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第2章 転機

 いつものように、重厚な木の扉を開けて店に入る。

 仕事疲れの体に響き渡るように、聞き慣れたベルの音が髣艪ノ伝わってくる。

 そして、それとほぼ同時に、奥から元気のよい可愛らしい声が聞こえてくる。

「あ、川辺さん。いらっしゃいませ。今日もありがとうございます」

「うん。お腹が減ったよ、今日も疲れたなあ」

「お仕事、ご疲れ様です。あっ、鞄をお持ちしますね」

 エプロン姿の玲子が、そう言ってやや遠慮がちに髣艪フ右手の方へ手を伸ばす。

「えっ、いいの?」

「はいっ」

 一瞬、お互いの服越しに髣艪ニ玲子の腕が触れた。

「じゃ、お願いしようかな」

「はい」

 笑顔を見せた玲子が、髣艪フ鞄を手に取って、体の前で両手で抱えるようにして持つ。

 この日も既に他の客は店内にはおらず、その安心感が玲子をそんな「過剰サービス」 へと誘ったのであろう。

 いつも髣艪フ座る席は決まっている。そこへ向かって玲子は髣艪フ前を歩く。バレッタで留められた髪と、腰の高さにあるやや大きめのエプロンの結び目が髣艪ゥらすれば新鮮にも感じられた。

「こちらに置かせていただきますね」

「あ、ありがとう」

「どういたしまして。今から、お冷やとおしぼりを持ってきます」

 髣艪フ指定席の向かいの椅子に、玲子がそっと鞄を置いた。コートを脱ぎ始めた髣艪ノ声を掛けて、一旦そばを離れる。そんな娘の様子を、カウンターの中のマスターが微笑ましそうに見ていた。

 どこか訳知り顔であるようにも感じられたのは気のせいであろうか。

(いや、別に僕と玲子ちゃんの間には特別な感情は……)

 一瞬、不謹慎な想像をして、髣艪ヘ慌ててそれを吹き払う。おそらく玲子だって自分のことを話しやすい常連のお客さん以上には思っていないだろう。

 すぐに、玲子が温かいおしぼりと冷えた水を持ってきたので、髣艪ヘ現実に立ち戻って彼女の姿を見上げて注文をする。

「えっと、いつものセットをお願いね」

「かしこまりました。ハヤシライスのセットでよろしいですよね」

「うん」

 確認の言葉を発しつつも、既に玲子は伝票に注文の内容を示す記号を書き込んでいる。

「では、少々、お待ち下さいね。あ、お飲物はどちらになさいますか?」

「そうだね、今日は紅茶にしてもらえるかな」

「はい、食後にお持ちします」

 ぺこりとお辞儀をして、玲子が戻っていく。こうした気さくな話し方でありながら、馴れ合いで礼を失しているのでは決してない接客姿勢、そして何よりも義理ではない笑顔と仕草が魅力的であった。

 ちょうど、読みかけの経済小説があったので髣艪ヘ鞄から取りだして食事を待つ間に読み進めるようにする。大手の銀行を舞台にした話で、どこまでがフィクションでどこまでがノンフィクションであるのか、髣艪ノは想像がつかない。中堅の行員が、政治家や不穏勢力と癒着している腐りきった経営陣を追い出すために画策する……。そんな内容の話であったが、そう簡単にはことは運ばない。小説の中ですらそうなのだから、現実はもっと「綺麗事では済まされない世界」の中にあるのだろう。

 一種のすがすがしさを感じながらも、同時にそうした無常観にもさいなまれる。それはかつて自分も経験した「社内的事情による販売中止」 に通じるところがあってのものなのかもしれない。

 そんな不快も伴う小説でありながら、展開のテンポはよく、ついつい先を気にして読み進めてしまう。

 ハヤシライスが来るまでの待ち時間に、三十ページほど読み進んでいたことに気が付いて、髣艪ヘ少し驚いた。ベルで本を読んで食事の出てくるのを待つことは滅多にないので、その待ち時間と進むページの関係ははっきり掴んでいなかったが、三十ページが進む時間というのは、普段よりもずいぶんと長いのではないだろうか……。もしかして、既にハヤシライスは来ているのでは?と思ったが、今の自分には空腹を刺激するあの美味しそうな匂いに耐えられる筈はない。

 そう考えて、本に栞を挟んで閉じようとしたとき、頭の向こう側から聞き慣れた声が聞こえてきた。

「すみません、お待たせいたしました。セットのハヤシライスとミニサラダです」

「うん、ありがとう……」

 そういって、普段と同じに戻ったと思いこんでいた髣艪ェ、トレイを持った玲子に顔を向けると、その瞬間にその表情が驚きのものへと変わった。その変化は当然、玲子にもはっきりと伝わった。

「れ、玲子ちゃん、その服は……」

「あ、あの……」

 普段着のうえに淡い緑色のエプロンといった、先ほどの服装とは全く異なった姿の玲子がそこにいたからである。スカートは膝下まで充分隠れるロングになっている黒のワンピースに、女性らしいウェストの引き締まった線を強調するようなエプロンと慎ましやかながらも可愛らしい胸元のリボン。ワンピースの単調さを補うためだと思われる、白い大きめの襟と袖口。そして、髪には見慣れない飾りが身につけられている。カチューシャというのだろうか。さっきまでバレッタで束ねられていた髪が、今は真っ直ぐにおろされており、軽く両肩に掛かっている。

 髣艪ノもはっきり分かるほど恥ずかしそうにしながら、それでも普段と同じようにすることを意識してサラダとハヤシライスを髣艪フ前に配膳する。

「この前、お洋服屋さんで見つけて、可愛かったので買ってしまったんです。でも、外に着ていけるお洋服でもないし、一人でお部屋の中だけで着るのも勿体ないし……」

「それで、お店に?」

「はい、髣艪ウん、今日はいらしてくれるんじゃないかなって思っていましたし、他のお客さんも今日はもういらっしゃらないようでしたから、注文を聞いてから急いで着替えてきたんです」

 そう玲子は説明する。思い切ったものだと感じているのは、髣艪セけではないようだ。ふとカウンターの慶幸に目を向けると、そんな娘の行動を「やれやれ……」とでも言いたげな表情で見つめている。咎めているのではないらしいのが、この際の玲子にとっては幸いだったのであろうか。

挿絵1 いつもよりハヤシライスが出てくるのが遅かったのはこのためだったのだろう。メイド服という髣艪ノとっても見慣れない姿の玲子は、その衝撃を外して考えればいつも以上に女らしく魅力的に見える。だが、それを口にしてしまってよいのだろうか……、そんなことを髣艪ヘ考える。だからといって、意を決して着替えてきた玲子に対してコメント無しというわけにもいかないだろう。

「そうなんだ。ということは、僕のために……?」

「そうかもしれないです」

「ありがとう、っていうべきなのかな?それはそうとして、やっぱりびっくりしたよ。でも、玲子ちゃんによく似合う服だと思う」

「わぁ、嬉しいです。このお洋服でお店に出られたらいいなって思いましたけど、さすがにちょっと……。慣れない服は動きにくいですし……」

「確かにそうかも。でも、このお店の雰囲気にもマッチしてるし、悪くないよね」

「ありがとうございます。思い切って着替えてみてよかったです」

「こちらも、メイド服っていうのかな。そんな玲子ちゃんなんて貴重なものを見せてもらったよ」

「はい。ではごゆっくりお召し上がり下さい」

 ハヤシライスの皿からの湯気を気にして、玲子が言葉を戻した。折角の料理が冷めてしまっては元も子もない。ふわっと広がったスカートの裾を気にしながら、玲子がカウンターへ戻っていく。

「川辺さん、この子もさすがにやりすぎだよねぇ」

 スプーンを手に取った髣艪ヨ、カウンター越しにマスターが話しかける。改めて玲子は恥ずかしそうにその隣で俯いてしまう。

「そ、そうかもしれませんね。でも、本当によく似合っていると思いますよ」

「川辺さんにそう言ってもらえれば構わないんだが。年頃の娘の割には、服装にはあまり気を遣わないやつだとは思っていたけど、『気を遣わない』がこうして逆に振れてしまうとさすがに驚くよね」

「そうですね……。驚くといえば、玲子ちゃんが卒業する前、セーラー服のままでお店に出てきたことがありましたね」

「ああ、あったかもしれないね。確か補習か何かでずいぶんと遅く帰ってきて、『そんなに急がなくても大丈夫だ』というのに耳に入らなかったみたいで。一度店に出ちゃったら、『戻れ』とも言えなくてね」

「勿論、エプロンは着けていましたが、セーラーの襟と大きな白いスカーフはそのままで、僕も驚きましたよ。それで、玲子ちゃんが高校生だったってその時知ったんですけどね」

「玲子も結局、就職も進学もしないでそのまま打ちに居着いちゃって……」

「でも、玲子ちゃんも貴重な戦力とお見受けしますが。特に先日の昼間の時などは」

「うん、そうだよ。お父さん」

 俯きから復帰した玲子が良いタイミングで髣艪ニ慶幸の会話に割り込んできた。

「確かにそれは認めるけどな」

 笑いながら慶幸が言う。奥の方から玲子の母親の笑い声も聞こえてきたような気がした。

「まあ、我が子ながらこんなお茶目なところもあるが、うちの店をこれからもよろしく」

「はい、それはもう。今日はこんなに珍しいものを見せていただきましたし」

「でも、川辺さんでもこんなに恥ずかしいんじゃ、他のお客さんの前では絶対に着られないです」

 玲子は恥ずかしさを隠そうと更に言葉を付け加える。

「それに、この前はお客さんがいっぱいで川辺さんへのサービスがおざなりになってしまいました。今日はそのお詫びの特別サービスです」

「あはは、そうか。まあ、店のためにはその方がよかったかもな」

「えーっ」

 父親に対して玲子が膨れてみせる。だが、仮に逆に「では、お前は明日からその服で接客しなさい」と言われたならば困るのは玲子の方であっただろう。

 そんな話をしているうちに、髣艪ヘハヤシライスを食べ終える。

 それに気付いた玲子が、カウンターからメイド服姿でトレイを持って髣艪フテーブルまでやってくる。一方の慶幸の方も、紅茶の準備を始める。そのあたりの機微はさすがはプロといったところである。

 だが、慶幸は一度、玲子の方に顔を向けるとポットとカップを取り出すところで準備を止め、洗い物へ戻ってしまった。

「ごちそうさま」

「お粗末様でした。これから紅茶を用意いたしますね」

 満足そうに玲子を見上げる髣艪ノ、玲子が言う。やはり慣れていないのであろう、付け襟やリボン、頭のカチューシャを何度か気にしている。

「そうだね、宜しく」

「折角だから、今日はお前が川辺さんに入れて差し上げなさい」

 カウンターにいるマスターがメイドに指示する。紅茶の準備を途中で止めたのはそういうことなのだろう。

「えっ、はい、わかりました」

 空になった皿をトレイに乗せた玲子が、戸惑いつつもカウンターへ戻っていく。手早く皿を受け取った慶幸が、玲子の次にすべき仕事を指示する。玲子はそれでも嬉しそうに髣艪フ飲む紅茶を用意する。

 ポットとカップを温め、湯を捨てた後のポットに葉をスプーンで測り入れる。さすがは手伝いとはいえ喫茶店で何年も働いてきた玲子である。そのあたりの所作に粗相はあり得ない。

 砂時計の砂が落ちるのをゆっくりと待つ玲子を、カウンター越しに遠目で髣艪ェ見つめている。なじみの喫茶店にいるはずなのに、玲子の服装が特徴的だというだけでどこか独特の雰囲気が感じられるようになり、ついつい玲子の方へと目を向けてしまう。それを、滅多に見ることなどないメイド服のためだと髣艪ヘ理解していたのだが、実際のところはどうなのであろうか。

「お待たせいたしました。紅茶のダージリンです。ただいまお注ぎいたしますね」

 そう言って、袖口を気にしながらも丁寧に香りのよい紅茶をカップに注いでいく。

 琥珀色の液体が徐々に白い磁器を染めていき、同時に心を落ち着かせる香りが髣艪ニ、そしておそらくは玲子の鼻孔をも刺激する。

 注ぎ終えたカップを、そっと髣艪フ前に差し出す。あくまでも喫茶店のウェイトレスとしての仕草であったが、メイドの仕事としても及第点であるといえるだろう。

「ありがとう、美味しそうだね」

「冷めないうちに、どうぞ」

「そうだね」

 玲子も、自分がメイド姿で紅茶を入れたためであろうか、髣艪ェカップを口に運ぶのを何故か強く意識していた。温かい紅茶を飲み込んだ髣艪ェ、満ち足りた表情を見せてくれたのを見て、玲子は安心した。

 そんな娘の姿に慶幸も気付いたらしく、楽しげにこんな言葉を向けた。

「今日のこの時間は、川辺さんのために店を開けているような感じになったね」

「そ、そうですか、恐縮です」

「ま、それもいいんじゃないかな」

 再び恥ずかしさを感じて俯いた玲子を父親が優しく見つめる。こういう環境がこの喫茶店の繁盛にも結びついているのではないか、そんな風にも髣艪ヘ感じるのだった。


 そうした驚きの余韻を若干引きずりながら、髣艪ヘ極めて現実的な空間である自分のアパートまで戻ってきた。

 コートをいつものようにハンガーに掛けて、引いたばかりのカーテンの内側に吊す。

 ネクタイの結び目を面倒くさそうに解きながら、ほとんど使われることのない部屋の電話に目を向けると、珍しくランプが点滅しているのに気が付いた。

「あれ、留守録?」

 家に電話を掛けてくる者はほとんどおらず、留守だった場合にわざわざメッセージを残そうとする者となると更に少なくなる筈である。「おやっ」と思いながら、髣艪ヘ「留守」とある赤い点滅を繰り返しているボタンに手を伸ばす。

「一件です」

 わざとらしい合成音声の女性の声が聞こえる。そしてその後に、低い男の声で録音されている留守番メッセージが再生される。

「久しぶり、伯父の雄一です。実は、髣芟Nに聞かせたい重要な話があるのだが、電話では何だから、一度機会を作って直接話をしたいと思っています。時間の空いたときに、一度こちらに連絡をくれないだろうか。番号は……」

 再生が終わると、ピーという機械音の後に、そのメッセージの録音された午後八時二十分という時刻が先ほどと同じ合成の女性の声で告げられる。

「……」

 それを聞いて、ワイシャツ姿のままの髣艪ェ考え込んだ。

「雄一……、伯父さんか?」

 髣艪フ父親は二人兄弟であり、確かに雄一という名前の伯父がいた。だが、詳しい理由は分からないが父と伯父は兄弟であるに関わらずあまり仲がよくないのを知っている。そのため、父と伯父が連絡を取っているということも聞かないし、髣芬ゥ身も雄一伯父を嫌ってこそいなかったが、お互いに積極的に距離を縮めるということもなくこれまで過ごしてきた。

 それでも、髣艪ェ知っているところでは、雄一は九州地方ではそれなりに名の知れた製茶とその販売を生業とする企業を経営しており、髣艪ゥら見ればいとこに当たる息子の孝敬(たかゆき)と共にその会社を育てていたはずである。

 父に言わせれば「このご時世で結構なことだ」ということであるが、全国区には至らないにせよその会社は順調に業績を伸ばしているようである。お茶といえば日本の中では静岡が生産の筆頭に挙がるであろうが、福岡や佐賀、鹿児島といった九州産のものの名を高めたことに伯父の会社の力が少なからず働いていたことも事実であるらしい。

 従兄の孝敬は二年前に若くして病気で亡くなり、雄一にも大きな衝撃を与えたという。さすがにその葬儀には髣艨Aそして父や兄も出席したが、それ以来特に縁らしい縁は維持していなかった。そんな伯父が急にどんな用事で髣艪フところへ電話を掛けてきたのであろうか。

 父にはこのことは言わない方がいいだろうと直感的に髣艪ヘ思った。今から折り返し電話をするには、今夜はもう既に遅い時間になっていた。

「明日以降だな。けど、いったい伯父さんが僕に何の用事だろう……」

 当然の疑問を抱きながら、髣艪ヘ部屋の中へ視線を戻した。

 今後の髣艪フ生活を大きく変える投石のようなものが、ここに放たれたのであった。

 翌日は金曜日であったが、髣艪フ帰宅は遅く、昨日の伯父からの電話のことが頭の中に残ってはいたが結局、連絡出来ぬままに一日が終わってしまった。

 「花金」などというのは、ごく一部の恵まれた人間を除いて過去のものになりつつあるのかもしれない。いつもより更に遅くまでの残業を終え、混雑した通勤電車に乗り込んだ髣艪ヘ、顔を赤くした他の乗客を少しだけうやましく思った。だが、一方で髣艪ニ同じように酒気の全く感じられない帰宅者も多い。

「うーん、今日はもう無理だな」

 時計を見ると、既にベルの営業時間は過ぎてしまっている。昨日行ったばかりであるので遠さは感じられなかったが、先ほどから感じている空腹が連想的に頭の中にあのハヤシライスと玲子の姿を結像させている。

「確か、レトルトのカレーがあったから、飯でも買って帰るか」

 急行から各駅停車に乗り換えたところで、そんなことを考える。

 遅くなってはしまったが、何とか今週中に片を付けたかった仕事は終わらせることが出来た。土日は何とか休むことが出来るだろう。

 休日が二日あるか、それとも一日しかないかの違いは、体力的だけでなく精神的にも大きいものである。尤もその片方はたまった家事に追われるのであるから、二日の休みといっても実質的には限られたものになってくるのであるが。

 駅を降りて、途中のコンビニエンスストアに立ち寄る。弁当コーナーにある白米と、加熱器の中に並べられているペットボトルのお茶を買う。「温めますか?」という店員の声に頷くと、レンジで加熱されていびつな形になった樹脂パックを受け取って家路に就く。

「ただいま……」

 誰もいない部屋に明かりを付け、鍋にポットから湯を移してわびしい夕食の準備を開始する。これが温まるまでの間に着替えを済ませ、空腹を満たすだけの夕食を済ませてしまう。

 この頃には、既に日付は変わろうとしているところだった。

「結局、伯父さんに電話が出来なかったな。明日でも大丈夫かな」

 改まってどんな話があるのか、髣艪ノはずいぶんと気になっていた。

「さて……」

 翌土曜日は、日が出たり陰ったりと、はっきりしない天気であった。それでも、天気予報によれば雨になることはないというので、一週間分の洗濯物を機械に洗わせているところであった。

 それが終わるまでの間、ひと息ついた髣艪ヘ伯父からの電話の件を思い出し、テーブルの上に乗せてあったメモを取る。

「おそらく、会社の番号だと思うんだけど、今日もいるのかな」

 少し考えた後、髣艪ヘ受話器を取っていた。もしいないのであれば、また週明けにでも掛ければよい。

 そういえば自分から誰かに電話を掛けるのは珍しいななどと思いながらダイヤルし、呼び出し音が聞こえてくる間を、若干の緊張を感じながら待つ。

 五回ほどのコールが鳴った後、小さなぷつっという音と共にそれが中断された。

「もしもし……、私は川辺髣艪ニ申しまして」

 緊張があったためか、先方が名乗るよりも早く髣艪ヘ自分の名を告げていた。受話器の向こうでは少し驚いた様子があるようだったが、髣艪フ声の切れ目に落ち着いた静かな声が返ってきた。

「ああ、髣芟Nか。私だ、雄一だよ」

「あ、伯父さんですね、ご無沙汰しております」

「そうだね。急に電話して驚かせたかもしれないが、連絡くれてありがとう」

 久しぶりに聞く伯父の声は、電話越しのためか自分の知っている声とは少し違うようにも感じられた。それでも、身内の声を聞いて若干、髣艪フ心が落ち着いてくる。

「いいえ、遅くなってすみませんでした。でも、どうしたのですか、急に」

「そうだね……。今、会社にいるのだが、留守電に入れておいたように髣芟Nに話というか、頼みがあるんだ」

「何でしょうか、僕に出来ることならよいのですけど」

「やっかい事の類ではないから安心して欲しいのだが、順を追って説明しなくちゃならないから、出来れば電話でなく直接会って話せないかと思う。どうだろうか」

「えっ、そんなに重大なことなんですか?」

 一瞬、この伯父が父とは仲が悪いということを思い出す。それに関係することなのだろうか……。

 だが、そうした気まずい空気を電話越しに察したのか、笑い声が聞こえてくる。

「あはは、そんなに身構えることじゃないよ。ただ、髣芟Nを呼び出そうというのだから、簡単な話でもないのだけどな」

「そ、そうですか。でも……」

 今、伯父がいるのが彼の本社なのだとしたら九州にいるはずである。この電話を掛けたときも最初に九州の市外局番があったはずである。

「さすがに、髣芟Nにこっちに来てくれとは言えないよな。髣芟N、明日の夕方など、少し時間がとれないだろうか?」

「明日の夕方、ですか……。大丈夫だと思いますけど」

「そうか。実は来週の月、火と東京に用事があってその出張の準備をしているところだったんだよ。予定を変えて、明日の午後に出るようにするから、どこかで食事をしながら話を聞いてもらえないだろうか」

「あ、はい。わかりました」

 多少の強引さが感じられるが、断る理由もなかった。そして、不安を感じながらもその伯父の「話」というものに興味がないわけではない。まさか身内を詐欺にかけたりもしないだろう。

「ありがとう。では、東京の有楽町に私の常宿にしているホテルがあるから、そのロビーで待ち合わせしよう」

「はい」

「時間は、夕食に合わせて夕方の六時でいいだろうか」

「わかりました。では、明日は宜しくお願いします」

「ああ、こちらこそ」

 会話を終えて髣艪ェ受話器を戻すと、急に再び緊張感が駆け抜けていった。結局のところ、伯父から持ち出される話がどのようなものであるのかを聞かされていなかったが、わざわざ伯父が自分に会うために九州から出てきて時間を取るというのだから、単なる世間話ではあるまい。そして、待ち合わせに指定されたホテルの名前は、髣艪フような庶民でもよく知っているものだったからである。尤も、庶民にとっては知っているだけであり、実際に泊まったことなどはない。

「となると、やはりスーツ着用か。ちょっと面倒だな……」

 そんな感想を髣艪ヘ持ったのだった。

 秋の日が落ちるのは早い。

 待ち合わせの時間より少し早めに、指定されたホテルに髣艪ェ到着したときにはすっかり夜の帳は降りていた。だが、この高級ホテルの中にあってはそのような夜の暗さとは無関係であった。寧ろ、電飾を始めとする数々の明かりがこの空間に華やかさを与えている。

 場違いなところに来たと自覚しつつ、なるべくそれを隠そうとしながらロビーへと向かう。考えてみれば会社関係のセレモニーや友人の結婚披露宴などでこの手の場所へは来たことがある筈である。無用な緊張が何故必要だろうか。

 そう考えて自分を落ち着かせようとするが、一方で伯父の持ってくる「話」というのがそれらとは違うものを意識させ、緊張へと変換させている。

「すみません、失礼します」

 空いているソファを見つけて腰を下ろす。さっと一回りしてみたが、少し時間が早かったからか、伯父の雄一の姿は見られなかった。

 時折、行き交う人の顔の中に伯父の姿がないかと視線を走らせる。

 五分ほどたって、その目的の人物が登場した。髪に白いものの混じる伯父は外見の上では父によく似ていたが、余裕のある体格と全体から感じられる雰囲気といったものは全く別であった。父はこの伯父とは仲がよくないのは知っていたが、自分は伯父に対して特に負の感情は持っていない。そしておそらくは伯父の方も同様であろう。

「すまない、待たせてしまったようだね」

「いいえ、少し早めに着くように出てきましたから。僕みたいな若造にはこんな場所は不慣れでして」

 無意識に頭の後ろに手をやりながら、髣艪ェ恐縮してみせる。

「そうか。休みの日なのにそんな格好をさせて申し訳ない」

「いいえ、気にしないでください」

「では、レストランを予約してあるので、そちらへ向かおうか」

「はい、宜しくお願いします」

 就職活動の時に大学の先輩だという役員の面接を受けたときのことを思い出して、髣艪ヘ密かに苦笑した。今回は自分の人生が掛かっているのではないだろうということが、髣艪少し安心させる。伯父は二年前に一人息子を病気で失っている。仕事の上でも有能な補佐役だったと聞いている。そのことを、今日は話題にすべきであろうかと、そんなことを考えながら伯父の後に従っていく。

「いらっしゃいませ」

 紺色のワンピースに白いエプロンというシンプルな制服に身を包んだウェイトレスが入り口で出迎えていた。シンプルではあるが上仕立ての制服であることはさすがの髣艪ノも容易に感じることが出来た。

「予約していた川辺だが……」

「川辺様、二名様ですね。お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

 優雅ともいえる動作のウェイトレスに続き、白いテーブルクロスの並んだレストランの奥の方の席に案内される。

「上着をお預かりいたします」

 そうして、自然にウェイトレスが雄一と髣艪フコートを受け取る。

「少々、お待ち下さいませ」

 客に無用の気遣いをさせぬ接客に、髣艪ヘ感心する。

「さて、軽くワインでも飲みながら話を始めようか」

 こちらはさすが、雄一は慣れた所作でナプキンを膝の上に乗せる。髣艪ヘ格の違いというものを実感せざるを得なかった。

「では、乾杯」

 ワイングラスが澄んだ音を立てる。黄金色に近い白ワインが麗しい芳香を微かに漂わせている。

 そのワインの助けを借りて、この緊張を少しほぐしてもらいたいと思って口に運んだとき、雄一は話の本題に入り始めた。

「私が、お茶の会社をやっていることは知っていると思うが……」

 改めて髣艪ヘ居住まいを正す。

 そして、雄一の話が進んでその全貌が姿を見せるに従い、髣艪ノ驚きが走っていく。

 これは、就職の役員面接などの比ではないかもしれない……。

「本当はあまり思い出したくはないのだが、私の息子、髣芟Nにとってはいとこになる孝敬が一昨年、病気で死んだのは覚えているよな?」

「あ、はい。僕とほとんど歳も違わないのに……。ショックでした」

「そうか。勿論、私もそうだった。だが、孝敬は単に私の息子というだけではなく、会社の中で重要な働きもさせていたのだ」

「はい、そのように聞いています」

「話が飛ぶが、私の会社は、私たちの祖父が受け継いだ農地からスタートしているのだ」

 そうして、雄一は自分の会社のルーツから現在に至るまでの簡単な沿革を話し始める。その要旨を追うと……。

 川辺家は、もともと南九州の丘陵部にある中規模な地主階級であったという。土地柄、台風に悩まされることも多かったが、気候そのものは温暖であり、そうした天候と戦いながら稲作を中心として暮らしを立てていたという。

 それが大きく変わったのは、明治時代になり、日本そのものが大きく変革した時であった。

 開国やその混乱に伴う内戦は、直接的な戦火こそなかったがこの土地にも大きな変化を与えた。外国からの進んだ技術の輸入はこの地にも波及するところとなり、藩から名を移した県の都には近代的な工場や商店が現れるようになった。一方、川辺家のある田舎の農業もそうした技術革新の影響をうけつつあるようになった。

 明治時代の二つの大きな対外戦争は、日本の世界の中での地位を高めると同時にそれに伴う産業基盤の興隆も国民に強要していった。

 だが、「働けばそれだけの豊かさが手に入る」ということは悪いことではない。主食である米以外の作物の需要が時代と共に徐々に増すようになり、雄一の祖父、髣艪ゥら見れば曾祖父にあたる当時の川辺家の当主は、その農業を稲作から茶に転じることを決心した。ここには、当時、県都に滞在していた英国人の友人の薦めと助力があったのだという。詳しくはもう雄一にも分からないが、当時、日本のいくつかの都市にいた所謂「お雇い外国人」の一人だったのかもしれない。

 その後、日本は英国とは袂を分かつことを余儀なくされ、そのまま昭和の大きな戦争へと突入していく。緒戦は有利に推移していたその戦争も、衆寡敵せず、やがて坂を下るように劣勢に追い込まれていく。戦火には縁のないような田舎町にも、やがてその影響が押し寄せてきた。

 そのような情勢の中、髣艪フ曾祖父も、その三人の息子も全員が兵隊に取られ、南方、もしくは中満大陸へと出征していった。

 残された川辺家の女性や子供たちは彼らの身を常に案じ続けてきたが、やがて敵の飛行機はこのような田舎町まで姿を見せるようになり、彼らの身よりも自らの身を心配せねばならないようになっていた。

 そして、戦争は終わった。出征していった川辺家の四人の中で、生きて返ってきたのは髣艪フ曾祖父だけであった。その息子たちは全員、異国の地で果てた。既に髣艪フ父と伯父の雄一は生まれていたが、父を失った彼らは彼らの祖父に戦後、育てられることになる。茶園という財産が残っていたこと、都市部を中心とする戦後の混乱にさほど巻き込まれなかったことは不幸中の幸いだったかもしれない。

 雄一は祖父からこの茶園を託された。人々の生活にもようやく多少の余裕が生まれるようになっており、経済の成長とともに雄一の産するお茶も売れるようになっていった。

 その後雄一はこの家業を一層充実させることを目指し、お茶を総合的に取り扱う会社を作った。そしてその会社の成長した姿がここにある。

 髣艪ノとっては、初めて聞く壮大な話であった。血というものが連綿と受け継がれている事実、そして、教科書の中にしか存在していなかった歴史というもの。まるで何にでも興味を持つ年頃の子供に戻ったかのように、雄一の話に髣艪ヘ聞き入っていた。

 話が終わるころには、前菜もスープも終え、テーブルの上にはメインディッシュが置かれていた。

 大きな息を吐いた雄一を見て、髣艪ヘ意識を戻した。

 川辺家と伯父の会社の話を聞いたのはよいが、今日、自分がここに呼ばれたこととどんな関係があるのだろうか……。

「すまない、長くなったね。そこで本題に入るわけだが……」

 髣艪ヘナイフとフォークを手にしながらも、意識としては居住まいを正して雄一の顔を正視する。

「私たちを育ててくれた茶畑は、今でもうちの重要な生産地として残っている。特に新しい品種やお茶を材料にした様々な商品の開発を行うための研究設備も兼ねているんだ。経営に関しては必ずしも非凡とはいえなかった孝敬だが、こちらに関しては意外にやってくれていて、私も期待していたのだ」

「そうだったのですか……」

「だが、今は残念ながらあの茶園も後継者がなく単なる茶畑になってしまっている」

「……」

「今は私が管理運営を兼務している形になっているが、社長業という忙しさの中ではなかなか気に掛けることも出来ないのだ」

「なるほど」

「だが、あの茶園はいわば、私にとっての発祥の地で、先祖代々受け継いできた土地でもある。あの茶園の運営と研究は引き続き行いたいと思っているのだが、出来れば他人ではなく身内の人間に任せたいと思うのだ」

 そこまできて、ようやく髣艪ノも話が見えてきた。だが、髣艪ヘ雄一の甥とはいえ、ようやく中堅に足を踏み入れた程度の単なるサラリーマンである。

「もう、想像が付くと思うが、髣芟Nにあの茶園の面倒を見てもらいたいと思っているのだが、どうだろうか」

「ぼ、僕がですか……」

 やはり戸惑いは隠せない。今のサラリーマン生活に必ずしも満足していない髣艪ナはあったが、その茶園の運営という仕事が自分にすんなりこなせるものであるとも考えにくい。

「急な話だから、この場ですぐ返事をもらおうとは思っていない。だが、髣芟Nにも自分の生活や将来設計があるだろうから、それにそぐわなければ断りはここで言ってもらっても構わないよ。勿論、私としてはそうでないことを祈るのだけれど」

「そうですね。やはり急なお話で正直、現実感が見えてきません。少なくとも、その南九州の茶園に僕が移り住むことになるわけですよね」

「そうだ。茶園には祖父が転業したころからある洋館があり、住居という意味での居場所も整っている。さすがに古い建物ではあるが、本格的な洋館で造りもしっかりしているし、田舎のものだから広く快適ではあると思う」

「そうですか」

「洋館なのは、彼の趣味と友人であったその英国人の影響だとも聞いているがね」

 雄一が笑いながら付け足した。

「髣芟Nは今の会社で統計や分析の仕事をしていると聞いたが、研究というのもそうした仕事に共通するところがなくはないといえるのじゃないだろうか。勿論、茶業は髣芟Nの専門外であろうから、すぐに結果を出すということにはならないだろうが、一方の茶園の運営だけならそう難しいことではない」

「……」

「待遇は、勿論、うちの会社の社員ということになり、管理職程度のそれなりの処遇も用意させてもらう。そして、あの茶園と洋館には、生活の面倒を見てくれる家政婦と、仕事面でのサポートをしてくれる秘書役の人間もいるから、そう心配することはないと思う」

「そうですか……」

「私が言うのも何だが、会社の業績の方もおかげで順調だ。そのあたりの資料は今日、持ってきたので帰った後にでも目を通してもらえると助かるな」

「わかりました」

 取りだした大きな茶封筒を、髣艪ヘ受け取った。

 今の時点ではあまりに突拍子な話に、どう答えてよいのかは分からなかった。だが、少なくとも拒絶の感情が起きなかったことは事実である。雄一の言うように、少し時間をもらってじっくり考える必要があるだろう。気軽な独り身の立場とはいえ、住み慣れた東京を離れて、サラリーマンから茶園の運営者になるというにはそれなりの覚悟も必要だろう。

「今日の本題はこれくらいだ。髣芟Nに会うのも久しぶりだし、ここからは気楽に行こうじゃないか」

 デザートを運んできたウェイトレスに、食後酒を追加で注文する。ドイツの貴腐ワインという代物で、極限まで葡萄の甘さをため込んだ、貴重なものであるらしい。

 その甘露のような味を受けながら、髣艪ヘ受け取った封筒に目を向けて伯父の話を頭の中で反芻するのだった。


 この時、髣艪ェ「考える時間を下さい」と言ったのは勿論、「いつまで考えていてもいい」という意味ではない。

 翌日から何事もなかったかのように会社に行って仕事をする髣艪ナあったが、行き帰りの電車の中では再び、伯父の持ちかけた話の内容が頭に浮かんでくる。

 今の会社にいれば少なくとも食べていくには困らない稼ぎは得られるであろうし、将来的にもそれなりの昇進や昇給は見込めるであろう。だが、一方で大企業にありがちな停滞感や自分が過去の仕事で経験した失望感といったものが存在することも確かである。

 資料を見る限りでは伯父の会社は彼の言うとおり順調に経営されているようであるが、その中に「経営者の親族」として入ることは、同じサラリーマン生活であってもそれまでとは違うものになることを意味するのは確かだろう。

 住み慣れた東京から、南九州へ移るということも大きな変化であろう。

 しかし、そうした変化に対して思い切った受諾の心を向けてしまえば、魅力的であることは確かである。茶園の運営ということは未経験の領域であったが、決して不可能なことではないとも思っている。少なくとも、日々の残業に追われた今の生活から比べると心に余裕は出来るであろう。

 そんなことを考えながら駅から歩いているうちに、商店街の奥にあるいつもの角までやってきた。

 曲がった先にある山小屋風の喫茶店に目を向けた髣艪セったが、今日は気が進まずにベルには寄らずに帰ることにした。一瞬だけ玲子のエプロン姿が思い浮かんだが、その彼女を見ると何故か決心が揺らぐような気がしたのである。

 ということは、逆に言えば既にこの時の髣艪フ中では、伯父の話を前向きに考える方向に進み始めていたのかもしれない。

 ともあれ、この日の髣艪ヘ真っ直ぐに帰宅して、家にストックしている冷凍食品で簡単に夕食を済ませた。

 久しぶりに湯を張った風呂に入り、若干、心が落ち着いたところで再び伯父から受け取った書類に目を向ける。そして、メモを取りだして気になった事柄を何点か、箇条書きに並べていく。

 翌日、髣艪フ会社で、前から噂になっていた早期退職優遇制度の公式な発表があった。今年の年末から年度末、即ち来年の三月末までに退職する社員には退職金の割増と現在の基本給の半年分の転職支援金が支払われるという内容のものである。

 その内容や背景となる会社側の思想についてはごくありふれたものであったが、髣艪含めて多くの社員が驚いたのは、その対象者が「入社五年以上の社員」とあったことである。この手のリストラは中高年層を主なターゲットにしていることは明らかであったが、そればかりでなく不況下で「厳選採用」したはずの若手までが含まれていることは、噂段階での社員たちの想像を超えていたようである。

「通達、見たか?」

「ああ、会社もなかなか思い切ったことをするよな」

 昼食に出かけた髣艪スちは、食事をしながら当然、それを話題にする。

「だけど、ああいうのは会社にとっても両刃の剣だよな」

「まったくだ。有能でよそに行っても充分に通用する奴が抜けていって、必死にしがみつきたい奴が残る。で、全体としては減らない仕事を、居残り組が抱え込むわけだ」

「そういうこと。これもまた噂だけど、『自主的』とはいいながら、会社がどうしても辞めさせたい人間には個別に声が掛かるそうだけどな」

「俺はようやく家庭を持ったばかりだから、声が掛からないように祈るばかりだ」

「まあ、お前なら大丈夫だろうよ」

「そう願いたい」

 そうして笑う同僚だったが、口にした危機感が本当のものであったかどうかは分からなかった。

 一方、この出来事は髣艪フ背中を強く押す働きをすることにもなったのだった。

 髣艪ヘ伯父の会社に電話を入れ、いくつかリストアップしていた不明点、気になる点などを問い合わせた。

 割と遅い時間であったにもかかわらず、電話に出た雄一はそれらの点を丁寧に説明してくれた。そうした電話を掛けるということは、少なくとも自分の話を拒絶するというのではないことだろうから、雄一も淡々と説明する中に若干の喜びは隠せないようであった。

 会社の中での位置、洋館で行うべき仕事の具体的な内容、業界や実務に関する知識習得の機会確保やそのための時間、そして、実際に転職することになったとした場合の具体的なスケジュール見通し、洋館の住環境について……。そうしたものに、雄一は丁寧に回答した。髣艪ノとって好ましかったのは、それが決していとこの孝敬の跡継ぎを意味するのではないということだった。引き受ける仕事の内容はそうであっても、雄一の甥であるからといって例えば自動的に役員に名を連ねるのではないということは、髣艪フ価値観にも合致するものであった。

「将来的には株式の上場も考えないわけではないからね。勿論、逆に髣芟Nが身内だから絶対に役員にしないということでもないよ」

 笑いながら、電話の向こう側で雄一がそう言っていた。

 そしてこの時点で、髣艪フ心は既に固まっていたのであった。

 その翌日、会社帰りにベルに寄った髣艪ヘ、普段と同じ玲子の笑顔に迎えられた。

「川辺さん、いらっしゃいませ」

 大きな決心をした髣艪セったが、昨日の今日でそれを玲子に話すことははばかられた。

 しかし、考えるまでもなく伯父の会社に移るということは、この町を離れて出ていく、つまり、この店の常連生活にも別れを告げることを意味する。ついこの間までは、そんなことは想像したこともなかった。髣艪煦齔カこの町で暮らすつもりはなかったし、玲子もずっとベルで店の手伝いをしているというのでもあるまい。だが、数年というような中期的な視点で見た場合は、今の髣艪笳謗qの生活に変化があるとは想像していなかっただろう。

 そうした安定感を覆すのことを恐れて、髣艪ヘその話をすることは出来なかった。幸い、玲子は今までと同じように髣艪ノ接してくれている。

「いつものをお願いするね」

「はい、少々お待ち下さい」

 そう言って元気に給仕をする玲子に対して、そうした話は切り出しにくかった。かといって、ある日突然、玲子やこの店からいなくなるということも出来ればしたくないというのが正直な気持ちだった。

 会社には正式に辞表を提出し、仕事の引継ぎの関係もあって、退社は年明けの一月末、実際にはその一週間ほど前ということになった。髣艪フ能力を知る上司は何度か慰留したが、それは本気と形式が半々であるように感じられた。最終的には、少なくとも表面上は円満に髣艪ヘ会社を去ることになった。

「伯父が事業をしておりまして、これを機会にそちらを手伝うことにしたのです」

 対外的にはそう説明したし、それは事実でもあった。こちら方面への説明は簡単に済んだが、玲子やマスターの慶幸にはなかなか切り出す機会がなかった。

「いらっしゃいませ。あっ、川辺さん、いつもありがとうございます」

 重いドアを開けると、中から聞き慣れた声が聞こえてきた。

「うん、お腹が空いたね」

「あれ、今日はどうしたんですか、そんな大層なものを持って」

 いつもビジネスバッグを手にしてスーツ姿で立ち寄る髣艪ェ、この日は大きな花束を持っていたことが当然ながら玲子の関心を引き寄せた。

「ああ、これね……」

「ひょっとして、今日は川辺さんのお誕生日? そういえばわたし、川辺さんのお誕生日を知らなかったです」

 髣艪出迎えた玲子が、無邪気に先走ってそんなことを言っている。

「いや、そうじゃないんだ。実はね……」

 先を続けようとした髣艪ヘ、入り口に立ったまま話をするのはどうかと思い、ひとまずはといつもの席へ足を向ける。

 おやっ、という表情をした玲子は、慌てて水とおしぼりを取りに行った。そして、腰を下ろした髣艪ノ熱いおしぼりを開きながら差し出した。

「実はね、今日で会社を辞めることになったんだ」

「えっ、そうなんですか?」

 さすがに玲子は驚きを隠せない。その表情に申し訳なさを感じつつ、髣艪ヘ言葉を続ける。結局、今日までこの話を玲子に切り出すことが出来なかった。今日は、半ば強制的にそれを話すために会社でもらってきた花束を持ったまま店にやってきたのである。その花を玲子は誕生日プレゼントと考えたのであったが、それは彼女の中でもこれまでの髣艪ニ同じように環境が変わるということをほとんど想像していなかったということを示してもいた。

「なかなか玲子ちゃんには話すことが出来なかったんだけど、今の会社を辞めて、伯父のやっている会社を手伝うことになったんだ」

「そ、そうなんですか……。その会社って、遠くにあるんですか?」

 敏感に玲子が察してそう質問する。

「うん、九州にあってね、もう少ししたらそっちに引っ越すことになると思う」

「じゃ、それじゃ……」

 注文を受けることも忘れて、玲子が明らかに悲しそうな顔をする。

「そういうことになるかな」

「そうですか。すごく寂しいです……」

「でも、東京に来ることもあるだろうし、その時にはまたここにも来るよ。それに、引っ越しまではまだあるから、今日が最後ということじゃないよ」

「はい。でも、わたし、ショックです……」

「うーん、ごめんね」

 そんな髣艪ノ、玲子は首を横に振るだけだった。自分がそういう気持ちになっていい立場にはないことをひょっとすると分かっていたのかもしれない。

 この日のハヤシライスも美味しかったはずであるが、どうしても味は空虚になってしまっていた。作ってくれた玲子の母親に対して、申し訳ない気持ちになる髣艪セった。

「必ず、また来てくださいね!」

 玲子の言葉が髣艪フ頭に残っていた。退社して引っ越しを済ませるまでの間は、時間帯こそそれまで通りだったがスーツ姿ではなく私服でベルに通っていた髣艪セったが、その最後、引っ越しの前日にはあえてスーツ姿で出かけていた。

 「今日で最後」ということをはっきり口にしたくなかったのかもしれない。うぬぼれかもしれないが、それを言えば玲子は泣き出すのではないかと思ったからである。

 お店のウェイトレスと常連客というのが、これほど距離の近いものになり得たということを、髣艪ヘその時になって驚きながら貴重なものと思っていた。

 玲子も髣艪フ服装を見てその意味するところを察したらしく、笑顔こそ絶やさなかったがその奥にある気持ちははっきりと伝わっていた。

 それでも、最後は右のような言葉を残して髣艪見送ってくれた。

 さほどの量ではなかったが、全ての家財がトラックに積まれたのを見送った後、髣艪ヘ手荷物を持って東京駅へ向かった。

 帰宅途中のサラリーマンで混雑している東京駅であったが、寝台特急の出る特急列車用のホームだけはそんな喧噪からは一線を画しているようにも感じられた。

 発光ダイオードの発車案内盤が、髣艪フ乗る列車の名前と発車時刻を表示しているが、その下をスクロールする案内に「食堂車、車内販売はございません」とあるのを見て、中程にある売店へと向かう。

 どの弁当にするか迷っている間に、右手から機関車に牽かれた青い客車が入線してくる。小振りな弁当とおにぎり、それにお茶とビールを買って、髣艪ヘ出発を待つ寝台特急に乗り込む。

 ホームと同様に列車の中も閑散としている。切符を取りだして自分の今夜の宿とすべき区画を探していくが、ビジネスホテル程度ならば充分に泊まれる値段の寝台料金と、翌朝の飛行機を使えば目的地で追いつくことが出来るようなダイヤ設定とあっては、この閑散もやむを得ないものといえるのかもしれない。

 日常とは異なる雰囲気の中で新しい生活へ向かっていこうという思い、髣艪ヘあえてこの寝台特急列車を利用することにした。高校の修学旅行の帰りに利用した記憶があるが、その時は車内が貸し切り状態なのをよいことに遅くまで友人と話をしていた賑やかな思い出しか残っていない。それと比べると、この列車は寂しげであった。

 やがて遠くから聞こえてくるように感じられる汽笛の音に続いて、ゆっくりと列車が動き始める。窓の外に見えるビルの明かりやネオンが後ろに流れていくのが、住み慣れた東京を自分は離れていくのだということを象徴的に示しているように思われる。窓に写る自分の顔の後ろに、一瞬だけ玲子の姿が見えたような気がした。

 慣れきった間柄とはいえ、玲子と自分の間には喫茶店のウェイトレスと常連の客という以上の関係はない。だが、自分が会社を辞めて引っ越すということを玲子に話すことに躊躇があったことや、それを聞いた玲子が見せた残念そうな表情は、その厚くはない間柄という評価が果たして本当のものなのかということを髣艪ノ考えさせた。そして、あのような一言だけで最後のベルでの玲子の時間を済ませてしまったことがよかったのかどうかを自問させられる。

 列車は速度を上げ、複々線の隣を走る通勤電車を軽やかに追い抜いていく。自分から求めたとはいえ、この都会の中でいつもと違う立場に身を置いていることがそんな感慨を与えているではないかと髣艪ヘ考える。新しい生活に慣れて身が落ち着いてきたら、またあの店を訪ねることがあるかもしれない。それは偽りではなかっただろう。遠い異国へ移住するというのでもないから、再び東京に来る機会だっていくらでも作れるだろう。

 玲子に洋館の住所を伝えてこようかとも思ったが、それは喫茶店の客がすることとしては出過ぎたことのように思えて、結局、髣艪ヘ実行しなかった。それが軽い後悔になっているのも確かだったが、かといって「手紙をくれ」とか「訪ねてきてほしい」と解釈されかねないような行動は避けたかったのも事実である。

 引き出したテーブルの上の弁当に目を向けた髣艪ヘ、過ぎたことに関するそうした雑念を振り払う。これから半日以上は乗り続けるこの列車で旅情を味わうことを今は考えよう。

 横浜駅を出てからやってきた車掌に切符を見せ、食べ終えた弁当を車端にあるくずもの入れに捨てる。

 閑散としていた車内は、沼津や静岡から乗ってきた乗客で僅かに賑やかになった。

 寝るまでの時間を、缶ビールを飲みながら過ごしていた髣艪セったが、やがて手持ちぶさたになって自分の寝台へと潜り込む。

 列車の揺れと規則的なレールの音が、軽い酔いと共鳴して髣艪眠りに誘っていく。

 それと同じ頃、玲子は自分の部屋である喪失感を感じていた。

 その対象は言うまでもなく髣艪ナあった。

 髣艪ェ花束を持って店にやってきた時には少なからず驚いたのであるが、その花束の理由を知って、玲子は驚きと共に衝撃を感じていた。

 ベルに来てくれる常連さんは髣艪ホかりではない。近くに住んでいるという老婦人や、父と仲のよい近所の豆腐屋のおじさんなどもベルや玲子にとって大切なお客さんでもある。

 だが、そんな中で、店に来てくれる回数も多く、いつもハヤシライスばかり頼む髣艪フ存在は玲子の中にあっても印象的で大きなものであったし、夜の閉店間際の時間に気さくに話すことの彼の存在はただの常連客とは違って感じられるのも事実であった。

 それがどんな感情であったのかは玲子には分からない。だが、玲子はそんな髣艪ニの時間がこのままずっと保たれるものだと何の根拠もなく信じていた。それだけに、髣艪フ口から彼がいなくなるということを聞かされてショックを受けた。今の会社を辞めて、九州の伯父さんの会社を手伝うことになった……。その説明は簡潔であったがそれの意味するところは大きい。玲子はそう感じざるを得なかった。

 高校の卒業式の日に大泣きしたように、玲子はこうした別れの類がとても苦手だった。だが、学校の友達相手ならばともかく、店のお客さんが引っ越してしまうからといって泣いてみせるわけにもいかない。

「でも、もし川辺さんに『今日でこの店に来るのも最後だね』と言われてしまったら、泣かずにいられる自信はないかも……」

 そんな玲子の危惧を察してか、最後の日も髣艪ヘいつも通りの時間に店にやってきて、いつものようにハヤシライスのセットを注文した。ただ、この日の髣艪フ髣艪フ服装が普段とは異なっており、それが玲子に冷酷な事実を告げていた。

「必ず、また来てくださいね!」

 あの時の言葉には、玲子の本当の願いが籠められていた。

 仲のよい友を失ってしまうような、そんな危機感が玲子にはあった。引っ越し先の住所を何度、聞こうかと思ったことだろうか。それを知っていれば、髣艪ェこの町から出ていった後も髣艪ェ確かに「この場所にいる」ということを示して玲子を安心させてくれるだろう。だが、一方で自分がそれを聞くような立場にはないことも認識していた。

「あくまでも、川辺さんはうちのお店に来てくれるお客さんってだけなんだから……」

 そう言って、玲子は自分の感情を誤魔化そうとしていた。

 今日の昼過ぎ、玲子は引っ越し業者のトラックが店の前を通り過ぎるのをたまたま目撃した。それが髣艪フ家財を積んだ車であるかどうかは定かでなかったが、玲子は直感的に、今日が髣艪フ出発の日だと感じていた。

 明日からもう、川辺さんはお店には来ない……。

 そう思うと、慣れきった日常から大切な構成要素が抜け落ちたような不安感と喪失感に玲子はさいなまれる。

 一日の仕事を終え、入浴を済ませてベッドに入り、自分一人だけの時間になるとそれがより強く感じられるようになった。

「ひょっとして、わたしって……」

 髣艪ノどんな感情を持っていたのか、曖昧ながら玲子は気付かされることになった。

同時に、「やはり川辺さんの引っ越し先を聞いておけばよかった」という後悔を感じる。だが、今となってはもうそれは叶わないものであった。

 「玲子ちゃん」と呼ばれたときの心地よさを思い出すことだけが、今の玲子に出来る唯一のことだった。

「お父さんとお母さんは『玲子』だし、仲のいい友達もそうだった。『ちゃん』付けで呼んでくれるのは川辺さんとあとは叔父さんくらいだったな」

 その叔父からもらったペンダントを髣艪ノ見せたことがあるのを思い出した。その時に言った自分の言葉を再び思い出して、玲子は布団を頭まで被って無理矢理に眠りに就くのだった。

 髣艪ェ目を覚まし、狭い寝台の中で浴衣から着替えて外に出ると、列車は広々とした田園地帯を走っていた。髣艪フ故郷も九州であったが、今から向かおうとしている洋館は南の方にあり、北部にある故郷はその脇を素通りしていく形になっている。温暖で雨の多いこの地域には良質の米を産する水田が広がっているが、今の季節はその田圃も枯れ野のようで寂しいばかりである。

「あ、そういえば親父にはまだ話してなかったな……」

 東京の大きな会社に就職したことを父は喜んでいたようだったから、話が切り出しにくかったということはあるかもしれない。まして、それも考慮に入れていたとはいえ、父とは仲のよくない伯父の雄一の会社に移ることになったというのであるから尚更である。

「まあ、それは落ち着いてからにした方がいいだろうな……」

 問題の先延ばしとは知りつつ、髣艪ヘそんな風に考える。しばらく故郷の近くの景色を眺めていた髣艪ヘ、途中で乗り込んできた車内販売のワゴンから幕の内弁当を購入した。どちらかというと朝の苦手だった髣艪セったが、今朝に限っては不思議と空腹を感じていた。

 食べ終えて洗面台で身支度を整える。まだ終着駅までにはだいぶ時間がある。食事と洗面の間に、車窓は大きく変わり、海沿いをゆっくりと縫うように走っていた。柔らかい日差しが輝く、静かな海に目を向ける。自分は東京とは大きく違う場所に移るのだということが実感されてきた。

 今日から髣艪ェ暮らすことになる洋館というのは、そして茶園での仕事というのはどのようなものなのだろうか……。不安がないといえば嘘になる。だが、ある種の期待があるというもの事実だった。この海の穏やかさがこれからの生活の象徴であって欲しい。左右に揺れる列車に身を任せながら、髣艪ヘそんなことを考えていた。

 終着駅でローカル線に乗り換える。数えるほどしか乗客のいない気動車に小一時間ほど揺られて目的の駅に到着する。「東京都区内」と発駅の書かれた切符を、駅員が珍しそうに回収する。

 降り立った髣艪ヘ、穏やかな日差しを受けて軽く手を広げて伸びをすると、他の乗客の邪魔にならないように傍らへ身を移す。そして、上着のポケットから携帯電話と手帳を取り出し、これから自分が住むことになる洋館へ電話を入れた。

「はい、川辺茶園です……」

 数度の呼び出し音の後に聞こえてきたのは、女性の声だった。髣艪ェ想像していたのより若く聞こえるが、この人がおそらく雄一の言っていた家政婦なのであろう。

「あの……、本日よりそちらでお世話になることになりました、川辺髣艪ニ申します」

「はい、話は既に伺っております。お待ちしておりました」

「これからタクシーでそちらに向かうつもりなのですが、よろしくお願いします」

「あ、それでしたらこれからお迎えに上がりますが……」

「いえ、お手を煩わせるのも申し訳ありませんし、目の前にタクシーがいますので、これに乗ってしまいます」

「そんな、そのようなことをご主……」

「いいえ、気になさらずに、そんなに遠くないと聞いておりますので」

「はい、かしこまりました。では、ご到着をお待ちしています」

 電話を終えた髣艪ヘ、すぐ前に停まっているタクシーに乗り込む。列車で到着したわずかな客は既にいなくなっていたので、暇そうにしていた運転手は髣艪見てわずかに喜んだようだった。

「この住所までお願いします。川辺茶園というところですが」

 手帳に記されている住所を告げる。

「はい、あの洋館だね」

 初老の運転手は簡潔に答え、車を発進させた。

 渋滞とは縁のない道路をスムーズに走っていく。茶畑が見えるようになり、ひとつ丘を越えると意外にこの風景にマッチした石造りの建物が見えてくる。

 洋館の前でタクシーが止まる。さすがに緊張は否めずに、髣艪ヘ敷地の中を玄関があると思われる洋館の正面に向かって歩いていった。

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