観鈴は夢を見ていた。
その夢の中で、観鈴の体が空に浮かんでいる。
背中には羽根があった。だが、それを使うことなしに、観鈴は青空の中にたたずんでいた。
足が大地を踏みしめていないことで、多少心細く思うところがあったが、風が抜けていく空の中に身を置いているのは、心地よかった。
「空の中に、もう一人の自分がいる」
わけもなくそんなことを思ったことがある。
往人と出会ってから、それはより強く感じられるようになっていた。
今の自分は、空の中にいる。
この自分は、地上で会いたいと思っていた「もう一人のわたし」なのだろうか。
首を上に傾ける。
自分が空の中にあっても、更にその上には空があった。
天空という世界は無限なのだろうか。
一方、下に目を向けると、雲の合間からこの星の自然が見える。
緑の大地と、そこを流れていく川。その川はやがて海に注いでいる。その境目に寄り添うように、人間の作った建物や道、堤防といったものが固まって存在している。それも、どこか懐かしかった。
今までに味わったことのない開放感。それを感じる一方で、観鈴は自分が悲しいのだということに気が付いた。
それは何故なのだろうか。
答えはすぐに得られた。
孤独だからなのだ。
空の中にいて、温かい日差しと涼しい風を独占している。
天と地の間にあって、その恵みを両方とも得ているようなものである。
だが、観鈴のそばには誰もいない。
ひとりぼっち……。
それが、悲しみの理由なのだろう。
誰かに、そばにいて欲しい。
観鈴は、そう思いながら、ひたすらの広さの中に身を置いていた。
一筋の涙が流れ、頬を伝わって雫となり、下に落ちていった。
陽光を受けて輝いたその涙が、一枚の白い羽根へと変わる。
そして、ひらひらと舞いながら、観鈴のいた大地の方へと降りていった。
美凪は、親友と一緒に過ごしていた。
自分より一回り年下のこの親友は、仲良しであると同時に美凪のよき理解者でもあった。
その出会いは、今から思うと不思議なものだった。
美凪には、生まれてくるはずだった妹がいた。
だが、臨月を迎える寸前に、母が流産してしまい、その新しい命がこの世に生を受けることはなかった。
母は、深い悲しみに包まれた。無慈悲な現実を受け入れることが出来ずに、ずっと自分の世界の中で泣き続けていた。
そして、結論を出す。
自分が愛し、愛される存在だったはずのその子供は、実際にはいるのだと信じることにしたのだ。
この子のことは嫌いではない。だが、生きていて欲しい子がいるのだ。だから、呼ばせて欲しい。あなたのことを……、「みちる」と。
美凪は、母の悲しみと苦しみのことを知っていた。だから、そう呼ばれた時に「はい」と返事をした。母は、笑ってくれた。久しぶりに見る母の笑顔だったので、自分の悲しみは覆い隠してその笑顔に応えることにした。自分は、美凪でもあり、みちるでもある。そういう現実を受け入れることに決めたのだった。
一方で、美凪は自分を失いたくなかった。
家にいるときは、自分はみちるであって、美凪ではない。
美凪にはもう一人、優しい父がいた。
この町にある駅の駅長をしている父は、他の駅員からも慕われていて、美凪にとって誇らしい存在だった。
駅に父を迎えにいく美凪は、そんな駅員たちにも人気者で、父に抱きついた美凪を優しく見守ってくれた。
一緒に家に帰るとき、父はいろいろな話をしてくれた。それは、ほとんど全てが美凪の知らないことであり、父の博識が頼もしく思えた。そんな中で、空の星の話が一番好きだった。
手の届かないような、遠くの場所にある星たちの持つ神秘。
それは、この頃の美凪にとって、大人の世界への憧れにも近かったのかもしれない。
そんな父だったが、母がみちるを流産したころから、母と仲が悪くなってしまった。
「あの子はみちるじゃない。気持ちは分かるが、それはしっかり認めないといかん」
「いいえ、あの子はみちるなんです。ちゃんと返事もしてくれるのですよ」
悲しそうな表情で立ち上がる父。手にコップと大きなビンを持って、自分の部屋に行ってしまう。
残されて、涙を流している母。僅かに震えている肩を、美凪は制止できなかった。
「私が悪いのかな……」
両親の姿を見て、美凪はそう思った。
父が、家からいなくなったのはそれからすぐのことだった。
それ以降、家からは美凪はいなくなった。代わりにいるのはみちる。母を支えられるのはみちるという存在だけだったからである。
幸い、外では美凪は美凪でありつづけることが出来た。それが、辛うじて美凪という人間を支えている。
だが、それはどこか空虚なものだった。美凪が本当に望んでいることは、他人ではなく家族に「美凪」と呼ばれることだったのだ。
しかし、それを望むことは出来ない。何故なら、美凪自身が開いてしまった道なのだから。
そんな時、美凪は親友に出会った。
もう父が出てくることのない駅の片隅で、美凪は静かにシャボン玉を飛ばして遊んでいた。
遠くでは、駅員が心配そうに自分のことを見てくれていたが、もうその人たちとお話は出来ないと思っていた。お父さんを思い出してしまうから。
「わっ」
そんな声が突然聞こえてきた。
美凪が、驚いて振り向いた。
空に浮かぶシャボン玉を追いかけて、どこからかやってきた女の子が、美凪の目の前を走っていった。
ようやくシャボン玉に追いつき、捕まえようと手を伸ばした瞬間、そのシャボン玉は弾け散った。
勢い余って、転んで地面に手をつく。
「あーっ」
地団駄を踏む女の子。その仕草がおかしくて、美凪は笑い出した。
「ふふっ」
笑ったのは久しぶりだった。その声に気付き、女の子が美凪の方にやってきた。
「あ、ごめんなさい。笑ったりして」
「うにゅー。いたたたた……」
膝についた砂を払いながら、女の子が美凪の持っているシャボン玉の小瓶を見つめる。
「これですか。こうやって使うのですよ」
ストローを吹き、シャボン玉を飛ばす。
さっきは大きい玉をいくつか飛ばしていたが、今度は細かいものが無数に空に放たれていく。
再び追いかけようとする女の子を、美凪が制した。
「あれには触れませんよ。空に見送ってあげてください」
「ふにゅ?」
よく理解していないようだった。
代わりに、美凪は持っているシャボン玉セットを女の子に渡す。
「あなたも、やってみますか?」
女の子に笑顔が浮かんだ。
「うんっ!」
早速手に取って、美凪の真似をしてみる。
シャボン玉は膨らむのだが、飛び立つ前に弾けてしまう。
「あわわわ……。上手くいかないねぇ」
「コツがあるのですよ。もっと優しく」
「もう一度、チャレンジ」
女の子の手に匹敵するような大きさのシャボン玉が生まれた。
だが、それも飛び立つ前に弾けて消えてしまう。
「慌てることはないですよ。じっくり行きましょう」
「うん……」
「そうそう、あなたの名前を教えてくれませんか?」
「ふにゅ、名前? うん。みちるは、みちるっていうんだよ」
「みちる……さん?」
「うん、みちる」
「そう……。私は、美凪。宜しくね」
「うんっ」
これが、親友のみちるとの最初の出会いだった。
生まれてくるはずだった妹と同じ名前。家での自分と同じ名前。
そんなみちるとは、すぐにうち解けて仲良くなることが出来た。
二人はいろいろなことをして遊んだ。
お互いに、いろいろなことを話し合える仲になった。
みちるはシャボン玉遊びが好きで、よく美凪にそれをせがんだのだが、何故か自分ではいつまでたっても飛ばすことが出来ずにいた。
美凪にとって、自分が美凪でいられる貴重な時間でもあった。
遠野でもなく、みちるでもなく、美凪という確固とした存在がここでは保証されていた。
みちるは、どこで生まれて、今どこに住んでいるのかは分からない。
お互いのことは、何も隠さずにいようと決めた二人だったが、一つだけ暗黙のうちに聞かないと決めていることがあった。
それは、「家はどこにあるのか」ということだ。
美凪にとっての家は、美凪の家ではない。
みちるも、両親のことは話したことがなかったから、美凪も無理にそれを知ろうとは思わなかった。
それで、充分に親しい関係を構築出来ているのだ。
みちると一緒に過ごすとき、美凪は楽しかったし、みちるもそう思ってくれていることははっきりと感じられた。
相変わらず、シャボン玉を上手く飛ばすことは出来ないけれど、だからこそ、みちるの前で胸を張って笑うことも出来る。
そのシャボン玉が、この夏のある日、新しい出会いをもたらしたのだった。
一人は、既に知っている人、もう一人は見知らぬ人だった。その二人は、楽しそうに話しながら歩いていた。少しうらやましかったのかもしれない。
学校のクラスメイトで、いつも寂しそうにしている女の子。名前は、観鈴といったような気がする。
もう一人は、あまり柄のよくなさそうな青年だった。自分よりも少し年上だろう。
観鈴の友だちだと言っていた。
孤独に見えるこの子に友だちがいるということを知って、美凪は少し安心した。
その人は、名前を国崎往人といった。
観鈴だけでなく、美凪の運命も変える人間だったのだ。
ともあれ、美凪も動き始めようとしていた。
誰もが、一人だけでは生きていけない。この世界では、人間は互いを頼り、頼られながら生きていくのだ。そうして、悲しみを軽減させ、幸せを求めていく。
それが人の営みというものである。
美凪にとっては、みちるがその役割を果たしてくれた。
そして、更にその先にある開放を掴むために現れたのが、往人であるといってよい。
そんなことを思い出しながら、美凪はみちるの顔を一瞬だけ脳裏に浮かべた。
同時に、羽根を持った少女の姿が現れた。
これは、一体誰なのであろうか。
観鈴の痛みは、ようやく治まったようだった。
目が覚めた観鈴に、往人がそっと手を伸ばす。
心細そうな面もちで、観鈴が往人の手を取った。
「ごめんなさい、往人さん。迷惑かけて」
「気にするな。それより、もう痛くはないのか?」
「今は大丈夫。にはは、学校に行かなくちゃ」
そう言って起きあがろうとした観鈴を、往人は制止しようとした。
だが、そうする前に、観鈴はバランスを崩して再び布団に倒れ込んでしまう。
「無理はするな」
往人が、やや乱れた観鈴のパジャマに触れ、元の位置に寝かせ直す。
薄い布地とはいえ、そこから伝わってくる熱が尋常ではなかった。
痛みが引いたことに、一旦は安堵した往人だったが、慌てて手を観鈴の額に当てる。
かなりの熱だった。
「今日は学校は無理だ。しっかり休め」
「うん……」
「それにしても、こんな時に晴子は役に立たんな」
結局、晴子は家に戻ってこなかった。ほとんど寝ずに、観鈴の様子を見続けていたのは往人である。
「ううん、お母さんはお仕事、大変だから」
「……」
「お母さんが働いてくれるから、わたしはご飯食べられて、学校にも行けるんだし」
「そうだな……。俺はこうして居候しているだけだしな」
「でも、往人さんは優しくしてくれる。観鈴ちんは嬉しい」
「まあ、これも何かの縁だしな」
厄介事はまっぴらだったが、このまま観鈴を放置して逃げるような考えは持ち合わせていない。
それだけでなく、往人はもはや観鈴との関わりから逃れることが出来ないことをどこかで悟っていた。
だとすれば、最後まで見届け、出来ることならば幸せにしてやりたい。
そんなことすら往人は考え始めていた。
「最初は、鬱陶しい奴としか思ってなかったのにな」
往人がつぶやいた。
「どうしたの、往人さん」
「いや、なんでもない。観鈴はしっかり休め。それが今日のお前の任務だ」
「うん」
「学校には、俺が伝えに行っておくから、心配しなくていいぞ」
「ありがとう、往人さん」
「じゃ、ちょっと行ってくるから、静かにしてろよな」
そう言って、往人は観鈴の部屋を出た。
外は、相変わらずの暑さだった。
白い日差しと、やかましい蝉の声がその暑さを更に助長する。
観鈴の家から学校までは、それほど遠くはないのだが、その僅かな間にも、吹き出た汗が往人の背中を這っていく。
「暑い……」
そう声に出さずにはいられなかった。
「こんにちは、国崎さん」
校門の近くまでやってきた時、往人は背後から声を掛けられた。
「うん?」
振り向くと、見たことのある女の子の姿がある。何度かこの町で会っている、確か、美凪という名の女の子だ。この季節だと少し暑苦しそうな、この学校の制服に身を包んでいる。補習の常連である観鈴に対して、美凪は優等生なのだと聞いたことがある。
そうだとすると、夏休み中に何の用事で学校に来たのだろうか。
そんな往人の疑問に、美凪が先回りしたかのように答える。
「部活なのです」
「ほう、なんのクラブだ?」
「天文部です。部員は少ないんですけどね」
ちょっと残念そうに言う。
「国崎さんの方は、学校にどんな用事なんですか?」
「ああ、それはだな……」
「生徒を誘拐しに来たとか?」
「平気な顔でとんでもないことを言うな」
「冗談です」
「当たり前だろ」
「それで、本当のところはどんな用事で?」
「ああ、観鈴が熱を出してな。今日は補習を欠席すると伝えに来たんだ」
「そうでしたか」
「ところで、遠野。ちょうどいいところだった」
「はい?」
「俺はそれを誰に伝えたらいいんだ?」
当然、往人は観鈴の補習を担当している教師の名前も顔も知らない。
「……」
美凪は往人の質問の意味を悟ったようだった。
「代わりに、私が伝えておきましょうか」
「そうだな、それがよさそうだ。頼む」
「はい、かしこまりました。ところで……」
「なんだ?」
「神尾さんの具合は、そんなによくないのですか?」
「昨日と比べたらだいぶいいみたいだけど……。昨日は大変だったんだ」
「そうなんですか……」
自然に、往人は観鈴に起きたことを、美凪に話していた。美凪が観鈴のクラスメイトであるということもあっただろう。
「その時、急に観鈴が痛がったんだ」
「痛がる……、のですか」
「そうだ。背中が痛いというので、様子を見ようとしたんだけど、傷なんかはどこにもなくて。結局、医者に診せても同じだった」
「医者……、霧島さんのところですか」
「ああ、確かそうだったな」
「詳しいことをお聞きしていないので分からないのですが、それはやはり肉体的な傷ではないのではないでしょうか」
「そう結論せざるを得ないだろうな……」
話を聞いていた美凪の中に、ある予感が生じたのを感じた。
理由は分からない。
「前にも、俺と一緒にいるときに癇癪を起こしたりして、観鈴は俺に近づきたいと思っているのか、遠ざけたいと思っているのか、わからなくなるときがある」
「えっ?」
観鈴の癇癪の話は、美凪も学校内の噂のような形で聞いたことがある。「急に神尾さんが泣き出して、とりつく島もなくなった」という類の話である。
クラスメイトと仲良くなりかけた時にそれが起こるのだということを、何となく美凪の中で分析してもいた。
だから、美凪にとって観鈴はどこか気になる存在ではあったのだが、一定以上の距離内に近づくことはしていなかった。
そこに、往人という存在が現れた。
最初に美凪が往人に会ったとき、観鈴が一緒にいた。
流れ者だという往人と、その日のうちに親しくなっている観鈴に危惧を感じた美凪だったが、一方でそれがどこか自然な姿であるとも思えたのだった。
「神尾さんは、もっと勇気を持ってよいと思います」
観鈴に相談されたとき、美凪はそう助言したのを思い出した。
そして、自分も僅かずつではあるが、観鈴に近づいていこうと思いかけていたとき、このような話を聞かされたのだった。
一緒にいたくてもそうすることの出来ない人もいるのだから……。
そう思ったからこその、美凪の助言だったのだが、それは誤りだったのだろうか。
観鈴は、往人に近づきすぎたために、苦しみに身を置かねばならなくなったのではないだろうか。
往人の存在が、美凪に響いてきた。
つかみ所のないこの人間が、何か重大な鍵を持っているというように感じられる。
その正体がわからないまま、美凪は往人の方を眺めた。
この人が、触媒になっている……。
そういう確信があった。悲しみが動き始めている、と。
それが正しいのだとしたら、往人は美凪の悲しみも動かすのであろうか。
「国崎さんは、神尾さんの近くにいるべきなのだと思います」
「そうなんだろうか?」
「はい、理由は分かりませんが、例えば星の運行のように、ひょっとしたら何かの意味を持って、国崎さんは神尾さんに出会ったのかもしれません」
「……」
美凪のそんな言葉に、往人は自分がこの町に来たいきさつを思い出した。
バス代が無くなり、海沿いを歩いてたどり着いた町。
偶然だと思っていた。お金が得られれば、すぐにでも立ち去るような町であろう。
だが、そうではないのかもしれない。何故、こんな田舎町に向かうバスに乗ったのか。そして、この町に何日も居続けることになったのか。
「観鈴に会うため?」
「それだけではないかもしれませんよ」
「うん?」
「私にもよくは分かりませんです」
そう言って、美凪は微笑んだ。
その時、校舎の方からチャイムの音が聞こえてきた。
「神尾さんのことは、私がお伝えしておきます」
「ああ、宜しくたのむ」
「はい」
軽く手を振って、美凪が学校の中に消えていった。
それを見送った往人は、堤防の上に出て、しばらく海を眺める。
すぐに観鈴の所に戻った方がよいと思う反面、しばらくあいつを一人にして落ち着かせた方がよいのではないかとも考えていた。
暑さは相変わらずだったが、海の向こうからやってくる風は、心地よかった。
時折聞こえてくる、漁船のエンジンの音が、時の流れをゆっくりにさせていた。
暑いコンクリートの上に寝ころんで、空を見上げてみる。
雲も少ない夏の空は、ひたすらに青く広がっていた。水平線に近い方には、この季節を象徴する大きな入道雲がうねっていたが、真上の方は、白い太陽がその存在を主張する以外は、ほぼ完全に青空が広がっている。
時々、海鳥が横切って、影を落とすのみである。
そこに一瞬、少女の姿が浮かんだような気がした。
「空で待っている少女……か」
そんなことを考えているから、このような幻を見るのだろうか。
幻にしては、はっきりと見えたような気がする。
瞬き一つする僅かな間のことだったが、ことのほか鮮明にその姿は見えた。
長い髪を風に流されるに任せて、背中に羽根を負っていた。
そして、往人がこれまでに見たことの無いような、深い悲しみをたたえた瞳を持っていた。
その姿が、どこか観鈴に似ているようにも思えた。
それからしばらく、天空に目を向けていた往人だったが、再びその少女が姿を現すことはなかった。
やがて、往人は体を起こした。海が、空の色をそのまま投影するかのように青く輝いている。
観鈴のことを思い出した往人は、戻ることにした。
校舎の外れの方に、文化系のクラブの部室が並んでいる一角があった。
夏休みということもあり、こちらに足を運ぶ生徒はほとんどなかった。ほとんどの部室は、鍵を掛けられて静寂の中にある。
その唯一の例外が天文部だった。
さほど広くない部室の中で、片隅に置かれた望遠鏡に目を向けながら、美凪が考え事をしていた。
往人に観鈴の体のことを聞いたとき、よくわからない類の衝撃が走るのを感じた。
美凪自身の持っている、悲しみがどこかで刺激されたような気もしている。
往人という人物は、果たして何者なのだろうか。
自分や観鈴に害を与える存在ではないということは、どこかではっきり分かっていた。そうだとすれば、どのような形で自分たちに関わってくるのだろうか。
みちるに聞けば教えてくれるだろうか……。
美凪はそんなことを考えた。
親友のみちるは、不思議な存在だった。
みちると過ごすとき、ふと洩らしたような悩みや疑問に、当たり前のように答えを投げかけてくれる。
悩みや疑問を持っている時も、全くどうしてよいのか分からないということはほとんどない。どうしたらよいのかというのは、自分の中では半ばはっきりしていて、実際にはそれに向かって足を踏み出すことが出来ないということがほとんどである。みちるは、そんな時に踏み出す決心をつけてくれる言葉をくれるのだ。
美凪という人間の……ある種の分身であるのかもしれない。
そんな美凪が、今はどう答えを出してよいのかわからない疑問に悩まされていた。
「神尾さんに言ったことは、果たして正しかったのか」
一緒にいたくてもそうすることの出来ない人もいるのだから……。
そう思ったのは事実である。自分の母、みちる……、父、そんな人たち。
観鈴にとって、往人はそれに匹敵するような大切な人になりうるのではないだろうか。例えば、自分にとってのみちるのように。そうだとしたら、そんな大切な人を拒否して、失ってしまうのを看過するすることはできない。
観鈴には後悔して欲しくない。
だが、そのために苦しみに耐えねばならないということが本当に必要なのだろうか。ちょっとした喧嘩やすれ違いの類であるのなら、美凪も経験してきたし、乗り越えることも出来た。
だが、観鈴が往人のために苦しんでいるのは、そういった簡単なものではなく、お互いの存在自体を原因とするようなものだと感じられる。そのような中で、観鈴に対して言った自分の助言は、正しかったのだろうか。間接的に、自分が観鈴を苦しめる結果になってしまったのではないだろうか……。そんなことを考えてしまう。
自分のしたことが正しかったのか、みちるに教えてもらいたかった。
緩やかな風が、窓から入ってきた。
天文部には他に部員はいなかったから、この部屋では美凪はいつも孤独である。
新しい部員が募れなければ、部としての存続も危ういのがわかっている。
この望遠鏡を使って、星空を見ることが出来るのもそう長くはないのかもしれない。
どこかで、賑やかな観測合宿を夢見ていた。
無限の可能性を秘めた星空、無限の数の星たち……。
そんな抽象的なものに、美凪は何かを求めていた。
星が天空に姿を現すには、まだ少し時間を必要としていた。
今日は、週に一度、霧島診療所に寄る日であった。
記憶を閉ざして夢の中にあるという母の様子を、主治医に聞きに行くためである。主治医は霧島聖である。
自分をみちるだと信じる母を前に、家で美凪であることを捨ててからかなりの時間が経った。だが、それで全てが終わり、解決したわけではなかった。
数年前、美凪の母が少し大きな病気を患ったとき、当時のこの診療所の医師だった、聖、佳乃姉妹の父親がこの女性の内部にある深い闇に気付いていた。
だが、そういった精神的な疾患は専門外でもあったため、会話によるコミュニケーションを中心に、長期戦でこれに対抗しようとしてきたのだった。
その父が亡くなり、診療所を聖が継いだ後も、ゆっくりとそれは続けられていた。
聖が女性であったことが幸いしたのか、美凪の母は僅かずつであるが、その治療を受け入れる方向に進み始めていた。まだ、みちるを心の中に住まわせている美凪の母に対し、慎重に接している聖。一度、母に付き添って診療所を訪れた娘の美凪に対し、それからは時々こうして別個に状況を伝えているのだった。
「遠野さんではないか」
「いつもお世話になっています」
「暑かっただろう。何か冷たい飲み物でも用意しよう」
「ありがとうございます」
診察室で向き合う聖と美凪。
そこに、ポテトを連れた佳乃が、冷たい麦茶を持ってやってきた。
「お姉ちゃん、麦茶、用意したよ〜」
「ぴこっ」
「ちょうどいいところだったな、佳乃」
二つのコップを受け取りながら聖が言った。
「あっ、遠野さん?」
「そうだ」
「こんにちは」
「こんにちは〜」
「ぴこぴこ」
制服姿の美凪と、私服に着替えた佳乃、そして謎の生物ポテトが挨拶を交わす。
「あたしも話に混ぜてもらっていい?」
「いや、今日は遠野さんのお母さんの話だから、佳乃は向こうに行っていなさい」
「うぬぬ、残念……」
「ごめんなさい、霧島さん」
「ううん。それじゃ、あたしたちはお散歩に行って来まーす」
佳乃とポテトは、元気に夏の中に出かけていった。
「それで、お母さんの容態のことだが……」
「はい」
「幸い、いい方向へ向かっている。うまくすれば、そう遠くないうちに、完治することもあり得るのではないかと思っている」
「そうですか……」
この場合、「完治」というのは、母が夢から覚めるということである。みちるという娘がいるという夢から……。夢から覚めると同時に、美凪の居場所はどう変わるのであろうか。それが美凪には予想できなかった。
「ただ、その時に一時的なショックが生じる恐れがある」
「ショック、ですか?」
「遠野さんには、予め知っておいてもらった方がよいと思うのだ。今まで、妹さんだと思ってきた存在がそうではないと急に分かったとき、一時的な空白が心の中に生じる」
「……」
「遠野さん、即ち、君の居場所を、お母さんが探し出すのに、少し時間を必要とするかも知れない」
「はい……」
「だが、君も私も分かっているように、最終的にはお母さんに治ってもらうのが一番だと思う。だから、それに耐えきってくれないだろうか?」
「わかりました……」
夢から覚め、みちるが母の中から消えたときに、すぐに母の中に美凪が戻ってくるということではないというのだろう。
それは仕方のないことであるのだろうし、理性ではそういう症状の起きることを充分に理解していた。それでも、美凪はそこに一抹の寂しさを感じざるをえない。
端的にいえば、母親に「美凪」と呼んで欲しかったのだ。それが、すぐに叶えられないということが少し寂しかった。
「そういうことだから、びっくりしないで欲しいというのが私の気持ちだ」
「はい、努力します。ありがとうございました」
そう言って、美凪は席を立った。
冷房の効いた診察室から外に出ると、一気に暑さが美凪に襲いかかってくる。
これからの自分を考えながら、美凪は家に戻っていった。
それは、美凪が考えていたよりも急にやってきた。
「ただいま」
玄関のドアを開けた美凪は、家の空気がどこかいつもと違っていることを敏感に感じた。
ひょっとすると、もう母に変化があったのだろうか。
変化が起こるときは一瞬のことだと聞かされた覚えがある。
「おかえりなさい」
奥から母の声が聞こえてくる。いつもと、少しだけ違っている。
いつもは、「おかえりなさい」の後に、必ず「みちるちゃん」と続くのだ。
今日はそれがない。どうしてだろうか。
頭のよい美凪には、その理由は既に分かっていた。
「みちる」はもういないからだ。そして、呼びかけるべき相手の名前を、母はまだ知らないから、何も言わないのだ」
ゆっくりと、台所にいる母の方へ歩いていく。
扉を開けて、台所に入る。母が、夕食の支度をしていた。そして、美凪に気が付いて、こちらを向いた。
「あなたは誰ですか?」
母の目は、そう言っていた。母が自分を見る目は、明らかに他人に対するものであった。そこに「美凪」は存在しない。
聖の言っていたのは、このことなのだろう。それについては予想できていた。
だが、どうしても美凪には耐えられなかった。母の、自分を他人として見る目が、痛くて仕方なかった。それくらいならば、自分がみちるを演じ続けていた方がよいと思うくらいに。
「ごめんなさい!」
そう叫ぶと、美凪は玄関の方に駆け出した。
靴を履いて、外に飛び出し、あてもなく走っていく。
走って、走って、走って、たどりついたのは、美凪にとって最も思い出深い場所だった。
母から離れたい、そんな気持ちがあったのだろうか。いや、そうではないだろう。どんなものでもよいから、心の拠り所が欲しかったのだ。今頼れる唯一の存在……、みちるを求めていた。
夕暮れの駅。
もう列車がくることのないこの駅は、それでも当時と同じたたずまいを見せていた。
そして、夕陽の中にあるその駅舎の前で、みちるは待っていた。
何かを知ったように、寂しげな表情をしていたが、今の美凪にそれに気付く余裕はなかった。
みちるの姿を見て、美凪は安心した。
いろいろなものを失い、同時に得ようともしている不安定の中で、長い間ずっと支え合ってきた親友の姿は、何よりも頼もしいものに思えたのだ。
みちるが笑った。
美凪も笑顔でそれに答える。
静かに、ベンチに並んで腰を下ろした二人は、しばらくの間、何も言葉を交わさずに相手の存在を感じていた。
いろいろなものが美凪の頭の中を駆けめぐっていた。
みちるの隣にいる間、美凪はその多くの出来事と、自分の考えたことを整理しようとしていた。
母に変化が起きたこと。そして、その母が、他人を見るような目で自分を見たということ。
話はそこに集約されようとしていた。その悲しみを、みちるに聞いて欲しかったのだ。
「美凪……」
美凪が口を開く前に、みちるが言った。
「はい?」
「美凪、なんか悲しそうな顔してるね」
「ふふっ、分かっちゃいましたか。さすがはみちるです」
「うん……。みちるは、美凪のことなら何でも分かっちゃうから」
「じゃあ、話してもいいかな?」
「……」
みちるは静かに頷いた。
だが、美凪はその話をすることが出来なかった。
正確には、いいかけて途中で止まってしまったのだ。
自分の母親が病気に罹っていたこと。その病気が、治ろうとしているところ。
そこまでしゃべったとき、美凪の口は止まってしまった。
その先を言うには「みちる」のことに触れなくてはならなかったからだ。
今、みちるの前で、美凪は間違いなく美凪であった。だが、ここから話そうとする世界の中では、美凪は美凪ではなかった。そして、自分の親友とは別のみちるがいる。
それを説明することは、美凪には出来なかった。
今まで築いてきた世界が崩れ去ることになるからだった。
あえて冷酷な言い方をするならば、どれだけ表面を取り繕うとも、美凪が家で演じる「みちる」と、美凪の親友である「みちる」は単に名前を偶然に同じとしている別個の存在というものではない。美凪の母が、みちるを心の中に住まわせ、美凪がそれを受け入れて家の中でみちるになることを選んだから生まれた存在なのである。
美凪が美凪であるためにずっと目を背けてきた事実を、母が夢から覚めるためにはっきりと受け入れなくてはならない。そんな矛盾が、美凪の言葉を止めていた。
「それで、ね……」
それでも、親友に対して本当のことを告げようとする美凪。
そんな美凪の肩に、みちるがそっと手を置いた。
「美凪、もう話さなくてもいいよ。みちる、なんとなくだけど分かったから」
「みちる?」
「美凪には、本当は言いたくなかったんだけど、みちるも美凪に話さないといけないことがあるんだ」
「……」
「みちるも、美凪と同じであまり自分のおうちのことは話さないで来たんだけど……」
「そう、だったよね」
「みちる、そろそろこの町から出ていかないといけないみたいなんだ」
「えっ?」
その意味を、美凪は敏感に悟っていた。
親友という間柄は、言葉なくして相手の心の中にあることを知らしめてしまう。
それは、残念なことに、必ずしもよい方向に働くものとは限らない。
みちるが、美凪のもとを去ってしまうのだということを、美凪は直感的に悟った。
それが、美凪の手の届かない場所であるのだということも。
みちるが、どこで生まれて、どの家に住んでいるのか、美凪は知らなかった。
美凪も、みちるに自分の家のことを離したことはなかった。
そんなことは知らなくても、美凪が、そしてみちるがいれば分かり合えるし、親友でいられると思っていたからだった。
いや、それは少し違うのだと美凪は認めざるを得なかった。
その先に、足を踏み入れることが出来なかったのだ。逃げていたのだといってもよい。
「そろそろ、お別れみたいだから……」
「そんな、みちる……」
「でも、大丈夫だと思う。みちるが美凪を不幸にすることは絶対にないから」
「みちる。あなたはどこで生まれて……?」
みちるは静かに首を振った。
答える必要はないと言っているのだろう。実際、美凪もその答えを既にどこかで持っていた。
みちるは、親友であると同時に、生まれてくるはずだった妹の名前であったのだ。
みちる……。
母は自分を今までそう呼んだ。
そのみちるを失い、心の拠り所を見いだせないでいるのではないだろうか。
美凪の居場所は、それをつかみ取ったあとに得られるのではないか。
そう考えた美凪は、みちるに向かってこんな提案をした。
「みちる?」
「なに?」
「私のうちに遊びに来ませんか?最後に、腕によりをかけた食事をごちそうしてあげます」
「うん。ハンバーグ、あるかな?」
「もちろん、用意できますよ」
「それだったら行く!」
この時のみちるは、いつもの元気な表情と同じだった。
それに安堵して、美凪はみちると一緒に遠野家の門をくぐった。
「ただいま」
「……」
母は台所にいるようだったが、声は帰ってこなかった。
美凪にとっても、みちるにとっても懐かしい匂いが玄関まで伝わってきた。
炒めた玉ネギの香ばしい香り。
みちるの好物であるハンバーグを作っているようである。
「あっ、ハンバーグ」
「そうみたいね」
迷いを絶ち、美凪は自分の家の台所に向かう。
ガスコンロに向かい、調理をしているエプロン姿の母の姿があった。
誰のために料理をしているのか?
美凪は一瞬、そんなことを考えた。
だが、そんなことは決まっている。
「おかえりなさい」
母は、美凪の名を呼んでくれなかったが、さっきの他人を見る目はなくなっていた。
涙が流れそうになるのを美凪は必死にこらえた。
「お母さん、今日は友達を呼んだんだけど、一緒にご飯を食べてもいいかな?」
「お友達? 歓迎よ。もうすぐ出来るから、一緒に食べましょう」
「うん」
「ほら、お友達を立たせてちゃだめじゃない。そこに座ってもらいなさい」
「みちる、こっちに座って」
「うん……」
戸惑いを隠せずにいるみちるを促して、美凪は席に着かせた。
ずっと空いたままの席に、久しぶりに人が座る。
これは、誰の夢見ていた光景だったのか。
夢は、覚めることによって叶えられるのだろうか。
香ばしい匂いが台所に立ちこめる。
お米の炊ける、幸せな香りもしてきた。
湯気が、幻想的にも感じられる、淡い台所だった。
そして、盛りつけられた食事が、三人の前に並べられる。
「食べましょう?」
「うん。いただきます」
「いただきます」
ご飯と、ハンバーグは美味しかった。
みちるはしばらくの間、いつものようにかぶりつかんばかりの勢いでハンバーグと格闘していたが、不意に箸を動かす手を止めた。
「どうしたの?」
「うん、このハンバーグ……」
「ん?」
「とても美味しい」
みちるが、涙を流しながら笑顔を見せていた。それを見た美凪も、自分の目が潤うのを感じた。
「ありがとう。このハンバーグはね、おばさんの自信作なのよ」
美凪の母が言った。自分の作ったものを、美味しく食べてもらえることは例外なく嬉しいことである。
「このハンバーグはね、おばさんがずっと研究して、作り方をこの子にも教えてあげたのよ」
「そうなんだ」
「あらやだ、私、あなたのお名前を聞いてなかったわね」
「あっ?」
「よかったら、教えてくれる?」
みちるが、困ったような顔で美凪の方を見た。それは、自分の使命を知っていたからだろうか。そして自分の名前の持つ意味を知っていたからだろうか。
だが、美凪は、もう迷っていなかった。美凪がみちるに笑顔を向ける。
「うん、みちるは……みちるっていうんだよ」
「みちる?」
「うん」
その瞬間、世界が動いた。みちるという名前は、彼女にとって特別な意味を持つものだった。
その名前がここに現れたとき、霧の中にあった現実がはっきりとしたものへと変化する。
「そう。じゃあ、もっといっぱい食べてね、みちるちゃん」
「じゃあ、お代わりっ!」
「はいはい」
ハンバーグを食べ終えたみちるが、元気良く皿を差し出す。
フライパンにもう一つ残されていたハンバーグを皿に移しながら、母が美凪の方に目を向けた。
そんな母の様子を見ていた美凪と、目があった。
「素敵なお友達がいてよかったわね、美凪」
「あっ……」
美凪の目から涙が溢れた。今確かに、母は自分を「美凪」と呼んでくれた。
かといって、母からみちるが失われてしまったのでもない。
ずっと求めてきた家族の風景を、ようやく取り戻すことが出来たのだった。
「お母さん、みちるを送ってくるね」
「遅くならないうちに戻るのよ」
「うん、わかってる」
そう言って、美凪はみちると一緒に外に出た。
もうすっかり夜になり、美凪の大好きな星が空で瞬いていた。
お互い無言のまま、美凪とみちるは並んで歩いていた。
「ありがとう、みちる」
「……」
みちるは静かに首を横に振った。
「でも、みちるはもう行っちゃうんだよね」
「うん。みちるには大切な役目があるから」
「そうなんだ」
「役目は二つあったんだけど、一つはもう終わっちゃった」
「そうなの?」
「うん。それは、美凪を取り戻せたこと」
「……」
「みちるが何のために生まれてきたのか、教えてくれた人がいるんだ」
「何のために……」
「そして、これから何をしたらいいのか、ヒントをくれた」
「……」
「その大切な役割のために、みちるは行かなきゃならないところがあるから」
「でも、みちると別れるのは私、嫌だな」
「大丈夫。みちるは消えるわけじゃないんだから」
「そうだけど……」
「美凪にも、きっと向こうで助けてもらうことがあると思う」
「私が?」
「美凪は、いままでみちるにたくさん、大切なものをくれたから」
「うん」
「今度は、私があの子を救う番だと思うんだ」
「あの子?」
「みちるの役割を教えてくれた人、誰だか分かる?」
美凪の質問には答えず、みちるが逆に問い返した。
美凪の中に、直感的に一人の人物の姿が浮かんだ。
「国崎さん?」
「そう。あのへんたいゆうかいま」
「ふふふっ」
美凪とみちるが笑った。
思えば、往人がこの町に現れてから、いろいろなものが動き出した。
美凪の母に記憶が戻ったこと、観鈴という新しい友人が得られたこと、その観鈴が苦しんでいるということを知ったこと……。
まだ、その奥には何かが残っているような気がした。
それにたどり着くことが出来たとき、本当の幸せというものが見えてくるような気がする。
往人が、観鈴がその幸せを掴もうとするとき、自分は何かその手伝いが出来ないだろうか。
想像していなかった大きな物語の中に、自分も身を置いているような気がする。
その中で、みちると同じように、自分にも何か役割があるのではないだろうか。
「美凪、ここまででいいよ」
みちるが言った。
「うん。みちるも気を付けてね」
「みちるは大丈夫だよ。また会おうね」
美凪は静かに頷いた。泣いていることを隠すため、美凪は空の星に目を向けた。
再び地上に視線を戻したとき、もうみちるの姿はなかった。
美凪は、母の待っている家に帰ることにした。
美凪は、一足先に悲しみから解放された。
それが、別の悲しみを溶解させるための鍵になりえるだろうか。
星空の中に、何かの姿を見たような気がした。