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第4章 更新

秋から季節は冬へと移った。

落ち葉がなくなると、町中ではそれに代わるように赤、白、緑の飾りが木を彩るようになってきた。不景気が叫ばれている今のご時世でも、いやかえってそういう先の見えぬ時代だからであろうか、クリスマスのようなイベントを大いに楽しもうという雰囲気が支配している。

残念ながら政康も真理子もプライベートではそういったイベントを特別に祝う機会も持っていなかったが、それ故に逆に心からくつろげるような小さなパーティを遠藤家で催した。

この日はたまたま仕事で外出していたこともあり、定時で直帰することが許された政康は、念のため会社の方に電話を入れた後に家路に就いた。

「遠藤ですが、打ち合わせは終わりました。特に問題になる点もありませんでしたので、明日、資料をまとめます」

「うん、ご苦労さん」

「それでは、お先に」

「お疲れさま。そうそう、例のメイドさんにも宜しくな」

「えっ?」

「いや、今日は特別な日なんだろう?」

「ですから大高さん、あれは‥‥」

「ははっ、気にするなって。とにかく、お疲れさま」

「はい、お先に失礼します」

電話を切った政康が軽くため息を付く。勿論、会社では周りに聞こえないように言っていたのであろうが、前のあの出来事以来、時々大高や根本はこうして政康をからかうことがある。政康の弁明も言い訳にしか聞こえないらしく、

「そうだね、そういうことにしておこう」

という言葉には全く真実味が感じられなかった。結局、それ以上の抗弁はせずにこの件に関しては今のように推移している。

ただ、今では政康もそれほどその誤解に不快感は感じていなかった。ただ、そのことでもし真理子に迷惑が掛かったら申し訳ないとは思っている。

ともあれ、無事に定時に帰れたことを真理子に電話で伝えると、政康は普段よりかなり早い時間の通勤電車に乗り込んだ。

この時間の電車が普段よりもずっと混雑していることに政康は不況を実感する。昔は夕方のラッシュはもう少し遅い時間だったような気がする。それだけ世の中全体で仕事が減っているということなのだろう。残業漬けが好ましいこととは思えないが、複雑な気持ちにもなる。

一時間と少しでいつもの駅まで戻ってきた政康は、この時間はまだ開いている酒屋に立ち寄ってシャンパンを買った。

家にたどり着いたときには、ちょうど真理子が料理の支度を終えたところだった。

「おかえりなさいませ」

「うん、ただいま。美味しそうな匂いだね」

「はい、ちょうど出来上がったところです。政康さん、早く着替えてきてくださいね」

「もちろん」

メイド服姿の真理子にコートを渡して、政康は一度自分の部屋に入って着替える。

平日ではあったがそういう幸運のために、今日は真理子がちょっとしたごちそうを作ってくれる手はずになっていた。鶏肉のローストをメインにした、いつもよりも少し豪勢な食事を真理子と一緒に食べていると、政康もどこか嬉しくなってくる。こういった時間を持つのは本当に久しぶりであったことを思い出す。

「いいよね、こういうのって」

「ありがとうございます。ですけど、私、本当は鶏肉のお料理ってあまり得意じゃないんです」

「そうなの?これで得意じゃないんだとしたら、真理子さんに作れないものなんてないんじゃない?」

「そんなことないですよ。普段からもっといろいろ作れるようになりたいって勉強しているんです」

「さすがだね」

「時々、新作を政康さんにも召し上がっていただいています」

「あ、僕は実験台だったのか」

「そ、そんなことないです。ちゃんと自分で何度も確かめてからお出ししていますので‥‥」

慌てて謝ろうとする真理子に、政康は笑顔で言う。

「冗談だよ。でも、真理子さんのものだったら安心して食べられると思う」

「そんな、勿体ないお言葉です。私にとっては最大級の讃辞です」

「ははっ、真理子さんは大げさだな」

「いいえ、大げさではありません」

どんな仕事も真理子にとっては心を籠めてしているものであったが、掃除や洗濯などと比べて、その成果をはっきりと見ることの出来る料理で相手が喜んでくれるのが真理子にとっても一番の喜びだった。

クリスマスの料理は、前に働いていた屋敷で何年かに渡って仕込まれたことを思い出す。

「昔、お屋敷のメイドさんたちも、みんな集まってパーティのようにお祝いしたことがあるんです」

「華やかそうだね」

「はい、それなりの人数もいるお屋敷でしたから、中には相性のよくない人同士なんていうのもあったのですが、この日だけは特別でした。奥様も自ら私たちに混ざってお料理なさって、家族水入らずのお食事をなさるんです」

「なるほど」

「そのお手伝いが済みましたら次は私たちの番で。お勤めに上がって、初めて台所に立たせてもらえたのがその準備の時だったんです」

「それで真理子さんの腕が認められたってわけかな」

「そんな簡単なものではないですけど、今から思うときっかけにはなったのかもしれません」

「うんうん」

「お屋敷のご家族も、普段はなかなか皆さんが顔を揃えられないのですが、どんなに忙しいときもこの日だけは揃うんです。それがちょっとうらやましかったです」

「そうだね。でも、そんなのに比べると今日はちょっと寂しいかな‥‥?」

「い、いいえ。そんなことはありません!政康さんをこうしておもてなしできるのはとっても嬉しいです。それに‥‥、お料理も誉めていただけましたし」

「そう言ってもらえてよかったよ。去年まではこうやってクリスマスを過ごすなんてことは考えもしなかったからね」

「そうなんですか?」

「まあ、恥ずかしい話だけど。ケーキなんか売っていても『そういえばそんな季節だね。僕にはあんまり関係ないけど』って感じで」

「それって寂しいです‥‥。でも、安心してください。今日はケーキも作ってあるんですよ」

「おっ、それは楽しみだね」

真理子との食事を楽しんだ後は、一息ついた後、手作りのケーキと政康の買ってきたシャンパンで小宴を持った。翌日も仕事があるからあまり度を超したものにはならなかったが、ほんのり顔の赤くなった真理子を見ていると自分でも驚くほどリラックスした気持ちになっているのに気が付いた。自身も多少なりともアルコールがまわっていたのであろう。

軽い酔いに身を任せて、かえって普段よりも早く床に就いた政康はそのようなちょっとした余韻に浸りながら睡魔に身を任せたのだった。


正月は夏と同じように政康と真理子はそれぞれの故郷へ帰省した。

大晦日に年越しそばを食べ、その日の夜行で帰るという慌ただしい年末だったが、年の瀬の慌ただしさに流されるうちにそういうことになってしまったと二人で苦笑していた。

実家ではのんびり過ごしながらも、夏と同じように両親からのある種の圧力を受けた政康はそれを適当に聞き流し、三日の夕方前に自分の家に戻ってきた。

真理子も日が落ちる頃に戻ってきて、これまた夏と同じようにちょっとしたお土産の交換をした。

その時には土産話に花を咲かせたりしてまだ正月気分が残っていたが、週が開けて仕事が始まると幸か不幸かそういう気分は急速に抜けて前と同じ日常が戻ってきた。

二月に入り、ここ数年は恒例になりつつあるインフルエンザの流行がやってきた。

朝のニュースではしきりに予防を呼びかけており、宣伝も風邪薬や栄養剤のそれが多く見られるようになった。

「政康さんも気を付けてくださいね」

去年、大きな風邪を引いて寝込んでしまった政康を知っている真理子が、心から心配そうに言った。

「そうだね、油断大敵っていうから予防には心がけるよ。真理子さんに世話かけさせたくないしね」

「それは構わないのですが、政康さんがご病気になるのは嫌です」

「ありがとう。でも、真理子さんこそ気を付けてね」

「はい、これでも体は丈夫な方ですから。それに外に出たときにはうがいと手洗いを欠かさないようにしています」

「そっか」

「ちょっとしたことですけど、実は予防にはこれが一番なんですよ。政康さんも実践なさって下さい」

きっぱりとした表情で迫る真理子に、政康は思わず頷いた。それに反するのも不誠実かと思い、それからの政康はうがいと手洗いを励行するようになった。そのおかげか、この冬の政康は風邪とは無縁に過ごすことが出来た。

そんな二月の中旬、いつものように買い物から帰ってきた真理子はポストに届いているいくつかの郵便を整理していた。普段は一、二通しかない郵便が、この日はたまたま五通も入っている。

うち三通は通信販売業者か何かのダイレクトメールの類で、「通販って確かに便利だけど、一度頼むとこんなのが送られてくるようになるんだよなぁ」と政康が困っていたのを思い出す。残りの二通はB五サイズほどの大きめの封筒だった。表書きの下の方に差出人である企業の名前とロゴが印刷されているのを見たとき、真理子の手が一瞬止まった。

それは、真理子をこの家に紹介してくれた登録業者のものだったからである。気付けば、もう少しで真理子が遠藤家に来てから一年になる。「親展」と書かれたその封筒の中に何が入っているのかは真理子には容易に想像できた。

そして、緊張を感じると同時にすっかり日常となったこの家での暮らしがすっかり幸せだと思えるようになっている自分を認識していた。

「政康さん‥‥」

思わずその封筒を胸に抱えながら、真理子はそうつぶやいた。

この家の住所を見て実際にやってきたとき、そこがマンションであったことに驚いた真理子だったが、考えてみるとどんな経緯で政康が真理子を雇うようになったのかを知る機会は全くなかったことに気付く。それはあくまでもプライベートな領域で、立ち入ってはならないという意識もあった。けれども、これまで親しく接してもらう中で聞けるような機会もあったのかもしれない。

そんなことを考えるとき、今まで思っても見なかったことが頭の中に思い浮かんだ。即ち、これから自分はどうなるのだろうかと。

単純に考えてありえそうなことは二つである。一つはこれまで通りに政康の世話を続けることが出来るということ。もう一つは契約満了になり、しばらくたったあとに別の家庭で仕事をすることになるということ。この二つの可能性を考えたとき、明らかに前者でありたいと思う自分があった。それは、自分がよい環境で仕事できたということであるから単純に嬉しくも思っていた。快適な仕事場に愛着を感じるのも当然である。実際、暇を頂くことになって前の屋敷から離れることになったときも、それまでは「ずっとここで働ければよい」と思っていたのである。

今後、真理子かどうなるのかの決定権は真理子自身にはない。今までの勤め先では、その類の書類は勿論、主人のもとで処理されていたのであろうか直接真理子の目に入ることはなかった。それだけに、今度はいままでよりも強く政康のことを真理子は意識することになった。やっぱり、これからもこの家で働きたい‥‥、真理子はそう考えていた。そんな思いを封筒に託すようにしながら、真理子は他の郵便物ともまとめて政康の部屋の机に綺麗に揃えて置いた。

「ただいま」

やがて、いつもよりも少しだけ遅い時間になって政康が帰宅した。

「おかえりなさいませ」

慣れた仕草でコートを脱ぐ政康と、それを受け取ってハンガーに掛けに行く真理子。真理子にコートを渡して身軽になると、スーツを部屋着に着替える前に体が軽くなるのを政康は感じていた。これまでは部屋着というともっとラフなものであったが、真理子の目を気にしてか家の中でも多少まともなものを身につけるようになっている。たとえ部屋着であってもきちんとアイロンを掛けてくれたものを真理子が用意しているからというものもあろう。それだけに、そんな部屋着に着替えるよりもまず、コートを脱いだときに

「帰ってきた」

という気分を感じるという面があるのかもしれない。

白いエプロンの紐が蝶結びになって、背中のアクセントになっている。そんな真理子の後ろ姿を靴を脱ぎながら見ていると、当の真理子が急に政康の方に振り向いて言った。

「政康さん?」

「えっ、どうしたの?」

「今日、大切な郵便が届いていました。政康さんの机の上に置いてありますので、忘れずにご覧になって下さい」

「うん。わざわざありがとう」

真理子の微妙な気持ちは、さすがにこの時点では政康の気付くところとはならなかった。いつも通りに真理子の作ってくれた美味しい食事に舌鼓を打ち、入浴も済ませた後にその郵便のことを思い出した。

「そうだ、真理子さんに言われていた郵便、見ておかないと」

立ち上がって部屋に向かった政康は、ちょうど奥の部屋から出てきた真理子と出くわした。

「あっ、これからお風呂を頂きます」

薄地で淡い色のワンピースの部屋着に着替えて髪を上げていた真理子が、政康に軽くお辞儀をしながら言った。

「うん、ゆっくりしてね。ちょっと早いけどおやすみ」

「はい、おやすみなさい」

真理子を見送って政康は自分の部屋に入る。壁に目を向けるとハンガーにコートが掛けられている。その隣にはブラシが置いてあった。真理子が手早く手入れしてくれたのであろう。

机の上を見ると、郵便物がいくつか置いてあった。半分はダイレクトメールの類だったが、その中の一つに大きめの封筒があり、「親展」の文字が光って見えた。

「真理子さんが言ってたのはこれのことかな」

手に取って封筒の下の方にある企業名を見る。すぐには政康にはその名前に心当たりを見出すことが出来なかった。

「とりあえず開けてみよう」

ハサミで開封して中身を取り出す。折り畳まれたA4の大きさの書類と、同じ大きさのA5サイズの小冊子のようなものが入っていた。

一番表には送付状がクリップで留められている。

遠藤政康様

契約期間満了と更新手続きのご案内

その書類の標題はそのように書かれていた。右上に昨日の日付と封筒にあったのと同じ社名が記されている。

政康はようやくこの書類の意味を理解した。真理子をこの家に連れてきてくれた、メイドの派遣を司る会社である。普段の真理子との暮らしと「契約」「満了」「更新」「手続き」などの固い言葉がすぐに結びつかずに違和感を覚えたが、それがかえって政康に急に現実を突きつけることとなった。

送付状の趣旨は、政康が今恩恵を受けているメイドの契約が残り二ヶ月で終了するので、もし引き続き契約を続けたいならば添付の書類に必要事項を記入して送付し、代金を期日までに、指定された口座に振り込むようにという内容だった。

もともとは懸賞によるものであったから、金銭的な負担というものはこれまでにほとんど政康は意識していなかった。真理子をして「大切な郵便」と言わしめたのは勿論、彼女はこの会社からのものだということを知っていたからであろう。となれば、当然自分に関する書類であると意識していたに違いない。部屋の向こうで風呂に入っているであろう真理子のことを政康はふと思った。

詳細について書かれているという小冊子を手に取って中を見る。契約更新の手続きについての詳しい説明と、実際に必要になる代金の実額も明記されていた。メイドの仕事としてどの範囲までカバーするのかなど、本来ならば更新ではなく契約時にはっきりさせておくべき事項についても記述されている。直接費用を払う立場でなかったこともあり、多忙時だったこともあってほとんどそれを確認していなかった自分に政康は気が付いた。改めて一通りその冊子に目を通し、更新書類を目の前にした政康は一番現実的な事柄である代金のことに意識を向ける。

正直、人を一人住み込みで雇うのであるからそう簡単に出せる金額ではなかった。自分は金持ちの家に住んでいるわけでもなく、高給取りのエリートサラリーマンというのでもない。だが、多少の蓄えはあるし、それを取り崩さないにしても幸か不幸か独り身で、交際している女性や面倒を見なくてはならない両親が存在するわけでもないので、多少贅沢を控えれば出せなくもない金額だといえないこともない。

真理子のメイド服姿がすぐに脳裏に浮かんだ。彼女のおかげで政康の生活環境はよい方向に一転したといってよかった。そして当然に、それを失いたくないという気持ちがある。だが、一方でそれは金銭によって裏付けられていたものだという現実を突きつけられて戸惑いをも感じていた。もっとわかりやすくいえば、後ろめたさのようなものである。

真理子の働きに政康は多く感謝していたし、真理子もおそらくはこの家で働くことを喜んでくれているだろう。その事実があったとしても、雇い主とメイドという関係にはある一線が確実に存在するのだということを改めて認識させられる。はっきりといえば、政康の気持ちは「真理子にこれからもここで働いて欲しい」なのであったが、それを躊躇なく言うことの出来ない現実があり、金銭的な問題とその後ろめたさがその原因となっていた。そのため、心理的には既に結論の出ていることであっても、今ここですぐにそれを決定することは出来ずにいた。幸い、更新書類の提出期限にはまだ二週間ほどあった。いきなりの現実にすぐには正しい結論は出せないと判断した政康は、書類をひとまとめにして封筒に戻し、机の引き出しにしまった。

真理子はまだ入浴中のようで、静かに台所に行った政康は缶ビールを一本持ってきて部屋で飲んだ。

軽い酔いを感じてその中で思考を巡らせる。失いたくないものというのは確実に存在する。それだけは確かなことではあったのだが‥‥。


翌日、政康を送り出した真理子は朝食の食器を洗い終えて部屋の掃除に取りかかっていた。

暦の上では春ということになっていたが、まだまだ寒さは容赦なかった。それでもこの日は好天であったので、真理子は政康と自分の部屋から布団を持ってきてベランダに干すことにした。

空気は冷たいが空は澄んでいて気持ちがよかった。冬用のメイド服は厚手の布で仕立てられており、エプロンも身につけていれば意外に寒さには耐えられるものである。風のない日であったから、日差しを浴びているとそれほど寒さは深刻にはならない。

政康の部屋に入ったとき、どうしても机の上に意識が行ってしまう。昨日自分が置いた書類はそこにはなかったから、政康は目を通しているのだろう。そう考えると同時に、政康は更新手続きをしてくれるのだろうかということが気になった。

端的に言って、真理子にとってこの遠藤の家と政康との生活は過ごしやすいものであった。もっと積極的に言うならば、今後もここで働き続けたいと思う。だが、自分の立場としてそれを政康に言うことは勿論、ほのめかすことも出来るものではなく、その葛藤が真理子を苦しみの中に置いていた。うぬぼれでなく真理子は自分の働きが政康から一定の評価を得られていると思っていた。特に朝夕の食事を共にするなどということはメイドとしては過分な待遇であるとも思っている。だが、期待が大きいほど、もしそれが実現しなかった時の失望も大きくなる。それもまた真理子の葛藤になっていた。

今の真理子ならば、例えば今の政康の気持ちを聞いてみるといういったわがままは許されるような気もしていた。だが同じ理由でそれをするのは怖い気持ちもあったし、やはりメイドとしての自分の立場を逸脱しているものであるとも知っていた。

更新をするにせよしないにせよ、政康が書類を提出すればほどなく、真理子に仕事の今後についての指示が送られてくることになる。それはこの家に郵便で届くことになろうから、おそらくは政康が知る前に真理子はそれを受け取って見ることが出来るであろう。

その日が来るのが、真理子にとっては不安であった。その不安がどういった理由から来るものか、真理子自身は正しく認識していたし、そうではないともいえた。

ただ、今の真理子に出来ることは、この家でしっかりと働くことであり、いずれにしてもこの家にいる間は政康が気持ちよく過ごすことが出来る手伝いをするのが真理子の役割でもある。

部屋の掃除を終えて買い物に出た真理子は、帰ってきたときにちょうど同じく出かけていた智香とばったり会った。

「こんにちは、智香さん」

「あら、真理子さん、お買い物だったの?」

「はい」

「遠藤さんは相変わらず遅いお帰り?」

「今はそうでもないです。七時か八時くらいが多いです。もう少しするとまた忙しくなるとおっしゃっていましたけれど」

「うちのダンナとあまり変わらないわね。だったら、お夕飯の支度まではまだ少しあるんでしょ。よかったらうちに上がってお茶でも飲まない?」

「おじゃましてもよろしいのですか?」

「もちろんよ。メイドさんがうちに来るなんて光栄だしね」

「そ、そんな‥‥。ではお言葉に甘えて、これを冷蔵庫に入れたらすぐにお伺いします」

「ええ、待ってるわね」

真理子は買ってきた食材を手早く冷蔵庫に収めていった。

そして洗面所の鏡で髪と服の乱れを直して、隣家のベルを押す。

間髪入れずに中から智香の声が戻り、すぐにドアが開く。

「おじゃまいたします」

「いらっしゃい」

笑顔で迎える智香と同じように笑顔の真理子。

同じ間取りの家であるのに中の印象は遠藤家のものとはずいぶんと違っている。そんな当たり前のことに真理子は感心してしまう。

思わずきょろきょろと見回したくなってしまう自分を抑えながらも、さりげなく川西家のリビングを観察する。インターホンの脇に掛けてあるコルクボード、そしてその隣にあるエアコンのリモコンと電話の子機など、機能的に整理された部屋であったが、壁には小さな風景画がさりげなく掛かっていたりとあっさり目の智香らしい内装であると真理子には感じられた。シンプルで飽きの来ない飾り付けという印象が強く、同じくあまり飾らない遠藤家とはその点では共通しているが、持っている雰囲気というものは大きく異なっていた。真理子は自分の部屋には可愛らしい小物がいくつも置いてあったりするのだが、この家ではおそらくは智香の部屋もここと同じ雰囲気であろうと思われる。

「紅茶の支度ができたわよ。そんなところに立ってないで、座って!」

リビングの入り口にぼーっと突っ立っているような形になっていた真理子が、智香に押し出されるような感じで中に入り、ソファに腰を下ろした。

智香の運んできた紅茶が心地よい香りを立てている。カモミールの入ったハーブティのようだった。

「家事っていうのも意外に疲れるのよね。そんな時はハーブティがいいわよ」

「ありがとうございます。でも、私の方はお仕事ですから」

「本当にそれだけなの?」

「えっ?」

智香の言葉の真意が取れなかった真理子が聞き返すと、智香はカップを二人の前に置きながら笑う。

「ううん、気にしないで。真理子さんにとっては、家事の類っていうのは単なる仕事以上の意味を持つんでしょ?だって、あんなに生き生きとやってるものね」

「そんな風に言われるとなんだか恥ずかしいです‥‥。ですが、智香さんのおっしゃるように私にとって家事は本当に楽しいんです」

「そう言い切れるのがうらやましいわ。私も決して嫌いじゃないけど、やっぱり波があるのよね。なんだかとても面倒に思うこともあるし」

「でも、それはわかります。私だってそういう時はありますから」

「真理子さんでもそうなの?少し安心しちゃった。そういう時ってやっぱり手抜きになるわよね。ダンナにも気付かれちゃったりして」

「それはいけません。気分の乗らないときでも政康さんに気付かれない程度にして‥‥」

「そこがお仕事との違いなのかしら。ダンナはあれでもなかなか気が付く人だから、『何かあったのか?』とか聞いてくれるのよ。それが嬉しいのよね」

「うらやましいお話です」

「ふふ、ちょっとお惚気になっちゃったかしら」

挿絵4 「いいえ、そういうのって憧れですから。でも、私の場合は‥‥」

真理子が続けようとした言葉を、智香が手を振って遮った。

「真理子さんはちょっとそれを意識しすぎよね。かみ砕いて言って、メイドさんのお仕事ってそんなに気を張ってなくちゃならないの?」

「いいえ、そうではないのですが、ご主人様とあまりなれ合いになってしまってもいけませんから」

「『ご主人様』って遠藤さんのことよね。普段もそんな風に呼んでるのかしら」

「あっ、そんなことはありません。普段は『政康さん』と呼ばせていただいています。『ご主人様』という言い方は、そう呼んでいるご家庭もありますが、政康さんの場合はご本人が『そんな柄じゃない』っておっしゃいますので」

「ふぅん。まあ、世の中には配偶者のことを『主人』『奥さん』と呼ぶだけで男女差別だとかいうわけのわからない人もいるしね。その人たちって敬語ってものを知らないのよね」

「そうなんですか。私はいい言葉だと思いますけど」

「そうよね。でもそれはともかくとして、いい感じじゃないの。真理子さんも働きやすいでしょ」

「はい、おかげさまで。だからこそお仕事だってことはきちんと踏まえておかないといけないと思いまして」

「やっぱり真理子さんは真面目よね。それとも、そんな風にしっかりしてないとメイドさんっていうお仕事は務まらないのかしらね」

「どうなんでしょうか。私にはあまりわかりません」

真理子は智香に釣られるように笑いながら、香りのよい紅茶を飲んだ。質のよい葉でいれ方もかなり熟練しているというのがよく分かる。

「そうかもね。ちょっと立ち入った話かもしれないけど、メイドさんを雇うのってやっぱりきちんとした契約なんでしょ?」

「はい、私の場合はそうです。大きなお屋敷でその家の方が直接お雇いになるときはそうとも限らないのですが」

「ふぅん。となると、真理子さんが遠藤さんのところにいるのも期限付きとかそういうことなのかしら」

「基本的にはそうなっています。ですが‥‥」

「あら?」

真理子の表情の変化に智香が敏感に気が付いた。

「何か心配事でもあるのかしら」

「心配事というのでもないのですが‥‥」

少し考えた後、真理子はその続きを言った。

「気がかりといいますか、気になることはあるんです」

「そうなの?差し支えなかったら話してくれる?」

「はい。その契約のことなのですけど‥‥」

真理子は更新書類が届いたことと、それを政康がどう処理するかを気にしているということを話した。遠藤家で働くことが楽しく、出来ればこれからもそれを続けたいということも正直に言う。そして、現実的にはそれが叶うかどうかは政康の判断にかかっているのだということも話す。

一連の話を聞いた後、智香が腕組みをしながら頷いた。

「わたしも真理子さんにはずっとお隣にいて欲しいわね」

「ありがとうございます」

「そうね、それとなく遠藤さんにダンナと一緒に圧力かけちゃおうかしら」

「えっ、圧力‥‥、ですか?」

「そうそう」

楽しそうに言う智香の表情からはそれが冗談なのか本気なのかは判断出来なかった。だが、隣人までもがこうして自分を気に掛けてくれていることが真理子には嬉しかった。

他にもとりとめのない話をいくつかしているうちに日も傾いてくる。真理子は丁寧に智香に礼を言って政康の家に戻った。いつものように夕食の支度をしながら、出来ればこれからもこの家で働きたいという思いを一層強めるのだった。

「ごちそうさま」

政康が軽く手を合わせながら箸を置いた。食事を始める前と終えた後にそうやって軽く手を合わせる。一人で暮らしていた時はそんなことは勿論のこと、「いただきます」「ごちそうさま」さえ口にすることがなかった政康であるが、真理子の影響ですっかりそれも身に付くようになっていた。最初に真理子の仕草を見たときには「キリスト教なんかではよくそうやってお祈りをするよね」と言ったのだが、真理子は不思議そうな顔で「それとはまた違うんですよ。食べ物を下さった自然の恵みに感謝するんです」と教えてくれた。それ以来、政康も時々、そして今ではおおよそいつもそうやって手を合わせている。

「お粗末様でした。今日は新メニューに挑戦してみたんですけど、お味の方は如何でしたか?」

「あ、やっぱりそうだったんだ。ちょっと薄味だったけど、よく味がしみていたから美味しかったよ」

「ありがとうございます。政康さん、気付かれていたんですか?」

「うん」

「でしたら、食べ終わるまで隠してらっしゃるなんてずるいです」

真理子が拗ねて見せた。政康は笑いながら弁明するが、もちろん、真理子には政康を責めるような気持ちはなかった。

「あははっ、そうかな。全部食べ終わった後に感想を言った方がいいかなと思って」

「そうだったんですか。でも、本当は気付かなかったってことは‥‥」

「ううん、そんなことはない」

「よかったです」

料理をしているときの真理子は本当に楽しそうである。それを仕事としてやっているのだとすると、どちらかといえば仕事は苦行である政康にとっては少しばかりうらやましくも思えた。

真理子のいれてくれた食後のお茶を飲み終えた後、政康はソファから立ち上がって部屋に向かった。

「もうお休みですか?」

「ううん、もうちょっとしてから風呂に入るよ。真理子さんには洗い物させてごめんね」

「いいえ、それもお仕事ですし、洗い物も嫌いじゃありませんよ」

「ありがとう。ちょっとやっておかなきゃならないことがあるから」

「わかりました」

真理子にもおよそ察しは付いていた。政康は肩越しに軽く手を振ってから部屋に入り、ドアを閉めると机の引き出しにしまってある書類を取り出す。

住所や名前、電話番号などの項目は既に記入を終えていた。あとは真理子に働いてもらうという契約を続けるかどうかを書き込むだけなのだが、そこで政康はその書類をにらみながら腕を組んで考える。

ただ、政康にとっては結論は既に出ていた。真理子のいる生活をここで終わりにすることは考えにくい。この一年弱の間で、政康は真理子からいろいろなものをもらうことが出来た。それは金銭では購うことの出来るものではなく、懸賞に当選するという文字通りの奇貨から始まったことだとしても、それを単に一時の幸運で終えてしまうことは考えたくなかった。

書類から天井の方ににらみつける目を移すと、台所の方から真理子の歌声が聞こえてきた。本人は無意識なのであろうが、彼女は気分の良いときは稀にそうやって台所やリビングで歌を歌っていることがある。その歌が一巡したとき、そちらの方から真理子の声が呼びかけてきた。

「政康さん、すみません」

「うん、どうしたの?」

「政康さんにおいれしたお茶の残り、頂いてしまってもよろしいでしょうか?」

「残ってたの?うん、もちろん構わないよ」

「はい、では頂戴いたします」

そんなやりとりを通じて、政康は改めて決心をする。お金の問題は確かに軽々しいものではない。多少は日常の生活費を抑えて、貯蓄の額も減らさねばならないかもしれない。だが、それ以上に得難いものが真理子のいる生活にはあり、こと食費に関していえば真理子の分と合わせても以前とほとんど変わらない額で済ませることが出来ていた。これまで気付かなかったが、これも真理子の手腕の一つであった。

「僕には真理子さんが必要だ」

自らを納得させるように力強く頷いた政康は、ボールペンを握って「更新」の欄に丸を付けた。条件欄にはこれまで通りの人、即ち真理子さんに続けてもらうことを明記する。全ての記入欄を確認した後、印を押して書類を封筒に入れる。

すっきりした感じがする。ある意味では大きな買い物をしたにもかかわらず、非常に強く心が落ち着くのを感じた。

明日の朝に投函できるように通勤用の鞄にその封筒を入れる。

「あっ、政康さん。お風呂になさるんですか」

「うん、もうちょっと休んでからね。用事の方はもう済んだから」

「そうですか」

「そうそう、真理子さん」

「はい、なんでしょうか?」

「ひょっとしたら気にしているかもしれないから教えてあげるね」

「はい?」

「今さっき、書類を書いたよ。四月からも真理子さんにはここで働いてもらおうと思って」

「政康さん‥‥。あの‥‥、ありがとうございます」

「ううん、お礼を言わなきゃいけないのは僕の方だと思うけど。いつもよくしてもらって」

「いいえ、私の方こそ、政康さんのところで働けてずっと嬉しいと思っていたんです」

「あの会社からの書類を机に置いてくれたのは真理子さんだよね。だから、気にしているかなと思って」

「はい、実はとっても‥‥」

安心感からか、自然に笑顔になっている真理子を見て、政康も嬉しくなった。

「実はね、お金のこととか、ちょっと悩んだけどね。やっぱり真理子さんがいてくれた方がいい」

「そう言っていただけるだけで嬉しいです。あの‥‥」

そう言って真理子が立ち上がった。

「うん?」

「これからも宜しくお願いします」

真理子が深々とお辞儀をしたので、政康も慌てて立ち上がってその正面に立った。改めて真理子を見ると、そのメイド服の姿がとてもよく似合っているのが分かる。政康は自分の方から手を差し出して、真理子としっかり握手をした。

「こちらこそ。また少し忙しくなっちゃうけど、今度は真理子さんを悲しませないようにするから」

「そ、そんな‥‥。私も政康さんが、忙しいお仕事に負けずに働けるようにお助けします」

「うん、期待しているよ」

「はいっ」

そんなことがあったせいか、その翌日は一足早い春を感じさせる穏やかな日となった。

それでもまだ寒い日は続き、そんな中、年度末に向けて政康の多忙期がまた始まった。

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