旅行から帰った政康と真理子は、再びこれまで通りの生活に戻った。
前に感じていたような居心地の悪さは完全になくなり、自分の気持ちを隠さずに表に出すことが出来るようになっていた。それは、政康にとっては真理子に対する感謝の気持ち、真理子にとっては政康に喜んでもらいたいという純粋な気持ちをこれまで以上に内包することになり、自然にこの家は笑顔と心地よさ、暖かさに包まれるようになった。
とはいえ、表面的には今までの暮らしとは変わってはいなかった。朝食の支度をして、しっかり活動のための栄養を摂取した政康を見送った真理子は、掃除、洗濯などの家事をてきぱきとこなす。そして軽い昼食を取りながら台所にある食材をチェックして、夕食のメニューを考えながら買い物に出かける。天気のよい日には洗濯物を外に干すだけでなく、布団も日に当てることにする。時々、ベランダで隣の家の智香と顔を合わせて雑談をすることもある。
冬の寒さは厳しかったが、日中の陽光はそれを多少は和らげてくれた。年が変わる頃になると、智香のお腹が大きくなっているのが傍目にもはっきりと分かるようになってきた。慈しむように腹部に手を当てる智香を、真理子はうらやましそうに見ている。
「子供の教育って大事だから、今からいろいろ勉強してるのよ」
「智香さん、案外気が早いんですね。でも、きっとたくさん愛を受けていい子に育つと思います」
「ありがとう。この子が大きくなるまでは遠藤さんや真理子さんにも迷惑かけてしまうかもしれないけど、宜しくね」
「はい。私も楽しみにしているくらいですから大丈夫です。それにほら、私はずいぶん気楽な立場で接することが出来ますから」
「あら、真理子さんも意外に言うわね」
真理子にとっては、政康に対するのとは別の次元で智香に対して親しく接することが出来るのだった。智香にしてもそんな真理子の存在が、出産という不安も伴う出来事を目の前にした自分に対する安らぎにもなっていた。
「ところで……」
勿体ぶったような言い方で智香が真理子に話を向ける。ベランダの端に体を預けながら、直接的には向かい合わずに話をしている二人というのは多少、滑稽であったが、改めて部屋に戻ってどちらかがもう一方を招待するというような話でもないので、そのままひなたぼっこを兼ねた雑談は続く。
「なんでしょうか?」
「真理子さんは、考えたことはないの?結婚する自分とか、母親になるという自分とか?」
「えっと……」
その不意を付かれた問いかけに、真理子は言葉を詰まらせた。勿論、考えたことがないことはなかったが、それはまだ、例えば年頃の女の子が漠然と持っているような漠然としたイメージであり、目の前に子供を宿している智香がいたとしてもそのイメージを具体化するところまでは到達していなかった。ただ、そのイメージは完全に夢想の世界にあるというのではなく、端的に言えば少なくともその相手については自覚を持っているとしてよかった。
「私も女ですから、とても憧れています。智香さんを見ているとうらやましくも思えるんです。でも、まだ大人になりきっていないんでしょうか。はっきりとしたイメージは思い浮かばないんです」
「そう?でも、遠藤さんはいいお父さんになれそう、ってそんなことを考えたことはない?」
「えっ!その……」
かなりの程度、的確に心の中を突かれて、真理子は狼狽した。しかし、まだそれをはっきりと公言することは出来なかった。しかし、その狼狽は真理子の真意をはっきりと智香に示す形になっていた。結婚し、子供を産もうとしている智香は、真理子とは一回り役者が違うともいえる。
「悪いことじゃないと思うわよ、そう考えるのは。それに、私も真理子さんと遠藤さんならよくお似合いだと思うしね」
「でも、私にとって政康さんは……」
その先を真理子は言うことが出来なかった。真理子の理性としては「私にとっては雇い主であって、お仕えするのは仕事の域を出ることはない」と言うべきだとしていたが、当然、それにとどまるものではないことは真理子自身がよく自覚していた。同時に、そういった表面を取り繕うような言い方をすれば、その言葉自体に望まれない存在価値を与えてしまい、それが真理子の本心が別のものを求めているにもかかわらず、取って代わられてしまうのではないかという危惧を持っていた。結局のところ、真理子は政康と結ばれることをはっきりと願っていた。ただ、願ったからといって周りを見ずに一直線に走ってよいということにはならない。それを真理子は知っているからこそ、普段は今までと変わらぬようにメイドとして政康に接していた。だが、政康が「メイドに対する優しさ」以上のものを真理子に見せてくれたときには、自分の感情を偽ることなく、心の底から幸せを感じてそれを受け取った。そして、そのことは間違いなく政康に伝わっているはずである。
真理子はこれまで家の外の人間に対して、雇い主である政康のことを名前で呼ぶことはなかった。真理子は今、自分が「政康さんは」と言ったことに気が付いていなかった。それだけ、真理子の中には雇い主として尽くすべき存在のみではない政康を認識しているということであった。智香は、真理子が「政康さん」と言ったことに対して僅かな違和感を覚えたが、具体的にそれがどういったものであるかまでは考えが及ばなかった。ただ、直感的に真理子にとっての政康の存在がこれまでとは違っているということは察していた。
「いいのよ。真理子さんのことだからあまり追及するとまた考え込んじゃいそうだし」
「す、すみません……」
「ただ、最近真理子さんを見ていて、嬉しそうに働いているのが分かってこっちも楽しくなっちゃうわね」
「そ、そうですか……」
「だから、真理子さんは将来もきっといいお嫁さんになりそうって思うのかしらね」
「あ、ありがとうございます」
「ふふっ、またね」
洗濯物を干し終えた智香が、言いたいことだけを言い残して家の中に戻っていった。
「ありがとうございます……」
真理子は智香のいた空間に向かって小声でそう言うと、自分も残りを済ませて部屋に戻った。
その日の晩、計ったように食事の支度が整った瞬間に帰宅した政康を、一層嬉しそうな表情で迎えた真理子は、それに気付いた政康にあえて曖昧な言い方で答えた。
「今日の真理子さん、なんだか嬉しそうだけど、いいことでもあったの?」
「たぶん、そうです」
「たぶん?どういうことなんだろう?」
「うーん、私にもよくは分からないんです」
食事の準備が整ったのと、政康の帰宅が同時だったことだけでも真理子を嬉しくしていたのかもしれない。
冷めないうちにと、着替えもせずにリビングのテーブルに着こうとした政康を、真理子は諫めて着替えさせる。
「お気持ちは嬉しいですけど、ちゃんと着替えてこないといけません」
「そうかな」
「よそ行きの服装のままでは、リラックスしてお食事することはできません」
「うーん、わかった」
真理子にそう諭されて、急いで着替えた政康は、今度こそとその美味しそうな料理に手を伸ばす。勿論、その味は期待したとおりであった。
「そうです、そうです。今日、お洗濯を終えたあとにベランダで……」
真理子は昼間に智香と話したことを話題にした。智香のお腹が順調に大きくなっているということ、自分も智香の子供に何かしてあげたいということなどを話す。ただ、その時に指摘された政康への気持ちはさすがに言うことは出来なかった。
「ちょっと自慢になっちゃいますけど、仕事ぶりも智香さんにお褒めいただいたんです」
「そうなんだ。でも、川西さんの奥さんの言うことは正しいよね。当たり前だけど、僕は奥さんよりもずっと多く真理子さんの仕事ぶりを見ているけど、本当によく働いてくれると思うよ」
「ありがとうございます」
「特に、一緒に旅行に出かけてからかな。こういう言い方をしたら失礼かもしれないけど、僕の気持ちを今まで以上に酌んで先回りしてくれているような……」
「はいっ」
実際、真理子の目指しているところはそこであったこともあり、それを感じてもらえたことがとても嬉しかった。
「これからもずっと、宜しく頼むね」
「はい、もちろんです」
その政康の言葉に、額面以上の意味が籠められていたとしても真理子は、完全にはそれを受け取ることは出来ていなかった。政康も同じように完全に深い意味を籠めていたわけでもない。二人の関係は単なるメイドと雇い主という関係からは既に脱却しており、お互いに好意をはっきりと抱いていたのではあるが、それが即座に恋愛関係になるいうほど単純なものでもなかった。
だが、その間に存在するかけがえのない安らぎの空間というものの中に政康と真理子の身はあり、今はその場所にいるということを実感して享受していた。
勿論、特に政康にとってはそんな居心地はよいが曖昧である空間に居続けることを諾としているわけではなかった。政康は真理子といられることを幸せに思い、出来ればそれを壊すような賭に出ることはしたくはなかったが、その賭なくしては今の幸せは有限なもので、いつかは失われるものであろうということも自覚していた。
政康は、男としてそれを黙って手放すつもりは当然なく、浮ついた気持ちを戒めながらも、自分が与えられる幸せというものについて考え続けていた。
そんな時、二度目の更新書類が政康のもとに届いた。
ちょうど一年前に見たものと同じ封筒を、真理子は政康の机の上に置いた。一年前は、居心地のよくなっていた職場でもあるこの家で働き続けることが出来るかどうかということが気がかりで、落ち着かない気分でその封筒を運んだ真理子だったが、今年はそういった危惧はなく、他の普通の郵便物と同じ気持ちで政康の机に持ってきた。
秋の旅行の思い出だけにとどまらず、真理子にとって普段の生活そのものが安心感を持っていた。真理子は単なる仕事以上の気持ちで政康に接していたし、政康の方もほぼ同じであった。
二年目が終わってからも、政康とは今までと同じように暮らしていくことが出来る。真理子はすっかりそう信じ込んでいた。勿論、その先のことを望み、メイドとしてではなく別の形で政康に寄り添えるようになることを望んではいたが、それは短期的に得られるようなものではなく、お互いのことをもっと分かり合った上でもっと真剣に考えていくべきものであると思っていたのである。
であるから、今の真理子はおそらくは更新手続きの書類が入っているであろうと思われる封筒を見てもさほど動揺するということはなかった。寧ろ、「真理子さん、手続き済ませてきたよ」という政康の言葉を心待ちにしている自分がそこにはいた。
期せずして、その日は、二月の十四日だった。
ひと月以上前から、巷のデパートやスーパー、菓子屋などではバレンタインデーのキャンペーンを張って、チョコレートを店先に並べていた。質にしても価格にしてもピンからキリまであるなかで、老若関わらずに女性が真剣に品物を選んでいる姿も、一種の歳時記的な光景になっていた。
この日の朝、真理子は珍しく自分の方から政康に頼み事をした。朝食のメニューはトーストにプレーンオムレツといった洋食に揃えられていたが、食後の僅かな余裕の時間に紅茶のお代わりを頼んだとき、それを政康の前に置きながら真理子はこう言った。
「あの、政康さん。出来ればでいいんですけど、今日は少し早めに帰ってきていただけませんでしょうか?」
「うーん。特にせっぱ詰まった仕事があるわけじゃないから、大丈夫だと思うよ。さすがに定時っていうのは無理だと思うけど」
「おおよそでいいんです、何時くらいになりますか?」
「そうだね、会社を出るのが六時過ぎくらいかな。七時くらいにはここに戻れるように努力するよ」
「はい、ありがとうございます」
「でも、珍しいね、真理子さんがそんなことを言うなんて」
「今日は、ちょっと特別な日……、いえ、特別な事情があるんです」
「そっか、楽しみにしてるよ」
直接口には出さなかったが、真理子が何を企図しているのか、政康が何を期待しているのかはお互い、相当の確度で察していた。今の二人の間柄であるからこその楽しみであるともいえる。
政康を見送った真理子は、いつもより手早く家事をこなすと、張り切って台所に立った。
「いつもよりちょっとだけ手を抜いてしまいました。ごめんなさい」
誰もいない台所で、政康の部屋の方に向かって深々とお辞儀すると、エプロンの裾を直して気をつけの姿勢を取る。そうして気合いを入れると、早速チョコレートづくりに取りかかった。材料は昨日の買い物の時に揃え、台所ではなく自分の部屋に置いてあった。平日は滅多に台所に立つことのない政康だったが、念には念を入れている。
デコレーションを用意しながら、チョコレートの湯煎を進めていく。温度計を使って適温を保持するように気をつけながら攪拌していると、その規則的なリズムに従って自然に歌が真理子の口から出てきた。この台所を使うようになってからかなりの時間が過ぎているが、本当の意味で仕事を離れて使うのは初めてとまではいわないが相当に久しぶりである気がする。そして、それを政康のためにやっていると思うと、自然と真理子の心は楽しくなる。
昨年は、バレンタインデーの少し前の休日に街に出てチョコレートを探して買ってきたのを思い出す。まだ、私用で台所を使うことに申し訳なさを感じていたというのもあったのだが、既製品を選ぶにしても、政康に対する感謝の気持ちを籠めるために真剣に、より気に入ってもらえそうな品物を探した。当日、受け取った政康はとても嬉しそうな顔を見せてくれたのが真理子にとっても幸せであったのだが、今年はもっと欲を出して手作りに挑戦することにした。
さすがに普段から作り慣れているものというではないので、果たしてよい出来映えのものに仕上がるのか心配していた真理子であったが、菓子づくりは別にしてもほぼ毎日台所に立っている真理子のセンスは、作るものが多少慣れぬチョコレートだからといって損なわれるようなものではなかった。
数時間をかけて出来上がったチョコレートは、飾りも思った通りに施され、味の方もしつこすぎない甘味にまとまった高い水準のものとなっていた。全体として真理子の可憐なイメージをも包み込んだ美しさを持ちながら、食べやすさにも配慮して一口大にすぐ取り分けられるようにも工夫されている。
自分でも予想以上である出来映えに満足した真理子は、用意した箱におよそぴったりに収まるのを見て、ガッツポーズをするように小さく手を握った。そして、包装紙とリボンで綺麗にラッピングすると、メッセージカードを添えて自分の部屋に運んでおく。あとは政康の帰りをまつばかりである。
「あ、でも、今日は政康さんは早く帰ってくるんですよね」
時計を見て、真理子は自分がそう頼んだことを思い出した。政康が早く帰るのならば、夕食の時間もそれに合わせてすこし早めにしておかねばならない。
台所にはまだチョコレートの香ばしい匂いが残っており、それを消してしまうためにもそろそろ料理に取りかからないとならないだろう。
そう思った真理子は、鏡の前で服を整えると、再び台所に立った。
「ただいま。時間は……、大丈夫みたいだね」
ちょうど七時に、政康が帰宅した。夕食の支度はまだ途中であったが、真理子は一時それを中断して玄関の方に向かう。
「おかえりなさいませ。今日も一日、お疲れさまでした」
「ありがとう。午後になって急な仕事が入って焦っちゃったけど、なんとか間に合ってよかったよ」
「そうだったんですか。あの……、私のために無理に帰ってきてしまったということはありませんか?」
「あ、それは大丈夫。ちゃんとその仕事は終わらせてきたからね。むしろ、真理子さんが待っていてくれると思うと、いつもよりもはかどったよ」
「そ、そうですか」
そう言われて真理子は恥ずかしそうに言った。照れ隠しをするように政康のコートを受け取ると、一足先に政康の部屋のクローゼットに向かう。
「あ、ありがとう。ご飯ももうすぐ出来るのかな?」
「はい、すぐに支度が整います」
「今日はお昼を軽めにしておいたから、もうお腹が空いてるよ」
「では楽しみにしていて下さいね」
「うん。とりあえず着替えてくるよ」
「はい」
真理子は手早く続きの調理を終えた。この夕食の時間まではお互い、意識していてかいなくてか、普段の光景と変わることはなかった。
夕食後、ソファでくつろいでいる政康は、台所で洗い物をしている真理子と話をしていた。その話の内容は食事をしながらの雑談の延長であったのだが、ふとあることを思い出して問いかけた。
「そういえば、真理子さんは今日、僕に早く帰ってきて欲しいって言ったけど、なにか重大な用事でもあるの?」
「はいっ。重大って言われると照れてしまいますけど、今日は特別な日って申しましたよね?」
「うん、朝、出かけるときにそう言ってたね」
「政康さんにお渡ししたいものがあるんです。たぶん、政康さんも察してくださっていると思いますけど」
「実は、僕もそれなりに期待してた。ひょっとして今年は手作りとか?」
「ふふっ、それはどうでしょうか。これが終わったら、準備しますのでもう少し待っていてくださいね」
「準備?もう少しかかるんだったら、部屋で待ってるよ。済ませておかなきゃならないことがあるんだ」
「わかりました」
部屋越しに真理子の笑顔を見ながら、政康は自分の部屋に入る。そして、机の上に置かれた封筒から書類を取り出すと、一転して真剣な表情になった。
真理子の気持ちに応えたいと本気で考える一方で、政康は自分が今の立場からどうしたいのか、そしてどうできるのかということを年明けあたりから真剣に考えていた。
自分が真理子を好きであるということははっきりしていたし、おそらく真理子も同じ感情を向けていてくれるのも間違いないと思っている。だとすれば、今のように曖昧な位置に自分を置くのではなくはっきりと言葉に出してその好意を伝えるべきだと思っていたが、にわかにはその決心も付かず、日々先送りするような形で過ぎてきてしまった。
そして今日、バレンタインデーという微妙な日を迎え、ひょっとするとそのイベントに合わせる形で真理子が先んじて気持ちを伝えてくるのではないかという期待を持つと同時に、男としてはっきりと好意さえも口に出せないで現状にいる自分を叱咤する気持ちもあった。もし、お互い好意を持つ間柄だったときに、それをはっきり表に出すのが女性の側からであったということになれば、それは恥ずかしいと思うのが政康の正直な気持ちだった。しかし、同時に自分の考えていることが単なる自意識過剰なのではないかという畏れも一方ではあり、慎重さという綺麗事を名分として歩みを進められない自分を責めるような気持ちも存在していた。
そんな時、この更新書類が届いたことは、ある意味で政康に現実をはっきりと認識させた。真理子には当然言ってはいなかったが、金銭的には相当の無理をしても契約を続けることは次の一年が限界である。実際には既にそんな無理を強いられるところまで来ていた。だから、真理子がこの家で働いてくれている今の環境が政康にとっては幸福なものであったとしても、それは期限の定められた極めて不安定なものなのである。そして、そんな今の幸せも、究極的には金銭で購っているものであるという後ろめたさもあった。
書類に書かれた無機質な条項を眺めていると、政康はその冷酷な現実を突きつけられたように感じられる。
そうだとすれば、政康にとって自分が求めているものが明らかである以上、その書類に記入すべき内容ははっきりしていた。
鉛筆立てからボールペンを取り、自らの背中を押すような気持ちで最初に住所などの必要事項を記入した政康は、一瞬、ペンを止めた後にはっきりとした意思で契約継続の諾否欄の選択肢に丸をつけた。
これで自分の気持ちははっきりした。だが、実際にそれを真理子に伝えるまでには少しの時間があり、それがまた自分を後押ししてくれるだろうとこの時の政康はそう考えていた。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。
「真理子さん?どうぞ」
政康はボールペンを机の上に置いて、そう返答した。
すぐに真理子がお盆の上に紅茶とお菓子を持って現れた。立ち上る紅茶の心地よい香りが、政康の疲れを癒した。
「あの、待ちきれなかったので持ってきてしまいました。せっかくの紅茶が冷めてしまうのも残念ですし」
「あ、ごめん。ひょっとして何度か呼んでくれた?」
「いいえ、政康さんの邪魔をしてはいけないと思いまして、リビングで待っていました」
「それは申し訳ないことをしたね。紅茶と……」
ティーカップの脇にある、リボンで飾られた箱に政康は気が付いた。
「今日は何の日か、ご存じでいらっしゃいますよね?」
腰を落とした姿勢で机の上にカップを置こうとしている真理子が、僅かに上目遣いで政康の方に目を向ける。
「ひょっとして、これはチョコレートなのかな?」
「はいっ。政康さんに心の籠もったものを差し上げられるように、頑張って作ったんです」
「真理子さんの手作りか。勿体なくて食べられないかもしれないね」
「そんなことおっしゃらないで下さい。一所懸命作ったのですから、召し上がってもらえないとそちらの方が悲しいです」
真理子の表情が変わる。勿論、政康はそんな真理子の気持ちをとても嬉しく思っていたので、見上げる真理子の肩にそっと手を置いて微笑みかける。
「大丈夫、冗談だよ。早速、頂いてもいいかな」
「はい。あの……、私もお隣、よろしいでしょうか?」
「あ、そうだね、ごめん。気付かなくて」
「いいえ、とんでもありません。私の分、向こうに置いたままなので持ってきます」
嬉しそうな声を残して、真理子はリビングにある自分の分の紅茶を取りに行った。そして、まずそちらから椅子を一脚運び込み、もう一往復して紅茶を持ってきた。
「お隣、失礼します」
カップを政康の皿の隣に置いた後、そう言って腰を下ろした真理子は、僅かに緊張した様子でスカートの上に手を揃えて置いた。
きちんとした姿勢は、本来以上に人を美しく見せる。今の真理子はそんな感じの姿をしていた。政康の方は自分の部屋ということもあって多少緩んだ姿勢で座っていたが、真理子を見てきちんと椅子に座り直す。
「さて、頂こうか」
「はい、でもその前にちょっと待ってください」
「うん、どうしたの?」
「実は、もう一つバレンタインのプレゼントがあるんです。これ、なんですけど……」
そう言って、真理子はエプロンのポケットから細長い箱を取りだした。政康もよく知っているデパートの包装紙に、花を形取ったリボンが飾られている。
「ありがとう。真理子さんの手作りのチョコだけじゃなくって、これまでもらってしまっていいの?」
「はい。男の方の品物を買いに行くのは初めてでしたので、お気に召して頂けるかは分からないのですが、政康さんさえよろしければ使ってください」
「というと、箱の大きさから推測してネクタイか何かかな?」
「はい、ご名答です」
「うん、大事に使わせてもらうよ」
政康はそう言って真理子から包みを受け取ると、机の脇にそれを置こうとした。真理子は一瞬だけ残念そうな表情を見せた。しかし、すぐに政康の真意に気が付いて心を落ち着けた。蛇足ながら付け加えると、政康は、贈り物を受け取ったときその場で包装を開けるのは失礼であり、後ほど改めてお礼の気持ちを伝えることがマナーであるという考えの持ち主であった。真理子は、その場で開けてもらって喜ぶ顔が見たいと思っていたのであるが、政康のような価値観の持ち主もあることを知っていたから、今ではなく、例えば明日の朝の政康の言葉と嬉しさに期待する気持ちになった。以前に帰省土産としてキーホルダーをもらったときには、それほど肩肘張ったような贈り物でもなかったのでその場で開けさせてもらったのだが、今回は政康にとってはその時のキーホルダーとは比べものにならないほど意味のあるものだったのである。
政康は受け取った包みを机の端にある空間に置こうとした。そのすぐ傍には、先ほど記入していた更新書類があり、包みの動きを目で追っていた真理子はその書類に書かれている内容を目にすることになった。
しかも、ちょうど真理子の視界に入った欄が、契約書類に於いては一番重要となる項目であった。その内容を知った真理子は、驚きのあまりに表情を一変させ、光のような速さで顔を政康の方に向ける。
その欄、即ち更新の諾否を記入する項目には、「更新せず」と書かれていたからである。
「政康さん……」
手に取っていたティーカップを危うく落としそうになり、真理子は慌てて指に力を入れ直した。このカップも、以前に台所の戸棚の奥に眠っていたのを真理子が見つけてきたものであり、デザインも真理子の気に入っているものであった。それが今は急速に虚しいものに感じられる。
「あっ」
真理子の見たものに政康も気が付いたようである。そして、真理子がそれを見てどう感じたのか、政康にも明らかに分かった。
政康は狼狽したが、それは書類を見られたことに対してではなく、純粋に目の前の真理子の表情に対してであった。この書類は別に隠す必要のあるものではないと考えていたからこそ、この場所で政康は真理子とティータイムを楽しもうと思ったのであるし、真理子に契約の更新について伝える場合、結果的には政康が考えていたよりも極めて極めて早くその時期が到来することになってしまったのであるが、真理子が最初はそういう反応をするであろうということはある程度は予測できていたからである。
「政康さん、どうしてですか?私……」
真理子は、全く疑うことなく契約は更新され、次の年もこの家で働くことが出来ると信じていた。それが覆されたことが、真理子を大変に悲しませ、次の言葉を出すことを出来ないまでに追い込んだ。政康のいる場所から離れることは、一つの可能性としてもし考えられるのだとしても、真理子の心がそれを受け入れることは出来なかった。
「私、政康さんにとっては……」
次々と溢れてくる感情は、真理子自身も把握できない様々なものの混合であった。悲しみや悔しさ、政康への純粋な気持ち、そのようなものが交互に現れてくるのであれば、まだ真理子にとってはそれを受け止めて表に出すことも出来たのであろうが、それら全ての気持ちが同時にこみ上がってくると、政康に問いたいことはいくらでもあるにもかかわらず、一つも言葉にすることは出来なかった。
こぼれ落ちた気持ちは水滴となり、真理子の二つの目からあふれ出た。真理子は本能的に顔を両手で覆って、うつむいて声を上げる。声を出して泣いたことは、もう久しくなかったことにすら気付かなかった。涙の雫がひとつ、ふたつと長いスカートの布地の上にこぼれ落ちる。
そんな真理子を見て、政康は逆に冷静になっていた。
書類に更新しないことを記入したことは、政康にとっては一つの覚悟を示すものであった。だが、自分の本当の気持ちをはっきりと真理子に伝えるには未だ少しの時間を要するものと考えており、書類を会社に送ってから真理子に話すまでの時間がその猶予期間になるはずだった。
だが、もうそういった時間を持とうとすることは許されない。天が「幸せになりたいのなら、男らしくしっかり決めろ」と言っているようなものであった。
泣いている真理子を見て、政康ははっきりと悟った。そうさせることは許されないし、真理子には泣いて欲しくはないと。だから、政康はこの瞬間にこれまでの曖昧な気持ちにはっきりと別れを告げて、真理子に声を掛けた。
「真理子さん」
毅然とした声だった。その声が普段のものとは違うことが当の政康にもはっきりと分かった。
真理子は、これまでに聞いたことのない政康の声に、咄嗟に顔を上げた。涙はまだ止まらなかったが、手は外して膝の上に置いている。
「はい……」
政康が厳しい表情で真理子を見ていた。勿論、それは重大な告白を真理子にするためであったのだが、混乱している真理子はそれを感じ取ることは出来ず、支えを失った人形のように崩れ落ちそうになった。
次の瞬間、政康の胸に飛び込んだ真理子は、再び嗚咽しながら同じ言葉を繰り返した。
「政康さん……、どうして、どうしてですか?」
服と下着越しに、真理子の涙とそれに内包されている体温が政康に感じられた。自然、真理子の肩を抱きかかえるような姿勢になった政康は、そっとその手に力を加えて真理子の体を起こす。
真理子は再び政康の正面に座る形となった。その真理子に、政康は静かに、そして強く説明を始めた。
「真理子さん、僕は真理子さんにここから離れて欲しいと思っているのではないんだ」
「えっ?」
「もう一度言うね。僕は、真理子さんにここから離れて欲しいと思って、あのように書いたわけではないんだ」
それを聞いて、真理子の涙がようやく止まった。だが、政康のその言葉と、自分の見たものから考えられる状況の差が釈然としない。頬を伝わる涙を指で拭こうとする真理子に、政康はちり紙を取って渡す。頬を撫でる真理子の指の白さとその仕草にも愛おしさを感じ、政康は自分の気持ちが確かなものであり、求めているものに一片の曇りもないことを確信した。
「真理子さん、カチューシャがずれちゃってるよ」
政康が手を伸ばして、綺麗な髪を飾っている白いレースのカチューシャを正しい位置に戻す。
「ありがとうございます」
まだ涙目ではあったが、真理子はその優しさをどうしようもないほどに嬉しく感じた。だが、それは真理子にとっては些細な嬉しさである。政康の始めた説明はこういったものだったからである。
「書類に僕は、確かに『更新しない』と記入したよ。だけど、それはメイドとしてではなく、別の形でこの家にいて欲しいと伝えたかったからなんだ」
「あの、それは……」
「今までは、メイドの真理子さんが僕のためにいろいろ尽くしてくれるのがとても嬉しかったし、感謝もしている。だけど、一緒に暮らしてきてそれだけではない気持ちを今は持つようになったんだ。僕は、真理子さんを一人の女性として好いている。だから、今度はメイドとしてではなく、一人の女の人として僕とここで暮らして欲しい」
一気に言い終えた政康は、しっかりと真理子を見つめていた。
「だから、更新などもう必要ないと思ったんだ。勿論、これが僕の一方的な気持ちなのは分かっている。真理子さんにそのつもりがないのなら、このままだと前よりももっとこの家には居づらくなってしまうと思うし、だとすれば書類に書いた選択はどちらにとっても悪い結果にはならないと思うんだ」
「……」
「多少、自意識過剰なことを言えば、真理子さんも僕によい気持ちを向けてくれていると思っているんだ。だけど、僕ははっきりとそれに答えることが出来ずに来た。状況に甘えてね。だから、これは一つのけじめになると思っているんだよ。繰り返しになるけど、真理子さんにそのつもりがなければ、単にこの家での仕事が終わったと思って出ていってもらえればいいから」
「そんなことありません!」
身を乗り出すようにして真理子は言った。
「もし、真理子さんがが僕の気持ちを受け入れてくれずに、春からは一人暮らしに戻ることになるのだとしてもたぶん大丈夫だよ。もともと僕はそんな生活をして暮らしていたんだし、元に戻るというだけのことだから。食べ物だって今はコンビニもあるし、安い外食だってあちこちにあるからね」
そんな言葉を聞いて、真理子はこの家に来てすぐに見た、ある光景を思い出した。台所の隅に捨て忘れているインスタント食品の器が大量に転がっていたことを。政康にもう、一生、そういった生活をして欲しくはないと思った。
「そんなの、ダメです。私……」
「真理子さん……」
真理子が政康に抱きついた。そして、顔を政康のすぐ近くまで上げ、こう宣言した。
「ずるいです、そんな言い方。政康さんのお食事は……、これからもずっと私が作ります」
そして真理子は政康の肩に両手を置いた。今度は政康が驚く番であった。
「それって……」
「はいっ。わたし、政康さんのお嫁さんになります」
真理子ははっきりと言った。涙顔の代わりに花の咲くような笑顔がそこにはあった。
真理子は肝心なことをまだ伝えていないことに気が付いた。
「私も、政康さんのことが好きです。ここでずっと一緒に暮らしたいです」
今度はその笑顔から、前とは全く違った意味の涙が溢れてきた。そんな真理子を、政康はそっと抱きしめた。
自分の胸に顔をうずめる真理子に、政康はそっと語りかける。
「ありがとう」
その短い言葉には多くの意味が含まれていた。だが、それらを含む言葉に対して、真理子は顔を政康の胸の中に置いたままで横に振った。
「どうしたの、真理子さん?」
何度も首を振るので、心配になった政康が真理子の顔をそっと静かに起こす。名残惜しさを含むようなそのゆっくりした動作によって、涙目の真理子の顔が政康の前に来る。もう一度首を横に振った真理子が、政康に向かって言う。
「私は、自分の気持ちを正直に伝えただけですから、政康さんにお礼を言われるようなことではありません」
「でも、僕は気持ちを受け取ってもらえてよかった」
「それは、私も同じです」
「真理子さんの気持ち、今日は最高のプレゼントだったよ」
「でも、本当は今日は女の人が渡す日なのに、政康さんに先に言われてしまいました。言い訳しますと、本当は今日は……」
「うん。僕もそう思ってたから」
二人とも、期待は大きく持っていたとしても、この日にそれがこのような形で具体化するとは思っていなかったのである。勿論、だからといってその気持ちが単に一時の勢いに押されたような軽々しいものなのではないことははっきりとしているだろう。結果として、お互いがお互いの気持ちの背中を押すことになった。そして、その結末はご覧の通りである。
「政康さん、大好きです」
そう言って、真理子が政康に抱きついてきた。座ったままであったので不自由な姿勢ではあったけれども、政康はその不自由すらも心地よく感じていた。
今、真理子の体に触れている。真理子の体は、思っていたよりもずっと華奢で柔らかかった。真理子の髪は、思っていた以上に滑らかで美しかった。
「僕は、ずっと真理子さんが僕に気持ちを向けてくれればいいと考えていた。でも、それを確かめるのが怖くて出来ずにいたんだ。真理子さんがこの家で働いてくれるのだけでも僕には充分すぎて、それを壊すことが怖かったんだと思う」
「私もです。最初はもちろん、政康さんのことは優しい雇い主という気持ちでしか見ていませんでした。ですが、そうでなくなったときから怖くなって……。政康さんに家族のように思って頂いていると分かってからはもっと怖くなりました」
「怖く?」
「はい、私がずっと望んできたものが、もしこのまま手に入ってしまうのが怖かったんです。なんだか、夢みたいな気がして」
「でも、真理子さんはずっと望んできて、そのために努力もしてきたんだろう?僕なんかと違って」
「はい、ずっと望んでいました、暖かい家庭というのを。お仕事で疲れて帰ってきた旦那様を笑顔で迎えて、その疲れを少しでも和らげてあげられる、そんな風景をずっと夢見ていました」
「うん」
「それは、今のお仕事で一部は叶っていたんです。でも、旦那様を本当の旦那様にしたくて……、そのうち、その姿が具体的に……、政康さんになって」
「真理子さん……」
「だから、お風呂上がりの自分を政康さんに見られてしまったとき、その正直な気持ちも見透かされたようで怖かったんです。その後、あまりお話もしていただけなくなってしまって……」
「そっか……」
政康と真理子の間には、若干の誤解があったようである。しかし、一方ではその事件が二人がこうして結ばれるようになった一連の物語の始まりであったともいえるだろう。
「政康さんと一緒に出かけた旅行で、一緒にお風呂に入って、分かりました。わたしはこの人の隣にずっといたいんだということが」
「ありがとう」
「ですから、政康さんは『ありがとう』じゃないです」
「そうだったね」
二人は顔を見合わせて笑った。そして、同時に二人が視線を向けた先には、先ほどの書類と、真理子が運んできてそのままになっているチョコレートと紅茶が置いてある。
「あ、これを頂かないと」
「はい、忘れてはいけませんよ。私にとっても自信作なんですから」
「じゃ、早速……」
一片を口に運び、味わうのを真理子はじっと見つめていた。さすがに恥ずかしくなった政康が何か言おうとしたとき、真理子の指が政康の唇に伸びた。
「自信作でも、美味しいと言っていただけるかは気になるんです。それと、お口にチョコがついています」
真理子は、政康の唇に触れた指をそのまま自分の口に入れる。その一連の動作が、政康には魅惑的に感じられた。そのため、発しようとしていた言葉が失われてしまった。
「うん、すごく美味しいよ」
結局、政康の口から出たのはそんな月並みの言葉だった。そのまま、ティーカップの方に手を伸ばして、紅茶の方も口に入れる。
「ごめんなさい、もうすっかり冷めてますよね」
真理子が慌てる。立ち上がって台所に戻ろうとする真理子を制して、政康が言った。
「ううん、気にしないで。真理子さんの入れてくれた紅茶、冷めていても今の僕にはちっとも冷たいとは思えないから」
「えっ?」
「真理子さんからもらった気持ちでカバーしてもらってるからね」
実際、不思議なことに適温の紅茶よりもずっと美味しく感じられている。
そして、真理子も自分のカップに手を伸ばした。
「私の紅茶も、政康さんに温めてもらいましたので美味しいです」
輝くような真理子の笑顔が、政康にとっての宝物であった。
翌日、表面上はいつもの通りに真理子の作った朝食を食べている政康が、あたかも今思い出したかのような言い方で真理子に言った。
「そうそう、素敵なネクタイ、どうもありがとう」
「あ、はいっ」
そのネクタイを、今まさに政康は身につけているのであるが、真理子はそんなことは最初から気が付いていたようである。
「昨日は真理子さんからたくさん素敵なものをもらってしまったけど、これも勿論、忘れていないよ」
「はい。でも、私の差し上げたもの全て合わせたよりももっと素敵なものを政康さんは下さいました」
「これから、もっとあげられるように努力するよ」
「はいっ」
コーヒーカップに伸ばした政康の手に、真理子が自分の手をそっと重ねた。それだけでも、昨日の朝とは全く違った幸せが実感できる。
おそらく、メイドとして働くのは残りわずかということになろうが、それまではしっかり自分の仕事を成し遂げたい。そう思った真理子は、極めて大きな公私混同をしていることに気付き、慌てて自分の手を戻す。
「うん、どうしたの?」
「い、いいえ、なんでもありません。政康さん、出来ればあまり遅くならずに帰ってきてくださいね」
その程度の希望を伝えるのなら、公私混同にはならないだろう。
「そうだね、でも、昨日も早く帰ったから、ちょっと頑張らないと。でも、真理子さんのためなら頑張れると思うよ」
「はいっ、嬉しいです」
「じゃ、いってくるね」
「はい。あ、でも、ちょっとお待ち下さい」
その声に応じて振り向いた政康の前に、真理子が立った。玄関の段差のために、二人の身長差がほぼなくなる。真理子は政康の胸元にそっと手を伸ばした。
「ほんの少しだけ、ネクタイが曲がっていました」
そう言うと、真理子は優しく政康のネクタイの結び目を動かした。実際には気にならない程度のものであったかもしれない。
「これで大丈夫です。いってらっしゃいませ」
「ありがとう」
政康は、真理子の笑顔に見送られて家を出た。玄関先で軽く手を振る真理子。それはこれまでともほとんど変わらない朝の光景であったが、二人にとっての世界は既に大きく変わっていた。