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第6章 彼女たちの居場所

 秋から冬へかけては、日が落ちていくのも早く、気が付けば外はすっかり暗くなっていた。

 洋館の東側に位置する髣艪フ執務室は、午後の割と早いうちから日が射し込まなくなり、暗くなってくる。

 理紗の入れてくれた紅茶で休憩したすぐ後に窓にカーテンを引いた髣艪ヘ、そのまま仕事の続きに取りかかっていたが、途中で間違いを見つけて慌てて修正に入った。

 そのため、この日は普段より遅くまで仕事の時間が続くことになり、既に定時を大幅に過ぎていることにも気付かなかった。

 しかし、その仕事にもようやく見通しが立つようになり、あと少しで終えることが出来るというところまできたとき、部屋の入り口のドアをノックする音が聞こえてきた。

「理紗さんかな、どうぞ」

 長引きそうだったため、理紗には先に仕事から上がってもらっていた。髣艪ェ扉の向こうに向かって言ったが、戻ってきたのは佳奈子の声だった。

「いえ、佳奈子です。ご主人様、失礼します」

 小さな音を立ててドアが開き、二ヶ所で束ねた髪が印象的なメイド服姿の佳奈子が中に入る。

「あ、佳奈子だったのか。ごめんね。どうしたの?」

「はい、そろそろお夕食の準備が出来ましたのでお呼びに参りましたが、まだお仕事の途中だったのですね」

 紙の上にシャープペンで数字を書き込んでいた髣艪フ姿を見て、佳奈子が恐縮して言う。

「あ、もうほとんど終わったところだから、すぐに行くよ。もうそんな時間なんだね」

 机の上に置いてある小さな時計を見て、髣艪ェ答える。

「ご主人様のお仕事の邪魔をしてしまって申し訳ありませんでした。でも、出来れば出来たての温かいものを召し上がっていただきたいですし……」

「そうだね、佳奈子がわざわざ呼びに来てくれたんだし。五分以内には行くから、ちょっとだけ待っていてもらえるかな」

「はい、わかりました」

 その言葉通り、少しでも早く終わらせようとしているためか、髣艪ヘ軽く顔を上げて佳奈子に微笑みかけただけですぐに机の上に顔を戻す。そんな髣艪佳奈子は嬉しそうに見つめた。とりわけ女性にとっては、こうして真剣に仕事に取り組んでいる男の姿というのは魅力的に見えるもののようである。

「それでは、食堂の方でお待ちしております」

 ぺこりとお辞儀をして部屋を辞した佳奈子。

「うん、呼びに来てくれてありがとう」

 背中から掛かるそんな声も、佳奈子にとっては嬉しかった。

 その言葉通り、佳奈子が戻って玲子と一緒に配膳の準備をしている間に、髣艪ェ食堂に姿を見せた。先に盛りつけも済ませて待っていた方がよいものか、玲子と一緒に腕を組んで考えているくらいのうちに、当の髣艪ェやってきてしまった。

 「すぐに終わるから」というのは本当にその通りだったようである。

「お疲れさまでした、ご主人様」

 テーブルの上に皿をどう並べるのかをアドバイスしていた理紗が、先に髣艪フ姿に気が付いて声を掛けた。

「あ、お疲れさまです、ご主人様」

 佳奈子と玲子も一度手を止めて髣艪フ方に体を向けて会釈する。

「うん、ありがとう。なんだか、今日はずいぶんといい匂いがしてくるね」

「はい、今日は玲子が作ってくれたハヤシライスなんですよ。玲子はもうやる気満々で、二時間以上かかりっきりで煮込んでいたようです」

「そうなんだ、ハヤシライスかぁ、懐かしいなあ」

 髣艪ヘ東京にいたときのベルのことを思い出して表情をほころばせる。密かに髣艪フ反応を気にしていた玲子は、皿を置きながらそっと横目に髣艪フ表情とそんな言葉に喜んだ。

「カレーライスに比べるとちょっと日陰者ですけど、学校の給食などにも出ていた懐かしい味ですよね」

 佳奈子が髣艪フ言葉にそんな風に答えるが、髣艪ヘそれに少しだけ苦笑いして見せながら言う。

「そうだね、それも勿論あるんだけど、玲子ちゃんとハヤシライスっていう組み合わせが、ね」

 玲子の方を向いて、軽く手をかざしてみせながら髣艪ェ言うと、玲子は我が意を得たりという明るい表情になる。

「はい、髣艪ウまに覚えてもらっていて嬉しいです。でも、味の方はどうかちょっと心配です……」

「あれ?」

 自分の知らない話に佳奈子が興味を持つ。それは理紗も同じことのようで、佳奈子よりも先に髣艪ノそれを尋ねていた。

「ご主人様と玲子さんには、なにかハヤシライスに関する思い出があるのでしょうか?」

 その音楽的で丁寧な理紗の問いかけに、いささか心をかき乱されて焦ってもいた佳奈子が落ち着きを取り戻す。

「うん。でも、それは食べながら話すよ。僕はもう、お腹が空いて来ちゃって」

「あっ、そうですね。失礼いたしました。では、私たちも座らせていただきます」

 髣艪フ隣に理紗、向かいには佳奈子と玲子という指定席に四人がそれぞれ座る。髣艪フ位置が上座であることは確かだったが、それ以外の三人のメイドの席は半ば自然に決まったような感じであり、そこには序列というものはない。ただ、髣艪フ座る位置だけは最初に決めていた理紗と佳奈子はさすがメイドであるというべきであろう。

 テーブルの上には、ハヤシライスの皿とミネストローネスープ、そして、まだ空いたままの白い小皿が置かれていた。四人のちょうど真ん中に当たるテーブルの中心に、アジア風の春雨サラダの載った大きなガラスの器が置いてある。

「では、いただこうか」

「はい、いただきます」

 三人のメイドが、髣艪フ言葉を合図に軽く手を合わせ、楽しそうに食事を開始する。

「僕のせいでみんなを待たせちゃったみたいでごめんね」

「いいえ、髣艪ウまこそ、今日は遅くまでお仕事をなされて、本当にお疲れさまでした」

「うん、ありがとう。でも、お腹が減った分、更に美味しく食べられそうだね」

「はい、そう思っていただけると嬉しいです」

 やはり仕上がりは気になるのだろうか、玲子が先にハヤシライスを口に運んでいたが、同時に髣艪ェどう感じてくれるのかが大いに気になっている。

「……うん、美味しくできてるね。その……、お母さんのにも負けてないかも」

「そ、そうでしょうか……」

「うん、自信を持っていいんじゃないかな。佳奈子と理紗さんも同じ評価してくれていると思うよ」

 髣艪ノそう言われて、玲子は二人のメイドの方にも目を向けた。言葉にこそ出さなかったが、佳奈子は「あら、やるじゃない」といいたげな表情を見せており、理紗も満足そうに二口目を口に運んでいるところだった。メイドとしては先輩であり、仕事ぶりに関しては厳しい面もある二人がそうなのであるから、決して髣艪フお世辞ではないのだと分かった。

「今日は、お夕食を初めて任せてもらったので、ちょっと緊張していたんです。でも、髣艪ウまたちに満足していただけてよかったです」

「ふふっ、わたしたちに追いつくにはまだまだかもしれないけど、玲子もなかなかのものじゃない。でも、毎日こんなに時間をかけていたら、他の仕事が出来なくなっちゃうよ」

 佳奈子がそんなことを言って玲子をからかう。

「そ、そうですね……。でも、わたしも髣艪ウまのお料理を作れるようになりたいですし、その……、戦力になれれば佳奈子さんや理紗さんのお仕事の負担も軽くすることが出来ると思いますし……」

「ありがとう、玲子。でも、本当に玲子はこれまであんまり料理したことがなかったの?」

「はい、そうなんです……。おうちがお店をやっていましたから、自分で軽く済ませたり、両親に休憩時間にちょっと食べてもらうような簡単なお料理でしたら出来るのですが、髣艪ウまにお出しするようなしっかりした料理は全然、経験がなくて……」

 玲子自身もそれをかなり気にしているようである。洋館でのメイドの仕事として、毎日三度の食事を作ることは重要な仕事ではあったが、その料理に関して佳奈子や理紗とは実力に大きな差があるのが、最初の玲子にととっては大きなショックだったようだ。ただ、特に佳奈子の料理の腕前に関しては年頃の女性であることを加味してもその平均よりは遙かに上に位置するものであったから、それを水準として比較しようとすることは玲子にとってある意味、不運なことであっただろう。来客時の料理を用意することがあり、どちらかというとよそ行きの料理を得意とする理紗に対して、いわゆる家庭料理的なものを得意とする佳奈子は、それだけにこの洋館での料理担当の中心的存在となっていた。そんな佳奈子の実力は、髣艪ニ席を同じくしてそれを食べている玲子もよく知るところであり、その差に大きく衝撃を受けたことは想像するに難くない。

 だからこそ、今日たまたま夕食を作らせてもらうことが出来ることになって大きな喜びを感じると共にプレッシャーも感じていた。これまで東京に住んでいたときに、母親の味に近づこうと何度か挑戦していた「得意料理」でもあるハヤシライスを、上手に作る目的であった当の髣艪ノ褒めてもらえたことが何よりも嬉しかった。そして、自分の目標でもある佳奈子や理紗に満足してもらえたことも同じくらい嬉しい。

「これなら大丈夫よ。玲子って向上心もあるし、これからが楽しみかな」

 隣の玲子に佳奈子がそう笑みを投げかけてくれる。

「はい、本当にありがとうございます。よかったです」

「あ、そうそう。ご主人様、話の途中だったじゃないですか、聞かせてくださいよ」

「うん?」

 最初とは別の理由で箸が止まっている玲子を気にしてか、佳奈子が軽い調子で話題を転換させる。

「ご主人様と玲子とハヤシライスの関係です」

 理紗が佳奈子の代わりに指摘する。

「あ、そうだったね。二人にも話したけど、僕は玲子ちゃんのおうちでやっている喫茶店に常連客として通っていたんだ」

「はい、うかがっております」

「で、店に行くのは夜の会社帰りの時間がほとんどで、いつも夕食をベルで食べていたんだ」

「なるほど、です」

「そこでいつも僕が頼んでいたのがハヤシライスのセットだったんだ。あの店の味が気に入っていて、週に二、三回は食べていたよ」

「ご主人様がそれほどのハヤシライス好きでしたとは……。わたしもこっちで作って差し上げるんでした」

 佳奈子が心底、残念そうな表情で言う。そんな佳奈子に微笑みかけながら髣艪ェ説明を続ける。

「そのハヤシライスは、喫茶店の料理担当の……、玲子ちゃんのお母さんが作ったもので、僕がその味を絶賛していたときに、『わたしもお母さんと同じように作ってみたのに、同じ味にならないんです』なんて会話をしたことがあったんだ」

「そうだったんですか」

「その玲子ちゃんのハヤシライスに、ここで出会うことが出来て、懐かしさと嬉しさを感じた。今日はそんな感じかな。味も、あの時のハヤシライスに負けてないと思うし」

「玲子の愛情の勝利かな」

 佳奈子がそう言ってからかうと、玲子は顔を真っ赤にしてしまう。

「ですが、わたしたちメイドも常にご主人様を敬愛する気持ちでお料理や家事をさせていただいております。それが評価されたことは本当に嬉しいです」

 理紗があえてそういう一般論に話を移すことで玲子に助け船を出してくれる。一度玲子をからかった佳奈子も隣で大きくうなずいている。

「うん、そんなみんなの料理が食べられて僕は嬉しいよ。ハヤシライスだけでなく、スープやサラダも美味しいしね」

「やっと気付いてくれましたか、ご主人様」

 胸の前で両手を合わせて佳奈子が言った。

「玲子ちゃんはハヤシライスにかかりきりだと言ってたからね」

「はい、ミネストローネは理紗が、春雨サラダはわたしが作りました」

「なるほど。このサラダもエスニック風のちょっと変わった味だけど、意外にハヤシライスみたいな洋食に合うね」

「さすがご主人様です。わたしの意図を汲み取ってくださいました」

「ということは、今日の食事は三人共同のだったんだね。そう思うと、なんだか勿体なくなってきたなあ。それなのに遅くなってみんなを待たせちゃって……」

「そんな、髣艪ウまが謝ることなんかないです。こうして楽しく食事出来ることがわたしたちにとっても嬉しいんですから」

「そうだね。でも、本当にありがとう」

「いいえ、お礼を申し上げるのは私たちの方です。そういうところは、ご主人様はご主人様らしくないと思います」

 理紗はそんな言い方をするが、メイドとして髣艪フもとで働けるとことを嬉しく思っているのは明らかであろう。

 佳奈子や理紗は一人っ子で、家庭的な事情もあって「家族揃っての楽しい食事」というシーンを渇望していたのかもしれない。ひょっとすると理紗にも似たような事情があったのかもしれない。

 そんな家庭で育ってきた彼女たちが料理やその他の家庭的なことに長ずるようになったのは、彼女たち自身にとってもきっと幸福なことであろう。将来はきっと、自分の求めていたそうした食卓を手に入れることも出来るに違いない。

 髣艪フ子供時代はそうした寂しさとは無縁であったが、やはり東京で長く一人暮らしをしている間に「楽しい食事」を求める気持ちは大きくなっていたようである。

 洋館がメイドたちにとってそんな場所になればよい……、自分には過ぎた美味しい食事を味わいながら、髣艪ヘそんなことを考えていたのだった。

 そして、そんなメイドたちの中で一番最初に自分の居場所を見つけたのはおそらく理紗であっただろう。

 この日はご主人様である髣艪ノ続き、三人のメイドの中では最初に入浴を済ませた理紗は、自分の部屋で就寝までの時間を過ごしていた。まだパジャマに着替えてしまうには早い時間であったので、自室の中では薄手の私服を着ている。この季節、石造りの建物の夜は寒かったが、部屋には適度に暖房が効いており、余裕のあるゆったりしたブラウスと同じく幅の豊かなスカートという姿は、風呂上がりで落ち着いた理紗の体も開放的にしてくれる。理紗にしては珍しく、買ってきた服のサイズが思いのほか大きくて普段着るにはふさわしくないと思った品が、こんなところで思わぬ役に立っていたのである。

 この部屋には昔はしっかりした暖炉があったようで、今は燃料をくべる部分が電気式のストーブに改造されている。だが、赤熱している電熱線からもそうした暖炉の優雅な雰囲気はわずかに感じられ、そうした部屋が自分に与えられていることが理紗にとっては嬉しい要素でもあった。

 そんな暖炉を横目に見ながら、理紗はこれまた少し時代がかった鏡台に向かい、湿った髪をドライヤーで乾かしながら優雅に梳いていた。普段とは違った服装で自室にいるそんな理紗は、メイドというよりは貴婦人のようにも見える。茶色がかかったようにも見える薄い色の髪はすらりとして美しいが、子供の頃はそんな淡い色の髪が他の子たちと違っていてコンプレックスに感じていたこともある。自分の中にわずかにイギリス人の血が流れているということも、そうした違いの一つの原因ではないかと考えて恨みに思っていたこともある。

 理紗が大人になるために乗り越えなければならなかったのが、そうした自分に対する負の感情だったのだろう。生まれや容姿に関する先天的なことは自分では変えようのないものであるから、それを厭ってみたところで何の意味もない。それに対してプラスの価値観を持つか、もしくは正負というものを超越してしまうしか解決方法はないだろう。利発な理紗であっても、そういう結論に達するためには思春期にそれなりの時間を要した。

 自分や、自分を慈しみ育ててくれた両親、家族に関する興味から、自分の父祖に当たるイギリス人が立派な人物であると知ったことも理紗にとっては幸運だった。百年以上前のことであり、家族の中の伝聞でしか伝わっていないことであったが、そのイギリス人はかつて世界を股に掛けた大英帝国の議員であったらしい。当時の大英帝国は「日の沈まない帝国」と呼ばれ、インドを中心として世界の多くに植民地を持っていた。今、理紗が就いているメイドという仕事も、そうした上流階級を支える存在として町の中には当たり前のようにいたそうである。

 一方、その少し前の時代から、輸入品であったために高級な飲み物であった紅茶が、庶民の口にも入る品物になってきていた。まだインドでの茶の栽培が端緒に就いたばかりであり、大部分は支那大陸、当時の清帝国からの輸入であった。イギリスは茶の代金を銀で支払っていたが、あまりもの輸入増加に支払が追いつかず、銀の流出と経済力の悪化を恐れたイギリスは、代わりに別のものを輸出して相殺しようとする。それが、インド産の阿片であった。

 阿片は染みいるように清の国民を蝕んでいったが、憂国の官僚が強硬手段でそれを取り締まる。それに怒ったイギリスは、軍隊を派遣して清に自分の意志を強要しようとする。麻薬の輸出などということのために軍を動かす、それは国内でもさすがに批判が多かったそうだが、結局、強硬派に押し切られる形となった。これが阿片戦争である。

 この時、人倫から反対に回ったこの議員は、それが原因で紅茶を扱う商人から見放されて緩やかに没落していく。彼が新天地を求めて、開国したばかりの新興国家にやってきたのが、この日本だった。

 いわゆるお雇い外国人ほどには優遇されてはいなかったが、当時、西洋との文明力の差を歴然と見せつけられていて、その吸収に取り組んでいたこの国の人たちに受け入れられ、居場所を得ることが出来た。その息子が理紗の曾祖父に当たるわけである。聞くところによると、その理紗の曾祖父は明治時代にこの洋館を建てたときに大きな働きをしたらしい。その意味では、理紗にとってもこの洋館はある意味での「故郷」でもある。

 その後、日本はそのイギリスと盟を結び、ロシアという大国に立ち向かうわけであったが、その後は仲違いしてもう一つのアメリカという大国を相手に戦うという不幸へ突入していく。

 大英帝国の議員の末裔であるともいえる理紗が今、地球の裏側でメイドという仕事をしていることに面白みを感じる。庶民やメイドという、当時の下層階級にまで紅茶の習慣が広まったことが戦争を、そして理紗の先祖の転身を招いたという事実もまた歴史のもたらした面白さであろう。

 それを知った理紗は、自分の髪の色に劣等感などは感じなくなっていた。逆に自分の髪を愛おしく思うようになり、長く伸ばし始めたのもその頃からである。逆に、日本人の美の一大要素である黒髪をわざわざ脱色するような者までいて、理紗は純粋に勿体ないと思ったものである。それに関しては佳奈子も同じ意見らしく、やはりいささか茶色の掛かった髪を気にしているようであり、綺麗な黒髪を持つ玲子を「うらやましい」と言っている。自分の長い茶色がかった髪を気に入っている理紗にとっても同じくうらやましく感じられる……そうした一面が存在することは否めなかった。

 この洋館の存在を知ってあこがれの気持ちを持つようになったこともあるのだろうか、長じて理紗はここで働くメイドとなった。メイドという存在も、時代と空間の二つの変化を経て大きく変わっていた。そんなメイドの仕事は、理紗にとっても誇らしいものである。更に、この洋館の中で孝敬という人物に出会ってからはそうした気持ちは別の気持ちと一緒に育ち、大きくなっていったのである。

 孝敬の死を目の当たりにして、理紗の心は大きく崩れていったのはやむを得ないところがあるだろう。理紗をしても立ち直るまでに多くの時間を費やせしめたということは、逆に言えば理紗にとって孝敬の存在がそれだけ大きかったということでもある。

 この洋館は、理紗に対して様々なことを語りかけてくれる。だが、それは洋館単独で語りかけてくれるものではなく、そこにいる人を通じてのものであるということを理紗が理解したとき、これまでずっと心の奥に影として存在していた気持ちに光が当たることになった。

 最初は、この洋館を建てた理紗の曾祖父、理紗に人を好きになるということを教えてくれた孝敬、友としてもメイドの仲間としても尊敬できる佳奈子、そして今のご主人様である髣艨c…。

 理紗は髣艪フことを敬愛していたが、それが恋愛感情になるとは考えていなかった。最近、玲子という新しいメイドが加わってこの洋館がより賑やかで暮らしやすい場所になったが、その玲子は明らかに髣艪ノ対してその気持ちを持っていた。そして、佳奈子の方も単に

「ご主人様」

に留まらない漠然とした淡い心を髣艪ノ向けていることも間違いないだろう。

 この洋館に髣艪ェ住むことになってから、理紗は知らず知らずのうちに髣艪ノ、そして佳奈子に支えられてきたのだということに気付いた。孝敬への気持ちを捨てることなど出来ないと頑なに思っていた理紗に、「捨てずに孝敬への悲しみから解放してくれる」力を与えてくれたのがこの二人である。

 それにより自分や佳奈子を客観的に見ることが出来るようになると、逆に佳奈子の髣艪ヨの気持ちも見えてくる。今度は、自分が彼女たちを支える番なのではなかろうか。自分の時にもあったように、恋愛というものは何もなく平坦な経路だけを通じて成就するものではない。その時、佳奈子や玲子に、そして髣艪ノとっての道標になることが出来ればこの上なく嬉しい。そんなことを理紗は考えている。自分に居場所を与えてくれた洋館に、他の人の居場所を作る。それが理紗にとっての恩返しにも、単にメイドにとどまらないところにある存在意義にもなるのだろう。

 髣艪ヘ立派な人物であると理紗は思う。決して押しつけがましくも下心もなく、佳奈子や玲子だけでなく自分にも優しさを与えてくれる。だからこそ、そんな髣艪ノ思慕を向けている玲子や佳奈子を支えたい。

 この日、そう思わせる出来事があったことを、理紗は再び思い出した。

 午後の仕事時間も後半に差し掛かったころ、手が空いて佳奈子たちを手伝っていた理紗が髣艪ノ呼ばれて執務室へやってきた。

「ごめんね、理紗さん。今日は大丈夫と言ったのに呼びつけちゃって」

「いいえ、構いません。ご主人様のお手伝いを直接出来ることも光栄ですので」

 急いでやってきたにも関わらず、理紗は服装も息も乱れていない。

「ううん、今回は理紗さんに仕事を頼もうと思って呼んだんじゃないんだ。あ、でも、結局は手伝ってもらうことになるのか……」

 後半は独り言のようになりながら髣艪ェそんなことを言う。どういうことなのか掴みきれない理紗は、珍しく不審そうな表情を髣艪ノ向ける。

「あの、どのようなことなのでしょうか?」

 心配そうに髣艪見つめる理紗に対して、少しだけ沈黙の時間を持つ髣艨Bそして、さも重大なことを告げるように、重々しく口を開いた。

「前に話していた、新しいブレンド紅茶の開発の件。今、社長から新規の仕事として認められたよ」

「えっ、本当ですか?」

「うん。まだまだ僕はこちらでは素人だから、そんな大層な仕事が出来るかどうかは分からないけど、最低限必要な知識は習得できたと思うんだ。僕でなければ出来ないアプローチの方法もあるだろうし、必ず結果は出してみせるよ」

「はい」

 理紗の目が輝く。

「ただ、情けない話だけどね、やっぱり理紗さんの助けがいると思うんだ。だから、改めてよろしく」

「はい、勿論です。その、私も……」

 迷いながら発し始めた理紗の言葉を、髣艪ェ静かに首を横に振りながら止める。

「うん、孝敬さんのことだよね。だからこの仕事は、理紗さんのために、とも思っているんだ」

「ご存じだったのですか……」

「うん。人というものは、少しだけ離れた場所から見ている方が本質を掴むことが出来るものなのかもしれないね。佳奈子あたりに言わせれば岡目八目ってことになるのかな」

 言いながら髣艪ェ笑う。そんな髣艪フ顔を見ていると、思わず涙ぐみそうになって理紗は胸の奥に見えた温かい気持ちをそっと心の中で包み込んでいく。

「理紗さんに、本当の明るさを取り戻してもらえると僕も嬉しいなって思ってね。勿論、感傷だけじゃ仕事は出来ないから、理紗さんにはもっと厳しく指導してもらう必要もあるんだけどね」

「はい、私、妥協はしませんからね」

「そうだね、望むところだよ」

 そう言って差し出された髣艪フ右手を、理紗は両手でしっかりと包み込んで気持ちを受け取ったのだった。

「ご主人様は、少し八方美人なところがあるんだけど……。でも、そんな面があるから三人のメイドがこうして仲良くやっていけるのかもしれないんだけどね」

 整った髪に満足して、理紗がコンセントを抜いたドライヤーのコードを束ねながらそんな独り言を言った。

 一方、佳奈子という人間をよく知っている理紗は、佳奈子が髣艪ノ向けている気持ちは本当の意味での恋愛感情ではないのではないかという疑念も持っていた。何か別の気持ちが、玲子の存在によって発火しているにすぎない……、おそらく本人もそれに気付いてはいないだろう。

 玲子と佳奈子という二人が髣艪ノたどり着くまでの道に平坦でない部分があるとしたらそれなのであろう。

 拠り所のある人間は強いという、当たり前のことが理紗には再び理解できることになった。その強さは、決して自分だけのものでもない。

 そう、メイドたちの中で一番最初に自分の居場所を見つけたのはおそらく理紗であっただろう。


「おはようございます、ご主人様」

 この日は目が覚めるのが少しだけ遅くなったらしく、髣艪ェ目を覚ますと、嬉しそうに自分を見つめている佳奈子の姿があった。

「あ、佳奈子か、ありがとう」

 正直に言って、寝起きの姿を見られるというのはあまり格好のよいものではない。

「いいえ、今日はご主人様を起こして差し上げることが……、あっ、ちょっとだけ間に合いませんでしたね」

 普段、「せっかくこうして起こしに来ているのに、既にご主人様はお起きになられた後で」と不満を言う佳奈子だったから、それが嬉しかったのだろう。だが、実際には佳奈子は直接、髣艪フ体を揺り動かしたり声を掛けたりして起こしたのではなく、髣艪フ目覚めに立ち会ったというのが正しいところであった。佳奈子は未だ眠っている髣艪見て、すぐに起こすのではなくしばらくその様子を見つめていたというのが真相だった。

「そうなのかな。でも、寝ているところを見られたのはやはり恥ずかしいよ」

「そうでしょうか?」

「うん。例えば逆に佳奈子だって、寝ているところを僕に見られたら恥ずかしいと思わないかい?」

「そ、それは……、はい、恥ずかしいです」

 ご主人様である髣艪ェ、自分の部屋で自分が寝ている姿を見ている……。当然、その自分はパジャマ姿であって…。そんな光景を想像すると、佳奈子はいたたまれなくなるほど恥ずかしくなった。確かに、髣艪フ指摘は事実であると認めざるを得ない。好意を寄せる人の無防備な姿を見るのは、自分にとってとても心が温まるものである。佳奈子はそう思って髣艪見つめていたのであるが、立場が逆になったときは果たして同じ気持ちでご主人様は自分を見てくれるのであろうか。そんなことを佳奈子は考えた。

「だよね。でも、毎朝こうして水を持ってきてくれて、本当にありがとう」

「いいえ、どういたしまして。ご主人様のお目覚めが快適になれば、わたしたちメイドにとっても喜ばしいですし」

「そうなのかな?」

「はい、早起きをして用意させていただいている朝食ですから、寝起きで不機嫌なご主人様が食べてくださらないということになれば、悲しいです」

「そうだったね。それなら、もう朝ご飯の準備は出来ているのかな」

 布団の中から体を起こした髣艪ヘ、佳奈子から水の入ったコップを受け取る。

「はい、玲子と理紗がご主人様をお待ちしているころです」

「じゃ、急がないとね」

 一気に水を飲み干した髣艪ェ、佳奈子にコップを手渡す。動作だけでそうしたやりとりが出来ることが、佳奈子にとって嬉しいものであった。

「はい、よろしくお願いします。わたしも、二人を手伝ってきますね」

「うん」

 身近な女性の楽しそうな振る舞いは、それを見ている人間の心も軽やかなものにしてくれる。その意味で、この佳奈子の朝の日課は髣艪ノとっては単なる水分補給以上に大切なものであった。

 ただ、まだはっきりとは髣艪ヘ佳奈子が秘めている気持ちには気付いてはいない。

「おや、いい匂いだね」

 食堂の中にふわっと心地よく漂っている、焼きたてのパンの香り。

 髣艪最初に迎えたのはメイドの笑顔よりも先のそんなものであった。勿論、その香りはメイドの理紗が作り出したものである。

「おはようございます、ご主人様」

「今日は理紗さんのパンの日か。朝から食べ過ぎに注意しないといけないかな」

「お褒めいただき、ありがとうございます。パン作りは意外に大変なのですが、早起きをして作るのは楽しかったりもするんですよ」

「そうなんだ」

 そんな理紗の表情に髣艪ノ対する気遣いのようなものはなかった。

「今日は、パンだけじゃないんですよ」

 白地に綺麗な花を描いた磁器を手に持っている玲子が、

「これを見てください」

というような表情で髣艪フ方に目を向けている。

「うん?」

「これ、いちごジャムなんですが、こちらも理紗さんの手作りなんです」

「そういえば昨日の夜、どこからか甘い匂いがしてきてると思ってたんだけど……」

「はい、ご主人様の後に佳奈子と玲子がお風呂を頂いている時間に作りました」

「それは楽しみだね」

「でも、実はきちんと付きっきりでいれば、誰にでも作れるんですけどね」

「またぁ、理紗は謙遜するよね」

 髣艪フ褒め言葉を過大なものと受け取った理紗が説明するが、佳奈子はそんな言葉で理紗を評価してくれる。

「さ、パンが温かいうちにいただこうよ」

「そうですね。わたしたちも失礼いたします」

 髣艪囲んだ、四人の朝食が始まった。

 髣艪フ後、佳奈子と玲子が同時にジャムの入った器に手を伸ばす。

「す、すみません、佳奈子さん」

「ううん、ごめんね、玲子。じゃ、先にちょっといただくね」

「はい」

 そんな二人を満足そうに見ている、向かいの髣艪ニ理紗。

「ご主人様の前で奪い合いなんてみっともないわよ、二人とも」

 理紗はそう言って佳奈子たちをたしなめるが、自分の作ったジャムに人気があることにまんざらでもない様子であった。

「そ、そうですね」

 恐縮する玲子。だが、一方の佳奈子は果敢にもこんな切り返しをしてきた。

「すみません、ご主人様。でも、理紗もご主人様のために張り切って、パンだけじゃなくてこんな美味しいジャムまで作っちゃうんだから」

「えっ、何よ?」

 珍しくいささか慌て気味の理紗。実際、理紗の中には、自分に居場所を与えてくれた髣艪ヨの感謝の気持ちも存在していたのだろう。

「このパンもいつもよりも美味しいしね」

「あ、確かにそうだね」

 髣艪ェそんな佳奈子に同調する。

「ご、ご主人様まで……。ですが、ご主人様に出来るだけ美味しいものを召し上がっていただくのは当たり前のことではないですか」

「そうだけどね……」

 からかい気味の佳奈子とのやりとりを、玲子は少しだけ心配そうに見守っている。

「だけど、『ご主人様のために』っていう気持ちなら、私などより佳奈子と玲子さんの二人の方がずっとたくさん持っているのじゃないかしら」

「えっ?」

 今度は佳奈子が、そして第三者だったはずの玲子が狼狽させられる番であった。

「ど、どういうこと?」

 佳奈子はそう言って、玲子も言葉こそなかったが同じ疑問を理紗に向けていた。

「自分の心に聞いてみるのが一番ではないかしら。でも、私たちメイドは、ご主人様に快適に暮らしていただくためにこの洋館に置いてもらっているんですから、当たり前のことですけどね」

「そ、そうですね……」

 佳奈子も玲子も、理紗が指摘したことに思い当たる節があるようである。それも玲子の方は表情から明らかであり、既に髣艪正視できなくなっている。一方の佳奈子は、当の髣艪フ前とあってか、必死にそれを覆い隠そうとしている。

「さ、三人とも……。僕としては、とても光栄なことだけど……」

 目の前のやりとりを見て、髣艪ヘかえって居心地が悪くなってしまう。

「す、すみません、ご主人様。つい、そろってはしたない真似を……」

「そ、それはいいんだけどね……」

 照れ隠しのためか、髣艪ェ手を早めてジャムを塗ったパンを口に運んでいく。

「あの……、謝ります、ご主人様」

 そんな佳奈子の言葉を合図に、座ったままではあったが、髣艪ニ一緒にいる三人のメイドが頭を下げる。それが全く同じタイミングであったので、逆に髣艪ノとっては滑稽に見えた。もともと、髣艪ノは理紗たちを責めるつもりはない。こんなによくしてもらって、そして広い意味での好意を向けてもらっていることが不快であろうはずがない。

「はは、いいんだよ、みんな。それより、みんなもちゃんと朝ご飯を食べておかないと、午前中の仕事がつらくなるんじゃないかな」

「はい、ありがとうございます」

 髣艪フ笑いに、照れや恐縮といった複雑な気持ちの混ざったメイドの心が落ち着きを取り戻す。理紗のジャムとパンが美味しかったことは言うまでもなく、この日の朝食はそうした若干のハプニングと共に過ぎていったのである。

「今日もいい天気でよかったです……」

 庭に洗濯物を運び出しながら、空を仰いで玲子がそう独語した。

 曇りの日も多いこの地方の冬であったが、今週は好天に恵まれることが多く、洗濯や買い物といった外へ出る用事も多いメイドにとっては好ましい限りであった。

 この日は二回、洗濯機を回し、先に干して風を受けてはためいている真っ白なシーツの脇に、二度目に洗ってきた四人分の服を干していく。

 すっかりメイドとして働くことに慣れてきた玲子は、洗濯に関してはほぼ任されるようになっていた。この時間の佳奈子は洋館の各部屋の掃除と昼食の準備をしていたが、気持ちのよい晴天の下で、髣艪フものを含めた全員の洗濯物を干すという作業は、確かに自分が洋館の一員であるということを認めてもらえたようであって嬉しいものである。そこには当然、下着の類も含まれているわけであるから、気恥ずかしさを感じることもあったが、それ以上にそうしたものを自分に任せてもらえているという信頼が幸福を感じさせるのである。少なくとも玲子にはそうした生活を共にする者の下着や衣服を「汚い」などと感じられることはない。

 髣艪フ下着に触れるときは年頃の娘にふさわしい恥じらいが体を駆け抜けるのは避けられなかったが、そんな気恥ずかしさすら今の幸せの一部として楽しんでいた。

「あ、こっちはわたしの……」

 少しの間だけ迷って、玲子はたまたま髣艪フものの次に手に取った自分の下着を、その隣に留める。髣艪ノ会うために東京を飛び出してメイドになってからも、自分の彼に対する気持ちは大きくなるばかりであった。

 だが、一方でそうして育った気持ちを外に表すことは難しい。あくまでも今は髣艪ノ使えるメイドなのであるから、例えば働いている最中に自分の好意を直接に髣艪ノぶつけることは出来なかった。佳奈子と理紗という二人のメイドは玲子にとって尊敬に値する人物であったが、それだけにこれまでその二人と髣艪ニで調和の取れていたこの洋館の空気というものをかき乱したくないという気持ちもある。

 メイドとして成長した玲子は、同じように自分と離れて暮らしている間に成長した髣艪フ姿も見ている。東京の会社員時代の髣艪フ働きは、喫茶店の中で雑談として聞いた程度しか知らない玲子だったが、同じ洋館で暮らすようになると髣艪フそうした成長も気になって、焦りのようなものも生み出す。自分がいない間の半年ちょっとの間に、佳奈子は髣艪ニ一緒に過ごした時間を持っていたわけであり、例えば毎朝、髣艪起こしに行く佳奈子をうらやましく思ったりもしていた。佳奈子が髣艪ノ笑顔を向けていると、そして、髣艪ェそれに応えていると自分の胸が痛くなってくることが否めない。一方で、そんな自分が少し嫌いでもあった。

 恋する女として直感的に悟っている、佳奈子が髣艪ノ向けているであろう気持ちが気がかりである。だが、それと同時に、自分を早くも馬の合う単なる後輩でなく友としても評価してくれている佳奈子とぶつかりたくないと気持ちも持っている。現実的にも、佳奈子や理紗に嫌われたなら、玲子はここにいることは出来ないだろう。

 そうしたある種の矛盾が、髣艪ノ向けて確かに存在している「好き」という気持ちを形にして表すことを妨げ、それが玲子の心の中で肥大化するという歪みのようなものを生みだしている。いつかはこれが顕在化することは避けられないのかもしれないが、今の玲子にはどうすることも出来ない。

 そんな玲子に出来ることは、メイドとしての自分の働きを高めて髣艪ノ快適に暮らしてもらうように努力することであり、こうして他の人に気付かれない範囲で自分の髣艪ヨの気持ちを確認することである。

「髣艪ウま……」

 残りの洗濯物を干していきながら、玲子は髣艪ェ仕事をしている洋館の一室の方へ目を向けた。そして、再び残りの仕事に戻ろうと体の向きを変えた玲子は、太陽の光が眩しくて思わず目を細める。だが、それは本当に太陽の光が眩しかったからなのか、それとも髣艪フことを考えて心が眩しくなったからなのか、果たしてどちらなのであろう。

 濃い紅茶色であるメイド服と、サイドの一部を慎ましやかに三つ編みにまとめている黒髪が穏やかな太陽の熱を受け取って温かくなり、そんな玲子の体を優しく包み込んでいた。

 だが、優しさの中にあるからこそ手に入れることの出来ないものも存在している。それでも、玲子は東京にいて髣艪待っているときよりは遙かに幸せな自分を実感していた。そんな玲子の居場所は、果たしてどこにあるのであろうか。

 そんな玲子にとって、乗り越えなければならない試練があったのかもしれない。

 それから数日たったある日の夕方にこんな出来事が起こった。

 この日は思ったよりも洗濯物の乾くのが遅く、玲子は夕方近くになって慌てて取り込んでいた。浴室の隣にある洗濯場で、急いで取り込んできた洗濯物を四人分に分けて丁寧にたたむ。そして、自分を含めた、佳奈子、理紗といったメイドの分は、隣にある風呂の脱衣所にある籠の中へ置かれる。佳奈子と理紗はたいがい、食事の後に自分の部屋へそれを持ち帰ることになる。三人のメイドは仲が悪いわけでもなく、私的な時間には互いの部屋へ行き来することもあるのだが、本人の前でないところで他のメイドの部屋には立ち入らないようにするという、紳士協定ならぬメイド・淑女協定のようなものが存在していた。

 一方、髣艪フ服は玲子が直接、彼の部屋まで運んでいき、洋風にアレンジされた木の箪笥に収められる。玲子にとっては、髣艪フ私室に入れることが嬉しくもあったし、緊張感の伴うものでもあった。毎朝、佳奈子は髣艪ノ寝起きの水を提供するために私室に入ることが許されているが、玲子の場合は、この時と、部屋のベッドメイクをする時である。もともとある装飾品や調度の他にはあまり飾り気のないところが男性の部屋らしいとも感じられる。

 佳奈子は既に夕食の準備に取りかかっているようである。玲子は一度下に戻り、自分の分の服を部屋に戻そうと思っていた。そのついでに、浴室を綺麗に掃除しておく必要もあることを思い出して、急ぎ足になっていた。

 玄関前の小ホールから浴室の方へ向きを変えたところで、正面から髣艪ェやってくるのに気が付いた。髣艪フ仕事が終わるまでにはまだ少しの時間があったから、手洗いで執務室の外に出てきていたのだろうか。

「玲子ちゃん、頑張ってるね」

 急ぎ足だった玲子は、髣艪フ姿を見て慌てて歩調を緩めようとした。メイドとしても、あまり慌てたみっともない姿でご主人様に不快感を与えたくはないし、好きな人にそういう面を見せたくないという気持ちもあっった。

 ところが、気が焦っていたためか、突然に歩くペースを変えようとした玲子は、体のバランスを崩して足をもう片方のくるぶしの辺りに引っかけてしまった。

「あっ!」

「あ……」

 髣艪ニ玲子が叫んだのは同時だった。正面にいた髣艪ヘ反射的に駆け寄り、倒れかかった玲子を支えた。ちょうど髣艪ェ玲子を抱きしめるような格好になり、その時に咄嗟に動かした手が玲子の髪を飾っていたカチューシャを跳ね上げる。幸運にもそのカチューシャは床には落ちず、髣艪フ着ているワイシャツの肩の部分に引っかかった。

「も、申し訳ございません、髣艪ウま……」

「ううん、いいんだ。それより、大丈夫だったかい、玲子ちゃん」

「はい。その……、髣艪ウまが抱き留めてくださいましたから……」

 玲子は抱えられている心地よさを感じていたが、それに若干の名残惜しさを持ちながら少しだけ髣艪ゥら体を離す。抱き留められた瞬間は、髣艪フ胸に顔を埋めるような形になり、メイド服の胸越しに髣艪フネクタイピンの堅さが感触として伝わってきた。目の前が真っ暗になったが、そんな視界の無も、倒れそうにあった恐怖から髣艪フ体温による安心感へ移っていく。

 自分の両手は肘を曲げた格好のまま髣艪フ体の側面に押し当てられ、他方、髣艪フ腕は玲子の背中に回されていた。

 そのまま少し低い位置から髣艪見上げる姿勢になった玲子は、僅かに潤んだ瞳でその顔を見つめている。

「うん、それならよかったよ。あっ……」

 髣艪フ方も安心したのだろう、優しく玲子に微笑んだ時に、自分の肩にメイド服のカチューシャが引っかかっているのに気が付いた。

「これ、外れちゃってるね。ちょっとそのままにしていてね」

 今の二人の姿勢を変えないように気をつけながら、髣艪ェ慎重に右手を動かして、折角落ちずに済んだカチューシャを手に取る。そしてそのまま、未だ半ば抱きかけのような姿になっている玲子の頭に乗せる。

 服を着せてもらう子供に戻ったような幸せな感覚で、玲子は上目遣いでそんな髣艪フ顔を見ていた。

 端から見れば、ずいぶんと色気の感じられる場面であっただろう。

 ちょうどその時のことだった。

 台所から出てきた佳奈子が、そんな髣艪ニ玲子の姿をいきなり視界の正面に捉えた。

 扉を開ける「がちゃ」という音とほぼ同時に小ホールに姿を現したメイド服す型の佳奈子は、料理の手順に自信のないところがあって、自分の部屋にある本でそれを確認しようと出てきたところだった。

 心が無防備だった佳奈子の目に、いきなりに髣艪ニ玲子が抱き合っている姿が目に入ったのだから、自身も髣艪ノ対して淡い気持ちを持っている身とすれば、佳奈子らしからぬ狼狽を感じたとしても無理はない。しかも、その行動力をうらやましく思いつつ、自分は積極的に髣艪ノ向かっていくことが出来ないもどかしさを感じているところに、そんな

「積極性」

を見せられたのであるから、頭に血が上って壮大な勘違いをしてしまったとしてもそれを責めることは出来ないだろう。

「ちょっと、玲子。こんなところで何をしているの?」

 反射的に、佳奈子は声を荒くして叫んでいた。そんな大きな声が自分の口から出たことに、佳奈子自身も驚いていた。目の前でご主人様が玲子と抱き合っている……。佳奈子の目が捉えた事実を、心がどうにかして否定しようとしていた。

 実際はそうではないことは言うまでもないが、第三者的な視点に立てば、抱きかかえられたまま上目遣いで髣艪見つめていて、髪を撫でてもらっているようにも見える玲子に対して

「そうではない」

という反論は難しかったであろう。

「えっ?」

 驚いたのは玲子も、そして髣艪燗ッじだったようだ。玲子は今の自分の姿勢と、髣艪ゥら伝わってくる体温に気付いて我に返り、顔を赤くしながら慌てて直立の姿勢に戻る。髣艪フ表情からも気恥ずかしさは隠せない。だが、そんな仕草はますます、佳奈子の誤解を促進することになってしまう。佳奈子には、「こっそり抱き合っていた二人が、そんなところを見つかって慌てて居住まいを正した」としか見えなかった。

「佳奈子さん、これは……」

「まだお仕事中でしょ、玲子。それなのに、ご主人様に対してそんなことを……」

 怒りか悔しさからか、腰の両脇で握りしめた両手が微かに震えているようでもある。

「佳奈子、それは違う」

 玲子はまだ佳奈子のその認識違いに考えを至らせることが出来ず、そうした言動は言い訳としか捉えてもらうことが出来なかった。さすがに髣艪ヘ佳奈子の勘違いに気付いて、それを正そうとしたが、今の佳奈子は髣艪フ言葉であっても素直に受け入れることが出来ない。

「ご主人様もご主人様です。いくら人目がないからって」

「だから、そうじゃないと……」

 そう言おうとしたが、逆効果であることに気が付いて言葉を飲み込んでしまった。しかし、髣艪フ立場からすれば、例え佳奈子の体を揺さぶってでもこの時に目を覚まさせた方がよかったのかもしれない。

「いいんです。失礼いたします」

 佳奈子はそう言い放って、髣艪スちの隣から階段を上っていった。

 そこに取り残される髣艪ニ玲子。特に玲子は先ほどの幸せから一転して、深刻な表情になっていた。確かに佳奈子は自分と髣艪フあの状態を誤解してはいたが、その時の自分が髣艪フ腕の中で心をときめかせていたことも事実である。だから、佳奈子が自分に向けたあの言葉は、完全に的はずれのものでもないのだという認識があった。それが罪悪感となり、今の表情に繋がっている。

「ひとまず、玲子ちゃんは仕事に戻るといいよ。夕食は四人一緒だし、その時にちゃんと説明すれば、佳奈子だって分かってくれるよ。理紗さんもいるから、無茶なことにはならないだろうし」

 髣艪ヘそう言って、ひとまず玲子を安心させた。この洋館の中で三人のメイドと暮らすことを考えた場合、特定の一人に贔屓や肩入れをすることは許されない。髣艪ヘそれを常に意識していたが、逆に二人のメイドが髣艪ノ淡い感情を寄せる中では、そうした八方美人的な態度がかえってややこしい状況を生み出すことになってしまう。その矛盾にまだ髣艪ヘ気付いていなかった。かといって、それを責めるのも酷であろう。これまでに複数の女性と器用に付き合うといった非倫理的な経験は持っていなかったし、会社生活でもそうした人間関係のぶつかり合うような部下や同僚を持った経験もない。

 似てはいてもおそらくは異なるものであろう、玲子と佳奈子の気持ちに薄々と気付いていたとしても、それを器用に捌ききることは難しい。

「はい、わかりました。でも、後でわたし、きちんと佳奈子さんに謝っておきます」

「そうだね、そうするといいかもしれないね……」

 髣艪ノしては歯切れの悪い返事だったが、今はそう答えることしか出来なかった。

 不安げな足取りで玲子は浴室へ戻っていき、髣艪燻キ務室で仕事を再開した。佳奈子が本のレシピを調べて階下に戻ってきたときには二人は既におらず、それが佳奈子の悲しさを倍加させてしまった。

 佳奈子の気持ちが落ち着いたところで、冷静、丁寧に話せば誤解は解けるだろう。

 そう考えていた髣艪フ認識は甘いものだったといわざるを得なかった。

 食事はいつも通りの時間に用意され、表面上はいつもの通り、四人がテーブルに着いた。

 髣艪フ「いただきます」という言葉と同時に始まるその夕食は、髣艪ェ佳奈子のために口を開こうとする前にその表面上の「普段」を失った。

 密かに横目で佳奈子の表情を伺い、心配そうに箸を動かしている玲子だったが、その佳奈子は箸を持ったままそれを食べ物へ動かそうとはしない。

 髣艪ェ佳奈子に声を掛けようとする直前に、佳奈子は手に取った箸をそのままテーブルの上に置いた。

「申し訳ありません、ご主人様。今日は体調がよくないみたいですので、外させていただきます」

「佳奈子……」

「ご迷惑をお掛けして申し訳ございません。本当に気分が優れなくて……」

 理紗も心配そうに佳奈子を見つめている。そんな理紗には、佳奈子は静かに微笑みかけたが、その笑顔にもどこか痛々しさが感じられる。

 食堂を辞していく佳奈子を、髣艪ェ立ち上がって追いかけようとしたが、隣の理紗に腕を取られて止められる。

「わかった……」

 理紗なりに佳奈子の態度に何か察するところがあるのだろう。そして、おそらくは髣艪フために佳奈子をよく知る理紗が諫めてくれたのだ。

「仕方ない、食事を続けるとしようか。玲子ちゃんも、泣かないで、ね」

「はい……」

 涙目になっている玲子を髣艪ェ慰める。再開した食事はお世辞にもよい雰囲気のものであるとはいえなかった。だが、落ち込んでいる玲子を前にしても、少なくとも理紗には本当の状況を知ってもらわねばならないと、先ほどあった出来事を努めて客観的に説明した。

「佳奈子らしかぬ勘違いですね。いえ、この場合は佳奈子だからこその勘違いかもしれませんけど」

 あえて理紗が笑みを見せながら髣艪ノ言う。

「最初はそんなに深刻に考えていなかったんだけど……」

「佳奈子はそんなに心の狭い人間ではありませんから、ご主人様は安心なさってください。明日には、とまではいかないかもしれませんけど、すぐにいつもの佳奈子に戻ります」

「そうだといいね」

 理紗はそんな髣艪フ言葉にはあえて何も返さなかった。

「玲子ちゃんも、ご飯が済んだら今日は休むといいよ。佳奈子とはうまくやっていたんだから、ちゃんと解決できると思うし」

「はい、ありがとうございます」

 佳奈子の作った美味しい食事だったとしても、この日ばかりはそれを味わうことは出来なかった。

「悪いんだけど、理紗さん。佳奈子の分を後で部屋に持っていってあげてくれないかな。本来は、僕がきちんとすべきことなのかもしれないけど」

「はい、私もそのつもりでしたから、お任せ下さい」

「理紗さんにも迷惑を掛けてしまって、悪いね」

「いいえ、たぶん、悪いのは佳奈子ですよ」

「そんなことはありません!」

 理紗の言葉を、そう言って強く否定したのは玲子だった。自分が浮かれていなければ、こんなことにはならなかったであろうという後悔が先にあった。佳奈子に対する後ろめたさのようなものを同時に感じていたのかもしれない。だから、玲子にとって

「佳奈子さんは悪くない」

というのは偽りではない正直な気持ちであった。


「佳奈子も、心の中では分かっているみたいね……」

 佳奈子の部屋の中は静まりかえっていたが、廊下に置いてあるお盆には、きれいに食べ終えた食器が重ねて置かれていた。

 玲子が部屋に運んでいった食事を、佳奈子はきちんと食べてくれたのだ。おそらく、一人で食事をしながら、自分の心と真剣に向き合っていたに違いない。

「私が残りの仕事をしている間に、先にお風呂に入ってもらえる?」

 お盆を下げながら、中にいるであろう佳奈子に理紗はそう声を掛けておく。

 台所で佳奈子の食器を洗いながら、理紗なりに佳奈子たちのことを考えてみる。この洋館の要は髣艪ナあるのは当たり前のことだが、要であるからこそ髣芬ゥ身が動いてしまっては解決出来ないという問題も存在する。人を好きになるということは、本質的には素晴らしいことであるはずだ。物事には光と影の部分が存在するのが常だとしても、影の場所をいつまでも影のままにしておくことに理などはない。それを自分に教えてくれた髣艪ノ、そして自分の居場所を与えてくれたこの洋館での暮らしのために、理紗は恩返しが出来ればいいとも考えていた。そうでなくても、佳奈子も、そして今では玲子も、理紗にとっては大事な友人である。

 洗い物を終えた後、理紗は台所の水回りを簡単に掃除して時間を進める。

 それを終えて理紗が浴室へ向かった頃には、佳奈子も入浴を済ませてくれたらしく、佳奈子の残したリンスの淡い香りが脱衣所の中に残っていた。

「また、佳奈子からご主人様のことも聞かせてもらおうかな」

 佳奈子と二人で風呂に入って髣艪フ話をしたことを思い出した。メイド服を脱ぎながら、理紗がそんな独語を放った。

 コンコン……。

 風呂上がりで洗った髪がまだ湿ったままであるが、理紗は隣の佳奈子の部屋のドアをノックした。

「はい?」

 中から佳奈子の声が聞こえる。その声はかすれたものではなかったので、ひとまず理紗は安心する。

「私、理紗だけど、ちょっといい?」

「うん、入って」

 その声に従い、理紗が佳奈子の部屋に入る。こうして時々、就寝前のひとときを一緒に過ごすことがあったが、この日の理紗がいつもと違っていたのは、こっそりと持ち込んできたワインボトルとグラスを手にしていたことである。

「どうしたの、それ?」

 佳奈子が理紗の持っているものに気付いて目を丸くする。ベッドの上でうつぶせになり枕に顔を埋めていた佳奈子が、そんな理紗を見ながら体を起こし、そのベッドの上に座る形になる。

「今日はちょっと佳奈子と飲もうかなって思って。赤ワインは苦手?」

「うーん、あんまり渋いのだと……」

「確か、ライトボディって言ってたから大丈夫よ。あ、こっちの椅子を借りるね」

 佳奈子と二人の時の理紗は、言葉遣いもくだけたものになる。髣艪ェ聞けば、かなり驚くかもしれない。

「そっか、ありがと。あれ、でも『言ってた』って誰が?」

 側に椅子を引いてきてそこに腰掛けた理紗に、佳奈子が聞いてみる。そんな佳奈子の耳に顔を寄せて、わざとらしくひそひそ声で理紗がその疑問に答える。

「内緒なんだけどね……。これ、ご主人様が昨日飲んでらしたワイン」

「えっ?」

 言われてみると、一度コルクは抜かれたものであり、よく観察してみれば中身も少し減っているようである。

「ちょ、ちょっと……。さすがにそれって……」

「ううん、大丈夫。少しくらい減っていても気付かれないかもしれないし、気付かれても言い逃れられる自信があるの」

「でも……」

「いいの。佳奈子のためにこっそり持ってきたんだからね」

「わかった。じゃ、私も理紗の共犯者になる」

 佳奈子も、何故、理紗がこうして自分の部屋に来てくれたのかを知っていたから、素直にそう言った。

「はい、それじゃ、これ」

 そう言って、理紗は足の付いたワイングラスを一つ、佳奈子の手に渡した。そしてコルクを抜いた後、佳奈子と自分のグラスにそれぞれ半分くらいずつ、ワインを注ぎ込む。紅茶とはまた違った、深みのある赤から、これまた紅茶とは別の上品な香りを醸し出している。

「乾杯っ」

「かんぱい」

 チンという、ガラスの軽やかな音が佳奈子の部屋に響く。理紗はそのワインに上品な仕草で口を付ける。若葉色のパジャマの上に、濡れるのを防ぐためのタオルを肩に掛け、綺麗な髪を潤ませたまま自然に流している。そんな姿はとても艶やかに見える。

挿絵5 一方の佳奈子も、淡いピンク色のパジャマの上に同じピンクのカーディガンを羽織っている。部屋を少し暖かめにしているからか、二人は特に寒さは感じていないようである。

「美味しいね」

「うん、思ったよりも渋みがなくてよかった。ご主人様の飲んでいるお酒だと思うと、ちょっと背徳的な美味しさも感じちゃうかな」

 佳奈子がそんな感想を述べる。

「でも……、ご主人様って……」

 夕方の、玲子を抱きしめているシーンを思い出したからか、一転して暗い表情になる。だが、実は理紗は佳奈子のもたらすそんなタイミングを待っていたのである。

「今日の佳奈子はやっぱり変だったわよ。何があったのかしら」

「ううん、なんでもない……。本当に食欲がなかっただけ……」

「……」

「って言っても、理紗には信じてもらえないよね。そのご主人様のことでちょっとショックだったの」

 ワインを口に運び、さほどの量ではなかったにせよ、勢いを付けるかのように一気に飲み干す。

「やっぱり、そうだったのね」

「玲子やご主人様からは何も聞いてないの?」

「そうでもないんだけどね。でも、佳奈子の方からも何があったのか聞きたいわ」

「うん……」

 理紗がさりげなく、佳奈子のグラスに次を注いでくれる。それを受け取って再び飲みながら、佳奈子はその出来事を話し始めた。

「なるほど、ね。やっぱりそうだったの」

「えっ、やっぱりって?」

 佳奈子としては言葉を選びながら慎重に話したつもりであったのに、

「全て分かった」

という表情で頷いている理紗に不満を覚えた。

「佳奈子の話を聞いて納得した。ご主人様のおっしゃっていたことの方が正しそうね」

「ご主人様はなんて?」

 実は、佳奈子が聞きたかったのはそれであった。その時にはご主人様の言い訳なんて聞きたくないと思っていた佳奈子だったが、それが本当に「言い訳」だったのかも含めて、実は最も知りたかったことがそれだったのである。本当に既に玲子と髣艪ェ恋仲になっているのか、そうではないと思いたい気持ちがそこに見え隠れしている。

「玲子さんがよろけて倒れそうになったのを、ご主人様が咄嗟に抱きかかえて支えた。それ以上でもそれ以下でもないわね」

「そう?わたしはてっきり……」

「でも、事実はそれだけ。だけど、佳奈子がそう思った理由も否定しないわよ。ご主人様にとってはそれだけであっても、たぶん、玲子さんにとってはそうでなかったところもあるみたいだしね」

 

「でしょう?」

と同意を求めるように理紗が首を傾けて悪戯っぽく笑う。玲子の髣艪ヨの気持ちは佳奈子もよく知っていたから、認めざるを得なかった。

「佳奈子はそれを見て、くやしいと思った。もっと言うと、『ご主人様を取られた』って思ったんじゃないかしら?」

「……」

 この場合は、沈黙が肯定とほぼ同じ意味を持っていた。だが、その肯定の正しい姿を、まだ佳奈子本人もよく分かっていない。指摘した理紗も、完全に把握しているようではない。

 今度は、理紗がワインを飲み終えていた。佳奈子がそれに気付いて、静かに注ぎ足す。

「あ、さすがに全部飲んじゃったら怒られちゃうね。これで最後にしないと」

 残り少なくなっていた佳奈子の杯に理紗が最後に注ぎ、未練を断ち切るかのようにコルクで栓をして床に置く。

「それはともかく、どうしてそう思ったのか、佳奈子は考えてみたことがあるかな?」

「うん……」

 メイドである自分が、ご主人様である髣艪ノ対して慕情を持ち始めたときに、その正体について自問自答したことが佳奈子にもあった。だが、理紗のことを引き合いに出すのは卑怯だとはしても、当時の自分は純粋にそれを応援していたこともあり、一般論としてもメイドがご主人様や洋館にやってくるお客様を好きになるということを間違っているとも思わなかった。髣艪ヘよいご主人様でもあったが、一人の男性としても魅力的に感じられる。それを佳奈子は否定したくなかった。髣艪フ世話をして、髣艪ノ感謝される暮らしは、佳奈子にとって嬉しく満足なものであるのも確かだった。その満足がかえって佳奈子を動かす妨げになっていたのかもしれない。

 ところが、玲子の登場が、佳奈子のいるそんな環境を急に不安定なものに変えてしまった。玲子は最初から髣艪ノ対して好意を示していたし、それを「メイドだから」と隠そうとはしなかった。勿論、メイドとしてこの洋館に住むことになった以上、メイドにあるまじき形でそれを見せることはなかったのだが。

 自然、佳奈子には焦りが生じる。だが、その焦りが佳奈子の持つ気持ちの本質を見誤らせることになったのだ。その最たる出来事が、今日のようなことである。

「佳奈子は、ご主人様のことが好き?」

 しばらくして、単刀直入に理紗が聞いてきた。

「……うん」

 佳奈子は当然、そう答える。だが、その一瞬の間が、理紗に自分の推測が正しいことを確信させた。

「だよね。だけど、どういう意味で佳奈子はご主人様のことが好きなのかしら」

「意味……?」

「そう。玲子さんがご主人様のことが『好き』っていうのは、その意味も含めてよく分かるのよ。だけど、佳奈子はどうかしら?」

 そこに、佳奈子が思いこもうとしていた、否、思いこまされていた

「好き」

があったのである。

「佳奈子は、落ち着ける居場所を求めているのではないの?玲子のひたむきな姿に影響されて、本当のものとは違う形に見えているのではないかしら」

「……」

 佳奈子は自分の中にあった嫉妬心、感情を制御できない嫌悪といった負の気持ちに向き合いながら考えている。

「もっと言うわね。佳奈子はご主人様のことが好きって言ったけれど、その先は想像出来るのかな。例えば、自分がご主人様と体を重ねているところなんかを想像できる?」

 しばらく考えた後、佳奈子は静かに首を振った。それが佳奈子の「好き」の本当の意味を示していた。髣艪ェ玲子と抱き合っている姿を見たくなかった。だからといって、自分は同じように抱きしめられるというのであればともかく、一糸まとわぬ姿になって髣艪フ前に立つなどということは出来そうにない。

「佳奈子の心は、ご主人様に近づきすぎてしまったのかもしれないわね。そして、これは仕方のないことなんだけど、佳奈子の生まれ育ちも影響しているんだと思う」

「わたしの育ち?」

 佳奈子の中でも、理紗の言わんとしていることが徐々に見えてきた。だが、それを認めてよいものなのか、決めかねてもいた。

「そう。不適切な例えかもしれないけど、佳奈子のお父さんが佳奈子の知っているある女の人と再婚するなんてことになったら、どう思う?」

「たぶん、祝福はしたくても素直に喜べないと思う」

「でしょう?じゃあ、今日、ご主人様が玲子ちゃんを抱きしめていたのを見たとき、それに似た感情が起こらなかった?」

「わかんないよ……」

 口ではそう言った佳奈子だったが、理紗のその指摘を否定できないことにも気付いていた。となると、佳奈子に見えてきた「あの感情の正体」は少しずつ明らかになっていく。佳奈子にとって髣艪ヘ、既に恋愛の対象からは別次元の場所にいたのである。妹が兄を慕うような、娘が父を慕うような、家族に対して持つような気持ちに昇華していたのである。言い換えれば、佳奈子は恋人の前にそういう心から寄りかかることの出来る存在を欲して、実際には手に入れていたのかもしれない。理紗が「佳奈子の心は、ご主人様に近づきすぎてしまった」というのはそういう意味なのであろう。

「それなら、少し考えてみるといいかもしれないわね。佳奈子は玲子のことも好きなんだし、ご主人様が好きだという気持ちを偽る必要はないけれど、本当の『ご主人様への気持ち』も偽っちゃ駄目だと思うの」

「そうだね、ありがとう……」

 未だ、佳奈子の中では髣艪ヨの気持ちをはっきりさせ切ったわけではなかった。だが、理紗はそのきっかけを与えてくれたということはよく分かった。

 ご主人様は何よりも大切な人であるが、玲子も自分にとっては傷つけたくない大事な友人でもある。まだ、割り切れない部分はあったが、理紗の「自分がご主人様と体を重ねているところなんかを想像できる?」という言葉が本質を捕らえているであろうことは認めざるを得なかった。あとは、佳奈子自身の努力にかかっているのだろう。佳奈子は、自分自身と玲子、場合によっては髣艪キらの居場所を作ることが出来るのだ。

 多少、時間はかかるかもしれない。だが、髣艪ェいる場所に佳奈子も玲子も、そして理紗も居られるということは、佳奈子にとって最も幸せなことなのはすぐに分かるであろう。

 おそらく、この晩の佳奈子は布団の中で密かに涙していたであろう。

 髣艪焉A自分のふがいなさと主人としての失格ぶりに自責の念を覚えていたかもしれない。

 だが、この洋館に居場所を求めるもう一人の娘、玲子が流した涙の量は、佳奈子の比ではなかった。佳奈子と理紗という大切な人に支えられていながら、その人たちを傷つけたり、気遣わせたりすることをしてしまっている。

 一方で、ご主人様である髣艪含めてそんなことを自分がしておきながら、この洋館に居場所が欲しい、そして髣艪好きで居続けたいという気持ちは全く変わっていなかった。

 そんな玲子が望み通りに「居場所」を得るためには、そうした涙を流すことは要求された試練の一つであったのかもしれない。後悔しても、涙を流しても、髣艪好きという気持ちは変わらない。そんな純粋な気持ちは、ライバルであると思っていた佳奈子の気持ちを動かし、その佳奈子を救うことにもなるのだった。

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