秋が深まりつつある中、この日は好天に恵まれた。久しぶりに朝日が気持ちいいと感じた政康は、手早く着替えて真理子の支度の整うのを待つ。
窓の外に目を向けると、ほとんど雲のない空が広がっている。天気ばかりは文字通り天に任せるしかないものであったので、まずはこの幸運を政康は感謝した。
男の政康は大した準備もないので、昨日のうちに整えておいた荷物を持ってリビングのソファに座る。そして、五分ほどたったころ、真理子が申し訳なさそうな様子で部屋から出てきた。久しぶりに見る私服姿の真理子が、政康には新鮮に思えた。上下で濃淡を持たせた、柔らかめのコートにゆったりしたロングのフレアスカート。中に来ている白のハイネックのニットが肩や胸の曲線を自然に彩っている。髪も普段とは違った可愛らしさを感じさせるピンク色のリボンで飾られている。普段のメイド服姿も捨てがたいものがあったが、そんな秋らしく落ち着いた装いの今の真理子はそれとはまた違った魅力を見せている。
「すみません、お待たせしてしまって……」
「いや、僕も支度が整ったばかりだから気にしなくてもいいよ。まだ時間にも余裕はあるしね」
「よかったです。昨日は嬉しくてなかなか寝付けませんでした」
「へぇ、真理子さんでもそういうことってあるんだ」
「政康さんに旅行に連れて行ってもらえるのがすごく楽しみで」
「そっか。企画した甲斐があったかな」
「それはもう!」
「うん。じゃあ、そろそろ行こうか。時間には余裕を持って行動した方がいいしね」
「はいっ」
政康が自分と真理子の両方の荷物を持って立ち上がる。
「あの、政康さん……」
それに気付いた真理子が遠慮がちに声を掛ける。
「あ、真理子さんの荷物なら僕が持っていくよ。真理子さんはそっちだけでいいから」
小さなハンドバッグだけを持ったままの真理子に目を向けて、政康は笑顔でそう言った。
「ですが……」
「今日から三日間は真理子さんは仕事じゃないんだし、大きな荷物は男の方が持つのは当たり前だよ。だから気にしないで」
「は、はい。ありがとうございます」
「もともと、真理子さんの慰労っていうことで今回の旅行になったわけだからね」
「はい」
「だから、僕に気を遣ったりしないで真理子さんは楽しんでくれればいいよ。もちろん、僕も旅行を楽しませてもらう予定だから」
「わかりました」
駅までの道は、政康にとってはなじみのものであったはずだが、今までになく新鮮に感じられた。普段なら気付くことのなかった路傍の花などを話題にしながら、あっという間にたどり着いてしまう。
二回ほど乗り換えて空港に到着し、あとは一気に飛行機で目的地の近くまで向かう。
真理子は飛行機に乗るのは初めてだといい、チェックインの手続きまで興味深そうに眺めていた。
運良く窓際とその横に席を確保できた政康は、真理子にA席のチケットを渡す。
「なんだか、わくわくします。でも、ちょっと怖いですね」
「そうだね。真理子さんの席は窓側だし、今日は天気もいいから景色がよく見えると思うよ」
「はいっ。政康さんは飛行機には何度も乗ったことがあるんですか?」
「うん、何度と言っても一、二年に一回くらいだけどね。今回みたいに遠いところに旅行するときはやっぱり飛行機かな」
「なんだか尊敬しちゃいます」
「ははっ、それくらいで尊敬されてたら、しょっちゅう出張に行っている人なんか神様になっちゃうよ」
「ふふっ、そうですね」
環境が変わったためか普段よりもはしゃいでいるように見える真理子が、政康には新鮮に見える。同時にそんな真理子のちょっとした仕草にも可愛らしさを覚える。それは自分の気持ちがどこにあるのかを極めて端的に示していた。だが、この旅行はあくまでも真理子に対する慰労であり、妙なものを求めてはいけないと政康は心を戒める。今までのような雰囲気になってしまっては元も子もないだろう。
好天のためもあって、飛行機は順調に飛んで目的地の空港に到着した。離陸して今までいた大地を上から眺めることが出来たとき、青空を背景に雲海を進んでいる時、そして、初めての土地を空の上から眺める時、真理子は窓の外に釘付けになった。狭苦しい座席もそんな真理子のおかげで快適に感じられる。
真理子の指差す川や山の名前を当てて見せたりしながら、道中はあっという間に過ぎていった。空港からバスに乗り、一時間ほどで最終的な目的地である小さな街に到着した。
「わぁ、素敵な場所ですね」
満面の笑みを浮かべながらのそんな言葉が、真理子の第一声だった。
街の少し外れにある駅に隣接するバスターミナルを離れると、既にそこは見慣れた町とは異なった雰囲気を持つ景色になっていた。小京都を称するこの街は、落ち着いた古風な雰囲気に彩られており、そういった背景の中では道行く人たちや通る車もどこかクラシカルに見えてくるのだから不思議なものである。
奥の方に見える山並みは適度に色づいており、それも真理子を感動させた。
「うん、来てよかったね」
そんな真理子の喜ぶ姿を見て自分も嬉しくなりながら政康が答える。
一世代ほど前であったなら、全国どこででも見られたような町並みが、真理子たちにとっては新鮮なものに映っている。近代的なマンションで暮らしている二人にとっては、木がその存在を主張しているだけでもどこか懐かしさが染み渡ってくるような感覚を得る。
「はい。今日のお洋服、どれにするかとても悩んだんです。でも、これでよかったです」
落ち着いた色合いのコートとロングスカートという装いは、確かにこの街の雰囲気にもよく似合っているように思える。そして、駅前のコインロッカーに荷物を預けるときに慌てて取りだしてきた帽子をやさしく頭に乗せる。それによってリボンが隠れてしまうのは少々惜しい気もしたが、そんなよそ行きの真理子の姿が政康には街の風景よりも更に新鮮に感じられる。
「そうなんだ?」
「今日はいい天気でしたから、明るめの色でまとめようとも思ったんです。でも、山の方にある街に行くっておっしゃっていましたから、それだとちょっと寒いかなとも考えました」
「そうなんだ。そっちの真理子さんも見てみたかったかな」
「ふふっ、でも明るい色の似合う季節って、もう少し暖かい頃なんですよ」
「そっか。でも、そんなことを聞くとなんだか申し訳ないなあ」
「えっ、どうでしてですか?」
「いや、僕は男だからかもしれないけど、服装のことなんかほとんど考えずに、あるものを適当に選んできたような感じだからね」
「そうなんですか?」
「うん。クローゼットの一番手前にあったシャツとズボンを着てきただけ。真理子さんはいろいろ考えて服を選んできてくれたというのにね」
「でも、政康さんの服装もよく似合ってます。私、政康さんはワインレッドとかよく似合うと思っているんですよ」
確かに、今の政康が来ているのはその色のシャツだった。デザインはシンプルであったが、それだけに真理子には政康の持つ落ち着きと男らしさを感じさせてくれるのだろう。
「ありがとう」
「それに、実は……」
「うん?」
「怒らないで聞いてくださいね。実は、政康さんがそれを着てくれる可能性が高くなるように、一番手前にそのシャツを選んで掛けておいたんです」
いたずらを白状したときのような、ちょっとばつの悪い表情で真理子がそう明かした。
「そうか、真理子さんの計略だったんだ」
「あっ、計略は言い過ぎですっ」
「ごめん、ごめん。でも、真理子さんが僕の服装を気に入ってくれているんだったらそれに越したことはないよね」
「はい、ありがとうございます」
晩秋に差し掛かろうとしている山間の空気はもう冷たいものになっていたが、柔らかい日差しのおかげで、日の当たる場所ではあまり寒さは感じられない。政康にとっては隣に真理子のいることも心理的な暖かさを感じる要因ともなっていただろう。
それほど歳が離れているわけでもないが、周りにある軒であるとか、老舗の店に置いてある樽や駄菓子などを見るたびに、政康の視線はどちらかというと懐かしさを含有したものであるのに対して真理子のそれはもの珍しさを見せるものであった。
「真理子さんはこういったものを見たことなかったの?」
「はい。私の育った街もどちらかというと新興住宅地に近いところでしたし、あまり旅行に行く機会もなかったんです」
「そっか。僕も住宅地に住んでいたけど、学生時代はよく旅行に行ったりしたからね」
「うらやましいです。今度、いろいろ旅行のお話しを聞かせてください」
「うん。なんだったら今でもいいけど?」
「いいえ、今はこの街を楽しまないとダメです」
「ははっ、そうだね」
そう言うと、真理子はまた新しいものを発見して、政康の手を引かんばかりにしてそちらに吸い寄せられていく。真理子の見つけだしてきたものの中には、政康にとっても初めて見るようなものもあったが、分かる範囲でどんなものであるかを説明していく。
「政康さん、すごく物知りですね」
「いや、そんなことはないよ。前に見たことがあるってだけで、実際に使ったことなんかはないし」
「ですよね……。でも、例えばお釜でご飯を炊いたらすごく美味しいって話は聞いたことあります」
「そうみたいだね。僕の両親の子供時代くらいだとそれが当たり前だったみたいだけど」
「なんだか、勿体ないですよね」
「そうだね」
そんなことを話ながら歩いていた政康と真理子は、商家の並んだ地域から川を挟んで向こう側にある区画に向かっていった。川も護岸のあるような無粋なものではなく、ススキの生えた河原のあるのんびりしたものであった。橋の上からよく見ると、鯉が優雅に泳いでいるのもわかる。
その先の区画は、かつては武家屋敷が並んでいた一帯らしく、重厚な門構えの家がいくつも並んでいた。白塗りの壁が現役で残っているところもある。
「時代劇の世界に紛れ込んでしまったみたいです」
「そうだね。それにしてもこんなに広い家はうらやましいなあ」
「でも、お掃除が大変ですよ」
真理子がちょっとだけ困ったような表情で言った。
「それもそうだ。さすが真理子さんの視点かな」
「えっ、その……、恥ずかしいです」
「前に真理子さんが働いていた屋敷っていうのもこれくらい広かったのかな」
「そうですね……。建物の広さがここからだとよく見えませんけど、敷地はもう少し広かったと思います。でも、お庭の広いお屋敷でしたから」
「そうなんだ。それと比べると僕の家はずいぶん窮屈だよね」
「そ、そんなことはないです。いつも家の人が近くにいる方が私は好きですし」
「そうなんだ」
「はい、やはり同じ家にいるのですから、距離は近い方がいいと思うんです」
「本当の家族じゃないとしても、それに近いのが私には理想です」
「うん」
普段の家の中ではあまり出来ないような会話が自然に展開していた。見慣れたメイド服姿にも勿論大きな魅力はあるが、今のようにいつもとは違った環境で真理子と話すのもとても楽しいと思った。この旅行がきっかけで、居着きかけている気まずい雰囲気が一掃できることを政康は望み、それはおそらく叶えられそうな予感がした。それが政康を安心させる役割にもなったのか、今日の政康は少し饒舌にもなっていた。
「家族にしても、真理子さんのようなメイドさんにしても、住んでいる家に人がいてくれるっていうのは本当に幸せなことだと思うよ。単に真理子さんの仕事ぶりだけじゃなく、真理子さんがいてくれることだけでも僕にとっては嬉しいことだよ」
「そんなこと、勿体ないお言葉です……」
「ちょっとそれに甘えて真理子さんに家事は頼りすぎているけど、それを除いても、来てもらって本当によかったよ」
「はい、そんな素敵な言葉を掛けてもらえる私は幸せ者だと思います」
それがメイドとしてであるのか、それとも一人の女性としてであるのかははっきりしなかった。だが、その真理子の言葉は掛け値ない事実であるのは確かだった。
「真理子さんが家族っていうものをとても大事に思っているのが分かるけど、僕が少しでもそれに近いものをもたらすことが出来ていたらいいなって最近は思っているんだ」
「はい……」
「たぶん、決められているお給料の他に僕が真理子さんにしてあげられることってそのくらいだと思うしね」
「それくらい……、なんてことはないです。とても嬉しいです」
まだ、政康と真理子にとって、言葉に出して言えることと実際に望んでいることを完全に一致させることは出来なかった。だが、二人の感情的な距離はこれによって大きく縮まったとはいえるだろう。
秋の陽はそんな二人を優しく照らし、並んだ影も嬉しそうに二人に従っていた。
駅前から歩き始めて一時間ほどがたち、散策ルートの終点になる公園に到着した。
元々はこの一帯を支配していた武家の庭園であったというその公園の中心には広い池があった。温泉の源泉でもあるその池の水はこの季節であるにもかかわらず少し温かかった。
政康たちの他にも、多くの観光客がいて同じように池の水を触って驚いている姿が見られた。借景でもある山並みの紅葉も美しい。
「ちょっと座って休もうか。何か飲み物でも買ってくるね」
「はい、ありがとうございます」
「真理子さんは何がいいかな?」
「そうですね、温かいお茶がいいです」
「了解。すぐ買ってくるから、ここで座って待っててね」
「はい」
政康は財布の中に小銭が残っているのを確認すると、駆け足で隣接する土産物屋にある自動販売機に向かった。売っているお茶はどこにでもある銘柄のものなのが残念であったが、手早く二つ買うと両手に持って真理子の方へ戻る。
「ありがとうございます。楽しかったですけど、やっぱりちょっと疲れてしまいました」
「ははっ、そうだね。僕もかな……。運動不足かも?」
「お互い気を付けないといけないかもしれませんね」
乾杯の仕草で、プルタブを開けたお茶の缶を重ねる。残念ながら音は澄んだものではなく妙な低いものではあったが、それもどこか楽しくて政康と真理子は顔を見合わせて笑う。
座っていると少し寒さが感じられる。温かいお茶はそれを埋め合わせるような感じで体の中に染み渡っていく。
しばらく休息して、土産物屋を少し冷やかした後、二人はちょうどやってきたバスで駅前まで戻った。
そしてコインロッカーに預けた荷物を取り出すと、今日の宿になる温泉旅館へ向かうことにした。
駅から徒歩圏でありながら、市街地の外れの方にあるその温泉旅館は、重厚な建物が落ち着いたたたずまいを見せていた。真理子の慰労の旅ということで少し張り込んだということもあるが、それでも旅行代理店の勧める割引プランというのでなければなかなかこのような老舗の旅館に泊まることは出来ないだろう。
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」
中に入るとすぐにこの旅館の女将とおぼしき年輩の女性が姿を見せた。華やかではあるが決して派手さは感じられない上品な柄の和服を着こなして、優雅ともいえる仕草で政康たちを出迎える。
「本日、宿泊をお願いしている遠藤と申します」
その間にもう一人の女性が出てきて、手早く政康と真理子の荷物を手に取った。
クーポンを渡したり、宿帳に記入したりしている間に、部屋に案内する準備が整ったらしく、女将に案内されながら奥の廊下の方へと進んでいく。
ほどなく、奥まった和室に到着する。やはり上品な仕草で入れてもらったお茶を目の前にしながら、食事の時間についてとこの宿の売りである温泉についての説明を受ける。お茶を入れる一連の動作を真理子は興味深く見つめていて、さすがであると政康は妙な感心をしていた。
深々とお辞儀をして女将が部屋を辞すと、ようやく政康は落ち着いた気持ちになって大きなためいきをついた。
「とても丁寧で素敵な方ですね」
真理子が自分と政康の二着のコートをハンガーに掛けながら言う。
「あっ、ごめん。僕のもやってもらって……」
「いいんですよ、それくらいは私にさせてください。今日はこんなに楽しませていただいたんですから」
「うん、ありがとう。さ、真理子さんもお茶、いただこう」
「はい」
「でも、慣れないせいかああやって丁寧におもてなしされるとちょっと肩が凝りそうだな……」
「私もです。いつもは自分の方が何かをして差し上げる立場ですから、ちょっととまどってしまいます」
「そっか。でも、今日は真理子さんは本当にゆっくりしてもらっていいからね。歩き回ったこともあるし、少し疲れてるでしょう?」
「はい、ちょっとだけ疲れてしまいました。でも、政康さんと一緒に町歩きをして本当に楽しかったです。なんだか、見るものがみんな新鮮で」
「真理子さんみたいな若い女の子には退屈かもしれないと思ったんだけどね」
「何をおっしゃるんですか。私を『若い』なんていうほど政康さんとは歳が離れていません」
「そうかな?確かに普段はあんまり意識していないけど」
「そういう言い方をしていると、本当に早く老け込んでしまいますよ」
「うっ、気を付けないと」
「そうですよ」
笑いながら真理子が言う。
「政康さんと一緒に住んでいる家も新しいものですし、昔ながらのおうちって憧れてしまいます」
「僕も好きだけどね」
「でも、本当に住むとなるとやっぱり大変そうです」
「ははっ、そうだね。そういえば、真理子さんとこうして畳の部屋で向かい合って座るのは初めてかもしれないね」
「はい。それもなんだか嬉しいです」
普段はどちらかというと洋風に近い家に住んでいて、基本的にはメイド服姿で自分に接してくれているのだが、今のように和室にいる真理子というのにも上品さが感じられる。きっと和服を着ればこれもまた水準以上に似合うのであろうかと政康は想像した。
「畳というと、こう、ばーっと寝っ転がれるのがいいよね。さすがに真理子さんの前ではそんなことは出来ないけど」
「いえ、遠慮なさらなくてもいいですよ」
「いや、やっぱり遠慮しておくよ。真理子さんもそうしてくれるんなら別だけど」
「私は……恥ずかしいです、そんな」
「ははっ、冗談だよ」
お茶菓子を口にしながら、真理子は昼間に町の中で見てきたものをいろいろと思い出しながら楽しそうに話す。その表情が掛け値なく嬉しそうに見えたので、政康もこの旅を企画して本当によかったと思った。
話が途切れると、真理子は窓の外に広がる景色に目を向けた。
夕方が夜に移るぎりぎりの時間で、奥に広がる山の稜線が沈み掛けている夕陽で赤く縁取られていた。そのすぐ上の空までもう夜の帳が降りてきており、上の方には既に星がいくつも輝いていた。
「わぁ、こんな素敵な景色が見られるんですね」
「おっ、これはすごい」
真理子に手招きされた政康がその隣に並んで同じ風景を眺める。窓を開けると外は既にかなりの寒さになっていたが、そうまでしても見る価値のある景色だった。
今の時刻からわずか五分前であっても後であっても同じ景色にはならないであろう。今の季節と時の移り、そしてこの場所という組み合わせが生み出す、おそらく唯一の景色であった。そして真理子にとっては政康が、政康にとっては真理子がその唯一の要素に加わっていた。
どちらも意識しないうちに肩を寄せ合うような形になっていたが、二人ともその事実には気付かなかった。
やがて日は完全に沈んでしまい、山の景色も見えなくなった。ようやく寒さに気が付いた真理子は慌てて窓を閉めた。そして、暖房が再び部屋を温めるまでの間、部屋を冷やしてしまったことを謝ったが、当然、政康にはそれを責めるような気持ちは微塵も存在していなかった。
それから他愛のない話を続け、そろそろ空腹が感じられるようになったころに部屋のドアを叩く音が聞こえてきた。
「お食事の支度が整いましたが、お運びしてもよろしいでしょうか?」
「はい、お願いします」
部屋の向こうから聞こえてきた声に答えると、三人ほどの仲居が慣れた動作で食事を運び込んでくる。
日本旅館特有の、充実しすぎた食事である。刺身や天ぷらから始まり、山菜や芋の煮付け、茶碗蒸し、郷土料理の類まで実に十皿はあるだろう。固形燃料で温めるタイプの小さな鍋料理もあり、いくら一皿が少ない量だといっても全て食べきるのは大変そうである。政康でさえそう感じるのだから、真理子の方はもっとそうなのであろう。
「お客様は、お酒は飲まれますか?お嫌いでなければ、地酒を一本サービスさせていただいておりますが」
「そうですか、それでしたらお願いします」
「かしこまりました。ご主人様の方におかせていただきます」
「あ、はい……」
その「ご主人様」という言葉に、自分が使うのとは違う意味のものを悟って、真理子は思わず顔を赤らめた。そして、そんな自分に気付かれないように、僅かに顔をうつむける。政康も、ある程度はそういう覚悟は出来ていたのであろうが、実際にそう言われるとどうしても赤面を免れ得ず、若干詰まり気味に返答するのだった。
最後に椀が置かれ、櫃を横に置いて仲居が戻っていくと、真理子が感嘆と焦りの混ざったような声を上げた。
「す、すごいですね……。どれも美味しそうですけど」
「そうだね、さすがに全部は食べきれないかな。真理子さんも無理しないでね」
「はい……。ご飯とお椀が冷めないうちにいただきましょう。政康さん、お茶碗を貸してください」
櫃を自分の手元まで引き寄せた真理子が、政康の方に手を差し出した。それがあまりにも自然な動作だったので、もともとはそういうつもりがなかったにも関わらず、半ば反射的に伏せてある茶碗を手に取って渡してしまった。
「あ、ありがとう」
素直に真理子の気遣いに感謝することにして、控えめにご飯の盛られた茶碗を受け取る。真理子も更に控えめにご飯を盛り、自分の前に置いた。
「では、いただこうか」
「はい、いただきます」
二人で同時に手を合わせ、食事を始める。同時に政康は手元に置かれた徳利から先ほどのサービス品の地酒を注ぐ。
「ごめんなさい、気付かなくて」
「いいから、いいから。うん、いいお酒だね」
勢いよく一口で飲み干すと、質のよい日本酒特有の芳香が体に染み渡るように感じられる。
「次は私が……」
真理子が身を乗り出して徳利を手に取って二杯目を注ぐ。
「真理子さんも少し飲んでみる?」
「えっ、いいんですか?」
「うん、嫌いじゃなければだけど、どうかな、せっかくだから」
「はい、私はお酒、強くないので少しだけ」
「了解」
真理子の手から徳利を受け取って、半分くらいを慎重に注ぐ。そして、お互いの杯を軽く重ねる。ちん、という心地よい音が部屋に響いた。
「あ、ちょっと苦いですけど、美味しいです。あとちょっとだけ下さい」
「うん。よかったらもっと頼む?」
「それは……。他にもいただくものはたくさんありますし」
「そうだったね。食事の方にも取りかからないと」
真理子があまり酒に強くないと言ったのは社交辞令というのでもなさそうだった。ほんのりと顔を赤く染めた真理子が非日常的で、今の環境もあってか何か特別なようにも感じられる。
「人様に作っていただいた食事はやっぱり美味しいです」
という真理子に政康は思わずほほえみかけてしまう。
「これだけ立派な食材を使っているんだし。普段の真理子さんの食事だって、全然負けていないと思うけどね」
「そんなことないです」
何故か強く言いきろうとする真理子に、政康は笑顔で答える。
「まあ、旅館の特別な料理と比べるようなものじゃないけど、真理子さんの食事が美味しいと思うのは本当だよ」
「ありがとうございます」
「これからも宜しく頼むね」
「もちろんです。今日はこんなによくしていただいて、私は果報者だと思います」
「ははっ、真理子さんは大げさだな」
確かに、食事は非の打ち所のない美味しさだった。だが、それは一緒に食べる人がいてのことでもあるのだと政康は実感していた。
結局、政康はなんとかほとんど全ての皿を片づけたが、真理子は半分くらいを食べきれずに残してしまった。だが少しだけでも口を付けて、それぞれの料理の味を満喫した。
「お行儀が悪いというのは分かっているのですけど……」
そう言って申し訳なさそうにする真理子に、政康は言った。
「旅館の料理って、全部食べきるようにとは考えていないから気にしなくていいと思うよ。それより、食事はどうだった?」
「それはもちろん、とっても美味しかったです。食べ過ぎてしまったので明日から少し控えないと……」
「ははっ、僕はそんな必要はないと思うけど。寧ろ、気を付けないといけないのは僕の方かも……」
「さすが男の人はすごいですね。美味しいものが全部食べられるっていうのはちょっとうらやましいです」
「そうかも。でも、さすがにお腹いっぱいだよ」
食事の後、仲居が下げに来るまで話していて、ようやく腹具合が落ち着いてきた。
人に給仕されるのに慣れていない二人はその様子を隅の方で申し訳なさそうに眺めていたが、部屋が元通りになるとようやく落ち着いてきた。
月がやや明るく立ち上る湯気を照らしていた。点在している小さな電灯も幻想的な雰囲気を醸し出していたが、それよりも夜空に大きく輝いている丸い月の存在が大きいといえる。
食後の満腹感が一段落した後、政康はこの旅館の自慢であるという離れの大きな露天風呂にやってきていた。到着したときに説明されたように、母屋から少し離れた場所にあるこの温泉は中央にある茅葺きの建物を囲うようにして何ヶ所かに区分けされている。単に広いだけの男女別大浴場というものと違い、家族連れや熟年の夫婦などという客層にも配慮したものとなっているらしい。
少し遅い時間にきたためだろうか、この時間は他に入浴している客もないようだった。服を脱ぐとさすがにこの季節の夜の空気は冷たく感じられたが、温かい湯を前にすればそれもすぐに忘れられるように思える。これまた情緒を誘うような木の桶で湯を汲んで、体を何度か流した政康は、早速タオルを頭に乗せて広々とした風呂に足を入れる。一日歩き回った足をねぎらうかのように、湯の温かさがしみこんでくるように感じられる。
入る湯は別にしても、真理子と連れ立ってくるつもりだった政康は、どうしても真理子が固辞するので、女の子の場合はいろいろと準備も必要なのかもしれないと察したふりをすることにして先にやってきた。
自分が立てるお湯の音と、奥の岩の間から豊富にわき出る新しい湯が注ぎ込む音以外にはほとんど物音のない静かな空間だった。時々、ずっと奥の方にあると思われる道を車が通り過ぎる音がすることに何となく安心感を覚えるようなそんな静寂の中にあった。
久しぶりに手足を思い切り広げられる開放感を満喫していた。その中で、今日一日の出来事を思い返してみる。飛行機に乗っているとき、バスの中で船をこぎかけているとき、町歩きの間にいろいろなものを興味深く眺めているとき、公園でお茶を飲みながら話をしているとき、この旅館に着いて夕陽を眺めた時、一緒に食事をしたとき、景色以外はおよそ真理子がそこにいたといってよかった。それは当然でのことではあったが、自分がそこまで真理子を意識しているということに改めて政康は驚かされた。誰もいないのをいいことに、この静かな空間に自分の心を言葉にして暴露しようかとも思い始めたとき、入り口の方から物音がが聞こえるのに気が付いた。
「うん?」
その小さな声は湯の音にかき消された。音が聞こえたことも気のせいではないのだろうかと感じたとき、今度は音だけでなく何かの影が動いたのが湯気越しに認められた。
外の夜空に向いていた体を内側に向き替える間に、それがはっきりとしてくる。バスタオルを巻いた人のシルエットで、その曲線は明らかに男性の体格とは異なるものであった。
まさか、という直感がある期待と共に政康を貫いた。そして、それは結果として裏切られることはなかった。
「あの……、政康さん」
遠慮がちに声を掛けてきたのは、紛うことなく真理子であった。セミロングの髪を後ろで束ね上げ、余分な印象を与える衣服は身につけていない姿ではあったが、そこにいるのは間違いなく真理子であり、自分の聞いた声も確かに彼女のものであった。
「ま、真理子さん……」
さすがに政康は驚きを隠せなかった。というよりは、今の状況を全く想定していなかったということであろう。だが、一方で政康の視覚は真理子に吸い寄せられていた。バスタオルを巻いた真理子のゆるやかな足の曲線が政康に強力な印象を与える。そんな真理子の美しさ、そしてそこから感じられる恥じらいの前には、邪な気持ちは全く生じなかった。そして、それは同時に前に自分の家で見た風呂上がりの真理子に対する意識を全くうち消す結果にもなった。
「はい」
他にも空いている区画はあるはずであり、それにもかかわらず真理子がここにやってきた真意がまだ政康には理解できていなかった。
その疑問の一部に答えるかのように、立ち上る湯気にすら吸い込まれて消えてしまいそうな小声で真理子が言った。
「お背中をお流ししようと思いまして参りました……」
「えっ、でも……」
「あの、差し出がましかったでしょうか?」
その不安そうな声が政康を責め立てる。しかし、普段暮らしている間にも、一度もそういう機会はなかったし、政康もそのようなことは期待してせずに過ごしてきた。
真理子にとってはこの旅行に対する感謝の気持ちがあると共に、自分の背中を押す一つの意を決した行動であったのだが、政康をして動揺せしめた効果は極めて大きいものであった。
「そうではないけど……。でも、もし僕に対する仕事として意識して来てくれたのだったら……、この旅行中は……」
全く気の利かない言葉を政康は発したものだった。真理子は詰まりながらまだ何か言葉を出そうとしている政康を遮って、はっきりと告げた。
「いいえ、決してそういう気持ちで来たのではありません」
その言葉に後押しされて、政康もはっきりと真理子の姿に目を向けた。恥ずかしさというものがそこには確かにあったが、それだけでここまで来ることの出来るものではない。旅の開放感がもたらす安直なものでないというのも真理子の性格を考えればはっきりと言いきることが出来るだろう。
「ありがとう、それなら、お願いしようかな」
「はいっ」
もしかすると、この時の真理子は涙を浮かべていたのかもしれない。そんな風に想像しながら、政康は慎重に湯から上がる。促されるままに真理子に背を向けて座ると、早速、真理子がタオルを取って政康の背中をこすりはじめる。
タオル越しに真理子の手の感触が伝わってくる。簡単な言葉でまとめてしまえば、それは優しい感覚であった。
「ありがとう、こんなことをしてもらうのはいつ以来だろうかな……」
首だけを真理子の方に向けると、真理子は政康に向かって優しく微笑んだ。
「私もです……。ずっと昔に、父の背中を流したことがありますけど、今までそんなことはすっかり忘れていました」
「なんだか、こうしてもらってると家族がいるみたいだね」
「はい、私もとっても嬉しくて……。勇気を出して来てよかったです」
「うん。出来たらもう少し強く頼むよ」
「はい、申し訳ありませんでした」
「ううん、真理子さんの……」
その先は政康は口にしなかった。それを真理子も求めることはなかった。ここに来て真理子の気持ちに全く気付かないということはさすがの政康にもあり得なかった。だが、例えばここで月並みな言葉をお互いに発することはふさわしくないと思っていた。それよりも、なんとも言えぬ独特の暖かさの中に身を置いているということに限りない幸せを感じている。
真理子が体を洗うのは見ないように、再び政康は広い湯の中に体を移した。真理子の女性らしい柔らかい香りが時々政康の方に伝わり、そちらに目を向けたい気持ちを必死に押さえる。
お湯をかけ流す音が落ち着き、静かに真理子が政康の隣に体をもってきた。しばらくは二人は並んで空の月を眺めていたが、やがて真理子が静かにこういうことを言った。
「さきほど、政康さんは『家族がいるみたいだね』っておっしゃってくださいました」
「うん」
「それが、私にはすごく嬉しかったです。家族とか、家庭的ないろいろなものって、私にはずっとあこがれのものだったんです」
「前に真理子さんのこと、話してくれたことがあったけど……」
「もちろん、私を産んで育ててくれた両親には感謝していますし、尊敬もしていますけれど……」
おそらく、真理子には理性としてはそうであっても精神的にずっと渇望し続けてきたものがあるのだろう。
以前、公園を散歩したときに真理子が自分の子供時代のことを話してくれたのを思い出した。そして、真理子がどうしてメイドになろうとしたのか、その起源の一部というものをそこで知ったのだった。
子供時代に感じた寂しい思いというのが、ある意味では今の真理子を形作っているのだろう。真理子が求めるものが果たしてここにあるのか、決して簡単には言い切ることは出来なかったが、それを作り出したいと思うだけの気持ちを政康は確かに持っていた。今の政康と真理子の生活は、それとはまだ違っているのだろう。だが、そうでないにしても真理子の欲している「家庭的な暖かさ」というものを僅かであるとしても自分はもたらすことが出来ているような気はしている。
その先に踏み出すにはまだ少しの時間と覚悟が必要ではあろう。気持ちが相手を向いているとはいっても、それだけで簡単に先に進むことが出来るほど恋愛というものは簡単ではない。政康が真理子を思う気持ちと、真理子が同じように政康に向ける気持ちはそんな軽薄なものではなかった。
しかし、これまで暮らしてきた中でお互いの気持ちが最も近い場所に来ているのははっきりと分かっていた。そして、実際に真理子自身も政康のすぐ近くにいる。
「幸せになれそうです……」
女神のような笑顔を見せながら、真理子がそうささやいた。横顔を見るだけでもそう感じたのであるから、正面から今の真理子を正視することはまぶしくて到底出来なかったであろう。
代わりに、政康は真理子の隣にもう少し体を寄せる。肩と腕が微かに触れ合った。それだけでも、心が大きく揺れ動くのを感じる。
真理子の言葉は本当であろうし、そうであれば人に幸せを与えることが出来るということに政康は大きな喜びを感じていた。
夜空の月は変わらずにこの場所を照らしていたし、心地よさと安らぎを与えてくれる湯も変わらずに音を立てて流れていた。空に向けるように手を伸ばした真理子の腕から雫がしたたり落ち、それが淡い光を反射して輝いた。そんな真理子を見ていた政康の視線に気が付いて、真理子は柔らかく微笑んだ。
さすがに同じ場所で同時に着替えることは出来ないので、先に入った政康が先に風呂を出た。離れにある温泉から母屋に戻った政康は、自動販売機で買った瓶の牛乳を飲みながら真理子の戻るのを待っていた。ここまで来れば先に部屋に戻ってもよいのだろうが、ここで真理子を待つことを選んだのである。
程なく、真理子が浴衣姿で現れた。政康が待っていることに少し驚いたように見えたが、特に問いかけることもせずに嬉しそうに笑いかけた。
「お風呂上がりの牛乳ですか?美味しいですよね。でも、私はお財布を置いてきてしまいました」
「飲みかけでもよかったら、飲む?」
瓶には既に四分の一くらいしか残っていなかったが、それを軽く振りながら真理子に見せる。
「いいんですか?一本分だと多すぎるので、ちょうどいいくらいです」
「うん、じゃ、残りを飲んじゃってもいいよ」
「はい、いただきます」
瓶を真理子に手渡すとき、一瞬だけ柔らかい指に触れた。袖から見えている真理子の手は、自分のものとは全く違って滑らかで白かった。
真理子はきゅっと牛乳を飲み終えると、自動販売機の脇に瓶を戻す。
「美味しかったです」
「うん、よかった」
「それに、政康さんが待っていてくれて嬉しかったです」
「そっか……。一緒に部屋に戻ろうか」
「はいっ」
既に寝付いている部屋もあるだろうか。特に朝の早い旅館の人たちは既に寝静まっているようにも感じられる。そんな人たちを妨げないように気を付けながら、政康と真理子は並んで廊下を部屋まで戻っていった。浴衣姿の真理子は風呂上がりということもあって、普段見ている彼女の姿とは大きく違う雰囲気を見せていた。もっといえば、これまでに感じたことのない色気を発している。だが、それは決して扇情的なものではなく、落ち着きと気品のようなものを見せている。
「あの……」
「うん?」
窓の外に庭を臨むことが出来る。夜とあっては、その庭にある池は多少の不気味さを感じさせたが、真理子がそれを感じ取ったのであろうか、少し不安そうな声で政康にささやいた。
「もう少しだけ、政康さんの近くを歩いていいですか?」
「うん、構わないよ」
そして、多少の動揺を感じながら、さりげなく政康は手を真理子の方に僅かだけ差し出した。
指先がそれに触れた真理子は、一瞬だけ躊躇した後、その政康の人差し指を自分の指でつまむように握った。今は、それ以上のことは勿体なくてすることが出来なかった。
湯上がりの冷気の中で、その部分だけ温かさを感じていた二人は、すぐに今度は暖房の効いた部屋に戻ってきた。
「タオル、掛けておきますね」
旅館の名前の入ったありきたりのタオルを二つ、そして真理子が持ってきたのであろう大きなバスタオルを部屋の隅にあるタオル掛けに掛ける。
部屋には既に布団が二つ、並べて敷かれていた。それを見て政康は緊張せざるを得なかったが、真理子の方はと言うと極めて無邪気にその布団の片方に倒れるように飛び込んだ。
「お布団、久しぶりです」
「そういえばそうだね……」
普段はベッドで寝る生活をしている真理子にとって、確かに布団は久しぶりのものなのかもしれない。そんな真理子の無邪気さにほっとした政康は、その隣の布団の上に腰を下ろす。
「あっ、私……」
寝ころんだ姿勢の自分に気が付いた真理子が、慌てて体を起こして政康の向かいに座り直した。
「ごめんなさい……、はしたないことをしてしまって」
「ううん、気にしなくていいよ。それだけ真理子さんが開放感を感じてくれていることじゃないか」
「はい、そうなんですけど……」
それでも、真理子はもじもじしながら居心地が悪そうにしている。
「もう少し話をして、寝ようか」
「そうですね。明日も楽しみにしています。さっき見たテレビの天気予報では、明日も晴れみたいですよ」
「そっか、真理子さんのおかげかな」
「ふふっ」
そうして、真理子は再びうつぶせになって布団の上に寝ころんだ。政康もそれに倣って体を横にする。
そして、しばらく話をしていたが、一通りの話題が過ぎるとお開きになり、明かりを消して布団の中に体を入れた。
静かな部屋の中で、お互いの息すらも感じられるようだった。真理子と同じ家で暮らすようになってから一年半以上がたっていたが、当然のことながらこうして隣で寝るということはなかった。風邪で寝込んだときに真理子が看病してくれたときは例外である。
暗闇の中に身をおいていると、目を開いていても閉じていても同じように隣の真理子の存在を意識してしまう。真理子の方も同じなのだろうか、時々寝返りを打って体の位置を変えているようであるが、まだ寝付いた様子はない。
政康も寝付いていないことを知ってなのであろうが、しばらくして真理子が遠慮がちに声を掛けてきた。
「政康さん……」
「うん?」
「ちょっと緊張しています」
「そうだね、僕もかな。少しこのままお話ししようか」
「はい。さっきまで、今までのことをいろいろ思い出していたんです」
隣からそんな真理子の声が聞こえてくる。
「今までのこと?」
「はい、政康さんのところに来て、今日まであったいろいろなことです」
「そうなんだ」
「最初はなかなか政康さんとお話し出来なかったことから始まって、お隣の智香さんたちとご近所づきあいするようになったこと、そして、今日、こうして一緒に旅行に来ていることまで……」
「うん、真理子さんが来てくれて生活が大きく変わったなあ」
「私もです。前にいたお屋敷とはずっと違う環境で、最初は戸惑いました」
「そうだね、その話も聞かせてもらったことがあるけど。やっぱりどっちも大変だろうし……」
「それはもう。お風呂上がりの姿を政康さんに見られてしまったこともありましたよね」
「あっ、あの時はごめん……」
「いえ、決して政康さんを責めてなんかはいません。あの時は恥ずかしくて、どうしてよいのか分からなくなって……」
「僕も……。その、やっぱりごめんね」
その時以来、真理子との間に居心地の悪い雰囲気を作り出してしまったことを政康は謝った。その雰囲気については政康は一〇〇パーセント自分に非があると思っていたからである。真理子も同じように非を感じ、智香に相談していたことなどは政康は当然知らなかった。尤も、それについては真理子の方も同様ではある。
「いいえ、私こそ。政康さんのために尽くさなくてはならない立場なのに……」
「でも、それは仕方ないよ。真理子さんの心の全てが仕事にあるわけじゃないんだから」
「はい……」
そんな曖昧な返事をしながら、真理子は智香に言われた言葉を思い出した。仕事に支配されるようになってはいけないという言葉が思い出される。一方で、真理子は単に仕事である以上に政康の役に立ちたいという考えを持っていた。考えというよりは感情である。
この旅行に来て、その気持ちを新たにした真理子であったが、それをはっきり言葉には出来なかった。
「でも、変ですね……。今日は政康さんと一緒にお風呂にも入ってしまったのに、その時のことを思い出すと今でも恥ずかしいんですよ」
「ははっ、でも、これからはもう気にしないで。気にしないでっていうと変な言い方だけど」
「はい。なんだか、政康さんにお仕えするというよりも家族になったみたいで嬉しかったです」
言ってしまってからより一層の恥ずかしさを伴うことに気が付いて、真理子は黙ってしまった。
「ありがとう」
政康はそれだけ言うと、静かに真理子の方に目を向けた。真理子も枕の上にある政康の顔を見ていた。そして、静かに目を閉じると、今度は心の中で政康の姿に向かい合った。
「でも、ちょっと不安です……」
真理子は心の中の政康にそんな気持ちを伝えた。
このように接してもらえる幸せを感じると同時に、自分が本当にそうしてもらう資格があるのかどうか、砂上の楼閣の上にいるような不安である。
一方、政康の方も真理子に対して一層の好意を感じると共に、自分が真理子の好意を受け止めるにふさわしい人間であるのかどうかを問いかけていた。
そのような中で、じきに二人は睡眠に落ちていった。寝付くまでに多少の時間を要したが、その睡眠は相当に質のよい安らかなものになった。