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第5章 次の春に

真理子が遠藤家に来てからおよそ一年となった。

真理子のために与えられた部屋の中には、当初は例えばホテルの一室のようなよそよそしさがあったが、それもすっかりなくなってこの家の一部となっていた。妙齢の女性の個室であるから政康はこの部屋に足を踏み入れることはほとんどなく、一種の聖域のようになっていた。掃除も真理子自らがするので当然といえば当然であったが、一方で政康の言葉に甘える形で、自分の部屋を真理子好みに飾っていた。自分の住む空間を自分の好みに飾るということは精神的にも最もよいものらしく、メイドの仕事をこなして疲れた夜であってもこの部屋に来ると落ち着くのが分かる。時には政康に部屋を見てもらって感想なども聞きたいと思っていたが、幸か不幸かそういう機会はこれまでにはほとんどなかった。

期せずして、真理子にとってこの部屋で過ごす時間が多くなることとなった。

去年の今頃、真理子がこの家に来たときと同じように、政康の仕事が多忙期に入ったのだ。会社で売上管理と収支分析の類を担当しているという政康は、年度末の決算を挟んでその仕事が最も忙しくなる。真理子は経済や経理のことはよく知らなかったが、食事中に政康が話してくれるそういった話を聞いていると、確かに大変なものだということが伝わってくる。気の利いた言葉を返すことが出来なくて申し訳なさそうにしている真理子を見ながら、政康は笑って言ったものだった。

「ちょっと愚痴も入っちゃうけどね。真理子さんが聞いてくれるだけでも僕の気分はずいぶん楽になるよ」

「そんな、もったいないお言葉です……」

「毎年、この時期になると憂鬱になって気も立ってくるんだけど、今年はどこか余裕が持てそうだ。それも真理子さんのおかげだと思うよ」

「ありがとうございます。でも、私にとっては温かいお食事を用意して政康さんをお待ちすることくらいしか出来ませんから」

「それがとっても嬉しいんだよ。今までは夜遅くなると買ってきたものをレンジで温めることすら面倒になっていたからね」

「ですと、お夕飯はどうなさっていたんですか?」

「コンビニで買ってきたおにぎりとかカップ麺とかかなぁ。どっちも種類はたくさんあるから意外に飽きないもんだよ」

「そんなのはいけません。栄養が全然摂れないじゃありませんか。お仕事の忙しい時こそきちんと食べないと……」

「それはそうなんだけどね……」

政康が苦笑しながら言った。真理子の言うことは至極尤もではあるのだが、現実にはなかなかそうはいかないという口振りである。

一方の真理子は、そんな政康の話を聞いて一年前のことを思い出した。捨てるのを忘れて隅に放置されていたビニール袋にいくつももカップ麺の器が入っていたことを。それを見たとき、まだほとんど政康との会話のなかった真理子はどうとも言えない悲しさを覚えたのだった。

「今年は、私が政康さんにちゃんと食事してもらいます」

両腕をしっかりと腰に当て、力強く宣言する真理子。

「う、うん……」

そんな真理子に、政康は大きく圧された。

「政康さんの健康を維持するのをお手伝いして、お仕事のお忙しいのもしっかり乗り切ってもらうのも私の勤めです」

「そうだね、ありがとう」

素直に政康が礼を言うと、真理子は心底嬉しそうに顔をほころばせた。

「はいっ。昨日も少し帰りが遅かったですが、もうかなりお忙しいんですか?」

「うーん、そうだね。本格的には来週の後半くらいからだと思う。遅くなると夕食もそんなにはいらなくなるから、栄養重視で量は控えめにしてもらっても構わないよ」

「わかりました」

「それと、真理子さんは待っててくれなくても、先に食べてしまっていいから」

「いいえ、そういうわけには……」

そこまで口にして、真理子は自分が政康と一緒に食事をすることが当然だと思っていることに気が付いた。慌てて言葉を止め、ではどう答えるのがよいのか一瞬、悩んでしまう。その葛藤に、政康も気付いたらしい。

「真理子さん、そんなに気にしなくても。お腹が空いていたら先に食べてもらっていいってことだから。僕のために無理して我慢しないで欲しいと思うんだよ」

「ありがとうございます。ですが、私なんかがそう言ってよいのか分かりませんが……、政康さんさえご迷惑でなかったら、出来るだけご一緒できるようにお待ちしています」

「うん、嬉しいよ」

「はいっ」

どことなく、政康はそんな会話を楽しんでいるようだった。そして、そんな会話が政康の忙しさを少しでも紛らすことが出来ればいいと、真理子はそんなことを考えていた。

春分の日を過ぎると、立春以降もしつこかった寒さもさすがに和らいできた。四国や九州からは桜の便りも伝えられてくるようになった。そろそろコートはしまってもいいかと考え始める一方で、毎朝ニュースの天気予報をしっかりと確認している真理子がそれを着ていくべきか今日はいらないか、適切に判断していた。

天気予報が外れることは時々あるが、不思議と真理子の判断は適切だった。朝の寝起きに、ちょっと肌寒いと感じても、真理子の言うことに従ってコート無しで家を出れば、歩いて駅に着くまでにその判断が正しいことが分かる。帰宅後に真理子に礼を言うと共にその判断についてのコツを聞いても「そんな気がするだけです」と極めて曖昧な返事しか帰ってこなかった。

三月の最終週からは忙しさもピークに達した。年度の決算を締める直前に、ぎりぎりまでの実績を反映した決算の見込をシミュレートし、必要ならば何か対策を行わねばならない。常に最新の情報を反映させるために、数字を何度も更新して、遅くまでその見込の作業を続ける。特にこの不況期には計算上の損益を赤字にすることは何としても避けたい意識があった。

一年前に真理子がやってきたときと同じような生活状態になっていた。帰宅は早くても夜の十一時、場合によっては日付が変わることもある。

そんな中、これまでと違っていたのは家に帰れば真理子が食事を用意して待っていてくれることだった。

「おかえりなさいませ」という真理子の声とメイド服姿、そして温かい食事は、疲れ切って帰った政康の体と心を癒すのに大きな効果があった。

結局、真理子はいつも食事をせずに政康が帰るまで待ってくれていた。

「真理子さんこそ、あまり我慢するのはよくないよ。この時間まで待ってるとお腹が減るでしょう?」

「はい。でもちょっとだけです。お昼も少し遅めに頂くようにしているんです」

「それにしたって……」

「政康さんは気付いてらっしゃらないですが、実はですね……、一つの手抜きなんです」

真理子がもじもじとしながら両手の人差し指をつき合わせるようにして小声で言った。

「手抜き?」

およそ真理子に似つかわしくない言葉を聞いて、政康は箸を止めて聞き返した。

「政康さんとお話ししながら食事できる方が嬉しいですし、一緒に食事すれば多少遅くなってしまっても洗い物が一度で済みます」

「あ、そうか……。でも、僕は食べ終わったら風呂に入って寝るだけだけど、真理子さんは洗い物もあるし……」

「それも大丈夫です。政康さんの帰りが遅いですから、昼間は少し余裕があるんです。買い物を終えたあとにちょっとだけお昼寝させてもらっています」

「なるほど……」

「あっ、本当にちょっとだけですよ。それにお昼寝しておきますとお腹も急には減りませんから、政康さんのお帰りまで待っていても大丈夫になるんです」

「ふむふむ、うまく考えているんだね。なんだか僕に合わせてもらっていて悪い気がするんだけど」

「そんなことないです。私のご主人様は政康さんなんですから、合わせるのは当たり前のことです」

「そうはいってもね……」

「ですから、気になさらないで下さいね。政康さんは私に気を遣うよりも、お仕事の方をしっかりなさってきて下さい。その……、少しでも早くお帰りになれるように」

「そうだった……。これは一本取られたね」

「ふふっ」

健康のためには寝る三時間前以降にお腹にものを入れるのはよくないという話を聞いたことがあるが、それでは政康の夕食はなくなってしまう。それに政康にとってはこの食事の時間が大変ありがたいものであった。

「お仕事が遅い時は、会社で夕方に何か召し上がることは出来ないんですか?」

真理子がそう尋ねる。自分の用意した食事を食べてもらえるのはとても嬉しかったが、健康面では必ずしも好ましいことではないのも分かっている。

「定時を過ぎれば、ちょっと外に出て食べてくることも出来るんだけどね。実際にそうしている人もいるし」

「ですよね」

「でも、外に出たらその分帰りが遅くなるし、外食よりは真理子さんの食事の方がずっといいから」

「そ、そんな……」

「それに、一度外に出て食べちゃうと、気が抜けちゃってあんまり仕事したくなくなっちゃうんだよね……」

「あ、それは分かります」

「お菓子くらいはつまむけど、そんなわけで夜は食べずに頑張ることにしてるよ」

「はい。でも、無理はしないで下さいね」

「うん、分かってる。でも、今年は真理子さんのおかげで、体力的にも精神的にもずいぶん楽だよ」

「いいえ、私なんかの出来ることは……」

「そんな謙遜する真理子さんも可愛いけど、事実だから改めてお礼を言うよ。ありがとう」

多少大げさに頭を下げる政康を見て、真理子は慌てて首と手を大きく振った。

そんな真理子を嬉しそうに見ながら、政康は改めて真理子に感謝する気持ちを大としていた。

実際に物理的にも、帰宅後の食事や洗濯などから解放されているというのは大きかった。真理子に任せておけば栄養のバランスの取れた食事と、きちんとアイロンのかかった服が用意されている。それだけでも去年までの決算期とは雲泥の差があるのだった。

唯一残念だったことは、真理子が来てくれてちょうど一周年という日にも政康は遅くまでの残業で、何か記念に祝うということが出来なかったことだった。

その週は土曜日も出勤で遅くなり、日曜日も半日だけ会社に出ていた。言葉だけの記念日ということになってしまったが、それでも真理子は満足だった。

そして、四月のカレンダーも後半になる頃に、ようやくその多忙期からも抜け出せるようになってきた。

久しぶりに八時前に帰ることが出来るという政康に、真理子は腕によりをかけて食事を作ってその帰りを待った。開放感も手伝ってか、この日の食事はいつもよりも更に美味しく取ることが出来たのだった。


そんな多忙期もようやく終わりを迎えた。張りつめた雰囲気だった会社にも余裕が戻ってきたのがその雰囲気からも分かる。真理子のおかげで心の余裕を持ったまま仕事をすることが出来た政康は、例年よりも仕事上のミスも少なかったことに気付く。さりげなくそれを口にすると、真理子は「私のおかげだなんてとんでもありません」と言っていたが、家の中のことだけに限らず、全てがよい方向に動いていることに政康は大いに満足していた。

真理子のいる生活が日常化してはいたが、常にそれに対する感謝を忘れないように心がけていた。真理子の方も政康の満足してくれている姿を見るのが大きな喜びではあったがそれに甘えることなく為すべき仕事をきちんとこなしている。

そこには微妙なバランスというものが存在していた。その釣り合いは傍目には確固としたようなものに見えている。本人たちもそう信じて疑うことがなかった。しかし、人が生きていく中で全く普遍のものは存在しないといえよう。どのような意味であるかは別として、政康と真理子の間でも例外ではなかった。

そんな中、穏やかという言葉のふさわしいこの年の春が順調に過ぎていった。

そうした順調さの中で時は過ぎ、二度目の夏を迎えて、その暑さの盛りもいつの間にか過ぎていった。メイド服にも夏の装いというものがあり、それに対する新鮮さが見慣れたものに変わっていく。そして、真理子の大好きな季節である秋をそろそろ迎えようかという頃になったある日、いつもより遅く帰宅した政康を真理子は玄関で出迎えた。この日は会社で同期の集まる宴会があった。本社勤務の長かった同期の一人が秋の人事異動で地方の支社に転勤することになり、その送別会も兼ねたものである。

「おかえりなさいませ。今日のご宴会は如何でした?」

「うん、賑やかで楽しかったよ。あっ、真理子さんにはお土産を買ってきたよ」

「そんな心遣いを……、ありがとうございます」

「場所がなんとかっていうフランス料理のお店で、お菓子も作っているようなところだったからプチケーキを買ってきたんだ」

「わっ、ありがとうございます。えっと……、いくつ入っていますか?」

スーツの上着を受け取りながら真理子が聞く。

「確か三つじゃなかったかな。明日の昼間にでもゆっくり食べてもらおうと思って」

「はい。でも、もしよろしければ今から頂こうと思うのですが」

「もちろん、それでも構わないよ」

「政康さんもご一緒してくださいますか?」

「えっ?」

「あの……、お腹がいっぱいというのでしたら構わないのですが、せっかく買ってきて下さったのですから二人で頂いた方が美味しいと思いまして」

「うん、そうだね。でも、いいの?」

「はいっ。ちょっと遅い時間ですけど、すぐに紅茶の用意をしますね」

「かえって真理子さんの仕事を増やしちゃったかな?」

「いいえ、これはお仕事ではないってことにして下さい」

「ははっ、そうだね。その間に僕は着替えてくるよ」

「わかりました」

真理子はケーキの入った小箱を持って嬉しそうに台所に向かっていった。背中のエプロンの結び目もどこか楽しそうに見える。政康は部屋に入ってネクタイをほどくと、若干残っている酔いもあってか、大きな開放感を得ることが出来た。

脱いだ服を籠に投げ入れ、今日のスーツをクリーニングに出そうとハンガーに掛けると、動きやすい部屋着に袖を通す。

部屋を出るとちょうど真理子が紅茶の準備を整えたところだった。上品な感じのティーポットに、二つ揃いのティーカップ、そしてプチケーキを乗せた小皿を一緒にテーブルに運んできた。政康にとっては自分の家には不釣り合いのようなティーポットだったが、これは真理子が探してきて買ったものである。それまではコーヒーメーカーを兼用で使っていたのだが、真理子に「もっと美味しくいれられますよ」といわれて買うことにしたのだった。品物は真理子に任せることにして、彼女が選んで来たのがしつこくない程度に花柄をシルエットとしてちりばめられたこのポットだった。ティーカップの方はというと、何年か前に友人の結婚披露宴で引き出物としてもらってきたものだった。戸棚の片隅に眠っていたのを真理子が救い出し、現役として使われるようになったものである。

「こんな素敵なのが放りっぱなしになっているなんて、もったいないですよ」と見つけてきた真理子が政康を責めたものだ。

茶葉が開くのに充分な時間が経過して、真理子が慣れた優雅ともいえる動作で紅茶をカップに注ぐ。抜けかけている酒に紅茶の佳い香りが染み渡るように感じられた。

「美味しそうです。さっそくいただきます」

「そうだね。僕もご相伴に預かろう」

「そんな、政康さんが買ってきて下さったものですから」

真理子の白く細い指がフォークを巧みに操る。これまでは意識することはあまりなかったが、こうして見ると女性の、特に真理子の手というのは男のものとは全く違った繊細で美しいものだと政康は感じた。あまりじろじろ見ていることも出来ずに、政康は慌てて自分のケーキに取りかかる。適度な腹の余裕があったのもあり、ケーキと紅茶はとても美味しく感じられた。真理子の方も嬉しそうに食べている。

思わず笑みのこぼれた政康に気付いて、真理子が指摘した。

「どうしたんですか、急に私の方を見て笑ったりして」

「いや、美味しそうに食べてくれてるなって思って。女の子は甘いものが好きっていうのはやっぱり本当なんだなって」

「恥ずかしいです……。でも、このケーキは本当に美味しいですよ。箱を見たら、雑誌やテレビでもよく取り上げられている有名なお店のようでした」

「そうなんだ。でも、僕にはケーキもそうだけど紅茶の方がもっと美味しいと思うな」

「そんな、もったいないお言葉です……」

「さすが真理子さんだよね。同じ葉っぱを使っても僕にはこんなに美味しくいれられない」

「そこは、やっぱりプロですから」

真理子が胸を張って言う。そんな仕草を政康は可愛いと思った。嫌みなく自然にそういう振る舞いが出来るところに真理子の魅力があるのだろうと思われた。

「あの、政康さんにお伺いしたいことがあるのですが」

「うん、なにかな?」

「今度の土曜日の夕方、政康さんは何かご予定はありますか?」

「土曜日?ううん、特にはないと思うよ。今週くらいまでは土日はゆっくりしてるつもりだったから」

「よかったです」

「えっ、ひょっとしてデートのお誘いとか?」

冗談めかして政康が言うと、真理子は恥ずかしそうにしながらそれを否定した。

「そうでしたらよかったのですが、今回は違うんです」

「そうなの?だったら今度、誘ってみようかな」

「はい、是非お願いします。でも今度の土曜日はですね……」

二人ともどこまでが冗談かはっきりさせないような会話だったが、お互い楽しい気持ちで言葉を交わしていた。そして話題を元に戻して真理子が続ける。

「お隣の川西さん……、智香さんが『もしよかったら、今度のお休みに一緒に食事でもしない?』って誘ってくださったんです。前から智香さんはそんなことを考えていらしたらしいんですけど」

「おや、そんな話があったんだ」

「はい、智香さんのご主人も結構乗り気らしいので、本人の意向を聞いてみてって言われたんです」

「うん、それは楽しそうだね。じゃあ、真理子さんも土曜日はお休みということにして、四人で楽しむことにしようか」

「はい。川西さん夫妻の方が招待してくれるということみたいです」

「なるほど、楽しみだね」

「はいっ」

ちょうどケーキを食べ終える頃にそういう結論に達した。聞くところによると、割とよく真理子は智香と顔を合わせて話をすることがあるようである。天気のよい日は同じことを考えるものらしく、洗濯物を干しに出たベランダでばったり、ということも多いそうだ。

「でも、今の時期は秋の長雨っていうだけあって、そんな日ですとお洗濯もあまり気持ちよく出来ないですよね……」

一方で、そんなことを言って真理子は残念がるのだった。

「そうだね。僕はいつも夜だから家の中に干すことが多かったけど……」

「そうですか……」

「でも、考えてみると真理子さんに洗濯もしてもらうようになってから服の着心地もよくなったように思えるなあ」

「そう言って頂けると嬉しいです。それに私、洗濯物がお日様の光をうけて乾いたときの匂いが大好きなんです」

「なるほど」

「ですから、雨の時は乾くのに時間がかかるだけでなく、それが味わえないのが残念なんです」

「そうだね。でも、本当にいつもありがとう」

「いいえ、私は当たり前のことをしているだけですから」

そう真理子は謙遜するが、その当たり前のことを一定以上の水準で常にこなしきっているのは立派なものだと、政康は感謝の気持ちを新たにするのだった。

そして、土曜日になった。

ゆっくり目に起き出した政康は、真理子の用意してくれた朝食を終えてくつろいでいた。

「今日は何時頃に行けばいいのかな?」

そう真理子に尋ねると、洗い物の手を止めぬままに政康の方を見て答えてくれた。

「早くても三時過ぎでよいのではないでしょうか?お昼を過ぎたら、私も着替えさせて頂きますね」

「あ、そうか。今日は真理子さんはお休みって言ったのに、朝ご飯を作ってもらっちゃったね」

今ではすっかりなじんでしまっているメイド服を見ながら、政康がしまったという表情をする。

「いえ、いいんです。どちらにしても私も朝ご飯は必要ですし、その時はお台所をお借りすることになるのですから」

「そう言ってくれると助かるんだけど」

「政康さんもお休みの日ですから、朝もゆっくりさせて頂きましたし」

「そうだね。早起きしなくていいのは気分いいよね」

「はいっ。それに、このお洋服が着られるのは嬉しいんです」

真理子が政康の方に笑顔を向け、長いスカートの裾を指でつまみながら言った。

「真理子さんはメイド服がお気に入りなんだね。その服で仕事しているときはいつも嬉しそうに見えるよ」

「ありがとうございます。政康さんのおっしゃるとおり、私、この服は大好きなんです」

「そっか」

「メイドにとっての制服でもありますし、着ていると『しっかりお仕事しなきゃ』と気持ちも引き締まるんですよ」

「なるほど。世の中には制服なんていうのは個性の抑圧だとかいう人もいるのにね……」

「そうなんですか?私は制服は責任持ってお仕事するのに大切なものだと思います。可愛い服は着ていても嬉しいですし」

「うんうん。勿論、見ている方もね」

「あっ、それが政康さんの本音ですか?」

「うっ」

真理子の指摘を受けて、政康が慌てて口を抑えようとした。だが、真理子は変わらぬままの笑顔で洗い物をしながら言葉を続ける。

「最近は、ファミリーレストランなどでも個性的で可愛い制服を採用しているところが多いんですよ。その制服目当てでアルバイトに来る女の子もいるのだそうです」

「そうなんだ……。でも、ファミレスなんて滅多に行かいよなあ……」

「そうなんですか?」

「ファミリーっていうだけあって、一人じゃなかなか入れない感じだし、今は真理子さんがいつもご飯を作ってくれるからその必要もないし」

確かに、真理子の作る経済的でしかも美味しい食事があればわざわざファミリーレストランなどに行く必要もないだろう。

「私は少し興味があります。メニューも豊富で季節ものなども多く取り入れているらしいんです。紫の矢絣模様の和服なんていう制服のレストランもあるみたいなんです」

「そうなんだ。じゃあ、今度お休みの時に一緒に行ってみる?」

「わっ、いいんですか。是非、連れて行ってください」

「うん」

そんな会話をしながら、政康は真理子のメイド服姿をある意味で独占しているのだという心地よさを感じていた。会社では女子社員の制服の是非が組合などでも話題になったことがあるのを思い出した。政康は単純に服装に毎日悩まなくてすむし、行き帰りにはオフィスの中ではちょっと……というような服装も出来るから合理的ではないかと思っていたのだが、当の女子社員の中では賛否見事に分かれていた記憶がある。

ただ、真理子の言うように制服を着ることが心を引き締める役を果たすというのは本当だと思った。男性の場合はスーツがそれに対応するのであろうが、政康もスーツ姿で仕事をしているときと、休日出勤でラフな姿で行くときとでは少し心の持ち方に違いがあると思っている。ただ、真理子のように自分の制服が好きなのならこれ以上好ましいことはないが、そうでない人にとってはやはり窮屈なのではないかとも思われた。

いずれにしても、そう単純に結論できる問題ではないが、真理子と政康にとっては何の問題もなく寧ろ好ましいのがこの制服論議であった。それに、真理子のメイド服姿での立ち居振る舞いは見ていても気分の良いものである。ある種の優雅さすら感じられるといってよいだろう。

そんな真理子の好意に甘えて、軽い昼食まで作ってもらうことになってしまった。いわば残り物で簡単に作ったのだと謙遜していたが、そんな真理子が政康と向かい合って箸を付けながらどんな工夫で作ったのかを楽しそうに話すのが嬉しかった。

そろそろ多少は身支度も整えておかなければならないと考え始めた頃、真理子も自分の部屋に戻って着替えを済ませることにした。女の子は身支度にそれなりの時間がかかるものらしく、早々に服装と髪を整えた政康が本を読みながらリビングで過ごしていると、三十分ほどたって真理子が姿を現した。

珍しく濃いめの色合いの服に身を包んでいる真理子は、見慣れたメイド服の時は違った魅力を感じさせている。

「お隣に行くだけだから、そんなに気にしなくてもいいって思ったんですけど……、ちょっとメイクまでしてしまいました」

「そうなんだ。よく見ると感じのいい色の口紅だね」

そういったことには疎い政康は、辛うじてそこに気が付いただけだった。それでも真理子は嬉しかったらしく、にっこりと微笑んでいる。

「はい、気付かれないくらいのさりげないメイクを目指しましたから、大成功です」

「そうなんだ」

「智香さんもあまり飾らない人ですから、気合いを入れておしゃれしすぎるときっと私だけ浮いてしまいます」

「なるほど」

その辺の機微は女性特有のものなのであろう。胸元のネックレスの位置を気にしている真理子の仕草が新鮮に見えた。

「そろそろ行こうか」

「そうですね。私、とても楽しみです」

ちょっとしたよそ行き気分を味わいながら、真理子と政康は隣家のドアホンを押した。

「はーい」

チャイムの音が響いてから数秒後、中から聞き慣れた声がインターホン越しに聞こえてきた。

「あっ、遠藤です」

「今出るわね。ちょっと待っててね」

「はい」

しばらくして玄関のドアが開いた。落ち着いた服装の久志とエプロン姿の智香が並んで出迎えてくれる。

「いらっしゃい。もうすぐ準備も整うところだったからちょうどよかったわね」

「智香さんのエプロン姿、よく似合ってます」

真理子が言う。真理子にとっても智香のその姿を見るのは初めてに近いものがあった。

「ありがとう。普段はエプロンはあんまり着けないんだけど、今日は気合い入れてみたのよ」

「わぁっ。何かお手伝い出来ることはありますか?」

「ううん、あなた達はお客さんなんだから気にしなくていいのよ。さっきも言ったけど、もうすぐ準備は終わるところだし」

「いい匂いがしてきますね」

政康が言うと、智香は我が意を得たりという表情になる。

「ありがとう。煮込んで出来上がるまでには少し時間があるから、いろいろお話ししましょう」

「そう、こんなところで立ちっぱなしと言うのも何だから」

久志に促されて、政康たちは川西家にお邪魔することとした。

落ち着いた感じのBGMを聞きながら、四人で他愛のない話をして過ごす。

やがて智香の煮込み料理もよい感じに仕上がり、メインイベントである夕食となった。久志が選んできたというワインを飲みながら、智香の料理に皆が舌鼓を打つ。

「美味しいです!」

真理子が感激しながら言った。

「そう?ありがとう。プロの真理子さんに誉められると嬉しいわね」

「そんな。智香さんだってれっきとしたプロですよ」

「あ、確かにそう言われてみるとそうよね。でも、わたしはそんなに料理って得意じゃなかったから。幸い、ダンナも味にはそんなにうるさくないほうだし」

「そうなんですか?」

政康が久志の方に話を振ると、表向きは淡々とした表情のままで答えた。

「味にうるさくないというよりは、こいつの味に慣らされたって感じだな。でも、それは悪いことじゃないと思うよ」

「いいですね、そういうの」

「遠藤さんも、真理子さんの味にずいぶん慣れたんでしょう?」

「慣れたといいますか、最初から美味しかったですよ」

そう言って率直に誉めると、真理子は恥ずかしそうにしながらも喜んでくれる。

「一人でいたときは自分で変なものを作るか、出来合を買ってくるかでしたしね」

「あっ、遠藤さんの比較の対象はそんな食べ物なのね?」

「あっ、それはひどいです……」

「えっ、そういう意味じゃなくて……」

慌てて弁明しようとする政康を見て、智香と真理子が笑う。

「ちょっとした冗談よ」

「ひどいですよ……」

「ははっ、ごめんなさいね」

「それはともかく、俺は智香の味に満足しているけど、子供が出来たらしっかり味覚は教えてやらないといけないよな」

「そうね……。ファストフード禁止令かしら」

「その通り」

久志と智香が一瞬、真剣な表情になってそんなやりとりをした。政康は全く気付かなかったが、真理子はその会話の奥にあるものに敏感に気が付いた。

「あの、智香さんたち、ひょっとすると……」

確信は持てないので遠慮がちに聞く真理子に、智香の方も気付いたようだった。

「そうそう、今日の招待は重大発表も兼ねているのよ」

隣の久志が満足そうに頷いている。

「わたし、妊娠したそうなの。男の子か女の子かはまだわからないんだけどね」

「そうなんですか、おめでとうございます!」

真理子が思わず声を大きくして言った。自分でもその声の大きさに気付いて、慌てて口を抑える。

「おめでとうございます。待望の、お子さんなのですか?」

「そうね。これから大変かもしれないけど、今はとにかく嬉しいわ。ちょっと体がつらいところはあるんだけど」

「そんなわけで、これからは今まで以上に遠藤さんたちにもお世話になることもありそうだから、宜しくお願いするよ」

「そこまではまだ気が早いわよ」

「いや、そんなこともないだろう」

「僕たちも何か出来ることがあれば協力します」

「ありがとう」

「こんな素敵な話が聞けてよかったです」

真理子が嬉しそうに言うと、久志が冷静な表情のままでさりげなくある指摘をした。

「ところで遠藤さんたちのところはどうなんだい。二人とも、なにかいい話はないのかな」

「えっ、僕ですか……」

「私?」

明らかに戸惑っている政康と真理子を見て、久志と智香が声を出して笑った。

「ま、そんなに焦る必要もないと思うけど、何も考えていないというのもよくないと思うのだが」

「えっ。そういうわけではないですけど……」

しどろもどろになりながら必死で答えようとする政康を久志と智香が楽しそうに見ていた。

「政康さんも真理子さんもいい年頃だし、そういう相手がいても不思議じゃないと思うのよね」

「いえ、僕は残念ながら……」

「私もです……」

「ま、俺たちが言うのもあれだけど、はっきり言ってやっぱり結婚生活はいいものだぞ」

「そうよね。でも、あまりわたしたちがいろいろ言うと、小姑みたいで避けられちゃうからここまでにしておこうかしら」

「そんなことは……」

話が勝手に進んでいくのに閉口しながら、政康がなんとか抑えようとする。政康もずっと独身を続けるつもりはなかったが、かといって具体的に相手がいたりそのための機会を持つことを考えているわけではなかった。いろいろな意味で今の生活に満足感があるというのも大きいかもしれない。真理子に対しては、とても好ましい女性だとは思っていたが、心のどこかでそれが恋愛感情に発展することを恐れて必死で封じ込めているというのがあるだろう。

そんな話題から、最近世間を騒がせているニュース、政康や久志の仕事のこと、真理子のメイドとしての苦労話など、話の種は尽きることがなかった。食事を終えることになってワインのボトルもちょうど空になった。川西夫妻は酒には強い方らしく、ほとんど顔に出ることがなかったが、真理子の方はほんのりと頬を紅に染めていた。政康は量を抑えていたので酔いを感じることもなかった。

最後にお茶を飲んで体をすっきりさせた後、政康と真理子は並んで礼を言って川西家を辞した。久志と智香も並んで手を振って見送ってくれた。隣同士であるから別れといってもそんなに大仰なものではない。

「ただいま」

二人が同時に玄関で声を出した。ほとんどその声にずれがなかったので、思わず二人とも顔を見合わせて笑ってしまった。

玄関の明かりの微妙な色のせいか、陰影がはっきりして見える真理子の顔にワインのもたらしたほのかな赤みが重なって普段以上に政康には美しく感じられた。

その印象を心の奥にしまいこみ、政康は靴を脱いで廊下に上がる。それに続くように真理子も政康に続いてリビングの方に歩いていく。

「今日は楽しかったです。思わぬニュースも聞けてしまいましたし」

「川西さんのところに赤ちゃんが出来たんだね。なんかこう……、幸せそうだったよね」

「はい。あんな生活、私も憧れてしまいます」

「そうだよね。あ、明日は休みだし、真理子さんはもうゆっくりしてもいいよ」

「はい。ではお風呂の支度だけさせていただきますね」

「ありがとう」

部屋に戻った政康は、しばらくして真理子の声に促されて入浴を済ませる。僅かに残っていた酒はその間にすっかり抜けてしまった。先ほどの楽しい時間の余韻と明日が休みだという心の余裕のためにかなりリラックスした心地になっていた。

まだ寝るには早い時間で、ぼんやりと読みかけの本の文字を追いかけながらベッドの上に寝ころんでいた政康であったが、一つの章を読み終えたときに喉の渇きを覚えて台所の方へ向かった。

「確か野菜ジュースがあったはずだよな……」

棚からコップを取りだして紙パックからジュースを注ぎ出す。独り台所で飲みながら、普段の冷蔵庫の中身も最近はほとんど真理子に任せきりであることに思い当たる。

「ついつい真理子さんに頼っちゃうけど、それも少し考えないといけないかな」

そう考えて、ささやかではあるが飲み終えたコップを自分で洗って食器棚に戻す。

部屋に戻った政康は、さっき自分の脱ぎ捨てた靴下とシャツが床に転がっているのに気が付いた。

「これも洗濯に出しておかないと」

ひょっとすると気付かぬうちにこれまでもそういったことを真理子にさせてきてしまったことがあるのかもしれない。自戒の念を新たにしながら、政康は洗面所の脇にある洗濯機に自分の服を放り込もうとした。

真理子は自分の部屋にいると思っていたから、政康は何も考えずに洗面所のドアを開いた。洗濯機の隣に置いてある籠の中に靴下とシャツを投げ入れたとき、その奥にあるカーテンがさっと音を立てて開いた。反射的にそちらに目を向けると、バスタオルを体に巻いただけという真理子の姿がそこにあった。

後ろで束ねて上げた髪はしっとりと湿っていて、なんともいえぬ艶やかさを見せていた。同時に唯一、真理子の体を隠しているバスタオルはその女性らしい体の曲線をはっきりと示してもいた。真理子の方もそこに政康がいるとは考えていなかったので、湯上がり特有のリラックスしきった表情をしており、その無防備さがこれまで意識していなかった真理子の美しさを政康にはっきりと見せつける形になった。

挿絵5 直接的にいえば、政康はそんな真理子にたっぷり数秒間は見とれていたといってよかった。真理子の方も突然の出来事に何も反応をすることができず、目の前の政康のことを見つめていた。微妙な姿を見られて恥ずかしいと思う余裕すらなかったといえるだろう。

そんな長い数秒間の後、ようやく正気を取り戻した政康が辛うじて呼び起こした声で真理子に謝った。

「ご、ごめん……」

月並みなその言葉は、政康の詫びの気持ちをほとんど示すことは出来なかったが、それ以上の言葉はこの状況では思い浮かばなかった。

その政康の声で、真理子もようやく自分の置かれた状況を思い出した。政康は部屋にいると思いこんでいた真理子は、風呂上がり早々、化粧水を洗面台から持ってくるのを忘れたことに気付いてそちらに取りに行こうと思っていたところだった。

「い、いいえ……。気になさらないで下さい」

政康に届く前に消えてしまいそうなその声には、政康や不注意だった自分を責める調子は全く感じられなかったが、恥ずかしさだけはどうしても隠しきれなかった。

「本当にごめん、僕は部屋に戻るから。真理子さんはゆっくり着替えてね」

逃げるように政康は自分の部屋に向かっていった。だが、政康の脳裏からは今の真理子の姿が簡単には消え去らなかった。

真理子の方もようやく混乱から立ち直り、洗面台から化粧水を持ってきて顔に当てる。鏡に映った自分の姿を見ながら、その格好が政康に見られるところとなったのを改めて意識することとなり、どうしようもない気恥ずかしさがこみ上げてくるのをはっきりと感じた。だが、不思議と嫌悪感の類はそこに存在していなかった。自分の不注意がそもそもの原因だという意識のためもあったのであろうが、それだけでは割り切ることの出来ない感情が真理子の中に存在していたからである。見られた相手が気心の知れた雇い主であるというある種の安心感というようなものとも異なり、真理子が気付いていない未知の感情がそこに潜んでいた。

部屋に戻ってパジャマを着た真理子は、この出来事を過剰に意識しないように勤めながらベッドに潜り込んだ。だが、寝付くまでの間に何度か政康の顔が頭に思い浮かんだ。不思議な感覚であった。

一方の政康も、何故か先ほどの真理子の姿が強烈に頭の中に残ってしまい、なかなか寝付くことが出来なかった。以前にもちょっとした間違いで真理子の風呂上がりの姿を見てしまったことがあったが、今度はその時とは違ってなかなかそれが頭から消えることがなかった。その原因は政康には分からなかった。極めて客観的に考えようとすれば、前の時とは違う感情を真理子に対して持っていたからであり、先ほどの川西家での微妙な会話も多少の影響を与えていたのかもしれない。

端的にいえば、政康が真理子に対して単に自分の家で働いてくれているメイドというものにとどまらずに、一人の女性に対する好意のようなものを持ち始めているからであるのだ。だが、政康は自分の心をそこまではっきりと認識したことはない。その差異が今回の出来事に対する反応の違いとして現れたのである。

前に真理子の姿を見てしまったときは、何よりも先に申し訳ないという気持ちと恥ずかしさを感じていた。今回もそれに違いはなかったが同時に偶然見てしまった真理子の体に女らしさとそれに同居する美しさをはっきり感じ取ってしまったのである。女性の魅力というものは外見にとどまるものではないのは当然であったが、その一要素であることも間違いない。まして、真理子の内面についての魅力は既に政康はよく知るところであったから、これまで一年半以上同じ家で暮らしていく中で真理子に対するそうした好意がわずかずつであっても醸成されてきた可能性というものは否定しがたかった。ただ、政康はそれを率直に認めることが出来ないでもいた。自分も男であるから素敵な女の人と仲良くなって特別な間柄になりたいと思うのは当然であった。だが、その対象を真理子とすることに対しては、あえてそういった可能性を見ないことによって、メイドとその雇い主というある意味で安全な関係を崩さないための境界線の意味合いを持たせていた。真理子の仕事ぶりは非の打ち所のないものであったし、仕事としての通り一遍の働き以上のものを自分に向けてくれている。だが、同時にそれに対して仕事以外の感情を意識してしまうと思わぬ悲劇を生みだしてしまうのではないかという防衛本能のようなものが存在していた。真理子も政康も人間であるから、時には気分が落ち込んだり機嫌のよくない時というものも存在していたが、それでも相手に対してそれをあからさまにぶつけることをしなかったのも、メイドと雇い主という関係の持つ抑止力のためであったといえよう。

はっきりとそういったことを政康も、そしておそらくは真理子も考えることはなかったであろうが、無意識のうちに二人の間の行動規範となっていた。

そんな中で、政康が真理子の微妙な姿を見てしまった。そしてその中に明らかにこれまでの考え方だけでは割り切れない新たな感情が存在していたのを自覚して、政康はとまどっているのだった。

最も現実に近いところでは、一人の女性を見る目で真理子を見てしまった自分は、明日からどうやって彼女のことを見ればよいのか、そういう悩みを抱えることになった。

結局、それに対する解答は得られないままに、この日の政康はなんとか睡眠に就いた。


「おはようございます」

「うん、おはよう」

ネクタイはまだ締めていなかったが、Yシャツとズボンを着終えた政康がいつものようにリビングの方へ向かう。既に真理子はいつものように朝食の支度を整えて政康を待ってくれていた。服装もいつもと同じメイド服であったが、真理子の顔を見ると、普段なら感じることのない恥ずかしさをはっきりと覚えた。

その微妙な変化に真理子も気付いたのか、それとも真理子自身も昨日の出来事を意識しているのか、僅かに顔を赤らめてうつむき加減になっているようだった。

「その……、昨日はごめん。前にも同じことがあったのに、また気付かなくて」

「い、いいえ。私は構いません。ですが……」

「うん?」

「いえ、なんでもありません」

普段のようには真理子を正視できない政康は、若干の居心地の悪さを感じて、少し急ぎ目に食事を終えると、できるだけ平静を装いながら仕事へと出かけていった。

幸か不幸か、真理子も政康の心の揺れに気付いて、胸をなで下ろしながらいつも通りの仕事に取りかかった。

政康を見ると、心の中で、おそらく恥ずかしさから来る熱のようなものが起きあがっているのが感じられた。それ以上のものはその心の中に封じ込めて、真剣に仕事に向かい合おうとする。単にハプニングの引き起こした一時的な揺らぎに過ぎず、今日の夕食時にでもなればいつもの政康と自分に戻ることが出来るだろうと真理子は考えていたのだった。

「ただいま」

「おかえりなさいませ」

「この時間はもうだいぶ寒くなってきたね。そろそろコートを出さないとダメかな」

「私もお買い物に出たときにはずいぶん寒いと思いました。政康さんのコート、後ほどご用意させていただきます」

「うん、ありがとう。それと、はい、真理子さんにこれ」

「あ、何でしょうか」

「ケーキを買ってきたよ。うーん、昨日のお詫びなんだけど、これで許してもらえるかな」

「許すなんてそんな……。私のためにありがとうございます。一つだけでないのでしたら、またお食事の後にご一緒させてください」

「いいのかな?」

「はい。政康さんもおっしゃってましたけれど、一人でいただいてもあまり美味しくないです。それはお菓子でも同じですよ」

「ははっ、そうか。じゃあ、真理子さんの望むとおりに」

「はいっ」

部屋着に着替えた政康が、ちょうど食事を盛りつけ終えた頃に部屋から姿を見せる。

それはいつもと変わらない風景であり、政康もケーキを買ってきた以外は既に普段の彼と変わるところはないように見えた。だが、会社に行くときのスーツ姿と違う政康の格好が、昨日の出来事を真理子に思い出させる。なぜそういう思考に至ってしまうのかは真理子自身にも分からなかった。

食事中の政康と真理子の会話はいろいろと弾んだが、どことなく微妙な雰囲気の差が存在していた。話をしているときはよいのだったが、一度途切れてしまって相手の顔を見たときに、これまでにはない明らかな戸惑いがあるのだった。悪い意味での相乗効果で、真理子がそういった気持ちを見せると政康の方もそれを感じ取って過剰に真理子を意識してしまう。

勿論、真理子の風呂上がりの姿という直接的なものが思い浮かぶことはなくなっていたが、今度はそれが昇華して真理子自身の清らかさというものが政康に意識されるようになってくる。単に似合っているとか可愛いというだけでない感情で政康は真理子のメイド服姿を見てしまうようになる。

それでもこの日は楽しく会話し、食後に美味しい紅茶を飲みながら買ってきたケーキを二人で食べた。ちょうど、真理子がお気に入りのアーティストの新譜CDを買ってきてかけていたこともあり、表面上は和やかな雰囲気を保つことが出来た。

入浴を済ませ、床に就く頃になって、異なる部屋で政康と真理子はそれぞれ「ふぅ」とため息とも安堵とも言えぬ声を発していた。

もし、この緊張感が続くのだとすれば、リラックス出来るはずの「我が家」というものが危ういものになりはしないかと心配するのだった。

残念なことにその危惧は杞憂にとどまらなかった。

はっきりといえば政康と真理子は、お互いの存在をこれまでとは違って意識するようになってしまったのである。その下地というものは既に充分に存在していたのであろうが、あるきっかけによってそれが芽を出すと、予期していなかっただけに心の揺らぎを制御できなくなっていたのである。二人とも恋愛の類に対しては巧者とはほど遠いところにいたから、うまく行動に反映させることが出来なかった。

そして、これも重要なことであるが、政康も真理子もその気持ちを認めたくないという考えを持っていた。同じ家に住んでいたとしても、いやそうであるからこそかえって強く、メイドと雇い主という関係を越えてはならない、特別な感情を相手に対して持ってはならないという抑制が存在していたのである。まだ相手のことをよく知らない間であったのならばそれは倫理観として有意義なものであったかもしれないが、最初の頃のそういった思いこみが強すぎて、そのようなものが必要なくなった現在になっても二人の心を縛っていた。

真理子が自分のために尽くしてくれていることが政康にとっては嬉しかったし、単にそれに対する反対給付という単純なものではなく、政康は真理子を喜ばせることをしたいと思っていた。真理子も政康に対して素敵な雇い主であるという以上の感情を持っていた。

悪い言い方をすれば卑怯ということになるだろうが、二人はそう思いこみ続けることによって自己防衛と、相手への思いやりになるだろうという偽善を同居させていた。自分が心の奥に持っているのと同じ気持ちを相手も持っていてくれるのかは分からなかったし、単に自分側だけがそう思いこんでいるのだとしたら恥ずかしいばかりでなく今後暮らしていく上でも有害になる。そんな気持ちが折角育っていた相手への恋慕の情を無理に封じ込めることになってしまっている。そしてその恋慕はそれを表に出来ないばかりに歪んだ形で心の中で成長していく結果となってしまっている。

真理子はすぐにこれまで通りに政康に接することが出来るようになると思っていたし、政康も深刻なものになるとは考えていなかった。

だが、一度意識してしまうとそれはなかなか消えるものではなく、逆に押さえ込まれているだけにその感情は強くなる一方だった。

政康の真理子との会話はどこかぎこちないものとなり、それが一層、二人の間の空気を気まずいものにしていた。かといって、政康は自室に逃げ込むのをよしとせず、真理子の姿を見ていると嬉しさも感じるのも事実だった。

真理子はそんな政康の気持ちを受け止めることも流すことも出来なかった。あえて自分のすることを「仕事」だと思いこむことにする。

そのために、これまでは自然に細かい気遣いとなっていた様々なことが外されることとなり、政康はその真理子の変化を曲解したから、単なる気まずさのにとどまらないすれ違いを生み出すことになってしまった。

政康は夜の自室でそれに戸惑いながら悩み、真理子はこんな雰囲気が続くのでは次の更新では政康は自分を置いてくれなくなるのではと本気で心配するようになった。この家にいられなくなる可能性を考えて涙がこみ上げるという事実は、真理子の気持ちを端的に示していた。だが、それは表に出すことは出来なかった。真理子はメイドとしての仕事を遂行することによって、その苦しみから逃げようとしているようにも見えた。皮肉にも、そんな時の真理子の仕事ぶりも申し分ないものであった。かえって、何かミスでもして政康に叱られたりしたほうが真理子にとってはよかったのかもしれない。

これまでとは一転し、遠藤家には居心地の悪さが存在するようになってしまった。不快というものとは違うその空気は、それだけにかえって修復させるのが難しいようにも思われる。真理子が政康に快適に過ごしてもらいたいと思う気持ちは変わらなかったし、政康の真理子への感謝も変わらなかったが、それを相手に伝える手段が失われてしまったかのようだった。それでも、二人は逃げを打ったりはしなかった。少なくなってしまった会話の中でも、なんとか相手の心をつかみ取ろうともがいているように見えるのだった。

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