佳奈子と玲子との間には、まだ若干のぎこちなさは残っていたが、仲違いするような最悪の事態は避けられたようであった。
佳奈子は理紗と話をしたことによって、自分の中にあった、自分でもよく分からなかった髣艪ヨの気持ちを少しずつ理解できるようになっていた。髣艪フことを好きだという気持ちは確かに間違いないものであったし、それは今でもそう言えるのあるが、それは恋人を求めるようなものとは別のものだということに気が付いてきたのである。
そう気付かせるきっかけを作ってくれたのは理紗だったことは言うまでもないが、そう指摘されて自分の気持ちを整理してみると、今までに自分や玲子に対して感じていたもやもやした気持ちが急速に落ち着いていった。そうした気持ちによって、心の余裕が持てるようになってくると、玲子に対して感じていた嫉妬の類も、消失こそしなかったが極めて小さいものになっていく。確かに、理紗の言ったとおり、兄を他の女の子に取られそうになったという気持ちに近かったのだろう。そんなとき、一時的にその女性に対して敵対心を持つことがあっても、最終的には仲良くなれるという話はよくあることである。毎日、髣艪ニ顔を合わせて暮らしていくことは佳奈子にとって嬉しいことであったし、髣艪ェこの洋館でのメイドとの暮らしを「家族のようなもの」としてくれるのであったならば、佳奈子の居場所というものもしっかり存在している。佳奈子はそんな幸せを感じられるようになっていた。
一方、玲子の方は一人でずいぶんと考え込んだに違いあるまい。
玲子が持っている、髣艪好きだという気持ちは、既に自分一人だけのものではなくなっているということを思い知らされたのである。東京の家を出てくるときも、両親にその気持ちを説明するのにずいぶんと苦労したが、この洋館でメイドとして働かせてもらっているという今の環境は、実際には多くの人が玲子に向けてくれた優しい心遣いのおかげだということを改めて認識する。両親も然りであるが、佳奈子と理紗という、この洋館に前からいたメイド、それに何よりも髣莓{人がそうである。
押し掛けるようにやってきた自分を追い返したりはしなかったのだから、少なくとも髣艪ノ嫌われてはいないのだろうと玲子は信じていた。三人のメイドがいる環境の中で、自分なりの決め事があるのだろうか、髣艪ヘ自分たちメイドの働きに常に感謝の気持ちを向けてくれてはいたが、その働きに順位を付けたり、接し方に差があるようなことをしたりということはなかった。
だが、それは玲子にとって、多少の寂しさを感じさせていたことも事実である。ある日突然、髣艪ェ「玲子ちゃんの気持ちはわかっているよ。今日から君は僕にとって特別な存在だよ」と言うようなことは考えにくかったし、もし本当にそんなことがあったとしても、今の玲子は逆にとまどうだけだろう。
地上に顔を出した芽が、ある程度の環境変化に耐えられるまで丈夫になる必要があるように、玲子の気持ちもそうした期間を欲しているのかもしれない。髣艪ニ同じ家にいられるという今の環境は幸せであったし、先輩のメイドである佳奈子や理紗とも上手くやっていけているように自分では思っている。
そんな危うい安定の中で、天秤が何かの偶然で片方に強く傾き、載せていたおもりが落ちそうになってしまったのが、あの出来事だったのだろう。髣艪フ胸に抱かれたことは嬉しかったが、それ故に佳奈子に誤解を招かせ、更には佳奈子を傷つける結果となってしまった。
この時の玲子は、「やっぱり、佳奈子さんも髣艪ウまに自分と同じ気持ちを持っていたのかも」と思い悩んだのだったが、理紗はそれを否定するような言動をしていた。
泣きながらいつの間にか寝てしまっていたあの夜が明け、なんとか赤くなった目を誤魔化してメイド服に着替えていった玲子は、その翌朝の佳奈子が意外に落ち着いているのを見て驚いた。
どこか自分に対してぎこちなさがあるのは否めなかったが、自分に対して怒ったり、冷たくしたりするようなそぶりは見られない。そうなると、「やはり誤解を招くようなことをしたことは謝ろう」と思っていた玲子は、かえってそれを佳奈子に伝えることが出来なくなってしまった。
自分と佳奈子の関係で、髣艪ノ気を遣わせてしまったり、メイドの仕事がおろそかになるようなことがあってはならない。そう考えていた玲子も、自分をしっかりと持ってこれまでのような暖かい暮らしが取り戻せるように努力することにする。髣艪好きでいる気持ちは変わらなかったが、玲子自身にももう少しそれとしっかり向き合う時間が必要なのだろう。
そんなある日、髣艪ヘ久しぶりに佳奈子と理紗と三人で休息の時間を過ごしていた。
この日は玲子は休日になっており、「今日は買ってくるものがあるので、出かけてきます」と、朝食を終えるとすぐに出発していったのだった。
新しい紅茶を作るという仕事がいよいよ本格的に取り組まれるようになり、材料として候補に挙がっていた各地の茶葉が洋館に届くようになっていた。基本コンセプトは「紅茶の素直な味と香りを楽しむ」というところにあったので、メインはインドかスリランカの中・上級品が使われることになるだろう。
いくつかの紅茶の、単独の味を把握するために、理紗の手で一日に数度の紅茶を飲むようになっており、この休憩時間は、普段とは違ってあえて紅茶はお供にしないことにしていた。代わりに佳奈子が用意したのは、柑橘系の果実を使った生ジュースだった。
「これ、みかんやオレンジともちょっと違うみたいだけど……」
果実の粒もそのまま入っている、健康そうなジュースのコップをかざして見つめながら、髣艪ェそんな指摘をする。
「そうですね。いよかんやはっさくに似ているような気がしますけど……」
美味しいのだがその正体が分からないもどかしさ、理紗もそんな表情を見せている。
「実は、デコポンを使ってみたんです。県内産の美味しそうなのをお店で見つけたんです」
主に買い物を担当している佳奈子が、嬉しそうにその正体を明らかにする。
「デコポンって?あんまり聞いたことないんだけど……」
理紗は「なるほど」という表情で頷いているが、髣艪ヘ頭の中に疑問符を浮かべている。
「ご主人様は、あまりデコポンって召し上がられたことはないのでしょうか」
「う、うん……」
「こちらでは、結構、ポピュラーな果物なんですよ。全国区だと、おみかんや伊予柑、甘夏ばかりが有名になってしまいますけど、とても甘くて美味しいんです。このジュースも、お砂糖や蜂蜜は全然加えていないんです」
「そうなんだ、果汁百パーセントでこの甘さなの?」
「はいっ、お店で試食させていただいて、とても甘くて美味しかったので買ってきてしまったんです。本当はジュースにするのも少し勿体ない気がしたんですけどね」
そう佳奈子が説明する。県内産の食材を優先的に仕入れているスーパーが町にあって、そこに行くのが佳奈子の買い物の楽しみでもあるのだそうだ。
「なるほど。ところで、デコポンって変わった名前だけど、なんか由来があるのかな?」
「はい。やはりおみかんの仲間でポンカンってありますよね。これと日本のみかんを掛け合わせたものということなんですが、へたのまわりがおでこのようにぷっくらと盛り上がっているんですよ。これが由来だと思います」
「へえ、そうなんだ」
「そのポンカンも、インドのアッサム地方が原産らしいんですよ」
「アッサムって、あの紅茶の?」
「はい、そうです」
意外な共通点を見つけだして、佳奈子が嬉しそうに言う。
「そのような蘊蓄もよいのですが、やはり食べ物は季節のものを、その土地でいただくのが一番、理に適っていますものね」
一方の理紗もそんな佳奈子の考え方に賛同してくれているようだ。
「そうだね」
「でも、それは、そうした食材を使いこなせる料理の腕があることが前提になりますけど、佳奈子ならその心配はいらないでしょうし」
理紗が自分のジュースを飲みながら、そうして佳奈子を誉めてくれる。
「同じ食材でいろいろなメニューをお作りするのが、メイドとしても重要な技術なんですよ」
佳奈子もまんざらでもなさそうである。
「佳奈子も勿論だけど、三人とも料理の腕はよくて、なんだか僕には勿体ないなあ」
「そんなことはありません。ご主人様のために作るのが好きなのですから。それに、わたしたちも一緒にいただいていますし」
「そうですね。自分の作ったものが、ご主人様だけでなく他のメイドの口に入るとなれば、自分も腕を上達させないと、と思いますし」
普段から、家事の能力も高めたいと思っている理紗が言う。
「今は、玲子が一番それを思っているみたいです」
「そうみたいですね」
今はこの場にいない玲子のことが話題に上る。佳奈子は特に厭うような表情を見せてはいないので、玲子に対する気持ちについてもだいぶ整理が出来てきたのかもしれない。
「玲子ちゃんといえば、今日はずいぶん早く出かけていったけど、大丈夫かな……」
「大丈夫、とは、どのようなご心配でしょうか?」
理紗が髣艪ノ尋ねる。
「本人のいないところで言うのはよくないのかもしれないけど、この前の佳奈子とのことをまだ気にしているようだったから。休みの日に自分だけ洋館で何もしないでいるというのが居づらくなったのかもと思ってね」
「そのような心配なら、無用だと思いますよ。玲子さん、楽しそうに出かけて行きましたから。冬物のお洋服でも探しに行ったのではないでしょうか」
「そうかな。理紗さんが言うなら安心かな」
髣艪ェジュースの残りを飲み終えると同時にそう納得する。
「あ、そうだ。それと別に一つ不思議に思っていたことがあったんだよ」
髣艪ェ話題を転換する。佳奈子はデコポンの説明に夢中になっていて、まだジュースが半分くらいしか減っていなかった。
「不思議なこと、ですか?」
そう問い直す理紗の表情も同じように不思議そうであった。
「昨日の晩にね、飲みかけだった、お気に入りのコート・デュ・ローヌの赤ワインを飲もうと思って部屋に持ってきたんだけど、前に残していたのよりずいぶん量が少なかったような気がして……」
そんな髣艪フ言葉を聞いた佳奈子のジュースを飲む手が止まった。
「そ、そうなんですか?」
「うん、まだ半分以上はあると思っていたのに、グラス二杯でなくなっちゃったんだ」
「た、確かにそれは不思議ですね……」
「佳奈子、何か知ってる?」
「え、えっとですね……」
勿論、犯人は自分たちである。自分たちが飲んだことを白状しても、ご主人様は怒ったりはしないだろうが、それを知っていて理紗は横からわざととぼけた答えを返した。
「ご主人様、深酒はよろしくないですよ。佳奈子や玲子さんのことを気に掛けてらした時ですよね。そういうときのお酒は、自分が思っている以上に進んでしまうものです」
「うーん、そうかな……」
頬杖を付いて考え込むような仕草をする髣艨Bだが、髣艪ノはもとより深く追求するつもりもなかった。何となくであるが、事情も理解できたし、佳奈子と理紗の二人がお酒を飲んでいる姿を想像するのもなかなか楽しい。
「そうですよ、ご主人様も、もうあのようなきわどいことはなさらないで下さいね」
佳奈子が心の中で謝りながら、理紗に同調する。
「う、うん。そうだね……。ま、ワインはまた買ってきてもらえばいいかな。もう必要ないかもしれないけど、もし、気に入ったならば今度は佳奈子たちの飲む分もね」
「そ、そうですね……」
髣艪フそんな言い方に、佳奈子と理紗は感謝していた。
「ただいま帰りました」
ちょうどその時、玄関から元気な声が聞こえてきた。
「玲子ちゃんかな?」
「そうみたいですね」
理紗が飲み終えた三つのコップをまとめながら答える。
ほどなく、私服姿の玲子が姿を現した。白のハーフサイズのコートの下から、ロングスカートの裾が見えている。出かけに言っていた通り、買い物をしてきたのであろう、肩掛けのポーチの他に、どこかの店の物らしい紙袋を持っていた。
「あの……、佳奈子さんをちょっとお借りしてもよろしいでしょうか?」
そんな玲子が、応接間の中に遠慮がちに声を掛ける。
「わたしは構わないけど、どうしたの?」
ちょうどジュースを飲み終えたところの佳奈子が、口元にハンカチを当てながら答えていた。
「佳奈子さんにお土産を買ってきたんです」
「そうなんだ」
「わたしに……。ご主人様、よろしいでしょうか?」
真っ先に自分を指名した玲子を訝しくも思いながら、佳奈子が髣艪ノお伺いを立ててみる。
「うん、構わないよ、いっておいで」
「はい、それでは少し、失礼いたします」
「すみません、髣艪ウま。ありがとうございます」
よそ行きのコートを着た玲子の後に続くようにして、メイド服姿の佳奈子が二階へ向かっていく。
未だ少し不思議に思いながら、髣艪ヘそんな二人を見送った。
「すみません、佳奈子さん。私の部屋にどうぞ」
「わたしにお土産って、何かしら。ご主人様よりも先に、しかもわたしをこんなところに連れてきて……」
そう言いながらも、導かれるままに玲子の部屋に入る。
「おじゃまするね」
「はい、そこに座ってしまって下さい」
きちんと整ったベッドを玲子は指差した。何度か佳奈子もこの部屋に入ったことがあり、ベッドを腰掛け代わりにして玲子と話をしたこともあったからそれに対する違和感はなかった。
「ありがとう。ずいぶんと急いでいたみたいだけど、どこに行ってきたの?」
「えっと……、熊本です」
「熊本? また何をしにそんなところまで?」
佳奈子にとって、またおそらくは玲子にとってもなじみのない地名が登場して、驚きの言葉が出てきた。この洋館から片道三時間はかかるのではないだろうか。
「はい、これを買いに行ったんです。佳奈子さんへのお土産……、といいますか、わたしからのプレゼントです」
「お菓子、なのかな。開けてみてもいい?」
「はいっ」
紙袋から取り出された、白い箱を佳奈子は受け取った。デコレーションケーキが入っているような透明の窓の付いた箱を、小振りにしたようなものである。
「あれ、これはいちごのケーキね」
「はい、佳奈子さんが少し前に話してくれた、お友達の直美さんとお食べになったものと同じだと思います」
「うん、確かにそうみたい。懐かしいね……」
佳奈子が高校時代のことを思い出して、遠くを見るような表情をする。
玲子との雑談の時に話したことがあったのだが、高校時代、仲のよかった直美という同級生と熊本まで日帰りで旅行に行き、お城や公園などを見て回った後、アーケードで見つけた洋菓子屋さんで食べたいちごのケーキが美味しかったという思い出があった。あまり歴史には興味のない直美を、無理に郷土資料館に付き合わせたお詫びということでその時は佳奈子がごちそうしたのだったが、佳奈子だけでなく直美もそのケーキを気に入ってくれて嬉しかったということが懐かしい。
「だけど、よくそのお店が分かったね。ううん、このケーキを買うためにわざわざ熊本まで行って来たの?」
「はい、タイミングを逃してしまって、佳奈子さんにはきちんと謝ることが出来なかったのをずっと気にしていたんです。その……、髣艪ウまにもご迷惑をお掛けしてしまったとは思うのですが、佳奈子さんにも嫌われないようにいたいと思って……」
「ふうん、そのために……」
佳奈子が目の前のケーキと玲子の顔に交互に顔を向ける。
「そ、その……、もし、ご機嫌取りのように取られてしまったのでしたら……」
心配そうな表情の玲子。
だが、佳奈子はにっこりと微笑んで首をゆっくり横に振りながら、コートを着たままの玲子の肩に手を置いた。
「ううん、安心していいわよ、玲子」
「佳奈子さん……」
「そんな昔話を頼りに、わたしの好きなものを買いにわざわざ熊本まで行って来たんでしょ。その気持ち、とっても嬉しいよ」
「ありがとうございます」
「あれ、お礼を言うのはわたしのほうじゃないかな。それに、わたしも玲子を嫌ってなんかいないし。もっとも、ご主人様のことが好きなのは譲れないけどね」
「えっ?」
安心したのもつかの間、一転して玲子が不安に陥る。
「安心して。玲子のご主人様への気持ちを邪魔したりはしないから」
「でも、佳奈子さんも髣艪ウまのことを好きって、今……」
「そうね。でも、玲子みたいな気持ちとはちょっと違うんだと思う。わたしにとっては敬愛する大切なご主人様だけど、玲子が今と違う形でなってほしいという『ご主人様』とは別みたいだから。言ってみれば、お兄さんみたいなものかな」
「そうなんですか……」
「うん。わたしも考えたの。どうして、あの時の玲子にあんなきつい言い方をしちゃったのかなって。それで、自分の気持ちをいろいろと整理してみたら、どうやらそういうことだって分かったみたい。ほら、わたしたちって一人っ子だからあまり想像してみたことがなかったけど、自分の好きなお兄ちゃんに彼女が出来たりしたら、そんな『取られちゃう』って気持ちになるんじゃないかなって。だから、わたしもご主人様のことは好きだけど、玲子の障害にはならないわ」
「佳奈子さん……」
「でも、玲子がご主人様にふさわしくない女の子だったとしたら、結ばれないように邪魔しようっと」
そう言いながら、楽しそうに佳奈子が笑う。そんな佳奈子の笑顔を見て、ようやく玲子の心も落ち着いてきたようだった。
「でも、なんだかそれって、わたし、小姑みたいね……」
自分の言葉に、うーんとうなりながら佳奈子が腕を組んで考え込む。そんな佳奈子を、玲子が楽しそうに見つめる。
「佳奈子さん、よかったです」
「わたしにとってもね。だけどご主人様はあれでなかなか難攻不落の要塞みたいだと思うよ」
「そ、そうでしょうか……」
「それなりの歳の男性なのに、わたしたちメイドに色目を使ったりしないものね。玲子が来てからも、三人のうち誰かを贔屓したりすることなんてなかったしね」
「確かにそうですね。でも、それも髣艪ウまの素敵なところだと思うんです」
「そうね。でも、そんなご主人様には、なかなか玲子の気持ちにも気付いてもらえないかもしれないよ?」
「はい……。けれども、わたしの気持ちを直接、ご主人様に伝えることなんて出来ないですし」
「そこは、玲子の頑張り次第よね」
「はい」
佳奈子との溝が埋まったからといって、全て解決、順風満帆というわけにはいかなかった。だが、玲子もこの洋館での居場所や安らぎを得られて、心が落ち着くようになった。今、髣艪ヘ新しい紅茶の開発という仕事に取り組んでいるというが、直接的にはそれを手伝えないとしても、この洋館をもっと住み心地のよい場所にすることによって髣艪フ仕事が順調に進むための役に立てるのではないだろうか。佳奈子や理紗にはまだ追いつけないにしても、髣艪フために出来ることはいくらでもあるのだろうと思う。
「だけど玲子、ちょっと疑問に思うんだけど……」
佳奈子が玲子を自分の隣に座らせて、その玲子の方を見て言った。
「はい、なんでしょうか」
「朝ご飯の後に出ていって、今戻ってきたんだとしたら、熊本ではどこも見てこなかったんじゃないの?」
「はい、だって、佳奈子さんのためにこのケーキを買いに行くのが目的でしたから」
「でも、いくらなんでもそれだけなんてもったいない」
「あ、でも、お昼ご飯をいただいてきました。ケーキ屋さんを調べていたときに見つけたんですが、名物の太平燕っていう中華料理を食べてきたんです」
「熊本名物の中華料理?」
言葉に矛盾があるような気がして、佳奈子が問い返した。
「はい、長崎チャンポンのような具とスープに、麺の代わりに春雨を入れたようなお料理なんです。なんでも、熊本に中国の人がやってきて定着したそうなんですが、何故か他の土地では広まっていないみたいなんです」
「へえ、そうなんだ。でも、それならよかったね」
「はい、お城や他の観光地には、いつか髣艪ウまに連れて行ってもらいます」
「あら、わたしと取り合いにならなくなったからって、遠慮がなくなったわね」
「そ、そうではありません……。その……」
「ま、いいのよ。玲子がわたしのためにケーキを買ってきてくれたのは嬉しかったしね」
「はい、よかったです」
「でも、ご主人様や理紗には何もないの?」
「あ、それは大丈夫です。美味しそうなシュークリームを同じお店で買ってきました」
「そうしたら、早く持っていってあげなさいよ。ご主人様をないがしろにするんじゃ、玲子を応援なんか出来ないわよ」
「は、はい……」
「わたしは、こっそり自分の部屋でこのケーキをいただくから、上手いこと二人には言っておいてね」
「わかりました」
一緒に部屋を出た二人だったが、玲子はシュークリームの入った紙袋を持って一階に降りていった。佳奈子は玲子から受け取ったケーキを持って自室に消えていく。
シュークリームの味も髣艪笳搦ムに満足してもらえたようだ。この間食のおかげで、この日の夕食はいつもより軽めのものになったのだった。
ここしばらく、冬にふさわしい厳しい日が続いていたが、この日は一転して、小春日和といってもよい穏やかな日になった。どんよりと曇りがちで雨もぱらつくような日が多く、満足に洗濯物も干せないと玲子あたりは残念がっていたが、今日は澄みきった青空の広がる好天で、いつもよりも張り切って洗濯と布団干しをこなしたのだった。
この地方では、時々、思い出したようにこんないい天気になるそうで、遠くの山々も少し季節を戻したような爽やかさで洋館の敷地に背景を与えてくれる。穏やかな陽光のもとにいると、畑に広がる深緑のお茶の葉ばかりでなく、メイド服の色も映えて見えるであろう。
四人揃った昼食を済ませた後は、髣艪ヘいつものようにデスクワークに、三人のメイドもそれぞれ自分の仕事に戻っていった。
そんな三人は、今日は別々に洋館の外に出ているのであったが、昼下がりののんびりした時間帯に、その外で顔を合わせて、偶然にびっくりしていた。
佳奈子はいつものように食材を買いに町に出ていた。今日はそれほど多くの物を買い込む予定もなかったし、天気が良かったので、車は使わずに歩いて町のスーパーや八百屋などに行っていた。役場や公民館のある町の中心部からは少し離れている場所に洋館は建っているので、歩くと片道で三十分弱ほどになる。だが、佳奈子は茶畑の広がる道を歩くのが嫌いではなかったし、体にもいいことであると思っていたので、この日はそうして往復一時間ほどを歩いてきたのだった。町の中ではあまりメイド服という格好で人目を引きたくなかったので、上にハーフコートを着ていた佳奈子だったが、歩いているうちに体が温まって、コートは脱いで手に持っていた。しばらく寒い日が続いていたのとは大きな違いで、冬らしくない今日の気温に多少、辟易してもいた。
買い物を済ませ、今日の夕食のメニューを考えながら歩いていた佳奈子は、川辺茶園の茶畑が近づいてきたところで、小高くなったその敷地に立っている、自分と同じ服を着た人間がいることに気が付いた。時々、軽やかに吹き抜けていく風は、若干、汗ばみ始めた佳奈子の体を心地よくさせたが、同時に佳奈子の視界に入ったそのメイド服姿の女性の長い髪とスカートの裾をふわっと舞い上がらせた。遠目で見ていても、そんな理紗の姿は美しく見えて、佳奈子にはうらやましくも思える。
「理紗ぁ〜!」
理紗も、この天気のよさに誘われてしばらく出来ずにいた茶畑の見回りに出ていたのだろう。まだ佳奈子がいるのには気付いていない様子である理紗に、道ばたから大きな声で呼びかける。
声を聞いた理紗がきょろきょろと周囲を見渡し、買い物袋とコートを持った佳奈子に気が付いた。
理紗の顔を見た佳奈子は、空いている方の手を大きく振ってそんな理紗に答えた。
脇を回り道するような形で、理紗が佳奈子の方へ歩いてくる。
「あら、今日は歩きで行ってきたの?」
「うん、ほら、こんなにいい天気だしね。コートもいらなかったみたい」
「そうね。私も気持ちよさそうだったから、ご主人様に許可をもらって畑を見に来たところ」
「そっちは、問題ない?」
「そうね、大丈夫。佳奈子もいい食材は買えた?」
「うん。お夕食は何にしようかなって、これから考えるところ。いいお肉が買えたから、今日は薩摩名物の豚骨にしちゃおうかな」
「あ、いいわね。私も楽しみにしてるね」
時々、車が通っていく以外は人通りもあまりない田舎道である。そんな道ばたで、二人のメイドがそんな気さくな会話を楽しんでいる。
「うん、ありがとう。理紗の見回りはまだ途中?」
「ううん、一通り見終わって、そろそろ戻ろうかなって思っていたところ」
「じゃ、一緒に帰ろうか」
「そうね」
一度、茶畑の方を振り返った理紗だったが、佳奈子と一緒に洋館へ向かって歩き始める。茶園の敷地といっても、洋館からはかなり離れたところにあり、戻るにはまだ少し時間がかかる。
この道の先には、例の無人駅があり、しばらくまっすぐ進んだところを右に折れると洋館にたどり着く。佳奈子と理紗が料理の話などをしながら歩いているうちに、その駅が近づいてきた。ちょうど踏切が鳴っているところで、白地に青の帯の入った二両編成の気動車が横切っていくところが目に入った。
「子供の頃に歌った歌があるけど、なんだか不思議な気もするよね」
佳奈子がふとそんなことを言った。
「どうしたの?」
「線路は続くよどこまでも、ってあったじゃない。わたしたちが住んでいる洋館って、こんな田舎ののんびりしたところにあるのに、この線路は昔住んでいた福岡とか、ご主人様が少し前まで暮らしていらした東京にも通じているんだもんね」
「確かにそうね。同じ鉄道でも、東京とここでは全然違うそうね。ご主人様が通勤してらした東京では、十両編成の電車が三分おきに走っていて、朝夕は全部満員なのだそうよ」
「そんなところから、ご主人様はこちらに来てくださったんだよね」
「そうね……」
そんな感慨に耽りながら歩いていると、佳奈子たちはもう一度の偶然に驚くことになった。
列車が過ぎたばかりの駅から、三人の乗客が道に降りてきたのだったが、その中の一人に見慣れたメイド服姿の女性がいたからである。
「あら、玲子?」
改札もないシンプルなホームから道に出てきた玲子は、列車の中では脱いでいた黒のコートに袖を通そうとしていた。ちょうどその時に佳奈子たちに気付いたようで、玲子も「あっ」という驚きの表情で二人の方に顔を向けた。
「佳奈子さんに、理紗さん、どうなさったのですか。あ、お買い物ですね」
佳奈子の買い物袋に気が付いた玲子が明るい表情で言った。洋館に戻るまでの道のりが少し寂しいと思っていたところだたので、嬉しさも倍加している。
「うん、わたしは買い物。理紗は畑の見回りに出ていたんだけど、偶然、帰り道に会って一緒に戻ってきたのよ」
「そうだったんですか」
「玲子さんは、お出かけだったの?でも、その服を着ているってことは、ご主人様の用事だったのかしら」
愛用のポーチの他に、二つの紙袋を持っている玲子に、理紗がそう問いかける。
「はい、急いで手に入れたい本があるということで、県都の大きな本屋まで買いに行ってきました。それと、髣艪ウまの肌着がいくつか傷んできていたので、新しいものを買ってきました」
二つの紙袋の中身はそれなのだろう。
「そうなの、大変だったわね」
「いいえ、平気です。それに、おそらくなんですが、普段あまり洋館から外に出ないわたしに気分転換させてくれたんだと思います」
「優しいご主人様だよね」
佳奈子が言うと、玲子も嬉しそうに同意する。
「だけど、玲子。ご主人様の下着なんて買いに行って、恥ずかしくなかったの?その、男物の下着の売り場でしょ?」
「は、はい、ちょっと……。売り場にいる他の女の人って、いかにも『かあちゃん』って感じの方ばかりで……」
「そうよね。でも、将来のことを考えるとそれもいいんじゃないの」
そう言って佳奈子がからかう。理紗はそんな佳奈子を苦笑して眺めていたが、玲子の方はそんな佳奈子の言葉の意味を悟って赤くなる。
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに、ね、理紗?」
「佳奈子が言うことじゃないわよ」
「そ、そうです……」
理紗は玲子に助け船を出すが、自分もそうした会話を楽しんでいるようである。
そんな話をしているうちに、もうしばらくは列車のこないこの無人駅は三人だけの空間になっていた。
「じゃ、三人で仲良く洋館に戻りましょうか」
「はい、そうですね」
理紗が言って先頭に立ち、玲子が元気よくそれに答える。
道路に出て踏切を渡ろうとしたところで、不意に佳奈子が二人を呼び止めた。
「あ、ちょっと待って」
背後から声を掛けられて、理紗と玲子が立ち止まる。
「どうしたの?」
「今、玲子の乗ってきた列車が行ったばかりだから、こっちから近道して帰らない?」
「えっ?」
佳奈子が指さしていたのは、線路の延びている方向だったから、玲子が驚いたのも当然である。駅から洋館までの道は、多少、曲がりくねっているところがあって遠回りであることも確かである。この線路の先にある、次の踏切まで歩けば、ほぼ直線で洋館の前まで帰ることが出来る。
「佳奈子らしい提案だけど……。本当に大丈夫?」
さすがに理紗は心配している。
「うん、下りは三時間後だし、この先はすれ違いの出来る駅はないから、さっきのが戻ってくるまでにはずいぶん時間があるよ」
「確かに近道は近道だけどね」
「でも、線路の上を歩くのは楽しそうです」
東京出身らしい感想を玲子が言う。
「それなら、佳奈子の提案に乗ろうかしら」
「さすが理紗、話が分かるね」
今度は先ほどとは逆に、佳奈子が先頭になって歩き始める。幸い、周りには人がいなかったからそんな佳奈子たちをとがめ立てする者も存在していない。
砂利と枕木の独特の感覚を靴越しに感じながら、佳奈子たちが線路の上をゆっくりと歩いていく。最初は歩きにくそうにしていた玲子も、やがて歩幅のリズムを掴んだのか、軽やかに歩みを進めていく。理紗は意外に慣れた様子を見せて普通の道と変わらないような歩調で進んでいる。
「なんだか、ピクニックみたいで楽しいです」
「それと、ちょっと悪戯をしているような感じね」
気分が開放的になっているためか、玲子も一度着たコートを脱いで歩いていた。同じメイド服を着た三人が仲良く並んで青空の下の線路を楽しそうに歩いていく。遠くには緩やかな稜線の印象的な山々が見えており、線路の左手には川辺茶園のものも含む茶畑が、左手には冬から春の始めに収穫される野菜が元気な葉を付けている。
「三人がこうして並んで歩くのって、珍しいね」
「そうですね。でも、こうして洋館のメイドとして佳奈子さんや理紗さんに認めてもらえるようになったのがわたしは嬉しいです」
「まだ、技量ではわたしたちには敵わないけどね」
そう言って、佳奈子が隣の玲子を指でつつく。不意にそうされてバランスを崩した玲子が体をよろめかせる。
「あっ……」
咄嗟に、佳奈子が手を伸ばして玲子を支える。
「意外に玲子はバランス感覚がないのね」
「す、すみません」
「まったく、あの時だってご主人様にあんな抱き付き方しなくてもいいのに……」
例の事件をあえて佳奈子が蒸し返してみた。だが、そんな冗談交じりの言い方が出来るということは、あのような醜い気持ちからは解放されたということでもある。
「か、佳奈子さん……」
その時のこと、その時の感触をしっかり覚えていたから、玲子は慌てて首を左右に振り、何かを必死に否定しようとする。
「佳奈子って、結構、意地悪でしょう。玲子さんもお友達はちゃんと選ばないと」
「あっ、理紗、ひどい」
お互いにそうした軽口が叩けるような、居心地のよい仲に三人は身を置いていた。洋館の中では、髣艪ノ仕えることは何よりも大事なことであったから、こうした雰囲気の時間を持つことはなかなか出来ない。ご主人様である髣艪ヘ、そんな彼女たちの仲の良さを叱ったりはしないであろうが、髣艪フ前ではメイドとしてのしっかりした姿勢を保たねばならないということは、当の三人が一番よく知っている。それぞれが、髣艪ノ対して、そして洋館に対してどんな思い入れがあったとしてもそれは同じである。
だからこそ、こうして開放的な空気の中で三人で仲良く歩ける時間というものに、髣艪ノ仕えているときとは別の幸せを感じているのである。
佳奈子に理紗、玲子の三人が同じメイド服を着て歩いている。光の加減によってはワインレッドに近く見えることもある濃いめの赤色のワンピースをベースにしたエプロンドレスにウエストのくびれを若干強調するデザインになっている幅広のベルト、エプロンと同じ白を基調にした胸元から襟元にかけてのレースの装飾。そういった基本的な造りは共通であったが、細部は彼女たちそれぞれの個性によって彩られていた。長いストレートを自然に流している理紗、耳元の二ヶ所で可愛らしく束ねた佳奈子、そして同じ耳元ではあるが慎ましやかな三つ編みを作り後ろでまとめている玲子といった髪型の特徴もあるが、他の二人がスカート丈をちょうど膝が隠れる程度にしているのに対し、理紗はそれより少しだけ短めにしている。そこからのぞく二本の足も、佳奈子はレース飾りの付いた長めの白いソックスに、玲子は素足に近い小さなソックス、理紗は太股まで届く黒のストッキングといったように、それぞれの好みで整えられている。それからもう一つ、胸元のリボンに特徴があるだろう。佳奈子は髪を束ねているものと同じ色の紺色の細身のリボン、理紗はそれと色違いの緑色を好んで身につけている。一方、玲子はといえば、最初にこの洋館に来た時に持ってきた自前の黒のメイド服に付属していた、大きめのえんじ色のリボンをそのまま今でも身につけている。
歩きながらの話題は、そんな自分たちのことからご主人様である髣艪フものへと移っていく。
「ご主人様のお仕事、大変ですよね……」
「ご本人は『昔と比べたらずいぶんと時間的には楽になったよ』っておっしゃっているけど、やっぱり、わたしたちには分からない苦労もなさっているのかな」
「そうね、しっかりしたお仕事をなさる方だから、気苦労も多いのかもしれないわね」
「わたしたちが、しっかり支えてあげないと」
「髣艪ウま、理紗さんの紅茶をいつも誉めていますよ。わたしも、あんなに上手にいれられるようになりたいなあ……」
玲子がうらやましそうに、隣を歩いている理紗に言った。
「新しい紅茶を作るってお仕事、順調なの?」
佳奈子は理紗に聞いてみた。
「まだ始まったばかりだから何とも言えないけどね。なかなか上手くはいかないみたい。今はそちらは後回しにして、四半期関係のお仕事をなさっているけど」
そう簡単に開発が出来るものとは理紗も考えていなかったから、まだ焦りはないようである。しかし、直接にその髣艪フ仕事を手伝えない佳奈子や玲子としては、やはり進捗が心配になるものである。二人にとっては、自分たちが起こしたトラブルが髣艪フ心を悩ませていなかったかという心配もあったのだ。それが解決出来た今は、ひょっとすると理紗以上に紅茶の完成を願っているのかもしれない。
「四半期、ですか?」
聞き慣れぬ言葉に、玲子がとまどいを見せる。
「一年を六ヶ月ずつに分けると、『半期』になるでしょ。更に半分の三ヶ月ずつにするのを『四半期』って言うのよ」
「あ、そうなんですね。ちょうど、季節ひとつずつくらいですか?」
「そうね。学校の学年と同じく、四月から三月でひとつの年度だから、今は三つ目の四半期、つまり第三四半期ね。会社にとって、決算は成績表みたいなものだけど、後半も半分近くが過ぎてくると、『今年の業績はどうだったかな』っていうのが薄々、見えてくるじゃない。それをまとめて、目標があれば『もっと頑張らなきゃ』って考えるんじゃないかな」
佳奈子が詳しく玲子に説明する。直接、仕事に携わらない佳奈子であっても、何年もの間、メイドとしてご主人様に仕えてきたのであるから、川辺茶園という会社の仕組みもある程度は理解している。
「でも、髣艪ウまは販売のお仕事はなさっていないんじゃありませんでしたっけ」
「うん。でも、数字に強いご主人様は、ここの茶園の管理や新しいお茶のお仕事だけじゃなくって、そうした分析や統計も担当されていらっしゃるみたいよ」
「佳奈子の言うとおりね。数字に強い人って意外に少ないから、ご主人様のように独立した立場で見てくれる人がいるのは会社にとっても心強いんじゃないかしら」
理紗がそうした自分の考えを述べる。有能な秘書に似た仕事も行っている理紗は、そうした髣艪フ環境を適切に把握してもいる。
「そうなんだ。やっぱり、ご主人様はすごい人ですね」
「そうだね」
玲子があこがれの表情を、ここにいない髣艪ノ向ける。そんな髣艪ノ、自分もメイドとして、出来ればそれ以上に何かしてあげられたらいいと思う。
「あ、でも……、そんなご主人様はやっぱりお疲れになっているんでしょうね」
「そうかもしれないね」
ぴょんと飛び出すようにして歩いている二人の前に出た玲子が、体の向きを変えて佳奈子と理紗に正対する。
「でしたら!」
その玲子が、二人に笑顔を向けながらこんな提案を持ち出した。
「理紗さん、佳奈子さん。今度のお休みに、髣艪ウまを招待するって形で、洋館で小さなティーパーティを開きませんか?」
「ティーパーティ?」
「はい、お菓子も作って、テーブルをお花などで飾ったりして、いつものお茶の時間よりも華やかにして、髣艪ウまに楽しんでいただくんです」
「あ、素敵ね……」
「私も、そのお話に賛成しようかな」
「ありがとうございます。お菓子って言っても、わたしはクッキーを焼くことくらいしか出来ないんですけど……」
「みんなで一緒に作りましょう。パン以外に焼いてみるのは久しぶりで、楽しみになってきたわ」
理紗も前向きのようである。佳奈子についてはその顔を見ていれば返事を待つ必要もないだろう。
「そうしたら、佳奈子さんから朝に、ご主人様に伝えてください」
「うん、その役目、任されたわ」
佳奈子が玲子の肩に手を置いてその隣を歩き抜ける。残された形になった玲子が慌てて体の向きを変え直して佳奈子たちの後を追いかける。
程なく、次の踏切にたどり着いて、運良く周りに人や車がないのを確認すると、何事もなかったかのように道路へ戻った。
「でも、一番楽しんでもらわないといけないのは、ご主人様なのを忘れないようにしないとね」
「はいっ」
メイド服姿の映える三人は、そんな話をしながら洋館へと戻っていった。
玲子たちはこれを当日まで内緒にしていたから、髣艪ノとってはちょっとした驚きになった。
土曜日の朝、普段より少しだけ遅く目を覚ますと、それを見計らったかのように、佳奈子が水を持って部屋に入ってきた。
「おはようございます、ご主人様。今日は穏やかな日になりそうですよ」
「おはよう、佳奈子。しかし、佳奈子はいいタイミングで来てくれるね。今日は土曜日だから少しゆっくりしていたんだけど。ひょっとして、見張ってる?」
「ふふ、そんなことはありませんよ。でも、ご主人様のお目覚めに立ち会えてわたしは嬉しいです」
「僕は相変わらず、ちょっと恥ずかしいけどね」
「そんなご主人様が見られるのが、メイドの中でわたしの特権なんです」
コップに水を注ぎ、それを髣艪ノ手渡しながら言う。その時に髣艪フ手に僅かに触れるのが佳奈子にとっても少し気恥ずかしいところだった。
「冷たすぎず、美味しいね」
「ありがとうございます。あ、今日は、ご主人様にお渡ししたいものがあるんです」
そう言って、佳奈子はベルトの背中に挟んで隠していた一通の手紙を取り出して、上半身を起こしている髣艪フ前に差し出した。
「えっ?これは、手紙のようだけど……」
「はい」
不思議そうな顔をしている髣艪見て、佳奈子は策は上々とばかりに微笑む。
「まさか、佳奈子からのラブレター?」
「残念ながら、不正解です。でも、なぜ『まさか』なんですか?」
拗ねたように佳奈子が言う。
「いや、別に妙な意味じゃないんだ。でも、改めて手紙なんてどうしたの?」
「その……、読んでいただければ幸いです」
「そうか……、わかった。開けてみるね」
頭の中の疑問符は消えていなかったが、佳奈子に促されるままに封を開ける。封緘に篆書体の「雅」をデザインした小さな印を使っているのか、どこか佳奈子らしい。
「はいっ」
中から取り出したのは、薄いピンク色の女の子らしい便せんだった。桜の花の絵がちりばめられており、丁寧な楷書で数行の文字が書かれている。
「敬愛するご主人様へ
わたしたちメイドが開催するティーパーティに、ご主人様を是非、ご招待したいと思います。
とっておきの紅茶とお菓子でおもてなしさせていただきますので、どうかお越し下さい」
そんな言葉の後に、それぞれ筆跡の違う文字でそんなメイドたちの名前が、玲子、佳奈子、理紗の順番で並んでいた。
「これは?」
思わず、隣りに立っている佳奈子に真意を問いかける髣艨B
「はい、そのお手紙に書いたとおりです。今日はご主人様もお休みの日ですし、年末の忙しい時期に、少し心を休めていただこうと思いまして、内緒で企画しました」
「そうなんだ……。僕のために、わざわざ?」
「はい、それから日頃のご主人様への感謝の気持ちも籠めてです」
「そうか、ありがとう。謹んでお受けするよ。どこかに出かけるのかな?」
「いいえ、実はそんなに大げさなものではありませんので、いつもの食堂です」
「なるほど。でも、午前中は決着付けておきたい仕事があるから、午後になっても構わないかな?」
「はい、ご主人様のためのお茶会なのですから。ですが、代わりにお昼は簡単にさせていただいてもよろしいでしょうか。その……、お菓子をいくつか用意いたしますので、それをご主人様に召し上がっていただけるように……」
「うん、わかった。佳奈子たちの手作りのお菓子か、それは楽しみだね」
「玲子や理紗も、久しぶりのお菓子づくりといって、張り切っていますよ」
「じゃ、午前中はひと頑張りするかな」
「はい。土曜日もお仕事なんて、大変ですよね……。でも、そんなご主人様に安らいでいただくのが目的ですから、わたしたちも普段とちょっと違った形でご主人様に喜んでいただければと思っています」
「うん、ありがとう。いきなりの手紙でびっくりしたけどね」
「ふふ。わたしは朝ご飯の支度を手伝ってきますので、ご主人様も着替えがお済みになったら降りてきてください」
そう言って、空になったグラスと水差しを持った佳奈子は、部屋の入り口で髣艪ノ深くお辞儀をしてから戻っていった。
「わっ、これはいい感じだね」
食堂の中は、きつくならない程度の甘い香りに包まれていた。
普段とは違うテーブルクロスを敷くだけで、いつもの食事時とは違った雰囲気を出しているが、戸棚にあるものの中から選んでコーディネートされた皿やティーカップが、三人のメイドとともに華やかさを醸し出している。
「ご主人様、お待たせいたしました。もう、準備も整いました」
「そうみたいだね。これは華やかだ」
四人の席の真ん中にケーキスタンドが置かれ、綺麗に盛りつけられた菓子が並べられている。その空間を囲う城壁の塔のように、一輪挿しに飾られた黄色の花が華やかさの中に可憐さも与える役を果たしている。小皿やティーカップに描かれた花と、そうした切り花が相乗的な演出となる。勿論、そうした花や菓子、食器だけでなく、それを供するメイドたちが一番の魅力であることは言うまでもない。
「こちらにお座り下さい」
玲子が手を引いて、髣艪席に座らせる。理紗は紅茶の用意を調えて髣艪フ脇に控えていた。
「今日の葉はとっておきです。ご主人様に、まずは召し上がっていただこうと思います」
そう言って、理紗が優雅な仕草で紅茶をカップに注いでいく。
「あ、この香りは……」
「お気づきになられましたか。はい、ご主人様を一番最初にこの洋館でお迎えしたときのと同じものです」
「あの、澄んでいて美味しい紅茶だね」
「はい、水もあの時と同じものを用意いたしました」
「さすが理紗さん」
その時にこの場にいなかった玲子だけが、少し残念そうな表情をしている。
髣艪フカップに注ぎ終えると、少しだけ湯を足して残りの三人のカップに紅茶を注ぎ直す。
四人分が揃ったところで、理紗たちが髣艪フ正面に整列した。
「これから、ご主人様のためのミニ・ティーパーティを開きたいと思います」
真ん中の玲子がそう宣言して頭を下げる。両隣の理紗と佳奈子も軽く頭を下げた後に、拍手して玲子の言葉を歓迎する。
「なんだか、勿体ないね。僕のためにありがとう」
「いいえ、とんでもありません。ご主人様がいてこそのわたしたちですから」
佳奈子がそう答えてくれる。
三人もそれぞれ自分の席に着き、いつもの食事時と同じように、髣艪フ「では、いただこうか」という言葉でお茶会が開始になる。
「僕は、どのお菓子からもらえばいいのかな?」
早速、髣艪ヘ皿に並べられている三種類の菓子に食指を延ばす。
「三人が一種類ずつ作りました。このクッキーが玲子ので、スコーンがわたしの、フルーツケーキが理紗の作ったものです。ご主人様のお好きなものからお召し上がり下さい」
「じゃ、最初は軽くクッキーをもらおうかな。玲子ちゃんが作ったんだね」
「はい。お菓子づくりは久しぶりだったので心配だったのですが、上手く焼けました……と思います」
一つつまんだ髣艪ェ口に運ぶのを、顔の前で両手を握りしめながら緊張した面もちで見つめている。
「うん、美味しいね」
「あ、よかったです」
玲子の顔がほころぶ。
「じゃ、わたしは先に理紗のケーキをもらっちゃおうかな」
そう言って、佳奈子がうす茶色になっているフルーツケーキに手を伸ばす。
「佳奈子、ご主人様よりも前に取るなんて」
「心配ご無用よ。もちろん、ご主人様の分をお取りしてからだから」
たしなめる理紗に切り返しながら、つまんだケーキは、体を伸ばして髣艪フ皿に置いた。返す刀で自分の分も確保したことは言うまでもない。
「今日は、ティーパーティのアイディアは玲子のだけど、紅茶といい、フルーツケーキといい、準備の主役は理紗なんです」
早速、ケーキを堪能しながらも、佳奈子はそうして二人を持ち上げる。
「でも、段取りをやってくれたのは佳奈子さんです。それに、お手紙を書いたのも」
「あ、今朝はびっくりしたよ」
そう説明する玲子に、髣艪ェ笑いながら言う。
「ご主人様のお仕事が大変そうですし、理紗との紅茶のお仕事にはわたしたちはお手伝い出来ませんから、せめて、こうした形でご主人様や出来れば理紗にも心を休めていただこうと思いました」
「ありがとう、素敵なメイドさんたちに支えられていることに感謝しないとね」
「そんな、もったいないです……」
自分にも向けられている気遣いを理紗も感じ取っているのだろう。髣艪フ手前、それを表だって受け取る様子は見せていなかったが、佳奈子と玲子が仲違いせずに済んだことも含めて、今の環境に理紗も感謝していた。
「うん、ケーキもスコーンも美味しいよ。佳奈子の言うとおり、お昼は軽くしてもらって正解だったね」
理紗の作ったフルーツケーキは、オレンジとシナモンで上品な甘さに仕上がっている。一方、佳奈子のスコーンもシンプルながら味が調っており、クリームを乗せてこれを食べると自然に紅茶が進んでいく。
「あ、髣艪ウまの紅茶がもうなくなっています」
「新しいのを、わたしが用意してきますね」
何となく慌ただしさも残る賑やかなティーパーティだったが、髣艪フ気分転換を図るという意味ではそれもよかったのだろう。
佳奈子と玲子が台所に戻り、取り残された形になった理紗に、髣艪ェささやいた。
「玲子と佳奈子はうまくやっているようで安心したよ」
髣艪焉Aやはりあの出来事の後を気に掛けていたのだろう。少し前に玲子が菓子を買ってきたことがあったが、表面上のものだけでなく、二人の関係が良好なものに戻ったのを感じて、髣艪煦タ心した。
「そうですね。ですが……」
理紗が口にするかどうか迷いながら、そんな言葉の断片を髣艪ノ向けていた。
「いや、分かっているよ。僕だってそれなりに考えている……、つもりだけど」
「はい、ご主人様はお優しい方ですから、二人のどちらにも悲しい思いはさせないと信じています」
「そうだね、頑張るよ。こんな風に気を遣ってくれたみんなのためにも、新しい紅茶も完成させないとね」
「そうですね、でも、こちらは焦らずに行きましょう」
戻ってきた佳奈子が、お代わりの紅茶を髣艪ノ注いでくれた。同時に、玲子はお菓子をひとセット、髣艪フ皿に載せてくれる。
そんなメイドたちに、髣艪ヘ心から感謝していた。
自分の作ったお菓子を髣艪セけでなく、他のメイドにも食べてもらう。このティーパーティでは、髣艪含めて誰もが主役であった。
しかしながら、髣艪フ新しいブレンド紅茶はなかなか完成に近づくことが出来なかった。
髣艪ノとっては、明確な締め切りのある仕事ではなかったために、最初のうちはあまり焦りを感じないで進めていたのだったが、年が明けてもほとんど進展がないとなると、徐々に行き詰まりを感じるようになっていた。
玲子たちがささやかなティーパーティを開いて髣艪精神面から支援してくれたことはありがたく感じていたが、そう思うだけに、順調に物事が進まないことに申し訳なさも感じていた。
年末年始は、髣艪焉A三人のメイドもそれぞれ帰省するために一斉に洋館を空けることになる。その時期でほどよい気分転換をして、新たな気持ちで再び仕事に取りかかることが出来ればよかったのであろうが、両親のもとでは、自分の年齢に応じたある種の圧力に辟易するところとなり、久しぶりののんびりした時間や母親の手料理というものがあったとしてもようやくそれでバランスが取れるという程度の安らぎしか感じることが出来なかった。
ある意味では、髣艪ヘ完全に親離れをしているのであろうか、それとも、両親と兄夫婦という、ひとつの世界が成り立っている家では、自分が他人になったような感じを覚えたというのが正直なところかもしれない。今の自分が、父親とは仲のよくない伯父の会社で働いているということも影響しているだろう。東京の会社を辞めて、洋館で暮らしていることはいつかは話さねばならないことだっただろうが、今回はそれを正直に言うことも出来ずに過ぎてしまった。
家の事情というものについては、例えば佳奈子のことなどを考えても、足るもの足らぬもの様々であるのだろうが、三が日が過ぎて戻ってきたメイドたちの帰省の話を聞いていると、彼女たちがうらやましく思えてもくるのだった。
二日のうちに、先に洋館に戻っていた髣艪ヘ、ここで暮らすようになってから初めて、一晩を一人だけで過ごすことになった。食事を含めた身の回りのことをほとんど自分ですることのなかった髣艪ヘ、細かな不便をいろいろと感じていたが、自分の意志で早めに戻ってきたことであり、それは仕方のないことであった。
同時に、当たり前のように佳奈子、理紗、玲子という三人のメイドがいて自分の生活の面倒を見てくれるということに改めて感謝の気持ちを持つ。そして、自室や応接間で一人の時間を過ごす際に、残念ながら順調とはいえない紅茶の仕事についてあれこれと考えを巡らせてみる。
それによって結論が出るものではなかったが、メイドたちから少し離れた場所で自分を見つめ直すことには多少の意味はあっただろう。
元々そういう性格ではなかったが、落胆しがちになる気持ちを表に出したり、メイドに対して不機嫌に接するようなことを髣艪ェしなかったのは、その時に彼女たちの存在のありがたさを再認識していたためだったのかもしれない。
正月特有の、のんびりした気分も徐々に薄れ、佳奈子の手作りの七草粥をみんなで食べるころには、すっかり、洋館での生活も今まで通りに戻っていた。
一方、残念なことに紅茶の開発も今まで通り、なかなか上手く進まないという陥穽に陥っていたのである。
理紗は茶葉の選定や入手に、佳奈子や玲子も間接的にではあったが、様々な形で髣艪手伝ってくれている。そのメイドたちの期待に早く応えたいという気持ちが、かえって焦りを大きくして進捗の妨げになっているのかもしれない。
「うーん、この味も今ひとつだね。両方の特徴が混ざってうち消しあってしまっているよ」
「そうですね……。やはり自己主張の強い葉は、複数は使わない方がよいのではないでしょうか」
「そうだね……。残念だけど、やはりこっちからの攻略は諦めた方がよいか……」
執務室の中で机に向かい、腕を組んで難しい顔をしている髣艪ェいる。住む場所と仕事場がこの洋館の中で一致しているという環境の中で、仕事とプライベートをより明確にしようという意志から、いわゆる就業時間中の髣艪ヘ常にスーツ姿で机に向かっている。この時の髣艪燉瘧Oでないが、紅茶のカップを前にしてそうして考え込んでいる姿にどこかミスマッチも感じられる。
佳奈子あたりに言わせると、そうしてワイシャツにネクタイといった姿の髣艪ヘ男らしくて格好いいということになるのだそうだが、髣芬ゥ身はそうしたものを意識してはいなかった。
もう一つ、サラリーマンそのものに見える髣艪フ姿と非対照的なのは、その髣艪ノ紅茶をいれて差し出しているメイド服の理紗の姿だった。
その理紗も、やはり不調の長期化もあってか、落胆を隠せずにいる。
理紗の紅茶をいれる技量については改めて論じるまでもなかったから、その理紗の手による紅茶の味が満足できないということは、そのまま、使っているブレンドの優劣に帰着することになる。
「なかなか上手くはいかないね」
もう何度も口にした言葉を髣艪ヘ発する。理紗も、素直に「はい」という答えることも出来ずに、小さく顔を頷かせるだけである。
「この前の、一度美味しく飲めたものの配合を考え直して、そっちからスタートしてみようか」
「そうですね。ですが、産地やグレードはこだわらずに、味と香りの近いものを試す方がよいかと思います」
「そうか、そういうアプローチは未だだったね」
少し前に、偶然といってもよいのだろうが、味と香りに及第点の出せるブレンドが出来たことがある。これを上手く商品化することが出来れば、完成ということになったのであろうが、この場限りの紅茶ではなく、安定的に供給出来ることも重要となる
「商品」
として考えなくてはならないときには、いくつかの課題が残るものとなって、その時は諦めざるを得なかったのだった。その理由の一つは、ブレンドの材料として使う茶葉の一つが、安定した供給の見込めない産地のものだったことである。もう一つは、非常にデリケートなブレンドであって、その味を完全に引き出すいれ方が難しかったということである。二点目は、ようやく見つけることの出来た美味しい紅茶の二杯目をもらおうとして、理紗が注いでくれたそれを口に入れたときに感じたことである。
「あ、これ……」
「はい、ご主人様……」
当然、理紗もそれには気が付いたようである。お互いを見つめている髣艪ニ理紗が同時に表情を曇らせた。
「さっきとは、味が全然、違っているね。あの美味しさからは数段落ちちゃうよ……」
「そうですね。紅茶を製品として考えた場合、あまりにもいれるのが難しいということになると厳しいでしょうね」
「というと?」
髣艪ヘ、「美味しい紅茶」を作ることを一番の目的としていたので、理紗の指摘が具体的にどういうことを意味するのかが理解できていなかった。
「紅茶を入れるのが、私や喫茶店のプロのように、きちんとした技術を身につけている人ばかりならよろしいのですが、お客様の全てが紅茶の専門家とは限りませんし、今回のように、同じ葉で何回か飲む人がいるのです」
「そうか……」
「はい、そうしたことを考えた場合、ごく限られた条件でしか美味が保証できないということになれば、商品化するのは難しいと思わざるを得ません」
「なるほどね……」
「特に、二杯目や、足し湯をした抽出液の質がよくないのは致命的です。一杯目を楽しんでいる間にポットの中で濃く出過ぎてしまった紅茶に、お湯を注ぎ足すという作法もあるのですから……」
「そうだね」
「はい、ご主人様の見つけられた今日の紅茶は、とても美味しかったので、私もとても残念です……」
その時はそんな会話をした記憶がある。理紗にとっても、この新しい紅茶の仕事には大きな思い入れがある。孝敬と比べれば紅茶の知識や経験が数段劣ることは否めない髣艪ナはあったが、この人と完成した紅茶を作りたいという気持ちは確固たるものがある。
「産地やグレードよりも味や香りを基準に、か……。理紗さんのアドバイスはいつも助けになるよ。ありがとう」
「ですが、結果が伴わないのですから、ご主人様に感謝されるのはまだ早いと思います」
「そうか……」
短期間で幅広く紅茶を含めた茶の知識を学んできた髣艪セったが、実際に紅茶を飲む場合にはメイドの用意してくれたものをそのまま味わっているというのが現実だった。そのためか、ブレンドの材料について考えた場合には、どうしても産地やグレードといった知識面からの選択がまず頭の中に浮かんでしまう。それに対して、理紗は、そうしたものにはこだわらずに、味や香りを素直に評価し、求めているものに近いものを選ぶ方が得策であると指摘している。
「もう一度、いくつか候補を選び出してみようか。理紗さんからもいくつか推薦してくれるかな。それが届くまでの間は、小休止だ。頭と口を少し休めよう」
「そうですね。大変失礼ですが、ご主人様には少し焦りが見えておいでです」
「……」
「申し訳ございません、出過ぎたことを申しました」
「いや、いいんだよ。理紗さんのように正しい指摘をしてくれる人がいてくれるのはいいことだし」
「ですが……」
「うん、確かに、理紗さんの期待に応えたいと無理しているところがあったと思う。それに、言葉には出さないし、僕の力のなさを責めたりはしないけど、佳奈子や玲子ちゃんにもずいぶん気を遣ってもらってると思うとね……」
「何をおっしゃるのですか、ご主人様は、逆に私たちメイドにも気を遣いすぎです。傍若無人に振る舞って欲しいことはありませんが、もう少し、気を許していただいてもよろしいかと思います」
そんな丁寧な物言いは変わらない理紗であったが、そこにはご主人様である髣艪敬愛する気持ち、心を共有したいという気持ちが強くあった。
「ありがとう。だけど、理紗さんたちメイドの三人には、本当によくしてもらっていると思っているんだ。そう思うと、なんだか僕には勿体なくて……」
「それが私たちメイドにとっても、ご主人様の大きな魅力だと思うんです。私もそうですし、他の二人はまた別の形であるのですが、単に、『仕えるご主人様への義務』以上の気持ちで私たちはご主人様のお世話をしているのを知っていてもらいたいのです」
「うん、それは分かっているよ。僕は、やっぱり不器用なのかな……」
「不器用というよりも、ご主人様は自分に厳しすぎる方なのではないでしょうか。高い倫理観に基づく行動原理を決して踏み外さない……、そういう面は、孝敬さまにも近いものがあるのではないかと思います」
「そうなのかな……。理紗さんには申し訳ないんだけど、いろいろあって僕と孝敬さんの交流はあまり深いものではなかったんだよ」
「はい、大旦那さまよりそれとなくお話は聞いております。ですが、孝敬さまは孝敬さまですし、ご主人様はご主人様です」
「ありがとう。理紗さんのおかげで、少し気が楽になったよ。他の仕事もいくつかあるし、僕なりにいい方法を考えてみようと思う。これだって、今までは何度か仕事上の困難を乗り越えてきた身なんだしね」
「はい、ご主人様のお仕事の有能さは私も信じております」
「そう面と向かって言われると、照れてしまうけどね」
「ふふ、そうですね。でも、今のような笑顔がご主人様には必要なのだと思います」
「うん、ありがとう」
残念ながら失敗作となった紅茶は、理紗によって台所に戻されてしまった。「勿体ないです」とちょうど台所で夕食の支度に取りかかろうとしていた佳奈子が飲み干してしまったが、彼女の評価には、髣艪思う気持ちによる補整がかかっていたから、それを信用することは残念ながら出来なかっただろう。
理紗とは違う形の、佳奈子や玲子の心遣いは嬉しかったが、それを素直に受け入れきることの出来ないことに、今の髣艪フ悩みがあるのだろう。
人格的にも能力的の両面で優れているとして構わない三人のメイドと髣艪ェ、かえってそうした気遣いの反射と連還を作り出しているという面があるのかもしれない。
性格も容姿も異なる、同じ服装の三人のメイドがいるという環境は、それでも髣艪ノ大きなものを与えていたのだろう。
そんな髣艪、佳奈子や玲子も支えようとしていた。
髣艪フ仕事に関しては深く知っているということもない二人だったが、理紗との会話や年明け前後から漂う洋館の雰囲気の中で、あまり上手くいっていないことを感じていた。
理紗については、直接的に髣艪フ大きな力となっているようであったが、佳奈子と玲子は同じ形で髣艪支えることが出来ない、そうしたもどかしさを感じていた。
そんな時の二人は対照的なものであった。佳奈子はあえて自分の仕事を淡々とこなすことによって髣艪フ暮らしの面から支えになろうとしていたが、玲子はというと、日頃の会話を通じて積極的に髣艪励まそうとしている。
ただ、残念ながらそれは髣艪フ成果には結びついてこなかった。もう少し詳しくいうと、佳奈子と玲子の彼女なりの支えや励ましは確かに髣艪フ心に届いてはいるのであったが、その結果として紅茶の完成という、皆が求めているところまでは到達していない。髣艪フ表情や仕草に焦燥感が見えていると、二人もまた悲しくなってくるのであった。
「す、すみません、佳奈子さん」
そんな冬の日の昼下がりに、庭に出ていたはずの玲子が駆け足で洋館に戻ってきた。そして、掃除をしている佳奈子のいる部屋を探し回り、ようやく応接間に見つけた。
部屋の中にある置物の埃をはたきで払っていた佳奈子が、そんな慌てた様子の玲子の方を向く。
「どうしたの、そんなになって?」
走ってきたために微かに乱れているリボンに気付き、それを直しながら玲子が答える。
「佳奈子さんにお手伝いして欲しいことがあるんです」
「わたしに?」
「はい、今朝はまだ晴れていたので洗濯物を外に干してあるのですが、急に雲行きが怪しくなって、さっきから少し降り始めてきているんです。中に戻さなきゃいけないのですけど、わたしひとりだと間に合うかどうか……」
「あら、本当ね。こんな天気になっちゃったのね。わかった、急いで手伝うね」
「はい、ありがとうございます」
玲子が来たときと同じように急ぎ足で再び外へ向かう。佳奈子は手にしていたはたきをテーブルの上に置いてからそんな玲子を追いかける。
冬のどんよりした曇り空から、時々冷たいものが落ちてきているのが分かる。
「これは、急がないとね」
「はい、本当に申し訳ありません」
玲子が恐縮するが、佳奈子の方は気にする様子はない。
「いいのよ。それよりも、ご主人様のお洋服を濡らしてしまったらそっちのほうが申し訳ないわよ」
「そうですね」
髣艪フ物を優先して、次にこの場にいない理紗の分を取り込む。二人が一往復してそれを庭に面した応接間にひとまず置いてくると、もう一往復で残りの自分たちの分を戻す。生乾きでまだ湿り気と冷たさの残っている衣類はお世辞にも気持ちよいものということは出来ない。
「お天気、見誤っちゃいました……」
玲子が自分の失敗を悔しがって言う。最近はほとんどメイドの仕事もミスをすることなくこなしていただけあって、悔しがる気持ちも大きいのだろう。
「そうね。でも、朝はあんなに晴れていたんだから仕方ないよ。メイドは完璧な『お天気お姉さん』ってわけじゃないんだから」
「そ、そうですね……」
庭と洋館の間を三往復駈けている玲子は、少し息が乱れているようである。冬の空気の中で吐く息が白い。
余談であるが、佳奈子は「気象予報士」という言葉にはあまり親近感が持てないようである。子供の頃から見ている朝のニュースに出ていたアナウンサーが佳奈子の天気予報のイメージであり、そのアナウンサーが「お天気お姉さん」と呼ばれていたのだそうだ。更にいうと、ビジネスマンや保母、看護婦などの親しみのある言葉を歪んだ平等意識でビジネスパーソン、保育士、看護士などと呼び変えることも好きではないらしい。佳奈子曰く、そうした人たちは仕事というものの本質を知らず表面上でしか物事を捉えられない、仕事への誇りも足らないのだそうだ。メイドとしての仕事に誇りを持っている佳奈子にとっては大きな疑問であるのだろう。あまりそうした言葉に疑問を感じていなかった玲子は
「なるほど」
と感心したものである。ともあれ、なんとか洗濯物は濡れずに洋館に取り込むことが出来た。
幸い、雨はまだ本降りになっておらず、時々、細かな雫の冷たさが手の甲や顔に感じられる程度である。
「あれ?」
その時、玲子がそう言って顔を空に向けた。灰色の雲が厚く空を覆っていたが、それでも見上げれば多少のまぶしさは感じられる。
「どうしたの?」
「佳奈子さん、雨だと思っていたら違うみたいです」
そう言って、玲子は左腕を伸ばして紅茶色のメイド服の袖を注視する。
そこへ何度か、空から粒が落ちてきたが、それは水滴ではなく、小さな氷の結晶であった。
「あっ、雪みたいね。珍しいなあ」
佳奈子も小雪が舞っていることに気が付いたようである。とはいえ、気を付けて観察しないとそうであることに気付かないほどのものである。
「こっちでも雪は降るんですね」
九州は暖かいという先入観のある玲子が言うが、佳奈子は笑いながらそんな玲子に教える。
「そうね、こっちでもひと冬に何回かは降るのよ。積もることはほとんどないんだけどね。東京や大阪ともあまり変わらないんじゃないかな」
「そうなんですか」
「うん。内陸の山の方だとそれなりに降るし、わたしの住んでいた福岡あたりだと、意外に大雪になったりするのよ。ほら、地図を思い出してみると分かるけど、福岡って日本海側なのよ」
「あ、言われてみるとそうですね」
新たな事実に気が付いたという表情で、玲子が佳奈子を見る。
「どおりで寒いわけね」
冷たくなってきた手を擦りながら、佳奈子が言う。冬用のメイド服は割としっかりした布地で作られていたが、外で過ごすにはさすがに適さない。
「洗濯物、いつまでも応接間に放っておくわけにはいかないし、もう戻ろう?」
「はい、そうですね。佳奈子さんのおかげで助かりました」
「いいのよ、それより、洗濯室に干し直しね。わたしたちの分は自分の部屋でもいいかな」
洗濯機の置いてある部屋に紐を渡せば、なんとか取り込んだ物を乾かすことは出来るだろう。玲子はまだ知らないが、梅雨時にはこれまでも何度か世話になったことがある。ただ、狭いので四人分をここで乾かすことは出来ない。
「そうですね」
佳奈子と玲子が、並んで洋館へ戻っていく。二つの籠で髣艪ニ理紗の服を洗濯室まで運び、順番に吊していく。
「ご主人様のお仕事、なかなかうまくいかないのかな……」
手を動かしながら佳奈子が言い始めた。
「はい、わたしも新しい紅茶を作るお仕事ということしか知らないのですが、最近の髣艪ウまを見ていると、そう感じてしまいます」
「簡単な仕事じゃないんでしょうけどね」
「励まし以外に何もすることが出来ないのが、ちょっと悔しいです」
玲子も作業を続けながら、少し沈んだ声で言う。
「それに、髣艪ウまはお仕事が上手くいかないときでもあまり気持ちを外にお出しにならないですから……」
「そうだよね、なんか、わたしたちメイドの方が気を遣ってもらっちゃってるみたいで。かといって、ご主人様に八つ当たりされても嫌だけどね」
「髣艪ウまはそんなことはなさいません!」
思わず、玲子が声を大きくしてしまったが、そんなことは佳奈子もよく知っているのは言うまでもない。
「当たり前でしょ。落ち着いて、玲子」
「そ、そうですね、すみません……。でも、そんなときにわたしたちに何が出来るのかなって考えてしまいます。理紗さんのように髣艪ウまのお仕事の手伝いは出来ませんし……」
「わたしたちに出来ることをするしかないのかな、って最近は思うの。仕事の時間以外ではご主人様になるべく快適に過ごしてもらえるように、って」
「はい。出来れば髣艪ウまをもっと励まして差し上げたいんですが……」
「玲子の気持ちはよく分かるよ。でも、ご主人様のような人だと、それがかえってプレッシャーになっちゃうかもしれないから気を付けないとね」
「そうですね。時にはわたしたちに愚痴を言って下さってもいいのに……」
「玲子はいいお嫁さんになりそうね」
「えっ、わたしが髣艪ウまのお嫁さんですか?」
顔を真っ赤にして玲子が言う。
「あら、単なる一般論よ。いつご主人様のお嫁さんって言った?」
「そ、それは……」
赤くなった玲子を佳奈子がからかって楽しんでいる。真面目な二人ではあるが、あまり深刻さは似合わないだろう。
「ま、玲子は玲子のやりかたでご主人様を助けるのがいいのよね。わたしも、自分の仕事をきちんとこなすことでご主人様の支えになりたいって思ってるし。みんな同じ方法だったら、三人いる意味が少なくなっちゃうしね。三者三様、と」
「そうですね。佳奈子さんも、髣艪ウまのことを気にしていて、嬉しいです」
「な、何を言ってるのよ……」
今度は佳奈子が慌てる番であった。
「でも、本当に、早くご主人様のお仕事が順調に進むようになるといいですよね」
「そうよね」
そんな会話をしながら仕事を進めるうちに、自分たち以外の洗濯物は干し直すことが出来た。今度は部屋に戻り、自分の分を部屋に干す必要がある。
「こっち、持っていこうか」
「はい」
二人は籠を手にして、二階の自分の部屋へ向かっていく。
「そういえば、玲子は東京の喫茶店にいたとき、よくご主人様とお話ししてたんでしょ?」
「あ、はい」
「その時のご主人様も、いつも仕事帰りだったんだよね。玲子に会社の愚痴を言ったりはしなかったの?」
「うーん……、それはなかったかもしれません。いつも遅い時間だったので、『大変ですね』『そうだね』っていうやりとりくらいはしたことがありますけど、具体的にどんな仕事がどのくらい大変かっていうのは聞いたことがなかったです」
「そうなんだ……。じゃ、ご主人様がこっちでは常にわたしたちに気を遣っているというわけでもないのかな」
「はい。東京の会社にお勤めになっていたときは専門的なお仕事だったそうですから、お友達やなじみの店員さんにもあまり話せなかったのかもしれないです」
「なじみの店員」というのは玲子自身を指すことはいうまでもない。
「うーん……」
佳奈子の部屋の前まで来たところで立ち止まり、右手を握って頬に当てるような仕草で考え込む。
「やっぱり、わたしたちに出来るやりかたでご主人様を支えてあげないとね。立派なご主人様を『支えてあげる』なんて図々しいのかもしれないけど」
「でも、わたしも、少しでも髣艪ウまのお役に立ちたいです」
「それはわたしも同じよ。だから、頑張ろうね」
「はいっ」
頬に当てていた手を開き、軽く玲子に振ってみせた。二人は自分の部屋に半渇きの洗濯物を干し終えると、再び元の仕事に戻っていった。夕方は、さっきのお返しに玲子が佳奈子の夕食の準備を手伝ったのだった。
物事が好転するきっかけというのは、ささいなところにあるのかもしれない。
髣艪心配していた佳奈子と玲子の会話があった日から数日後、ようやく、そんなきっかけというものを手に入れることが出来たのである。
この日の夕食は、いつものように佳奈子によるものであったのだが、普段とは少し趣を変えて、純和風で揃えることにした。どちらかというとそうしたジャンル分けよりも、使う食材の栄養バランスや味付けの濃淡などにこだわっているこの洋館の食事の中で、考えてみるとそれは珍しいことでもあった。メイドたちは勿論のこと、髣艪燔a洋中といったジャンル統一にはあまりこだわらず、かえってその方が家庭料理らしくて嬉しいと言っていたから、献立を考える佳奈子たちにとっても助かっているという面があった。
それに気が付いた佳奈子は、あえてこの日は和風で揃えてみたのだった。肉じゃが、ひじきの煮付け、だし焼き卵、薄味に仕立てた大根などの基礎的な料理だったが、品数を増やすことで食卓を賑やかなものにしていた。
「お疲れさまでした、ご主人様」
「ありがとう。今日もちょっと疲れたな。おや、今日は純和風なんだね」
「はい、たまには統一感のある食事もいいかなと思いまして」
「今日は佳奈子の担当?ずいぶんと数が多いけど」
「はい、ちょっと頑張っちゃいました」
佳奈子が髣艪フ前でガッツポーズをしてみせる。
「佳奈子の料理の腕はさすがだね。これだけあると手際よくやらないと出来ないよね」
「ご主人様にそうして褒めていただけるのが、わたしにとっては一番のご褒美です。でも、褒めてくださるのなら、召し上がっていただいてからの方が嬉しいです」
「そうだね、お腹も空いてるし、早速」
「はい」
理紗と玲子も「美味しそう」と言いながら席に着く。佳奈子の言う「自分の出来ることでご主人様を支える」というのはこういうことを言うのだろうと玲子も感じていた。
食事が始まる。
勿論、佳奈子の作った食事の質は外見に留まるものではなく、味の方も期待に違わぬものであった。どうやっても失敗することのない肉じゃがなどは当然であるが、だしの取り方の優劣が味に直結する卵焼きや大根についても申し分なく、珍しいことに理紗さえも夢中でその味を堪能していた。
「お茶、もらえるかな」
今日は飲み物にもこだわっていて、この茶園のものである緑茶を食事と一緒に用意していた。
髣艪ェ湯飲みを佳奈子に差し出すと、それを受け取って急須から新たに注ぐ。
「やっぱり、日本料理には緑茶ですよね」
隣の玲子が言う。
「そうね。わたし、紅茶だけじゃなくて緑茶も結構、好きだし」
「あ、そうなんだ」
「はい。でも、出来れば今はお茶よりも食事の方を味わってもらいたいです」
「勿論、そうさせてもらっているよ。おかわり、もらえるかな?」
髣艪ェ、今度は茶碗を玲子に差し出した。
「わ、髣艪ウま、召し上がるのが早いです。わたしなんか、まだ半分も食べてないのに……」
「今日はお腹が減っているからかな。ついつい、急いで食べちゃったよ。おかずもどれも美味しいしね」
「ありがとうございます」
しゃもじでご飯を盛りつける玲子を見ながら、佳奈子が嬉しそうに言う。自分の作った食事が好評であることは勿論嬉しいのだが、髣艪ノ言葉で褒められるのはまた特別の意味を持ってくるのだ。
「玲子さん、私にもおかわりをいただけるかしら」
山盛りのご飯を受け取った髣艪ニ交代に、隣にいる理紗が今度は玲子に茶碗を差し出した。
「えっ、理紗さんも今日は早いですね」
「私も、お腹が空いていたみたいね」
笑いながら理紗が言う。
「お茶の方もどう、理紗?」
髣艪フ分を注いだ後、まだ少し残っていたようで、佳奈子が理紗にもお茶を勧める。
「はい、いただくわね」
理紗がそんな気遣いに応える。
「お茶というと、わたしは何故かお寿司というイメージがあるんですよ」
佳奈子と理紗のやりとりを見ながら、玲子が思い出したようにそんなことを言った。
「あの、魚の名前がたくさん書いている湯飲みとか?」
「あ、それです!」
「お寿司って生のお魚ですから、ガリと一緒でお茶を口直しにして次を食べるのがいいみたいですね」
「なるほど」
髣艪ェ相づちを打つ。
「なので、お寿司屋さんのお茶は少し濃いめに入れるのだそうです」
「そういうことなんだ」
「洋食の場合も、次の料理に移る前にワインで口直しをしたりすることがありますね」
「そうだね」
「よく、ドラマの食事のシーンなどで出てきますよね。あ、でも、理紗さん?」
「はい?」
「洋食のコースを食べる人が皆さん、お酒の飲める方ばかりとは限らないと思うんですが、そういう方の場合はそうされるのでしょうか?」
「そうね、それほど味が強い料理でない時はお水をワイングラスで出すことが多いけれど、自己主張の強い料理の時はアイスティーなどを出すこともあるわね」
「ワインの代わりに、ということですね」
「そうね。軽い味の紅茶で口直しをするのがセオリーかもしれないわ」
紅茶の話になって、理紗がやや饒舌になったように感じられる。玲子は素直にそんな理紗の知識に感心して聞き入っている。
「なんとなくですけど、イメージが分かります」
「中華料理でも、烏龍茶やジャスミン茶が同じ役を果たすことがあるよね」
佳奈子もその話題に乗ってくる。三人とも食に関しての興味が尽きないのは、さすがメイドだといったところであろうか。髣艪熹「を進めながらそんなメイドたちの会話を楽しそうに聞いている。
「お料理は違っても、そうした共通のものってあるんですね」
「そうね、紅茶っていうと、イギリス式のティータイムが最初に思い浮かぶけど、食事のアクセントや食後のデザートと一緒に味わうものもあるしね」
「日本でもお抹茶があるし、中国でも聞茶っていう独特の作法があるわよ」
理紗と佳奈子がそうした指摘をする。
「でも、考えてみるとそれも当たり前かもしれませんね。紅茶も日本茶も、製法が違うだけでもともとは同じお茶の葉を使うんですもの」
「そうね、品種の違いはいくらかあるけど」
「でも、そうだとすると、意外に今日みたいな和食に合う紅茶なんていうものもあるかもしれないですよね」
純粋な思いつきだったのであろうが、卵焼きを食べる手を止めていた玲子が、顔を僅かに傾けながらそんなことを言った。
「同じ、お茶の葉か……」
三人の話すに任せて、何気なく聞き流しかけていた髣艪ェその玲子の言葉に心を留めた。
「あ、ひょっとすると……」
「どうなさったのですか、ご主人様?」
自分たちの会話に夢中になっていたことに気が付いた佳奈子が、申し訳なさそうにしながら髣艪フ方に顔を向けた。
「今、理紗さんと進めている新しい紅茶の仕事のヒントになりそうだよ」
「えっ、ヒントですか?」
「うん、いろいろな紅茶のブレンドを試してきたけど、なかなか上手くいかなかったんだ。だけど、それを必ずしも紅茶だけに限る必要はないかもしれないって思って」
「確かに、その通りかもしれませんね。私は考えてもみませんでした」
理紗がやや驚いた表情でその思いつきについて考察してみた。理紗の紅茶に対する知識や作法は高い水準のものであったが、そのために見方が固定的になってしまっていたのかもしれない。そして同じ陥穽に髣艪烽ヘまっていたともいえるだろう。玲子の指摘は素人考えかもしれなかったが、確かに新鮮みのあるものである。
「明日、試してみようか?」
久しぶりに明るい表情になって、髣艪ェ隣の理紗の方に顔を向けた。
「そうですね。仮にうまくいかなくても、新しい候補を探すきっかけになるかもしれません」
「玲子ちゃん、ありがとう。それに佳奈子も」
「あの……、わたしは髣艪ウまのお役に立てるのが嬉しいです」
玲子が言葉通りの表情を向けてくれる。
「えっ、わたしもですか?」
一方、隣の佳奈子の方は自分が何故、髣艪ノ礼を言われたのか掴みかねているようである。
「うん、佳奈子が今日の献立をこうして考えてくれたからこういう話になったんだと思うし」
「そんな、ご主人様にそう言っていただけるのは嬉しいですが、買いかぶりですよ」
「でも、最近、仕事の進みが順調じゃない僕に気を遣ってくれたんだと思うから、佳奈子だけなく玲子ちゃんや理紗さんにも感謝しているよ」
「ご主人様のそのお言葉は嬉しいのですが、まだ少し気が早いと思います」
「そ、そうだったね……。ちゃんと結果を出してからじゃないと……」
「はい。ですが、そうしてご主人様が気を掛けて下さるのはとても嬉しいです」
理紗が優しい表情になっているので、髣艪煦タ心した。
「とにかく、明日になったら試してみるよ。今は、みんなで佳奈子の料理を楽しもう」
「はい、そうですね」
そんなメイドたちの笑顔に、改めて髣艪ヘ心が癒される気持ちになるのだった。
翌日、早速、髣艪ヘそのアイディアを試してみることにした。
これまでのブレンドに僅かだけ緑茶の葉を加えてみることにする。緑茶特有の味の深みがうまく加われば、紅茶としての上品さを残しながら味に奥行きが深まるのではないかという期待があった。
「どうだろう、理紗さん……」
砂時計の砂が落ちきったところで、理紗がティーカップにその新しい紅茶を注いでみる。執務室の中に静かに漂う香りは、これまでのものとそう変化しているようには感じられない。
「飲んでみよう」
「はい……」
髣艪ニ理紗が、同時に紅茶を口に運ぶ。
「……」
だが、残念ながら二人の口からは肯定の言葉は出てこなかった。静かに首を左右に振る。
「上手くいかないね」
「そうですね、どちらかというと緑茶の渋みの方が表に出てしまっていますね」
「見た目は悪くなかったんだけどね……」
髣艪ェ落胆する。昨晩の食事の席では期待感があっただけに気落ちも大きくなりそうであった。
「ですが、ご主人様。まだ可能性は残っていると思います」
隣に座って、しばらく考え込んでいた理紗がそう言って髣艪励まそうとした。昨日、自分の言った「仮にうまくいかなくても、新しい候補を探すきっかけになるかもしれません」という言葉通りの考えが思い浮かんだのである。
「あ、そうか……」
同じことに髣艪煖C付いたようである。二人が思い出したのは、おそらく同じ言葉だったであろう。
「紅茶も日本茶も、製法が違うだけでもともとは同じお茶の葉を使うんですもの」
これも、昨日の食事中の玲子の言葉だった。今、緑茶をブレンドするという試みは残念ながらうまくいかなかった。緑茶特有の苦味が出てしまったからである。では、発想を転換させてみたらどうであろうか。髣艪フ目指す味を実現できるような既存の葉が、候補に挙がっていたいろいろな産地の紅茶からは得られなかった。だとすれば、新しくそうした紅茶の葉を手に入れることを考えてみたらどうだろう。いうまでもなく、ここ川辺茶園には茶畑があって、緑茶を産して商品として売っている。この葉を材料に、緑茶ではなく紅茶を作ってみたらどうだろうか。
「そして、それをブレンドの材料に使ってみようと思うんだ」
髣艪ェ自分の考えを理紗に語る。理紗は、再び先入観に捕らわれていた自分に気付かされることになった。
「ご主人様のお考えを、是非、試してみたいと思います。私には全然考えつかないことでした」
「えっ、そうなの?」
強い理紗の話し方に、髣艪ェ驚きを覚えて思わず問い返す。
「実は、孝敬さまがいらしたころ、同じようにこの茶園の葉を使った紅茶を作ろうとしたことがあるのです」
「そうなんだ」
「はい。ですが、出来上がった紅茶は渋みが強すぎて、紅茶として楽しむには難があるものになってしまったんです。ですから、ここの葉を紅茶にするという考えは私の中からはなくなってしまっていたのです」
「でも、その話が本当なら、今の僕の考えは……」
再び落胆に戻りそうになっていた髣艪、理紗が大きく首を横に振って引き戻した。
「それは、その紅茶単体でいただこうとした場合です。ブレンドの材料として使うのでしたら、可能性は充分にあると思います。それに、製法を少し工夫して渋みを抑えるようにも出来るかと思います」
「そうか、安心したよ。でも、これもやっぱり試してみないと分からないよね。確か、設備はあったと思うけど……」
「はい、お茶の葉も、まだ時期は早いのですが出来るだけ育っているのを選べば試作品くらいの量でしたら用意できると思います。あと、ここの設備は製造ラインとは違いますので、発酵の過程を見守る人が必要なのです」
「それは僕が……」
そう言いかけた髣艪フ言葉を、理紗が丁寧に制した。
「あの、差し出がましいことなのですが、それを佳奈子と玲子さんにさせてあげられませんでしょうか?」
「えっ、佳奈子と玲子ちゃんに?」
会社の仕事に直接は関わらない二人の名前が出て、髣艪ェ問い返した。
「出来れば、あの二人にもこの紅茶の完成に関わらせてあげたいのです」
「そうだね……」
「根拠はないのですが、きっと、このご主人様の試みはうまくいくと思うんです。だからこそ、そのヒントをくれた佳奈子と玲子さんに、手伝いをさせてあげたいんです」
「うん、製茶に関しては僕も素人同然だから、代わりに二人にやってもらっても変わらないだろうしね。それは理紗さんに任せるよ」
「ありがとうございます」
「ううん、僕も出来るなら、喜びをこの洋館のみんなで共有したいと思うしね。あ、勿論、理紗さんの言うようにこれが本当に上手くいけばだけど」
「はい、きっと大丈夫です」
理紗の顔は自信に満ちていた。それを見ると、髣艪熕S強くなってくる。仕事というものは、携わる者の能力が必要なのは当然であるが、より高い水準の結果を出すためには、同じく携わる者の心意気というものも必要になってくるのであろう。理紗はそうしたことに直感的に気が付いたのかもしれない。
「しばらく、そのまま様子を見ていてね。気になることがあったら、ご主人様のところにいるから呼びに来てもらえるかな」
三人懸かりで探してきた葉を紅茶に仕上げるための工程に入る。
理紗から操作を教わった佳奈子と玲子の二人は、いつものメイド服姿で、期待に満ちた表情で出来上がりを待つ。
「ご主人様のお仕事、成功するといいね」
「はい」
二人は、それぞれ別の思いを目の前の葉に託していた。徐々に中の葉が自分たちの服と同じ色に変化していく。
そして、出来上がった紅茶の葉を、大事に抱えて髣艪フところへ持っていく。食堂に髣艪ニ三人のメイドが集まっている。執務室に四人が入るのは手狭だったので、場所を移したのである。適温で用意された湯をポットの中に注ぎ込み、抽出時間を計る。四つのティーカップを温めるための湯が緩やかな水蒸気を立ちこめさせている。
そんなテーブルに向き合うようにした三人が、緊張の面もちで砂時計の砂を見つめている。
「そんなにして睨んでいたら、砂が落ちるのが止まっちゃうかもしれないよ」
髣艪ェ苦笑混じりで理紗たちに言う。何度も失敗を続けてきた髣艪ニ比べると、この瞬間に限れば紅茶の出来が一番気がかりに思えるのが佳奈子と玲子なのだろう。勿論、理紗もこの紅茶に賭ける期待に遜色はない。
「そ、それはそうなのですが……」
ポットの中では、ジャンピングと呼ばれる対流による紅茶の均質化が行われているのだろう。そうした茶葉の動きすらを想像しながら、佳奈子と玲子が紅茶の抽出を待っている。
「わたしたちの紅茶が、形勢逆転の一助になるといいのですが……」
洋館の全員が、一体感を持って紅茶を待っている。理紗が二人を関わらせた意味が髣艪ノもよく分かった。だが、一方で髣艪ヘ大きなプレッシャーも感じている。これだけの期待がありながら、味がそれを裏切った場合には彼女たちを大きく落胆させてしまうのではないだろうか……。
ちらと横目で理紗を見たが、理紗は泰然としていた。
「動かざること山の如し、ね」
「ええ、自信がありますから」
普段の理紗は大言壮語からはほど遠い。それを知っているだけに、佳奈子はそんな理紗に圧倒されているようにも見える。
髣艪フ言葉に関わらず、時間は確実に過ぎていき、砂時計の上部にあった白い砂はついに下に落ちきった。
四人分のティーカップを温めていたお湯は既に捨てられて、理紗の手にあるポットから注がれるのを待つばかりである。
注ぎ口から漏れ出る葉を受けるための小さなネットを左手に持ちながら、並べた四つのカップに均等に紅茶を注いでいく。普段飲んでいるものよりも若干濃いめの色と、僅かに独特の風味のある香りが髣艪スちの期待を高める。
注ぎ終えた理紗がテーブルの脇に空になったティーポットを置く。その間に、佳奈子と玲子がカップをそれぞれソーサーに乗せ、四人の目の前に置く。
正式な紅茶の席ではなく、一刻も早く結果を知りたいこともあってか、髣艪ニ三人のメイドは立ったまま紅茶に手を伸ばし、ゆっくりと口元へ運んでいった。
髣艪ヘ、目を閉じて感覚を嗅覚と味覚に集中させようとする。
理紗も同じように目を閉じて、白く細い手でカップから紅茶を口に含む。
佳奈子は華奢な手で間近の琥珀色の液体を見つめながらそれを飲み込む。
玲子は、そんな三人を見比べて、若干おどおどした様子で飲み始める。
「……」
「あ、美味しいね」
最初に口を開いたのは、佳奈子だった。
「はい、わたしも美味しいと思います」
固くなっていた玲子の表情が緩み、花が開いたようになる。
「はい、私もそう思います」
少し遅れて理紗も合格点を出した。
「そっか、じゃあ、僕の贔屓目じゃないってことだね」
「はい、大丈夫です。ひとまずのところは」
理紗がまだ半分以上残したまま、カップをソーサーの上に戻す。
佳奈子と玲子はこの味が気に入ったらしく、自分の分を全て飲み終えてしまった。
「よかったです、本当に……」
玲子が言うが、佳奈子は何かが引っかかったような表情を隠せずにいた。
「理紗の『ひとまずのところは』っていうのが気になるけど……」
「あ、それはね……」
髣艪ェ佳奈子に説明を始める。
「今の紅茶は、理紗さんがいれてくれたものだから、いわば最高の状態で出されたものなんだ。でも、実際の家庭では常にそうだとは限らないから、いくつかの条件でも味が極端に落ちないものじゃないと、商品には出来ないんだよ」
「あっ、言われてみると確かにその通りですね。こういう言い方は高慢かもしれないけれど、どのご家庭でも理紗と同じ技量があるとは限らないですし」
「そう、お湯だって、湯沸かしポットのものを使うかもしれないし、葉の後始末を嫌って、紙パックに葉っぱを包んで使っているかもしれない」
「そうですね」
「だから、そうした条件も試してみないとならないんだ」
隣で理紗が頷いている。紅茶を愛する理紗にとっては少し複雑な心境かもしれない。
「それでしたら、わたしがお手伝いします」
「でも、玲子だって喫茶店の一人娘でしょ。理紗には敵わないといっても」
佳奈子が指摘する。
「いいえ、髣艪ウまのおっしゃる『条件』をわたしが試してみようと思います。それでも味がそんなに落ちなければ大丈夫なんですよね」
「そうだね」
「ここまで来たのですから、きっと上手くいくと思います。ですから……」
「そうね、私がその条件をいくつか考えてみるわ。紅茶を葉っぱで入れようとする人ですから、あんまりおかしな条件は必要ないでしょうし」
こうして、メイドがわざわざ「美味しい紅茶を入れる方法」に反して何度か紅茶を出してみた。当然、最初の理紗のものと比べると多少、味が劣化してはいたのだが、少なくとも「美味しくない」と思うようなものは出来上がらなかった。
こうしてようやく、髣艪フ挑戦した新しい仕事の結果を出すことが出来たのである。
それを喜んだのは、髣艪謔閧熹Jろ、理紗を始めとした、彼を敬愛するメイドたち三人の方であった。