「はい」
「それは……」
「内緒、ですよ。こういうのはそう決まっているんです」
そう言って、康子は微笑んだ。
「そうだったな」
願い事は、人に話してしまうと叶わなくなる。そんな迷信を宗弘も聞いたことがある。
「はい」
本殿の正面を離れた康子を、宗弘が追いかける。
一瞬だけ、その康子の後ろ姿が何かの象徴のように見えた。
最初に康子に出会った駅前まで戻ってきたとき、夏の長い日も傾き始めていた。
長くなった影が、並んで二人の足元から伸びている。
「すっかり、世話になってしまったな」
その言葉と共に、この町での小さな経験は終わりを迎えるはずだった。
だが、ある現実が、宗弘と康子の共通した時間を少しだけ多くすることになる。
「私も楽しかったです」
「それならばいいんだけど。ところで、次の列車は何時発になるんだろうか」
「あ、それなんですけど、一つ、提案があるんです」
「なんだ?」
「この町で、一泊していきませんか?もし宗弘さんが故郷に帰るのをお急ぎでなければ」
「えっ?」
期待に満ちた笑顔が康子にあった。
「次の列車ですけど……」
その事実は、宗弘が康子の提案を受け入れる後押しをするのに充分なものであった。
本数が少ないことは、来るときに見た時刻表から分かっていたが、更に、列車の少ない時間帯と重なってしまっているらしい。康子は、その少ない列車の出発時刻を概ね記憶しており、次の列車が駅に来るのは二時間後ということだった。
それに乗ったとしても、宗弘の故郷の駅までは乗り継ぐことが出来ない。となると、出発しても途中で投宿は免れないということである。
「そうか、それだとたどり着けないだろうな……」
「先にお聞きしておけばよかったですね、出発時間」
「いや、君に連れて行ってもらった場所はよかったし、この町で過ごした時間もよかったから」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
「時間を気にして急ぎ足というのだと、この町に足を伸ばした意味がなくなるからな」
「はい」
「だから、それはいいのだが、どこか泊まる場所を探さないといけない」
「それなら心配は要らないですよ」
「そう簡単に言わないでくれ。まあ、いざとなればこの季節だから野宿でも……」
「いえ、私の所に来てくださればいいんですよ」
「えっ?」
予想の範囲を超えていた康子の言葉に、宗弘は驚かされた。その意味がよく理解できずにいる宗弘に、康子がこう説明を加えた。
「そこに小さな駅前旅館がありますよね。そこが、私の家なんです」
「旅館の娘だったのか」
「はい、実はそうなんです」
密かに隠してきた秘密を話した楽しさのような、そんなものが康子の言葉に現れていた。聞くところによると、魚の買い付けに来る大都市の料亭の人間などが利用しているらしい。
「じゃあ、これも縁だ。お世話になるとするか」
「はい。精一杯、おもてなしさせていただきます」
康子の後ろに続き、宗弘がそのこぢんまりした建物に向かって歩き始める。
荷物を持つと言った康子だったが、宗弘はそれは遠慮した。大した荷物ではなかったし、これまでの微妙な間柄を崩してしまうような気がしたからだった。
案内された部屋に落ち着いた宗弘は、座布団を枕代わりにして体を横にした。木の梁と天井が、その木目によって無秩序な模様を作りだしている。
駅の方から、気動車の警笛の音が聞こえてきた。下りの列車だろうか。エンジンのうなる音が微かに聞こえ、それもすぐに遠ざかっていった。
列車が出てしまうと、回りは静かなばかりになった。
しばらくして、康子がお茶を持ってやってきた。髪を上げ、和服に着替えた康子は、一瞬、別人のようにも見えたが、そこにある笑顔は、確かにしばらく時を共に過ごした少女のものに違いなかった。
「いらっしゃいませ」
「おや、その格好は……」
「はい、宗弘さんは一応、お客様ですから」
「はは、一応、か」
「ごめんなさい、気を悪くしました?」
「そんなことはないさ、寧ろ逆さ。君に他人行儀にされる方が窮屈になりそうだ」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
康子が部屋の中に入ってきて、宗弘の向かいに座った。和服の裾から見える足の白い肌が、宗弘を一瞬、どきっとさせた。
「お茶、お淹れしますね」
「ああ、頼むよ」
小さなやかんに入った湯を一度湯飲みに入れる。それを急須に入れ、葉が開くまでのしばらくの間に、康子はこんなことを言った。
「無理に引き留めてしまったようで申し訳ないんですけど、宗弘さんにこの町に泊まって頂けて、なんだか嬉しいんです」
「無理にと言うことはないさ。ただ、家の方には一日帰りが遅くなると伝えておかないといけないけどな」
「あ、お電話でしたら下にありますので」
「ああ。食事の後にでも使わせてもらうよ」
「はい」
康子が、湯飲みに茶を注ぐ。
「少し時間はある?」
宗弘が康子に尋ねた。
「はい、大丈夫ですけど」
「そうしたら、もう少しだけ話し相手になってくれないか」
言いながら、もう一つの湯飲みを取りだし、康子の前に置く。
「あ……、はい」
その意図を悟った康子が、それでも一瞬躊躇した後に、残りのお茶をその目の前に置かれた湯飲みに注ぐ。
「うん、それでいい」
「でも、私なんかが話し相手になりますか?」
「今まで、いろいろ話していたじゃないか」
「それはそうですけど……」
時間にしておよそ三十分くらいだろうか。宗弘は康子にいろいろな話をしていた。初めて故郷を出て東京に向かった時のこと、東京での生活、年に二回、こちらに戻ってくるときの夜行列車の話……。
それらを、康子は興味深そうに聞いていた。康子はずっとこの町で暮らしているからだろうか、知らない町の話にあこがれを感じているようでもあった。
康子も、逆に自分の話をいろいろと宗弘に話した。
この旅館の手伝いを始めたときのこと、友達と行ったあの神社での夏祭り、そして海岸で見ることの出来る満天の星空のこと……。
「あ、お星様といえばですね……」
そう言って、康子が立ち上がった。そして、窓際に行き、外に顔を出す。
宗弘もその隣に立ち、康子の見上げている方向に目を向けてみる。
「ほら、見えます」
指差した先にあったのは、宵の茜色の空に輝いている一番星だった。これから迎えようとしている夜に対し、何を表そうとしているのだろうか。ただ美しく、その存在を誇示していた。
「この町の夜空は、とっても綺麗なんですよ。本当は宗弘さんを案内したかったんですけど、これで許してくださいね」
「ああ、綺麗に見えるもんだな」
星を眺めるというのはいつ以来のことだろうか。そんなことを宗弘は考えていた。
「はい」
「そうだな、いつか、君の見せたがっている星空の方にも案内してくれ」
何気なく言っただけの言葉だった。単なる社交辞令ではないにせよ。
そんな宗弘の言葉に、康子は大きくうなづいた。
「はい、宗弘さんもきっと感動しますよ」
その時の康子の嬉しそうな顔は、一番星にも負けぬ輝きを見せていた。
翌日の朝の列車で、宗弘はこの町を後にした。
まだそれほど遅い時間ではないというのに、既に町は暑さの中にあった。
打ったばかりの水は既に乾ききっている。
窓口で切符を買った宗弘は、そのまま改札を抜けてホームに出た。
警笛の音が聞こえ、右手からゆっくりと二両編成の列車が入ってきた。
その列車の起こした風が、宗弘の、そして康子の髪を軽く揺らした。
「いろいろと、ありがとう」
「こちらこそ。宗弘さんと過ごすことが出来て嬉しかったです」
列車に乗り込んだ宗弘が、ホームに立つ康子に向かって言った。
「この町に来て、よかったよ」
「はいっ。でしたら、また……」
康子の言葉が、閉じるドアによって遮られた。
発車合図の警笛が、遠慮がちに鳴った。
康子は、言葉を続ける代わりに、大きく手を振って、ゆっくりと動き始めた列車を見送った。
軽く手を挙げて、それに応える宗弘。
一度、この町の小さな出来事は、区切りを迎えて去っていった。