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創作メイド小説「安寧の峠」

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第1章 東京

 季節感のない大都会であっても、気温の差、特に朝晩の寒暖はそれを人々に感じさせてくれるものである。

 普段はあまり外に出ることのないサラリーマンである川辺髣艨iもとみね)にとっても例外ではなかった。昼休みに外に出るときにはまだ日差しには初秋の名残のような暖かさが感じられるが、朝夕の通勤時にはそろそろコートが必要と思えるほどの冷え込みになっている。実際、通勤電車の中には既にコートを着た人の姿も散見される。男性のそれはほとんどが機能重視の無機質な色合いのものであったが、女性のものは色も様々で、夏とはまた異なった華やかさを見せている。

 そんな中、髣艪ヘいつもと同じような時間の電車で、帰宅の途に就いていた。落葉する木もほとんど存在しないような都心のビル街の勤め先から、地下鉄と私鉄を乗り継いで四十分ほどの場所に住んでいる。

 髣艪ヘこうした都心の一等地にあるそれなりに名の知れた会社に勤めている。もともとは九州地方の田舎町の出身であり、両親は地元で慎ましやかな商店を営んでいる。良くも悪くも田舎らしさが残る町で、ある意味ではそれがこのスーパー、コンビニ全盛の時代になっても店を支えている要因になっているともいえるだろう。その商店は兄が継ぐことになって両親を安心させているが、気楽な次男坊である自分は、兄とは違って自分の好きな専攻を大学で学ばせてもらえた。

 高校を卒業後、東京の大学に進学し、そのまま東京で就職した。であるから、そろそろ三十の大台に手が掛かり始めた髣艪ノとっては、物心ついてからの生活の半分近くがこちらでの暮らしになっている。大学を出て就職してから四年目、少し懐にも余裕が出てきたころになって、学生時代から住み続けてきた大学の近くのアパートから今の場所へと引っ越してきた。それ以来、この町での生活にもすっかり慣れてきている。実家の両親や兄とは適度な距離を保ち、自分としては快適な関係を持っていると思っていたが、そろそろ兄に続いて自分にも身を固めてもらいたいという両親の意思が無言の圧力として感じられるようになっている。

 髣艪フ住むこの町は昭和の中盤頃から開発された住宅地で、小規模なアパートやマンションの並んでいるこの地域は、今となっては多少、古くさい雰囲気を持つことを否めなくもなかったが、利便性も物価も手頃で髣艪ノとっては住み心地のよい町となっていた。

 急行停車駅で向かいに止まっている各駅停車に乗り換えて一駅、こぢんまりした駅に、六両編成の電車からそれなりにまとまった数の乗客が吐き出される。ほとんどが通勤通学客で、その降車客は跨線橋の階段の近くにかたまっている。それらの人たちに混ざって反対側のホームへ渡り、自動改札に定期券を流し込んで外に出る。ふと空を見上げると、商 店街の明かりに遠慮するようにして僅かに星が輝いているのが見えた。

「腹が減ったな、今日も寄っていこうかな」

 ズボンのポケットに手を突っ込み、寒さに辟易しながら、「もう明日はコートを出すかな」と毎日同じことを考えながら商店街の歩道を歩いていく。この寒空で、「明日は」と思うのであるが、家に着けば面倒になってそんなことは忘れてしまう。朝の慌ただしさの中で改めて出すような余裕もなく、結局そのままとなる。

 途中のスーパーやコンビニエンスストアは素通りして、徐々に人通りの疎らになってくる商店街の端が近づいてきたところで、いつものように左に曲がる。

 商店街の表通りから少しだけ入ったところに、「ベル」という小さな喫茶店がある。山小屋風に見える建物が辛うじて印象的なこの店は、髣艪ェこの町に住むようになってから少しして発見して、以来、常連ともいえる頻度でお世話になっている店である。基本的には落ち着いた雰囲気でのんびり出来る家族経営の喫茶店であるが、軽食メニューが割としっかりしたボリュームのものになっていて、何故かこれまた割と夜遅くまで営業しているため、会社帰りの夕食の供給元として髣艪ェ重宝しているのである。

 髣艪フ入る時間はいつもすいているため、「いつかつぶれるのではないか」と最初は危惧していたが、現に今でもしっかりと髣艪フ食生活を支えているのであるから、「昼間はちゃんとお客さんが入っているんですよ」というマスターの言は偽りではないのかもしれない。

「さて、と……」

 木の割には重い扉を開けて店内に入る。開くと同時に、カランカランという低めの音ながらも軽やかさを感じさせるベルの音が仕事帰りの髣艪迎えてくれる。聞き慣れたこの音が、疲れた体を少しだけ癒してくれる迎えの言葉のようにも感じられる。

「いらっしゃいませ。あ、川辺さんっ!」

 ベルの音が落ち着くと同時に、これまた聞き慣れた女の子の声が、その子の足音と共に聞こえてくる。ほどなく、髣艪謔闊皷りほど年下の、まだ可愛らしさを残した女性が姿を見せる。だが、もう成人式も済ませている彼女を「女の子」と呼ぶのは正確ではないかもしれない。それでも、そう表現することに違和感のない雰囲気はまだ残したままである。セミロングの髪は、両側の耳の近くの一部を小さな三つ編みにまとめているが、それ以外は自然にストレートで流している。細身の体は少しばかり頼りなさを感じさせるが、一方でいろいろなタイプの服が似合うという長所にもなっている。実際、彼女は様々な服を着てみるのが楽しみだと言っていた。今日は白のブラウスに茶色のシンプルなスカートといった出で立ちであるが、その上に身につけているエプロンが、彼女がこの店の店員であることを辛うじて教えている。だが、髣艪ノとってはそれは見慣れた姿でもあった。本人曰く、「特にダイエットなどはしていません」とのことだから、事実だとしたら同年代の女の子たちからはさぞうらやましがられるに違いないだろう。

「玲子ちゃん、こんばんは」

 カウンター担当で店のマスターである父親に、台所と経理担当の母親、そして接客とお茶を担当する一人娘の玲子の三人でこの小さな喫茶店は営まれている。この家族の苗字は「大崎」であることはすっかりなじみの客となった髣艪ヘ既に知っているところではあったが、当然ながら一家全員が「大崎さん」である中で、玲子を名前で呼ぶことがいつしか自然になっていた。「ウェイトレスさん」と呼ぶほど他人行儀では既になくなっていたし、本人も「喫茶店のウェイトレス」というよりは「お父さんとお母さんのお店のお手伝い」というところに自分を位置づけているようであるのだった。

「毎日この時間までお仕事なんですよね。大変ですよね……」

 時計は夜の九時半を少し回ったところである。このご時世、髣艪謔閧煢゚酷な労働に身を置くサラリーマンはごまんといるであろうが、玲子は素直にそう感慨深くつぶやいてみせる。それ以前に「この時間」まで店を開けているここの人たちもそれは同じではないのだろうか。

「ありがとう。でも、この時間でもここがやっていてくれて助かるよ」

「はい、お待ちしておりました。あ、お冷やとおしぼりを持ってきますので、ちょっと待っててくださいね」

 他に客がいるときにはもう少し他人行儀な話し方をする玲子だったが、今日はこうして気さくに話してくれる。そうした気楽さも、髣艪この店に通わせる求心力の一つとなっていた。

 一度奥に引っ込んだ玲子が、トレイに水の入ったグラスとおしぼりを乗せて戻ってくる。おしぼりは使い捨てではないきちんとしたものであり、しっかりと気を配っているからであろうか、臭さや汚れを見たことは一度もない。夏でも変わることのない熱いおしぼりも、ひょっとしたらこの店のこだわりであるのかもしれない。

 一日の疲れが顔の表皮をも侵略しており、そのおしぼりを気持ちよく当てたくなった髣艪ナあったが、にっこりと楽しそうに自分を見ている玲子の前ではそうすることは出来なかった。手を拭いている髣艪フ前でエプロンのポケットから伝票を取りだして手にしている玲子は、髣艪ェ注文を告げる前に右手のボールペンを動かしていた。

「いつものをお願いするね」

「はい、いつものハヤシライスですね。セットドリンクはコーヒーでいいんですよね」

「うん、玲子ちゃんのいれてくれるコーヒーね」

「かしこまりました。少々お待ち下さい」

 ぺこりと頭を下げて、嬉しそうにカウンターの奥へ戻っていく。

「マスター、注文です。ハヤシライスとセットのコーヒー!」

 カウンターの中では、玲子の父親に当たる慶幸が満足そうに頷いていた。そして、現在はこの店で唯一の客である髣艪ノ向かって、カウンター越しに軽くお辞儀をした。しっかりアイロンの掛かった白いワイシャツ、黒のズボンにベスト、エプロン、そして同じく黒の蝶ネクタイという姿は、典型的な喫茶店のマスターのものであるが、中年男性独特の落ち着きが感じられ、有能な執事であるような顔が客に安心感を与える。玲子とはまた違った意味で店の看板ともいえる存在であろう。

 その慶幸は洗い終えたティーカップ、コーヒーカップを綺麗に拭き揃え、後ろの棚に収めている。様々なデザインのカップはそうして棚に収められているだけで店内を彩る役割も果たす。聞くところによれば、どれもマスター自身がヨーロッパに行ったときに現地で見つけて気に入ったものなのだそうだ。

 入れ替わるようにして玲子がわずかに背伸びをして、棚から別のコーヒーカップを取り出している。

 そんな店内の様子をゆったりと眺めながら、髣艪ヘ一日の終盤のわずかな自由時間を楽しんでいた。

 ほどなく、玲子が皿に大盛りのハヤシライスを載せて運んできた。食欲をそそるデミグラスソースの香りが髣艪フ胃の腑を刺激する。

「川辺さん、お待たせしました、ハヤシライスです。お召し上がりのころに、コーヒーをお持ちしますね」

「そうだね、ありがとう。じゃ、いただきます」

「はい、ごゆっくりとどうぞ」

 僅かに首を傾けて、とびきりの笑顔で答える玲子。だが、既に髣艪フ意識はそちらではなく目の前の食事の方に向けられている。

 週に三度はこの店で夕食を取る髣艪セったが、玲子が「いつもの」と表現するように、ほとんど毎日、注文するのはハヤシライスであった。好物であるということを差し引いても、「喫茶店の軽食」というレベルを遙かに凌駕した味であると髣艪ヘ思っている。この店で食べるまでは、正直、ハヤシライスなどというのはカレーからの派生品、もしくは「ビーフシチューをご飯にかけたもの」程度の認識しかしていなかったが、そうした見解は既に白紙撤回されていた。稀にカレーやピラフなどを頼むこともあったが、専ら、この店ではハヤシライスである。煮込む前に充分に甘く炒められた玉ネギと、味のしっかりしみこんでいる牛肉、そして大きめに刻まれたマッシュルームが、髣艪ノ安心感を与えている。

 一度、「この味はお母さんの?」と聞いた髣艪ノ、玲子は「はい、わたしも、いざというときは同じものが作れないといけないと思うんですけど、どうしてもひと味足らないんです」と言っていたことを思い出す。おなじ店にいて、しかも親子であるのだからそのレシピを隠す必要もないし、実際、玲子は母親と同じように作っているのだが、どうしても全く同じ味にはならないのだそうである。それでも、多少、味のベクトルが異なるだけであればそれも一つの完成した料理になるのだろうが、比べてみるとどうしても母親のものからの劣等は否めないなのだそうで、それが玲子を悩ませているという。紅茶やコーヒーはマスターの慶幸と比べても遜色ないものが出せるようになったが、こちらはなかなか追いつけない。

「もし、お母さんが風邪を引いたりしたら、わたしがピンチヒッターに立たなきゃいけないのに……」と、本来ならお客さんには話さないような裏話を聞かせてくれる玲子を励ますように、その時の髣艪ヘこう答えたのだった。

「そっか。じゃ、お母さんの姿が見えないときにハヤシライスを注文すれば、玲子ちゃんの手作りが食べられるわけだ」

「えっ?それはそうですけど……。川辺さんみたいにハヤシライスしか食べない人に味を比べられるのは困っちゃうかも。あ、でも……」

「うん?」

「お母さん、少なくともここ十年は風邪を引いたことなんてないから、そんな心配はしなくても大丈夫かな」

「そうなんだ。玲子ちゃんの手作りが食べられないのは残念だけど、お母さんが健康なのがいいに決まってるよね」

「ありがとうございます。でも、いつかはわたしのお料理も出せるようになりたいです」

「その時まで、僕もこのお店に通ってるかな」

「ダメです、通ってくださいっ」

 そんな会話をしたことを思い出す。

 セットのミニサラダ程度では本当は足らないのかもしれないが、この店でハヤシライスを食べている限り、独身男性にしてはまともな栄養は摂取出来ているようでもある。ストレスの多い会社生活の中、玲子との気の置けない会話も髣艪フ生活に安定を与えているともいえるだろう。

 空腹に染み渡らせるようにしてハヤシライスを食べ終えた髣艪フ元に、待ってましたとばかりに玲子がコーヒーを持ってやってくる。

「はい、食後のコーヒーです。お代わりが欲しかったら言って下さいね」

「うん、ありがとう。ハヤシライス、美味しかったよ」

「こちらこそ、ありがとうございます。お母さんに伝えておきますね」

 コーヒーカップと入れ替わりに皿とスプーンを引き上げながら玲子が言った。閉店間際のこの時間、他に客がいないときに限るのだが、玲子の「コーヒーお代わりサービス」が提供される。

 食後の満足感を、僅かに慌ただしそうに働く玲子の姿を見ながらコーヒーで膨らませるのが、髣艪ノとっても心地よい時間であった。

 あっという間に一杯目を飲み終えた髣艪ヘ、ちょうどカウンターから出てきた玲子と目があった。

「玲子ちゃん、お言葉に甘えて」

 そう言いながら、店の奥の玲子に分かるように、カップを大げさに指差して見せた。

「はい、ただいまー」

 元気に玲子がやってきて、一度コーヒーカップを下げていった。ほどなく、再び黒い香りを乗せてきたカップが髣艪フ前に置かれる。

「うん、美味しい」

「ありがとうございます」

 髣艪フ側に立ったままの玲子が、そう言ってにっこりと微笑んだ。

 やがてコーヒーを飲み終えた髣艪ヘ、「ふぅ」と一息つくと、鞄を手に取って入り口のレジの方へ向かう。

「あっ、ありがとうございました!」

 一旦、カウンターの中の慶幸に目を向けた玲子だったが、洗い物をしている途中であることに気付いて、自身がレジへと向かう。

「また、来てくださいね」

 そう言ってお釣りを出し出す玲子に、髣艪ヘ簡潔であるが確信を籠めて答える。

「うん、勿論」

 カランカラン……、という鐘の音とエプロン姿の玲子に見送られて、髣艪ヘ店を辞した。

「ただいま……。やれやれ」

 髣艪ェアパートの自分の部屋に戻ってきた時には、時計は既に午後十時を回っていた。

 独身で特定の女性とのつきあいもないことを特に不便にも感じておらず、気楽さの方が勝っている髣艪ナあったが、それでも、帰宅した家が暗いことには若干の寂しさを感じる。

 自分の専攻を生かした仕事に就くことが出来て、世間一般には大きくて安定していると言われている企業で働くことが出来る髣艪ヘ恵まれている方であるというのは自覚していたが、こうしてこの時間に誰もいない家に戻り、翌朝、また働くために出ていくという生活が豊かで楽しいものであるとは思いにくかった。かといって、父や兄のように自分の力だけで店をやっていく生活というのも自分に向いたものなのかどうか分からない。

 一面では、サラリーマン生活などというのはそんなものであり、糧を得るための仕事の中に、趣味であるとか家庭であるとか、そうした僅かな楽しみがあることが喜びなのだと達観してもいる。自分の場合は、おそらくはベルで玲子と話をする時間がその「僅かな楽しみ」に相当するのだろう。

 脱いだスーツの上着とズボンをハンガーに掛けて、クローゼットを兼ねている押入の横棒に掛ける。ワイシャツとネクタイも外し、Tシャツにカーディガンというラフな部屋着を取り出す。そして、それに着替える前に一日の汚れを落としてしまおうと、浴室に向かい、シャワーを浴びる。

 「シャワーだけじゃ落ち着かない、やはり風呂場には湯船がないと」と思って、ユニットバスの部屋は引っ越しの時の候補から除いた髣艪セったが、実際には、湯を張らずにこうしてシャワーで済ませてしまうことも多い。風呂でのんびりしようとした場合には、残念ながらこの浴槽は狭すぎる。休みの日には郊外の温泉施設に行って足を思い切り伸ばすことがあるが、それ以外の平日ではこういう生活もやむを得ない。

 シャンプーを勢いのある湯で洗い流しながら、そんなことを髣艪ヘ考える。それを思うと、なじみのベルでの時間は髣艪ノとっては貴重なものであると実感し、あの店を見つけた僥倖というものに改めて思いを向けるのであった。

 そんな簡単な入浴を終え、部屋着に着替えて冷蔵庫の中の飲み物で軽く水分を補うと、既に寝る時間になっていた。ろくな番組をやっていないのについついつけてしまうテレビを消し、再度の暗闇の中で睡眠へと向かっていく。

 明日も、またいつも通りの生活になるのであろう……。


 その二日後、前とほぼ同じ時間に駅を降り立った髣艪ヘやはりコートは着ていなかった。そして、二日前と同じように「明日はもういい加減に出すかな」と考えつつ、商店街を家の方に向けて歩く。そしていつも通り途中のスーパーやコンビニエンスストアには目を向けずに、角を曲がってベルの方へと歩いていく。会社を出る前から感じていた空腹感は、その存在を更に強く主張するようになっていた。

 カランカラン……。

 すっかり聞き慣れた音が扉の開くのに連動して聞こえてくる。店の中に目を向けると、この日も客の姿は疎らであった。それに安心しながらも僅かな寂しさを感じるという、ある種矛盾した感情を髣艪ヘ覚える。

「あっ、いらっしゃいませ!」

 程なく、元気な声が奥から聞こえてきた。ちょうど、他の客のテーブルに紅茶を給仕したところで髣艪フ来店に気付いて、空いたトレイを持ちながら近づいてくる。

「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」

 他の客がいるため、少しだけ他人行儀の話し方になっている。勿論、それに距離感を感じることはない。

「そうだね、じゃ、いつもの場所に」

 特に明確な理由があるわけではないが、通い慣れた店という場所には自然発生的に「指定席」が出来上がる。他の客がいることもあるわけであるから、必ずその席に座れるという保証があるのではないが、同じ店の中でも「何故かここは落ち着く」という場所は存在するのである。中程の小テーブルの二人席が髣艪ノとってのそれに当たる。窓に面しているが通りからは見えにくく、店内の様子は見やすいという場所である。カウンターに視線が通り、マスターや玲子に注文するタイミングを取りやすいというのがあるだろう。尤も、今ではそのようなことは強く意識しなくても玲子の方が見計らって髣艪フところに注文を取りに来てくれるのであるが。

 今日の玲子は、袖と襟にレースをあしらった白のブラウスに、ワインレッドのフェルト地のフレアスカートという姿であった。薄緑色のエプロンはいつも通りであったが、襟元にはリボンの代わりに小さな石のついたネックレスを身につけている。

「お冷やとおしぼりをお持ちしますので、少々お待ち下さい」

 そう言って、玲子が一度奥へ戻っていった。

 その間に向かいの椅子に鞄を置いた髣艪ヘ、ようやくひと心地ついたという表情で大きく息を吐いた。

「はい、どうぞ。今日もお疲れさまです」

 そんな玲子の言葉が、仕事帰りの髣艪ノ優しく響く。

「今日も、いつものをお願いできるかな」

「はい、ハヤシライスのセットですね。かしこまりました」

 伝票に手早く書き込んでそれをエプロンのポケットに収めると、両手を前に揃えて丁寧にお辞儀する。その姿は上品さと可愛らしさを同時に備えており、年頃の玲子ならではのものだといえるかもしれない。

「うん」

 玲子の後ろ姿を見送る。綺麗に左右対称になったエプロンの結び目と、バレッタで留めた髪の流れがその後ろ姿の印象となる。

「明日は何かあったっけ……?」

 ハヤシライスが来るまでの間、内ポケットから手帳を取りだして明日の予定を確認する。とはいえ、分析や統計を主な業務としている髣艪ヘ、自分の中で完結する仕事の方が多く、そうしてスケジュールを確認したり調整したりする機会はそう多くない。であるから、それはちょっとした時間つぶしのようなものであった。ぼんやりとカウンターや店内を眺めながら過ごすのもよいのだが、それも少々ぶしつけであるとも思われる。

 そんな時、入り口から微かに鐘の音が聞こえた。そして「ありがとうございました」という玲子の声もわずかに聞こえてくる。どうやら先客が帰ったようであり、結果としてこの店に残るのは髣艪セけになった。

 そしてほどなく、食欲をそそる香りと同時にハヤシライスがやってきた。

「お待たせしました。冷めないうちに召し上がってくださいね」

 紙ナプキンの上にスプーンを乗せ、それに続いて湯気の立ち上る深みの皿を髣艪フ前に置く。

「そうだね、いただきます」

 まだ玲子が側にいるうちに、髣艪ヘ空腹に吸い寄せられるようにしてスプーンを手に取った。

「食後に、コーヒーをお持ちします」

 既に意識が食物に向いている髣艪ノ、にっこりと微笑みかけて玲子がカウンターへ戻っていく。

 この店のハヤシライスの味とボリュームについては今更論じるところはないのであるが、空腹という最大の調味料を味方にして、あっというまに皿はきれいさっぱりとなった。

「ごちそうさま」

 見計らったようにコーヒーを持ってやってきた玲子に、髣艪ェ声を掛ける。

「わっ、早いですね。わたし、いつも思うんですけど、川辺さんってどうしてそんなに食べるのが速いんでしょうか?」

「そうかな、自分では普通だと思っているけど。実際、会社の人間とお昼を食べる時だって、みんな同じくらいに食べ終わるし」

「ということは、川辺さん、お昼は女の人と一緒に行ったりはしないんですね」

 何故か嬉しそうに、玲子はそんな指摘をする。

「うん、残念ながらその通りかな」

「だったらほら、気付きませんか。同じお昼休みでも、女の人は時間ぎりぎりに戻ってきませんか?」

「あ、言われてみるとそうだね。でも、それって食べ終わった後もおしゃべりしたりしているからだと思うんだけど」

「それもあると思いますけど。やっぱり男の人は食べるの速いですよ。わたしなんか、怖くて牛丼屋さんや立ち食いそばのお店には入れません」

「あはは、そっか」

 仕事ぶりはしっかりしており、おっとりさやのんきさというものからも離れた場所にいる玲子であったが、その玲子がカウンターに向かって牛丼や蕎麦をを流し込んでいる姿というのは想像しにくいものがあるのは確かだった。無理矢理にそんな姿を頭の中に描こうとした髣艪ヘ、映像になる前に霧散してしまって思わず苦笑する。

「あ、どうして笑うんですか?」

 少し拗ねたように、玲子が髣艪責める。客が髣艪セけになった安心感からか、口調がいつも通りに戻っている。

「うん、玲子ちゃんが牛丼を食べているところを想像してみようとしたんだけど、不可能だったんで」

「えー、なんか悔しいです」

「でも、それって僕の中での玲子ちゃんが上品だってことじゃないかな。少なくとも急いで牛丼をかっこんでしまうことなんかあり得ないっていう」

 髣艪ェ、丼を持って箸で中身を口に流し込む仕草をしてみせる。

「そ、そうでしょうか……」

 自分では似つかわしいとは思っていない「上品」という表現をされて、玲子が恥ずかしそうに俯く。そんな玲子を更にフォローするように、髣艪ヘコーヒーを口に運びながら話題を転換させる。

「そうそう、上品といえば、今日の玲子ちゃんが身につけているそのネックレス、よく似合ってるね」

「あ、気付かれましたか?ありがとうございます」

「誰かからのプレゼント?」

「はい、そうなんです。高校を卒業したときに、叔父さんが買ってくれたんです。『今日から玲子ちゃんも大人だから、こういうのを身につけてもいいんじゃないかな』って」

「なるほど」

「でも、まだおうちのお手伝いしかしてないわたしなんかじゃ、大人なんてまだまだ遠いなって」

「そんなことないんじゃないかな。玲子ちゃんはこの店にずいぶんと貢献してると思うけど」

「でも、お店の手伝いなら、学校に行ってる頃からやってましたし……」

 この町に引っ越してきて、ベルに通うようになったころは、確かに玲子はまだ高校生だった。ある意味で服装に無頓着な玲子が、一度、その高校の制服であるセーラー服の上にエプロンという姿でやってきて驚いた記憶がある。

「そうだったね。だけど、今の玲子ちゃんの方がしっかり地に足を付けて仕事しているっていうのがよく分かるよ。学校が終わってからお手伝いしているというのとは、心構えも違うでしょ?」

「はい、ありがとうございます。でも、もっと頑張らないと」

「うん、応援してるよ」

「いつか大人になったら、別の男の人からもネックレスをもらえるようになりたいですし」

 そんな女の子らしい言葉を残し、玲子はハヤシライスの皿を下げていった。

 こういう時間が、髣艪フ生活に潤いを与えているのだといえる。

 コーヒーを飲み終えてひと息ついたあと、髣艪ヘ席を立って店を出た。

「ありがとうございました」

 明るい玲子の声に見送られて外に出ると、冷たい風が出始めていた。改めて「今日こそはコートを出す」と決心した髣艪ナあった。


 時計が三時を回っていた。

 日々、寒さが勢力を伸ばしている外とは逆に、空調が暑いくらいに効いているオフィスの一角で、パソコンに向かって計算式を打ち込んでいた髣艪ェ、その作業に一段落つけて首を左右に動かしていた。学生時代を含めて、髣艪フ世代であればパソコンを使いこなすことに技能的な問題点や抵抗感は全くなかったが、目と肩の疲れだけは如何ともし難いものがある。

 傍らにあるペットボトルを手に取り、蓋を回し開けて中のお茶を流し込む。熱くも冷たくもないお茶は、おそらくこの部屋の気温とほぼ同じ温度になっているだろう。それでも、乾燥した空気の中で仕事をしている髣艪ノとっては、そのお茶は心地よかった。

「ふぅ……」

 多少大げさに深呼吸しながら周りを見渡す。受話器を手に取って頷きながらメモを取っている課長と、向かいで一分前までの自分と同じように液晶ディスプレイをにらむようにしている同僚がいる。その隣では、コピーしてきた書類を手渡しながら、次の仕事の指示を受けている事務職の女子社員がいる。髣艪ェこの会社に入ったときにはまだ彼女たちには制服が与えられていたが、ほどなく廃止になっている。機能的で凛々しさも感じさせる制服を密かに気に入っていた髣艪ヘそれを残念に思ったものだった。そんな女性陣の自由になった服装は無機質なオフィスにある種の彩りを与えてはいたが、当の彼女たちの中には毎日そうした服装に気遣うのが大変に感じられる者もいるらしい。

 ともあれ、そうした事務職や派遣社員にとっては定時までのラストスパートといえる時間帯になったわけだが、髣艪ノとってはこれでようやく一日の後半に差し掛かったところである。午後が長いことを考えると、昼休みがもう一時間後ろにあってもよいと感じることもあったが、十一時半頃になればしきりに空腹を感じることを思うとそういうわけにもいかない。

 首のストレッチ運動を兼ねつつ、そんな慣れきった社内の様子をざっと眺めると、髣艪ヘ椅子に腰掛け直す。

 中学生の頃から数学がそれほど嫌いではなかった髣艪ヘ、高校での確率統計の授業で、一見すると無意味に見える数字の並びやデータの中からある傾向や法則を見つけだすということに強い興味を持ち、それを大学の専攻とすることにした。数学が得意であった割には理科が人並み程度でしかなかった髣艪ヘ受験でずいぶんと苦労したが、それでも東京にある名の知れた大学に合格することが出来た。

 既に、兄は地元の国立大学で商学と経済を学び、将来的には父の商店の後継になる心づもりでいたこともあって、すんなりと両親も進学と上京を許してくれた。

 大学では統計学と仮説検定を主に学び、卒業論文もそれで書き上げた。本格的な不況に入って就職活動も簡単なものではなかったが、それでも、業界では上位に位置するこの会社に無事に就職することが出来た。会社名を聞いて両親も喜んだから、自分でも少しばかり親孝行をした気分にもなったものである。

 それから数年間、新製品開発のための統計や分析という、学生時代の専攻を生かす業務に就くことが出来たのは、この規模の会社の人事というものを考えると幸運だったといえるだろう。

 だが、サラリーマンとしての会社生活の現実は、徐々に自分の仕事に自信を持ち始めた髣艪直撃した。

 「画期的新商品」の性能と優位性、そして安全性を保証するデータの分析を依頼され、研究部門とそれこそ泊まり込みも辞さぬ奮闘ぶりで、無理だと言われた期限内に期待以上の結果をとりまとめて報告した。そして、それが次の週にも対外的に発表されようという時に、プロジェクトのリーダーから無念そうに「社内的な事情であの新商品は販売中止となった」と告げられたのである。

 当然、その結果と商品の将来性を誰よりも知っている髣艪ヘその理不尽さに憤慨した。しかし、「社内的な事情」とやらは一平社員がどうこう出来るものではなく、最終的にその髣艪フ不満ごと封じられる結果となった。

 あまつさえ、開発中止の原因に髣艪フいたプロジェクトがささやかれるようになると、これまで真剣に仕事に打ち込んできた分だけ、その反動から来る失望と不信が大きくなった。

 幸か不幸か、この事件を通じて髣艪焉uサラリーマンとして」成長していた。与えられた仕事は期限通りこなし、その水準も期待値通りのものは出すが、決してそれ以上に、例えばこれを改善すればもっと良好な結果が得られる、などの前向きな意見表明は決して行わなくなった。髣艪フ能力の高さを知っている一部の上席者は、もっとよい働きと貢献をしてくれることを期待しているようであったが、髣艪ヘそれを感じていた上で冷酷に無視した。一方で、求められた結果は過不足なく出して、勤務評定上では付け入る隙を与えなかった。

 そうして、仕事は日々の糧のためと割り切りながら、表面上は、そして結果を見る限りではしっかりと働いている、しかしながら、給料をくれる以上の恩恵も思い入れも決して会社には向けない、そういうスタンスで髣艪ヘ働いていた。

 だが、そういう勤労指向の中にありながら、部内の人間とは決してうまくいっていないわけではない。会社帰りの一杯につき合うこともあるし、忘年会や歓送迎会といった行事にも必ず出席する。そしてそのことは決してつまらないことだとは思わないし、実際にその席では楽しむことが出来る。

 ただ、ある種、専門的な業務を行う部署の中では同僚もほとんどが男性の総合職であり、社内恋愛に至るような出会いもあるはずもなく、日々の忙しさの中でいつの間にか浮いた話もなく三十を迎えようとしている。そのことに対する焦りは少々感じている。そんな中、僅かな楽しみというのが、なじみの喫茶店であるベルの玲子との会話といえるのだろう。

 会社生活はそうした変わり映えのない場所にあるようであったが、この国を長いこと侵している不況は、世間一般で安定した大企業と言われているこの会社にも影を落とし始めていた。昨年度の決算が経常で赤字、最終的には株式の売却益を計上してなんとかプラスを維持したという実状を髣艪熬mっている。そして、そうした厳しさを受けて今年の昇給が僅かなものに抑えられている。それでも、その「僅か」という実額があるだけでもましと言えるかもしれない。一方で、この年度も上半期が終わり、秋が深まる頃には新しい話題がまことしやかに噂されるようになった。

 「早期退職優遇制度」というのは、新聞の経済面での記事でもよく見受けられるリストラという名の人員整理の一環である。多少の退職金を上乗せすることをいわば目の前の釣り餌にして、その人間にかかる将来の人件費を削ろうというのである。たいていの場合は対象者が実際の給料よりも貢献の方が少なくなっている中高齢層であったが、社内に流れてくる噂を聞く範囲では、もっと低年次の社員も対象にしているのだとか。だとすれば、意外にこの会社の病巣は深いのかもしれない。まさか倒産することはないであろうが、現状を座視たままでは生き残ることは出来ないところまで来ているようである。

 その点に関しては、髣艪ヘそれなりに自信は持っていた。積極的に会社に貢献しようという気持ちを失ってから既に久しいが、会社から無能の烙印を押されるほど仕事ぶりは劣悪ではない。

 今の仕事も、もう間もなく結果を出すことが出来るところまで来ている。噂はあくまでも噂、それに振り回されることもないだろう。そう考えて、髣艪ヘ仕事に戻ることにした。

 この日も、帰りにベルに寄って食事をすることになるのだろうか。脳裏に玲子の姿を一瞬だけ思い浮かべた髣艪ヘ、そんなことを考えながらパソコンのディスプレイ画面に視線を戻すのだった。

 結局、この日も帰りにベルのハヤシライスの世話になるところとなった。週の後半に入ると、元気な玲子との会話やマスターのオリジナルブレンドのコーヒーや紅茶も、髣艪フ仕事疲れを完全には癒してくれない。

 それでも、締切通りに仕事を仕上げて上司に報告した髣艪ヘ、そのおかげで次の週末を割合にゆったりした気分で過ごすことが出来るようになった。

 既にコートは奥にある衣裳棚から出され、今は窓際のカーテンレールからハンガーで吊されている。

 多少の惰眠をむさぼり、九時過ぎに布団から起き出した髣艪ヘ、自分の城といえども正直なところ侘びしさを隠せないこのアパートの部屋を見渡して一つため息をついた。

 コート越しに窓の外を見ると、晩秋から初冬に差し掛かる季節を象徴するような青空が広がっていた。空気は澄んで気持ちよさそうであるが、その清らかさには寒冷が伴っている。それでも、家事に対しては面倒くさがりであることを自認せざるを得ない髣艪して、洗濯と布団干しをしようと思わしめるのであったから、この晴天のほどが想像できるというものだろう。

 放り込んだ洗濯物が充分な量までたまっている洗濯機のスイッチを入れて、洗剤を付属のスプーンで放り込む。今まで寝ていた布団も、ベランダに出して布団ばさみで固定させる。

 一方で、ほぼ常に電源を入れたままになっているポットからカップ麺に湯を注ぎ込んで、テーブルの前に置く。周りを見渡して、「まあ、軽く掃除機も掛けるか」と思いながら、その朝食が出来上がるのを待つ。

 全自動の洗濯機を始めとする廉価で質のよい家電製品の功績もあって、生活の質にさえさほどこだわらなければ、毎日帰りの遅い髣艪フような人間であっても衣食住は簡単に賄うことが出来る。こうした家電の普及は勿論、髣艪フ生活を大きく支えており、また世の多くの主婦の仕事も軽減させたことは事実であろうが、一方で、髣艪フような人間が増えることによって新たに主婦になる人間を減らしてもいるのではないかと考える。

 独り身である自分の境遇への弁明ではないが、男一人でも充分にこうして生きていけることが、恋愛や結婚に足を踏み出さずに現状のままになっている原因の一つにもなっているかもしれない。

 大学時代には人並みに交際をしている女性もいたし、その彼女との将来の生活を空想しなくもなかったが、やがて現実を知ってくるとそれは彼女との関係と共に霧消した。そのことに関しては、自分と相手のどちらに責任があるというものでもなかった。そして、その後は新たにそうした相手を見つけて恋愛感情を育てていくということにあまり価値を感じなくなっていた。ちょうど、任された仕事に邁進していた時期と重なっていたからかもしれない。

 本質を見ることの出来ない教育者の「男女平等」が歪んだ形で進められていった結果、生物の本能でもあるはずの、異性と深い関係を築いたり、家庭を持つといったようなことに価値を与えない人間が増えてきているように思える。少子化や高齢化も、こうした病巣から取り組んでいかなければならないのではないかと、まるで他人事のように髣艪ェ考えることもある。

 カップ麺の出来上がりを待つまでのような微妙な空白の時間が出来たときに、そのように無制限に思考の翼を広げてしまうのが髣艪フ癖であった。ある意味、仮説を立てて検証していくことを専攻や仕事としている髣艪ノとってはそれが自然な姿であるのかもしれない。

 そんな思考上の踊り場でふと我に返った髣艪ヘ、箸を手にして目の前のカップ麺を手に取る。自分がこの部屋で当分は暮らすのかそれとも何かのきっかけで生活ががらりと変わるのかは知らないが、現在の自分が空腹なのは紛れもない事実である。洗濯機が音を立てて一週間分の衣類を洗っている間、その主人である自分は食事にいそしむ。

「もう少しまともなものが食べられるといいんだけどなぁ」

 数分のうちにスープを残すだけになったラーメンの器を見ながら、髣艪ェそう独語する。

「洗濯が終わったら、買い物にでも出るか……」

 確か、米の残りが少なくなっていたはずである。会社帰りにスーパーで米を買って家まで運ぶのは少ししんどい。となれば今日のうちに買ってしまた方がいいだろう。

 機械が止まるまでの時間を畳の上で寝ころんで過ごしながら、髣艪ヘそんなことを考えていた。

 正午を過ぎれば、まだこの季節でも暖かさは残っているようであった。

 思ったよりもよい陽気に気をよくした髣艪ヘ、最終目的地がスーパーであることは認識しつつも、気の向くままに近所の路地を適当に歩いていた。犬を連れて散歩している人が多く、公園からは子供の歓声も聞こえてくる。住環境としてはいい方なのではないかと髣艪ェ思いながら歩いていくと、前の方にいつもとは違う角度で目に入ってくる見慣れた建物が現れた。

 山小屋風の三角屋根が特徴的なその建物は、髣艪ノとっては言うまでもなくなじみである喫茶店のベルだった。

「なんだ、こんなところに出てくるのか」

 髣艪ヘ新たな発見をした気分になった。いつもは駅からの商店街の道から入ってくるため、道は通い慣れたところであっても風景が異なって見えたのである。

 さすがにカップラーメン一つでは食事としては足らなかったのであろう、髣艪ヘ軽い空腹感を覚えた。

「確か、休みの日もやっていると聞いたはずだ。寄っていこうかな」

 ポケットに手を突っ込んで財布の存在を確認すると、髣艪ヘここからはいつものようにベルの入り口のドアを開けた。

 カランカラン……。

 聞き慣れた音が髣艪安心させた。落ち着いた雰囲気が店の売りにもなっているため、昼間でもさほど店内は明るさはしつこくなってはいなかった。

 だが、髣艪驚かせたのは、普段と違って店内には賑やかさが存在していることであった。

 いつも会社帰りに寄るときには、閉店時刻の間際ということもあってだろうか、他の客がいることすら稀であるのだが、今、目の前にある店内はほぼ全ての席が埋まっており、エプロン姿の玲子だけではなく、マスターである慶幸も接客に当たっている。奥の台所もきっと忙しいのであろう。

 辛うじて二人用の小テーブルに空きを見つけた髣艪ヘ、玲子の手を煩わせるのも気の毒だろうと、目線があった瞬間にその空席を指差して自分がそこへ向かう意図を伝える。

 トレイを持ったままの玲子には、その意志は伝わったらしく、店に入ってきた髣艪見て「いらっしゃいませ」と元気な笑顔を向けた後、「ありがとう」というような表情をしながら頷いた。どこか、そんな玲子の表情が嬉しそうに見えたような気もする。

「少しタイミングが悪かったかな……」

 そう思いながらも、歩いてきた適度な疲労が薄れるのを感じつつ、玲子がやってくるのを待つ。

「すみません、お待たせいたしました」

 平日の夜とは違う「普通のお客様モード」の接客であったが、やむを得ないところであろう。忙しい中でありながら、魅力的な笑顔を見せてくれる玲子のウェイトレスぶりは客観的に見ても上等なものであるだろう。

「今日はビーフカレーのセットをもらえるかな」

 水とおしぼりを置いた玲子を軽く見上げるようにして髣艪ェ言う。

「はい、かしこまりました」

 いつもと違う注文に、一瞬だけ「おやっ」という表情をした玲子。そんな玲子の疑問に、髣艪ェ答える。

「今日はお休みの日だし、たまにはハヤシライスでなくてもいいかなと思って」

「そうですね。カレーも是非、堪能してください」

 僅かに首を傾けて微笑み、玲子は戻っていった。

 いつものように玲子と話すことは出来なさそうだったが、代わりにいつもと少し違う仕事ぶりを見ることが出来るだろう。「昼間はちゃんとお客さんが入っているんですよ」というマスターの言葉も偽りではないようで少し、嬉しかった。自分が贔屓にしている店が繁盛しているというのは、決して悪い気分ではない。

「お待たせしました。ビーフカレーでございます」

 そう言って、玲子が湯気の立ち上る皿を置いた。そして、置くときに髣艪フ顔に近づいたタイミングと合わせるように小声で付け加えた。

「こっそり、辛口にしておきました」

「あっ……」

 前に一度だけ気まぐれでハヤシライスではなくカレーを頼んだとき、玲子に辛さの評価を聞かれて「うーん、ちょっと抑えめに感じるね」と答えた後、「あ、僕は辛い方が好きだからね」と言ったことを思い出す。確かその時に「辛口もありますから、次はそちらで頼んでくださいね」と玲子に言われたのだった。おそらく玲子はそれを覚えていてくれたらしい。

「ありがとう。忙しいようだけど、頑張ってね」

 水を足そうとしてコップを手に取った玲子に、髣艪ヘそう言った。

「はいっ、こちらこそ、いつもありがとうございます」

 コップを置いた玲子は少し大げさに髣艪ノお辞儀をすると、次の給仕のためにカウンターの方へ戻っていった。

 この日はこのくらいの会話しか出来なかったが、髣艪ヘ満ち足りた気分になった。

「ありがとうございました」

 玲子の声に見送られて店を出る。「今日は忙しくてごめんなさい」と見送る玲子が目でそう告げてくれたようにも見えた。だが、それは仕方ないことであろう。

 食事を終えた髣艪ヘ、予定通りに米を買って帰宅した。スーパーでは他にもいくつかの食材が髣艪誘っていたが、程良い満腹感を覚えていたため、さほどそれらの誘惑には屈しなかった。

「日の高いうちに戻らないとな」

 布団をまだ出したままであることを思い出し、髣艪ヘ若干早足でアパートへと戻っていった。

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