政康の送った書類は無事に受理され、真理子とのメイド契約はちょうど二年で満了することとなった。確認のため、会社の方から一度、電話連絡があり、それに答えることにほんの僅かだけ迷いのような気持ちがあったのだが、これは逡巡というよりはこれまでの真理子との暮らしを懐かしむ気持ちのためであったといえるだろう。
勿論、これからの政康には、真理子との新しい暮らしが待っている。
真理子の方も、正式にメイドの仕事を終わらせるための手続きを取った。真理子の働きぶりには非の打ち所がなかったが、不思議と慰留されるということはなかったようである。メイドが働いていた家に迎えられるということは、ひょっとするとそれなりにあることなのかもしれない。
契約満了の日を迎えた。政康の家でメイドとして働くのはこの日が最後になる。平日ではあったが、多忙期であるにもかかわらず強引に半日の休暇をもぎとった政康は、普段なら昼休みが終わって少しという頃に帰宅した。
駅からの道、桜の花が満開を少しだけ過ぎて咲いていた。淡いピンク色の花と、同じく淡い緑色の若葉がお互いを引き立てるように優しく枝を彩っている。更にその両者を飾るように、空には雲のほとんどない青空が広がっている。
春がこんなに気持ちよいものだということを、政康は久しぶりに実感した。今日休んでしまった分、明日からの仕事はこれまで以上に大変であろうが、今の政康にはそれを乗り切る自信も持っていた。
途中の和菓子屋で桜餅を買って、政康は家まで帰ってきた。
「ただいま」
玄関のドアを開けると、目の前に真理子がびしっとした姿勢で立っていた。見慣れたワンピースにエプロンというメイド服には一片の乱れも隙もなく、これ以上ない形で頭のカチューシャも髪を飾っている。いつもならば奥から「お帰りなさいませ」という声と共に姿を見せるのであるが、この日はまるで政康がこの瞬間にドアを開けるのが分かっていたかのように目の前にいたのである。
「ご主人様、お仕事、お疲れさまでした」
「えっ?」
「ふふっ、最後に、政康さんをそう呼んでみたかったんです。明日からはその……、別の意味のご主人様になるんですよね」
そう言って、真理子が顔を赤らめた。
「そ、そうだね」
「政康さんがお帰りになるまでに、今日はお掃除もお洗濯も全て済ませてしまいました。お夕食の下ごしらえも出来ています」
「そっか、さすが真理子さんだね、頼もしいな。あ、途中でこれを買ってきたよ。三時になったら一緒に食べよう」
「あっ、桜餅ですね。私、大好きなんです」
「この季節はいつも忙しいからね。桜の花をちゃんと見たのも久しぶりだったよ」
「心の潤いは大切ですよ。お仕事が忙しいときも、ちゃんと外の景色に目を向けてください」
「そうだね。でも、これからは真理子さんが心の潤いになってくれるから」
「は、はい……」
真理子に桜餅の包みを渡すと、政康は自分の部屋に戻って私服に着替えた。リビングに戻った真理子が、笑顔で迎えてくれる。すっかり見慣れたメイド服であったが、それは今日で最後だと思うと名残惜しいものがある。それほど、政康にとってはなじみの深いものであったのだ。
「真理子さんのそのメイド服、最初に見たときからとてもよく似合ってると思っていたけど、今日で最後だと思うとなんか勿体ない気がするなあ」
「ありがとうございます。私もこの服は気に入っているんです。朝、着替えると同時に『今日もしっかり頑張らないと』って気分になれます」
「そうなんだ……」
「あの……、もし政康さんが気を悪くしないのでしたら、これからも時々、この服を着てもいいですか?」
「えっ?」
思わぬ真理子の提案に、政康が驚いた。
「す、すみません……、変なことを言って。やっぱりよくないですよね……」
「えっ、どうして?」
真理子が謝る意味が分からずに、政康が聞き返す。それに対して、言って後悔してしまったという表情で、真理子が小声で説明を始める。
「だって、この服はお仕事のための服ですから。これから政康さんの奥さんになるというのに、お仕事だって主張するような服を着ていたら、ご気分を害されますよね……」
「そんなことはないよ。そんなに深く考えなくても。ひょっとして、真理子さんはまだ『仕事に縛られて』いるのかなぁ」
「そう……、ですか?」
「うん。真理子さんがこれからは本当に僕のためにいてくれるんだし、それには服装なんて関係ないよ。真理子さんが自分の気に入った服を着てくれるのは僕にも嬉しいし、実は、僕も出来ればそうして欲しいって思っていたんだ」
「わっ、本当ですか?」
「うん。だけど、僕の方こそ、そんなこと失礼で言い出せなかったよ」
微妙なすれ違いであった。すれ違いが遠回りを強いるようなことは、お互いの気持ちを伝える時だけで充分である。真理子は着ているメイド服を更に引き立てるような笑顔を見せてくれた。
「はい、ではお言葉に甘えさせていただきます」
「ううん、そんな言い方しなくてもいいんだよ。言葉だって、これからはもう崩してもらって構わないんだし」
「はい。でも、政康さんとお話するときはずっとこの言葉でしたから、慣れるまで少し時間がかかってしまうかもしれません」
「ははっ、そうか。じゃあ、真理子さんが親しげに話してくれるようになるのを楽しみにしてるよ」
「今までは親しげではなく聞こえていたんですか?」
残念そうに真理子が言う。幾度も変わる真理子の表情の、どれもが魅力的に見えた。
「そんなことはないよ。うーん、言葉の綾だな。僕の気持ちは分かってもらっていると思ったのに、ちょっと残念かな……」
「ご、ごめんなさい。決して……」
「うん、わかってるよ」
今度は真理子が慌てる番だった。だが、優しい言葉を掛けられて、真理子はすっかり嬉しくなった。
「おやつの時間まで、まだ少しありますよね。政康さん、お散歩に行きませんか?」
「そうだね、こんなにいい天気なんだし」
「本当は、今日いっぱいはお仕事なんですけど」
「今日は散歩も仕事の一つということにしようよ」
「はいっ。でしたら、服もこのままでよろしいですか?」
「うん。僕は構わないけど、いいの?」
「もちろんです!」
普段、例えば買い物などで外に出るときは、メイド服姿は目立ちすぎてしまうということで私服に着替えることが多いと聞いていた。ずっと前、秋の日に散歩に出かけたときは上にコートを着ていたから、真理子の服装もあまり目立たなかった。だが、今日だけはこの服装で出かけることに大きな価値があるような気がしていた。
「じゃ、行こうか」
「はいっ」
政康と真理子がやってきたのは、あの時と同じ公園だった。今は色づいた葉の変わりに、桜の花が咲き誇っている。少し早めの、藤の花も開き始めている。
「うーん、気持ちいいですね」
真理子が両手を思い切り伸ばして、空を仰いで見せた。スカートの裾がその動きに連動して僅かに翻る。隣のベンチに腰掛けていた政康は、そんな真理子の表情を眩しそうに見つめていた。
春の風を体に受けた真理子は、その春を体にまとったような気持ちになって政康の隣に腰を下ろした。
「前に、政康さんにお話ししたことがありますよね」
「うん?」
「春っていう季節、私は寂しいからあまり好きじゃなかったって」
「そうだったね。真理子さんは秋の方が好きって言ってたよね」
「はい。もちろん、今でも秋は大好きです。美味しいものもいっぱいありますし」
「ははっ。でも、春にも美味しいものはたくさんあると思うよ」
「ええ。ですから、私、春も好きになりました」
「そうなの?」
「これまでは春に寂しい思いをしたことが何度もありましたけど、それ以上に、私にとっては素敵な出会いと幸せを運んでくれた季節になりましたから」
真理子が政康のもとにやってきた二年前。そして、今日、明日という大きな区切り。それは確かに春の真ん中にあった。
真理子が政康の方に体を寄せ、さりげなさを装うように自分の右手を傍にある政康の左手に重ねた。一応、仕事の時間ということになっていたから、それは公私混同であることは知っていたが、今回はそれでもやめようとはしなかった。
政康はしばらく真理子の手の感触を味わったあと、不意にその手を真理子の上に乗せ替えてぎゅっと握りしめた。一瞬驚いた真理子だったが、その表情はすぐに笑顔に変わる。
春の景色とメイド服、それがよく似合っていた。
穏やかな空気の中で、政康と真理子はお互いの存在をかけがえのないものと感じていた。
しばらくそうした快適さの中に身を置いていた二人だったが、それだけでは勿体なくなって、並んで公園の中を歩き始めた。丘のある展望台にたどり着いたとき、真理子が自分の中にあった気持ちを政康に話したときのことを思い出した。
そこから見える風景は、その時のものとは少し違っていた。それは単に季節が別であるからというだけのものではないだろう。
言葉を交わすことなく、住み慣れてきた町の景色を眺めていた二人は、やがてこの場所を離れて再び歩き始める。
公園の散歩道には、ひなたぼっこを兼ねて歩きに来た老夫婦や、子連れの若い奥さんなどが春を満喫していた。
「あっ、お姉ちゃんの服、可愛い」
幼稚園児くらいの女の子が、目敏く真理子の姿を見つけて駆け寄ってきた。乳母車に下の子を乗せていた母親らしい女性が、それに気付いて慌てて二人の方へやってくる。
「す、すみません……、この子が大変失礼なことを……」
手を引いて女の子を戻そうとする母親だったが、真理子の方がそれを制するような形で言う。
「失礼なんてとんでもありません。こんな可愛い子に誉めてもらえたのですから、むしろ嬉しいくらいです」
なおも恐縮する母親と、手を引かれながらも不満そうにまだ真理子の方を向こうとしている女の子。
真理子はその場でしゃがみ込んで、女の子の目線に高さを合わせると、優しい声で話しかけた。
「お姉ちゃんの服、誉めてくれてありがとう。お姉ちゃんも気に入ってるんだよ」
「うんっ!」
「でも、お母さんの言うこともちゃんと聞かないとダメだからね」
「うん……、じゃなくて、はいっ!」
真理子は、優しく女の子の髪を撫でた。それに満足して、今度は母親と一緒に近くの妹のところまで戻っていった。
「やっぱり、この服だと目立ってしまうでしょうか?」
「うーん、そうだね。でも、本当は真理子さんも悪いことじゃないって思ってるんじゃないかな」
「はい。政康さん、ご迷惑じゃありませんでしたか?」
「とんでもない。僕も嬉しかったよ」
ちょっとしたことにも幸せを感じられる自分が嬉しかった。そして、それをもたらしてくれる人が隣にいるということも。
ちょうどよい頃合いになったので、外の居心地の良さに若干の未練を感じながらも、政康と真理子は家に戻った。
その日の夕食は、真理子が腕によりをかけて作ったというだけあって、とても豪華で美味しかった。
昼過ぎに政康が帰宅したときには「下準備は出来ていますから」と言っていた真理子だったが、夕方になって日が傾いてくる頃になると再び台所に入ってしばらくの間出てこなかった。
心配になった政康が台所を覗き込む。
「真理子さん?」
「あっ、政康さん。もう少し時間を頂けませんか。申し訳ありません」
「ううん。でも、さっき、下準備は出来てるって言ってたから、どうしたのかなと思って」
「はい、下準備は午前中に終わらせていたので、今、調理中です。今日は特別な日だから、手の込んだものを揃えようと思いまして」
「そうなんだ。確かに、いい匂いがすると思ったよ」
「ありがとうございます……。それと、一つだけ政康さんに謝らないと」
「えっ、どうして?」
「お預かりしている生活費なんですが、本当は少し余っていたんです。でも、今日のお料理のためにほとんど使い切ってしまいました」
「ううん、足らないっていうじゃないんだから問題ないよ。それに、少しばかり余ったお金を返してもらうよりも、真理子さんが素敵な料理を作ってくれるなら僕はその方がいいな」
「ありがとうございます」
実は、その予算も少しオーバーして、真理子は自分の財布からもお金を出していたのだが、それは政康には伝えなかった。もしそれを言えば、政康はその分を追加で自分が出すと言うだろうし、真理子にとってはそれよりも「二人で出したお金」でメイド生活最後のお祝いをすることを望んでいたのだった。
「何か手伝おうか?」
「いいえ、大丈夫です。今日はまだ私はメイドなのですから、私に全部用意させてください」
「そっか、分かった」
真理子の仕事に対する真剣さというものを知っていたので、政康はおとなしく引き下がることにした。
「ごめんなさ、わがまま言ってしまって。でも……」
「うん?」
「これからは時々、政康さんにもおうちのことを手伝ってもらいますから、覚悟していてくださいね」
そう言って、真理子はウインクした。その意味が分かって、政康は少し恥ずかしさを覚えながらもしっかり頷いた。
やがて、食事の支度が整った。
真理子が自信作というだけあって、見るだけで食欲がそそられそうな食卓が目の前に展開されていた。ベースはフランス料理をイメージしているのだろうか、もともとこの家にあるシンプルな食器が最大限に彩られるような盛りつけをされたおかずが並べられている。それを基調にしながらも、洋風のコース料理のように次々と出されるのではなく、どれに箸を伸ばしても構わないように、一度に並べられているのは、どこか旅館の料理を彷彿ともさせる。温かいうちに食べてしまわなくてはならない料理の他に、それを気にしなくてもよい冷たいおかずもバランスよく用意されているところに真理子の気遣いが感じられる。おそらくは、一人でそれを準備する上での手順も踏まえたメニューの選択なのであろう。
「わっ、すごいね、これは」
そんな気の利かない言葉しか出てこない政康であったが、言葉を飾るよりも純粋に驚きと感謝の気持ちが真理子に伝わっていたであろう。
「はい、早く席に着いてください。あと、軽くですけどお酒も用意してしまいました」
真理子の目を向けた方に、ハーフボトルのワインが置かれていた。
「じゃあ、これは僕が」
そう言って、政康はそのワインを手に取り、慣れた動作でコルクを抜いた。ぽん、という軽やかな音がすると同時に、草原をイメージさせるような淡い香りがわずかに立ち上った。
そして、真理子と自分のグラスにそのワインを注ぐ。
政康が席に着くと、それを待っていたかのように真理子もその向かいの椅子に腰を下ろす。
「政康さんと食事をご一緒するの、すっかり慣れてしまいましたけど、考えてみるとそれってすごくありがたいことなんですよね」
「どうして?」
「あくまでも、今日までの私は政康さんにお仕えする立場だったのですから」
「ははっ、そんな言い方をされると、やっぱりくすぐったいな」
「でも、好きな人と一緒に食事できるのって、とても幸せなことだと思います」
「うん。食事は人が生きていくうえでの基本でもあるからね」
政康がワイングラスを手に取った。住み慣れた家であるにもかかわらず、豪華な夕食とワイン、そして普段よりも一層美しく見える真理子が、この部屋を非日常的な空間にも仕立て上げていた。
「真理子さん、今までありがとう。そして、これからも宜しく」
「はい、政康さん。ふつつか者ですが私こそ宜しくお願いします」
グラスを重ねると、軽やかな音がした。ワインの喉越しの良さを味わった後、食事に取りかかる。
見た目だけでなく、味も充分に満足のいくものであったことは言うまでもない。真理子の料理の腕だけでなく、空腹や食事を共にする人という最高の調味料が加わっているのであるから、ある意味では当たり前のことであった。
食後の洗い物、風呂の用意と、真理子がメイドとしての最後の家事を終えた。一足先にすっきりした政康に続いて、真理子も少し長めの入浴を済ませる。ニュースを見ていた政康が、番組が終わったのでテレビを消そうとリモコンに手を伸ばしたとき、真理子がやってきた。
風呂上がりなので、既に部屋着に着替えているのだろうと思っていた政康だったが、昼間と同じメイド服姿であることに少々驚いた。
「政康さん……」
改まった姿勢で、真理子が部屋の入り口から政康の方を見つめていた。政康も慌てて立ち上がり、部屋着だからといってそれほど服装は崩れていないことを確認すると、真理子の方に体を向けた。
「私の、お仕事の時間はもうすぐ終わりです。ですから、最後にきちんと挨拶させていただこうと思いました」
実際には有名無実と化していたが、真理子のメイドとしての勤務時間には契約上の規定があった。まもなく、その午後十一時になろうとしている。
真理子なりに気持ちの切り替えと、これまで続けてきたメイドという立派な仕事に対する惜別の意も表そうとしているのだろう。おそらく、今着ているメイド服は、昼のものとは違ってきちんと洗濯された新しいものであるに違いない。
政康の家に、大きな荷物を持って初めて真理子がやってきた日のことを思い出す。今の真理子は、その時の真理子と同じであり、違ってもいた。ただ、一つ確実に言えることは、政康はこの目の前の女性を一生大切にするという決意を持っているということである。
「政康さんのもとで働けて、とても幸せでした。でも、私、もっと幸せになれるんですよね」
「そうだね、それは約束する。真理子さんの憧れていた理想の家族に、僕なりに近づいていけるように努力するよ」
「メイドというお仕事、本当に好きでした。それにお別れするのはちょっと寂しいですけど、でも、それよりもずっと素敵なものを手に入れられましたから」
「ううん、本当に手に入れるのはこれからだよ」
「はい」
真理子が一度背筋を伸ばし、それから深くお辞儀をした。数秒がたって体を再び起こしたとき、真理子は泣き顔になっていた。いろいろな気持ちの含まれた涙が、真理子の両目から溢れてくる。
政康はそんな真理子の隣に駆け寄り、その肩にそっと両手を乗せた。真理子が涙目のまま政康の胸に顔をうずめる。
真理子の背中に手を回した政康は、そこに流れる柔らかい髪をそっと撫で、その手を少しずつ上に持っていった。最後には頭を撫でられる形になり、真理子は優しく包まれるような感触を覚えた。その安心感は、これからの真理子をずっと支えることにもなるのだった。
名目と気持ちの上では重要な境目があったとはいえ、実際の生活はこれまでのものから急激に変わるというものではなかった。それは新鮮さに欠けるという意味では多少の物足りなさも感じさせたが、既にお互いのいる家がかけがえのない心地よさを生み出しているという中では、高望みというものでもあろう。
変わったことといえば、家事をする真理子の服装がメイド服から普通の服に変わったことである。エプロンを新調したこともあって、同じ台所に立つ真理子に、政康は新鮮さを感じた。
もう一つ大きいのは、真理子の寝室が変わったことである。夜、隣に一緒に寝てくれる人がいるということは、これまでにない安心感を与えてくれる。最初の数日は、お互いを意識してしまってなかなか寝付けないでいたが、そんな時はいろいろな話をしながら心地よい疲れを待つのだった。
政康の仕事の多忙期が終わり、心にも一段落付いた頃になって、二人は役所に届けを提出した。こういった展開であったから、公式のお披露目は少し先になってしまったが、晴れて二人が夫婦となったその翌日に、揃って隣の川西夫妻に報告に行った。
すっかり身重になった智香を気遣いながら、真理子が嬉しそうに役所に行ったときの様子を話す。自分の時のことを思い出した智香と、思い出話から理想の夫婦論の展開まですっかり話が盛り上がる二人に対して、政康と久志は男性らしく極めて少ない言葉の中でお互いの意を伝えていた。
話が一段落して、食べ終わったケーキの皿を台所に戻そうとする智香を、真理子がさりげなく手伝う。自分の家の台所に入ることを嫌う主婦も多いことを知っているので、お腹の大きな智香を気遣いながらもそちらに対する気配りも忘れない。
「お手伝い、させていただいてもよろしいですか?」
「あら、真理子さん、助かるわね」
「何でしたら、智香さんはゆっくりしていらしても」
「ううん、そうもいかないわよ。確かに動くのは億劫になって来てるけど、少しは体を動かさないと心身共にダメになっちゃうから」
「はい。でも、無理はしないで下さいね」
「そうね、それはよく分かってるわ」
政康たちの方からは、真理子と智香の二人は仲のよい姉妹のようにも見えたかもしれない。皿を洗っている間も、何かの話題で楽しそうに盛り上がっている。
「これからは、今まで以上に遠藤さんの……、奥さんが智香を支えてくれそうですな」
「恐縮です」
「女と違って、実際には私はまだこう……、父親としての実感が湧かないんですが、それでも、あいつの慈しむような目を見ていると、よかったと思うことがあるんですよ」
「はい」
そんな男性陣の会話を聞きつけて、智香が台所から口を挟み込んできた。
「ありがとう。でも、今は遠藤さんをもっとうらやましがらせてあげてよね」
「うん?」
「ほら、遠藤さんたちもわたしたちみたいな幸せを感じたいって思うように」
「おお、そうだな」
「この子にも仲のよい友だちって必要でしょ、やっぱり」
「と、智香さん……」
智香の隣にいた真理子が、その会話の意味を察して恥ずかしそうにうつむいた。智香は笑いながら真理子の肩に手を置くと、そっとその耳にささやく。
「よかったわね。やっぱり本当のところ、わたしたちもこういう結末になって欲しいなって思ってたのよ」
「はい、ありがとうございます」
「ま、子供のことはこれから二人で考えることにしてもね。変なプレッシャー感じさせても悪いし」
「ですから、智香さん、それは……」
「ふふっ」
最後の皿を洗い終え、蛇口の水を止めた。
「おい、二人で何の話をしてるんだ?」
リビングの久志が声を掛ける。
「ううん、ちょっとした内緒話。男の人は気にしなくていいのよ」
「そうか……」
若干、不満げに答えた久志だったが、それ以上は追及しなかった。男が働いて家族を養うという家庭では、決して女はそれに従属した低い存在ではない。寧ろ、そういった家庭をより暮らしやすくするために家では主導権を握っている存在なのであろう。世間でいろいろいわれていても、おそらくはお互いを愛し、尊重する家族というものがどんな時代になっても大切でかけがえのないものである。少し先を行く川西夫妻と、始まったばかりの遠藤夫妻は、これからその大切なものを求め、育み、示していくのだろう。
政康は、真理子の求めていた暖かい家庭というものを一方的に「与える」のでは決してない。真理子と二人でそれをより大きく育てていくことが本当の幸せなのだ。真理子も、ずっと求めていた暖かい家庭を政康と共にもっと素晴らしいものにしていかねばならない。だが、それはおそらくそう難しいものではないだろう。これから生きていく上で困難や対立はあるとしても、二人の間に根本となる愛があれば、乗り切ることは不可能でないどころか、乗り越えることさえ単なる必然ということになるだろう。
川西家を辞して、すぐ隣の家に戻った政康と真理子は、夕食までの少しの時間、久しぶりにのんびりと過ごした。甘えることを遠慮しないでするようになった真理子が、政康にとってはこれまでよりもずっと愛おしく感じられる。
肩を寄せ合うように並んで座っていた二人だったが、真理子が何か思い立ったように立ち上がると、すぐに再び腰を下ろした。
「うん、どうしたの?」
不思議そうな顔で尋ねる政康には答えず、代わりに体を横に向けると、足を伸ばしている政康の太股を枕にするようにして寝ころんだ。そして、政康の手を掴んでぎゅっと握った。
「なんだか、こういうのって素敵です」
「そうだね」
今のこの時間に、多くの言葉は必要なかった。
そして、およそ十年が過ぎた。
政康と真理子は二人の子供に恵まれ、下の子もこの年の春に小学校に入学した。上の子よりも二つ年上の、川西家の息子と一緒に毎日通っている。
そろそろ梅雨入りの知らせが南の方からやってくる季節になった。政康たちの住む街も、あと何日かで雨の季節へ突入するであろう。
だが、この日はそれに抗うかのように、気持ちよい青空が広がっている。
平日であるにも関わらず、政康と真理子は並んで家の近くの道路を歩いていた。いつもよりも少しだけ着飾っている真理子と、普段とあまり変わらないスーツ姿の政康。すっかり歩き慣れた道の途中から、ほんの僅かだけ右に入ると、賑やかな声の聞こえてくる広い敷地が見えてきた。
「えっと、真理子。あいつは何組だったっけ?」
「二組よ。三年生の教室は二階って言ってたわね」
「今朝の隆紀、一人前に緊張してたみたいだったな」
「そうね。もしかしたら、作文を読まされるかもしれないって」
「ほう、それは楽しみだな」
見ると、他にもちらほらと親らしい人たちが小学校に向かって歩いてきている。
この日は二人の上の子、隆紀の授業参観の日であった。
教室に入ると、普段は賑やかで活発な子供たちが、休み時間であるにも関わらず借りてきた猫のようにおとなしく座っている。中には、目敏く母親の姿を見つけて駆け寄ってくる子供もいたが。教室の後ろには、いろいろな表情をした親たちが並んでいる。平日ということもあるのだろうが、やはり来ているのは母親が多く、何人か父親の姿も見受けられる。父母両方が揃っているのはおそらく政康たちだけであろう。子供の数に比べて親の数が少ないのは、両親ともに仕事で忙しい家庭が多いということなのであろうか。
今日日、授業参観などというものは時代遅れなのかもしれない。保護者会で真理子が聞いてきた話によると、「両親とも来られない子供が可哀想だから、廃止すべきだ」という声が何故か学校の側から出ているということらしい。だが、多少よそ行きの姿であったとしても子供が学校でどういう授業を受けているかを知ることは重要であるし、子供にとっても試金石であるとともに晴れの舞台であることも確かである。それ故に、政康も休暇を取ってこのイベントに参加することにしたのである。
その中に、政康は息子、隆紀の姿を見つけた。隆紀も両親が来ていることに気付いたらしく、元気に手を振って見せた。真理子が嬉しそうに手を振り返してそれに答える。
ちょうどその時、チャイムが鳴った。若干の緊張の中、真理子よりも若干年上に見える女性教師が教室に入ってきた。近頃の教師にしては珍しく、きちんと落ち着きのあるスーツに身を包んでいる。今日が特別な日だからのかとも考えたが、そういう穿った見方は今はやめておくことにした。
「みなさん、今日はお父さんお母さんが見に来てくれていると思いますが、授業の方は普段通りにしますからね!」
そんな元気な声が教室に響く。政康の第一印象では、ひとまず安心できる授業風景だった。
授業時間も半ばに差し掛かり、童話を題材にした教科書の文章の音読を終えると、おそらく準備されていたのであろう、生徒たちの作文発表の時間となった。テーマは、おそらくこの授業参観に合わせたのであろう「僕の/わたしの家族」というものであった。
何日か前に書いたという作文を、当てられた何人かの子供が読むのである。時間的な制約があるので全員というわけにはいかないようであるが、誰が当たるのかは事前には決められてはいないらしく、それが子供たちを緊張させている。
「じゃ、次は……、遠藤君ね」
「はいっ」
三人目に当てられたのは、隆紀だった。一瞬だけ後ろを振り向いた隆紀は、覚悟を決めたように原稿用紙を両手に持って、自分の書いた文章を読み始める。
ぼくのお父さんとお母さん
家では、ぼくはお父さんのことを「お父さん」、お母さんのことを「お母さん」と呼びます。けれどもこの前、家族みんなでご飯を食べている時に、お父さんがぼくにこんなことを言いました。
「隆紀ももう三年生になったんだから、外の人と話すときには『お父さん』『お母さん』ではなく、『父』『母』と言いなさい」
ぼくにはまだよく分かりませんが、それが「一人前の話しかた」だと言います。
一人前っていうのは、大人のことだと思いますが、ぼくはまだ子供です。大人と子供にはさかい目はないのかなと思いました。
この前はこんなできごともありました。
お父さんは、お母さんのことをぼくの前では、ぼくみたいに「お母さん」とよびますが、この前、ぼくが部屋で勉強をしているときにはお母さんのことを、「真理子」と名前でよんでいました。
その時のお母さんはとてもうれしそうな顔をしていたので、ぼくもお父さんのまねをしてお母さんのことを「真理子」とよんでみました。
お母さんはびっくりしていましたが、お父さんはぼくの肩に手をおいて、
「隆紀は、お母さんに向かってそんな呼び方をしてはいかん」
と言いました。
ぼくが、
「どうして。お父さんはこの前、そう呼んでたよ」
と聞くと、お父さんはわらいながら、
「まず、目上の人を呼び捨てにしてはいけない。それに、お前にとってのお母さんと、父さんにとってのお母さんというのは違うんだ。お前は将来、好きな人が出来たり、けっこんしたときにその人を名前で呼びなさい」
と言いました。
その時のお父さんはきびしい言い方だったけど、目は怖くなかったのでぼくは安心して、
「うん」
と返事しました。今はまだよく分からないけど、きっと大人になればお父さんが何を言いたかったのかが分かるようになると思います。
あと四年くらいたって中学生になれば、電車に乗るときも大人と同じお金を払わなければならないそうです。ぼくがほんとうの大人になるのはまだずっと先だと思うけれども、その時にはぼくも、お父さんとお母さん、ぼくと妹がいるような、すてきな家族が出来たらいいなと思いました。
本人は何気ない日常の出来事を素直な気持ちで書いたのであろう。しかし、それをこうした公の場で発表されて、政康は少しばかりの居心地の悪さを覚えた。
隣の真理子も同じように感じているらしく、嬉しそうな恥ずかしそうな表情を周囲に見られないように、僅かに顔を俯けている。
帰り道、政康は真理子に言った。
「隆紀の作文、よく書けているとは思うが、ちょっと恥ずかしかったな」
「ええ。でも、あなたに名前で呼ばれたときの私って、そんなに嬉しそうな顔をしているのかしら?」
「いや、あいつの言うことは正しいと思うよ。子供といってもよく見てるものだな」
政康が答えると、真理子は慎ましやかにそっと政康の腕を取った。政康の肘のあたりを掴みながら、真理子が子供の作文の中で指摘されたような嬉しさのあふれる表情で政康の方に顔を向ける。
「今日の夕食は、隆紀の好物にしてやらないか、真理子?」
「はいっ」
名前で呼ばれた真理子は、表情を更に明るい笑顔へと変える。
「そうしたら、一緒に買い物して帰るか。隆紀の好物というと、カレーか?」
「そうね。でもあの子、一人前に『外で食べるカレーより、お母さんの作るのの方がずっと美味しいよ』なんてお世辞を言うのよ」
「はは、そうか。でも、隆紀のその言葉はお世辞なんかじゃないと思うぞ。真理子の手作りは本当に手間暇かかってるから、そこらのカレーじゃ勝負にはならんと思うな」
「そこまで、あの子は気付いているのかしらね」
「さあな。でも、真理子の素晴らしさは僕が一番よく知ってるよ」
「はい」
幸せは笑顔を生み出すものであるといえるだろうが、一方で笑顔が更に幸せをもたらすということもある。今の政康と真理子の家庭は、常にそういった暖かさの中にあった。
「はじめまして。わたくし、高山真理子と申します」
初めて真理子に会ったとき、そう言って笑顔を向けてくれたことを政康は思いだした。真理子との時間はそこから始まった。そして、それから様々な出来事があり、今の真理子も自分の隣にいてくれる。
真理子が政康の方に笑顔を向けた。花の咲いたような笑顔というのはこのようなもののことをいうのだろう。
そして、二つの真理子の笑顔が、政康の中で重なった。