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第6章 仕事のみでなく

本格的に季節は秋へと移っていった。

道を行く人々の装いも店先に並ぶ食べ物も秋を感じさせるようになった。真理子の好きな季節がやってきたことで、普段ならば気持ちも軽やかになるところであったが、今の真理子にはそれを感じる余裕は残念ながらなかった。

政康との生活には、まだ気まずさが残ったままであり、それが真理子に重くのしかかっていた。風呂上がりの姿を見られたことは真理子にとっては決して嫌なことではなく、寧ろ自分の不注意の方を責めたい気持ちであったが、それ以上に責められるべきなのは自分の心の中が変化してしまってそれが政康にも影響を与えているという事実であった。

朝、いつものように政康を送り出した真理子は、朝食の洗い物を済ませると、掃除に取りかかるまでに少し休憩することにした。

スカートの裾を気にしながらソファに腰を下ろし、見慣れたリビングにゆっくりと目を向ける。そして窓ガラスに僅かに映った自分の姿を見る。そこには当然にメイド服を纏った自分があり、改めて自分がどのような仕事をしているのかを認識させられる。そう、雇い主である政康と仲がよくなることは間違いではなかったが、思慕の気持ちを持ってしまうことは許されないのではないか。そう、ぼんやりと映っている自分の姿に対して問いかけてみた。

「そうではない」と言ってほしい気持ちもあったし、仕事と自分の感情は切り離して考えなければならないと思う気持ちもあった。その中で、同時に真理子を悩ませているのは、政康は自分のことをどう思ってくれているのかという疑問であった。今のようにぎこちない雰囲気になる前、それこそあの日の夕方に隣の川西家に揃って招待されたときなどには、うぬぼれでなく自分に対して好意を向けていてくれるのを感じ取っていた。だが、果たして今はどうなのだろうか。真理子に対しての優しさ、丁寧さというものは今でも変わりなかったが、その奥に自分と同じような気持ちを持ってくれているのだろうかという心配と期待が存在していた。

ずっと考え込んでいるのもつらくなり、真理子は掃除に取りかかった。だが、政康の部屋に足を踏み入れると、自然に意識はその部屋の主に向いてしまう。最初に思い浮かんだのは優しい政康の笑顔だった。それを思い浮かべると自分も自然に優しい気持ちになる。はっきりと認めることが出来るのであれば、真理子は政康に男性に対しての好意を持っているということが出来るだろう。だが、一方でメイドの立場としてそれを戒めようとする心理があった。それが正しいことであるのかは真理子には分からない。そんな堂々巡りの中に真理子はいて、昼間は一人でいるだけにそんな自分に苦しむ形となっていた。

玄関の掃除を済ませ、共用部分である廊下を軽く掃いておこうと外に出た。

それも半ばほど進んだとき、隣家のドアが開いた。考え事をしながら掃除を進めていた真理子は急いで意識をそちらの方に戻す。

「あら、こんにちは、真理子さん」

「智香さん、こんにちは。お体の方は大丈夫ですか?」

「ええ、おかげさまで、今はすっかり落ち着いているわ。まだ、体の方には実感もないしね」

優しい表情で智香は自分の腹部をそっと撫でるが、外見上はまだ変化はほとんど見られなかった。

「そうなんですか。でも、大事になさらないといけませんよ」

「そうね、ありがとう。真理子さんもいつもお掃除、大変ね。外までこんなに丁寧にやってくれるなんて、わたしも見習わないと」

「そんな……、お褒め下さって嬉しいです。あの、よろしければついでですので智香さんの家の前も綺麗にしておきます」

「気を遣わなくていいのよ」

「いえ、そういうつもりではありません。ほとんど手間も一緒ですから」

そう言っている間に、手早く箒を操っている真理子は自分の家の前は済ませてしまって、話をしながら川西家の前のエリアに入り込んでいる。

「ふふっ、もうやってしまっていますよ」

「そうみたいね。今からわたしが箒を持ってきても、戻ってきたら終わっていそうね」

「はい」

「そうしたら、お言葉に甘えさせてもらうわ。その代わり、お茶にご招待するから上がってもらっていいかしら」

「はい、喜んで」

それほど本格的に掃除をしようというのではなく、軽く箒で塵を集めるといったものだったので、程なく二軒分の廊下はきれいになった。真理子は急いで箒を戻し、智香の家におじゃますることにした。

「あっ、でも智香さん?」

「なに?」

「智香さん、お出かけのはずではなかったのですか?」

「あ、下に郵便が来ていないか見に行こうと思っただけよ。急ぎでもないからまた後で行くことにするわ」

「なんか、申し訳ありません」

「いいのよ。わたしも真理子さんとお話しするのは楽しいしね」

「ありがとうございます」

「あ、お茶入ったから、座って」

「はい」

メイド服姿のままで真理子が遠慮がちにソファに腰を下ろす。智香もその向かいに座り、どこか嬉しそうに真理子の姿を見つめている。

「あの話があってから、ダンナが急に優しくなってね」

「そうなんですか、いいですね。智香さんも嬉しそうに見えます」

「ふふ、そう言われると恥ずかしいわね。わたしはまだ今までとは変わらないつもりでいるんだけど、彼の方がわたしよりもこの子のことを気にしているみたいなの」

「久志さんもそれだけ喜んでくれているっていうことなのでしょうね」

「そうね。大変なのはこれからなのに、ちょっと気が早いわよって言うんだけど」

「確かにそうかもしれないですね」

そんな話をする智香は本当に嬉しそうに見えた。そして、真理子はそんな智香がうらやましく思える。それに対して今の状況の自分を思うとき、今度は悲しく思われるのだった。

そんな真理子の微妙な表情の変化に智香が気付いたようだった。

「あ、ごめんなさいね。わたしの話ばかり勝手にして」

「いいえ、そんなことありません」

「でも、真理子さん、今ちょっと表情が曇ったわよ。少し前にベランダでお話したときにも同じ顔してたし。何かあるの?」

「えっと……」

智香の敏感さに真理子は驚きを隠せなかった。真理子自身は、智香と話している時には普段の表情は変えていないつもりであったのだ。

「遠藤さんには話しにくいことなのかしら。単なる隣人に過ぎないわたしだけど、よかったら何か力になるわよ」

「はい……」

うつむいたまま、真理子はしばらく考えていた。智香に話してしまいたい気持ちもあったが、そう出来るほど心の中が整理できているとも思えなかった。

「それとも、遠藤さん自身についてのこと?」

智香がそう話を振るに及んで、真理子は少しずつでも今の自分の状況を話して助言してもらおうという気持ちになった。

「はい、たぶんそうなんです。実は……」

先日、食事に呼ばれた後の出来事から真理子は話し始めた。相づちを打ちながらも、智香は余計な口は挟まずに真理子の話を聞いていく。おおよその出来事を伝え終え、結局、今も居心地の悪い雰囲気だけ残ってしまっていることまでを言い終えると、ずっと聞いていた智香が大きく頷いた。

「なるほどね。確かに考えてみると真理子さんと遠藤さんは一年以上、一緒に暮らしているんだものね。そういうことが起きても不思議じゃないかもしれないわね」

「はい……」

「一番簡単なことは、あなたが遠藤さんに迫ってしまえばいいのよ。遠藤さんには特定の女の人とかいないんでしょう?遠慮することなんてないんだから」

「えっ、そんな……」

「ふふっ、冗談よ」

「び、びっくりさせないで下さい……」

「あはっ、ごめんなさいね。で、結局、真理子さんは政康さんのことはどう思っているのかしら」

「それなのですが、よく分からないんです……」

「本当に?」

「……」

智香が真剣に真理子の目を見つめていた。その智香の瞳に真理子自身の姿が映っている。それは「自分自身をもう一度よく見つめてみなさい」という智香の言葉のようにも思えた。

「ですが、私はメイドとして政康さんの家に置いてもらっているんです。政康さんのお世話をするのも私にとってはお仕事なのですし、それ以上の気持ちなんて、政康さんに対して持ってしまっていいのでしょうか……」

「うーん、少しだけど本音が出てきたわね」

「政康さんも私の仕事ぶりに満足してくださっているのは分かるんです。でも、それはあくまでも私のメイドとしての仕事に対してだと思いますし……」

真理子がそう自分に思いこませようとしているのが智香には手に取るように分かった。端的に言えば、恋愛に向かい合うのが怖いのだということなのだろう。自分の立場をメイドと仕事に置くことにより、本来立ち向かうべき対象から逃げようとしているように思えてならない。確実なことは言えなかったが、政康の真理子に対する態度も、単に家にいるメイドに対するものだけと言い切れそうにはないと智香は思っていた。どちらにしても、真理子の話によれば今のような気まずい雰囲気をずっと続けていくのは得策とは思えない。だとすれば、少なくとも真理子の側だけでも、堂々巡りした悩みを解消する手助けをしてやりたかった。

「仕事、ねぇ……」

あえて勿体ぶったような言い方を智香はする。それによって真理子に自分自身に改めて向き合ってもらいたいと考えたのだった。

「智香さん……」

「確かに、真理子さんが遠藤さんにしてあげているのはメイドとしてのお仕事なのだと思うんだけど、真理子さんが家事をするのは単に仕事だからという義務感からだけなの?」

「いいえ、そうではありません」

はっきりと真理子が否定する。

「そうでしょう?」

「確かに、仕事と自分の気持ちのけじめをつけるのは大切だと思うの。だけど、自分が他ならぬ『仕事』に支配されるようになっちゃダメだと思うわ」

「仕事に支配される……、ですか」

「そう。あなたが遠藤さんの家で働いているのはお仕事なんだし、それにやり甲斐を持つことや幸せを感じることはいいことだと思う。だけどね、真理子さん、あなたが生きているのは仕事をするために、じゃないでしょう?」

「はい……」

「もし、ね、真理子さんが遠藤さんに対してお仕事上の……、雇い主っていうのかしら、そんなもの以上の好意を持ち始めていたのだとしても、それは別に構わないことだと思うのよ。ううん、わたしやダンナなんかは、こっそり『二人がそういう風になるといいね』なんて期待していたりもしたしね」

「そんな……」

「でも、なかなかお似合いだと思うわよ。人の恋路に手は出せないのは分かってるけど。わたしたちはそんなこと考えていたから、真理子さんの悩みにも気付いたのかもしれないわね」

「……」

「話を戻すわね。結局、私が言いたいのはね……」

「はい」

「真理子さんは自分が遠藤さんの世話をするのはあくまでも仕事としてなのだから、好きな男性に対してなにかをしてあげたいという気持ちを持っちゃいけないんだって思いこもうとしている。だけども、そんな風に自分の気持ちを封じ込める必要はないっていうことよ」

「あの……、私はやっぱり政康さんのことが」

「少なくともさっきの話を聞いていると、私にはそう見えるわね。前にも一度、湯上がりを見られちゃったことがあるんでしょう?その時は今ほど意識していなかったのに、今回は違うっていうことは、真理子さんの心にそういう変化があったって証拠よ」

「ですが……」

真理子は、まだ自分の気持ちを素直に認められずにいた。政康の方は自分に対しては「よく働いてくれるメイド」にしかすぎず、その働きに対して優しい感謝の気持ちを向けているに過ぎないのではないかという畏れがあった。もし自分の気持ちが一方的なものであったらそれを知ったときの傷も大きく、これまでのようなメイドと雇い主という簡潔な関係が崩れてしまったら、幸せな職場でもある遠藤家にもいられることが出来なくなってしまうのではないかと思うのだ。それならば、自分の気持ちは抑えた方が……。

「政康さんのお世話をするのは、子供の頃から憧れていた暖かい家庭があるみたいで本当に嬉しいんです。だから、そんな今の幸せを壊したくないっていう気持ちがあって……」

「わかるわ、その気持ちは。だけど、今は気まずい空気になっているんでしょう?真理子さんが今のままだったら、今度はそれが変わらなくなってしまって、遠藤さんが厭がったらそれこそ真理子さんがあの家にいられなくなってしまうわよ」

「はい……」

悲しそうに真理子がうつむいた。智香の助言はその性格上、かなり論理的なものであったがそれが少し強い言い方になってしまったかもしれない。そう感じた智香は、真理子の方にそっと手を置く。

「遠藤さんの気持ちが分かっていれば簡単なんだけどね。でも、そうじゃないのは当たり前か。そう簡単じゃ恋愛は面白くないもの」

「えっ?」

「さすがに真理子さんは『政康さんは私のことをどう思っているんですか』とも聞けないだろうし、今更『あの時は不注意で政康さんに気まずい思いをさせてしまって申し訳ありませんでした』とも言えないわよね……。だったら、ちょっと厳しいことを要求するみたいだけど、心の持ち方を替えて、それまでの優しくてきぱきした真理子さんに戻ってみたらどうかしら」

「はい……」

「自分のやる家事が『仕事だから』なんて思っちゃだめよ?今は遠藤さんがどう思っているのかわからないけど、真理子さんは『未来の旦那様』にしてあげるつもりで尽くしてあげればいいのよ。その気持ちが伝わるかもしれないし、そうなったら真理子さんも嬉しいでしょう?」

「そうですね。でも、未来の旦那様なんて……」

顔を赤らめる真理子が、同姓としても智香には可愛らしく思えた。そういった仕草が男女問わず好感を与えるところにも真理子の魅力というものがあるのだろう。

「あくまでも、『つもり』よ、今は。それにしても、もし私が男だったら、絶対に真理子さんは逃がさないわね。もう、今すぐにでもこう……、ぎゅっと抱きしめたくなっちゃうわね」

そう言って、目の前の空気を抱きしめるような仕草をする。それがどこかおかしくて、真理子は自然に笑顔になった。

「仕事に支配されちゃいけない、って目から鱗が落ちるような言葉でした」

「そう?でも、偉そうなこと言っちゃったけど、私もこんな経験があるのよ。あ、お茶、いれるわね」

既に飲み終えてずいぶんとたっている湯飲みに、新しくポットからお湯を注いだ急須から注ぐ。

「ありがとうございます。あっ、二杯目なのに味が薄くならないですね」

「さすが真理子さん、よく気付くわね。なんでも、中国茶が混ざっているみたいなの。中国茶は何杯入れてもあまり味が薄くならないそうね」

「そうなんですか」

真理子が素直に感心する。そんな真理子に、智香が少しずつ思い出すようにして話し始める。

「わたし、今はこうして専業主婦してるけど、結婚して子供が出来るまではバリバリに働いてたのよ。ダンナと一緒になってからもそうだったし、子供を産んでもやめるつもりはなかったわ」

「えっ、そうなんですか?」

「意外に見える?これでも、六大学の漢字の難しい名前のところを出てたりするのよ。そんなのもあって、結婚や出産をしたからといって仕事を辞めるのは勿体ないって思ってたのよね」

「ちょっと驚きました。智香さん、優しくて気さくな奥様ってずっと思ってましたので。あ、でも……」

「どうしたの?」

「さっき、智香さんは『子供が出来るまでは』っておっしゃいましたよね。でも、懐妊なさったのはついこの前で……」

「真理子さん、鋭いわね。実はね……、わたし、一度流産を経験しているのよ」

「えっ?」

意外な告白に真理子は驚いた。どう気の利いた言葉を返そうか悩んでいる真理子に対して、当の智香の方は極めて平然として言葉を続ける。

「久志と出会ったのは仕事の取引先との関係で、さっきも言ったように、結婚してからもわたしは働き続けるともりだったの。子供が出来ても、今は保育所も充実しているし、やめるつもりはなかったわ」

「そうですか……。でも、それだと子供が寂しそうです」

自分がそういう環境で育っただけに、真理子はまずそういう心配をした。

「今から思うとそうよね。会社で働いているからといっても、まだ世の中がよく見えていなかったのよ」

「私の両親も共稼ぎで、子供の頃はよく寂しい思いをしました。だから、ついそんな子供の気持ちになって考えてしまうんです」

「そんな真理子さんがわたしは好きだな。あ、それでね、産前の休暇がもらえるようになるまで、それまでと変わらずバリバリ働いていたのよ。それに甘えて会社の人に迷惑かけたくないって思ってたし、自分の実力も信じていたから」

「……」

「でもね、やっぱりお腹の中に子供がいるのにそれっていうのは過酷だったみたいなの。七ヶ月を越えたあたりから少し体の具合が悪くなって……」

「智香さん……」

「結局、流産してしまったの。さすがにショックだったわ。ダンナが支えになろうとしてくれたんだけど、それを受け入れる余裕すらなかったわ。『あなたにはわたしの気持ちなんて分からない』なんて言ってしまったり。だからといって、冷静に突き放すように接せられたとしたらもっと落ち込んでいたはずなのにね……」

智香の思わぬ過去の話に、真理子は驚きを隠せずにいるままだった。

「その後、仕事には復帰したんだけど、それまでのように何が何でも働くんだっていう気持ちが急激になくなってしまったの。いえ、実際にはそのつもりはあったんだけど、気持ちばかりが先走って空回りしていたのね」

「そうなんですか……」

「そんな時、当時の上司が相談に乗ってくれたのね。今から思えば、そんなわたしを見かねてってことだったんだろうけど。さっきの、『仕事に支配されてはいけない』っていうのは実はその時の上司の言葉なのよ」

智香は、当時のことを懐かしそうに思い出した。あの言葉がなければ、今自分はこうしてここにいることも、新しい命を育てている感動も感じることはなかったであろう。

「入院していたときって、やっぱりいろんなショックもあって気が弱くなっていたと思うのよね。そんな時に、わたしの直属の上司……、つまり課長ね、がお見舞いに来てくれたのよ。ついつい弱音を吐いてしまったわたしに、こんなことを言ってくれたわ」

そう言って、智香が懐かしむような表情をしながら当時のことを話し始める。

「身重の君に過重な働きをさせてこんな結果にしてしまったのは私の責任でもある」

「率直に言って、君も迷っているんじゃないか?」

と、そういう言い方だったそうだ。「迷っている」という表現に違和感を覚えた智香が聞き返してみると、

「川西さんの仕事ぶりは素晴らしいものだと思うし、出来ればくじけずにこれからもうちの会社で働いて欲しい」

と言ってくれた。だが、一方で「会社の人間で管理職でもあり、君に期待している私が言うべきことではないのだが」と前置きした上で、こう言ってくれたそうだ。

「社会貢献だのキャリアだのって偉そうなことを並べるけど、正直なところ、会社の仕事なんていうのは誰にでも出来るものがほとんどだと思っている」

「川西さんが、子供が出来て幸せを感じていたのはよくわかっていたけれど、一方で新たな重荷にもなってしまうのではないかと心配していた」

「使い古されたような言葉だけど、『二兎を追う者は一兎をも得ず』というじゃないか。誤解を恐れずに言えば、私は個人的には川西さんにしか出来ないかけがえのない仕事というのもあるんじゃないかと思う」

「うちの娘も難しい年頃でね……。決して私や妻の育児が失敗したとは思わないのだが、何か欠けていたものがあるのではないかって気がしてね」

それを聞いて、智香はその「かけがえのない仕事」の意味がようやく分かったという。家事や育児というのは会社で働く上での負担にしかならないと思っていたが、そうではないということに気付くきっかけになったのだ。考えてみれば、次世代を担う子供を育てることは、社会的にも最も高尚なことであり、上意下達で仕事に従っている会社と違い、いくらでも個性を発揮することが出来るのだ。

真理子はそんな話を、強く頷きながら聞いていた。会社勤めをしたことのない真理子だったが、昔、食卓で父が言っていた「やはり管理職というのは見ていないようで人を見ているよな」という言葉が思い出された。

結局、職場に復帰した智香は、主要メンバーに内定されていた仕事にとりかかり、一方でそれを最後のものとする決心をした。智香はそれを立派になし終えて高い評価を勝ち取ったが、それを区切りとしてすっぱりと退社したのだった。「二度と子供を産めない体にはならなかったのは、神様がまだわたしにチャンスを残してくれたからなんだ」と思ったのである。そして、そういう未来を目指してみようと思ったのだった。

言葉ではしきりに惜別を表していたその課長が、最後の日には安堵の表情で見送ってくれたのが印象に残っているという。

「後から聞いた話なんだけどね、部署のトップである部長は、私が妊娠しているときも『今は男女平等の時代なんだから、甘いことは言わせずにギリギリまでしっかり働いてもらえ』と命令していたそうなの。課長の方は表面では従うふりをみせながらも、課の他のメンバーに負担増を感じさせないようにしながら絶妙に仕事配分を替えていたそうなのよ。ご本人は『残念ながら力及ばずだったが』と言っていたけれど」

「なんか、すてきというか……、すごいお話しですね」

「そうそう。で、退職して家庭に入ったという話になるでしょう?よく『専業主婦になると家にばかりいるから気が滅入るようになる』って聞くからわたしも心配していたのよね」

「ですが……」

「そう、真理子さんなら分かってると思うけど、主婦って暇でも閉じこもりでもなんでもないのよ。寧ろ忙しいくらい」

「はいっ」

自分の言いたかったことを先回りされたにもかかわらず、真理子は嬉しくなって思わず大きな声を出した。

「確かに、今の家事は機械が代わりにやってくれることが多いわよね。共稼ぎだったこともあって、洗濯機や皿洗い機なんかでその手の仕事は全部自動になってるし」

「あ、そういえば……。政康さんのところにはないですよ、皿洗い機」

台所の脇にある皿洗い機を指差した智香に、真理子が言う。

「遠藤さんのところは真理子さんがきちんとやってくれるんだからそんなもの必要ないでしょ。で、やっぱり社会に疎くなるのは嫌だから、余った時間でいろんな勉強をしてるのよ」

「えっ、勉強ですか?」

「そう、昔、学校で習ったことの復習みたいなことね。あとは社会情勢とか。仕事してたときって、仕事のことしか頭にないから、意外にそういう情報には疎くなっていたのね、よく気付いたわ」

「智香さん、頭良さそうですから」

「この子が産まれて、大きくなったときに、学校だけじゃなくて母親も父親もいろいろ教えてあげなきゃいけないことがあるでしょ。今のうちからしっかりアンテナ張っておかないと」

「私はそんなこと考えたことありません。智香さんはやっぱりすごい人です」

「誉めても何も出ないわよ」

まんざらでもないと言った表情で智香が言う。真理子とは違ったタイプの人間だったが、それゆえに真理子には魅力的に感じられた。

「さて、話がずいぶん逸れちゃったけど、私にとって『仕事に支配される』っていうのはそういう過去のことだったのね。真理子さんはというと、わたしから見るとそれとは違う形だけど、やっぱり『仕事に支配されている』んだと思うのよね」

「そうですか……」

「メイドさんとして立派に仕事をするのは大切だし、お仕事と個人的な気持ちを分けることも大事だと思う。だけど、そのために自分の感情を抑圧したり、偽ったりするのは間違いだと思うのよ」

「はい……。私は……」

「ふふっ、偉そうなこと言っても、私はエンジェルにはなれないんだけどね。でも、真理子さんは自分が思うように、遠藤さんのことを大事に思うならその気持ちのままに接すればいいと思うわ。その方が、仕事としての家事だってうまくいくと思うんだけど、どうかしら?」

「そ、そうですね……」

今ひとつ、真理子には自信がもてなかった。どちらかというと感覚的に物事を考えがちな真理子に対して、ある程度理詰めで展開する智香の言葉が真理子の心にもよく響いた。

「そういうことだから、真理子さん、今日からしっかりやるのよ。わたしも隣の家から密かに応援してるからね」

「はい、わかりました。本当にありがとうございます」

これからお腹が大きくなってくるといろいろ大変だから何かの時には手助けをしてあげたい、そんなことを考えていたはずの真理子だったが、逆に励まされ、諭されて家に戻ることになった。現金なものではあるが、久しぶりに真理子は政康の帰りが心待ちになったようにも感じられた。


すっかり日は短くなり、夏の間なら辛うじて西の空に赤みが残っていたはずの時間は既に夜に支配されるようになっていた。

政康を乗せた電車が自宅の最寄り駅に入り込む時間には、既に冬の予感も感じさせるような冷たさが存在していた。平年よりも今日は一回り寒い日だというが、真理子の勧めに従ってコートを着て出てきたことを感謝する気持ちにもなった。

ただ、真理子のことを思い出すと、政康は少し気が重くなるのだった。真理子の働きぶりは申し分ないものであったし、彼女自身もとても魅力的だと思うのだが、やはり例の一件以来、自分が真理子にどう接していいのか、掴みきれないでいるのが事実だった。それまでの、単なるメイドに対する接し方と違うものを政康の心は要求していたにもかかわらず、そうすることがためらわれていたのは、政康の中にも少なからず真理子と同じ気持ちが存在していたからに他ならない。即ち、真理子をメイドとしてではなく一人の女性として魅力的に思う気持ちがあり、それを表に出してしまえば今のような絶妙なバランスの上にある生活が崩壊してしまうのではないかという危惧であった。

直接的には真理子の湯上がりの姿を見てしまったという出来事がそんな気持ちを抱くようになった原因であろう。だが、それはあくまでもきっかけであって、そうなる素地はこれまでの生活の中にあった。真理子と話していると楽しいし心が和む。もっといえば、仕事が忙しいときでも翌日また頑張ろうという原動力にもなる。それだけに、あの出来事以来二人の間に横たわっている居心地の悪さが疎ましく思えるのだった。どうにかして以前のように戻れないかと考える政康であったが、実際はそれはいろいろな意味で不可能なのであった。

であるから、今の政康の悩みというのは存在しない答えを探し続けるようなものに等しい。

この日も、電車を降りて改札を出るまで、真理子のことに思いを巡らせていたのだった。

「おや、遠藤さんではないですか?」

定期券をポケットから取り出そうと改札の前で立ち止まった時に、政康はそう声を掛けられた。

「はい?」

若干間の抜けた感じの声で振り向くと、そこには隣家の住人である久志の姿があった。普段、智香と一緒にいるときの言葉遣いとは多少異なっており、おそらくはこれが久志の外での姿なのであろう。言葉遣いの丁寧さの中に、年相応の落ち着きのようなものが感じられる。

「あ、川西さん。川西さんも今お帰りなんですね」

「そう。今日は思ったより早く上がれてね。遠藤さんもそうですか?」

「ええ。この時間で早めってことは、お互い大変ですね」

「そうですな」

苦笑いしながら駅の敷地を出て、駅前通りに向かっていく。

「そうそう、こんな偶然もなかなかないでしょうし、ちょっとそこら辺のお店に寄っていきませんか?」

「あ、いいですね。でも……」

「ああ、ちょっとだけですな。顔を赤くして帰ったら智香も気分が良くないだろうし、遠藤さんもやはり……」

「えっ、僕は……」

「まあ、それはともかくとして。軽く一杯くらい飲んで帰っても罰は当たらんでしょう」

駅前通りには立ち飲みの酒場や昼間の喫茶店が雰囲気替えをしたような軽いパブのような店が並んでいる。

通りかかったその一件に、政康と久志は入っていった。

手早く注文を取りに来たアルバイトの店員に、中ジョッキと枝豆を注文する。

「お疲れさま」

本格的に長居するような店ではないのだろう。サービスも必要最低限で、値段も手頃である。すぐに出されたジョッキを手にして、二人は軽く杯を合わせる。

「そういえば、こういう機会は初めてですな」

「ですね。川西さんお二人の未来に乾杯というところでしょうか」

「ありがとう。では、私も遠藤さんと高山さんの未来に期待させてもらいますよ」

「えっ?」

「ははっ。どうもどこまでが本気か分からないんだが、智香がそういう期待をしているみたいでね」

「そ、そうなんですか……」

「私は『本人たちの気持ちもあるだろうから勝手な決めつけはよくない』って言うんだが、『冗談よ』って聞き流すだけでね。一〇〇パーセント冗談じゃないっていうのも分かるだけに、困ったものなんだが……」

「真理子さんは本当によくしてくれるし、そうなってくれたら嬉しいって思わないこともないんですけどね」

「おっ、それは聞き逃せないですな」

「あ、奥様には内緒にしておいてくださいよ。奥様経由で真理子さんの耳にでも入ったら……」

「いや、それはそれでいいんじゃないかな?ははっ、冗談だよ。ま、あくまでもここだけの話にしておきましょう」

「はい。それに今はちょっと……」

「おや、なんかトラブルでもあったんですかな?」

「トラブルと言っていいのかは分かりませんが、実は……」

真理子の風呂上がりの姿を見てしまったというあの日の出来事と、そこから始まったぎこちなさのようなものがずっと続いていることを政康は説明した。説明していくうちに、政康の頭の中でただ漠然としか掴めていなかった現在の状況というものが少しだけ客観視出来たようにも思えた。しかし、だからといってその問題に対する解答が見つかるというものでもなかった。

「なるほど、確かに微妙な状況ですなあ」

「ええ、僕としては今はどうしてよいのか分からなくて……。真理子さんにまた謝るというのも違うと思いますし、かといって今のままの雰囲気が続くのもつらいところです」

「それでも、高山さんは遠藤さんを避けたり嫌悪感を持ったりなどはしていないんですよね。だとしたら、そう深刻に考えることもないと思うのですが」

「ええ、真理子さんはこれまでと同じようにしっかり働いてくれていますし、それはとても嬉しいです」

「なるほど」

「ただ、僕の方で真理子さんを正視できなくなってしまうことがあるんです。ひょっとすると僕は真理子さんに対して好意を持っているのかもしれませんが、真理子さんはあくまでも仕事として僕に尽くしてくれているわけで、僕の方がそういう感情を持ってしまうというのは筋違いだと思うんですよ」

「そうでしょうかね……」

「ええ。ですから、僕は自分のそういった気持ちをなるべく表に出さないように心がけたいのですが、それを意識するほどに真理子さんのちょっとした動作だけにも気が向いてしまうんですよね」

「そうですか……」

挿絵6 「真理子さんがもし気付いていたら、ちょっと困ったことになると思います。それとも、ひょっとして気付いているからお互い気まずい雰囲気になってしまっているのではないかとも思うんです」

要するに政康はこう考えているのである。真理子と一緒に暮らすうちに、自分は彼女に一人の女性として好意を持つようになってしまった。しかし、真理子が自分の家にいて、自分のために働いてくれているのはあくまでもそれが彼女の仕事だからであり、真理子も自分に気を向けてくれるなどという期待を持つようなことはあってはならない。だが一方で自分は真理子と接しているときにどうしてもそれを意識してしまい、それを気付かれてしまったから今のような居心地の悪い空気が生み出されているのではなかろうかと。極端なことを言えば、政康が自分の気持ちを真理子に伝えきってしまえばいいのだろうが、その時に政康にとってよくない答えが返ってきたとしたら、真理子が政康の家に居続けることは心理的に相当難しいことになり、結果としてこれまでの居心地のよい生活が失われてしまうことになるのではないかと心配しているのである。この辺は、皮肉にも真理子が考えていることと完全に一致している。そして、お互いが同じことを思っているために現状が打破できないという結果に繋がっていた。

「さすがに私にも真理子さんの本心は分かりませんし、智香を通じてそれとなく聞き出すなどというのも邪道でお勧めしません」

「そうですよね。ですが、だからといってこのままでは一種の手詰まりでどうしようもない気もするんです」

「そうですね……」

しばらく、久志が壁の奥を見るような目をしながら考え込んでいた。政康はそれに割り込むことが出来ずにいた。だが、長くなる沈黙に耐えられなくなり、言葉を挟もうとした瞬間になって、久志が政康の方に目を向けた。

「何か変化をもたらすきっかけを作るというのはどうでしょうか?」

「きっかけ、ですか……?」

「ええ、日頃、真理子さんは遠藤さんのためにしっかりと働いてくれているわけですよね。私はその住み込みのメイドというシステムをよく知っているわけではありませんが、たとえば休日なんかも含めて、ずいぶんと大変な生活ではないかと思うんですよ」

「ええ……」

「そこで、日頃の働きに対する感謝ですとか慰労の意味を籠めて、ちょっとした旅行にでも連れて行ってのんびりさせてあげるとかいう機会を作ってみましょう」

「なるほど」

「一度、二人で同時に家を離れて違う空気を吸って、新しい気持ちで戻ってくれば、気まずい雰囲気も解消されるかもしれませんよ。まあ、うまくいけば、ですけど」

「そうですね、参考にさせてください」

「無事に解決出来ることを祈ってるよ」

「ありがとうございます」

その後、久志は気を遣ったのか、あえて別の日常的な話題に話を転換した。お互いの勤める会社での苦労話であるとか、これからの景気動向であるとか、極めて散文的な話であったが、それはそれで盛り上がり、わずかな時間でそれまでほとんど減っていなかったジョッキの消化も一気に進んだ。酔いを感じるというほどでもなく、多少気分をよくした二人は、頃合いを見て立ち上がった。

「そろそろ帰りましょうか。遅くなると私もクレーム付けられますからね」

「そうですね、待ってくれている人がいるのに変な話につき合わせてしまいまして」

「いやいや、気にすることはないよ」

「ありがとうございます」

店を出た政康と久志は、すっかり冷たくなった風を恨みながら家まで歩いていった。

玄関を開けた政康が「ただいま」と声を掛けると、中から真理子が慌ててやってくる。

「お帰りなさいませ。今日もお疲れさまでした」

「うん、ありがとう。それに、今日は寒かったから真理子さんの言うとおりにコートを着て出て正解だったよ」

「はいっ。あ、コート、お部屋に掛けておきますね」

そう言って手を伸ばした真理子に脱いだコートを手渡す。政康が靴を脱いでいる間に、真理子が一足先に政康の部屋に入り、軽くブラシしてからコートをハンガーに掛ける。

「夕食、もうすぐ出来ますのでちょっとだけ待ってください」

「うん、その間に着替えてくるよ」

「はい」

ネクタイを解きながら、政康は先ほど久志に言われたことを思い出した。話を切り出すタイミングも難しそうだが、ある意味では魅力的な提案にも思われる。秋は祝日も適度にあるし、一日くらいなら休みを取ることも出来そうである。

壁に掛かったカレンダーを見ながら、具体的にどうすることが出来るか考えを巡らせる。

「政康さん、お食事の支度が整いました」

台所の方から真理子の声が聞こえてきて、政康は止めていた手を慌てて再開し、着替えを終えた。

相変わらずの食欲をそそる料理を目の前に、炊きたてのご飯を真理子がよそってくれるのを待つ。二人分のご飯と味噌汁が用意できるのを待って、向かい合って食事を始める。

「いただきます」

美味しい食事を進めていくうちに、少しずつ政康の心も落ち着いてきた。気のせいか、いつもよりは真理子にも気まずそうな雰囲気はないように見える。ちょうど、食材の産地がどうだという話になったとき、政康はタイミング良く考えていた話を切り出すことにした。

「真理子さん、ちょっとお話しというか提案があるんだけど……」

「はい、なんでしょうか。改まって」

「真理子さんにはこうしていつもよくしてもらっているんだけど、僕の方はお給料を払っている以外に何もしてあげられていない気がするんだ。で、もし真理子さんさえよかったら、なんだけど……」

「はい?」

「再来週かその次くらいに、どこかゆっくり出来る温泉かどこかに出かけようかと思うんだけど、どうだろう?」

「それは、旅行ですか?」

「うん、そんなところ。言ってみれば真理子さんの慰労を籠めてというところなんだけど。だから、当然お金は僕持ちで」

「あの……、そんなことをしていただいてよろしいのでしょうか?」

「もちろん」

「ですが、私は普通にお仕事をしているだけですので、とても嬉しいのですが、感謝されるなんもったいないことだと思います」

「ううん、真理子さんにはいくら感謝しても足りないくらいだよ」

「ありがとうございます。政康さんがそうして下さるのでしたら、お言葉に甘えさせてもらってもよろしいですか?」

「うん、迷惑がられないでよかったよ」

「迷惑なんてとんでもありません。そんなことを言っていただけるなんて思ってもいませんでしたから。明日から、もっと頑張って美味しいご飯を作ります」

「ははっ、じゃあ大いに期待しているね。早速、手配してくるよ」

「はいっ、とっても楽しみです」

本当に嬉しそうな真理子の笑顔を見て、政康は安心した。そんな真理子にまた新しく魅力を感じながら、それをなんとか封じ込めようとする政康だった。

翌日、政康は早速旅の手配を試みた。連休はさすがに空きは残っていなかったが、その次の週に観光地の近くにある温泉旅館を予約することが出来た。土日の前に一日休みをもらい、二泊三日の行程を組むことにした。旅館のパンフレットを持ち帰り、早速真理子にプランを説明すると、うきうきした表情で聞き入る真理子が可愛らしく思えた。

ひとまずの上首尾にほっとして、政康はその日を待つ。ここにきてようやく、これまでの気まずい雰囲気も薄らいできているように感じられた。

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