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AIR二次創作小説「海の見える町で」

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第1章 春秋のはざま

本格的な夏の日差しが、容赦なくこの場所を照りつけていた。

青を更に濃くしたような青い空に、それと競うかのように無垢を主張する白い雲が浮かんでいる。色を失い、輝きだけが残ったような太陽が、木に止まっている蝉をけしかけるかのように、光と熱を与えている。

思えば、この小さな町で初めて耳にしたのも蝉の声だった。

そして、この小さな町で、少女に初めて出会ったこの場所から、一人の旅人が出発しようとしていた。

そして、それを見送る少女。

だが、これは決して別れではないのだった。

旅人は、再びこの町に少女を迎えに来ることを約した。その約束を違うことはないであろう。だからこそ、少女は今はこうして、彼の出発を見送るのだ。

少女の立っている駅のホームには、他に誰の姿もなかった。整備されていないホームのすぐ傍らまで、夏が育てた草木が浸食している。ややもすればその蔓は、少女の足にからみつきそうでもあったが、少女の方は気にすることもなく、ただその砂利の上に立ち、旅立とうとする男をじっと見つめていた。

旅人たるその男の方も、少女をずっと見つめている。まるでお互いを視線で抱きしめるかのように、しっかりと見つめ合っていた。

そんな旅立ちの光景を見守るのは、夏の太陽と、鳴き続ける蝉だけだった。

「そろそろ、出発の時間のようだな」

「はい……」

二人が交わした言葉はそれだけだった。

今はそれで充分だった。

お互いの心を知るための時間は、もう既に持っていたのだから。

そしてそれが、この瞬間を生み出していたのだ。

少女を幸せにするために必要なものを、男は見つけに行く。そのために、僅かな間だけ離れていなければならない。それだけのことだ。

今までいた不安定な世界の中に居続けることに比べれば、どれほどのものがあるだろう。

男は、この町にやってきたときと同じ出で立ちで歩き始めた。

この駅には、既に列車が来ることはない。

けれども、かつては多くの人々がこの駅を通り、この駅から旅立っていった。

もう、そんな旅人を送り出すことはないだろうと思っていた駅は、この二人をどんな気持ちで見ていたのだろうか。

既に剥がされた二本の線路の跡を、男は歩き始めた。

その先にあるのは、夏。

そして、新しい物語であった。

僅かにそよいだ風が、それを見送る少女の長く美しい黒髪を、そっと一度だけ揺らした。

ふぁん……。

列車の警笛にも似た音が聞こえた。

空を見上げると、一組の鳥が、悠々と弧を描きながら大空を舞っているのが見えた。その羽根の白さは、遙か向こうに浮かび雲のそれと競い合っているかのようであった。

ふぁん……。

その鳥たちが、もう一度鳴いた。

もうひとつ、自分たちの旅立ちを見守ってくれるものがある。そんな安心感に、少女は笑顔を浮かべた。


一組の旅人が、山を越える小径を歩いていた。

着ているものは決して粗末な服ではなかったが、過酷な状況を越えてここまでやってきたらしく、かなりの綻びが生じていた。

加えて、男の方は傷を負っているらしく、歩くのにも難儀しているようであった。比較的健常な女の方が、時々、男を支えながら歩いていく。

山道は決して緩やかではなかったので、その歩みはかなりゆっくりとしたものだった。

男の方は、足取りは確かではなかったけれども、油断なく周囲の様子を伺っている。

刀を携行していることも併せて、単なる旅人とも思われなかった。

「この山を越えれば、集落がありましょう。そこまでもうひといき、辛抱なさってくださいませ」

「すまぬ……」

「いえ、これしきのこと」

負傷の身でなければ、これだけの手間をかけさせずに済んだであろうというやるせなさが、男の言葉の端に現れていた。

男の名前は柳也、女の方は裏葉という。

痛みが体を駆け抜けるたびに、柳也の記憶の中にある、あの悲しみが思い起こされる。

数ヶ月前、ここから遙か遠くの場所で起こった一つの戦い。 そして、その渦中で失った大切な存在。

その時に負った傷と悲しみが、今もこうして柳也を苦しめている。

それらを携え、裏葉と共に落ち延びた柳也は、その悲しみのために何を残そうとしているのだろうか。

「痛みますか?」

柳也の肩に手を置きながら、裏葉が尋ねる。

「ああ……。だが、我慢できぬほどではない」

神奈の悲しみに比べればな……。

柳也は心の中でそう付け加えた。

「もうすこし、ゆっくりと歩いてくれると助かる」

「わかりました。ですがこの歩みですと、日が落ちる前に集落に辿り着くのは難しくなりますわ」

「じきに痛みにも慣れる。峠を越えれば、少しは速さを取り戻せるだろう」

「はい……」

道を覆う鬱陶しいまでの木々、下生えの灌木や雑草は、反面、夏の容赦ない日差しから二人を守る役割も果たしていた。

あちこちから飛んでくる虫と、やかましく泣き続ける蝉が二人を苦しめてもいたが、そんな二人の歩みは、やがて報われることになる。

坂が上りから下りに転じた。

そして、この山道を覆う木々の間から、空とは別の色で青く輝く光景を見つけだした。

「海、か……」

足を止めた柳也が、その姿をしばし眺めていた。

それに寄り添うかのように、裏葉が視線を同じところに向ける。

「久しぶりに見るな……」

故郷を出て都に向かうとき、やはりこうして峠越えの間に輝く水面を見た記憶がある。

本来は人間の住む場所ではないのに、見ると何故か落ち着きや安らぎを感じるのは何故だろうか。いつも、柳也はそれを疑問に思っていた。

「綺麗ですわね……」

裏葉が、素朴な感想を口にする。

都暮らしが専らだった裏葉にとっては、初めて見る光景でもあった。勿論、知識としての海は知っていたが、それはこの風景に対する感情に、なんら影響を及ぼすものでもない。

「それに……」

「どうした?」

「集落が見えます。あの場所までたどり着けば、柳也様の養生も叶いましょう」

「そうだな……」

海岸線にもたれかかるように、小さな集落が存在しているのが見えた。しばらく体を落ち着けて、体力の回復と傷の手当てを図ることが出来るであろう。

まだ、柳也たちの旅は先が長いのだ。

神奈のためにも、途中で朽ち果てるわけにはいかない。

この眺望に励まされるようにして、柳也と裏葉は再び歩き始めた。

そして、名も知らぬこの海沿いの小さな集落に辿り着いたのだった。

町はずれにある廃屋に、とりあえず腰を落ち着ける。

一つの場所にたどり着いたという安堵のためであろうか、柳也は程なく高熱を発した。それが純粋に疲労によるものなのか、それともいくさ傷に由来するものなのかは、その手の事象に関してそれなりの知識を持っている裏葉にも容易に判断は付かなかった。

だが、数日を経ても回復の様相を見せぬ柳也を見るに及んで、裏葉はその手当に奔走することになった。

海に迫るかのような半島の山地に入り、薬草を採ってくる。

都や、神奈たちと暮らしていた館のある地方では貴重であったその薬草も、このあたりでは当たり前のように自生していた。

更に、集落に立つ小規模な市で、米などを買い求める。

夏の暑さは、柳也の体力が回復するのを強力に阻んでいたが、裏葉の適切な、そして献身的な看病が功を奏して、月の満ち欠けが一回りするころになって、柳也はようやく快復した。

そして、再び、二人は旅だった。

海沿いの道を歩いていた二人が振り返ると、今まで滞在していた集落の姿が見えた。

弧を描く海岸線に張り付くように、素朴な家屋が建ち並んでいる。

その中では、家族としての営みがいくつも為されているのであろう。中には、柳也と裏葉がいたような、主を失ったものもあるのであろうが。

来るときに山の上から見た姿とはまた違った趣を見せていた。

長居をしたためであろうか、普段なら意に介することもないこの小さな集落が、二人にとって強く印象に残っていた。

「綺麗ですわね、この景色……」

裏葉が、素朴な感想を言う。

「そうだな、空の青さといい、それを受けるような海の輝きといい……」

「そして、あの山々……」

海は美しく凪いでいた。そして、山はその緑を強く誇っていた。

柳也と裏葉にとって、山はあまり好ましいものではなかった。

神奈が軟禁されていた屋敷が山中にあったこと、逃避行、そしてあの戦場……、全て山の中の出来事といってもよかったからだ。

だが、その山を越えたところに自分たちが存在しているのも事実だった。

神奈が、空で今も苦しみ続けているのならば、それを救う手段を見つけることが残された自分たちにとっての使命である。

落ち着いたたたずまいを見せているここの山は、そういった多々の事柄を象徴しているかのようであった。

海風が、裏葉の髪をそっと撫でた。

その髪が、傍らにある柳也の頬に僅かにかかる。

名残を惜しむ、若しくは別れを告げるかのように、その集落に目を向けた二人は、お互いの瞳を見つめた後に、再び歩き始めた。

柳也と裏葉は、この土地に何を残したのか。それは、当人たちにも分からなかった。


長旅の疲れがそうさせたのであろうか。それとも、故郷が近づいた安心感がそうさせたのであろうか。

一人の青年が、ふと思い立って、ある駅のホームに降り立った。

洗面台に向かって、冷たい水で顔を洗っている人、弁当を求めに駆けていく人。

駅独特の喧噪に戸惑うかのように、青年が周囲の様子を眺めていた。

やがて、けたたましくも感じられるような発車ベルが鳴り、青年が今まで乗っていた列車が、この駅を後にしていった。

流れていく乗客たちの表情は様々で、青年はそれらを何気なく眺めていたが、加速する列車に応じてそれらは徐々に判断が付かなくなり、やがて、その全てが駅の先へと消えていった。

この駅で降りた乗客たちは、改札であるとか、乗り換え列車の待つホームであるとか、それぞれの目的の場所へと消えていった。

大きな籠を抱えて、かけ声と共に弁当を売っていた係員も、詰め所に戻って腰を落ち着けている。

新しく列車の到着した別のホームに、喧噪は移動していた。

静かになったホームの中央付近にある、大きな発車案内を青年は見た。

今から二十分後に、普通列車が出発することを知った彼は、二つほど線路を隔てたその先に、その列車が止まっているのを見て、跨線橋の方に向かっていった。

クリーム色と朱色に塗り分けされた二両編成の列車が、屋根から微かに黒煙を吐きながら止まっている。その行き先は、青年の知らない名前の土地であった。

民話で有名な地方都市と同じ名を姓に持つこの青年は、名前を宗弘といった。自分の姓、そして名前にどのような由来があるのかは知らなかったし、これまでにもそのようなことに興味を持つこともなかった。実際、そんなことは気にかけなくても日々の暮らしに困ることはなかったし、名前などは自然に存在する、いわば空気のようなものだと思っていたのだ。

郷里を出て、東京の大学に進学していた宗弘は、夏休みの帰省の途にあった。

夏冬の帰省はこれまでにも欠かさず、その時に乗る夜行列車にもかなり馴染むようになっていた。

相変わらず客の数は多く、座席を確保するためには一時間は前に東京駅のホームに並ばなくてはならない。だがそれは、その後の半日以上の道中を過ごす環境を相対的によくするためには必要であったのだ。

途中の大きな都市で多くの乗客が入れ替わる中、ほぼ終点に近い駅まで乗り通す宗弘にとって、席が得られるかどうかは死活問題でもある。

この日も、なんとか席を確保することが出来た。

下宿から持参した握り飯を腹に収め、同じボックスの人とのしばらくの世間話を終えた後は、いつもの道中と同じように、列車のレールを刻む音と、流れ行く窓外の燈火を誘いにして窮屈な眠りに就いた。

目が覚めると、朝靄の中を列車は走っていた。

列車は、それまでと変わらずに走っているにもかかわらず、夜明け独特の静寂が宗弘には感じられた。

早くも高度を上げている太陽が、今日も暑くなることを予感させている。

山沿いに走っている列車が、何度かトンネルを抜けていった。そして、車窓には海が広がり始めていた。

降り立ったこともない、自分とは縁もゆかりもない海だったが、東京から列車に乗り続け、この海を見る頃になると、宗弘は自分の故郷が近づいてきたことを感じるのだった。

列車がカーブに差し掛かって大きく揺れた。

その弾みで、向かいに座っていた乗客が目を覚ました。

スーツを着こなしているその客も、座席での一夜に多少の疲れを見せているようだった。

「おはようございます」

「今日も暑くなりそうですね」

「はい。お仕事も大変でしょう?」

「ですね。まあ、後は事務所に戻って報告を上げれば、ささやかですが休みがもらえますから」

「それは何よりです。僕も、帰省の途中なんですが、家に帰ればゆっくりと休ませてもらえますし」

「学生さんでしたか。このご時世、いろいろと大変ですね」

「ええ……」

宗弘は苦笑した。

会話が途切れると、宗弘は再び窓の外を流れていく景色に目を向けた。

海の向こうには小島が点在している。内海になっているこの辺りは、波もほとんどなく、朝日を受けて水面が輝きながら静かに凪いでいるのみであった。

小さな漁船が別世界の出来事のようにゆったりと航行していくのが見える。

どこか懐かしいと、明確な理由もなく宗弘は感じた。

本来、人が住む場所ではないにも関わらず、人間は海を懐かしいと感じるのは何故だろうか。

突然にわき起こった自分の感情に、宗弘はそんな形で問いかけてみた。

だが、その答えは得られなかった。

向かいの乗客は、それから三つほど先の駅で降りていった。

東京を出た頃には満席だったこの列車にも、ところどころ空席が見かけられるようになっていた。

足を延ばして、手元にある時刻表を開いた。

巻頭にある地図に何気なく目を向ける。

今通過した駅の名前を、その地図の中から探し出す。

その駅名が書かれた場所は、宗弘の長旅が既に後半まで来ていることを示していた。

その先を、指で追ってみた。このまま列車に乗り続けていれば、やがて、故郷の駅に到着する。それまでの数時間を、今までと同じようにこうして過ごしていればよいだけの話だった。

かつて、旅自体が苦労と危険を伴うものであった時代と比べれば、相当に楽なものであるのだろう。

そんな宗弘の指が、途中で止まった。

そこは、宗弘の故郷のある一つ手前の県にある大都市だった。

当然、これまでにも何度かこの駅を通り過ぎた経験がある。比較的長い時間停車するので、宗弘もホームに降りて茶などを買い求めたこともある。

ふと、その駅から別方向に伸びている路線が気に掛かった。

そちらを目で追っていくと、その路線は海に向かい、そしてその海に沿って伸びていた。

先ほどの、見慣れた海に対する懐かしさが蘇った。

そして、宗弘の頭の中で、この鉄路の目指している海の光景が像を結んだ。

(そこに行ってみたらどうだろうか)

突然、そんな考えがひらめいた。

海沿いに並んでいる駅の名前に、宗弘の知るものは一つとしてない。

だとしたら、何故、急にそんなことを思いついたのだろうか。

後に振り返ってみても、それが分かることはなかった。

(もう、家は近いのだし、少しばかり寄り道をしてみるのも楽しそうだ)

宗弘はそんなことを考えた。

(あの駅で降りさえすれば……)

見知らぬ、しかし、にわかに何かが引きつけるその土地にたどり着くことが出来る。

それほど、困難でも違和感のあることでもなかった。

そして、宗弘は通い慣れた途中駅で、初めてこの列車を見送ったのだった。


乗り換えたその列車に、乗客の姿は疎らだった。大きな荷物を抱えた老婆であるとか、まだ折り目の正しい制服を着た学生とかが、それぞれ、そこが決められた場所であるかのように座席に腰を下ろしている。

空席を見つけ、宗弘も車中の人となる。

わずか二両の列車の先頭では、半室の荷物室に段ボールの積み荷を積み込む作業が行われている。

駅の喧噪が開いたドアから伝わってくるが、列車の中はどこか別世界のように静かだった。

やがて、列車が動き出した。

ディーゼルエンジンが大きな音を立て、黒い煙を吐き出す。

車窓から見える駅の近辺のビル群は、町はずれの川を渡る頃になると民家に取って代わられ、それもやがて田園風景に主役を譲ることになる。

微妙なまどろみに身を任せながら、宗弘はその快適さに体をゆだねていたが、しばらくの後に列車がポイントを渡る揺れによって再び意識を戻されることになった。

列車は、ここから宗弘が追いかけていた海岸線沿いの支線に入るらしい。増えたり減ったりしていた乗客の数は、ここにきて落ち着いてきた。日々に利用している風な顔ぶればかりで、宗弘のような旅人の姿は皆無であった。いや、本来は宗弘も旅人ではないのだといえるかもしれない。故郷へ帰る道から、ほんの僅かに逸れただけの寄り道のつもりだったのだから。

列車は、山間を走っていた。

最盛期を誇っているかのような木々の緑が眩しかった。

長く続く上り坂を、気動車はゆっくりと登っていく。その様は、人が山越えをしようとしている姿にも似ていた。

開け放たれた窓からは、多少の排煙とともに、山の透明な空気が入ってくる。列車が進むのに応じて、すぐ脇に生えているすすきの穂が揺れる。自らの影を供にして、列車が進んでいく。

ふぁん……。

警笛の音が響いた。

大きな音と共に、列車が鉄橋に差し掛かった。下の方を流れる川を泳ぐ魚なの姿もはっきり見える。それを残像にさせるかのように、今度は突然に窓外が暗転した。轟音と共に列車がトンネルに入ったのだ。窓枠に掛けていた顔を、宗弘は慌てて引っ込めた。

洞窟などと同じような道理で、トンネルの中は涼しかった。列車の立てる音が静かになり、カタン、カタンという規則正しい音だけでこの暗闇の中を抜けていく。

やがて、そのトンネルを列車は脱した。最初に見えたのは大きな岩であり、その先に、青く輝く海のかけらが見えた。

そして、併走する道路と共に、海岸線に近づいていく。

それは、帰省の列車の中で宗弘が想像した景色と似ているようであり、異なるようでもあった。ただ、その青を見て、やはり懐かしいという気持ちを抱いたのは事実だった。

人の姿のない、片面だけの短いホームを持つ小さな駅に列車が停車した。荷物を持った中年の男性が一人だけ列車から降り、車掌に切符を手渡して、階段を下りていった。

短く汽笛が鳴り、列車が再び動き始めた。

そして、再び海を見ながら曲がる海岸線を縫うようにして走っていく。

何かに近づいているような感覚が宗弘にはあった。例えていうならば、自分の中を流れている血が、過去のこの場所の記憶に反応しているかのような、そんな感じである。

海を、懐かしいと思った感覚に似ていた。どちらにしても、この場所にやってきたことに、宗弘は満足感を感じつつあった。

東京のにせよ、これからしばらく過ごす故郷のものにせよ、緩慢な日常から少し離れてみたい思いに呼応したのかもしれない。

満足感は、期待感と言い換えられるものかもしれなかった。

穏やかに広がっている海は、その大きな包容力で宗弘を迎えようとしているのだろうか。

列車が速度を落とし、駅に到着した。

車掌の簡潔な案内放送が、行き違いのために十分ほど停車することを告げた。いくつかの積み荷が荷物室から運び出されている。それほど仕事もなさそうな駅員が、なじみになっている係員と日常的な言葉を交わし、その荷物を駅舎の方に運んでいく。

「この駅で降りてみるか……」

宗弘はそんなことを考えた。

ホームに降りると、海からの風が伝わってくる。その中には潮の匂いが含まれていた。この暑さの中、生暖かいともいえる風であったが、不思議と不快感は感じなかった。

もとより気まぐれで訪れた場所である。ここで列車を捨てるのも悪いことではないだろう。

宗弘は、鞄を持って駅舎の方に向かって歩き始めた。

線路を横切る時に、先の方から対向列車が近づいてくる姿が目に入った。

区間外の運賃を精算し、宗弘は外に出た。申し訳程度の小さなバス停がぽつんと置いてある以外には、何もないような駅だった。市街地のある方角を示した矢印を書いた看板が正面に立っていた。

背後からは、列車のエンジンの音が聞こえている。列車に乗る人たちは既に駅に入っているのであろう、こちらには人の姿はなかった。

いや、ただ一つだけを除いて。

「この町」 にやってきた宗弘を、最初に迎えたのは、物静かに見える一人の少女だった。

「こんにちは」

宗弘を以前からの知己であるかのように、少女はそう挨拶の声を掛けてきた。

笑顔が、この町に、そしてこの季節にふさわしいように思えた。

「こんにちは」

宗弘が挨拶を返すと、少女は更に嬉しそうに微笑みかけてくれた。

不躾とは分かりながらも、宗弘はこの少女を観察した。

照りつける日差しに逆らうかのような白い肌が印象的だった。清楚な印象を与える、胸元に小さなリボンのついたブラウスに、薄い水色のスカート。そんな淡さの中にある衣服が、彼女の肌の白さを更に強調しているようにも思われる。肩の少し下まで伸びている髪は、逆にひたすらに黒かった。年の頃は、宗弘よりも少し下のようである。

舞を踊るかのような軽い足取りで、まるで、この場所で宗弘を出迎えるかのように歩み寄ってきた。

一瞬、この町に既訪感を感じたが、それは当然に幻であることに宗弘は気付く。

「どちらからいらっしゃったんですか?」

先ほどの短い言葉からは判別できなかったが、外見的なそれに加えて、声にも音楽的な美しさがあるのを宗弘は感じ取った。その質問は唐突で無遠慮ともいえるものだったが、同時に、やはりこの少女は自分とは初対面であることを示してもいた。何故か、宗弘はそこに安堵を感じた。

「君は……?」

逆にそう尋ねようとした宗弘だったが、口に出す前にそれを自制した。その言葉は、始まりかけた何かを壊しかねないと思ったからだった。時期が来れば、この少女のことを知る機会もあるかもしれない。そう思った宗弘は、自分でも不思議に思うほど素直に、少女の極めて原始的な質問に答えていた。

「東京から。正確にはもう少し違うのかもしれないが……」

故郷の地名まで、補足的に付け加えていた。それほど大きな街ではないが、少女は自分の故郷の街の名を知っているであろうか。そんな期待を宗弘は持った。

「あ……、知ってます」

その答えが、宗弘には嬉しく思えた。それは、答える少女の笑顔のためだけではなかったと思う。

「でも、東京はずっと遠いですよね」

「そうだな。ここまではずいぶんと時間がかかった」

「それだけの甲斐があると思いますよ」

「そうなのかな」

少女が手を差し出してきた。

その意図が分からず、頭の中に疑問符を描いた宗弘だったが、握手を求めているということに気が付いて、慌てて自分も右手を差し出した。

最初に見たときの印象通り、その華奢な手はとても柔らかかった。少女の持つ体温が、気持ちよく宗弘の手に伝わってきた。

「私の名前は、康子といいます。あなたは?」

「宗弘……。遠野宗弘だ」

自ら名乗った少女に対する礼だと意識以前に、自然に宗弘は自分の名を伝えていた。

既に、上下の列車は駅を出発した後だった。

やがて、荷を受け取りに雑貨屋の小型トラックがやってくるまで、この小さな駅前広場に存在するのは宗弘とこの少女……康子の二人だけになっていた。

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