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第3章 紅茶の世界

 髣艪降ろしたタクシーは、洋館には特に注意を向けずに元来た方角へと戻っていった。

 車を止められる空き地から少し芝生の中を歩いたところに洋館の入り口はあるようであった。バッグを手に持って、髣艪ェそちらの方へ向かっていく。

 歩きながら、初めて見るこの洋館の姿を観察する。雄一が説明した通り、建てられてからずいぶんと時間の経過したものであることは遠目でも容易に見て取れた。だが、その明治時代の建築はとてもしっかりしており、年季を感じさせても古さや脆弱さはわずかも見られなかった。

 左右対称の二階建ての建物には圧倒的な存在感がある。等間隔に並んだ窓は、見る者に規律を感じさせる。こうした建築思想は日本の家屋にはないものであった。

 全体的にベージュ色の石造りで、窓枠や屋根は濃い緑や赤色に塗られている。観光ガイドやテレビの旅行番組で見たイギリス郊外の貴族の別邸とも違わぬように見えるその建物は、曾祖父の友人である英国人の手が掛かっているということが決して誇大でないことを証明しているようにも見える。

「これは、凄いね……」

 髣艪ヘ素直に感心する。一方で、自分がこの建物の住人になるということがすぐには結びついてこなかった。

 そして、そんな形で建物に気を取られていたため、入り口近くに来るまで、二人の女性が迎えに出ていることに気付かなかった。

「初めまして。ようこそおいで下さいました」

「お迎えにも上がらず、申し訳ございませんでした」

「えっ?」

 二人にそう声を掛けられたのと、彼女たちを見た髣艪ェ驚きの声を上げるのとはほぼ同時だった。

 玄関の前に並んで出迎えてくれたのは、髣艪謔闖ュし年下に見える女性だった。

「家政婦のおばちゃん」

のような人物を勝手に想像していた髣艪ヘその予想が裏切られた形になるのだが、驚きを与えたのはそれが理由ではない。

 紅茶をイメージさせるような色のワンピースに膝丈ほどのスカート、そして、その深紅色とは対照的な純白のエプロンを身につけている。襟元と袖口には同じ白が彩り、そして頭の上にはレースの飾りが付いたカチューシャが載っている。

 メイド服を着た二人が深々とお辞儀をすると、スカートが軽やかに舞い、胸元のリボンがそれに呼応して微かに動いた。

「髣艪ウまでいらっしゃいますね。長旅、お疲れ様でした。まずは中に入ってお休みください」

 目の前の出来事が余りにも現実性に乏しいため、しばらくの間、髣艪ヘそこに立ちつくしていた。確かにこの洋館に上品なメイドというのはよく似合っているかもしれない。しかし、それが自分の住む環境であるということには、やはりすぐには結びつかなかったのである。

「どうぞ、こちらへ」

 二人のメイドのうち、片方は背が低くて耳の上で二箇所、髪を束ねている、やや幼い印象を与える人だった。もう一人は髣艪ノ届きこそはしなかったが、女性としては長身に思われる人だった。同じく対照的に、わずかに金色のかかったような美しいロングヘアを自然に背中に流している。

 背の低い方のメイドに促されて、髣艪ヘようやく玄関へと歩き始めた。

「ご主人様の前のお住まいからの荷物は明日の午前中に届くと伺っております。お引っ越しの作業は明日になりますでしょうから、本日はこちらの部屋をお使い下さい」

「普段は、お客様の寝室として使っております」

「はい、ではお世話になります」

 ホテルの客室案内係にも似た丁寧な物言いに髣艪ヘ導かれる。来客用の寝室というだけあり、重厚な洋風の部屋の中には様々な装飾や陶器、人形などの美術品の類が嫌みなく配置されている。

「少しこのお部屋で休まれましたら、下の応接間まで来ていただけませんでしょうか?わたしたちの自己紹介やこのお屋敷の案内などをさせていただこうかと思いますので」

 息が合っているというのだろうか、二人のメイドが髣艪フ間を上手く掴んだタイミングでそう話しかけてくる。髣艪ヘまだ呆気にとられたままであり、彼女たちの提案に静かに頷くことしか出来なかった。

「そうですね、どうもありがとう」

「では、わたしたちは下でお待ちしております。応接間は階段を下りて左側にありますので」

 部屋の入り口で二人は深々とお辞儀をしてから出ていった。メイド服や物腰の上品さを別にしても、端的にいって綺麗な人だった。対照的な外見の二人だったが、どちらも固有の魅力というものを備えているように思われる。

「ふぅ、何だか着いてからの方が疲れたような気がするけど……。それにしても、あの人たちはこの洋館に住み込んでいるメイドさん、か?」

 メイドという非現実的な言葉を口に出してみて、一瞬、ベルの玲子の姿が頭に浮かんだ。半ばは冗談だったのだろうか、気に入って衝動買いしたというメイド服を着て店に現れたことがある。元々は女中がその身分を明らかにするための一種の制服だったのであろうが、発祥の英国の豊かさを背景に、もしくはそんなメイドを使っている上流階級の豊かさを示すためという理由からか、メイド服そのものも洗練されて上品になっていったのかもしれない。

 未だ名前を聞いていないことを思い出したが、あの二人のメイドは綺麗な人であったし、少なくとも今までの言葉を聞く限りでは上品であることも確かだった。

「考えてみると半日以上の旅だったな。あの人たちの言葉に甘えて、少しだけこの部屋で休憩させてもらおう」

 バッグをベッドの脇に置いて、上着をクローゼットに収めた髣艪ヘ、ばっとベッドの上に手足を広げてしばしの開放感に身を任せる。

「思ったより大変かもしれないな。だけど、何も見えないうちからあれこれ思い悩んだって仕方ないし」

 二人のメイドの姿が印象に残っている。そして、それと同時に洋館を説明した雄一の言葉を思い出す。

 生活の面倒を見てくれる家政婦……、あのメイドさんがそうなのだろうか。だとすると……。

「だから、今からあれこれ勝手な想像をしていても仕方ないじゃないか」

 髣艪ヘ大きく首を振って思案を強制的に止める。彼女たちがどういう役割を果たしてくれるのかはすぐに彼女ら自身から話してもらえるはずだ。洋館といっても所詮は人の住むための建物じゃないかと軽く考えていた髣艪フ予想が外れたことと、この洋館、そして部屋の物々しさに今は当てられているだけだろう。

 あの会社で重役数人を相手にプレゼンテーションを行った時の緊張感に比べれば、この場所にいること自体は何もプレッシャーはないのだからと、髣艪ヘ心を何とか落ち着かせようとする。

 気を緩めると、ベッドの上に寝転がっている髣艪ノ軽い睡魔が襲ってくる。

「いや、あまりあの人たちを待たせるのもよくないし、そろそろ行くか」

 髣艪ヘ勢いを付けて起きあがり、ジャケットだけ上に着ると、階下の応接間に向かって歩き始める。

「失礼します……」

 主人がメイドのいる部屋にそう言って入るのは主客転倒かもしれない。そう感じたからなのか、髣艪待っていた小柄な方のメイドは一瞬だけくすっとした笑みを浮かべた。もう一人のメイドは、ちょうど紅茶の用意を調えようとしていたところなのだろうか、壁際の棚から三つのティーカップを選んで取り出そうとしていた。

「お待ちしておりました、ご主人様。こちらにお掛け下さい」

「わたしは紅茶の用意をさせていただきますので、少しだけ失礼いたします」

 髣艪ェこの洋館に来ると決まる前は、社長である伯父の雄一がこの建物の長を兼務していると言っていたが、実際にはほとんど足を運ぶことは出来なかったと聞いている。翻って、この二人のメイドは一人一人が充分な技量を備えているだけでなくその二人の息もぴったりと合っていることが髣艪ノも容易に見て取れる。そうしたコンビネーションというのは雇われてすぐに身に付くようなものではあるまい。となると、二人はもう長いことこの洋館で暮らしているのだろうか……。

 思考が羽を広げすぎてしまうのが髣艪フ欠点でもあるだろう。髣艪ヘそれを中断して、メイドが椅子を引いてくれた席に座る。奥の方からは、磁器が何かに触れる、澄んだ音が微かに聞こえてくる。

「もうしばらくお待ち下さい。理紗が美味しい紅茶をお持ちいたしますので」

 小柄のメイドがそう言って、髣艪フ隣に待機している。

「これからお話を聞かせてもらうのですよね?」

 若干、振り向きながら見上げるような姿勢でそう話しかける髣艨B

「はい」

「でしたら、僕の向かいの……、あの席にあなたも座ってもらえると助かります」

「よろしいのでしょうか?」

「立たせたまま話を聞くというのは、僕にとってもやりにくそうで。その……、頼みを聞いてもらえると助かります」

「はい、承知しました。理紗……、もう一人のメイドです、も紅茶をおいれした後はそうさせて頂いてよろしいでしょうか」

「うん、それは勿論」

「では、お言葉に甘えさせていただきます。ですが、紅茶が整うまでお待ち下さい」

 受け答えにも粗相はない。そうしているうちに、ワゴンに紅茶と簡単な菓子を乗せて、理紗と呼ばれたロングヘアのメイドがこちらへやってきた。

「ご主人様、お待たせいたしました。お話をさせていただきながらと、紅茶を用意いたしました」

「あ、ありがとうございます」

 ティーカップの白磁にも負けぬくらいの滑らかな白い手で、理紗が髣艪フ前に三つのカップを並べ、均等の濃さになるように丁寧に紅茶を注いでいく。琥珀色の液体から緩やかに湯気が立ち上り、この洋間にふさわしい香りを立てている。

「理紗、わたしたちはこちらにお許しをいただきました」

「ありがとうございます、ご主人様」

 紅茶を注ぎ終えた理紗は、軽く一礼をすると自分たちの紅茶を髣艪フ向かいの席に移す。そして菓子の乗った小皿をそれら三つのカップの傍らに並べる。

 ワゴンを部屋の脇に寄せ、二人のメイドが髣艪フ向かいに並んで腰を下ろした。

 だが、再びすぐに立ち上がり、改めて髣艪直視して深々とお辞儀をした。

「遅くなってしまって申し訳ありませんでしたが、挨拶と自己紹介をさせていただきます」

挿絵2「あ、はい、そうですね……」

 左側に立っているのが、この部屋で髣艪フ相手をしてくれていた小柄な方のメイドである。耳の後ろで髪をシンプルなゴムで留めているのがやや幼い印象を与えているが、その言動は決して外見とは一致していないことを髣艪ヘ感じ取っていた。

「わたしは、松山佳奈子と申します。今日から、こちらの洋館でご主人様の衣食住を中心にお世話をさせていただきます。よろしくお願いします」

 そう言って佳奈子が頭を下げる。二つの束ねた髪が小動物のように可愛らしく跳ねた。

「あ、こちらこそ……」

 慌てて髣艪燗ェを下げる。そして右側の理紗が続く。佳奈子に比べて十センチほどの身長差があるだろうか。落ち着いた大人の印象が外見からも感じられるが、同時にどこか儚げな雰囲気が見えるのは何故だろうか。肩の前に掛かってしまった髪をさりげなく手でさっと後ろに戻す。

「日置理紗と申します。ご主人様の暮らしのお世話では佳奈子の方がメインになりますが、私はその分、お仕事の補佐もさせていただくことになっております」

「身内のわたしが言うのも恐縮ですが、理紗は紅茶に関してはエキスパートと言っても差し支えありません。まずは、冷めないうちにこちらを」

 深々と礼をした理紗に合わせて、佳奈子が髣艪ノ紅茶を勧める。

 それに応じて、髣艪ェゆっくりと紅茶を口に運ぶ。芳香と同時に甘さと渋みが同居しながら共鳴していく独特の味わいがしみこんでいく。

「確かに、これは美味しい……」

 髣艪ェ素直に感心する。

「今日は特別によい葉を使っているのもありますが、それを十二分に引き出しているのは理紗の力です。学問的な知識についても申し分ございませんので、失礼ながらこちらの業界には不慣れなご主人様のお力になることが出来ると思います」

「うん、その通りだと思う。理紗さん、それに佳奈子さん、これからよろしく頼みます」

「はい、勿論です。それと、こちらも慣れぬとは思いますが、今から髣艪ウまはわたしたちのご主人様です。言葉遣いも、わたしたちに対してはかしこまる必要はありません」

「そ、そうですね。けれど、佳奈子さんの言うように慣れだと思うから、それは少し長い目で見てもらえませんか。その、メイドさんがいる生活というのは想像もしていなかったので……」

「そうですね。ですが、私たちに過剰な気遣いはご遠慮下さい。そうされると、逆に私たちはご主人様にお仕えしにくくなってしまいます」

 佳奈子に続き、理紗がそう指摘する。こうなると、髣艪烽サれを否定できなくなってしまう。この猶予期間に徐々に慣れていくことを恃みにするばかりである。

「うん、わかった。出来るだけ早いうちにそう出来るようにします。紅茶についても、いろいろと学ばなくてはならないようだし」

「そうですね。私はこの場ではメイドですが、お仕事の時には遠慮はしませんので」

「その方が助かるかもしれないね」

 髣艪ェ苦笑する。紅茶を口にしながら、佳奈子と理紗も髣艪ノ微笑みかけてくれたように見えた。ようやく、髣艪フ心に落ち着きが広がってくる。理紗の紅茶もそれの助けになっていただろう。

 それから、紅茶と菓子を食べながら、佳奈子と理紗がこの洋館と茶園について簡単な説明を始める。

 雄一から聞いていた沿革から始まり、敷地の広さ、付近の地理、茶畑の経営の方法などや、髣艪ェ明日から行う仕事の具体的な内容、洋館の造りや設備について、そしてメイドである佳奈子と理紗の担当する仕事などについてが話される。

 かつてここの主であったいとこの孝敬に話が触れると、一瞬だけ理紗が悲しげな表情で俯いたように見えた。

 概略とはいってもその内容は多岐に渡ったため、正直なところ、この一度の話で全てを把握することは髣艪ノとって困難であり、本当の表面だけを頭に入れて、実際のところはここで暮らしていく中で知っていくことになるだろうと考える。茶園を中心とする会社に関わることについては理紗の助けが得られそうであるし、家事を中心とした生活面については佳奈子が面倒を見てくれることが多くなるようである。勿論、理紗の仕事も髣艪フ業務補佐だけにとどまるものではない。着こなされているメイド服がそれを象徴しているといえるだろう。

「幸い、今の時期はお茶の栽培の方は繁忙期ではないのです」

 そう言って、理紗は緩やかに微笑んだ。

「お話が少し長くなってしまいましたが、これからご主人様にこの洋館の中と建物の近くを案内したいと思います。いかがでしょうか?」

 ちょうど、髣艪ェ紅茶を飲み終わった頃合いであった。それなりの値段を取る喫茶店でも、これほど美味しい紅茶に巡り会えることは滅多にないであろう。

「そうだね。早く僕もここの生活に慣れることが出来るように、お願いしようと思います」

 まだ佳奈子たちとの会話にはぎこちなさが残る。

「では、早速、参りましょうか」

 音を立てずに静かに椅子を引いて、最初に佳奈子が立ち上がった。

 それに理紗も続き、彼女は飲み終えた紅茶の器を戻しに奥の台所へと向かう。

 その間に、佳奈子が髣艪フ椅子を引く。

「あ、ありがとう。佳奈子さんと理紗さんって、よく息が合っているように見えるんですけど、この洋館でのお勤めは長いんですか?」

 理紗が戻ってくるまでの間に、髣艪ェ佳奈子にそんなことを尋ねる。

「はい、こちらにお世話になるようになって、理紗と一緒に働くようになってから四年近くになると思います。ご主人様にはいとこに当たるのだと聞いておりますが、先代の孝敬さまもお見送りさせていただいています」

「そうだったね……。その後も、この洋館に?」

「はい、最初はやはり寂しさと悲しさばかりでしたが、わたしたちもこの洋館が好きでしたし、大旦那さまもここを手放すことは絶対ないと知っていましたので、そのまま洋館を維持することをお仕事にさせてもらうことにしていたんです」

「なるほど。でも申し訳ないね、あまり楽しくない出来事を思い出させてしまって……」

「いいえ、構いません。それに、『禍福はあざなえる縄の如し』ともいいます。ご主人様のいないこの洋館は確かに寂しかったですが、理紗と支え合ってやってきましたし、今日からこうして新しいご主人様にお仕え出来るようになったのですから」

「僕が『福』ってことか。まだ初日だし、リップサービスっていうことなのかな」

「あはっ、そうかもしれませんね」

 そんな冗談に、佳奈子は表情を緩める。丁寧な言葉遣いとは裏腹に、そんな表情は佳奈子をとても可愛らしく見せる。理紗にも決して劣らぬほどにメイド服が似合っていると髣艪ヘ素直に感じた。

「それに、理紗はメイド同士ということを越えてわたしにとって大事な友人でもあります」

「そっか。そういう人は、何があっても大切にしないといけませんね」

「はい、ありがとうございます」

 ちょうどそこに台所から戻ってきた理紗が姿を見せた。

「申し訳ございません、お待たせしてしまいました。器を洗うのは後回しでもよかったのですが……」

 理紗がすまなさそうに髣艪ノ詫びる。

「いえ、佳奈子さんと少し話していたので大丈夫ですよ」

「そうですか、佳奈子とはどんなお話を?」

「理紗さんが佳奈子さんにとって大事な友人でもあると教えてもらったところですよ」

「えっ、ありがとうございます」

 直感的に孝敬のことは言わない方がよいと考えて、髣艪ヘそんな言い方をした。佳奈子の言うように、二人は確かに仲のよい友人同士であるのだろう。理紗の方も佳奈子に同じ気持ちを持っているということがその僅かな言葉と表情からも容易に見て取れる。それを少しうらやましく思うと同時に、少なくとも二人のメイドの間で何かの折りに板挟みになるという局面はなさそうだと安心する。

「では、理紗も戻ってきてくれたことですし、ご案内しますね」

「うん、よろしく」

 佳奈子を先頭にして、その後を髣艪ェついていく。更にその後ろに控えるように、理紗が続く。若干の緊張を感じながら、今まで住んでいたアパートとは比べ物にならない広さの建物の中を歩く。

 玄関というよりは小さなホールとでもいえるような一階の中心にやってきて、理紗が各方向の部屋を説明していく。

「こちらが今までご主人様がいらした応接間、そしてその隣に食堂があります。その二つの部屋の両方に出入りできるように、奥に台所があります」

「なるほど」

「台所は、ご主人様にはあまり縁のないところだと思いますけど。先ほども申しましたが、お食事は主に私がご用意致します。理紗がやってくれることもあります。わたしも料理の腕にはちょっとした自信がありますが、理紗もなかなかのものなんですよ」

「今までは外食以外じゃろくなものを食べてこなかったから、それは楽しみだね」

「ここに住めば、逆に外食なんかは滅多に出来なくなりますよ」

「確かにそうですね」

 理紗の指摘に、髣艪ェ笑って答える。

「正面にはご主人様がお仕事をなさるための部屋があります。この部屋だけ少し事務的な内装になっているのでちょっと違和感があるのですが、仕方ないですよね」

 ドアを開けて中を見せてくれる。机こそオフィスにあるスチール製のものではなく重厚な木の物であったが、書棚に並んでいる本のタイトルや、脇にあるレターケースなどは確かに洋館の一室というよりは仕事場という方がふさわしいだろう。

「仕事の時は、理紗もこの部屋でご主人様をお助け致します」

「よろしくお願いします」

 理紗がそう言って頭を下げる。髣艪熏Qてて礼を返す。

「奥はちょっとした書庫になっていますので、お仕事の時間は概ねここで集中できるかと思われます」

「そうみたいですね」

 三人は玄関へ戻る。

「そして、浴室や洗面所、お手洗いなどがこちら側にございます。浴室は結構広いので、ご主人様にも満足いただけると思いますが、一つだけお許しいただきたいことがあります」

「えっ?」

「洗面所とお手洗いは二階にもありますので、どちらかを私たちメイド用と決めていただければよいのですが、浴室はひとつしかありませんので、私どもメイドもご主人様と共用させていただかなくてはならないのです」

 佳奈子の言葉を受けるようにして、理紗が説明を加える。

 いや、家に風呂が一つしかないのは当たり前のことじゃ……、そんなことを髣艪ヘ考えたが口には出さなかった。同時に「共用」という言葉から年相応の男性らしい不謹慎な想像を一瞬だけ思い浮かべ、慌ててそれを振り払う。

「あ、そういうことか」

「勿論、一番風呂はご主人様のものですし、お湯加減もご主人様のお好みで用意いたします」

「うん、ありがとう」

 こうして一階の説明を終えると、佳奈子は階段を上へ上がっていく。

「二階は寝室などの個室が並んでいます。あちらの奥が、先ほどわたしがご案内した客室で、今日はご主人様に使っていただくことにしました。こちらが新しいご主人様のお部屋の候補です。二つのお部屋を自由にお使いになって下さい」

「なるほど」

「洗面所を挟んだこちらの奥の二部屋を、それぞれわたしたちの個室として使わせていただいています」

「そっか、そっちへは行っちゃいけないかな」

 冗談交じりで髣艪ェ言う。

「はい、そうして下さるとわたしたちも助かります」

 佳奈子が笑ってそう答える。

「ご主人様の荷物は明日になるそうなので、その時にいろいろとお手伝いさせてください」

「そうだね、まだ本当には落ち着いていないんだった……」

「お屋敷はこのような感じです。あとは、外を少しご案内します」

 佳奈子が一度、一階の執務室へ戻り、敷地の地図を持って来た。

 それを見ながら、髣艪スちは洋館の外に出てざっと一回りしてくる。

 南九州という土地だからだろうか、二月だというのに穏やかな陽光が照っていた。明るい日差しのもとでは、佳奈子と理紗のメイド服もどこか元気になったように見える。

 洋館のある場所を中心に、きちんと整地された庭のような一角があり、その傍らに家庭菜園のような小さな畑があった。畝ごとにそれぞれ異なった植物が植えられており、中には今は使われていない場所もあった。

「あ、ご主人様のご想像通り、ここはわたしたちも気ままに使わせていただいております。ご主人様も気が向いたらお使い下さい」

「そうですね」

 その奥からは茶畑が広がっている。地図を見ればその広さは結構なもののようである。

「端から端まで見て回るのは大変でしょうから……」

 今度は理紗が前に出て茶畑を指差しながら説明を始める。大部分は高級のランクになる茶葉を生産する畑であるが、研究施設を兼ねている洋館で使えるように、試験的にいくつかの品種を植えている区画もあるという。

 屋根を思わせるような緩やかな丸みを帯びたお茶の木が整然と並び、濃い緑色が東京の生活で疲れ切った髣艪フ目を心地よく刺激する。

「穏やかなところですね……」

 そんな景色を眺めながら、髣艪ェ率直な感想を述べる。

「そうですね、ご主人様はずっと東京の会社で働いていらしたと聞いています。最初はいろいろと戸惑うこともおありかと思いますが、私たちが一所懸命にお仕えいたしますので、ご安心下さい」

 理紗がそう言って正面から髣艪見つめた。

 思っていることは同じなのであろう、傍らの佳奈子も静かに頷きながら髣艪ノ顔を向けている。

「ありがとう。理紗さんと佳奈子さんにとっていいご主人様になれるかはまだ分からないけど、こんな環境を与えてもらった以上、しっかり働かせてもらうことにするよ」

「はい、期待しています」

 僅かに首を傾けて、理紗が笑みを向ける。不安が全くないといえば嘘であろうが、髣艪ノとってその笑顔が強い支えに感じられたのも事実である。

「戻りましょう。意外に外は寒いですよ」

 確かに、雲の間に日が入ると、急激に寒さが感じられるようになる。考えてみればまだ二月なのである。そうなると、南国といえども、まだ

「春」

というのは早すぎるのかもしれない。

「到着早々、ご主人様に風邪を引かせてしまってはメイドとして立つ瀬がなくなってしまいます」

「はは、そうだね」

「戻りましたら、今度はここのお茶をご主人様に召し上がっていただこうかと思います」

「うん、ありがとう」

 茶畑を背にして、髣艪スちは洋館へ戻っていく。それを見送るかのように、畑に立っている風車が静かに回っていた。

 その後、部屋に戻って一人になった髣艪ヘ、緊張感から解放されて大きな息を付いた。

「ふぅ、大変だった」

 驚きと、それから始まる緊張の連続であったが、それでもようやく「メイドとの会話」というものが出来るようになってきた。こうした独立した洋館で暮らすには、あのような服で主人とメイドという立場に視覚的な境界を引くこともある意味では重要なことであるのだろう。年頃の女性で、しかも水準から比べると二人とも綺麗な方に入る。言葉遣いも丁寧で上品であり、仕事や家事の腕前はまだ見せてもらっていなかったがおそらくは同様に申し分ないのであろう。話しぶりはまだ他人行儀で距離を感じさせるものであったが、今日初めて会ったのだからそれは致し方ないだろう。

 最初にこの部屋に案内された時と同じように、ベッドの上に寝転がり、手足を大の字に広げて仰向けになる。

 髣艪ノとってはまだこの部屋も他人行儀な場所だったが、それでも今までの緊張からは解放されたことを感じる。

 佳奈子と理紗が協力して作ってくれるという夕食を待つ間、ここまでの出来事を記憶の中で反芻してみた。

 この立派な洋館と、外に広がる茶園。そしてそれらを管理するという明日からの仕事、そしてそうした自分を支えてくれるであろう二人のメイド……。

 東京でのサラリーマン生活と比べると、共通点を見つけだす方が難しいくらいに大きく変わっている。

「家政婦さんに秘書って……。伯父さんの説明とはずいぶん違ってるじゃないか……」

 ふとそんなことに気が付いた。

「だけど……、全くの嘘でもないのか」

 誰もいない部屋で髣艪ェ苦笑する。食事や洗濯、掃除といった主に生活面での面倒を見てくれるという佳奈子は確かに「家政婦」といえなくもないだろうし、この会社ので主要業務であるお茶について豊富な知識を持ち、異業種で慣れぬ髣艪フ仕事をサポートするという理紗は「秘書」といえなくもない。それに部下というものをまだ持ったことがない髣艪ノとってはそう表現するよりも受け入れやすかった。

 正直にいえば、一般的にイメージされる家政婦や秘書よりも、佳奈子や理紗のような人間がそばにいてくれた方が自分にとっても嬉しいような気もする。

 そんなことを考えながら、今度は「夕食の時にはどんな話をしたらよいのだろう」と新たな悩みについて考えさせられることになっていた。


 前日の車中泊と緊張が疲労として残っていたのであろうか、それともこの高級そうなベッドによる寝心地の賜物であろうか、髣艪ヘ慣れぬ環境ながら、割とぐっすりと睡眠を取ることが出来た。

 昨日の夕食は、佳奈子が「わたしも料理の腕にはちょっとした自信があります」と自ら言うだけあって申し分ないものであった。高級レストランのようなかしこまったものでもなく、かといってありあわせで簡単に作ったというものにもとても見えない。どれが佳奈子によるもので、どれが理紗によるものかの区別までは付かなかったが、少なくとも二人の料理の腕前には確かなものがあり、これからの食生活が髣艪ノは楽しみになるであろう。

 この時の唯一の難点は、佳奈子と理紗が給仕役に専念して髣艪ェ一人でテーブルに着かされたことであった。「今日は最初の日で、食事をしながら聞きたいこともあるから」と、固辞する二人を座らせた。紅茶の時もそうであったから、決して髣艪ニ食卓を共にするのが厭だということではないのだろうと、多少自己中心的に判断する。

 予想通り「明日からはメイドとしてお食事の時はそばに控えさせていただきます」と言う理紗に、「出来ればこれからも一緒に食事をして欲しい」と髣艪ヘ伝えた。もともと独り身である自分にとっては、食事中に側に立って控えられているのが落ち着かないし、一人で食べるというのも好きではないと説明すると、ようやく受け入れてくれたのだった。

 どうしても固辞するのならば、自分がこの洋館では主人の立場にあることも利用しようかと考えていた髣艪ヘそれでひとまず安心する。

 綺麗な女の人と食事をすることの出来る立場にありながらそうしないのは勿体ないという邪心が全くなかったとは言い切れないが、二人に挙げた理由というのも偽りない髣艪フ本心であった。

 ともあれ、そんな中で洋館での生活の初日は暮れ、二日目の朝のまどろみの中に髣艪ヘいるのだった。

 柔らかい布団に包まれて寝ているせいか、髣艪ヘ夢と現実の境界にいるような不安定ながらも心地の良い感覚に身を任せていた。

 うっすらと目を開けると、レースの飾りの付いた上品なカーテンの隙間から日の光が射し込んで線を作っていた。

 石造りの建物は夜になると冷え込み、その不意の寒さが髣艪戸惑わせたが、この布団はおそらくそれを考慮して用意されているのであろう、もぐり込めばほどなく心地よい温かさが得られる。

 夢の中でも、メイドが出てきたような気がするがどうも定かではない。そうした精神的な幻想の中に身を置きながら、朝という現実に静かに歩き向かいながらその感覚を堪能していると、その空間に心地よいリズミカルなステップのような音が広がったような気がした。

「あの、ご主人様……」

 女の人の声が聞こえる。

「うん……?」

「ご主人様、佳奈子です。枕元へ失礼します」

 その声が聞き覚えのあるものであるということに、そして、機能を取り戻しつつある目の中にメイド服が入っていることによって髣艪フ意識が一気に引き戻される。

「あっ、佳奈子さん。わざわざ起こしに来てくれたのですか」

「はい。朝食をいつになさるのかを昨日、聞き漏らしてしまったのでこちらで勝手に用意してしまったのですが、そろそろ理紗が準備を終える頃ですので、こうして参りました」

「あ、ありがとう。ごめんね、こんな寝起きのだらしない格好を見せてしまって」

「いえ、だらしないなんて、そんなことは決してありません。その……、寝相もよろしいのですね」

 慌てている髣艪ノ恐縮を感じさせないための気遣いだろうか、くすっと笑いながら佳奈子が言う。横になっている髣艪フ位置からすると、ちょうど佳奈子の慎ましやかな胸とその上にあるリボンが目に入る。

「そ、そうかな……」

「お布団もほとんど乱れておりませんし」

 普段は意識していない、自分の寝相のよさというものに髣艪ヘこれほど感謝したことはない。

「お目覚めの時は、意外にのどが渇いているものなのです。枕元にお水を用意しましたので、よろしければ一杯、召し上がってからお起きになってください」

「そんなことまでしてくれたんだ、ありがとう」

 無防備な姿を佳奈子に見られて、ある意味で開き直りが出来たのであろうか、昨日と比べて言葉遣いがようやくくだけてきた。

「いいえ、この程度のことは当たり前です。ご主人様の起床時刻を把握していなかったわたしに落ち度があるのですし、それくらいはさせてください」

「でも、やっぱり、ありがとう」

「いいえ、どういたしまして」

 首を傾けて佳奈子が微笑んでくれる。

「では、下でお待ちしておりますので、落ち着いたらお越し下さい。理紗がパンを用意していますので、出来れば温かいうちに」

「なるほど、じゃ、なるべく急ぐようにするね」

「はい、そうなさってください」

 佳奈子が部屋を出ると、置いてあったコップを手に取って水を一気に流し込む。確かに体は渇きを覚えていたようで、冷たすぎない水が体の中に染み渡るような心地よさを感じた。

 早速、簡単な部屋着に着替えて、一階の食堂へと向かっていく。

「おはようございます、ご主人様」

 ちょうど、理紗が朝食を整えているところだった。パンに紅茶、ベーコンにスクランブルエッグという洋風の朝食である。

 メニューそのものはごくありきたりのものであったが、テーブルクロスや器、そして何よりも二人のメイドがその朝食を華やかに彩っている。

「ごめんね、待たせてしまって」

「いいえ、パンも焼き上がったところですので、ちょうどよいタイミングでした」

 理紗が籠を抱えながらそんな風に言った。

「トーストなのかな?」

「いいえ、ブロートヒェンというドイツ様式の小振りのパンです。ご当地では朝食の定番にもなっているんです。私が作ったものなのですが、ご主人様のお口に合うものでしたら嬉しいです」

「えっ、理紗さんが作ったって、ひょっとして生地をこねて、オーブンで焼いてってこと?」

「はい」

 「パンを焼く」というのを、オーブントースターに食パンを置くことだと思いこんでいた髣艪ェ驚く。その驚きに理紗が楽しそうな表情で肯定の返事をする。その理紗が取り出して髣艪フ皿の上に置いたのは説明の通り、素朴な形をしている、こぶし大くらいの大きさのパンだった。

「焼きたてのパンなんて食べたことないよ。楽しみだな。あっ、理紗さんと佳奈子さんも席についてね」

「はい、ではそうさせていただきいます」

「理紗、パン作りが好きなんですよ。好きなだけじゃないってことは、すぐご主人様にも理解していただけると思います」

 佳奈子がそう説明する。先ほどの部屋での「出来れば温かいうちに」という言葉はそれを踏まえてのものだったのだろう。

 髣艪フ言葉に応えて座る前に、佳奈子が理紗からパンの入った籠を受け取り、テーブルの真ん中に置く。一方の理紗は、用意の整った紅茶を優雅な手つきでティーカップに注いでいく。

「では、いただこうか」

「はい、いただきます」

 佳奈子と理紗が軽く手を合わせてそう言った後、手を伸ばして自分たちの皿にパンを持ってくる。勿論、その前に髣艪フ方へ籠を差し出して取ってもらうことを忘れない。

「あ、本当だ、温かい」

 トーストを除けば、温かいパンなどというものには髣艪ヘ縁がなかった。なので、佳奈子たちにとってはありふれたことであっても、髣艪軽く感動させる。

「はい、温かいうちにお召し上がり下さい。ブロートヒェンには味が付いておりませんので、バターが溶けやすいうちにどうぞ」

 理紗がそう言いながら、嬉しそうにバターの塊の乗った小皿を髣艪ノ差し出す。

「そうだね」

 バターと、傍らにあるジャムを受け取りながら髣艪ェ応じる。そして外側の堅さと内側のふわふわ感に驚きながら、一切れを口に運んでいく。そんな二人の様子を見ていた佳奈子が表情を緩ませる。

「ご主人様、本当にありがとうございます」

「えっ、何が?」

 佳奈子の言葉の意味が分からず、パンを手にしたままの髣艪ェ裏返り気味の声で問い返す。

「わたしどもメイドがこうしてご主人様と食事の席を同じくさせていただくこと……」

「ううん、昨日も言ったけど、それは一人の食事が落ち着かない僕に合わせてもらうことだし」

「それから、今までは理紗と二人だけの食事でしたから、こうして賑やかに、それから誰かのためにすることが出来るというのがとても嬉しいんです」

「そうか……。僕が来る前は佳奈子さんと理紗さんの二人だけでこの洋館にいたんだっけ?」

「はい、あれからはずっとそうでした」

 一瞬だけ、理紗が悲しげな表情をしたように髣艪ノは感じられた。父親同士が疎遠であったためもあってか、孝敬ともあまり交流のなかった髣艪セったが、この年上のいとこも理紗たち二人のメイドの心をしっかり掴んでいたのだと知る。その一方で、自分もこれからそうあらねばならないと気持ちを引き締めるのであった。

「もちろん、理紗と一緒の暮らしは厭ではありませんでしたけれど、やはりどこか寂しかったんだと思います。大旦那さまから新しいご主人様が来ると聞いて驚きましたが、それを楽しみにしているところもあったんです」

「佳奈子さんたちにとって、いいご主人様になれるかな……。僕はそういうのとは縁のない生活しか知らないし……」

「ふふっ、どうでしょう。でも、まだ始まったばかりですが、昨日のご主人様との時間を思い出すと、少なくとも不安はほとんどなくなりました」

「不安?」

「ええ、メイドといっても人間ですから、ご主人様との相性ですとか、そういったものがあると思うんです。それに、そんなことはないと思っていましたが、もし、些細なことで怒鳴り散らすような方がご主人様だったら……、といった心配ですね」

「なるほど。じゃ、今のところは僕は及第点ってことか」

「そんな……」

 佳奈子がかしこまる。だが一方で、そんな言い方をしてくれる佳奈子や理紗に髣艪ヘ安堵していた。何しろ右も左も分からない場所で、主人とメイドという確固とした関係があるといえどもも、共に暮らしていくことになるのである。出来ればそのメイドに好印象を持ってもらいたい、そう願う気持ちが髣艪ノはあった。勿論、無条件の信頼を得られたわけではないだろうが、少なくともマイナスの感情は持たれていないことに髣艪ヘ安心する。

 朝の弱い髣艪ノしては珍しく朝食が進む。紅茶のお代わりまでもらって、満腹感すら感じて髣艪ヘこの洋館での初めての朝食を終える。

「ごちそうさまでした」

「ご主人様のお口に合いましたでしょうか?」

 理紗が心配そうにそう問いかけるが、目の前のすっかり綺麗になった皿を見ればそれは愚問というものであろう。

「うん、勿論だよ。朝からこんなに食べたのは久しぶりだね。明日から食べ過ぎに気を付けないと……」

「ふふ、ありがとうございます。ですがご主人様、一つお尋ねしたいことがあるのですが」

 入れ替わりに佳奈子が言う。

「何かな?」

「ご主人様のお食事の好みです。味付けの濃さですとか、和洋、もしくはお肉とお魚のどちらが好きですとか……。少しすればご主人様のお好みのものを出せるようにはなると思いますが、大まかなところを伺っておきたいのです」

「あ、そうだね……。今までの食生活は大したものじゃなかったから、そんなに味付けのこだわりなんてないのかな。でも、濃いよりは薄目の方がいいかも。肉も魚も好きだし、あまり好き嫌いはない方だと自分では思っているんだけど、出来ればレバーとブロッコリー、セロリは勘弁してもらえないかな」

「その三つがご主人様の苦手な食べ物なのですね」

「そういうことになるかな。アレルギーとかではないから、出されれば食べられないってことはないんだけど」

「はい、ではきちんと心にとどめておきます」

「ごめんね」

「いいえ、ご主人様の食卓を預かる身として、当たり前のことです。まして、私たちはお食事をご一緒させていただくことまでしてもらっているのですから」

「ご主人様のおっしゃるとおり、『食事は賑やか方が楽しい』とわたしも思います」

「なんだ、そうだったらあんなに遠慮しなくてよかったのに」

 昨日、その話を持ちかけたときに固辞した佳奈子の姿を思い出して髣艪ェ笑う。

「いいえ、メイドのわたしたちからそんなことは申せません」

 距離感を持ちたくはないが、メイドと友人というのはまた異なる、そう佳奈子は考えているのかもしれないと悟り、難儀に思いながらもひとまず髣艪ヘ頷くことにする。

「ですけど、わたしも子供の頃は、寂しい思いをしたことがありますから……」

 つぶやくように佳奈子がそんなことを言う。

「そうなんだ……」

 「よかったら話してよ」と言いかけたが、未だ今の自分ではそこまで踏み込んでよいとは思えなかった。佳奈子の傍らにいる理紗が、いたわるような視線を投げかけている。

「わたし、母を早く亡くして、子供の頃は一人で食事することが多かったんです」

「なるほど……」

「そんなこともあって、こうした賑やかな……。あっ、申し訳ございません、朝からご主人様にこのような湿ったお話を……」

「ううん、気にしないで。もし佳奈子さんが嫌じゃなかったら、そのうち続きを話してくれてもいいし」

 佳奈子や理紗は申し分ないメイドであるということは既に分かっていた髣艪セが、その過去を知っているわけではない。だが、不躾にそれを訊いていいというものでもない。だからこそ、興味本位ではなしにそうした話に髣艪ヘ関心を持ったのかもしれない。

「はい、折角の食後の幸せな気分のところを申し訳ありませんでした」

「ううん、そんなことはないよ。でも、それはそうとして、今日からの仕事だけど……」

「はい、九時になりましたら昨日ご案内した執務室へいらしてください。まずは無事にご主人様が落ち着かれたことを社長に電話で報告なさるのがよろしいのではないでしょうか」

「そうだね」

 凛とした表情で、理紗が説明する。どちらかといえば可愛らしさの先行する佳奈子に対して、美しさや凛々しさを感じさせる理紗であったが、仕事の補佐をする立場にもなる理紗としてはその方がふさわしいのかもしれない。

「その後、簡単に会社の説明をさせていただき、しばらくはお茶全般の知識を習得していただきます」

「なるほど、研修のようなものかな」

「はい。まず一週間くらいはそれに専念するおつもりでいてください」

「なかなか大変そうだ……」

「ですが、今日は午後に引っ越しのお荷物が届くので半日だけですね」

「うん」

「それに、ご主人様は前の会社でも優秀だった方だと伺っています。私はその点についてはあまり心配しておりません」

「うっ、それはそれでプレッシャーかも」

 髣艪ェ苦笑いし、佳奈子がそれに釣られるように笑う。

「まあ、当たり前だけど遊びじゃないんだし、不安もあるけど何とかするよ」

「はい、よろしくお願いします」

「では、わたしたちは片づけをさせていただきますね」

「何か手伝おうか?」

「いいえ、大丈夫です。それは、メイドに任せてください」

「そ、そうだね……」

 まだそんなことが言えるような余裕がある身でもない。髣艪ヘ自分の部屋に戻り気分を入れ替える。しばらく休んでもう一度身支度を整えた後、一階の執務室へ向かっていく。

 九時少し前であったが、おそらく雄一は既にいるであろう。

 そう予測して、髣艪ヘ受話器を取ってこれまでにも何度か掛けた番号を押していく。

「はい、川辺ですが」

 数度の呼び出し音の後に、電話の向こうから聞き慣れてきた声が聞こえてきた。

「おはようございます。髣艪ナす」

「おお、髣芟Nか、おはよう。着いたのは昨日だったかね」

「はい、昨日の午後に着きまして、二人のメイドさんに簡単に建物と茶園を案内してもらいました。昨日のうちに連絡をしないで申し訳ありませんでした」

「まあ、昨日は立て込んでいただろうから構わないさ。明日の午後にそちらに向かうようにしたから、今日してくれるはずの日置くんの説明の補足も含めて少し話をしよう」

「はい、わかりました」

「では、これからよろしく頼むよ」

「はい、こちらこそお世話になります」

 ちょうど受話器を置いたところでノックの音が聞こえる。

「はい、どうぞ」

 慣れぬ立場ではあったが、髣艪燉ァ派な社会人である。頭の中は既に仕事をするものに切り替わっている。

「理紗です、失礼いたします」

 メイド服のままで理紗が部屋に入る。予定されない来客は滅多にないと聞かされていたが、最初の気の持ちようだからと、スーツ姿で席に着いていた髣艪ニ比べるとやはりミスマッチのようなものが感じられる。否、メイドと仕える相手である紳士だと思えば逆にマッチしているといえるのかもしれない。

「改めまして、これからよろしくお願いいたします」

 机を挟んで髣艪フ正面に立った理紗が、深々とお辞儀をする。髣艪熏Qてて立ち上がり、理紗に礼を返す。こと理紗に関しては、この仕事中の時間とそれ以外の時間での接し方の塩梅が難しいのかもしれない。そんなことを髣艪ヘ感じた。

「社長との挨拶は済ませたよ。明日、こっちに来てくれるそうだからその時にまた改めてということになると思うけど」

「はい。早速なのですが、今日から一週間ほどの研修の計画をお持ちしました」

「なるほど、見せてもらえるかな」

「どうぞ」

「それから、こちらは新入社員に使う研修資料を基に作成しました」

「最初の三日分の資料か……」

 ぱらぱらとめくりながら、綺麗に整った書類を髣艪ェ見ていく。

「新人さんは一週間かけて学ぶんですけどね」

 笑いながら理紗が言う。

 こうして、髣艪フ新しい生活が本格的に始まった。


 翌日から早速、髣艪ヘ執務室で理紗の説明を聞いている。

「お茶というと静岡っていうイメージだあったけれど、九州でもいろいろな県でお茶を産するんだね。だけど、九州全部でも静岡には追いつかないのか……」

 資料の中にある生産量グラフに目を向けながら、髣艪ェ言う。

「はい、静岡の生産量は群を抜いていますが、九州も国内では大きなお茶の産地です。特に鹿児島は静岡に次ぐ第二位の生産量を誇っています」

「意外だね。二位は奈良か福岡だと思っていたよ」

「それらの県では、高級なお茶を産しますので、名前はよく知られているのだと思います。例えば玉露のような」

「なるほど……。埼玉や岐阜っていうのは意外なところだけど」

「そうですね。表をご覧になるとおわかりかと思いますが、基本的にお茶は南の地方の産品ですから」

 丁寧に理紗が説明していく。理紗の白く細い指が、滑らかに表の文字の上を撫でていく。

「そういえば、紅茶や烏龍茶も、製法が違うだけでもともとは同じお茶から作られるって聞いたけど」

「はい。勿論、ひとくちに茶といってもいろいろな品種があるわけですが、基本的には同じ種の植物から作られるものです。紅茶や烏龍茶の産地も南の暖かい地方だということを考えれば、先ほどのことも理解しやすいのではないでしょうか」

「そうだね」

「うちの会社でも、国内でのお茶の栽培と流通の他に、外国からの紅茶や烏龍茶の輸入も扱っています。特に紅茶はいろいろと奥が深いものでもありますので、後で改めてご主人様にも勉強していただきます」

「うわ、大変そうだ……」

「そんなことはありませんよ」

 理紗が髣艪ノ微笑みかける。

「だといいけどね……。やっぱり、右も左も分からない業界でやっていくのは大変だ」

「それはご心配になることはありません。そのために私や佳奈子がいるのですから。正直、ご主人様の吸収力には、少し驚いているくらいです」

「そうなのかな?」

「はい。お茶や紅茶の勉強というと、どこか優雅なイメージがあるのですが、こうした数字を相手にする知識というのには拒否反応を起こす人も多いんですよ」

「あはは、そうかもしれないね」

「表と数字だけですと、なかなか実感が湧かないのだと思います。ですが、この表を見た瞬間に九州七県合計と静岡の比較をなされたご主人様には驚きました」

「そ、そうかな。褒められたと思っていいのかな?」

 一人の生徒になったような気分で髣艪ェそんな軽口を理紗に向ける。

「えっ、そんな……。すみません、偉そうなことを申しまして」

 それを聞いた理紗が慌てて右手で口を塞ぐ。

「ううん、現実にしばらくはこうして理紗さんに教えを乞うわけだから、そんなことは気にしなくていいよ」

「時々、本社の新人研修を受け持つことがあるのですが、つい、その時の気分と重なってしまいまして……」

「まあ、今は僕も新人みたいなものだよ」

「ですが、ご主人様は前から統計のお仕事をされていたのですよね。でしたら、数字に強いのは当たり前ですのに……」

 かしこまる理紗を髣艪ェ宥める。

 ちょうどその時、ドアをノックする音が聞こえてきた。

「ご主人様、失礼いたします」

 向こうから聞こえてくるのは、佳奈子の声だった。

「佳奈子さんだね、どうぞ」

 髣艪フ声を受けて、ドアが静かに開く。

「大旦那さまが到着なさいました。応接間にお通ししましたので、出来ればご主人様もお早く……」

 これまで自分を第一に考えてくれていた佳奈子だったが、根本的な雇い主であり、公的にも髣艪フ更に上に位置する雄一に対しての遠慮はさすがに隠せない。一方で、この洋館の主である髣艪熨aかには出来ない。久しく感じていなかった軽い葛藤が佳奈子を一瞬だけ戸惑わせた。

 それには気付かない髣艪ヘ、慌てて席を立ち、部屋の外へ向かおうとする。

「あ、そんな時間だね。早く行かなきゃ。理紗さんも来てもらっていいかな」

「はい、もちろんです」

 メイド服姿の理紗が髣艪フ後に続く。

 応接間に入ると、同じくスーツ姿の雄一が待っていた。わずかに慌てた様子を残している髣艪ニ理紗を、いささか楽しそうな目で追っている。

「お待たせして申し訳ありません」

「いや、私もここに来るのは久しぶりだし、少しはゆったりした気分にさせてもらいたいからね。慌てなくて構わないよ」

「恐縮です」

「早速、日置くんの研修を受けていた、ってところかな」

「はい。理紗さんに佳奈子さん、お二人にはとてもよくしてもらっています」

「彼女たちには、主のいないこの洋館で寂しい思いをさせてしまったからね。その意味でも髣芟Nに来てもらって助かっているよ」

「ありがとうございます」

 そんな雄一の言葉に礼を言ったのは、髣艪フ傍らに立つ理紗だった。

「まあ、座りなさい。というより、ここは髣芟Nの家ではないかな」

 笑いながら雄一が席を勧める。髣艪ニ理紗は並んで雄一の向かいに腰を下ろす。

「失礼いたします」

 それとほぼ同時に、奥から佳奈子が姿を見せた。

「大旦那さま、ご無沙汰しておりました」

「松山くんか。二人とも元気そうで安心したよ。なかなかこっちには来られなくて申し訳ないね」

「いいえ、とんでもございません。新しいご主人様も素敵な方ですし、大旦那さまには感謝しております」

 そう言って、佳奈子は雄一に丁寧に頭を下げる。

「お茶をお持ちしましたので、失礼させていただきます」

 メイド服を着た佳奈子が、茶托と蓋の付いた湯飲みを三人の前に順番に置いていく。この部屋の落ち着いた調度と合わせると、スーツ姿の男性二人とメイド二人がいるこの空間が、一時代前の貴族の屋敷のような雰囲気に包まれている。

「ごゆっくり、どうぞ」

 一礼して佳奈子が奥へ戻っていく。

「仕事の始まりと引っ越しとがほとんど同時で、髣芟Nは大変だったんじゃないかな。すまないね」

「さすがに、昨日は大変でした。まだ部屋もあまり片づいていない状態なのですが……」

 そう切り出した雄一に、恐縮して髣艪ェ言う。

「ですが、食事や洗濯の面倒は佳奈子さんたちがみてくれるので助かっています。一昨日ここに着いたとき、メイドさんが二人待っていたのには驚きましたが……。家政婦さんに秘書って聞いていましたからね、伯父さんも人が悪い」

「はは、そうかもしれないな」

 多忙な社長業をこなす中で、落ち着いたこの洋館で髣艪ニいう身内の人間との時間が持てることに、雄一も多少の安らぎを感じているのかもしれない。

 そんな二人を、傍らの理紗がどこか嬉しそうに見ている。

「それはともかくとしてだ、今日は髣芟Nの名刺と辞令を持ってきた。正式に通達も出させたし、研修の終わった後に髣芟Nにやってもらいたい仕事をまとめてきたので、後で読んでおいてくれないか」

 そう言って、この場には不釣り合いな茶色の事務封筒をテーブルの上に置く。

「はい、わかりました」

 若干の緊張は隠せずに、髣艪ェそれを受け取る。

「幸い、今はさほど忙しい時期ではないから、徐々に仕事に慣れていってくれればいい。それと、ここでの生活にもな」

「そうですね」

「私も、久しぶりにここに来られてよかった。また夕方から会議があるのでもう少ししたら戻らねばならないが、その前に少しだけ畑を見ていこうかと思う」

「でしたら、私がご案内します」

 理紗が提案する。

「そうだな、では頼もうか」

「はいっ」と言いながら嬉しそうに理紗が立ち上がった。洋館を出るまでは先頭に立っていた理紗だったが、茶畑が見えてくるとさりげなくその位置を変える。代わって先頭に立った雄一に付き従う形で、髣艪ニ理紗が続く。

「ここはうちの会社の原点でもあるからね。この景色を見ていると私も励まされるんだよ」

「何となく、分かるような気もします」

「これでも多忙の身であるし、孝敬のこともあったからね、なかなかここに来る気にはなれなかったんだが、こうして身を置いてみると、やはり来てよかったと思うよ」

「……」

 半ば独白のような雄一の言葉を、髣艪ニ理紗は黙って聞いていた。理紗や佳奈子にとって、孝敬とはどんな人物であったのだろうか、そんないとこのようなご主人様に、自分もなることが出来るのだろうか……。

 遠くを見つめるような雄一の傍らで、髣艪烽サんな思いを巡らせていた。


 洋館での生活も、徐々に慣れていくようになった。

 長い一人暮らしで、その水準はともかくとして身の回りのことを全て自分一人でやっていた髣艪ノとって、メイドがそうしたことを全て世話してくれる生活とのギャップに一番戸惑いを感じていたのであったが、それに至ってもようやくある種の割り切りのようなものが得られるようになっていた。

 勿論、感謝の心は常に持っていたが、自分よりその能力が長けていることをその人に任せるということには、一分以上の理があるのも確かなことである。

 それに、佳奈子や理紗はしっかりとした意識と誇りを持ってメイドという仕事をしている。それを否定するようなことが髣艪ノ出来るはずもない。

 髣艪ェこの洋館で暮らすようになって何日もたっていないある時、食後に食器を台所に持っていこうとして、佳奈子にやんわりと制されたことがあった。

「そのくらいのことは僕にも出来るから」という髣艪ノ、佳奈子は意外な答えを返したのだった。

「はい、ご主人様がお優しい方だというのはよく分かっております。ですが、ご主人様にも出来ることですから、あえてメイドのわたしたちがするのです」

「えっ?」

 真意が分からず問い返す髣艪ノ、佳奈子は真剣な表情でこんな説明を始めた。

「ご主人様、『牝鶏の晨(あした)するは、これ家の尽くるなり』という言葉をご存じでしょうか」

 小柄な体と、耳の上の二ヶ所で束ねた髪で実際の年齢よりも幼く見える佳奈子は、実際、そんな姿がよく似合っているのだが、反面、自分が子供っぽく見られてそう扱われることには不満を持っているようだった。危うく幼さを示唆する言葉を出しそうになったことのある髣艪セったが、そんな佳奈子の口からそうした漢文調の言葉を聞かされて、佳奈子に対する視覚上の認識を改めて変えさせられるところなった。

「あ、聞いたことはあるよ。確か、牝のニワトリが朝を告げるようになるような家は滅びるというような意味だったと思うけど」

 食器を片づけることとの繋がりが分からず、不審な表情で髣艪ェ答える。

「はい、要するに、『女が出しゃばる家はろくなことにならない』っていう、男女差別に取られかねないような言葉なのですが、わたしはもっと深い意味が隠されていると思っているんです」

「深い意味?」

「人には、その人なりのきちんとした役割があるということです。そこから逸脱するのは間違ってますよ、そんな意味だと思います」

「そっか……」

 ようやく、佳奈子の言いたいことが見えてきたような気がする。

「ご主人様の生活をお助けするのは、こうした細かいことを含めてもわたしたちメイドの仕事です。そして、ご主人様には別の仕事がおありになるのですし、このことに関してはわたしたちにお任せ下さるのがご主人様の役割ではないでしょうか」

「そ、そうだね……」

「昔の中国にこんなエピソードもあります。庭でお昼寝をしていた王様を見て、たまたま通りかかった王様専用馬車の御者が『王様が風邪を引いたりしないように』と毛布を掛けてあげたんです。ですが、目を覚ました王様はその御者と宮殿の世話係を呼んで両方を叱ったんです」

「どうして?」

 世話係の方はともかく、毛布を掛けた御者までもが叱られた理由が髣艪ノは分からない。

「世話係は『自分の職務をきちんと果たさなかった』ということです。一方、御者は『自分の職務から逸脱したことをした』ということなのだそうです」

「そっか……。ある意味、僕はメイドである佳奈子さんの仕事を奪おうとしていたのかもしれないんだね」

「わたしは、ご主人様にお仕えして、喜んでもらうことが何よりも嬉しいんです。ですから、そうすることを止められるのは逆に悲しいことでもあるんです」

「そこまでは思いが至らなかったよ。ごめんね、佳奈子さん」

「いいえ。でも、ご主人様のお気持ちは嬉しかったですし。それに、自分の仕事が減ることに文句を言うメイドっていうのも珍しいでしょう?」

 いたずらっぽく笑う佳奈子。そんな佳奈子は一回り年下の女の子のように見える。だが、佳奈子にすればたしなめるような空気を一転させる意図があったのだろう。これまでの佳奈子とは急激に変化したその表情に、思わず本音がこぼれそうになって、髣艪ヘ慌てて出かかった言葉を飲み込む。

「そうかもしれないね。でも、ありがとう」

「どういたしまして」

 そう言いながら髣艪フ食器を台所に戻す佳奈子の表情は、やはりどこか嬉しそうであった。

 理紗の助けを得ながらの基礎研修と自習についても順調に進んでいった。

 この地方を始めとする日本におけるお茶とそれに関連する知識、伯父の経営する

「川辺茶園」

の事業内容、機構構成については一通り学び終え、第二段階に入った。

 川辺茶園はもともと、洋館のあるこの場所を発祥とする日本茶の栽培と販売を行っている会社だったが、順調に規模を大きくした今では、流通やお茶を材料とした関連食品なども取り扱っている。また、規模はまだ小さいものであったが、海外からの烏龍茶や紅茶などの輸入や、逆に緑茶の輸出なども始めている。

 理紗の説明は、こちらに移り始めていた。

「ペットボトルや缶飲料などの売り上げも決して悪くはないのですが、これらは他社との競争も激しいですし、次々と出さねばならない新商品の開発にかかるコストも大きな負担なのです」

「なるほど……」

 東京にいた頃の生活を思い出せば、髣艪ノもそれは実感できる。スーパーやコンビニエンスストアには次から次へといろいろな会社の飲料が並び、数ヶ月もしないうちに消えていく。

「それに、コーヒーやジュースといった他の飲み物との競争も激しいんです。人間が一日に口にする飲み物の量には限界があるわけですし」

「はは、確かにそうだね」

 メイド服姿の理紗が、そうして説明を進めていく。

「ですが、よく言われているように、今の消費社会の中ではひたすら安いものを求めるというニーズの他に、質のよいものならばそれなりの値段を出すというニーズもあるんです」

「ふむふむ」

「そうした商品は、利益率も高いのですが、それで収益を挙げるには、その『ニーズのある良質の商品』を作ったり、探してきたりすることが必要になるんです」

「その通りだと思う」

「国内のお茶の方では、この茶園の最高級種を含めて、うちでは事業としてある程度は確立するようになりました。あまり九州の外では知られていないうちの会社の名前をどう浸透させていくかが課題になっています」

「ああ、ブランド力っていうあれだね」

「はい。一方で、社長は輸出入業にも力を入れたいと思っているようです。ご主人様に社長が求めているのも、その方面の将来性を掴んでもらいたいということのようですよ」

「なるほど……」

「日本の緑茶は、意外に海外でも人気が高いんです。世界規模ですと、お茶と言えばやはり紅茶がメインなのですが、多くの国の人に日本のお茶も知ってもらえればそれも素敵なことだと思います」

「新しい商機にも繋がるしね」

「はい。一方で、外国のよい紅茶も国内に紹介する……、それも商機になると思うんです」

「うん」

「ご主人様の前で言うのは申し訳ないのですが、孝敬さまのお考えも同じでした。社長もそれを捨てきれずにご主人様に託そうとなされたのかもしれません」

「理紗さん……」

 一瞬だけ、悲しそうな表情をした理紗を髣艪ヘ見逃さなかった。

「すみません、少しだけ昔のことを思い出してしまいました……」

 メイドとしてでだけでなく、仕事に関しても有能そうな理紗のことであるから、孝敬と共に進めていたこの仕事にも思い入れがあったのかもしれない。そう悟った髣艪ヘ、隣に座る理紗の肩に軽く手を置いて、努めて明るい表情で声を掛ける。

「大丈夫だよ。実は、これから僕がこの会社でやっていかねばならないことが、まだ具体的に分からないで不安だったんだけど、理紗さんの話を聞いてそれが見えてきたような気がする」

「社長は、ご主人様がお仕事に慣れたころにお話になるつもりだったのかもしれませんけどね」

「そうかもね。でも、僕もここでこんな恵まれた生活をさせてもらっているからには、期待に応えたいし、結果も出すよ」

「はい、ありがとうございます」

「そのためには、まだまだ学ばなきゃならないことがありそうだけどね。そうだ、理紗さんは紅茶にも詳しいって言ってたよね。これからいろいろ教えてくれるかな」

「はい、喜んで」

 理紗が微笑むと、その豊かな髪までもが花開いたような華やかさを呈するようにも感じられた。どこか日本人離れすらしたような美しい人だと、髣艪ヘ改めて実感する。そんな髣艪フ感歎に答えるかのように、理紗はこう言った。

「紅茶、私は大好きなんです。こんなことを言うと怒られてしまうかもしれませんが、緑茶よりも紅茶の方が好きなくらいです」

「でも、理紗さんのイメージとしてはよく似合っているかもしれないね。最初にこの洋館に来た日、理紗さんの出してくれた紅茶もとても美味しかったし」

「ありがとうございます。もしかしたら既にお聞きになっているかもしれませんが、私には少しだけイギリス人の血が流れているんです」

「えっ、そうなの?」

「私の曾祖父がイギリス人なんです。社長のお祖父様とはお友達だったそうで、日本とイギリスが仲のよかった明治時代にこちらに渡ってきて、この洋館を建てるときにも力になったと聞いています」

 明治維新以降、日本は他の外国への遅れを取り戻そうと必死に努力してきたことを、髣艪燉史の授業などで学んでいる。その中で、同じ島国同士で一致した利害があったためか、イギリスと同盟を組んでいた時代があり、かの地から人材や技術の供給も受けたときいている。理紗の曾祖父という人物も、その中の一人として日本へやってきた人なのかもしれない。書物の中だけにあるようにしか思えない「歴史」というものが、髣艪フ中に存在感を産み出した。

「そうなんだ。だとすると、理紗さんがこの洋館に思い入れがあるのは当然かもしれないね」

 孝敬が生きていたころは、彼がこの洋館の主であって理紗と佳奈子という二人のメイドと暮らしていた。その孝敬が亡くなれば、洋館の方はともかく、メイドの存在の必要はひとまずはなくなる。それによって理紗と佳奈子は居場所を失う可能性があったのだが、雄一は孝敬だけでなくこの洋館に対しても思い入れのある二人の心を察して、そのまま留め置いたのだった。

「はい、孝敬さんが亡くなった後も、ご主人様がいらっしゃるまで置いてくださって、社長にもとても感謝しています。そして、この洋館に明るさとお仕事を取り戻してくださったご主人様にも」

「はは、それはまだ早いよ」

「ふふ、そうかもしれませんね」

「それを聞いたら、ますます頑張らないと。紅茶の勉強か……、どこから始めればいいのかな」

「それについてはお任せ下さい。私も、ご主人様のために頑張ります」

「うん、よろしくね」

 髣艪ェ隣の理紗に右手を差し出す。理紗は嬉しそうにその手を握り返した。

「少し、休憩にしましょうか」

 三時を僅かにまわって一段落ついたタイミングで、理紗がそう提案した。

「そうだね。少し休んだ方がいいかもしれないね」

「はい、では、ご主人様にお飲物を用意して参ります」

「ありがとう。今日はずっと紅茶の話を聞いていたから、理紗さんの紅茶が飲みたいな。いいかな?」

「ええ、もちろんです。ちょっとお時間を頂きますから、ご主人様も少しお歩きになってはいかがでしょうか」

「そうだね」

 凛とした表情から、メイドらしい和やかな笑顔へと変わる理紗。軽くお辞儀をして出ていった理紗を見送った髣艪ヘ、座りっぱなしで腰が疲れている自分に気が付いて、ゆっくりと立ち上がり、両手を組んで上へ向けて大きく伸ばす。

「理紗さんの言うように、少し歩いてくるかな」

 髣艪ヘ玄関から外に出て、洋館の正面から庭の方へ向かって歩き始める。そろそろ春も近づき始めているのだろうか、昼下がりの太陽は気持ちよい暖を与えてくれている。

 髣艪フ住む洋館は、県道から小さな道で少し入ったところにある。川辺のものを含めて、軽い斜面を伴う丘陵地帯になっているこの周辺は多くが茶畑になっている。その敷地の中で、畑の日照に影響を与えないように配慮された位置に、洋館の建物はあり、南側には二階の寝室から出ることの出来るテラスが設けられ、その正面に芝生敷きの庭が設けられている。

 その庭と茶畑の間に、花壇も兼ねている小さな畑が設けられており、メイドとしての仕事とは別に、佳奈子と理紗がそれを使っている。佳奈子は花や野菜を、理紗は小麦を育てているそうで、それらは洋館の中を彩るアクセントなったり、髣艪煬にする食材になったりするようだから、「メイドの仕事と別」とはいってもその境界は曖昧なようであった。理紗の作るあのパンも、自分で育てた麦を材料にすることがあるのだそうで、あの味の素晴らしさに髣艪燗セ心したものだった。

 

「ご主人様もどうですか?」という佳奈子の誘いだったが、まだ積極的な返事は出来ずにいる髣艪ナある。

 日当たりのよい芝生の上は、新緑を未だ見ない今の季節は少し殺風景ではあたが、緑が盛んになってくればきっと居心地のよい場所になるであろう。たまには外で食事するのもよいのではないか、髣艪ヘそんな空想をしてみた。

 その芝生の端に、メイド服を着ている女の子の姿が見えた。特徴的な髪型と、物干しに洗濯物を掛けるのが若干難儀そうに見える小柄な体は佳奈子のものである。

「あ、ご主人様」

 ちょうどシーツを広げ終わったところで髣艪フ姿に気が付いた佳奈子がそちらに体を向ける。

「ごめんね、邪魔しちゃったかな」

「いいえ、大丈夫です。ですが、お仕事したままで失礼させてください」

「うん。僕は休憩中だけど、邪魔をするつもりじゃないから」

「はい、今日は部屋のお掃除を先にして、シーツのお洗濯だけちょっと遅くなってしまったんです」

「そっか、こうして見ていると、佳奈子さんも本当にメイドさんらしいね」

「そうですか、ありがとうございます。お洗濯やお料理って、わたし、大好きなんです。それに、このメイド服も。子供の頃から、こんな服が着られたらいいなって思っていたんですよ」

「なるほど」

「ご主人様がいらっしゃって、わたしたちのお仕事もやり甲斐が大きくなりました」

「そう言ってもらえると僕も助かるな」

「はい。ご主人様の生活が少しでも快適になれば、嬉しいです」

「おかげさまで」

「ですが、ご主人様はずっと東京でお暮らしになっていたと聞いていますから、こっちでの生活は退屈ではないのですか?」

「ううん、佳奈子さんたちがいてくれるから満足してるよ。それにまだ、新しい仕事を覚えるのが大変で、退屈している余裕はないかな……」

「それもそうですね」

 二枚目のシーツを広げながら佳奈子が言う。髪のカチューシャが日の光を受けて輝いたように感じられる。小柄な佳奈子にとってはひと仕事であったが、動きに応じてシルエットを変えるメイド服を見ているのもまた楽しげである。

「まあ、時々は東京での暮らしを思い出すこともあるけどね。なじみのお店なんかもあったわけだし……」

「喫茶店か居酒屋の常連さんってところでしょうか?」

「あ、鋭いね。うちの近くによく通っていた喫茶店があるんだ。でも、お茶というよりは食事に行っていた感じだね。夕食はよくお世話になっていたよ」

 ベルのハヤシライスと玲子の姿を髣艪ヘ思い出す。

「なんだか、そういうのはちょっとうらやましいです。この洋館で暮らせる今の生活はわたしも大好きですけど」

「佳奈子さんたちは、お休みにどこかに遊びに行ったりはしないの?」

「そうですね……、普段の交代でいただいているお休みの日には町まで出かけてお洋服や本を買いに行くことがあります。夏休みは父のところでしょうか」

「なるほど」

「でも、この洋館にいる時間が一番好きなので、お休みもそのまま終わっちゃうこともあります」

 笑いながら佳奈子が言う。

「理紗さんと同じ時にお休みがあげられればいいんだけどね。でも、それだともう一人メイドさんがいないと」

「正直に言うと、もう一人、洋館のお仕事をしてくれる人がいると助かると思います。これでも、意外にしなければならない家事が多いんですよ」

「うん、そうだと思う」

「理紗と二人だけの時は大丈夫だったんですけど……、って、ご主人様がいらしてここでの生活が楽しくなったのにそんなこと言っちゃいけませんね」

 軽く舌を出して佳奈子が笑う。そんな会話をしながらも、佳奈子はきちんと自分の仕事を終えていた。それを見た髣艪燻ゥ分の立場を思い出す。

「あ、そろそろ理紗さんが紅茶を持ってきてくれるころだ」

「確か、ご主人様は休憩中でしたよね」

「うん、部屋に戻らないと」

「はい、お仕事、頑張ってください」

「佳奈子さんもね」

「はいっ、わたしもご主人様と理紗のお仲間に加えてほしいところですけど、これから夕食の準備をしなければなりませんので」

「佳奈子さんの料理、楽しみにしてるよ」

「ありがとうございます」

 髣艪ニ佳奈子は並んで歩く形で洋館へ戻った。建物の中に入ると、二人はそれぞれ自分の場所へ戻っていく。

「あ、ごめん。待たせちゃったね」

「いいえ、ちょうどいいタイミングでした。お庭に出ていらしたのですか?」

 まさに落ちきろうとしている砂時計を示しながら、理紗が言った。上品な紅茶の器とメイド服姿の理紗がよく調和している。

「うん。佳奈子さんが洗濯物を干しているところで、少し話し込んでしまったよ」

「よかったです。私や佳奈子にとって、そうしてご主人様との距離が縮まるのは嬉しいです」

「そう言ってもらえると僕も安心するよ」

 理紗が注いでくれた紅茶を口にしながら髣艪ェ言う。髣艪フ勧めで自分の分も用意していた理紗も、それに倣うように紅茶に口を付ける。その優雅さはとても自分とは比べられないな……、髣艪ヘそのように感じ、思わずそれが表に出て苦笑する。

「どうされたのですか、ご主人様?」

 急に笑った髣艪不思議に思った理紗が首を傾けて尋ねる。

「ううん、なんでもないよ」

 説明するのも情けないような気がした髣艪ヘ、そう言葉を濁した。だからといって理紗とのティーブレイクの心地よさが損なわれることは微塵もなかった。

 夕食が終わると、この洋館の空気も落ち着いたものとなってくる。三人にとっては、昼間はどうしても「仕事」が表に出てしまうので同じ建物の中であっても緊張感を伴った空間になっているが、佳奈子の美味しい料理を食べ、その片づけが終わって落ち着くと、佳奈子と理紗のメイドとしての仕事もほとんど終わりであるので、応接間で軽い団らんの時間を取ることが常になっていた。

 概ね、一日の最後の仕事は入浴の準備を整えることである。髣艪ェ入浴を済ませて自室に戻ると、名実ともにこの日の仕事は終わったことになる。

 その後は、佳奈子と理紗が交代でこの広い浴室という余慶を賜ることになるのだが、時にはこのようにここで顔を合わせることもある。髣艪ヘ既に入浴を済ませていたから、彼と鉢合わせする心配はない。

「あっ、理紗、いたんだ」

 着替えを持って浴室にやってきた佳奈子は、先客がいるのに気付いた。エプロンを外し、ワンピースのボタンに手を回そうとしている理紗が既にいた。

「あれ、佳奈子もこの時間?本を読んでいてちょっと遅くなっちゃったから、私は少し後にしたんだけど」

「なんだ、同じだね。わたしも今日は本を読んでいたんだ。じゃ、わたしは出直して来た方がいいかな」

「ううん、せっかくだから、今日は一緒に入ろう」

 この洋館の浴室は、数人程度ならば同時に入れるくらいの広さがある。髣艪ェ先であることを除けば、その風呂を使う順番については取り決めはなかったが、普段は概ね、それぞれがメイドの仕事や少しばかりの私事を済ませた後に個別に入るようになっていた。だが、この日のように時々、一緒になることもあった。

「そうしようか」

 楽しそうに微笑んで、佳奈子が風呂の隣にある更衣室へ入る。

 先にいた理紗に続くようにして、佳奈子も白いエプロンの結び目を解き、丁寧にたたんで籠に置く。そして、

 胸元のリボン、腰のベルト、上衣のボタン、スカートのファスナーといった順で、流れるような動作でその衣服を解いていく。

 隣にいるのは同性の理紗であるとはいえ、その動作の中にどこか恥じらいが隠せないのはやはり年頃の女性だからということであろうか。

 籠の中に綺麗にたたんで収められたメイド服を背にして、並んで二人は浴室に入っていく。

 広々とした浴室には湯気が立ち上り、霧の中にいるような趣があった。

 広さはあっても多人数が同時に入るようには想定されていなかったらしく、洗い場の蛇口とシャワーは一つしかない。佳奈子と理紗は、交代で体を洗う形になるため、最初に理紗が済ませている間には、佳奈子は湯船に浸かって温まる格好になる。理紗の方に体を向けて、湯船の縁に組んだ両腕を乗せて、自然、リラックスした表情になる佳奈子。今日は髪を洗わないという理紗が、その美しいロングヘアーをまとめあげているのに対して、佳奈子の方は逆に普段二ヶ所で留めている髪を下ろして肩に少し掛かるくらいの位置で流している。それだけで普段とは雰囲気が異なり、二人は髣艪たりからすればひょっとして別人にも見えるかもしれない。

 理紗は背を向けていたが、タオルで体を洗っている理紗の仕草は、たとえ湯気越しであっても優雅に見え、佳奈子を感歎させる。

「やっぱり、理紗がうらやましいなあ」

 しみじみと、といった感じで佳奈子がそんなことを口にする。

「えっ、どうしたの、いきなり」

 首だけ横に向けて、理紗が答える。

「理紗のその、大人っぽい雰囲気っていうのかな、そういうのが。わたしって、小柄だしどうしても子供っぽく見えちゃうのよね」

「でも、そんな可愛いさっていうのもいいと思うけど」

「そうかな……、わたしは可愛いよりも綺麗って言われたいなあ。途中で察して言葉を止めていたけど、ご主人様も何回か、『佳奈子さんの容姿は子供っぽいな』って感じていたはず。少なくとも、絶対、理紗と比べたことがあるはずよ」

「でも、そうだとしてもご主人様はそれを否定的に見ているわけじゃないんじゃないかしら」

「そうなんだけどね……。でも、メイドとして一人前に働いているつもりなんだから、子供っぽく見られるのはどこか心外なのよね」

「難しいね。言葉遣いや家事の腕前を見れば佳奈子は立派な大人なんだけどね。でも、それはもうご主人様には分かっているんじゃないかな」

「そうよね、きっと。わたしね、少しでも大人っぽく見えるようにって、そんな服や髪型を試してみたことがあるんだけど、絶望的に似合わないのよね……、鏡見てショックだった。だから、やっぱり理紗がうらやましいな」

「あ、佳奈子、どうぞ」

 体を洗い終えた理紗が、佳奈子と交代すべく湯船の方へやってきた。佳奈子はその理紗の体の曲線、特に胸とウエストの辺りに向いてしまう。続いて、そんな佳奈子の問いかけに客観的なつもりで答える。

「でも、人は自分の持ってないものがよく見えるものでしょ。佳奈子らしく言えば、隣の芝は青く見えるっていうような……」

「そうそう、隣の花は赤いってこと。でもね……」

「今の佳奈子は容姿も含めて決して悪くないと思うけど。わたしには分かるけど、佳奈子は人をうらやましいって思う気持ちがあっても、決してそれを嫉妬にしたりはしないし」

「ありがとう。それになんだかんだいっても、あの髪型はわたし、気に入っているんだよね」

「うん、似合ってるわよ」

 そう言って、理紗が微笑んでくれる。同じ洋館で働くメイドであると同時に、親しい友だちである理紗のそんな表情を見れば、佳奈子も自然に嬉しくなってくる。

 理紗とすれ違う形で佳奈子が湯船から出る。理紗は奥の方に腰を下ろし、肩を僅かに水面の上に出すくらいにしてしっかりと湯に浸かっている。足を伸ばして入ることが出来るのが、この洋館の風呂のもっともよいところであった。洋館でありながら、広い風呂にこだわったあたりは、日本の建物であるともいえるのかもしれない。

「で、その新しいご主人様だけど……」

 タオルに石鹸の泡を立てながら佳奈子が話題を転じた。

「髣艪ウま?」

「まだ何日もたってないけど、理紗はどう思ってる?」

「抽象的な質問ね。でも、私は感じのいい人だと思うわよ。お仕事に関することも、びっくりするくらい飲み込みが早いし。大旦那さまの心づもり以上に、早く戦力になるんじゃないかしら」

「そうなんだ。わたしも、お仕えし甲斐のあるいいご主人様って思うかな。ちょっと優しすぎるところがあるような気もして心配なんだけど」

「そうかもね。ずっと一人暮らしされていたっていうから、まだ『メイドを使う』ってことに不慣れなみたいだし。でも、佳奈子があんな勢いでご主人様を説得していたのには驚いちゃったな」

 食後に器を自分で下げようとした髣艪制した佳奈子のことを理紗は指摘する。

「うん。でも、あのままご厚意を受けちゃったら、きっとこれからもご主人様はそうするだろうし、わたしの大好きなメイドの仕事を取られちゃうみたいな気がして……」

「だけど、自分が楽できるのをあんなに否定する人っていうのも珍しいかもしれないわね」

「ふふっ、そう考えるてみると確かにそうね。どっちにしても、ご主人様が来てくださって、わたしたちにはよかったと思うな。ご主人様が素敵な人であればあるほど、メイドとしての働きがいもあるしね」

「そうね。新しいご主人様にも快適に暮らしてもらえるように頑張らないとね」

 理紗の「新しいご主人様」という表現の裏には、先代の孝敬の影がちらついていることを佳奈子は知っていた。理紗が孝敬に向けていた気持ちを知っているので、ひょっとすると髣艪ニいうご主人様に対しては逆に昏い気持ちを感じることが否めないのではないかと心配していた佳奈子だったが、それはないようなので安心した。

 理紗が孝敬を忘れることはないだろうが、髣艪フ存在が理紗の陰を晴らしてくれることを、佳奈子はどこかで期待していた。

 そんな理紗が、湯の中から体を起こして縁に腰掛ける。

「だいぶ温まったかな。最後に佳奈子と一緒に入って、それから出ようかしら」

「あ、わたしは髪も洗うから、ちょっと待ってね」

「うん。時々はこうやってお話ししながら一緒に入るのも楽しいわよね」

 髪を泡立てながら、佳奈子も理紗のそんな意見に同調した。

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