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第2章 晩春

そんな漠然とした寂しさを感じる中、真理子にとってそれを助長するような出来事があった。

真理子がこの家に来てから四日目くらいのことだった。

政康を見送り、朝食の片づけを終えた真理子は、台所周りをきれいにしようと思って、これまでよりも少し大がかりな掃除に取りかかろうとした。政康も快諾してくれたので、調味料や器具の配置などを少し変えようという心づもりもあり、周りを見渡しながらあれこれ考えていた。メイドとして、こういう仕事というのは比較的創造的であって楽しいというのが真理子の感覚だった。

流しの下にあるスペースに、日持ちのする野菜を置くことを考えた真理子は、引き戸を開けてみた。ほとんど使われていないその空間に、取っ手の部分が結ばれたビニール袋が転がっているのに気が付いた。ひょっとすると、最初の日に見たけれども忘れていたものであるかもしれない。

「あら、これは何かしら?」

手に取ってみると、極めて軽かった。ちょっと失礼だとは思いながら、真理子は結び目の隙間から中をそっと覗き込んだ。中に入っていたのは、インスタントラーメンの空きカップだった。重ねられたカップの中には、スープや具のかやくが入っていた袋が無造作に放り込まれていた。その数が、これまでの政康の食生活を如実に示していて、真理子は悲しくなった。男性の一人暮らし、しかも毎日帰りの遅いサラリーマンということを考えれば割とありきたりの光景なのかもしれないが、小綺麗なマンションと整ったキッチンに対しては似つかわしくないものであるのも事実だった。もちろん、毎日がそうだというのではなかろうが、政康がいつもそういったものを食べていたのだということを考えると、真理子は悲しくなった。食事は楽しく味わって取るのが何よりも幸せなことだと真理子は信じている。決して、単に食欲を満たすだけのものだということはない。それを思うと、これまで以上にしっかりとした食事を政康に出してあげたい、真理子はそういう風に考えた。だが、同時に疲れて帰ってきて無感動に夕食を取る政康の姿も重なる。

「政康さん……」

真理子は、このゴミを手に取りながら、そっと呟いた。

それから、平日は六日間、そして、それが二週間ほど続いた。

四月も半ばにさしかかり、日差しもようやく温かくなる。桜の花も最盛期を過ぎたころになった。

政康の毎日は変わらなかった。帰宅は概ね夜の十時か十一時くらいであり、真理子にとってはこの家の中で一人でいる時間の中が自然と多くなる。それに戸惑いと不安を感じるようになっていた。

真理子の家事に対して、政康は確かに感謝してくれているのはよくわかっていた。しかし、政康は休日を除けば最低限に近いほどしか真理子と会話を交わしていなかった。

もし原因が自分にあるのなら、それは指摘してもらってでも直したい。そこまで真理子は考えていた。メイドは求められている家事だけをこなしていればいい、そういう人もいたが、真理子はそうは思っていなかった。何人もメイドが働いているような大きな屋敷であればそれでも構わないであろうが、この家で政康が心からリラックスして暮らすことが出来るようにするには、真理子の働きが極めて重要になるのだ。その自覚と使命感があるために真理子の不安も増大する。自分の出来る限りのことをする、そんな当たり前のことを続ける真理子だった。

そして、この日は珍しく政康が少し早い時間に帰宅した。とはいえ、時計は既に八時半を回っている。

そろそろ食事の支度に取りかかろうかと思っていた時に玄関の扉が開き、一瞬驚いた真理子であったが、慌てて政康を出迎えに行く。

「おかえりなさいませ。今日もお疲れさまでした」

「ありがとう。仕事の区切りで、今日は久しぶりに早く帰れましたよ」

「はい、よかったです。でも、あの……」

「うん?」

「政康さんが今日は早くお帰りになるとは存じなかったので、まだ食事の支度が……」

「あ、気にしなくていいですよ。ゆっくり待ってますから。それに、ちゃんと帰る時間を伝えていなかった僕が悪いんですから」

「いいえ、政康さんは悪くありません。ちょうど今から始めるところでしたので、少し待ってください」

「ありがとう。そうしたら、それまで部屋で資料でも読んで待っていることにするよ」

「はい」

政康から受け取った上着を、リビングにあるハンガーに掛けた真理子は、そのまま部屋に入る政康を見送って自分は台所に向かった。今日の夕食のメニューは調理にあまり時間のかからないものを予定していたことは幸いであった。それでも、なるべく政康を待たせないように手早く料理を進めていく。

政康の方は、部屋から出てくることなく、その資料というものを読んでいるようである。せっかく早く帰ってきたのだから、リビングで読んでくれてもいいのに、と真理子はそんなことを考えてしまった。そして、慌ててそんな身勝手な考えを頭の中でうち消して、本来の仕事に意識を向ける。

慣れた手つきで調理を終え、ご飯が炊きあがっていることを確認した真理子は、政康の部屋の前に立ってノックした。

「政康さん、お食事の用意が出来ました」

「あ、もうそんな時間ですか。はい、今行きます」

程なくドアが開き、ポロシャツにゆったり目のズボンというラフな格好をした政康が目に入った。朝と夜の、スーツ姿ばかり見ていた真理子はそんな政康の姿を見て少しほっとした。一方の真理子は、当然にメイド服を着ていた。会社員にとってのスーツがそうであるように、自分にとっては一種の制服になるわけだが、真理子はこの服を窮屈に感じたことはなかった。寧ろ、機能的でありながら女性としての魅力も現れるこの服が気に入っていた。

そんな真理子は、手早く配膳を済ませ、椅子に座った政康に温かい食事を差し出した。立ち上る湯気が、政康の頬を緩ませた。真理子にとっても、温かい食事を出すことが出来たことが嬉しかった。

政康は、やはり仕事のことが頭から離れないのか、今日もいつもと同じように静かに食事をしていた。真理子はさりげなく政康の方を見ていたが、そんな真理子に気付くこともないようで、美味しいともそうでないとも言わずに黙々と食事をしている。

ふと、政康が顔を上げた。

「あっ、おかわりですか?」

「ううん、それはちょっと待って。どうかしましたか、ひょっとして顔にご飯粒がついているとか?」

「いえ、そうではないんです。ただ……」

真理子は慌てて言葉を止めた。しかし、政康はそれに気が付いてしまったようだ。

「ただ、どうしたんですか?」

「あの……」

真理子の伝えたいことははっきりしていた。だが、それを言葉にしてよいものか、迷っていた。しばしの沈黙がこの空間を支配した。それに耐えられなくなるような形で、真理子はその先を伝えることにした。

「こんなことを言ってはいけないのかもしれませんけど、政康さんはその……、私の食事や家事をどう見てくださっているんでしょうか?」

「えっ、それはもちろん、いつも感謝していますよ」

「ありがとうございます。でも、私は心配なんです。政康さんはいつも黙って食事されているので、あまりお気に召してもらえてないのではないかと思ってしまいます」

「そんなことはないですよ」

「それに、今日も折角早く帰られたのに、御自分の部屋に籠もりきりになられて……」

「……」

政康はじっと真理子の顔を見つめていた。そして、すまなそうな顔でこう言い出した。

「真理子さん、心配していたんですか。そうだとしたら謝ります。ごめんなさい」

「私、自分の仕事ぶりがお気に召さなかったのではないかと心配していました。たとえ『こんな食事は美味しくない』と言われたのだとしても、何も言われないよりはいいと思うんです」

「そうですよね、僕の気遣いが足りませんでした。その……、やっぱり慣れていないものだから」

「とんでもないです、政康さんを責めるつもりなんてありません。ついつい寂しくて、こんな失礼なことを言ってしまいました」

僅かに、真理子の目に涙が浮かんでいた。それは政康には悟られない程度のものであったのは幸いだったかもしれない。

「最初の日からずっと思っていたんだけど、真理子さんの食事は本当に美味しいですよ。そうですね……、僕はお昼は会社の近くのお店に食べに行くんですけど、いろいろあるそのお店のトップクラスと比べても遜色ないですね」

「ありがとうございます」

「掃除や洗濯なんかも完璧にしてくれて、本当に助かっています。でも、それに少し甘えてしまっていたかもしれませんね」

「いえ、私はメイドなんですからそういったお仕事をこなすのは当たり前です」

「でも、心が籠もっていなければなかなかあそこまでは出来ないですよ。僕はそんな心遣いに答えることが出来ていなかったんですね。本当にごめん」

「そんな……。でも、そう言っていただけて嬉しいです」

「一つだけ、言い訳させてもらうけれど、今は仕事が忙しくて。でも、もうすぐそれも落ち着くと思いますから、そうしたら心にも少し余裕が出来ると思います」

「政康さんは毎日帰りが遅いですし、心配です……」

「この時期はちょっとね……。来週いっぱいくらいでそれも終わるから、そうしたらそんなに遅くはならないですよ」

「はい」

「そうなれば、例えば今みたいな食事の時間にとか、真理子さんといろいろお話しなんかもしたいと思ってます。真理子さんさえよければですけどね」

「もちろん、構いません。いいえ、私の方からそうして欲しいと思うくらいです」

「ありがとう。そんなわけだから、もう少しだけ許して下さいね」

「はいっ」

真理子の表情が明るくなった。漠然としていた不安感、黒い煙のようなものが急速に取り払われたように感じられた。政康の言うとおり、この日からしばらくはまだ帰宅の遅い日が続いたが、これまで以上の気持ちを持って、政康が心休まることが出来るように真理子は努力をした。

心なしか、そんな仕事疲れの中にも政康の表情に明るいものがあるようにも見えてきた。そんな政康を見ると、真理子はますますしっかり仕事をしたいと思うようになった。

そして、政康の言う多忙期がようやく終わりを告げた。


政康の多忙期が終わると、真理子にとっては環境が全てよい方向へと変わっていった。

そうなってから思えば、これまでの政康の態度も単に仕事が忙しいことによる余裕のなさに過ぎなかったのだということがわかった。

ある食事中に、真理子がそんなことを言葉にすると、政康は笑いながら「そんな風に感じていたんだ。本当に悪かった」と言ってくれた。

「自分はメイドなのだから、いつまでも堅苦しい言葉で話してくださらなくてもいいです」と言ったこともあり、気楽な言葉で接してくれるようにもなった。初めてこの家に来てからひと月以上を経て、ようやく名実ともにこの家のメイドとなれたように感じる真理子だった。真理子も時に気が緩んで、政康に対する言葉遣いが崩れることもあり、慌てて口を塞いだりするのだが、政康は気にしない様子で「僕の方も、いつも敬語ばかり使われているとなんかやりにくいから」と言ってくれる。

言葉というものは、簡単そうで難しい多くの問題を内包している。丁寧な言葉遣いは一方で相手に自分との距離のようなものを感じさせてしまうかもしれない。かといって、例えば気の置けない友だちに使うような言葉遣いをしてよいかといえば、そうではないという答えが返るだろう。政康と真理子の間にも、このような問題が横たわっていた。しかし、徐々にそれにも慣れてきており、礼儀と親しみを同時に感じさせるような会話が二人の間で成立するようになっていた。そうなると、自然に政康も真理子も、この家で過ごしやすくなってくる。

手入れをしようとすればいくらでも気付くところはあるもので、真理子はこの家を本当の自分の家のように思って綺麗にしていた。玄関や台所のカウンターに小さな花を置いたりして、それに政康が気付いたりすると嬉しい気持ちになる。

春が深まっていくとともに、真理子の心も暖かくなっていった。

五月も半ばを過ぎた休日のことだった。

この日は真理子も休日ということにしていたので、昼過ぎくらいに近くを歩いてみようと思って政康に声を掛けようとした。

政康はちょうどリビングで映画を見てくつろいでいたところだったので、邪魔にならないように合間を見計らって言った。

「あの、少しお散歩してきます。今日はいい天気ですから」

「あ、行ってらっしゃい。そうだね、外は気持ちよさそうだ」

「ふふっ、政康さんもたまには外にお出になった方がいいですよ。家の中にいては勿体ないです」

「そうかもね。気が向いたら僕も出かけようかな。真理子さんも今日はお休みなんだからのんびりしてきて構わないよ」

「はい、お言葉に甘えさせてもらいます。でも、もし何かお買い物の用事などあれば、買ってきますけど」

「うーん、今は大丈夫かな」

「わかりました」

春らしい穏やかな服に身を包んだ真理子は、好天に誘われるように軽やかな気持ちになり、玄関のドアを開けた。ゆったりとした風が吹き、真理子の髪を僅かに撫でていく。

ちょうどその時、遠藤家の隣の家も玄関のドアが開いた。真理子よりも少し年上に見える女性が姿を見せる。

「早くしてっ、電車に遅れちゃうわよっ」

そんな元気な声が家の中に向けられている。男の声で何か返答があったようだが、何を言っているのかは真理子のところまでははっきり聞こえてこなかった。

この女性が、真理子の姿に気が付いて振り向いた。大きな声を聞かれたことが恥ずかしかったのだろうか、照れた表情で会釈をする。

「こんにちは、いいお天気ですね」

真理子がにっこり微笑みながら言うと、向こうの女性も同じ表情で返事をしてくれた。

「そうですね。こんな日は家にいては勿体ないですから、ダンナを連れ出して遊びに行こうと思っていたんですよ」

「そうだったんですか」

「出かける段になって、小銭入れを探しているみたいなんです。困ったものね」

「ふふっ」

「ところで、失礼ですけど、あなたは?遠藤さんは一人暮らしだって聞いていたのだけど。ひょっとして、これ以上は立ち入ってはいけないことなのかしら?」

微かに笑って、この女性が言った。それに対し、真理子は慌て手首を強く左右に振って否定する。そんな真理子の様子を、再び女性が笑いながら見ていた。

「いいえ、そんなことはございません。私は政康さん……、いえ、遠藤さんのお宅で住み込みで働かせてもらっているんです」

「ひょっとして、家政婦さん?それとも、よくドラマなんかで出てくるメイドとか?」

「はい、そうです」

当たり前のように答えるのを聞いたこの女性は、半ば冗談で言った「メイド」という言葉が本当であったことを知って驚きが隠せない様子だった。

「えっ、本当なの?でも、そういうメイドって、普通はこう……、お金持ちのお屋敷とかにいるものじゃないの?」

「多くはそうですが、普通のご家庭に上がることもあるんですよ」

「へぇ、そうなの。あっ、申し遅れたわね、わたしは川西智香。見ての通り、遠藤さんのお隣よ」

「智香、待たせてすまん。あれ、この人は?」

ようやく小銭入れを見つけたらしい男性が一人現れた。春物のセーターとジーンズという姿で、真理子にはさっぱりした男性という印象が強かった。智香よりも二つ三つくらい年上のようで、おそらく三十歳程度と思われた。その年頃の男性特有の落ち着きのようなものが感じられる。

「あ、わたしのダンナね。川西久志っていうの。こちらは、遠藤さんのところで働いてらっしゃる……」

「高山真理子と申します。挨拶が遅れてしまいましたけれど、宜しくお願いいたします」

「ずいぶんと丁寧な方ですね」

「そうなの、メイドさんなんですって」

「えっ、メイド?」

「ちょっとお話ししていたんだけど、さっき聞いたんだけどね、詳しく話すと……。あっ、急がないと遅れちゃうわよ」

「そ、そうだな……」

「というわけで、慌ただしくてごめんなさい。もう急がないと。遠藤さんにも宜しく伝えておいてね」

「はい、わかりました」

半ば智香が久志の手を引くようにしてエントランスの方へ向かっていった。

それを見送るような形で、後に続いて真理子も外へ出る。

春の日差しが心地よい中、真理子はまだあまり知らない町の探検を兼ねるように散歩がてら町内を歩き回った。

日差しは気持ちよく、閑静な住宅地から少し離れると未だ畑の残っている場所も見受けられる。真理子も知っているような野菜や、あまりなじみのない珍しいものも育てられているようだった。このあたりが概ね住宅地になる前は、専ら畑が広がっていたのかもしれない。微かな土の香りをかぐと、真理子は心が落ち着くような幸せな気分を感じた。

そうして小一時間ほどを過ごした真理子は、最後に駅前に出て身の回りの品物を買って家に戻った。

ひょっとすると政康も外に出かけたのではないかと思ったが、まだ映画を見ているところだったようだ。

「おかえり」

真理子に気付いた政康が声を掛けた。ちょうどその映画が終わったところらしく、テレビにはスタッフロールが流れている。

「いいお天気ですのに。結局、出かけられなかったんですね」

「うーん、区切りのいいところで止めて出ようかとも思ったんだけど、結局、先が気になって最後まで見てしまったよ」

「あっ、出かけるときにお隣の川西さんにお会いしましたよ」

「川西さんに?」

「はい、ご夫婦でお出かけのようでした」

「うん、川西さんのお二人は仲がよいみたいで、よく出かけるみたいだよ」

「最初に奥様にお会いしたのですが、気さくなよい方に思えました」

「そうみたいだね。僕は挨拶くらいしか交わしたことはないんだけど」

「ダメですよ、ご近所さまとのおつきあいは大切です。奥様に……、智香さんとおっしゃってましたけど、政康さんによろしくと言われました」

「そっか……、ありがとう。別に僕も隣近所と関わるのが嫌だってわけじゃないんだけど。ほら、普段は会社とうちの往復だけだからね」

「それはそうなのでしょうけど、それで諦めていちゃいけませんよ。お休みの日だっていうのに、家にばかりいたりしては」

「うーん、今日の真理子さんは厳しいな」

「えっ、あの……、政康さんを責めているんじゃないんです。ただ……」

政康がそう言うと、真理子は慌てて声のトーンを落とした。その変化が政康には楽しく感じられる。

「うん、わかってるよ。僕もそういったおつきあいは大事だと思うから、これからは気を付けるよ。昼間いてくれる真理子さんが今日みたいにきっかけになってくれることもあるだろうし」

「はい、ありがとうございます。今から紅茶をお入れしますね」

「そうだね、ちょうど欲しいと思ってたところだ。でも、真理子さんは今日はお休みでしょう?」

「このくらいはさせて下さい。政康さんは気にしすぎです」

「そうか……。そうしたら、真理子さんも自分の分を用意して。一緒に頂こう」

「よろしいのですか?」

「ああ。たまには真理子さんと落ち着いた時間を過ごしてみたいしね。今まで僕が慌ただしくて、真理子さんに悲しい思いをさせてしまったみたいだから、そのお詫びも兼ねて」

「そういうつもりでは……」

「ははっ、冗談だよ。とにかく、あまり細かいことは気にしないで、紅茶を頂こうよ」

「そうですね、準備させていただきます」

真理子は私服姿のまま台所に立ち、手早く紅茶の準備を整えた。これまで政康は、紅茶といってもお徳用のティーパックにポットの湯を注ぐだけのものだったのだが、政康が紅茶が好きだということを知った真理子が、きちんとしたポットとお茶の葉を買ってきたのだった。

温度を整えた湯をポットに注ぎ、葉の開く時間を見計らう。その間に台所には静かに紅茶特有の甘味のある芳香が漂い始める。その香りを、政康を差し置いて独占していることに気付いた真理子がいたずらっぽく笑う。

「どうしたんですか、真理子さん?」

「いえっ、なんでもないです」

その表情を見られて指摘された真理子が、慌てて言った。

そうしているうちに紅茶は良い具合に入り、真理子は静かにカップに注いでいく。

「お砂糖とミルクは必要ですか?」

「いや、今日はストレートで頂くよ。たかが紅茶と思っていたけど、真理子さんにいれてもらうと全然違うね」

「そんなことないですよ。でも、今までの政康さんが飲んでいたティーパックのものとは違うのは当たり前です」

「そうか」

ソファでくつろいでいる政康の前に、静かに紅茶を置いた。そして、真理子もその向かいに静かに腰を下ろした。

「うーん、いい香りだ。いただきます」

「はいっ。私も」

午後のひとときがゆったりと過ぎていった。紅茶が絶品であったことはいうまでもなかった。

この日の晩、ちょっとしたアクシデントがあった。

夕食後にリビングで読みかけの本に取り組んでいた政康は、真理子に勧められて遅くならないうちに入浴を済ませた。明日からは仕事ということが政康の心を重くしていたが、平日はどうしても食事や入浴が遅くなってしまうので、休みの日くらいは早めに入ってゆったりした夜を過ごしてもらいたいという真理子の心遣いだった。

入浴後、軽くビールを飲みながら本の続きを読んでいた。

こういった気分で時間を過ごせることに感謝をしていた政康だったが、急に鼻がむずむずする感覚に襲われ、立て続けに三度ほどくしゃみをした。

「うっ、湯冷めか?」

そう心配した政康だったが、どうやら一過性のものであったらしい。手に届く場所にある箱を取り、ティッシュを何枚か抜き取って鼻をかんだ。

真理子さんに見られたら恥ずかしい姿だなと苦笑する。鼻の周りに残った汚れをとろうと、もう一枚箱から抜き取ろうとしたとき、最後の一枚であることに気が付いた。

「おや、空か。新しいのを持ってこないと」

またくしゃみが出るかもしれないしと思いながら、洗面所に置いてあるストックを持ってこようと立ち上がる。

洗面所の正面にある鏡が戸棚も兼ねていて、歯ブラシの替えやタオル、買い置きのティッシュ箱などが置いてあるのだ。

廊下のドアを開けて、洗面所に入る。無警戒だった。

政康は洗面所にいつもよりも多い湿気を感じた。同時によい匂いがした……というのがこの時の印象だった。

「きゃっ!」

「あっ!」

真理子と政康が同時に言った。

洗面所の向こうにあるバスマットの上に、体にバスタオルを巻いただけの真理子の姿があったのだ。髪を上げ、腕や足の瑞々しい肌にはまだ水滴が少し残っているのがわかった。

見慣れている真理子とは雰囲気が大きく異なっていた。だが、政康にはそれ以上の視覚的情報は得られることはなかった。

「も、申し訳ない」

ティッシュを取りに来たことも忘れて、政康は慌てて洗面所を出た。

政康が入浴した後、落ち着いた頃を見計らって真理子も入るのが定例になっていた。うっかりそれを失念していた政康は、ちょうど風呂上がりのところに出くわしてしまったのだ。洗面所には鍵もついているのだが、政康に見られるなどことなどは考えていない真理子は鍵を掛けていなかった。

「ごめんなさい……」

真理子は、慌てて洗面所を出ていく政康の背中にむかって謝ったが、政康の耳にはその言葉は届いていなかった。

きちんと謝らずに部屋に隠れるわけにもいかず、針のむしろに座るような気持ちでリビングで待っていた政康のところに、十五分くらいたってから真理子が現れた。普段はそのまま自分の部屋に戻り、肌の手入れなどをする真理子だったが、今日は最低限のそれだけを済ませてもう一度リビングに向かう。

「あの……」

入り口で恥ずかしそうに立っている真理子に、政康は真剣に謝った。

「その、わざとでないとはいえ、本当に悪かった。ごめんなさい」

深々と頭を下げる政康に向かって、慌てて手を振りながら真理子が言う。

「いえ、いいんです。その……恥ずかしかったですけど。ちゃんと鍵を掛けていなかった私も悪かったのですし」

「いや、それでも僕の不注意だよ」

「それはお互い様です。ですから、あまり政康さんはお気になさらないでください」

「うん……」

一応、政康は納得する。その時は動転していて、あまり真理子の微妙な姿を覚えていないのも政康にも真理子にも幸いだったかもしれない。

まだ湯上がりの雰囲気を残す真理子を、政康はあまり正視できなかった。


それから二週間ほどが経過した。

ようやくのんびり過ごすことの出来た連休も終わり、花の便りも北海道まで届くようになった。

家で過ごすにも、外に出かけるにもよい季節である。真理子にとっても一年中で一番とまでは言わないが、好きな季節であった。

遠藤家での生活にもすっかり慣れ、メイドとしての仕事ぶりも申し分ない水準のものに達していた。最初はどこかとまどいのあった政康との暮らしも、すっかり違和感のないものに変わっていた。

家事の好きな真理子にとって、メイドという仕事は天職のようなものであった。生まれ育った環境がそういった性格を作り出すというのはよくいわれるところであったが、真理子の場合もある意味では逆説的にそれを示しているといえた。真理子の両親は共稼ぎで、家はいつも寂しい場所であった。だからこそ、家は暖かい場所であって欲しいと思うようになり、それが高じてそんな暖かい場所を作り出すのを手伝うことの出来る仕事をするようになったのである。

かつて、広い屋敷で数多くのメイドの一人として働いていたときにも、いつもそのことを真理子は考えていた。資産家の広い屋敷には多くの部屋があり、当然、家族全員が個室を持っている。一家を統べる主人は常に多忙に身を置き、家族全員が揃って食事をする機会もなかなかない。ともすれば心が離れがちになりそうな家族たちの絆の役目を果たすことも、メイドにとっては重要な仕事なのだと真理子は信じて働いてきた。

そして、今度は独身男性の家という、ある意味ではもっともそういった暖かさから縁の遠い場所で働くことになった。実際、真理子が初めてこの家に来たときには、ほとんど飾り気のない無機質な部屋があるばかりであった。政康の理解のもとで、真理子はそんな家に潤いを与えられるように努力してきた。それはテーブルや玄関に置いた一輪の花であったり、掃除の時に見つけてきた旅先のお土産のキーホルダーであったりと、本当に些細なものであったのだが、そういったものでも真理子の求めるような潤いを与えることが出来る。

政康を見送った後、一通りの掃除を終えて軽い疲労感を感じながらも綺麗になった部屋を見渡すとき、真理子は自分の仕事に大きな充実を感じていた。世の中には家事労働の類を低く見て、外で働くことばかりを評価するような人間もいるが、家事というのは捉え方によっては最も創造的で個性の発揮できる仕事だということが出来る。真理子はまさにそれを実感し、実行していた。

確かに、政康は「いつもありがとう」という簡単な感謝の言葉しか真理子にはかけてくれなかった。しかし、その言葉の中には字面以上の気持ちが籠められていることが真理子には充分に伝わってくるので、嬉しくて仕方がなかった。「ありがとう」という言葉は人の心を豊かにする。真理子も、そんな政康に対して常に「ありがとう」の気持ちを持ち続けて働いていた。

そして、これまた真理子の大好きなメイド服にエプロンという自分の姿を見ながら、そうした仕事を続けていく気持ちを新たにするのであった。

さて、そんなある朝のことであった。

先に起きて朝食の支度をしていた真理子だったが、いつもの時間になっても政康が起きてこないことに気が付いた。

「あら、もう七時を過ぎているのに。政康さん、どうなさったのかしら?」

普段は、ちょうど朝食が揃う頃にパジャマにカーディガンを羽織った格好で起き出してくるのであるが、今朝に限って政康の部屋の方は静かなままであった。

「目覚まし時計をかけ忘れているのかしら。起こして差し上げた方がいいわよね」

盛りつけの手をひとまず止めて、真理子はタオルで手を拭くと、洗面所の鏡でエプロンとカチューシャが乱れていないことを簡単に確認して、政康の部屋のドアをノックした。

コンコン……。

軽快な音が廊下に響く。しかし、中からは全く反応がない。

コンコン……。

もう一度真理子がノックする。今度はその軽やかな音とは対照的な声が中から聞こえてきた。

「う、うーん……。真理子さんか……」

数秒して、静かにドアが開いた。政康はまだパジャマ姿のままである。その眠そうな表情を見て、やはり寝坊だったのかと判断しかけた真理子だったが、政康の顔色がよくないことにすぐに気が付いた。

「政康さん……」

具合が悪いのですか?と言葉を繋げようとした真理子より先に、重く濁った政康の声が先に発せられた。

「どうも熱っぽいみたいなんだ。風邪じゃないかな……」

「政康さん、失礼します」

そう言って真理子は手を政康の額に当てた。明らかに熱があるのがわかる。昨日の夜までは何ともないように見えたのに……、真理子は政康の体調不良に気付かなかった自分を呪った。

「すごい熱じゃありませんか」

「そうみたいだね。今日は会社は休むことにするよ。九時になったら電話を入れるから、その時に起こしてくれないかな。今はもう少し休ませてもらう」

「わかりました。ちゃんと寝ていてくださいね」

「うん……」

体を引きずるようにしながら政康は部屋の奥に戻っていった。

折角作った朝食がさめ始めていたが、今はそういうことを気にしている場合ではなかった。残すのも罰当たりなことであると、真理子はその食事を急いで自分で食べたが、さすがに二人分を食べきることは出来ない。やむを得ず残した分は、自分の昼食にまわすことにする。

食器を洗い終え、いつも政康を見送る時刻を過ぎると、心配が急に増していった。

政康の部屋に入って様子を見たいと思ったが、今は寝かせてあげる方が重要だと考え直す。落ち着かぬまま時計を眺めるようにして時を過ごし、ようやく長針が十一を過ぎた頃になって、再び真理子はドアをノックした。

「真理子さんか、ありがとう」

心なしか、先ほどよりも更に篤く見える。心配そうな表情の真理子の隣を通り、政康が電話の受話器を取る。

「おはようございます、遠藤です」

その声も、明らかに普段のものとは違っている。このような声を聞くのは初めてであったので、真理子はとても心配になった。

「課長をお願いできますか?」

「すみません、遠藤ですが、風邪を引いてしまったらしくて熱と頭痛がつらいんです。今日は休ませて頂けませんか?」

「ええ、なんとかその件は資料もまとまりまして、机の上に置いてありますので」

「はい、その他には特に急ぎの仕事はなかったと思います」

「すみません、ご迷惑おかけしますが」

「そうですね、出来るだけ早く治るようにはします」

そして、政康は受話器を置いた。病気の政康にはそれだけでも重労働であったらしく、「はぁ」と一息つくと、部屋に戻る前にソファに腰を下ろした。真理子が、政康の部屋から急いでカーディガンを持ってきて、肩に掛ける。

「申し訳ないね、真理子さん」

「何をおっしゃるんですか、当たり前のことです。それよりも政康さん、具合はどうですか?」

「うん、今も電話で言ったように、頭がガンガンしている……。喉も痛いなあ」

「何か少しでも召し上がりますか?」

「いや、今は何も食べたくない。食べても戻しそうだ」

「病院に行った方がよいのではないでしょうか?」

「うーん、近くに診療所はあるんだけど、いつも混んでいるんだ。行くだけで参ってしまいそうだ。もう少し寝かせてくれないかな」

「わかりました。でも、お薬は飲んでくださいね。温かい飲み物を用意しますから、その後で」

「うん、頼むよ。僕は部屋に戻るね」

「はい」

政康をベッドに寝かせた真理子は、レモンを絞って蜂蜜を垂らし、お湯を注いで即席の栄養剤を作った。別の湯飲みに白湯を用意して、棚から風邪薬の瓶を取り出すとそれらをお盆の上に乗せて政康の部屋まで運んだ。

「政康さん、飲み物くらいは召し上がってくださらないとダメです」

「そうだね。ありがとう」

「飲み終えましたらお薬の方を差し上げますね」

「うん」

緩慢とした仕草で政康は起きあがり、真理子の手からレモン水の入ったコップを受け取る。湯気を吸い込むようにしながら、ゆっくりと政康はそれを飲み干していく。食事は出来なくとも、完全に体がものを受け付けないのではないことがわかり、真理子は少し安心した。

空になったコップを真理子に返した政康は、代わりに湯飲みと錠剤を受け取った。真理子の手から直接錠剤を渡すときに指先が触れ、それからだけでも政康の熱の高さがわかる。

「今、体温計を持ってきます」

「……」

政康はそれに答える元気もないようであった。辛うじて薬を飲み終え、今度は体温計を受け取る。

心配そうに見つめる真理子と、苦しそうな政康。

体温計が計測結果をはじき出すまでの僅かな時間が、真理子には長くつらいものに感じられた。

三分ほどがたち、政康が脇の下から難儀な様子で体温計を取り出す。

三八.六度。

かなり深刻な数字を水銀は示していた。

「これはきついわけだ……。数字を見たら、なんか寒気までしてきたよ」

笑いながら言う政康だったが、その笑顔も歪んでいる。

「政康さん、今はしっかりお休みになってください」

「そうだね」

しゃべることも難儀なのだろうか、苦しげな表情で政康は布団に潜り込む。

「なにかございましたらすぐに声を掛けてくださいね。氷枕はありましたでしょうか?」

「うん、確か冷凍庫に入ってるはず」

「では、すぐに持って参ります」

真理子は急いで部屋を出て、台所にある冷蔵庫の上の扉を開けた。滅多に使わない冷凍庫はがらんとしていたので、真理子はすぐにアイスノンと書かれた枕を取りだしてタオルでくるんだ。そして、もう一枚、小さなタオルを水で濡らして軽く絞る。氷枕と濡れタオルを持って再び政康の部屋へ急いだ。

「ありがとう、助かるよ」

「いいえ、当たり前のことです」

首を上げて氷枕をその下に置く。額には濡れタオルを乗せる。ようやく気持ちも少し落ち着いたようだった。先ほど飲んだ風邪薬の効果が現れてきたこともあるのだろうか、政康は強力な眠気に襲われる。

「少し寝かせてもらうね。真理子さんも今日はゆっくりしていていいから」

「わかりました。でもなにかありましたらすぐに呼んで下さいね。私の部屋ではなく、なるべくリビングにいるように致しますので」

「うん」

政康の寝ている傍で掃除や洗濯を始めたら、やはり落ち着かないだろう。政康の言葉の意味を悟って、真理子は素直に従うことにした。既に目を閉じた政康を背にして、真理子は部屋を出る。なるべく物音を立てないように気を付けながら、手早く台所周りだけは落ち着かせると、メイド服姿のままリビングのソファに腰を下ろした。

「病院に行かなくてもいいっておっしゃっていたけれど、本当に大丈夫でしょうか……」

真理子が心配する。しかし、政康の言うとおり、平日の昼間の病院というのは、急に体調を崩した子供や頻繁に体調不良を訴える老人などで混雑しているのも事実である。それを思えば難儀を押して病院に薬をもらいに行くよりも、家でしっかり休んだ方が体にはいいのかもしれない。

「何か栄養があって、食べやすいものを作りましょう。そうね……、野菜スープとか。あとは……」

風邪で高熱を出したときには水分の補給が重要になる。普段の遠藤家では必要とされていないスポーツドリンクに思い当たる。

「お休みになっている間に、お野菜と飲み物を買ってきましょう」

衣服が乱れていないのを確認すると、真理子は財布を持って外に出た。

皮肉にも外は自らを誇るような好天であった。暖かい日差しを浴びながら真理子は手早く買い物を済ませた。ごく普通の住宅街では目立ちすぎることもあり、普段は買い物に出るときは服を替えている真理子だったが、今日はそんなことは気にせずに、薄手のストールを羽織っただけで外に出ていた。幸い、さほど珍しがられることなく戻ってきたが、仮にそうであったとしても真理子は気にすることはなかったであろう。それだけ政康の具合が心配なのであった。

「ただいま戻りました」

返事がないとしても、家に誰かいるのであるから真理子は小さな声でそう言った。冷蔵庫に買ってきた野菜とスポーツドリンクを収める。そっと様子を見てみたところ、政康はぐっすり眠っているようであったので、真理子はそのまま静かにリビングへ戻った。目を覚ましたらドリンクだけ持っていこうと考える。本当に食欲がない様子なので、スープはもう少したってからにしたほうがよいだろうと考えた。

しばらくリビングで本を読んでいた真理子だったが、隣で政康が寝ていることを考えると落ち着かなくなってきた。

気付かれないように注意しながら、真理子は静かに政康の部屋に入り、深く眠っている政康のそばに腰を下ろした。熱が苦しいのだろうか、時々うめき声を上げる政康を心配そうに見つめる。額に乗せたタオルが温まってしまったことに気付き、洗面所にもう一度濡らしに行った。

そんな政康の痛々しい姿を目にしながら、一方で真理子は自分がこの人の役に立てているのだという充実感も感じていた。日頃政康のためにしていることと大きく違うだけに、それが特別なかけがえのないものにも思えてくるのだった。病気の時に傍に誰もいないというのは心細いものであることを真理子はよく知っていた。子供の頃の真理子は虚弱からは遠いものではあったが、それでも時には今の政康のように熱を出して寝込むことがあった。さすがに小学校に入るまでは、そんな時には母親が面倒を見てくれたが、外に出て働くことを生き甲斐にもしていた母は、ある程度真理子が大きくなるとあまり自分のことを省みなくなった。

「お薬を飲んで、しっかり寝ていなさいね」

そう言う母の言葉には確かに慈しみはあっただろうし、母親が付ききりでいたからといってすぐに体調がよくなるものでもないのもわかってはいた。それでも、具合が悪くてつらいときに傍に誰もいないというのは物理的なもの以上に真理子を苦しめていた。

そんな思いをさせたくはない。真理子はそう思いながら政康の寝顔を見ていた。大学に入って田舎から出てきて以来、自分が来る前までずっと一人暮らしをしていたという政康であるから、きっと何度かそういう思いをしてきたのだろう……。そんなことを考える。

自分が政康に平安を与えられるとまでは思わないが、自分がいることが少しでも政康にとってよいことになるのならばこれほど嬉しいことはない。普段は空気のようであって、仕事は当たり前にこなす。そしていざというときは家族以上に頼りになる存在になれる。かつて先輩から聞いたメイドの極意を思い出す。そんな存在に一歩でも近づけるような気がしたのが、真理子にとっては嬉しく、思わず頬をほころばせた。

そんな風に思ったとき、真理子の耳に何度目かの政康の苦しげな声を聞き、慌ててそういった自己満足を振り払った。メイドの仕事に自信を持ち、喜びを感じることはよいことだが、今の政康を目の前にして思うには不謹慎だったかもしれない。

「ごめんなさい、政康さん」

真理子はそう声に出して謝った。

「えっ、なぜ謝るんですか、真理子さん?」

「わっ」

ちょうど政康が目を覚ましたところのようだった。眠り続けていると思っていた真理子はびっくりして高い声を上げた。

「い、いえ、何でもないんです」

「そうなの?まあ、いいや。ずっとそこにいてくれたんだね」

「いいえ、ほんの少し前です……。やはり心配だったものですから」

「病気の時は、誰かが傍にいてくれるというのはとても安心出来るね。本当にありがとう」

「私も、心細い思いをしたことがありますのでよくわかるんです。よかったです」

「そうなんだ」

「あっ、具合はどうですか? 少しはよくなりましたでしょうか?」

「いや、まだそうもいかないみたいだ」

「何か召し上がりますか?」

「ううん、やめておく。まだそんな気分じゃない」

「そうですか……。でも飲み物だけは口にしてください。風邪の時は水分をしっかり取らないといけませんよ。スポーツドリンクを買って参りましたから、今お持ちします」

「うん、真理子さんに従うよ」

そんな言い方をする政康の笑顔は、心なしか前よりは少し楽そうに感じられた。

コップにドリンクを注ぎながら、自分の考えていたことが正しいとわかって、真理子は嬉しくなった。もちろん、不謹慎にならない範囲で感じる喜びではあった。


一度目を覚ました政康だったが、体調はまだ優れない様子であった。

スポーツドリンクを飲みながら少しばかり真理子と話をした政康だったが、その後はまた目を閉じて眠ることになった。氷枕と額の濡れタオルを替えた真理子は、しばらくの間、眠っている政康の枕元に座っていた。

薬を飲んでも熱は下がらないようであったが、思っていたよりも苦しんではいないように見えて真理子は少しだけ安心した。

一日中政康のところに座っているというわけにもいかず、夕方の少し前になるとリビングと台所の簡単な掃除をした。そして、少し具合が落ち着いたときのために栄養があって食べやすいフルーツの類を求めて買い物に行った。

だが、結局この日の政康は夜に一度目を覚ましてドリンクと薬を飲んだだけで、そのまま再び眠ってしまった。喉の痛みがつらいのか、一度起きあがって洗面所でうがいをしていたが、体調の改善する様子は見られなかった。

心配そうに見ている真理子だったが、政康は苦しそうな笑顔で「ちょっと重いみたいだけど、大丈夫だと思う。何年かに一回、こういうのはあるから」と言うのみだった。

真理子は自分に出来ることをして政康の看病を続けた。

結局、ほぼ三日間、政康はほとんど食事を取らずに寝ているだけであった。会社を休むのも三日になり、その日の夕方頃になってようやく熱が下がってきた。

「ずいぶんと楽になったような気がするけど……」

体温計を真理子に渡しながら政康が言った。

「はい。三十七度はもう割ってます」

「少し、口当たりのいいものを食べたいね」

政康が言うと、真理子の心の中に何とも暖かいものがこみ上げてきて、思わず目が潤みそうになった。

「はいっ。簡単なものですけど、すぐに用意します」

「ありがとう。でも、三日も休んじゃったから、明日からまた頑張らないと」

「そんな、ダメですよ。ちゃんと体調が戻ってからじゃないと、ぶりかえしてしまいます」

「うーん、そうだけど、あんまり迷惑かけるわけにもいかないし……」

「治らないうちにお仕事に行かれて、また倒れてしまったらそちらの方が多くの人に迷惑になってしまいます」

「確かにそうだね……。まあ、明日の朝起きてから考えることにするよ。真理子さんにも心配掛けさせたくないし」

「私はいいんです。でも……」

「ううん、真理子さんの言うことは聞くよ。今回はとても助かった、というより心強かった」

「はいっ」

真理子が台所で野菜スープとお粥を作っている間、政康は惰性で少し寝ているようだったが、ちょうど出来上がる頃には目を覚ましていた。

一人用の小さな鍋に、体に負担にならない程度の量に盛りつけられたお粥。体調を考慮して、三つ葉と梅干し、少しのしらす干しだけがちりばめられている。スープの方は、味付けも薄目にして、柔らかくなるまでゆでた人参とキャベツが入っている。

「大丈夫ですか?」

器の熱さと食欲について同時にそう真理子は尋ねた。二つの理由で普段のように手早く食べることは出来ない政康だったが、今朝くらいまでの苦しそうな様子はもうほとんど見られなかった。

「うん、美味しい。ちょっと熱いけどね」

「あの……、でしたら私が冷ましながら食べさせてあげましょうか……」

「えっ、ううん。そこまでしてもらわなくても大丈夫だよ。それはさすがにちょっと恥ずかしい」

「そ、そうですね……。ごめんなさい」

「ううん、真理子さんの言葉は嬉しかった。ありがとう」

挿絵2 真理子は、自分がれんげにすくった粥を冷まして政康の口に運んでいる姿を想像した。政康の指摘するように確かにそれは恥ずかしいと思える。そのため、真理子は顔を赤くしてうつむいてしまう。

政康の方もおそらくは同じ想像をしていたのだろう。

「それにしても、真理子さんの料理は美味しいよね」

「そんなことないです。今日は、政康さんがお腹を空かせていらしたからですよ」

「そうかな……。確かに体が食べ物を欲しているのかな。でも、普段の真理子さんの料理もとても美味しいよ。いつもそう思っているけど、なかなか面と向かっては言えなくて」

「ありがとうございます。上手かどうかはわかりませんけど、お料理は家事の中では特に好きなので、誉めていただけるととても嬉しいです」

「うん、明日からはいつもの料理が食べられるようにならないとね」

「そうですよ、油断しないできちんと治して下さいね」

「わかった。あっ、ごちそうさま。体が中から温まった気分だよ」

「よかったです。お薬をお持ちしますので、忘れないで飲んでくださいね」

「うん」

量が少ないとはいえ、全部平らげられた鍋とスープカップを持って、真理子は嬉しくなった。手早く洗い物を終えると、水と薬を持ってもう一度政康の部屋へ向かう。

久しぶりの満足感からか、今度は不快でない睡魔に襲われた政康は、しばらくして再び目を閉じた。

翌日の体調はすっかりよくなり、朝は少しだけ遅い時間になったが、結局、四日ぶりに仕事には出ることになった。

軽い朝食を取った政康は、今までと同じように笑顔の真理子に見送られて家を出た。

会社に出ると、もうそこには今までと同じ仕事が待っていた。

四日分の遅れを取り戻すべく、机の上に重なっている未処理の書類に目を通していく。

気ばかりが焦ってしまいそうになる政康だったが、ふと脳裏に真理子の顔が浮かんだ。

「あまり焦ってはダメですよ。ミスも出てしまいますし、無理をしてぶり返してしまったら、また遅れることになってしまいます」

自分の想像した台詞が、真理子らしいと思われて政康はつい笑みを洩らしそうになった。現実の書類を目にして、そんな気持ちを慌てて振り払う。

幸い、量は多かったが定型的な仕事がほとんどだったのでブランク明けではあったが順調に仕事をこなしていくことが出来た。

部屋を掃除していた真理子は、テーブルの上に総合感冒薬の小瓶が置いてあるのに気が付いた。

結局、医者にはかからずに風邪を治した政康だったが、普段からストックしている風邪薬が途中でなくなってしまい、真理子が近所の薬局に行って買ってきたものである。

確かに、国の健康保険の自己負担も多くなっている今、わざわざ混雑している病院に行って通り一遍の診察を受けるよりはそちらのほうが病気にとってもよかったのかもしれない。

今朝も「仕事中に眠くなると困るかな」と言いながら政康は薬を飲んで出かけていった。今日はそんなに帰りは遅くならないだろうが、薬は毎食後に飲むように指示されている。そうなると、昼の分の薬を政康は持たずに出ていってしまったのであろうか。一度くらい飲むことがなくても平気だろうという考えはあったが、やはり少々心配になる真理子だった。昨日の夜あたりからだいぶ回復しているように見えた政康だったが、それまで三日もほとんど寝たままでいたということも忘れてはいない。

しかし、さすがに届けるというわけにもいかず、しばらく掃除の手を止めて考えていた真理子は、政康に連絡だけはしておこうと考えた。もし薬が必要ならば、昼休みに同じものを買いに行ってもらえればいいと思った。

自分の部屋に戻り、鏡台の引き出しにしまってある可愛らしい手帳を取りだして、そこに書かれた政康の勤務先の電話番号を調べる。

受話器を手に取って、若干緊張しながら真理子は初めてその番号をダイヤルした。

「はい、関東商事営業支援部第二課です」

「わたくし、遠藤の家の者ですが、政康はおりますでしょうか?」

「はい、少々お待ち下さい」

簡単な受け答えのあと、保留の機械的な音楽が流れる。

これまでも何度か所用で家人の勤め先に電話したことのある真理子だったが、こういうときにはいつも緊張してしまう。家の外の人間に対して、自分の奉公している家の、いわば「お里」が知られる機会なのでもある。自分の電話応対の如何によっては、遠藤家……、この場合は政康のひととなりまで悪く判断されることになってしまう。例えば家事のことであれば、多少の失敗はあったとしても致命的にはならないであろうが、外の人に対してはそうはいかない。

お世辞にも聞き心地のよいとはいえない音楽に待たされながら、真理子はそんなことを考えて政康を待っていた。

「お電話代わりました、遠藤です」

「政康さん、真理子です」

「えっ、真理子さん、どうしたんです?」

「あの……、体調はどうですか?お薬を忘れて出かけられたので、少し心配になって連絡差し上げたのです」

「そうか……、悪いね。体調の方は大丈夫ですよ」

「よかったです」

「薬のことも心配してくれてありがとう。でも、実は会社にも同じ薬が置いてあるから大丈夫です」

真理子からの電話に驚いた政康だったが、周囲を気にしてか、言葉遣いが丁寧なものに戻っている。

「そうだったんですね。もし必要でしたら、お昼にきちんと買いに行って下さいってそれだけお伝えしようと思ったんです」

「ありがとう。心配掛けて申し訳ない」

「いいえ、こちらこそ、政康さんのお仕事の邪魔をしてしまって」

「それは大丈夫。さすがに今日はそんなに遅くならないうちに切り上げようと思うから」

「はい、夕食の支度をして待っていますね」

「うん。じゃあ、また後で」

「はい、失礼します」

受話器を置いた後、思わず周りを見渡してしまう政康だった。しかし、特に誰も気に掛ける様子もなく、周りの同僚はそれぞれ自分の仕事に没頭している。

安心した政康は、自分も途中になっている仕事を再開する。

そして程なく、時計が十二時を回った。席の近くの者同士、いつものように声を掛け合って外に食事に出る。

食欲も回復しているのが政康にもありがたかった。

「遠藤さん、具合はもう大丈夫ですか?」

隣の席の、大高という一年上の社員が声を掛けてきた。

「ええ、さすがに三日も休めば」

「珍しいですよね、三日もなんて。かなり重かったんですか?」

それを見て、向かいにいる後輩が政康たちに並ぶ。

「そうだね、今回のはかなり厳しかったよ。でも、ようやくよくなったね」

「俺たちも気を付けないとな」

「そうですね」

通用門の守衛に挨拶をして、三人は外へ出た。回復した政康の体調を投影するかのように、外は気持ちのいい青空が広がっている。

「さて、今日はどこに行く?」

「そんな重くないものにしておきましょうか」

「そうですね、となると千枚亭か?」

「それがいいね、近いし」

歩いて五分ほどのところに、和定食を出す千枚亭という店があった。夜は酒中心の店で、よい食材に通好みの日本酒を揃えている。このあたりのご多分に漏れず、昼は手頃な値段でランチメニューを出している。会社の周りにはそれなりにいろいろな店があるのだが、ずっといると概ね、通う店というものはある程度の数に落ち着いてくる。そういった観点からすると、政康たちにとってはこの千枚亭は値段対味の面では「当たり」といってよかった。

「いらっしゃいませ。何人でございますか?」

「えーと、三人」

「では、こちらへ」

割烹着とエプロンを足して二で割ったような服を着たアルバイト風の女性店員に案内されて、三人は席に着いた。

すぐにお茶とおしぼりが出され、それで手を拭きながら、後輩社員の根本が機を見計らったように政康に聞いた。

「そうそう、遠藤さん。さっき、遠藤さんの家の方という人から電話がありましたよね」

「あの電話を取ったのは根本さんだったのか」

「はい。ちょっと気になるんですけど、遠藤さんってまだお一人じゃありませんでしたっけ?」

わざとであろうか、口元に手を当ててひっそり話すような仕草でそう話を切り出す。それに釣り上げられるように、大高の方も若干身を乗り出した。

「なんだ、スキャンダルの類か?」

笑いながらそう言うが、本気で詮索しようとは思ってはいないようである。

「女の人でしたけど。それに声の感じでは若そうでしたよ」

言外に母親とかそういったのではないと言いたいようだ。

「うーん、それはだな……」

少し困ったような表情で政康は考え込んだ。別に人に言えないような生活をしているのではないことはわかっているのだが、なかなか説明して理解を求めるのには難しいのも事実である。

「ひょっとして、大人の事情があるとか……」

大高が同調して追及をかけてくる。

「大高さん、そんなことはないですよ」

「別に表沙汰にしたくなかったら言わなくてもいいんですよ」

「人聞きの悪い言い方はしないでくれよ。実はだな……」

「はい?」

「真理子さん……、電話をくれたあの人はうちで働いてもらっているメイドなんだよ」

「えっ、メイドですか?メイドってあのメイド?」

思わぬ答えに、根本は若干、戸惑っているようだった。政康がマンションで暮らしているということまでは知っていたが、それとメイドがどうしても結びつかないらしい。

「そう、話すとなかなか複雑なことになるんだけど……」

「いや、その必要はないさ」

横から口を挟む大高。

「えっ、大高さん。何故です?」

「はははっ、遠藤さんも、言い訳考えるならもう少し気の利いたのにした方がいいよ。別に俺たちも会社も遠藤さんが女の子とおつきあいしているのを咎めるつもりなんかないしさ」

「いえ、そうではなく、本当に……」

「だからいいって。でも、母親はアレだから、せめて妹が遊びに来てるとか、それくらいにしておいた方がいいんじゃないのか?」

「でも、遠藤さんは男兄弟だけって言ってましたし」

「だったら、田舎から親戚の子が遊びに来てるとかだな」

「ですから大高さん……」

「ま、いいって。ここだけの話にしておくからさ」

「そうです、そうです。で、用件は何だったんですか?」

「うん、風邪薬を忘れたのではないですかって心配していたようだった」

「そうか、あんまり心配させるなよ」

結局、二人には信じてもらえないようだった。確かに、自分の家にメイドがいて身の回りの仕事をやってくれているというのはにわかには信じてもらえないだろう。かといって、誤解されたままでいるのもあまり心地の良いものではない。

しかしこれ以上の抵抗は、この場では更なる状況の悪化を招くだけと判断した政康は、これ以上の弁明は避けて別の機会にゆだねることにした。

ほどなく、頼んだ食事が運ばれ、それからは普段通りの雑談をしながら手早く昼食を取った。

「やれやれ……」

最後に勘定を払った政康は、大高と根本の背中を見ながら肩をすくめた。

その日の晩、真理子の向かいで夕食を取りながら、政康はそんな出来事を話した。

「そういうわけで、なかなか大変だったよ。結局、誤解は解かれていないみたいだし」

「えっ、そ、それは……。申し訳ございません。出過ぎたまねをして政康さんにご迷惑を……」

「いや、迷惑ってことはないよ。真理子さんの心遣いは本当に嬉しかったし」

「ですが、もしそのことで政康さんの立場が困ったものになってしまっては……」

「立場っていうほど大げさなものなんかないって。それに、本当に真理子さんが心配してくれたのは嬉しかったよ」

「ありがとうございます。ですが、もう少し名乗り方を考えればよかったかもしれませんね」

「うーん、真理子さんは何て言ったの?」

「はい、『遠藤の家の者ですが』と申しました」

「だったら、問題ないと思うんだけどな。よくわからないけど、真理子さんのような立場だと、そう言うのが普通なんだよね?」

「はい、私の名前を言うべきものでもございませんし」

「だよね。でも、確かに聞き方によっては誤解を招くのかもしれないなぁ」

「気を付けます……」

「ううん、真理子さんに間違いはなかったって。本当に、気にしなくていいから」

実際、困ったというところはあったが、政康は今回の出来事を不快には思っていなかった。どこか楽しくなるようなそんな気持ちすらあった。

恐縮して小さくなっている真理子を見ながら、不謹慎にもそれを可愛いとすら思っている自分があった。

ともあれ、この日の遠藤家の食事では、政康と真理子の会話ははずんだ。仕事としての分をわきまえている真理子は、先に食事を済ませてしまっており、お茶を飲みながら政康の食事に対していたが、今度は一緒に食べるのも悪くないだろうと政康は思った。あまり妙な距離を置きたくない、政康はそう考え始めていた。

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