高津本陣 高津本陣 Web Page 〜創作中心個人サークルの総合案内〜

第8章 かささぎの橋

 それから何度か検証が行われ、髣艪フ開発した紅茶の味と質に自信が持てるようになると、正式に川辺茶園の社長である雄一に報告を上げた。

 紅茶を作り出す過程では慣れないことの多かった髣艪焉A報告書や分析書の類を作ることは手慣れたものである。紅茶が出来上がったという達成感もあってか、数日のうちに完成させてしまった。理紗はその手際のよさを見て、この面での髣艪フ有能さに改めて敬服するのであった。

 本社に届けられた紅茶のサンプルは、商品開発部門によって再び検証され、そこでもその質は認められた。社長の雄一も紅茶の完成を喜び、改めて一度こちらに来てその紅茶を味わう機会を設けたいという話を伝えた。

「髣艪ュんには慣れない仕事で大変だったとは思うが、期待していた以上のものが出来てよかったよ」

「ありがとうございます。ですが、今だから言えるのですが、私一人では手に余る仕事だったと思います。日置さんをはじめ、この洋館にいるメイドたちの励ましがあってこその完成だったと思います。どうか、彼女たちにも社長から直々にお褒めの言葉をいただけないでしょうか」

 本社との電話で社長の雄一と話している髣艪フことは、理紗もやはり気になるところかもしれない。そんな髣艪フ心遣いに理紗も嬉しくなって顔をほころばせていた。

「そうだな。私も髣芟Nがいることに安心して、洋館の方へはなかなか足を運ばずに申し訳なかったと思っているよ」

「いいえ、とんでもありません。ですが、おかげさまで日置さんや松山さんたちに快適に暮らさせてもらっています」

「それなら安心だよ。そういえば、一度報告があったが、新しいメイドを一人雇ったと聞いていたが……」

「はい、彼女……大崎さんもよくやってくれています」

「そうか。そうだな、それならどうだろうか、一度そっちに行って、その新しい紅茶を振る舞ってもらおうと思うのだが、どうだろうか」

「ありがとうございます。その時に社長から三人に言葉を掛けていただければ喜ぶと思います」

「そういうことなら、是非、招かれることにするよ」

「はい、よろしくお願いいたします。スケジュールの都合がつきましたら教えてください」

「そうだな、確認してみる」

 受話器を置いた髣艪ェ隣にいる理紗に顔を向ける。

「聞こえていたと思うけど、社長が来てくれることになったよ。今回の紅茶のことでは、理紗さんだけじゃなく佳奈子や玲子ちゃんにも支えてもらったしね」

「ありがとうございます。でも、やはり全ての決め手はご主人様の仕事ぶりにあったのだと思います」

「理紗さんにそう言ってもらえると僕はほっとするよ」

「よかったです……」

 理紗の表情が、かすみ草が花開いたような穏やかで優しいものになる。理紗にとっても、この紅茶の完成は大きな価値を持つものだったであろう。孝敬のことを思い出しながらも、この洋館と髣艪ェ与えてくれた大きな喜びを感じている。心の中で、ようやく完成させたこの紅茶を孝敬にも捧げているのであろう。

「予定が決まったら、理紗さんたち三人で、あの紅茶で社長を歓待したいと思うんだ」

「はい、よろこんでお手伝いさせていただきます。もちろん、佳奈子や玲子さんも同じ気持ちだと思います」

「そうだね、本当によかった。食事の時にでも二人に伝えようか」

「はい、そうですね」

 そんな理紗の表情を見て、髣艪ヘ改めてやり終えた仕事への充実感を噛みしめるのであった。

「いらっしゃいませ、大旦那さま」

 駅から車を運転してきた佳奈子が、手早く反対側の後ろに回ってドアを開ける。高級なカシミアのコートを手に持った、グレーのスーツ姿の雄一がゆっくりと足を外に出し、洋館の玄関前に立つ。

 髣艪フ両側を挟むようにして、玲子と理紗の二人が玄関を背にして雄一を迎える。

「こちらまで、お疲れさまでした」

「久しぶりにお会いします、大旦那さま」

 玲子と理紗が交代で雄一に言う。

「私の頼みを聞き入れてくださって、ありがとうございます」

 髣艪焜Xーツ姿で、社長の雄一を一礼して迎える。

「いやいや、こっちもまだ寒いね」

「そうですね、春まではまだ少しあるのではないでしょうか」

「そうだ、君が新しいメイドさんなのかね?」

 雄一が、玲子の方に顔を向ける。

「あっ、はい、申し遅れました。初めまして、こちらで働かせていただいております、大崎玲子と申します」

 玲子が雄一の方に向かって深くお辞儀をした。メイド服のスカートとリボンが軽くたなびく。

「髣芟Nから、話だけは聞いていたんだが、もうすっかり慣れているのかな」

「はい、おかげさまで。髣艪ウまと二人の先輩のメイドさんにとてもよくしてもらっておりますので」

「そうか、それはよかった」

「私も大旦那さまにお会いするのは初めてなのですが、髣艪ウまの伯父様に当たるのですね」

「ああ、髣芟Nには無理を言ってうちの会社に来てもらったんだがね」

「いいえ、僕も今の生活が快適ですし、伯父さんに話を頂いて結果的にはよかったと思っていますよ」

「玲子も今はこっちにいるしね」

 佳奈子がこっそりと口を挟む。

「まあ、うまくやっているようで安心したよ。だからこそ、立派な紅茶が出来上がったのだだろうしな」

「はい、これから、大旦那さまにも召し上がっていただくつもりです。用意もほとんど整っておりますので、中にお入り下さい」

「そうだな、私や髣芟Nはよいが、日置くんたちはその格好では外は少し寒いだろう」

「すみません、お気遣いいただいて……」

 理紗が雄一に頭を下げる。

「こちらになります。って、大旦那さまには当然、応接間の場所などはご存じだと思いますけれど」

 佳奈子に導かれるようにして一同は洋館の中へ入る。さりげなく差し出した手で、雄一が持っていたコートを受け取る。そのあたりの細やかな気遣いは佳奈子ならではのものであろう。

「ちょっと緊張しますね」

「うん、あの時みたいだね。でも、今回は紅茶の味には自信があるわけだから」

 台所で湯の沸くのを待っている玲子と佳奈子が時々ちらりと応接間の方に目を向けながら紅茶の準備を整えている。

「はい、もうすぐ、理紗さんも来てくれると思いますし、そちらに関しては安心です」

「あら、今日はわたしたちがいれるのよ。理紗はご主人様と一緒に大旦那さまのお相手をなさっているのだから」

「そ、そうなんですか……」

「わたしだって、確かに理紗ほどじゃないけど上手にいれられる自信があるし、玲子だってそうじゃないの?」

「はい、そのつもりですけど、初めてお会いする大旦那さまに紅茶をお持ちするのは……」

「でも、ご主人様の伯父様でもあるわけよ、玲子はそんなに緊張するわけにもいかないんじゃない?」

「えっ、それはどういう意味ですか?」

「さぁ、どうかしらね……」

 楽しそうに佳奈子が玲子に言う。そうしている間に、玲子の緊張もほぐれ、湯も沸き上がってきた。

「さ、そろそろ準備に取りかからないとね」

「はい、そうですね。まずはこちらの葉を……」

 玲子もそこはさすがメイドである。紅茶を目の前にすればすぐに真剣さが増す。

「わたしは、カップを温めて、ワゴンを用意しておくわね」

「すみません、お願いします」

 慌ただしいというのとはほど遠かったが、台所ではそのような感じで準備が進められていた。

「そろそろ、紅茶が用意出来ると思います」

 しばらくの間、雑談をしていた髣艪ニ雄一、理紗の三人であったが、やや時間がたったころ一度だけ台所の方に目を向けて理紗が告げた。

 ちょうど砂時計の砂が半分ほど落ちたところであり、レースのクロスを敷いた小さなワゴンを、佳奈子が押して応接間にやってくるところだった。

「そうだね、ちょうど来たところだね」

「はい」

 ワゴンを押している佳奈子が部屋に入ったところで立ち止まり、後ろに付き従っていた玲子と共に軽く一礼する。

「失礼いたします」

「ああ、ありがとう。一度向こうで飲んでいるが、こうした環境でいただくのもまた格別だろうね」

 雄一の言葉に恐縮しながら、佳奈子と玲子が脇から二つのカップをそれぞれの席の前に置いた。

「理紗さんたちも、こっちで」

 髣艪ェテーブルの脇を指差して言う。

「よろしいのでしょうか?」

「うん、佳奈子たちには、人数分ちゃんと用意するように言ってあるから」

 そう言われた理紗がワゴンの上に目を向けると、確かに二つではなく五つのカップが用意されている。そのうち二つが華やかな花柄の描かれた磁器のものであり、残りの三つがシンプルな白磁のものであったから、佳奈子たちもそのあたりのことはきちんと心得ているのだろう。

「では、さっそく、お注ぎ致しますね」

 湯を沸かし、ポットに紅茶の用意をしたのは玲子だったが、注ぐのは佳奈子の役割としたらしい。遠慮がちにしながら、佳奈子が理紗と同じような優雅な動きで雄一と髣艪フカップに紅茶をゆっくり注いでいく。

 湯気が紅茶の香りを伴いながら静かに立ち上り、見つめているメイドたちの表情もわずかにほころぶ。

「ほう、これはあの時よりも美味しそうだ」

 髣艪フ送ったサンプルを既に試飲していたというから、雄一のその言葉はその時のことを指しているのだろうと思う。

「では、早速、頂こうか」

「はい、そうですね」

 テーブルを挟むようにして、普段は髣艪ニ佳奈子が座っている位置に雄一と髣艪ェ腰掛けている。その雄一に控えるような位置に理紗が、そして髣艪フ傍らには佳奈子と玲子が立っている。

 急いで残りの三人分の紅茶を用意した佳奈子が、それぞれ三人のメイドに手渡す。

「すみません、お待たせしてしまいました」

「いいんだよ。では」

 雄一がカップを手に取ると、いれたての紅茶を口に運ぶ。それを合図にしてまず髣艪ェ、そしてやや遠慮がちな佳奈子たちがその紅茶を味わう。

「ああ、これは美味しいね」

 しばらく間があったあと、雄一が満足そうな表情をして佳奈子と玲子の方に顔を向ける。

「ありがとうございます」

 佳奈子と玲子が恭しく一礼する。勿論、自分のいれた紅茶ではあったがその味には自分たちも満足している。

「髣芟Nから聞いたのだが、日置くんだけでなく、君たち二人の力もあって、この紅茶を作り出すことが出来たのだそうだね。私からも松山くんと大崎くんにお礼を言わせてもらうよ」

 そう言って、雄一が頭を下げた。紅茶を飲んでいた佳奈子と玲子はびっくりしてカップをソーサーに戻す。

「そ、そんな……。とんでもありません」

「いや、君たちメイドの支えと手伝いがあったからこそ、というのは間違いないのだと思うよ。髣芟Nもそれを強調していたがその通りだと思う。仕事というのはね、どんなものであっても一人だけで結果が出せるようなものではないんだよ」

「そ、それはその通りだと思いますが……」

「直接の力添えだけではないのだ。心を支え、励ましがあってこそのものだよ。そういう意味では、私も家内にはいつも感謝しているし、髣芟Nの場合にはそれが君たちだったのだろう」

「ありがとうございます」

 玲子は礼の言葉を返したが、それは雄一と同時に髣艪ノも向けられたものであった。

「少し例えが違うかもしれないが、松山くんならば漢の簫何のことは知っているだろう?」

「はい。でも、わたしはそれほどご主人様のお役に立ったとは……」

 かつて中国を統一し漢を作った皇帝の劉邦は、その論功行賞において前線で戦った将軍を差し置いて補給を絶やさずに支え続けてきた簫何という参謀を功の第一とした。雄一はそのことを言ったのである。

「いや、やはり大事なことだと思うよ。とにかく、日置くん、松山くん、そして大崎くん、本当にありがとう」

「ありがとうございます」

「これからも、この洋館でご主人様を支えて参ります」

「あの……、もったいないお言葉です」

 三人がそれぞれ、感激の表情で雄一と髣艪ノ目を向ける。玲子などは微かに涙ぐんでいるようでもあった。

「僕には過ぎた人たちだけど、これからもいろいろと助けてもらえると助かるよ」

「はいっ」

 感動のあまり直立したままになっているメイドたちに、雄一が紅茶のおかわりを求めた。

「はい、すぐにご用意いたします」

 カップを受け取って紅茶を注ぐその姿は、カチューシャやエプロンの結び目に至るまでメイドとしての喜びに包まれているようにも見えた。


 四人を乗せた車は、若干、苦しそうにして長い上り坂を進んでいく。曲がりくねった道はお世辞にも走りやすいとはいえなかったが、運転手の佳奈子はさほど厭がるようでもなくそうした道を進んでいく。

 今回の紅茶が出来上がったことを祝して、慰労会をやろうと髣艪ェ話を持ちかけたのはこの二週間ほど前のことであった。日帰りでの本社への出張の帰りに、旅行会社でもらってきたというパンフレットを並べ、「みんなを温泉にでも連れて行ってあげたいと思うんだけど」と食後の紅茶の時間に切り出した。

 佳奈子と玲子が特に喜んだことはいうまでもない。

 わいわいと騒ぎながら、髣艪ェ持ってきたパンフレットを見比べて、どの宿のどんな温泉が好みかを賑やかに話し合っていた。

 結局、玲子の一言が行き先を決定したのだった。

「この旅館さんの和食が素敵です。今回の紅茶では、『和食』が決め手になったのですから、それをいただきに行くというのはどうでしょうか?」

「そうだね、賛成!」

 佳奈子が賛成し、理紗も大きく頷いた。

 早速、髣艪ェ宿を手配し、年度末の多忙が始まる前の、一泊二日の小旅行となったのである。

 佳奈子の運転する車が、山道を抜けた先にある立派な温泉旅館へたどり着いた。

 峠を越えて入った高原地帯の、山並みに沿うように広がった川縁の温泉街にその旅館がある。

 髣艪スちの暮らしている洋館よりもふた周りほど大きい、黒光りした木造の日本屋敷が髣艪スち一行を待ちかまえていた。

 オフシーズンの平日であるためか、まだ旅館の名前の入ったワゴン車以外には駐車場に車はなかった。

「はい、着きました」

「お疲れさま、佳奈子」

「あっ、ちょっとそのまま待っていて下さい」

 サイドブレーキを引いて、ギアをニュートラルに戻した佳奈子が、早速降りようとした髣艪振り返って制した。

「うん?」

 動きを止めた髣艪そのままにして、佳奈子が先に車を降りて、後ろに回って髣艪フいる側のドアを素早く開く。

「はい、お降りになって下さい」

「ありがとう。でも、今日は佳奈子たちの慰労で来たんだから、いつもみたいにメイドとして気遣ってくれなくても構わないんだよ」

 髣艪ェ笑ってそう言いながらも、佳奈子の厚意を受けて車の外に足を踏み出した。

 四人で乗るには少し手狭な乗用車だったが、小柄な佳奈子が運転していたため、その後ろになる髣艪フ席には少し余裕があった。中は暖かかったのでコートは脱いでいたのだが、山間であるせいもあって、外に出ると空気が冷たく感じられる。そろそろ春が近づいているとはいっても、まだ少しかかりそうだった。

「わたしたちも、降りて荷物を取らなくちゃ」

 反対側から、道案内役だった理紗と、髣艪フ隣りに座っていた玲子も降りた。

「うーん、ひんやりして気持ちいいですね。でも、まだ少し寒いですね」

 理紗も髣艪ニ同じように感じているようである。

 この日はメイドたちへの感謝の旅行というオフタイムであったので、三人はそれぞれいつものメイド服ではなく私服姿で車に乗っていた。

 運転手の佳奈子は、上品な花柄のロングスカートに、ピンク色のウールのセーターという服装で普段よりも大人びて見えた。玲子は対照的に、可愛らしい印象のある、細やかなレース飾り付きの小さな花柄のワンピースを着ていた。若干短めのスカートから見えている足がその服装に比べると色っぽく見え、佳奈子を少しうらやましがらせていた。

 そして理紗は、薄紫色のアンサンブルにベージュのスカートという上品な服装の上に雪を想像させるような白のストールを羽織っている。

「さて、荷物はいくつか、僕が持っていくね」

「あ、でも……」

「いいから、いいから。何度も言わせないで」

 後ろのトランクから順番にバッグを取り出していた玲子だったが、そのすぐ側から髣艪ェそれを手に持ってしまう。

 さすがに四つは無理だったが、大きめの二つと空いた弁当箱の入った小さな紙袋を持つと、先に玄関口の方へ歩いていく。

「ありがとうございます、ご主人様」

「ここでは、ちょっと恥ずかしいかもしれないね」

 髣艪ェ振り返りながら言う。理紗が慌てて口に手を当てるが、髣艪ヘ言葉に反してあまり気にしてはいないようだった。

「でも、みんながそれでいいのなら構わないかな」

「ありがとうございます、ご主人様」

 同じ言葉を佳奈子が繰り返す。それを聞いた髣艪ニ玲子が同時に声を立てて笑った。

「ようこそいらっしゃいました、川辺さま」

 玄関の引き戸を開けて中に入ると、すぐに奥から上品な着物姿の女将が姿を見せた。

「はい、お世話になります」

 髣艪ェ軽く一礼すると、丁寧なお辞儀を返して一行を歓迎してくれる。

「これからお部屋にご案内致しますが、その前に宿帳への記入をお願いします」

「わかりました。玲子ちゃんたちは、先に靴を脱いで上がっていて」

「はい、かしこまりました」

 髣艪ヘ帳面と鉛筆を受け取った。自分の名前と住所を書いたところで、ふと筆を止めて考える。さて、玲子たちのことは果たしてどう書いたものだろうか……。

「どうなされました、ご主……」

 佳奈子がのぞき込みながらそう言おうとしたところで、慌てて言葉を飲み込んだ。さすがに、自分自身も旅館の女将の前で「ご主人様」と言うことには恥ずかしさを覚えたのであろう。

「ううん、なんでもないよ」

 結局、髣艪ヘ「他、三名」と書いて女将に渡した。女将は流れるような仕草で受け取って引き出しに収めると、隣りにきていたもう一人の和服姿の従業員に「『松』と『楓』にお願いね」と指示を出した。

「はい」

 彼女は簡潔に返事をすると、髣艪フ持っていたバッグを持って、奥に案内する。

 その後ろに従うように、髣艾ネ下三人が歩いていく。

 二階の奥まったところに髣艪スちは案内された。

「男性がおひとり、女性が三人と伺っておりましたので、こちらの楓の間を男の方が、隣の松の間を女の方々がお使い下さい。お荷物は……」

「あっ、ひとまず、松の方に運んでもらえますか?」

 髣艪ェ答えるよりも先に佳奈子が言った。

「かしこまりました」

「髣艪ウまも、ひとまずはこちらに来てください。旅館の方の説明などは一緒に聞いてしまった方がいいですよね」

「そうだね」

 玲子が言うことも尤もなので、先に部屋に入っていた三人に続いて髣艪熄シの間へ入る。

 既に女中がお茶の用意を始めていた。佳奈子たちは、普段は自分たちがお茶を入れる立場であり、逆にそうしてもらっていることに何やら居心地の悪さのようなものを感じているようだった。

「お疲れでしたでしょう。こちらのお菓子と一緒にお召し上がり下さい」

 座布団の上に髣艪ェ腰を下ろすと、何となく座りにくかった佳奈子たちもようやく腰を下ろす。

「このような感じです。今日は川辺様の他にお客さんはおりませんので、お風呂もご自由にお楽しみ下さい」

 そうして風呂の場所と食事の時間の説明を済ませると、女中は下に戻っていった。

「ご主人様、夕食の時間まではここにいて下さいね」

 佳奈子はそう言って髣艪ノ甘えていた。

「そうですね。まさか、せっかくわたしたちをこんな素敵な旅館に連れてきてくださったのに、ご主人様だけ隣の部屋にお戻りになるなどという無粋はなさらないですよね」

「ですよね?」

 玲子も同調して、座っている髣艪フ後ろに回って肩をもみ始める。

 理紗までもがそう言って、髣艪ノ微笑みかけている。彼女たちにとっては、「ご主人様」「髣艪ウま」という言葉は崩さず、メイド服を着ていない時だとしても、髣艪ノ仕える心は少しも手放していなかった。それでも、普段の洋館での生活とは違った場所にあって、気持ちを少し解放しているようだった。

「やっぱり、髣艪ウま、結構、凝っていらっしゃいます……」

 ぐいっと力を入れる。

「そ、そうかな?」

「はい、佳奈子さんと、『お仕事が忙しかったから、きっと肩こりなどお感じになっていらっしゃるのではないでしょうか』などとお話ししていたんです」

「ご主人様がわたしたちを旅行に連れてきてくださったのはとても嬉しいですけど、ご主人様にも楽しんでいただかないと、わたしたちの楽しみも半減です」

「そっか。では、僕も遠慮なくくつろがせてもらうよ」

「はい、そうなさってください」

 飲み終えた湯飲みには理紗が注ぎ足しながら、何杯かの緑茶を味わいつつとりとめのない会話を楽しむ。

 私服姿の三人の安らいでいる様子に、髣艪煌しくなった。

 そうして話に夢中になっているうちに、夕食の時間になってしまった。

 この建物の渋さや自分たちの暮らす洋館との魅力の比較について語ったり、これから入る温泉の効能から、あちこちにある戦国武将の隠し湯の伝説の真偽などで盛り上がっているうちに、肝心の温泉に入りそびれてしまったようである。

「あ……。でも、ご飯が済んだらゆっくり入りましょう」

 佳奈子の言葉に頷き、四人でこちらの部屋で食事を取ることになった。

 日本旅館特有の、豪勢な料理が並べられる。

「いつ見ても、これは圧巻ですね……」

 佳奈子が左右を見ながら感嘆する。

「そうだね、食べきれるかな……」

「わたしにはとても無理です……」

 玲子が最初から諦めざるを得ないような残念そうな表情で言う。だが、目の前に並べられた料理はどれも美味しそうである。

「じゃ、いただこうか」

「はい、そうですね。ご主人様、一杯、いかがですか?」

 サービスといって付けてもらった徳利二つのうち一つを手に取って、髣艪フ隣の理紗が杯を進める。

 畳の部屋で、座布団の上でという、普段とはがらりと変わった食事だったが、なぜか席はいつもと同じような位置になっている。即ち、上座の髣艪フ隣りに理紗が、向かいに佳奈子と玲子が座っている。

「そうだね、では、軽く。みんなも、一杯ずつくらいだったら飲めるよね?」

「はい。わたしはお酒は強くないのですが、それくらいでしたら」

「ご主人様に勧められたらお断りできません」

 玲子と佳奈子が髣艪ノ促された理紗の手によるお酒を受ける。三人分を注いだところで、髣艪ェ徳利を受け取って理紗のお猪口に軽く注ぐ。

「あ、理紗、いいなあ」

「佳奈子も、それを飲んだらご主人様に注いでもらえるわよ」

「うーん……、それじゃ」

 強くないと言っている佳奈子は一瞬、躊躇したようだったが、意を決して一気に酒を飲み干してしまう。

「酒に対しては将に歌うべし、ってね」

 佳奈子が笑いながら言うと、髣艪烽ヌこか嬉しくなって佳奈子に次を注ぎ足す。

「でも、飲み過ぎないようにね、これからお風呂に入るんでしょう」

「はい、大丈夫です。ご主人様からいただけたのでもう満足です」

「そこまで言ってもらえると恐縮だよ」

「いいえ、恐縮なのは佳奈子の方ですよ」

 理紗が鋭くそういう指摘をする。

「お酒だけじゃなくて、お料理もいただきましょう。今回の紅茶の恩人でもある、和食づくしなんですから」

 玲子がそう言うと、再び四人は目の前の料理の攻略に取りかかり始める。

「でも、本当によかったよ。紅茶の発売が楽しみだね」

 製品は春過ぎに売り出されることになったようである。日本の葉を使っての紅茶をブレンドしているということで、あえて新茶の出回る時期に販売開始することになったという。

「そうですね。洋館に届きましたら、わたしがおいれしてご主人様に召し上がっていただこうと思います」

「楽しみにしてるよ。今回、一番よかったのが理紗さんなんじゃないかな」

「はい……」

 髣艪フお猪口に酒を注ぎながら、理紗が静かに頷いた。

 結局、全部の料理を食べきることができたのは髣艪セけだった。佳奈子も善戦したが、固形燃料の小鍋に取りかかっているところに新たに天ぷらが来るのを見て、諦めることにしたらしい。

 理紗は、なるべく普段は食べられないものを優先して食べていたようで、残してしまったことを申し訳ないとは思っていたが、残念そうな様子は見せなかった。玲子は、心だけはまだ食べたいと思っていたが体がついていかないことが悔しかったようである。

 とにかく四人は満腹して、しばらくは部屋でお腹の落ち着くのを待つことになった。もうお茶すらもお腹に入れることは出来なかった。

 ようやくそれが落ち着いてくると、現金なもので今度は温泉の姿が頭に浮かんでくる。

「そろそろ、僕は入ってこようかな」

「そうですね、お上がりになったら、またこっちの部屋に来てください」

「えっ?」

「もう少し、ご主人様とお話したいんです。ね?」

 佳奈子が玲子と理紗を振り返って言うと、まだお腹の重そうな二人が力強く頷いた。

「わたしたちも、もう少ししたらお風呂をいただこうと思います」

「うん、そうするといいよ。僕も向こうの部屋で浴衣に着替えて入ってくるね」

「はい、いってらっしゃいませ」

 そして、髣艪ェ下に降りていったのが分かると、佳奈子が理紗と玲子を手招きした。そして、二人の耳元でひそひそ声で何かを言った。

「ふぅ……、いい気持ちだね」

 空には明るい月が出ており、明るく露天風呂を照らしていた。旅館の建物がある方向以外は、周りは暗闇が支配していたが、風呂の洗い場の明かりとこの月明かりによってさほどの心細さは感じられない。ここが物音のしない静かすぎる場所であったら多少の怖さがあっただろうが、暗闇の向こうから聞こえてくる川のせせらぎと、掛け流しの湯が立てる音が髣艪安心させる。

 夕食の時に飲んだ日本酒も、食後に動けずにいる間にほぼ抜けてしまい、こうして温かい温泉に浸かっていると僅かに残っていた分も完全に駆逐されてしまったようである。お腹に余裕が出て、一人で広々とした露天風呂に身を置いていると、心の方にも余裕が感じられてくるようになる。

 両足を僅かに開きながら自由に伸ばす。洋館の風呂もそれまでに住んでいたところと比べると文句の付けようのないくらい広くゆったりしたものであったが、温泉旅館の露天風呂を独り占め出来ることと比べると残念ながら格が違う。

 浅瀬になっている部分で、ちょうどよい高さの岩にタオルを置くと、それを枕のようにして頭を乗せ、月と星に目を向けながら水の流れる音に聞き入る。

「玲子ちゃんたちも楽しんでくれているようでよかったな」

 洋館にいるときと比べると、大きな開放感を彼女たちも感じてくれていると思う。佳奈子や玲子の喜び方も大きかったが、普段はあまり言葉や仕草を崩すことのない理紗までもがそうしてくれていることが髣艪ノとっては嬉しいことだった。

 紅茶が完成したことによって、理紗の中で影の部分となっていた孝敬との思い出も暗くはないものとなってくれるのではないかと思う。

 決して平坦な道ではなかったが、峠を越えて振り返ってみると、そんな道もきっと感慨深く見えるものなのだろう。佳奈子と玲子の二人についても、一時は心配をしていた髣艪ナあったが、それもすっかり払拭出来たようだ。玲子が洋館にやってくる少し前から、佳奈子が自分に淡い気持ちを持ち始めていたことには何となく気が付いていた。その佳奈子の気持ちが、どこまで奥まったものなのかを掴みきれずにいるうちに玲子が現れたのである。玲子は奥ゆかしさを備えていると同時に、あのような意表をつく積極性も持っている。玲子が身一つで髣艪フところに「メイドになりたい」と言ってやってきたときから、彼女の気持ちには気付いていたが、この洋館での暮らしの中でそれをどう受け止めたらよいかということが分からなかった。

 そう考えてみると、髣艪熾ィ理的なもの以上に、佳奈子や理紗という二人のメイドに甘えていた面があるのかもしれない。佳奈子、理紗、玲子という三人が洋館の中で幸せに安心して暮らせるようにしたいと願うことは、同時に自分もそうしたいという願望の現れでもあったのだろう。

 洋館の主として、髣艪ノは出来ることと出来ないことがあった。その出来ることの範囲内で、髣艪ヘどれくらいのことをしてきただろうか。温かい湯に体を任せながら、髣艪ヘ漠然とそんなことを考えていた。

「特に、玲子ちゃんのことだよな……」

 三人のメイドの誰かを特別扱いするようなことは決してあってはならないと髣艪ヘ考えていた。だが、最近の佳奈子や理紗を見ていると、彼女たちも玲子の自分への気持ちに気が付いていてそれを容認しているようにも見える。

 翻って、自分自身の気持ちを考えてみれば、燃え上がるような恋情ではないにしても、玲子のことを憎からず思っていることは確かである。淡い気持ちを向けてくれていた時に感じた佳奈子への気持ちというものとはやはり異なっている。愛情というものにあえて区別を付けるとすれば、玲子に対して感じているものの方が恋愛感情に極めて近いものだといえるのだろう。

「いつまでもメイドさんたちの気遣いに甘えているわけにもいかないだろうし……」

 仕事上のプレッシャーがひとまずはなくなり、こうして一人で自分を見つめ直す時間が持てるようになると、そんなことが頭に浮かんできた。だが、こうした類の物事を動かすことは、新しい紅茶を作ることよりも難しいのも確かなことである。

「ある意味、慎重にいかないとね……」

 髣艪ヘつぶやいた。

「何を『慎重に』ですか?」

 その時、岩に頭を乗せている髣艪フ奥の方向からいきなり佳奈子の声が聞こえてきた。

「えっ?」

 完全に意表をつかれた髣艪ヘ、びっくりして体を起こし、反射的に声のした背中の方に向き直る。お湯の中で体を滑らせてバランスを失いかけ、慌てて右手でがっちりした岩を掴んで身を支える。

 湯煙の向こうに、女性らしい滑らかなシルエットが浮かんでいた。耳の後ろの二ヶ所で髪を束ねているのは佳奈子であることに間違いない。バスタオルを体に巻いているが、本人が気にしているよりはずっと艶やかな姿で髣艪フ方に笑顔を向けている。

 そんな髣艪フ狼狽を楽しむかのように、佳奈子の隣にいる玲子も同じ姿で立っていた。玲子の方は普段と違って髪を上げており、髣艪フところからははっきりは見えなかったが、ヘアピンで何ヶ所か留めた髪の左右非対称性が微かな乱れという形で玲子に強い色気を感じさせている。

 少し離れた洗い場の近くに、困ったような顔をしている理紗がたたずんでいる。理紗もバスタオルを巻いただけの姿でここにやってきたようである。

「ど、どうしたんだい、これは……」

「十面埋伏ならぬ、三面埋伏です。もう一人メイドがいれば、ご主人様を包囲して故郷の歌を歌って差し上げたのですけど」

「僕の故郷は楚じゃないけどね……。ってそういうことじゃなくて」

 佳奈子の冗談交じりの言葉を、思わず同じ冗談で受け止めた髣艪ナあったが、そう言いながら近くにやってくる佳奈子と玲子の姿が徐々にはっきりしてくると、見つめてはならないと思いながらもそう出来ない自分に強い焦りを感じる。

「もちろん、わたしたちもご主人様と一緒にこの温泉をいただこうと思って参りました」

「ぼ、僕はもうすぐ出るけど……」

 そう言って髣艪ヘ立ち上がろうとするが、あることに気が付いて慌てて再び湯の中に体を静める。枕代わりにしていたタオルは、既に近くまでやってきている佳奈子の足元にあった。

「退路を断たせていただきますね」

 冷たく佳奈子が宣言して、しゃがみ込んで手に取った髣艪フタオルをそのまま玲子に手渡した。

「あっ……」

「髣艪ウま、わたしたちが勇気を出して来たのですから、どうかお逃げにならないで下さい」

「うーん……」

 思わぬ展開に狼狽を隠せない髣艪セったが、佳奈子たちも軽い気持ちでここにやってきたのではないのだろう。彼女たちを拒絶することは、彼女たちにかえって恥ずかしい思いをさせることになりかねない。

 そう自らを納得させなければ、温泉以外の理由で髣艪ヘのぼせ上がってしまいそうだった。

「それにしても、理紗さんまで……」

 バスタオルを巻いた姿のまま、近くまで来ていた理紗に髣艪ヘ泣き言を言う。豊かな胸や引き締まった腰の曲線はバスタオルでは完全に隠しきることが出来ず、湯気の向こうにあっても強烈な艶めかしさを感じさせる。

「私は、二人を諫めたのですけど……」

「でも、今日は他にお客さんはいないそうだし、こんな素敵な温泉に女だけで入るのは勿体ないと思ったんです」

「それにしたって……」

「では、洋館に戻ったら一緒に入っていただけるのですか?」

「そ、それには随分な飛躍がないか、佳奈子」

「こうして髣艪ウまが甘えさせてくださる機会を下さったので、思い切って来てしまいました」

 玲子が満面の笑みを浮かべながら、湯の中に座っている髣艪覗き込むようにして言う。こうなれば、髣艪煌o悟を決める他はあるまい。

「仕方ない、潔く腹をくくることにするよ」

「あっ、さすがご主人様です」

 佳奈子も、そう言って喜び、近くの岩場に腰を下ろした。綺麗に揃った白い足が、バスタオルの裾から慎ましく伸びている。太陽を男性とすれば月は女性に例えられることが多いが、その微妙な月明かりが普段よりも数段増しにそんな佳奈子を大人らしく見せている。髣艪フ側にいる玲子にしても同様である。かがみ込むようにしているので、バスタオルの隙間から豊かな胸元が見えそうになる。

「その格好じゃ寒いだろうから、とにかく、入りなよ」

「はい。では、髣艪ウまは少しの間、向こうを向いていてください」

「えっ、あ、そうだね……」

 玲子の指示で、髣艪ヘ川の流れている奥の方に目を向ける。

 さっという微かな音がした後、静かな水音が数度聞こえる。少しの間と言いながら、髣艪ノはある意味で拷問に近いずいぶんと長い時間に感じられた。

「ありがとうございました、ご主人様」

「う、うん……」

挿絵7 佳奈子の声で振り返ると、並んで満足そうに湯に身を沈めている三人の姿があった。さすがに裸体を直接見せることは出来ないのだろう。少しぎこちなく、肩までしっかりと湯に浸かっている。

「バスタオルは……」

「あちらです」

 髪を上げていた理紗がそう言って岩場の方を指差した。温泉の傍らの大きめの岩の上に、丁寧にたたまれたバスタオルが三枚重ねられている。

「みんな、大胆だね……。タオルを巻いたまま入っていいのに」

「いいえ、温泉ではそれは邪道です」

 佳奈子が言い切った。

「わたしもそう思います。テレビの旅行番組を見るたびにそう思っていました」

 玲子もそう言って同調する。

「もう少し、ご主人様の近くに行ってもいいですか?」

 答えを待たずに、佳奈子が腰を落としたまま器用に歩いて髣艪フ近くまで寄ってきた。時々、水面の上に胸が露わになりそうになり、髣艪ヘ慌てて目を逸らそうとする。

 玲子はそこまでの大胆さが持てずに、恥ずかしそうにして髣艪フ方を見つめている。理紗にもやはり同じ気持ちはあるのだろうが、意外に動揺した様子は見せていない。

「まあ、でも、佳奈子に理紗さん、玲子ちゃんの三人がこうして旅行を楽しんでくれているんだから、本当によかったよ。僕は、やっぱり、すごい果報者じゃないかな」

「いいえ、果報者なのは私たちの方です。ご主人様のような方にお仕えできることにとても感謝しています」

「ご主人様が洋館にいらっしゃって一年と少しになりますが、その直前にはこんな幸せを感じることなど想像していませんでした」

 理紗が髣艪見つめながら言うと、隣の佳奈子も僅かに上気した表情で優しく言葉を続けた。確かに二人の言うように、髣艪フ来る前の洋館は主もおらず、その華やかな外見とは裏腹に寂しさが支配していたのだろう。それが、今は玲子も含めた三人が生き生きと働ける場所になっていて、ご主人様である髣艪ェ偽りなくその求心力になっている。ある意味では理想的な家族のように、佳奈子、理紗、玲子のそれぞれにとって、かけがえのない人間に髣艪ヘなろうとしつつあるのである。

「わたしみたいに、いきなり押し掛けた人も側に置いてくれましたし」

 玲子も言った。そして、何かを思い出したかのようにふとこんな言葉を付け加える。

「でも、ちょっとだけ気になることがありますけど」

「うん?」

「髣艪ウまの、わたしたちメイドの呼び方が、三人とも違うのはどうしてなのかなって。わたしには『玲子ちゃん』で、理紗さんは『さん』ですよね。でも、佳奈子さんは呼び捨てで呼んでおられます」

「うーん、なんとなく慣習になっちゃったのかな。最初は、理紗さんも佳奈子も『さん』付けだったんだよ。それがしばらくして、佳奈子に『自分には親しみを込めて呼び捨てでおよび下さい』って頼まれて。玲子ちゃんは、東京にいたときからそう呼んでいたからそのまま、かな」

「そうなんですけど、なんだか気になります……」

 そのあたりは既に整理が付いているはずだったが、それでも気になるのは玲子にそうした気持ちがはっきりあるからだろう。今、佳奈子が髣艪フすぐ近くにいるのも影響しているのかもしれない。

「それって、ご主人様がわたしを呼び捨てで呼ぶことが?」

「はい……」

「何ていうのかな、下に弟妹がいない僕にとっては佳奈子は妹みたいな感じなのかな」

「じゃあ、もう少し甘えさせてください、お兄ちゃん」

 そう言って、佳奈子は突然、髣艪ノ寄り添うように体を近づけてきた。髣艪フ腕を取って自分の腕に絡ませようとする。

「か、佳奈子……」

 その時に肘が佳奈子の柔らかい胸に当たって、髣艪ヘ大きく慌てる。だが、より慌てたのはそれを見ていた玲子だった。

「か、佳奈子さん、髣艪ウまに何をなさるのですか」

 そう言って、負けじと佳奈子の逆側から髣艪ノ近づいて、その腕を取ろうとする。急いで近くにやってきたので、何度か胸が見えたことにも気付いていなかった。

「佳奈子さんに髣艪ウまを取られたくないです。わたし、髣艪ウまのことが大好きですから」

 そう言って、髣艪フ体を引き寄せる。佳奈子は「うまくいった」といわんばかりに腕を抜き、髣艪フ体を玲子に押し当てる。

「えっ……」

 髣艪フ体が玲子の側面に当たった。玲子の右の胸が髣艪フ無骨な体に当たり、それに気付いた玲子が顔を真っ赤にする。そして、自分の言った言葉を思い出し、もっと顔を赤くする。

「玲子ちゃん……」

 玲子は、髣艪フ顔を見つめていたが、目からのその情報は脳には届いていなかったかもしれない。

「ようやく言えたね」

「そうね」

 傍らで、佳奈子と理紗がこっそりとそう言っていた。

「で、ご主人様は?」

「うん、そうだね。玲子ちゃんの気持ちは嬉しいよ」

「あの……、それでは……」

 答える代わりに、髣艪ヘ優しく静かに頷いた。

 ようやく、髣艪燻ゥ分の気持ちに素直に向き合えることが出来たようだった。こうした場面にならないとそうできなかったことに多少の情けなさを感じてはいたが、佳奈子や理紗、そして洋館での暮らしのことを考えるとそれでもよいのかと思うことにした。

「よかったね、玲子」

 いつの間にか玲子の後ろに回り込んでいた佳奈子が、背中からそんな玲子に抱きついた。

「は、はい……」

 佳奈子を背負うような姿勢になりながら、玲子は再び髣艪見つめるのだった。

 賑やかな入浴を終えた髣艪ヘ、自室でぼんやりと過ごしていた。

 そこへ、入り口の戸をノックする音が聞こえてきた。

「はい、どうぞ」

 髣艪ェそう返事を返すと、遠慮がちに小さく戸が開いて、浴衣姿の玲子が入ってきた。白地に青の、日本旅館特有のシンプルな浴衣に、紺色の上衣を纏っている。そうした素朴さがこの場合は玲子の女としての魅力を強く露わにしている。

 湯上がり特有の、上気した表情はと、薄手の浴衣の生地越しに認識できるふくよかな胸の膨らみがこれまでに見たことのない色っぽさを見せており、大きく変わった二人の間の気持ちが、そうした本能的な部分を刺激した。

「髣艪ウま……」

「玲子ちゃんか。その、さっきは……」

 思わぬ場面での玲子の告白を思い出す。玲子の方も、それを自覚して顔を赤くして俯いてしまう。

「その……、とても嬉しかったです。わたし、幸せだと思います」

 髣艪ヘそんな玲子を限りなく愛おしく思い、しっかりと抱きしめた。二人の着ている浴衣越しに、相手の体の感触とその体温がしっかりと感じられる。物理的な距離がこれほど近づいたことは初めてであったが、それ以上に回り道をしてきた心の距離が一気に近づいたというべきであろう。

「うん、よかったよ」

「でも、少し遠回りしてしまったような気がします。髣艪ウんが東京を離れるときにわたしがきちんと気持ちを伝えていれば……」

「ううん、これでよかったんじゃないかな。玲子ちゃんは僕だけでなく大事な友達も手に入れることが出来たんだし」

 髣艪ェここに来る前に玲子と結ばれていたとしたら、その後はどう変わっていただろうか。一瞬、そんなことを考えた髣艪セったが、すぐにそれは無意味な仮定であると切り捨てた。玲子にとってもそうであると同じく、髣艪ノとっても佳奈子や理紗はかけがえのない存在なのである。

「はい……」

 玲子が、髣艪フ胸元に縋り付くような格好のまま、上目遣いで優しい髣艪フ目を見つめた。

「そうだよね、玲子ちゃん」

「はい、髣艪ウんのメイドになれたことも、本当に嬉しかったですし。でも……」

「うん?」

「これからは、わたしも佳奈子さんと同じように呼んでもらえませんか」

「同じって言うのは、その……、『玲子』って?」

「はい、そうです」

 玲子の言いたいことは分かっていた。であるから、髣艪ヘ静かに頷いて、自分の胸に顔を埋める玲子の髪を優しく撫でた。

 しばらくの間、されるがままになっていた玲子だったが、髣艪フ手が頭の上から肩口の髪に移ったところで、再び顔を上に向ける。そして、ゆっくりと髣艪見つめる目を閉じた。

「玲子……」

 玲子が静かに頷いた。ゆっくりと髣艪フ顔が下を向き、玲子の顎にそっと添えられた指に近づいていく。そして、ほんのりと赤みを帯びた唇に静かに重なった。それは、小さな儀式でもあった。

「なんだかこう……、溶けそうでした」

「僕も、緊張したよ」

 そう言って、髣艪ェ笑った。釣られるようにして玲子も笑顔になる。もう一度だけ、今度は玲子の方から髣艪フ唇を求めると、すぐにここへ来た本来の用事を思い出した。

「あっ、大事なことを……」

「うん、どうしたの?」

 その変化に、髣艪フ方がかえって慌てる。

「佳奈子さんたちに、ご主人様を呼んでくるように言われたんでした。『まだ寝るには早いと思いますから、トランプでもしませんか』って」

「うん、じゃあ、すぐに行こうか」

「はい」

 急ぎ足で廊下に出る玲子を髣艪ェ追いかける。

 隣の松の間に戻ると、佳奈子と理紗が待ちくたびれた様子で既にトランプを手に持っていた。佳奈子と理紗の二人も、浴衣に着替えておりリラックスした表情が魅力的だった。三人のメイドの、普段と違った姿に髣艪ヘ艶やかさだけでなく新鮮みを感じていた。

「ご主人様、遅いですよ」

「うん、申し訳ない……」

「やっぱり、玲子に呼びに行かせたのは人選ミスだったのかな……」

「そ、それは……」

 恥ずかしそうに立ちつくしている玲子を、佳奈子と理紗が面白そうに見ている。

「ま、とにかく座ろうよ。で、何をやるんだい?」

「ブリッジなどいかがですか?ご主人様もご存じだと伺いましたが」

 理紗が提案する。仕事の休憩時間にイギリス社交界の話題が出たときに、コントラクト・ブリッジというトランプゲームの話が出てきたことを思い出した。

「そうだね……。でも、みんなルールを知ってるの?」

「佳奈子も知ってますし、玲子さんにもこの前、教えて差し上げました」

「はいっ、大丈夫です」

 ルール自体はそう難しくないが、奥の深いゲームである。だが、真剣勝負の場に来たというわけでもないので、それはそれでよいのだろう。

「では、ご主人様はここに。ご主人様は玲子さんとのペアでよいですよね」

 佳奈子が既に座席を決めてしまっている。そうなると、髣艪ノしても是非はない。これが佳奈子や理紗なりの、新しい暮らしに対する祝福の形なのかもしれない。

「では、そうさせてもらおうか」

「はい、札は既にお配りしてありますよ。わたしから行きますね……。えーと、ワン・ダイヤでいかがでしょうか」

 佳奈子の積極的な様子に、慌てて髣艪ェ整理した手札を見るが、残念ながら対抗出来そうな代物ではなかった。

「僕は、パスだな……」

「ワン・スペードです」

 理紗が間髪入れずに言う。残念ながら今回の主導権は佳奈子−理紗ペアにありそうだ。

「わたしもパスです」

 玲子が残念そうに言うと、佳奈子は更に勢いに乗って言う。

「ツー・スペードで。よろしくね、理紗」

 佳奈子が可愛らしくウインクした。その後はパスが三回続き、ビットが確定した。

 最初の札が玲子の手から出されると、佳奈子が自分の札をダミーとして理紗に委ねる。理紗が満足そうに頷くと、髣艪スちは残念ながら初戦の敗北を悟らざるを得なかった。

 だが、こうしてみんなでゲームを楽しむのは、髣艪スちにとってとても幸せな時間であった。


 まだこの日も肌寒かったが、理紗はメイド服を着て墓地の一角で静かに手を合わせていた。目の前にある墓石は理紗の打った水によって濡れており、正面には一対の花と線香が供えられている。

 線香の煙が横に流れていく中で、理紗は静かに孝敬に向かって語りかけていた。

「孝敬さまの従弟の髣艪ウまは、とても尊敬出来る方だと思います。私、ずっと孝敬さまと過ごした時間を忘れることが出来ず、この気持ちを持ったままこれからもずっと洋館で暮らしていくのだと思っていました」

「ですが、今のご主人様がいらして、孝敬さまが最後に私に下さったあの言葉の意味を教えてくださいました。孝敬さまには申し訳なかったのですが、あの時の私は、『あなたのその言葉だけは聞くことは出来ません』と思っていたんです。でも……、こういうことだったのですね」

 病床で弱々しく理紗の手を取った孝敬の感触を、久しぶりに理紗は思い出していた。残念ながら、自らの死期が目前まで迫っていることは明らかだった孝敬は、自分に向けてくれた思いを成就させてあげることが出来ないことを悔やみながら、

「理紗はここに立ち止まらずに、新しい笑顔を持てるようになって欲しい」

と言い残したのである。孝敬への気持ちをどうなっても失いたくない理紗は、それに答えることは出来なかったのだった。

 結果的に、理紗にとっては、孝敬の作ろうとした紅茶を完成させるという形でその遺志を継いだことになる。髣艪ヘその仕事を通じて、いやそれ以前にその仕事を遂行しようとすることで理紗を孝敬と洋館の間の負の縛めから救い出したのである。かつ、孝敬のことを過去のものとしたり、忘れたりするということをせずに。

 果たして、髣艪ェ理紗の心をどこまで理解して紅茶の仕事を始めることにしたのかは分からない。だが、どこかで理紗の心の奥にある本質を見抜いていたからこそ、真剣になってそれに取り組み、完成させたのであろう。技術的な面で理紗は髣艪ヨの協力を惜しまなかったが、やはり本当の意味で紅茶を完成させたのは髣芬ゥ身であろう。その真摯さは、理紗には孝敬のそれと重なって見えたのも事実である。

「時々、ご主人様の仕草に、孝敬さまと似たものを感じることもあるんですよ。孝敬さまのことは今でも変わらずお慕い申し上げておりますが、今は、あの方が大切なご主人様です」

 理紗の心の中で、孝敬が微笑んだ。

「はい、私はもう、大丈夫です」

 一度目を開いた理紗は、この静かな墓地にいる自分は、孝敬と二人きりで話をしているのだと思った。

 もう一度目を閉じて、そっと手を合わせ、眠っている孝敬に挨拶をする。

「では、ご主人様のところに戻りますね」

 孝敬の墓に深く頭を下げた理紗は、ゆっくりと歩き始め、洋館へ戻っていった。そこには、もう悲しみはほとんど残っていなかった。

 玲子は、この日の仕事を終えた後、すぐにはメイド服から着替えずに、その姿のまま自室の机に向かって手紙を書いていた。

 何度か書き損じて、悔しい気持ちでそれを屑籠へ捨てるが、ようやく、素直な気持ちが文章に乗せられるようになっていた。

 手紙の相手は、東京にいる両親だった。ほとんど無理矢理に東京の喫茶店を飛び出してきた玲子は、そんな両親に感謝しながらもこれまでは電話で簡単に近況を報告することしかしてこなかった。

 メイドとしてこの洋館で働くようになり、とうとう自分の気持ちが実を結ぶことになった。初恋は叶わないものと巷では言われるが、玲子に関しては例外であるようだった。

「こちらでの生活にもすっかり慣れました。そして、川辺さんにも自分の気持ちを伝えることが出来ました。しばらくはこちらでメイドとして働き続けると思いますが、その後のこともしっかり相談したいと思います」

 心に余裕が出たのか、父親の顔が玲子の頭の中に浮かんだ。思えば、両親は自分を本当に大事に育ててくれたように感じる。だからこそ、この幸せを決して手放すことはしたくない。玲子はそう思っていた。

「今度、新しい紅茶が発売になります。わたしも飲みましたが、とても美味しい紅茶なので、ベルでも是非、扱ってください」

 手紙の最後に追伸として、玲子はそう書き加えた。

 書き終えた手紙をもう一度読み返してみる。両親に手紙を出すということは初めてであり、親しい気持ちとよそ行きの気持ちという半ば背反的なものを同時に感じていた。家族が新しい家族に移り変わるということを初めて予感した瞬間なのかもしれない。

 両親の名前に「様」を付けた表書きを書くのも初めてであった。

 手紙を封筒の中に収めると、佳奈子に借りてきた「雅」の印を押す。髣艪笳シ親だけでなく、佳奈子や理紗といった自分の敬愛する全ての人たちへの感謝の気持ちを籠めて……。

 髣艪ヘ自分のことを「玲子」と呼んでくれるようになったが、玲子も彼を「髣艪ウま」ではなく「髣艪ウん」と呼ぶようになっていた。それは単なる呼び方の変化にとどまらず、いくつかの大きな意味も持っていた。「川辺さん」から「髣艪ウま」へ、そして「髣艪ウん」に変わるごとに、玲子の髣艪思う気持ちは更に大きくなっていった。そして、その気持ちが花を咲かせ、次は実を結ばせようとしている。

 やはり遠回りをしてきてしまったなとは感じていたが、その遠回りの道にある様々なものを玲子は手に入れることが出来たように思う。仮に、髣艪セけを手に入れていたのだとしたら、今の玲子はこれほど幸せだとは感じなかったかもしれない。

 そういう意味で、玲子は本当に幸福の中にあった。切手を貼って、あとは投函するだけの手紙を目の前にして、玲子はそう思った。

 隣の部屋では、佳奈子が久しぶりに友人と電話で話をしていた。仕事を終えて自室に戻ってきたところにかかってきた電話だったので、メイド服姿のままである。それでも多少気が緩んでいるのか、ベッドの上に寝ころんで、スカートの裾を少し気にしただけでなじみの声との会話に取り込まれていく。

 福岡の高校時代の友人の中には、佳奈子のように今は県外で暮らしている者も少なくない。特に仲のよかった直美は、父親が転勤族ということもあってそれからも何度か転居したそうだが、今は父親の勤める会社の本社がある東京に落ち着いているのだという。

 去年の夏休みに、帰省中の福岡で偶然に再会して驚いたことがあったが、それをきっかけにして再び、こうしてよく連絡を取り合うような仲になっていた。

 聞けば直美は、短大を出て東京都内のレストランに就職し、責任のある重鎮ウェイトレスとして元気に働いているという。

「とてもいい仕事なんだけどね、後輩が入ってきてその子たちを指導していると、ちょっと切なくなるときもあるのよね」

 電話の向こうの直美がそんなことを言っている。

「そうなの?」

「うん、わたしもいい人を見つけないと、OLとかでいうところのお局さんになっちゃうんじゃないかって」

「えーっ、直美には一番似合わない言葉だと思うけどな」

「そうかな……。あ、佳奈子の方はどうなの、素敵なご主人様とはうまくいくことになったの?」

「何言ってるの、わたしはご主人様の恋人候補じゃなく、メイドだよ。もちろん、ご主人様にはとても大事にしてもらっているけどね」

「あら、いいなあ。だったら、もっと踏み込んじゃいなさいよ」

「ううん、ご主人様にはそういう人がもういるからね。寧ろ、直美じゃないけどわたしが小姑みたくなっちゃいそうよ」

「えーっ」

「でも、何で急にそんな話題になっちゃったのかな……」

「あはは。あっ、でも、もう一つ、『そんな話題』があるのよ。福岡で一緒にいた、わたしの友達でやっぱりメイドをやっている真理子がいたでしょ」

「うん、綺麗な人でうらやましかったな」

「真理子が、結婚することになったのよ。それも、メイドとして働いていたおうちのご主人様と」

「そうなの、いいなあ……」

「あら、佳奈子もやっぱりそう思っているんじゃない」

「ううん、これはあくまでも一般論としてよ。真理子さんに、わたしからのお祝いの言葉を伝えておいてね。『同じメイドとして、祝福しています』って」

「了解。佳奈子も、近いうちに見つけないとね」

「その言葉、お局候補の直美にもそのまま返すわよ」

「あー、ひどい」

 気の置けない友達との会話がこうして続いていく。髣艪ニいう礎が佳奈子の中に存在しているからこそ、こうした時間が持てるのであろう。


 そして、髣艪スちの紅茶が発売になった。

 売れ行きについてはまだ報告が上がっていないので、髣艪ノとってはまだ心細いところがあったが、理紗たちはそれに関しては極めて楽観的であった。実際、社長の雄一からは思ったよりも順調に推移していると伝わっていた。

 この日の午後は、仕事に一区切りついたタイミングで休憩を取ることにした。

 理紗は研修の講師をするために本社に出かけていたので、代わりに玲子が髣艪ノ紅茶を用意することになった。

 ちょうど、佳奈子も自分の仕事が落ち着いたところだったのでその相伴に預かることになった。

 執務室から応接間に移り、ソファに腰掛けて待っていた髣艪セったが、玲子が紅茶の準備をすると言って台所に向かってからずいぶんと時間がたっている。

「玲子、どうしたのかしら」

 この洋館のお気に入りのメイド服を着て隣りに足を揃えて行儀よく座っている佳奈子が、その台所の方をのぞき込むようにして言った。

「うん、ちょっと遅いね……」

 髣艪ェ相づちを打ったところで、ようやく奥から玲子の声が聞こえてきた。

「髣艪ウん、佳奈子さん、お待たせしました」

 玲子が、雄一を交えた試飲会の時と同じ小さなワゴンを押しながらやってきた。

「あれ、玲子?」

 髣艪ェ玲子の姿を見て目を見張った。

 先ほどまで佳奈子と同じメイド服を着ていた玲子が、この洋館にやってきた最初の頃に、そして東京のベルで一度、着ていた自分の黒のメイド服の方を着て現れたのである。

「どうしたの、玲子?」

 佳奈子も同じ疑問を持ったらしい。

「あの……、理紗さんから伺ったのですが、紅茶のテレビコマーシャルに出てくるメイドさんの服が、これによく似ているそうなんです。なので、今日はこれで髣艪ウんに、と思いまして……」

「なるほど」

 髣艪ヘ頷きながら、テレビのリモコンを取り、スイッチを入れてみた。しかし、今はこの洋館の雰囲気とはほど遠い時代劇を放映しているところだった。

「髣艪ウん、佳奈子さん、お注ぎしますね」

「うん、ありがとう」

 髣艪ェ久しぶりに見たそのメイド服姿の玲子にそう言って微笑みかける。玲子はそんな髣艪フ視線を幸せそうに受け止めている。メイドとして、そして髣艪フ思い人としての喜びがそこにあった。

「玲子の紅茶がいただけるのは光栄ね」

 佳奈子もそう言いながら、そうした二人を満足そうに見つめている。

「えっ、そんな……」

 玲子が恐縮した様子で言った。

「だって、玲子がメイドとしてご主人様やわたしに紅茶を入れてくれるなんていうのも、そう長くないかもしれないじゃない?」

「そ、そうかな……」

「違うんですか、ご主人様?」

「……」

 佳奈子の言葉の意味はよく分かっていたから、かえって髣艪ヘどう答えることも出来なかった。もうしばらくして髣艪ニ玲子が一緒になれば、この洋館での四人の暮らしも少しは変わるのだろう。だが、今と変わらないことも多いのだと思う。

「さ、冷めないうちにいただこうよ。もちろん、玲子も一緒にね」

 髣艪ェティーカップを手に取ろうとしたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。

「あ、ちょうど理紗も帰ってきたところみたいですよ。玲子、至急、もう一杯、用意をお願いね」

「はいっ」

 佳奈子は理紗を出迎えに、玄関へ向かっていった。

 玲子は、一度茶葉を小さいボウルに捨てると、ワゴンの上にある紅茶の缶を開けて、ティースプーンで新しい葉をポットに入れようとする。

 ちょうどその時、テレビが宣伝に切り替わった。一番最初に出てきたのが、玲子の話していた川辺茶園の紅茶のコマーシャルであった。

 黒い上品なメイド服を着た女性が、読書中のご主人様に会釈をして、紅茶を入れるために手元の缶のふたを取る。四角い缶の側面には、玲子の手にある缶と同じ、メイドのシルエットが浮かんでいる。

 そのシルエットから飛び出すように、もう一人のメイドが現れて、ご主人様に紅茶を勧める。

 確かに、この宣伝に出てくるメイドの服は、玲子の着ているものによく似ていた。

 そのためだからであろうか、テレビの中にいるメイドと目の前の玲子の姿が、重なったように髣艪ノは見えたのだった。

テキスト公開へ

上に戻る


(c) 高津本陣・徐 直諒 since 1999.12