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第4章 日常へ

 桜の花が咲き始める頃には、髣艪燉m館の暮らしにすっかり慣れるようになっていた。

 佳奈子が衣食の面倒を見てくれることもあって、髣艪ヘほとんど洋館の敷地から外に出ることなく暮らすことが出来る。通勤だけで片道一時間弱を要していた昔の暮らしと比べると隔世の感があるが、逆に物足りなさを感じることもある。

 地理的にまだ慣れていない土地だけあって、休みの日に思い立って出かけてみても、まだその外出を楽しむ余裕が出来ていない。ただ、渋滞とは縁のない道路を運転することや、乗客の少ない列車にのんびりと揺られることは心地よい。そして、佳奈子と理紗という、二人のメイドがいる生活というものは他のものとは代え難い魅力的なものであることは事実だった。

 仕事の方も、順調に進むようになってきた。新しい品種や製品の開発というところまでは、今の時点では勿論及ばなかったが、少しずつ増えてきた実務は滞りなく進められるようになっており、理紗をも少々、驚かせたようである。

「おはようございます、ご主人様」

 目覚まし時計の音によってではなく、朝の心地よさによって自然に目覚めることが出来るようになったのが、この洋館で暮らすようになってからの髣艪フ大きな幸福であっただろう。

 ちょうど、目を覚まして上半身を大きく伸ばしていたところへ、水差しとグラスを持ち、紅茶色のメイド服を纏った佳奈子がやってくる。

 寝起きの姿を佳奈子に見られるのは少々恥ずかしくもあったが、佳奈子の勧めるコップ一杯の水は爽やかで心地よいものであったし、佳奈子の音楽的な声で頭を眠りから切り換えるのもよい気分であった。

「あ、佳奈子さん。いつもありがとう」

「どういたしまして。よく眠ることが出来ましたか、ご主人様?」

「うん、おかげさまで。佳奈子さんはどうだったのかな?」

「はい、わたしもです」

「それはよかった。でも、僕は今ようやく起きたところだけど、きちんとメイド服に着替えて水を持ってきてくれる佳奈子さんや、朝ご飯を作ってくれる理紗さんはもっと早起きなんだよね」

「そうですね。でも、わたしも理紗も、そんなに朝が苦手な方ではありませんし、夜も遅くまで起きていませんから」

「そうなんだ。遅くない、って、だいたい佳奈子さんは何時頃に寝ているの?」

「えーとですね、もちろん、日によって少し違いますけど、だいたい十一時か、遅くても十一時半までには寝てしまいます」

 佳奈子が、指を口元に当てて顔を微かに傾けるようにして、少し考えながら答える。髣艪ヘそんな佳奈子の姿を見ながら、水の入ったグラスに手を伸ばす。

「そうなんだ、早いね」

「ええ、美容と健康のためでもありますし」

「なるほど」

「ご主人様はどのくらいなのですか?」

「僕は、十二時頃かな。それでも、前と比べたら少し早くなった方だよ」

「えっ、そうなんですか?」

 佳奈子が驚きの目で髣艪見つめる。

「うん、残業で遅くなったら、うちに着くのが十時とか十一時とかになっちゃうことも多かったからね」

「ご主人様の昔の生活の話は時々聞かせていただきましたが、やっぱり働き過ぎだと思います」

「そうかもしれないね。でも、世の中にはもっと長く働いている人もいるし‥‥」

「でも、やっぱり働き過ぎは体にもよくないです。その、ストレスもたまりますし‥‥」

「そうだよね‥‥。だけど、僕はこっちにきてストレスからは解放された生活になったよ」

「そうなのですか?」

「うん、こうして佳奈子さんや理紗さんが僕の面倒を見てくれるし。堕落しそうで心配なくらいだよ」

「ふふっ、ありがとうございます」

「でも、佳奈子さんの方はどうなんだろう。その、ストレスとか‥‥」

 期せずして、すぐ前の佳奈子と同じ話し方になってしまう髣艨B

「あ、わたしも大丈夫ですよ。ご主人様がいらしてからは確かに仕事は増えましたし、最初は慣れなくて大変でしたけど、それでも、こうしてお仕えできる人がいらっしゃる方がメイドとして楽しく働けます」

 それはおそらく、佳奈子の本心であるのだろう。髣艪ェ来る前は、佳奈子と理紗の二人でこの洋館にいたわけだが、「寂しかった」という気持ちに象徴されるような、欠けたもののある生活だったに違いない。

「そっか。僕なんかでも少しは佳奈子さんたちの役に立っているのかな」

「そんな言い方はなさらないで下さい、ご主人様」

 強い調子で佳奈子が否定する。

「わたしの今の言葉は決して社交辞令ではありませんし、本当のことをいうと、わたしはこうしてご主人様のいる生活に慣れてからは、毎日が本当に楽しいんです」

「知らず知らずのうちに失礼なことを言っちゃったんだね。ごめんね」

「あ、その‥‥、とんでもないです。こちらこそごめんなさい」

 髣艪フ言葉を聞いて、慌てて謝る佳奈子。大げさすぎる仕草で、髣艪ノ頭を下げる。

「ご主人様のそんなところ、正直、少し威厳に欠けるような気もしますけれど、そんなお優しいところは好きです」

「威厳に欠ける、かぁ‥‥。それは難しいよ」

「そうかもしれませんね。あっ、そろそろ理紗の朝の支度も整いますので、下に降りてきてくださいね。わたしは一度これで失礼します」

 少し話し込んでしまったことに気付いたらしい。だが、髣艪ノとっても、佳奈子にとってもこうしてかしこまらずに話すことの出来る時間を嬉しく思っていた。髣艪ェ洋館の生活に慣れていく過程に、この佳奈子の性格が大きく寄与していたことは確かであろう。

「おはようございます、ご主人様」

 食堂の入り口の正面に立って待っていた理紗が、髣艪ノそう声を掛けてくれた。膝が隠れる丈のスカートである佳奈子と比べ、理紗のは膝よりも少しだけ上までの丈である。そこから伸びる黒いストッキングを履いた足が、すらりとしていて美しい。

「おはよう、理紗さん。今日もありがとう。美味しそうなパンだね」

「はい、今日は早起きしたので、いつものに加えてもう一種類、作ってしまいました」

「あ、ひょっとして、理紗の得意なあれかな?」

 台所に続く扉の近くに立っていた佳奈子が、理紗のそんな言葉に反応する。

「はい、これを焼くのは久しぶりなので、上手に出来ているとよいのですが‥‥」

「謙遜、謙遜」

 佳奈子が楽しそうに理紗に言う。

「このスライスしてあるパンのことかな」

「はい。出来れば、温かいうちにまず、ご主人様に召し上がっていただきたいです」

 テーブルの真ん中に置かれたパンの籠を半ば覗き込むようにしながら髣艪ェ着席する。それを見て、佳奈子と理紗もそれぞれ自分の席に腰を下ろす。

「いただきます」

 三人は軽く手を合わせて言い、食事を開始する。用意の整った紅茶を理紗が手際よく注ぎ、佳奈子は早速、籠から取りだしたパンを皿に乗せて髣艪ノ差し出す。

「これが、今日の新しいパンかな」

 生地の中に、緑と紫の粒がちりばめられている。外側の耳は山形の段々となった形になっているが、いつものパンよりも硬くはないようだ。

「はい、甘く煮た小豆とうぐいす豆を生地に埋め込んであります」

 理紗が少しだけ恥ずかしそうにして説明する。

「バターを塗っても美味しいのですが、そのままでもほのかな甘さが楽しめますよ」

 佳奈子がそう付け加えるのを、理紗が嬉しそうに見ている。

「では‥‥」

 髣艪ェ佳奈子から受け取ったパンを口元へもっていく。ふわっとして柔らかいパンを噛むと、小麦のもたらす穀物特有のそれと豆の上品なそれという異なる二種類の甘さが調和しながら口の中に広がっていく。

「あ、これは美味しいね」

「ありがとうございます」

 得意作といれどもやはり気にはしていたのだろう。気付かれないようにしていたつもりではあったのだろうが、髣艪注視していた理紗が安堵の表情を見せる。

「初めて食べるパンだけど、甘すぎない優しい味だね」

「ご主人様にも気に入ってもらえてよかったね、理紗」

「うん」

 一瞬だけ、髣艪フ前での理紗の言葉が崩れる。

「早起きして作ってくれたんだよね、ありがとう」

 髣艪ェパンを味わいながら、改めて感謝の言葉を伝える。

「あ、いいえ‥‥。作ったのは、今日がたまたま早起きだったからですので‥‥」

 照れ隠しになってしまう理紗。理知的な雰囲気を持つ理紗のそんな表情が髣艪ノはどこか新鮮に感じられた。

「ですが、ご主人様に美味しく召し上がっていただけて嬉しいです」

「うん、ありがとう」

 素直に礼を言う髣艨Bだが、それはかえって理紗の恥ずかしさを増してしまったようである。

「そろそろこの茶園も忙しくなってきますね」

 そうした気恥ずかしさに居心地の悪さを感じたからか、理紗がそう言って話題を転換する。そしてそんな理紗を、楽しそうに見ている佳奈子。

「そうだ、昨日、社長から新しい資料が届いていたよ」

「会社の決算ですね」

「うん。それから、お茶摘みの準備に取りかからなきゃならないとか」

「はい、特に初摘みはこの茶園にとって大事ですから」

 佳奈子もその辺の事情はさすがによく知っているらしい。「八十八夜」という童謡にも引かれた言葉があるが、春の深まる頃から本格的にお茶が収穫の時期を迎える。会社からは応援の社員が臨時に派遣されてくるという。実際には、実地研修を兼ねた新入社員であることが多いそうなのだが、猫の手も借りたいこの時期には、こちらがわの茶園としても大いに助かるそうである。勿論、佳奈子や理紗も茶摘みの時期には重要な戦力となる。髣艪燻闢`おうとして意思表明していたのだが、「ご主人様は別のお仕事があるはずです」と遮られた。だが、実際にこの目でお茶の収穫を見ることも大事だと思っている髣艪ヘ、自分も畑の中にはいるかどうかはともかく、佳奈子たちの働きぶりを見てみたいと思っていた。

「ふと思ったんだけど‥‥」

 朝食の席から話が仕事のことに終始しそうになって、髣艪ヘ話題を別方向に向けようとする。

「どうなさったのですか、ご主人様?」

 理紗が問いかける。

「茶摘みの時には、佳奈子さんや理紗さんも畑に出るんだよね」

「はい、そのつもりです。勿論、ご主人様のお世話がおろそかにならない範囲で、ですが」

「茶摘みっていうと、絣の着物を着た娘さんやおばさんが、ってイメージがあるんだけど、ひょっとして佳奈子さんたちも?」

「あ、実はですね‥‥」

 佳奈子が少し恥ずかしそうにして、理紗の代わりに口を開いた。

「うん?」

「その時もいつもと同じ、この服のままなんです」

「えっ、そのメイド服で?」

「はい。先ほどもご主人様がおっしゃっていましたように、会社の新人さんが手伝いに来てくれるのですが、その時ばかりはどうしても恥ずかしくて‥‥。特に理紗は、研修の講師としてすぐ前に教えていた人たちになることも多いこととあって‥‥」

 佳奈子は顔を赤くしているし、理紗もどこか居心地が悪そうにしている。目の前の二人のメイド服姿と茶畑を重ねた風景を髣艪ヘ空想してみる。当然、「なぜわざわざメイド服で」という疑問が次に頭に浮かんだが、どうも今の二人には尋ねにくいようだ。仕方なく、髣艪ヘもう一つ別の茶の話題を出す。

「そういえば、お茶といえば一つ、気になっていたことがあるんだけど‥‥」

 紅茶を飲みながら、髣艪ェ理紗に聞く。

「はい、なんでしょうか?」

 ほっとした表情で、理紗が顔を上げる。

「お茶の畑に、電柱くらいの高さの風車みたいのがあるんけど、あれって何に使うのかなって思って」

「あっ、あれはですね、霜よけです」

「霜って、あの冬の?」

「はい。お茶の新芽は、高級品として貴重な存在になるのですが、新芽が出る頃は春といってもまだ、急に冷え込む時もあるんです」

「うん」

「そんな冷え込んだ日には、霜が降りてしまうのですが、その霜っていうのが、新芽にとっては大敵なんです」

「なるほど」

「霜は、地上の温度が低くて、空に暖かい空気が入り込むと発生するのですが、そうした時にお茶の新芽が傷つくのを避けるために、冷たい地上の空気をあの風車で追い払って霜が降りないようにするのです」

 丁寧に理紗が説明する。そうしながらも、髣艪ニ佳奈子の紅茶が空にになったのに気付いて、優雅な手つきで二杯目を注ぐ。

「そう、わたしも最初に見たときは、『風力発電?』と思ったんです」

 佳奈子が言う。

「そっか、これで疑問が解決したよ。最初の理紗さんの研修の時に聞けばよかったんだけど、タイミングを逸しちゃってね」

「そうでしたか、ご主人様のお役に立ててよかったです」

 にっこりと理紗が微笑む。ティーポットを持ったままでのそんな理紗の姿は本当にメイドらしく感じられる。

「ともあれ、これから忙しくなる仕事は頑張らないとね」

「そうですね、私も出来るだけお手伝い致します」

「わたしは、ご主人様に快適にこの洋館で過ごしていただけるようにしますね」

「うん、ありがとう。二人ともよろしくね」

「はいっ」

 同時に答える佳奈子と理紗。こうして、ゆったりとした朝食の時間が過ぎていくのだった。


 そんな繁忙期も無事に過ぎて、紫煙の薫る梅雨時を経て、本格的な夏になった。

 この頃になると、髣艪フ洋館での生活もすっかり慣れて落ち着くようになり、高慢さの全くない「ご主人様」として佳奈子や理紗との暮らしを送るようになっていた。人と人との間にある相性というものを考えるとしたら、それはかなり理想に近い位置にあるようだった。

 五月を山場にした茶の収穫期も無事に終わり、佳奈子たちの心にも余裕が出来た。

 メイド服も、半袖で薄い布地を使った夏服へに変わり、少しだけ丈の短くなったスカートの裾に見えるペチコートの白い飾りも軽やかに感じられる。

 空の青は深い広がりを見せていたが、日差しは厳しく、石造りの洋館では冷房の助けなしでは暮らすのことは容易ではなかった。

 メイドの仕事として考えたときは、食事には特に気を遣わなければならなくなる一方で、洗濯物が強い日差しの中で二、三時間ほどで乾いてしまうことは助けになっている。佳奈子が菜園で育てている野菜も元気な緑を誇り、時々、髣艪スちとの食卓に彩りを与えてくれる。

 東京とは違って緑に囲まれているこの環境で、髣艪ノとっては鬱陶しいばかりだった「夏」というものの力強い姿を目の当たりにする久しぶりの機会となった。

 八月に入り、佳奈子と理紗は交代で一週間程度の夏休みを取ることになった。二人ともずっと住み込みでこの洋館で働いていたから、その長い休みには親元へ帰ってのんびり過ごすのだという。二人とも九州で、佳奈子は髣艪フ故郷からもそう遠くない町の、理紗はこの洋館のある県内の海にほど近い小さな町の出身だという。

 休みの時期は髣艪フ仕事の予定も踏まえて佳奈子と理紗が二人で相談して決め、髣艪ノ報告される。今年は、佳奈子が先に休むことになり、数日を挟んで入れ替わりに理紗が休むという日程になった。

 佳奈子が休んでいる間は、食事や洗濯、掃除といった身の回りの仕事も理紗の役割となる。

 理紗にとっては不慣れは否めないものではあったが、それでもメイドとして充分に通用する腕前であったし、少なくとも同じ年頃の女性たちと比べても上手にそれらの家事をこなしていただろう。

 この頃には髣艪フ仕事の進め方も手早くなっており、特に大きな問題が起きない限り、理紗の助けを必要としなくても遅滞なく進めることが出来るようになっていたことが幸いだったかもしれない。

「ご主人様、失礼いたします」

 昼下がりの、少し睡魔に襲われそうになった時間帯に、冷房のおかげでなんとか過ごしやすくなっている執務室へ理紗が姿を見せた。

 少し前まで、外で洗濯物を取り込んでいたためであろうか、うっすらと汗ばんでいるようにも見える。

「あ、理紗さん、どうしたの?」

「実は、少し休憩させていただいておりまして、冷たい紅茶を入れてみたのですが、ご主人様にも飲んでいただけたらと思いまして、お持ちいたしました」

「理紗さんの紅茶か、うん、ありがたくいただくことにするよ。僕も少し休憩にしようかな」

 傍らの時計を見ると、既に昼休みを終えてから二時間ほどが経過している。この日の昼食に理紗が用意してくれたのは、夏野菜をふんだんに使った冷製パスタだった。「佳奈子ほど上手には作れませんので‥‥」と謙遜する理紗だったが、おそらく得意料理である洋食に関しては彼女に引けは取らないであろう。そう指摘すると、理紗は「ありがとうございます」と頭を下げて恐縮するのだった。

 髣艪ェ洋館で暮らすようになってから半年ほどが過ぎている。元々の性格もあるのだろうが、佳奈子の方は髣艪ノ対してずいぶんと気さくに接してくれるようになっていた。勿論、メイドとして必要な礼儀や振る舞い、言葉遣いから逸脱することはなかったが、時には仲のよい女友達とも思えるような距離の近さを髣艪ノ感じさせてくれる。理系出身にしては珍しく、髣艪ェ佳奈子のよく口にする故事成語の類に好意ある反応を返すことも彼女を喜ばせている面があったのかもしれない。

 一方、理紗の方はメイドとしての働きは申し分なく、髣艪フ仕事を支える補佐役としての役割も充分以上に果たしていた。そのメイド服姿は優雅さすら同時に纏っているように感じられるが、どこかまだ髣艪ノ対して詰めようのない距離を持ったまま接しているように感じられる。勿論、理紗がメイドとしての義務感のみで髣艪ノ仕えているのではないということははっきりしている。否、そのようなメイドはメイドとして失格であろう。

 少し抽象的な表現でいえば、理紗の笑顔は思わず見とれたくなるような美しいものであったが、その中に髣艪ノは届かないような憂いを秘めているように感じられるのである。理紗も一人の人間であり、佳奈子から聞く範囲においては、先代の孝敬が死んだことに関する衝撃からまだ抜け切れていないということを想像している。故に、まだ残っている理紗との距離というものを強引に詰めようとすることはあまり好ましくないと考えていた。ただ、もし理紗の中に越えきれない闇というものが残っているのだったら、それを闇でないものに変える手伝いをしたい、そういう漠然とした望みが髣艪フ中にはある。

 佳奈子がいないこの一週間に、そういう機会が得られることをどこか期待していた髣艪ナあったが、残念ながら今はまだそうなるには早いようであった。

 理紗の方は、特に掃除や洗濯といった仕事に不慣れ故のちょっとした困惑を感じていたところがあるらしい。その困惑の中には、ひょっとすると「この一週間はご主人様と二人だけで過ごす」という意識が含まれているのかもしれない。同じく、孝敬に仕えていた頃の自分を思い出し、いいようのない気持ちになる自分に気付く。それがある意味では今のご主人様である髣艪ノ対して失礼に当たるのではないかという畏れも少なからず含まれているのであろう。

 かといって、理紗が髣艪フメイドであるということには一片の曇りも感じていなかった。孝敬の存在は別にしても、髣艪ヘ理紗にとっても仕え甲斐のある素晴らしいご主人様であったし、そのご主人様の生活を助けることが出来る自分の存在を誇る気持ちもあった。髣艪フ「ありがとう」という言葉を代え難い報酬にも思いながら働いている理紗であったし、だからこそ、こうして休憩時間にそんな髣艪ノ喜んでもらおうと、紅茶を持って執務室へやってきたのである。

「理紗さんも休憩時間なんだよね。だったら、ここに座って」

 髣艪フ隣にある椅子を理紗に勧める。仕事の時の理紗の席もこれであるのだが、どう見ても事務用の無機質な椅子と、優雅な紅茶色のメイド服という組み合わせがどこかユーモラスに感じられてしまう。

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせてください」

 机の上の書類やファイルを手早く動かし、二つの大きめなガラスのコップを置く場所を作る。

「すみません、コースターくらいはお持ちするべきでした。でも、それですとわたしがここでご主人様と一緒に休ませていただくことを期待していたみたいですし‥‥」

「そんなことは気にしなくていいのに。今日は理紗さんには家のことをお願いしているけど、普段はここは理紗さんの居場所でもあるんだから」

「はい、ありがとうございます」

 綺麗に揃えた膝の上に手を置いて、理紗が軽く上品に礼をする。髣艪ヘ苦笑しながらそれを遮り、理紗の持ってきてくれた紅茶を口に運ぶ。

「そういえば、冷たいのは初めてだったかな。なんかこう‥‥、色も澄んでいて綺麗に見えるし、喉越しもすっきりしていて気持ちいいね」

「お口に合ったようでよかったです。ですが、この部屋で飲むにはちょっと冷たすぎたかもしれませんね」

「そうかな。でも、眠くなりかけていたところだったから、いい刺激にもなったよ。アイスで入れるには、いつもとは違ったコツなんかがあるのかな?」

 理紗も、その細く白い手でコップを持ち、自分の入れた紅茶を味わっていた。

「はい、一番大きい違いは、温かいものよりも濃いめに抽出することでしょうか。お料理でも、冷めてから食べるようなお弁当のおかずなどは濃いめに味付けしますが、それと似たようなものだと思います」

「冷たさに味と香りが負けないようにしないといけないわけだね」

「そういうことだと思います。それから勿論、氷で急激に冷やすわけですから、その分薄まることも考慮に入れておかねばなりません」

「確かにそうだね‥‥。うん、美味しいよ。実は僕はこれまで、冷たい紅茶っていうと缶の飲み物しか飲んだことがないんだけど、甘いばかりであまり美味しくなくて、それでますますアイスとは縁遠くなっていたかな‥‥」

「残念ながら、缶飲料などの流通品では使える茶葉の質に制限がありますから、味と香りが劣る分は、甘さで誤魔化す必要が生じてしまうのです」

「なるほど。缶コーヒーも甘いものが多いよね」

「はい、コーヒーも似た理由だと思います。ですから、今は夏場の飲料ではカロリーの面での優位さもあって、緑茶の勢力が大きくなっています」

「なるほど‥‥」

 そう理紗は説明する。心なしか、そんな理紗の表情が生き生きして見える。

「ごめんね、理紗さんには慣れない仕事をしてもらって。その‥‥、洗濯とか。外は暑いでしょ」

「いいえ、私だって家事はそんなに嫌いではありません。佳奈子くらい上手にこなせたらいいなとあこがれはしますが」

「比べるようなものでもないと思うけど」

「いえ、そこは女同士、やっぱり気にしてしまうのですよ。逆に、佳奈子は自分の幼く見える容姿を私と比べて気にしていますでしょう?」

 「ご主人様も気付いてらっしゃいますよね?」と、言葉にはしないが明らかにいたずらっぽく笑う理紗の顔がそう表現している。勿論、それを理紗はどこか微笑ましく感じていることも明らかである。

「確かにそうだね‥‥。あっ」

 つい本音が出てしまったことに髣艪ヘ気が付いた。

「僕はそんなことを思う必要は全然ないと思っているんだけど、佳奈子さんはやっぱり気にしているみたいだよね。だから、僕たちがこんな話をしていたことは佳奈子さんには内緒にね」

「はい、分かっています。私もご主人様にそんなことを話したと知られたら佳奈子に嫌われてしまいますし」

 理紗が冗談交じりに笑いながら同意する。

「だけど、理紗さんもそうじゃないのかな。佳奈子さんにも理紗さんにも、それぞれ自分にしかない魅力があると思うし」

「ありがとうございます。でも、お料理や家事が上手になるのは悪いことではないと思いますので、私も努力します。パンだけでなく、他のお食事も上手に作れるようになりたいと思います」

「うん」

「そういうわけですので、今日のお夕食はご期待下さい」

「そうさせてもらうね」

 ちょうど、理紗も髣艪熏g茶を飲み干したところだった。さりげなく髣艪フ空きのコップを手元に引き寄せて、理紗が椅子から立ち上がった。

「それでは、ご主人様、お話を聞いてくださってありがとうございました」

「ううん、僕も気分転換になったし、紅茶もとても美味しかった。ありがとう」

「そんな‥‥、恐縮です」

 こうした礼がメイドに対して嫌みなく言えるところが髣艪フ美点かもしれない。理紗は恥ずかしさと嬉しさを同居させたような表情になりながら、髣艪フ執務室を辞した。

「さて、僕も続きに戻るかな‥‥」

 そんな理紗の表情を思い出し、少しでも距離を近づけることが出来ればと感じている髣艪ナあった。

「では、しばらくお休みさせていただきます。佳奈子、ご主人様のこと、よろしくね」

 佳奈子が夏休みから戻って三日後に、今度は交代で理紗が休むことになった。その休みの初日、ちょうど手の空いていた佳奈子が髣艪ノ声を掛けて、洋館を出る理紗を玄関で見送った。

 白のブラウスに淡いピンクのロングスカートという理紗の私服姿は、髣艪ノとっては初めて目にするものであり、とても新鮮に映った。同じく白のカーディガンと帽子を身につけているのは、日焼けを防ぐためであろうか。

「うん、大丈夫よ。理紗もゆっくり休んできてね」

「そうだね、ご両親に甘えてくるといいんじゃないかな」

 佳奈子の言葉に髣艪燗ッ調する。

「はい、そうさせていただきます」

「あれ、車を用意した方がよかったかな?」

 バッグを持って歩き始めた理紗に、髣艪ェ不思議そうな顔を向ける。

「あ、駅まで歩きますので、大丈夫です」

「えっ?」

 髣艪ェ初めてこの洋館へやってきた時のことを思い出した。寝台特急から乗り継ぎ、駅からタクシーに乗って十分ほどかかったはずである。この炎天下、車でもそれくらいの時間がかかる距離を歩くのは大変だろう。

「あっ、ご主人様はまだご存じなかったのですね」

 隣りにいたメイド服姿の佳奈子が髣艪フ方に体を向けた。

 こちらを振り向いている理紗に代わって、佳奈子が髣艪ノ説明をする。

「ご主人様がいらっしゃる時に乗ってこられた鉄道ですが、お降りになった次の駅が、実はここからそれほど遠くないところにあるんです」

「そうなの?」

「はい、歩いて十五分ほどでしょうか。ですが、何にもない無人駅ですので、あまり利用するお客さんもいませんし、そのような駅からご主人様に来ていただくのもどうかしらと思いまして‥‥」

 髣艪ェこの洋館に来るときに渡された手紙と地図のことを言っているのだろう。

「なるほど、そうだったのか」

「はい。ですので、暑いのは確かですが、私は大丈夫です」

「わかった、でも気をつけてね」

「はい、ありがとうございます」

 軽く一礼して、理紗はその駅の方へ向かって歩いていった。

 残された佳奈子と髣艪焉A暑さに追い立てられるような形で洋館の中へ戻る。

 洋館の建物の中へ入ると、日陰ということもあってか、微かな涼味が二人を包み込んでくれる。

「理紗さんが戻ってくるまでの間、佳奈子さんの負担を増やしてしまうかもしれないけど、よろしくね」

「はい、こちらこそ。でも、ご主人様と二人きりというのは、少しドキドキしてしまいますね」

 そんな自分の台詞によってかえって事実を再認識してしまったのか、恥ずかしくなってうつむく佳奈子。

「あはは、佳奈子さんでもそう思うことがあるんだ」

「あ、そのおっしゃりかたは何かひどいです」

 髣艪フ冗談交じりの言葉に、その恥ずかしさを消したのもあってか、今度は不満そうに髣艪見上げながら抗議する。

「いや、そんな佳奈子さんが微笑ましく見えて。何かこう‥‥、リラックスしてくれているというか」

「そうでしょうか。ひょっとすると、わたしも実家で休んできたので、少し気が軽くなっているのかもしれません」

 「可愛らしく見える」という表現を慎重に避けた髣艪フ言葉だったが、期せずして佳奈子の明るさの原因をある程度、的確に指摘していたのかもしれない。佳奈子も、理紗も含めた三人での生活から少し違ったこれからの数日に、新鮮さを感じていてもいたのだろう。

「うん、それならよかったよ。ご両親はお元気なのかな」

「はい、父は元気で、わたしが帰ったのをとても喜んでくれました。母は‥‥、わたしの小さい頃に亡くなっているんです」

 僅かに申し訳なさそうな顔をする佳奈子。悲しみというよりは寧ろ、ご主人様にそういった湿り気のある身の上を話さなければならないことに対してそう感じているのだろう。

「ご、ごめん。確か、前に一度聞いていたよね‥‥。本当に申し訳ない」

 それを思い出した髣艪ェ慌てて謝る。だが、佳奈子は首を振ってそんな髣艪フ謝意を否定した。

「いいえ、ご主人様が謝る必要はないです。本当に小さい頃の話なので、そんなに悲しいって気持ちもないんです。それに、ご主人様と暮らしている中では、いつかは知っていただくべきお話でしたし」

「でも‥‥」

「ちょっと例えが悪いかもしれませんけど、理紗に少しだけイギリス人の血が流れているのと同じ、ご主人様にはそんなくらいの驚きで構わないんです」

「‥‥」

 新たな言葉が出せないでいる髣艪ノ、佳奈子がにっこりと微笑みかけた。それが作られた笑顔ではなかったのが髣艪ノも分かったので、佳奈子のためにもそれ以上謝ることは止めることにしたのだった。

「もうすぐお昼ですよね。わたし、これから用意しますね」

「そうだね、僕も仕事に戻らないと。理紗さんもいい休日を過ごしてきてくれるといいね」

「はい、わたしもそう思います」

 こうして、二人はそれぞれ自分の場所へ戻っていった。

 その翌日の夕食後、入浴前のひとときを、髣艪ヘ応接間で佳奈子と一緒に過ごしていた。

 佳奈子らしからぬミスで、量を作りすぎたこの日の夕食を、「食べ物を残すのは罰が当たるから」と言ってなんとか食べ終えた髣艪ヘ、食後しばらくの間はほとんど動くことが出来ずに、半ば這うようにして隣の応接間のソファへ移った。

 「本当に申し訳ございません、ご主人様」と何度も謝る佳奈子を制して、テレビのリモコンを手に取ってスイッチを入れた髣艪ヘ、グルメ旅行番組が画面に映し出されたのを見て、慌ててチャンネルを別の局へ変える。

 それでも、佳奈子が食器の片づけと洗い物を終えて、風呂の用意を整えてくる頃には少し腹にも余裕が出来るようになっていた。

「あの‥‥、お紅茶を用意いたしましょうか?」

 この日の佳奈子は遠慮がちに髣艪ノお伺いを立てる。日によって紅茶かお茶か、もしくはコーヒーを食後に楽しむ髣艪セったが、佳奈子が髣艪フテレビ鑑賞を妨げないように気をつけながらもそっと近くにかがみ込む姿はどうしてもよそよそしくなってしまう。

「そうだね、時間がたったらかなり楽になったよ。だから、紅茶をもらおうかな。そうだ、佳奈子さんも一緒にどうかな」

「はい、お台所の仕事も済ませてしまいましたので、ご主人様さえよろしければ喜んで」

「じゃ、そうしよう」

「わかりました」

 佳奈子は嬉しそうに棚から二つのティーカップを取り出した。紅茶の用意が整う頃には、髣艪フ見ていた映画もちょうど終わりになったようで、英文字のスタッフロールが落ち着いた音楽と共に流れていた。

「ありがとう、佳奈子さん。これも終わったみたいだから、消しておこう」

「はい、ではお注ぎしますね。映画はいかがでしたか?」

「うーん、アクションはなかなかよかったけど、途中から見たからよく分からないところがあったよ。でも、たまにはいいよね」

「そうですね。本当に、今日はご主人様に無理をさせてしまって申し訳ありませんでした‥‥」

 紅茶を注ぎ終えた佳奈子が、改めて頭を下げる。

「ううん、それはもういいって。美味しい物をたくさん食べられたのも事実だし」

「はい、ありがとうございます」

「さ、佳奈子さんも座って」

「失礼いたします」

 スカートの裾に気をつけながら、佳奈子が髣艪フ隣りに腰を下ろした。ソファは柔らかかったので、その佳奈子の体が僅かに髣艪フ方へ傾いてしまい、慌てて居住まいを正す。自然に揃えられた膝を少しだけ髣艪フ方へ傾ける。それに呼応して、体も微かに髣艪フ方を向いた角度になっている。

「今日は、大変だったでしょう、お疲れさま、佳奈子さん」

「ご主人様も、いつもよりお仕事から上がってくるのが遅かったですよね、お疲れさまでした」

「ありがとう」

 紅茶の佳い香りを味わいながら、髣艪ヘカップを手に取る。

「わたしの方は、実はあまり大変ではありませんでした」

「そうなの?」

「はい、理紗がいないので、洗濯物も一人分少なかったですし。でも、お夕食はちょっと張り切りすぎてしまいました‥‥」

 ばつの悪そうな顔をする佳奈子。ひょっとすると、髣艪ニ二人だけであることを意識しすぎてのことなのかもしれない。

「もし、食べ残しになってしまったら、わたしが明日いただくことにしたのですけれど‥‥」

「でも、折角の料理は出来たてで食べる方がいいよね。それに、今の季節は保存にしても結構、心配だし」

「そうですね。本当はこんなことを思っちゃいけないんでしょうけど、全部食べてもらえたのは嬉しかったんです」

「そうか、頑張った甲斐があったかな」

 そんな髣艪フ表情を見て、ようやく佳奈子に笑顔が戻ったようである。

「それはそうと、お休みの間はお父さんのところでゆっくり出来たんだよね?」

「はい、おかげさまで。わたしは父との二人暮らしが長かったですから、帰ったときは歓迎してくれるんですよ」

「それはよかった」

「父もわたしに合わせて休みを取ってくれて、昔みたいに、史跡と博物館巡りにも連れ回されてしまいました」

「昔みたいに?」

 そんな話をする佳奈子は楽しそうで、不謹慎ながらもそんな彼女を髣艪ヘうらやましく思った。仲が悪いというわけではなかったが、髣艪ヘ実家の両親や兄とはそんなに近しく過ごしているわけではなかった。

「はい、話せば長くなるんですけど‥‥」

「うん、佳奈子さんの昔の話って、興味あるな」

 そんな髣艪フ言葉に背中を押されて、佳奈子が話を先に進める。

「女の子って、男親に距離を置いてしまう時っていうのがあるんですよ。わたしも例外ではなくて、しっかり外で働いて、家では一人でわたしを育ててくれていることにはいつも感謝しているんですけど、それを上手く表に出せない時があったんです」

「なるほど‥‥」

「兄弟姉妹がいれば、また変わっていたのでしょうけど、本当に父と二人だけの暮らしでしたから‥‥」

「そっか‥‥」

「今から思えば、父も年頃の娘にどう接すればよいのか分からなかったのかもしれませんね。ちょうどそんな中学三年くらいの頃に、一度だけ思い切って『受験の力になって欲しい』って父に頼んだことがあるんです」

「うんうん」

「その時、父はいろいろとわたしに教えてくれました。歴史小説が好きな人だったので、説明の仕方がどこか物語風だったんですけど、かえってそのおかげで勉強に嫌気が差さずにすんだみたいです」

「それはよかったね」

「時には『実地の物に接するのも大事な勉強だ』って言って、県内の城跡とか博物館なんかにわたしを連れて行ってくれたんです。勉強が大変な時にも『そういう時には気分転換も必要だ』って言って」

「きっと、佳奈子さんと出かけられる理由があるのが嬉しかったんだと思うよ」

「はい、そうですよね。それで、狙っていた高校には無事に進学出来たのですが、それからも時々、父にいろんな場所に連れられていくうちに、歴史に興味を持つようになったんです。大学も、それを専攻にしました」

「なるほど、ひょっとして、佳奈子さんの口から時々難しそうな言葉が出てくるのは、その影響なのかな?」

「はい、きっとそうだと思います」

 髣艪焉A自分の素質と好みで選んで統計を学んだということに関しては自負心を持っていた。それと同じものが佳奈子にもあるのだろう。

「その頃には、父との接し方に困ることなんてなくなっていましたし、女の子のわたしを大学に通わせてくれたことに感謝もしていましたので、せめてもの親孝行と、疲れて帰ってくる父に食事を作るようになったんです」

「佳奈子さんの料理のルーツはそこなんだね」

「はい、他にも、それまではずっと嫌々やっていた他の家事も、積極的にするようになりました」

「料理と家事の嫌いな佳奈子さんか‥‥、僕にはちょっと想像できないな」

「そんな意地悪を言わないでください。でも、そうやって父という身近な人に対してでも、自分が役に立てるってことが感じられて、嬉しく思いました。こうして今、メイドをやっているのも、そんな気持ちが高じてのことなんだと思います」

「そっか。僕は地元の高校から東京の大学、正確には神奈川だけど‥‥に進学してそのまま東京にいたから、就職してからも滅多に帰らなかったな。両親は商売をしているんだけど、兄貴が継いでくれるから気楽な反面、ちょっと疎外感も感じているのかもね。それに最近は、帰ると『結婚しないのか』とうるさいしね」

「ふふ、ご主人様はそういうお歳ですものね。確か‥‥」

「二十九歳だよ。残念ながら、秋にはめでたく三十路。佳奈‥‥」

 慌てて髣艪ェ言葉を止める。だが、佳奈子は笑いながら髣艪フ聞こうとしていた質問に答える。

「わたしは二十五歳です。あの、驚くかもしれませんけど、理紗も同い年なんですよ」

「あ、でも、だいたい、予想の範囲だったかな。気にはなっていたけど、女の人に面と向かって歳なんて聞けないし」

「いいんです、ご主人様にはメイドのわたしたちのことを多く知ってもらいたいですし」

「そっか、お言葉に甘えさせてもらうね」

 髣艪ニ佳奈子の会話が弾む。

「あ、お休みの時といえば、ちょっとびっくりしたことがあったんですよ」

「へぇ、どんなことなのかな?」

「一日だけ、一人で福岡の天神に買い物に出かけたんですけど、一休みしてお茶を飲もうかと思って歩いていたときに、偶然、高校の時の同級生に会ったんです。わたしも彼女も今は福岡じゃないのに」

「それはすごいね」

「はい。直美っていうんですけど、今は東京のレストランで働いているんだそうです。ちょうど直美は、短大時代の友だちと福岡と長崎に旅行に来ていたところらしくて」

「そうなんだ」

「しかも、もう一つびっくりすることがあったんですよ。一緒にいたその直美のお友達、真理子さんって言うんですけど、真理子さんも東京でメイドさんをしているんだそうです。結局、入った喫茶店で、三人でお料理やメイドの話で盛り上がってしまいました」

 そんな風に楽しそうに話している佳奈子を見ると、髣艪煌しくなってくる。とっくに二杯目の紅茶も飲み終えていたが、そのようなことは全く気にならなかった。理紗のいない環境でご主人様である髣艪ノ、例えば兄に対するような気持ちを向けてみたかったのかもしれない。ひょっとすると、父の話をすることが、佳奈子のそうした甘えを引き出すきっかけになったのかもしれない。

 佳奈子さんは普段から自分のためにいろいろなことをしてくれる。それに対する一つのお礼にもなるのではないかと髣艪ヘ感じていた。

「うん、佳奈子さんのお休みもずいぶんと楽しかったようでよかったよ」

「あっ、先ほどからずっとわたしの話ばかりしていました‥‥」

「ううん、佳奈子さんのことがいろいろと聞けてよかったよ。何ていうのかな、少し距離も縮まったみたいで」

「ありがとうございます。そのついでにもう一つだけお願いしてもよろしいでしょうか」

 佳奈子が体の向きを更に髣艪フ方へ近づけて、真面目な顔で言った。

「うん、なんだろう?」

「はい、その‥‥、『距離が縮まった』というご主人様のお言葉に甘えて、これからはわたしのことを『佳奈子』と呼んでくださいませんでしょうか」

「それって?」

「わたしはご主人様にとってはメイドですし、馴れ合いではなく親密さを示す意味で、『佳奈子さん』っていう他人行儀名呼び方ではなく、呼び捨てにしていただきだいのです」

「佳奈子‥‥?」

「はい。あの‥‥、やはり図々しいお願いでしたでしょうか?」

 女性を呼び捨てにすることに対して抵抗のある髣艪セったが、佳奈子が言ったような気持ちも分からなくもない。

「‥‥」

 即答は出来ずに、しばらく黙っていた髣艪セったが、不安そうに自分を見ている佳奈子を放置出来ずに、心を決めることにした。

「わかった。これからは『佳奈子』でいいんだね」

「はい、ご主人様」

 そんな佳奈子の表情は、ちょうど雲間から姿を見せた夏の太陽のようであった。

 タイミングがよいのか悪いのか、その日の夜にちょっとしたトラブルが発生した。

 佳奈子と紅茶を楽しんだ後、入浴を済ませた髣艪ヘ、部屋で本を読んでいた。割と軽い内容の本であったので、順調に読み進めて、章の区切りがついたところで終わりにする。時計を見ると十一時を少し回っており、文字を追っていた目の疲れが心地よい眠気を誘っている。

 ベッドにもぐり込もうとした髣艪ヘ、ふと喉の渇きを覚えた。

「寝る前に、水を一杯飲んでおこうかな」

 朝になれば佳奈子が水を持って起こしに来てくれるのだが、この季節は暑くて寝苦しいこともあり、なるべく眠りの妨げになりそうな要素はなくしておきたかった。

「佳奈子さん‥‥、いや、佳奈子ももう休んでいるだろうし、ちょっと下に降りてくるかな」

 既にパジャマ姿になっている髣艪ヘ、部屋の隅に置いてあるスリッパに足を入れて廊下に出る。

 薄暗い廊下から階段を下りて、玄関前のホールから食堂を通って台所にある冷蔵庫の方へ向かおうとする。

 だが、ちょうど階段を下りたところで人影を見て、一瞬、驚いて足がすくんだ。

「えっ、ご主人様‥‥」

 風呂上がりの佳奈子だった。淡い水色のパジャマに着替え、いつも耳の後ろの二ヶ所で束ねている髪を今はおろして、軽くヘアピンで留めている。ゆったりとしたパジャマに身を包んでいたから、薄着であっても女性らしい体の曲線はさほどあからさまではなかったが、湯上がり特有の上気してリラックスした表情が無防備さを感じさせ、今までに見たことのない魅力を見せていた。

 そんな自分の姿に気付いたのだろう、そして同時に自分が髣艪フ進もうとしている場所に立ちつくしているのを悟って、慌てて階段脇に移動した。

「か、佳奈子さん‥‥」

 そんな佳奈子の姿に狼狽していた髣艪ヘ、先ほど求められたことを忘れて、さん付けで呼んでいた。佳奈子の方も同じく慌てており、その髣艪フ

「間違い」

にも気付かなかった。

「すみません、少し遅くなってしまって、今、お風呂をいただいてきたところだったんです。ご主人様は‥‥」

「あ、のどが渇いちゃって。寝る前に水を飲もうと思って降りてきたところだったんだよ」

「そ、そうなのですか‥‥。すみません、ご主人様にこのような姿をお見せしてしまって」

「ううん、それはいいんだけど。そうだね、体を冷やさないようにして休んでね」

「はい、ありがとうございます。では、おやすみなさい」

「うん、おやすみ」

 何かから逃げるようにして佳奈子は小走りで階段を登っていく。自分とは逆の方へ曲がっていった佳奈子の後ろ姿を見送る形になった髣艪ヘ、その先に佳奈子の私室があることを思い出し、見たこともないその部屋のベッドにいる佳奈子の寝顔を一瞬だけ想像した。

 ようやく少し落ち着いてきた髣艪ヘ、冷蔵庫の中に麦茶のボトルが入っているのを見つけ、冷たい水の代わりにコップに注いで一気に飲み干した。心地よい冷たさが体に染み渡るように感じ、体の方も落ち着いてくる。

「さて、早く寝るか‥‥」

 寝付きにくくなることを危惧して、髣艪熨ォ早に部屋に戻った。不意に目の当たりにした佳奈子の可愛らしさは、髣艪ェ眠りに就くまで大きく印象に残っていた。

 一方の佳奈子は、部屋に戻っても動揺を隠せなかった。ご主人様である髣艪ノ対し、どうしてこうした高揚を感じたのかがよく理解できていない。パジャマ姿を見られてしまったという単純な羞恥だけに収まらないことは分かっていたが、その正体が何であるのかは分からない。

 この日の佳奈子はかなり動転していたようで、髪を乾かして梳かすのを忘れたまま寝てしまった。そのために、翌朝、鏡に写る自分を見て少しばかり慌てることになる。

「おはようございます、ご主人様」

 いつもの時間に佳奈子が起こしに来てくれた。

「おはよう、佳奈子さ‥‥、ううん、佳奈子」

 二重の意味で気恥ずかしさを感じながら、髣艪ェ呼び方を訂正しながら佳奈子に微笑みかける。

「お水、枕元に用意いたしました」

「うん、ありがとう。その、昨日はごめんね」

「い、いいえ。わたしの方こそ、あのような姿をご主人様にお見せして‥‥」

 よせばいいのに、髣艪ヘそんな話をして昨晩のことを思い出させてしまう。

「それはいいんだ。ところで、今日の朝ご飯は何かな?」

「はい、今日は朝から暑くなりそうなので、冷たいおうどんを用意しました」

「そっか、それは気持ちよさそうだ」

 軽快な喉越しを想像して、髣艪ェ表情を緩めた。

「簡単なものにしてしまって申し訳ないのですが‥‥」

「ううん。佳奈子もうどんは好きなのかな」

「はい、実はうどんもおそばも大好物なんです」

「じゃ、着替えたらすぐに降りるね」

「はい、お待ちしております」

 部屋の入り口で振り返り、髣艪ノ頭を下げる佳奈子。メイド服の襟元を飾るリボンと、同じ色の髪を束ねているリボンがその動きに従って愛らしく揺れる。

 そんな佳奈子を見送った髣艪ヘ、ベッドから起き出して持ってきてくれた水をゆっくりと飲み干す。胃に染み渡るような水分が眠りによって止まっていた食欲を刺激する。手早く着替えを済ませて、佳奈子の待つ食堂へ降りていく。

「あ、ご主人様、早かったですね。もう少しだけ待ってください。今、ごまだれが出来たところです」

 食堂のドアを開ける音で気付いたのだろうか、台所の奥にいる佳奈子の声が聞こえてくる。

 テーブルの上には既に、盛られたうどんと薬味の入った小鉢が置かれている。

「ごまだれでいただくのか‥‥」

「はい、これも美味しいんですよ。味を調えるのにちょっと苦労しましたけど、簡単すぎる朝食では申し訳ないので、少しだけ頑張りました」

「そっか、楽しみだね」

「はいっ」

 佳奈子が食堂に戻ってきた。髣艪ェ既に座っているのを見て、その側にたれの入った小瓶を置いてから自分も向かいに着席する。

「では、いただきこうかな」

「はい、いただきます」

 髣艪ェ手を伸ばして食べ始める。佳奈子もそれに続き、ふたつのうどんを吸い込む心地よい音が聞こえてくる。そんなどこか日本的な風景が、メイド服とユーモラスな不調和をもたらしてどこか楽しい雰囲気になる。

「このたれは、佳奈子の手作りなんだよね?」

「はい、手作りといっても、練りごまをメインにお酢や砂糖などの材料と混ぜ合わせただけなんですけど」

「でも、さっぱりしていて美味しいよ。朝から食欲がそそられちゃうな」

「では、たくさん召し上がってください。あ、でも、そんなにたくさんゆでていないんでした‥‥」

 佳奈子がばつの悪そうな顔をする。

「あはは、でも朝から食べ過ぎても仕事中に眠くなっちゃうし、これくらいでちょうどいいかな」

「暑くなりそうですよね。執務室の冷房、今日は少しだけ強めにしておきますね」

「うん、よろしく。佳奈子も暑さにやられたりしないように気を付けてね」

「はい、ありがとうございます。でも、水仕事も多いですから、意外に平気なんですよ」

「そっか」

 うどんを食べ進めながら、そんな会話をする。

「佳奈子と呼んで下さって、ありがとうございます」

 理紗のいない、二人だけの朝食はこれが二回目であったが、それ以外にこれまでと違っていることは、髣艪ノよる佳奈子の呼び方であった。まだ気恥ずかしさは残っていたが、佳奈子が自然に受け入れてくれるので、なるべくその感情を意識しないように努めることにした。理紗が戻ってくるまでには慣れてしまうだろうが、それを考えたとき、一つの問題生じそうなことに気が付いた。

「今はまだちょっと違和感があるけど、それもすぐに慣れるんじゃないかな。でも‥‥」

「どうなされたのですか?」

 箸を止めて、佳奈子が心配そうに尋ねてくる。

「理紗さんが戻ってきたら、どう思うだろう。それに、理紗さんも呼び捨てで呼ぶようにしなきゃいけないのかな?」

「きっと理紗は、『今まで通りで構いません』

 と言うと思います。わたしもそれでよいと思います」

「でも、佳奈子の言うように、呼び方が人との距離を端的に示すんだとしたら、理紗さんにもそうできればいいなって気持ちはあるなあ」

「あ‥‥」

「理紗さんもとても素敵なメイドだと思うんだけど、どこか、僕と距離を置いているように見えちゃって‥‥」

「そうですね。でも‥‥」

 佳奈子が考え込むような仕草をする。

「でも、それでも理紗はきっと『今まで通りで構いません』と言うと思います。どうか、そのことでご主人様は気を悪くなさらないでもらえますでしょうか」

「う、うん‥‥」

 佳奈子の深刻さのようなものが伺えて、髣艪ヘ口ごもる。

「ご主人様もおそらくお気づきだと思いますが、理紗は、先代の孝敬様が鬼籍に入られたことにまだ気持ちの整理が付ききっていないんです」

「やっぱり、そうなんだね」

 漠然とした距離感というものを髣艪ヘ感じていたが、はっきりと告げられて髣艪ノも得心がいった。本人に直接に聞けるようなことでなかったから、この佳奈子の言葉に髣艪ヘ感謝した。

「はい、おそらく、といいますか間違いなく、理紗は孝敬様を慕っておりました。特に、そんな孝敬様と進められていた、新しいブレンド紅茶の開発にとても前向きに取り組んでいました。孝敬様も、理紗のことを憎からず思っていたとわたしは信じています」

「だから、僕の存在に複雑な気持ちがあるのかな」

「そうかもしれませんね。ですが、理紗がご主人様にマイナスの感情を持っていることは決してないです。それは、わたしが保証します」

「うん、ありがとう。僕もそう信じてるよ」

「ですが、やはり理紗にとっては『これ以上近づいてはいけない』っていうご主人様との距離があるのかもしれません。先ほど、理紗も呼び捨てにすることを余り強く求めない方がいいと申しましたのはそういう意味なんです」

「そうだね」

「そんな複雑な気持ちが理紗の中にはあると思うんですが、ご主人様もご承知の通り、理紗はわたしなどは到底及ばないほど立派で有能なメイドです。ですので、このことで角を矯めて牛を殺すようなことは決してなさらないようにわたしからもお願いします」

「うん、わかった。理紗さんを傷つけるようなことは僕もしたくないし。それに、佳奈子は本当に友達思いなんだね」

「そ、そんな‥‥」

 徐々に話し方が強くなってきていた佳奈子の言葉を、髣艪ヘしっかりと受け止める。彼自身は気が付いていなかったが、そうしたことが出来るのが、髣艪ェこの洋館で二人のメイドと順調に暮らすことの出来る大きな資質となっているのだろう。

「本当は、理紗のいないところでこのような話をご主人様にしてはいけないのかもしれないですけど‥‥」

「でも、理紗さんのいる前では決して出来ない話ではあるよね」

「はい。そんなことをしたら、絶対に理紗は否定するでしょうし」

「わかった。僕も全く何も察していないわけじゃなかったから、その延長線のような感じでこれから理紗さんに接することが出来るように努力するよ」

「ありがとうございます。でも、本当に申し訳ありません、メイドの個人的な感情でご主人様に気を遣わせて‥‥」

「ううん、メイドさんだって人間なんだから、いろいろな気持ちは持っていて当然だよ。寧ろ、何もそういうのがなくて無条件で何にでも従うようなメイドの方が怖いんじゃないかな」

「ふふ、そうかもしれませんね。実は裏でご主人様の悪口を言っているとか」

「そうそう、そんな感じ」

「あ、わたしたちは決してそんなことはしていませんから、安心してくださいね」

「そうさせてもらうよ」

 ようやく佳奈子に笑顔が戻った。

「それに、理紗さんと孝敬さんとの話、ちょっとうらやましく思えるかも」

「そうですね、わたしも、メイドとご主人様の間の恋愛感情っていうのを決して否定しませんから。あの時も、理紗を応援する気持ちも持っていましたし‥‥」

 佳奈子のその言葉の中に、自分の淡い気持ちが含まれていたのかは分からない。

「そっか。どちらにしても、佳奈子、本当にありがとう」

「いえ、そんなご主人様に感謝されるようなことではありません」

「ううん、やっぱり佳奈子も素敵なメイドさんだと思うよ」

「あ、ありがとうございます‥‥」

 佳奈子はそれを聞いて、顔を赤くして俯いてしまった。しばらくそのまま固まってしまい、髣艪ノ促されて、ようやく食事を再開する。

 暑くなりそうな一日だったが、どこかすがすがしい気分にもなっていた。


 理紗が休暇から戻ると、再び洋館は日常の生活の中へ戻っていった。

 暑さは相変わらずで、買い物や洗濯など、外に出ることの多い佳奈子には特にきつかったようである。

「日焼け対策も大変なんですよ」という佳奈子だったが、色白の割には日光に弱いということもないらしく、その言葉ほどには肌に傷みはないようだった。佳奈子の言葉は、驚くほど肌の白くて滑らかな理紗と比較しての、という話なのかもしれない。

 一方の髣艪ヘ、そうしたことにはどちらかというと無頓着だった。散歩がてら、敷地の茶畑を見て歩くこともあったし、休みの日には気分転換に町に出かけていくこともある。県都まで出ようとすると半日、場合によっては一日仕事になってしまうこともあったから、あまり買い物をするには豊かでないとは知りつつも近くで済ませてしまうことも多い。手に入りにくい本や少し洒落た服などは、時々ある出張の行き帰りに探してくることが出来たし、それでも見つからないものはネットの通信販売なども利用できる。日用品、特に日々の食事に関しては佳奈子と理紗に任せきりであったから気に掛ける必要もない。

 二人もそれぞれの休暇を楽しんできたようで、再び気分も新たにしてこの洋館で暮らしてくれている。

「今日は、メインを理紗が作ってくれたんですよ」

 テーブルに三人が着いたところで、目の前の大皿を指差しながら、佳奈子が言った。

「おっ、これだね。楽しみだな。何ていうんだっけ、確か、スペインかどこかの‥‥」

「はい、パエリアです。今日はいい魚介がたくさん手に入りましたので」

 サフランで黄色く色づいた米に、エビやムール貝、鶏肉やピーマン、マッシュルームなどの多彩な具が彩りを与えている。盛りつけにも気を遣っているのだろう。それらが綺麗にちりばめられており、この暑い中でも食欲をそそるものに仕上がっている。

「美味しそうだね」

「はい、やっぱり洋食では理紗には敵わないなって思っちゃいました」

 わざと大げさに佳奈子が落胆してみせる。そんな佳奈子を横目で「何を言っているのよ」といわんばかりの表情で理紗が見つめている。

「ですが、佳奈子にも下ごしらえなどいろいろと手伝ってもらいました。それに、こちらのポタージュは佳奈子が用意してくれたんです」

 ガラスの器に用意された淡黄色のスープを見て理紗が言う。

「今日は暑いですし、メインがこんなに立派なものなので、冷製のポタージュは南瓜であっさり目に仕上げてみました」

「うん。じゃ、早速いただこうか」

「はい、いただきます。ご主人様、取り皿をどうぞ」

 理紗が髣艪フ方に手を伸ばす。テーブルは来客がある大人数での食事も想定している大きさなので、向かいの理紗に皿を手渡そうとするとどうしても若干、体を乗り出す形になってしまう。メイド服の袖が食べ物に触れないように気をつけながら理紗が髣艪フ皿を受け取るが、その時、偶然に服の前ボタンの間から理紗の胸元が見えそうになってにわかに髣艪ヘ慌てた。

「そ、そうだね、ちょっとだけ大盛りで」

「はい、かしこまりました」

 若干、くだけすぎに感じられることすらある佳奈子の言葉遣いに対して、理紗のそれは常に隙のない丁寧さに包まれていた。だが、こうして自分の世話や仕事の助力を与えてくれる時の理紗の表情を見ていると決してそれが作られた笑顔ではないということも分かる。理紗の心の中でも、ひょっとするといろいろなものを感じているのかもしれない。佳奈子も含めて、他者がそれに手を差し込むことはやはり好ましくはないのかもしれない。

 だが、理紗にとっても孝敬の幻影を追い続けることは幸せなことではないだろう。そこから足を踏み出そうとする時には、佳奈子と一緒にその下支えになりたいという気持ちが髣艪ノはあった。

「どうぞ、お召し上がり下さい。お褒めいただいた見た目通りに、ご主人様のお口にも合えばよいのですが‥‥」

「その心配は絶対にないよ。理紗さんのことをよく知っている佳奈子の保証付きなんだし」

「うん、わたしもさっそく、いただいちゃうね」

「そうね。でも、ご主人様より先に手を付けちゃいけませんよ」

「大丈夫よ、わたしだってメイドなんだからちゃんと心得てるよ」

「はは、じゃ、僕は佳奈子たちを待たせないためにも早く食べないとね」

「そ、そういうつもりでは‥‥」

 恐縮する佳奈子を手で制して、髣艪ヘスプーンで最初の一口を口に運ぶ。予想通り、いやそれ以上の美味が口の中へ広がっていく。

 その様子を思わず見つめていた理紗は、髣艪フ表情を見て安心する。

「うん、美味しいよ。二人でこうして作ってくれた美味しいものを食べられるなんて、僕はずいぶんな果報者かもしれないね」

「そ、そんなことはありません。ご主人様に美味しく召し上がっていただけるような食事を用意するのは、メイドの大事な仕事なのですから」

 「大事な仕事にすぎない」という表現はしないところに、理紗なりの髣艪ヨの奉仕の心があるのだろう。

「それに、ご主人様ってわたしたちメイドの心をとても上手にくすぐってくれるんですよ」

 佳奈子がそんな指摘をする。

「えっ?」

「こうしてご主人様との生活も長くなって慣れてきているのに、ご主人様は常日頃から、『ありがとう』『佳奈子や理紗さんのおかげ』っていう言葉を掛けてくれるんです。そんなちょっと大げさな褒め言葉もわざとらしくなくて、わたしたちのやる気を刺激して下さるんですよ」

 隣の理紗の表情もそれに同意している。

「そ、そうなのかな‥‥」

 不意に褒められて、髣艪ェ逆に居心地の悪さのようなものを感じる。メイド服を着ているとはいえ、年頃の女性二人に好評されてどこか浮き上がったような感覚になってかえって落ち着かない。

「はい、きっと仕事でも部下を上手に動かせる人になるかと思います」

 理紗はそういうほめ方をした。

「部下、になるのかどうかわからないけど、僕は理紗さんに不快なく働いてもらうことが出来ているのかな‥‥」

 ここで働くようになってから最初に理紗に茶のことを教わったことから始まり、実務の上でも様々な助言を受けている。メイドとしてのみではなく、その面でも寄りかかり気味の髣艪ヘ、理紗にとって自分は頼りがいのない人間ではないのかと気にしていた。

「それはもちろんです。ご主人様の手際のよさと、分析の着眼点にはいつも脱帽しています」

「そう評価してもらえているなら安心なんだけど‥‥」

「ただ、一点だけ心配がありますけどね」

 苦笑を見せながら理紗が言う。そんな理紗の表情にも独特の美しさがある。おそらく余人にはなかなか真似の出来ないものであり、佳奈子あたりに言わせると、

「わたしなんかが真似してみても『顰みに倣う』ことにしかならなさそうです」

となるかもしれない。

「えっ、どんなこと?お仕事に関してはいつも手放しでご主人様を褒めている理紗がそんなこと言うなんて‥‥」

 興味津々といった表情で、佳奈子が口を挟んできた。洋館での佳奈子は大部分で仕事中の髣艪ノは接しないので、かえって興味の対象になるのだろう。

「スケジュール管理だけは、もう少し気に掛けて欲しいところです。案件の締切は決して破らないご主人様ですが、ごく稀に会議の予定をお忘れになっていることがあって、何度か慌ててしまいました」

「そうだったね、ご、ごめん‥‥」

 髣艪しても洋館での暮らしの快適さに流される面が否定できないのであろうか、過去に二回、本社での会議と報告の日程を失念していて直前に理紗を慌てさせたことがある。それに関しては髣艪ヘ何も言い訳できずに小さくなるばかりであったが、理紗が「お仕事に関してはいつも手放しでご主人様を褒めている」というのは本当のことであったとしたらやはり嬉しいものではある。

「そういえば、明後日に業界誌のインタビューを受けることになっていましたが、準備は整っていますでしょうか」

 ちょうどよい機会だからと、理紗が確認する。

「うん、大丈夫。インタビューの趣旨は聞いているし、一応、想定問答みたいなものも用意してあるよ」

「はい、安心しました」

「えっ、雑誌のインタビューですか?」

 その話を初めて聞いた佳奈子が髣艪ノ聞く。あえてそんな興味を示すことによって、仕事の話に入ってしまった髣艪ニ理紗を気遣っている面もあるだろう。

「うん。何でもこんなクラシックな洋館でお茶の栽培と研究を司っているのが新鮮だとかで。しかも、他業種から転身した責任者ってことで注目したいとか。ちょっと大げさだよね」

「そうかもしれませんね。でも、この業界はどちらかというと保守的ですから、そんな記事が載せられれば新鮮みがあると思ったのかもしれないですね」

「久しぶりのお客様か。普段は全然気にならないけど、ちょっと恥ずかしいなぁ」

 自分のメイド服を見ながら佳奈子が言う。

「それなら、無理することはないよ。私服でお客さんを迎えてくれてもいいんだし」

「いいえ、それは嫌です」

 佳奈子が即座に否定する。

「よそ様から見られたときに恥ずかしいと思うのは事実ですけど、わたしはこの服が好きですし、この服を着てこの洋館で働くことにも誇りを持っていますから」

「そうだね、ごめんね‥‥」

「いいえ、すみません。こちらこそご主人様に気を遣っていただいたのに」

「でも、それが佳奈子の魅力でもあると思うわ」

 理紗が助け船を出してくれる。勿論、理紗も普段通りのメイド服で記者に接するのであろう。

「ご主人様のコメントと雑誌、期待していますね」

「それはちょっと気が早いよ」

 髣艪ェ笑いながら言う。

 こうした会話も、美味しい料理と共に食事の席を楽しく彩っているのだった。

 その雑誌の取材も無事に終了した。

 「あまりメイドのことは強く前面に押し出さないようにして下さい」と要望した上で、ここに洋館が建っているいきさつから始まり、川辺茶園のルーツであること、茶畑で栽培しているいくつかの品種、髣艪ェ調べている地味と品種による茶の風味の違いなどについて説明した。

 最初はメイドがいることに興味を持っていた記者も、丁寧に語っていく髣艪フ話の内容を熱心に書き留めるようになっていた。

 髣艪フ昔の仕事と東京での生活という話題から移り、インタビューは締めの段階へと収束していく。そんな髣艪フ姿を、記者と共にやってきたカメラマンがいくつかの角度から撮影する。

「川辺さんは、この洋館の主として今後のお仕事に対して何か抱負のようなものを持たれていますでしょうか?」

 そんな記者の問いかけに、髣艪ヘ少し前から心の中で温めていたことを答える。

「そうですね、今は緑茶のいくつかの品種を使って、より飲み心地のよい品が出来ないか研究しているのですが、それに目処が立ったら、緑茶に関わらず、今、注目されつつある紅茶についても考えてみようと思います」

「といいますと、紅茶のブレンドですか」

「はい、こちらの日置から紅茶のことを学びましたが、まだ世界のあちこちには、有名ではないが味に優れる茶葉があると思うんです」

 隣で聞いている理紗が、はっとした表情を見せた。そんな理紗には気付かないふりをして、髣艪ェ続ける。

「そうしたものの開拓も含めて、廉価で美味しい紅茶の可能性を探ってみたいと思います。フェアトレードの意識も持ちたいところです」

 フェアトレードとは、いわゆる発展途上国の産品を、先進国の資本主義的経済観でむやみに買い叩くのではなく、適正な価格で取り引きすることによってその途上国の経済の健全な発展を促そうという考え方である。インタビューをそんな言葉で締めた。

「それは楽しみですね」

「緑茶と紅茶、それに烏龍茶、もしくは国産と輸入茶葉というのは、決して競合するライバル商品だというわけではないと思うんです」

「そうですね、私もそう思います。今日はありがとうございました。川辺さんの成果を楽しみにしています」

「こちらこそ、ありがとうございました」

 髣艪ニ記者が握手する。その傍らで、理紗が優しく微笑んでいた。

「本日は、とても有意義なインタビューが出来ました。ありがとうございます」

「おかげさまで、いい絵も撮れたと思います」

 玄関口で、記者とカメラマンが髣艪ノ礼を述べた。

「いいえ、こちらこそ、貴重な機会をいただきました。我が社のことをよく書いていただけると助かります」

 あえてそんな言い方で髣艪ヘ場を和ませる。

「はい、期待していてください。とてもいい環境で、うらやましいと思いましたよ。その、綺麗なメイドさんもいらっしゃって」

「あ‥‥」

 理紗が僅かに照れを見せて顔を赤らめた。そんな珍しい理紗の表情を髣艪ヘ好ましく感じた。

「それでは、失礼いたします」

 車に乗り、記者は洋館を辞していった。その姿を見送った理紗が髣艪ノ声を掛ける。

「お疲れさまでした、ご主人様」

「うん、さすがに緊張したなあ」

「ええ、私にもそう見えました。ですが、さすが、予めまとめられていたポイントはほとんど全て話題にしてらっしゃいました」

 理紗も緊張から解き放たれたためか、ゆったりした笑顔になって髣艪称える。

「そうだね、記事は二ヶ月後の号に載るらしいから、楽しみにしていようか」

「はい」

「じゃ、戻ろうか」

 髣艪ェ洋館の正面玄関へと向かっていく。その後ろ姿を少しの間、理紗が見つめていた。

「今、注目されつつある紅茶についても考えてみようと思います」

 そんな髣艪フ言葉を思い出していた。髣艪フ補佐役として、理紗は彼の仕事のおおよその部分を把握していた。現在出回っているいくつかのお茶を分析して新商品のアイディアに結びつけるという仕事は理紗も知っていたが、紅茶についても考えているというのは初耳だった。

 新しい、美味しい紅茶を作る、かつて、理紗が孝敬と一緒に行おうとしていた仕事のことが思い出される。孝敬の罹患と死によってそれは永久に

「中断」

し、再びこのことを考えることはないだろうと思っていた。髣艪ヘ思いつきであんなことを言ったのであろうか。発言が雑誌の記事として公表されることを考えれば、髣艪ェ無責任にそうした言を発することは考えにくい。だが、孝敬と理紗のかつて行っていた仕事のことは髣艪ヘ知らないはずである。理紗は土の中にあってまだ姿を見せない新芽のような期待の気持ちと、それ以上の戸惑いを感じながら髣艪見つめていた。

「あ、理紗さん、どうしたの?」

 立ち止まったままである理紗に気が付いて、髣艪ェ振り向いた。

「す、すみません。すぐ参ります」

 慌てて理紗は髣艪フ方へ駆けていった。

 庭の木から聞こえてくる蝉の鳴き声も変わり、夏も終盤を迎えていた。都心のヒートランド現象とは無縁であるこの土地では、早くも朝晩は冷房無しでも何とか過ごせるようになっていく。

 佳奈子と理紗のいる生活にもすっかり慣れて、髣艪ヘよきご主人様ぶりを発揮していた。

 公私に渡って生活を共にしていくうちに、心理的な距離も徐々に縮まっていく。食事時や一日に何度かあるティータイムなどには、ある程度お互いのプライベートに踏み込んだ話に及ぶこともあった。

 佳奈子が父親と訪問した史跡や博物館の数々、理紗が自分のルーツでもあるイギリスという国の当時の暮らしぶりに興味を持って知ったこと、髣艪フ大学受験での苦労話など‥‥。

 また、髣艪ヘ佳奈子たちの昔の洋館での生活や二人がメイドになったいきさつなどを知りたがり、二人は、髣艪フ東京での暮らしぶりに興味を持っているようだった。理紗が髣艪フ勤めていた会社や学生時代の専攻などのことを主に知りたがっていたのに対し、佳奈子は普段の暮らしぶりに関心を持っていたようだった。特に、話が懐かしさを帯びつつある喫茶店のベルのことに及ぶと、身を乗り出してきて耳を傾けていた。

「喫茶店の常連客って、なんだか素敵なイメージですよね。なんかこう‥‥、優雅というか」

「はは、そんな大層なものじゃないよ。喫茶店とはいっても、夜遅くに食事しに行くような場所だったし」

 笑いながら髣艪ェ言う。

「ですが、そんなご主人様と顔なじみになっているお店のお嬢さんがいらしたんですよね。こっちに来るとき、ご主人様は何もお感じにならなかったんですか?」

「うーん、やっぱり名残惜しいというか、寂しいとは思ったかな。でも、今生の別れというわけでもないんだから」

 そう言う髣艪セったが、この洋館へ移ってからは一度も東京へは行っていないことを思い出した。確かに、玲子が今も元気で店を手伝っているかというのは気にならないということはない。

「ですが、ご主人様‥‥」

 髣艪ニ佳奈子のやりとりを隣で聞いていた理紗が、遠慮がちに口を挟んだ。

「えっ、何か気になることを僕が言ったかな、理紗さん?」

「いいえ、そうではありません。ですが‥‥」

「うん?」

「きっと、その喫茶店のお嬢様はご主人様が考えていらっしゃる以上に寂しい気持ちを感じたかもしれません」

「そうかな‥‥」

「はい、別れというのは、それが分かっていたものであればある程度の覚悟を持って立ち向かうことも出来ますが、唐突であればあるほど、喪失感も大きくなるものだと思います」

「ち、ちょっと大げさじゃないかな‥‥」

 そんな理紗の指摘に、髣艪ヘ罪悪感のようなものを感じて僅かにたじろぐ。同時に、ひょっとすると理紗もそうした「唐突な別れ」というものを経験しているのかもしれない。いや、おそらく厳密には「唐突」ではないのだろう‥‥。密かにそんなことを考える。

「あ、わたしもその気持ちは分かるような気がしますよ、ご主人様。男の方は、意外にそういうことに関して鈍感かもしれませんね」

 だが、佳奈子もそんな理紗の見解に同意のようである。

「そうなのかな。だとすると、東京に行ったときには寄ってみた方がいいのかな」

「ええ、きっとそのお嬢様も喜ぶと思いますよ」

 理紗が微笑む。それが理紗の優しさでもあるのだろう。

「はい、わたしもそう思います」

 佳奈子も穏やかな笑みを浮かべていた。

 そうしてすっかり日常となった洋館の生活の快さを、改めて髣艪ヘ実感するのであった。

 秋の彼岸も過ぎたある日、執務室で数字に立ち向かう仕事をしていた髣艪ノ、理紗が何通かの郵便を持ってきた。

「失礼します、ご主人様。こちらに置いておきますね」

 パソコンに向かって作業に集中している髣艪フ妨げにならないように、理紗は静かに声を掛けて机の端に大きめの封筒を置く。

「ありがとう。今日は何が来ているのかな」

「はい、こちらです」

 右手ではマウスを操作しながら、左手を届けてくれた郵便物に伸ばそうとする髣艪ノ、理紗は一度置いた封筒を手に取って髣艪ノ素早く手渡す。

「あ、ごめんね。えっと、これは本みたいだね。最近、何か注文したっけ‥‥」

 九州の片田舎ではなかなか手に入りにくい専門書の類も、今は通信販売などで気軽に取り寄せることが出来る。これまでにも何度かそうした手段で買った本があったが、ここしばらくは注文をした記憶が髣艪ノはなかった。

「これは‥‥」

 封筒の下部に、記憶にある社名の印刷と手書きの担当者名があることに気付く。理紗もそれに気が付いたらしい。

「あっ、もうそんな時期になるのですね」

 夏の終わり頃に受けたインタビューが記事になるという号なのだろう。

「早速、見てみたいところだけど、こっちを一区切りつけてしまわないと‥‥。佳奈子も楽しみにしているみたいだから、理紗さん、二人で先に見ていてもいいよ」

「よろしいのですか?」

「うん。理紗さんも少しは気になるでしょう?」

「はい、それは否定しません」

 この部屋ので仕事風景の絵が欲しいということで、仕事中の髣艪フ写真を何枚か撮っていったのを覚えている。「髣艪ゥら指示を受ける補佐役」という少しわざとらしいカットもその中にあり、それには当然、理紗も写っているはずである。その写真が使われているかどうかは、理紗もそれなりに気になるところであるようだ。

「もうすぐ終わるから、それから僕も見せてもらうね。理紗さんは先に少し休憩していていいよ。もうすぐお昼になる時間でもあるし」

「はい、ではお言葉に甘えさせていただきます」

 髣艪ゥら受け取った封筒を持って、理紗が応接間へ向かっていく。佳奈子はそろそろ昼食の準備に入るころだろう。

「さて、僕もさっと終わらせてしまうか」

 髣艪烽竄ヘり気にはなるのである。だが、中途半端なところで仕事の手を休めるわけにもいかず、手早く今の作業を進めていくことにする。

「あ、ご主人様、ちょうどよいところでした」

 十五分ほどたって、応接間に姿を見せた髣艪ノ、佳奈子が気が付いて声を掛けた。

 ソファの上に佳奈子と理紗が並んで腰を下ろし、体を寄せ合っている二人の膝の間に広げられた雑誌に目を向けているところだった。そうしたメイド服姿の二人が微笑ましくも見える。

「えっ、ちょうどいいっていうのは?」

「はい、最初にご主人様の記事が出ているページを見て、それから他も一通り見てみました。それで、もう一度、ご主人様のインタビューをじっくり読もうかなって思っていたところだったんです」

「なるほど、僕にもその後に見せてもらっていいかな」

「あっ、私たちは一度見せていただきましたので、先にお読み下さい」

 理紗がそのページを開いたまま、向かいに座った髣艪ノ雑誌を渡す。

「洋館のある風景」

 そんなタイトルで記事が書かれていた。タイトル通り、記事の表紙には髣艪スちが今いるこの洋館の正面からの写真が大きく掲げられている。その下に建物の簡単な紹介が添えられている。

 本文は川辺茶園の簡単な紹介と九州各県の茶の生産量のグラフから始まり、「他業種から転職し、新たな茶業の可能性を探る若手研究者」と銘打った、髣艪ニのインタビューへと続いている。

 記者と髣艪ェ話し合っているシーンや、茶畑を指差して説明をしている髣艨Aそして、例の髣艪ゥら指示を受ける理紗の写真などが途中に挿入され、飽きの来ない構成になっている。理紗の紅茶色のメイド服と深緑色のリボン、白い髪のカチューシャが言うまでもなくよく似合っており、スーツ姿の髣艪ノ向けている真剣な表情がそのメイド服を更に引き立てている。

 そんな理紗の写真を見た髣艪ヘ、思わず目の前にいる本物の理紗の方に顔を向ける。それに気付いた理紗が恥ずかしそうな表情になる。

 佳奈子がそれに気付いたのか、おもむろに理紗の手を引いて立ち上がる。

「えっ?」

 今度は驚いている理紗を強引に引き込んで、佳奈子が髣艪フ座っているソファの後ろに回り込む。

「ご主人様、やっぱり、わたしたちにももう一度見せてください」

「あ、そうだね」

 髣艪挟むようにして、佳奈子と理紗が斜め後ろで腰をかがめて、雑誌の記事に目を向ける。

「理紗さんはこうしてみるとやっぱり凛々しいね」

「えっ、そうでしょうか‥‥」

「わたしもご主人様の意見に賛成。いいなあ」

 佳奈子が写っている写真は、洋館の敷地のカットの片隅にある一枚だけだったので、理紗を羨んでもいるのだろう。

「あ、ありがとうございます‥‥」

 さすがプロの撮ったものだけはあり、理紗や髣艪フ姿は、自分が思っているよりも綺麗に撮れているようだ。むろん、髣艪ヘそれ以上に記事の本文の内容が気になっている。

「割と好意的にまとめられていて安心したよ。でも、最後に『この若い館主がどのような紅茶にたどり着くかに期待したい』だそうだよ」

 膝の上に雑誌を置いて、髣艪ェ腕を組んで軽く唸る。

「ご主人様に対する、鼎の軽重が問われますね」

「そうだね、理紗さんや佳奈子に囲まれてのほほんと暮らしている、なんて思われたくないし。三人だから、ある意味ではこの洋館では確かに鼎のような生活かもしれないね」

「そうかもしれませんね」

 理紗と佳奈子が微笑みながら髣艪見つめている。

「そうでした、ご主人様、雑誌と一緒に同封されていたものがあるんです」

 ふと佳奈子が思い出して、テーブルの上に置いてある封筒から中身を取り出した。

「はい、こちらです」

「うん」

 佳奈子から髣艪ェ受け取ったのは、ありきたりな送付状に添えられた記者の手書きの手紙と、六切りの大きさで焼かれた一枚の写真だった。手紙には取材へ協力してくれたことへの謝意が丁寧に述べられているのに加え、

「同封した写真を二人のメイドさんにも見せてあげてください」

と書かれていた。

「わたしたちが先に見てしまいましたけど」

挿絵3 テラスのある洋館の南側を背景にして、真ん中に立つ髣艪挟むように佳奈子と理紗が両隣に立っている構図の、三人の写真であった。同じメイド服姿を着ている佳奈子と理紗だが、紺と濃緑という色の違いのあるリボン、そして白のソックスと黒いストッキングという足もとの差、そして対照的な髪型がそれぞれの魅力を表している。気を利かせたカメラマンが「記念撮影ということでどうですか」と撮ってくれた一枚である。それを大きく引き延ばして、雑誌に同封してくれたのだろう。

「あ、よく撮れているね、さすがだなあ」

「はい、考えてみると私たちの写真って持っていませんでしたよね」

「そうだね。佳奈子か理紗さんに持っていてもらおうかとも思ったんだけど、一枚しかないからなあ、どうしようか」

「わたしにお任せ下さい。写真立てを買ってますので、この応接間に飾らせてください」

 佳奈子が提案する。

「あ、それがいいね。理紗さんも構わないかな?」

「はい、もちろんです」

 嬉しそうに理紗も賛同する。

 最近は気さくさというよりは積極性を持って髣艪ノ接している佳奈子。「メイドと主人間の恋愛感情を否定しない」と言い、自分を呼び捨てで呼んで欲しいという佳奈子は、ひょっとすると髣艪ノ小さな思慕を持つようになっているのかもしれない。一方、やはり理紗はかつて好意を持っていた孝敬への気持ちを整理することが出来ていないように見える。新しい紅茶のブレンドという言葉があの時口に出たのは、理紗がその悲しみから立ち直るきっかけにならないかと期待していたからなのではないだろうか。

 自分の存在によって、この二人のメイドによい居場所を与えることが出来るのだろうか、漠然と髣艪ヘそんなことを考えることがあった。だが、今の髣艪ノはその先に踏み出すことは出来ずに、ひとまずは偽りではない佳奈子と理紗の笑顔と献身に心地よさを感じて生活を送るのみであった。

 それが今の、髣艪スちの日常となっていた。

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