観鈴の体は、再び悪い方へ変化していった。
佳乃が、そして美凪が自分の悲しみを解き放ち、その思いと力を今度は悲しみからの開放へ向けようとしているとき、観鈴はこれまで以上の苦しみに包み込まれているのだった。
「往人さん、痛い……」
「背中か?」
ベッドに横になっている観鈴の表情が苦悶に満ちたものになる。
手を伸ばして、その背中をさすろうとする往人だったが、観鈴はつらそうに首を横に振る。
「ううん……、足が痛いの」
「足……、このあたりか?」
太股から膝にかけてのあたりをそっと撫でようとする往人。観鈴は静かに頷いたが、その痛みは軽減する様子はなかった。
もはや、医者に診せても意味がないということがわかっている。
観鈴を放っておけないと考える一方で、自分が観鈴に苦痛を与える張本人ではないのかという考えを振り払うことも出来ずにいた。
一度は、全てを投げ出してこの町を去ろうとも考えた。自分が、観鈴にとって赤の他人になってしまえば、観鈴はこの苦しみから開放されるのではないかと。晴子の言葉を思い出す。
「どうやら、誰かと仲良うなると起こるようなんや」
その晴子は、理由を告げぬままこの家からいなくなった。なんと自分勝手な親だと、最初は憤慨したが、その怒りを落ち着けると、その理由も理解できるような気がする。
往人がいるだけで観鈴は癇癪を起こし、更にはこうして大きな苦痛を訴えるようになった。一方で、晴子も表面上は観鈴に対して冷たくふるまってはいるが、そこには確実に母親としての愛情が存在している。痛みに苦しむ観鈴を、二つの意味で正視できない。一つは純粋に、娘が苦しむのを見るに耐えないという理由、もう一つは、自分が愛情を注ごうとするとそれが逆に娘の苦しみを増すことになるという矛盾。
あえて自分がこの家からいなくなることで、晴子は観鈴の救われる道を模索しようとしたのではないだろうか。
そうだとすると、往人はこの家を、そしてこの町を去ることは出来ない。観鈴が苦しむのを正視せねばならないとしても、最後までそれを見届けることが自分の義務であり、役割である。それに、金のない自分をほとんど無条件で居候させてくれたという現実的な恩義もある。
往人は変わり者ではあったが、倫理に欠けた人間ではなかった。
だから、こうして往人は観鈴のそばにいる。それが正しいことであるかを絶えず自問しながら。
パジャマを着ていることすらも痛みを伴うものになっていた。
体を冷やさないように毛布をかぶせてはいたが、観鈴の上半身は何も身につけていない。滑らかな肌が露わになっていたが、必要以上にそれに触れることは出来ない。
背中から始まった痛みが、別の場所にも広がりつつあった。それは断続的なものであったが、この足の痛みは、今後、背中とともに恒常的なものになるのだた。
「観鈴、いいな?」
その答えを確かめずに、往人は観鈴のはいているパジャマのズボンを脱がせた。性別を表す核になる部分を除き、観鈴の体の全てが露わになる。
往人は、努めてその体に対する本能的な衝動から意識をそらせながら、観鈴の苦しみを少しでも和らげようと努力する。
「往人さん、痛い……」
「ああ、わかってる。こうしていれば少し楽になってくるだろうから」
「往人さんの手、温かい……」
「そうか……」
だが、その温もりがそのまま痛みの軽減をもたらすものではないのが事実だった。
吹き出る汗を拭ってやり、冷たい麦茶を飲ませて失われた水分を補ってやる。
やがて、痛むことにも疲れたのか、若干の落ち着きを取り戻すと、観鈴は張りつめた糸が切れたように静かになり、そのまま眠りに落ちていった。
「結局、俺には何も出来なかったか……」
往人は、無力感を感じていた。
そもそも、自分が観鈴のそばにいることが正しいのかどうかも分からない。
一転して静かに眠る観鈴の顔を見ながら、往人は自分の存在というものを改めて考えることにした。
この町にやってきた理由。余人の持たぬ不思議な力を与えてくれた母親の存在。家族というものを求めていろいろなものを探り続けている少女達。
この町で、三人の少女に出会った。彼女たちは、それぞれ悲しみを内包していた。
往人がその悲しみを揺さぶり起こした。
佳乃と美凪……、二人は自分の力でその悲しみを乗り越える道を選び、それを成し遂げた。勿論、自分一人の力でではなかった。支えてくれる、大切な人がいたからこそのものだった。
その彼女達が、今度は大切な友だちを悲しみから救いたいと考え始めている。
まだそのことを往人は知らなかったが、観鈴にとってのその「大切な人」に自分がなるのではないかと考え、この町に残った。
「空の中にいる、自分をずっと待ち続けている少女」
その少女に会うための鍵を、観鈴は持っているのではないかと往人は思った。
ふと、観鈴と出会った堤防の景色を思い出す。
あの堤防の上で、観鈴は風を受けて立っていた。手を広げた様は、羽ばたく鳥の姿に重なって見えた。
人は空を飛ぶことは出来ない。少なくとも、自らの力で風を受けながら大空を自由に動き回ることは出来ないのだ。
だが、どこかでそれを夢見ている。人が人になる前の記憶というものがあるのかもしれない。
観鈴は、ほとんどの人間が捨ててきてしまったものを、ずっと受け継ぐ中で生まれてきた子なのかもしれない。
「もう一人の自分が空にいて、自分のことを見つめている」
そんなことを観鈴は言っていた。それは単なる空想ではないのかもしれない。
静かに眠っている観鈴を見ながら、往人はそんなことを考えていた。
ここしばらくの間、観鈴はこの部屋から一歩も出ることがなかった。観鈴にとって憧れの空は、窓枠に切り取られた僅かな部分しか見ることが出来ない。
「往人さん、わたし、空が見たい」
観鈴がそんなことを言っていた。
「そうだな、早くよくなれ。そうしたら外に連れて行ってやるぞ」
「うん、観鈴ちん、頑張るね」
漠然とした気持ちと事実しか見えてこないことに、往人は焦りを感じていた。
果たして、観鈴に対して何をしてやることが出来るのか。
その答えを得るには、もう少しだけ時間が必要だった。
夕刻、往人は外に出て海岸を歩いていた。
ようやく目を覚ました観鈴は、今は落ち着きを見せていた。痛みが体力を消耗させるのか、これまでの溢れるような元気は大幅に失われていた。
そんな観鈴が、ようやく笑顔を見せて、往人にこう言った。
「わたしの体、よくなったら、海を見に連れて行ってくれるかな?」
「ああ、約束する。だから、早くよくなれよ」
「うん」
「……」
「あっ、一つ往人さんにお願いをしてもいい?」
「なんだ?」
「わたし、のどが渇いちゃった。ジュースが飲みたい」
「ジュース? 麦茶じゃだめなのか?」
そばに置いてあるポットを指差す。
「ダメじゃないけど……、出来ればジュースがいいかなって」
「そうか。よし、買ってきてやろう」
「ありがとう、往人さん」
「例の、あの店だよな」
「うん」
こうして、往人は学校の近くにある武田商店に向かって歩いていた。
「もう少しだから……、観鈴ちん、がんばれ」
部屋に残った観鈴は、そうやって自分を鼓舞していた。
「往人さんが、きっともう一人のわたしに会わせてくれるよ」
「まだわからないんだけど、もう一人のわたしに会ったら、大事なお話が出来るような気がする」
観鈴の脳裏に、大切な友だちの姿が浮かんだ。その友だちは、観鈴に優しく微笑みかけてくれているように見えた。
「しかし、よくこんなものを飲みたいと思うよな……」
自動販売機を前にして、往人はうなった。
「どろり濃厚」と、それこそ濃度の高そうな字で大書きされた見本のパッケージをにらみつける。
観鈴の飲んでいたピーチ味の他にも、オレンジ、パイン、ストロベリー、メロンなど何種類も並んでいる。
「見てるだけで喉が乾いてくるぞ……。とっとと買って戻るか」
往人にはこのしつこすぎる甘さは、暑さを助長するようにしか思えない。笑顔でジュースを飲んでいた観鈴の映像を、素早く頭の中から追い出す。
ポケットから百円硬貨を取り出し、機械に入れる。観鈴の飲んでいたピーチ味のボタンを押す。
がらがらという音がして、下の取り出し口に紙パックが転がり落ちる。
それを取りだして、改めてうなる。
「うーむ」
しばらく立ち尽くした後、もう一つ同じものを購入した往人は、観鈴の家の方に戻ろうと道に体を向けた。
「こんにちは」
「うん?」
そこには制服姿の美凪の姿があった。
「えっと、遠野だっけ?」
「はい」
「学校だったのか?」
「そうです。今日も元気に部活動でした」
「暑いのに、ご苦労なことだな」
「でも、楽しいですから」
「確か、天文部だと言ってたよな」
「はい。国崎さんは、まだ神尾さんのところにいらっしゃるんですか?」
「ああ、そうだけど……」
「神尾さん、ここのところ、学校で姿を見ないのですが……」
「ああ、それなんだけどな」
観鈴のことを話してよいものか、往人は一瞬悩んだが、結局、正直に話すことにした。
痛みが原因不明のものであるということは伏せておいたが、熱が下がらずにまだ苦しんでいるということを、かいつまんで美凪に話す。
「それで、こんなものを飲みたがってな。わざわざ買いに来たというわけだ」
「そうでしたか」
「あいつ、『空を見たい』って言うんだ。早くよくなって、それを叶えてやりたいものだけどな……」
「そうですね……。あっ!」
「どうした?」
「名案があります」
「うん?」
「今、天文部では観測合宿の準備中なのです。神尾さんがよくなったら、一緒に参加されてはどうでしょうか?」
「そうだな……」
観鈴の体況に思いを巡らしながら考える。
「目標があれば、神尾さんの闘病も張りのあるものになるのではないでしょうか?」
「確かにな……」
「もちろん、国崎さんも参加してください」
「俺は部外者だぞ。そもそも学校の生徒ですらないし」
「細かいことは気にしなくて構いません。部長権限で許しちゃいます」
「そうか……」
そう言ってガッツポーズをしてみせる美凪。
美凪なりに、往人のことを気遣っているのだろう。そして、観鈴を救おうと、自分の出来ることを模索している。
それが分かったからこそ、往人は美凪に笑って見せた。
「楽しくなりそうだな」
「はい。観測も、賑やかにやったほうがいいものなんです」
「ああ」
家に戻る美凪を、往人は見送った。
「じゃあ、またその時に、遠野」
「はい。それと……」
「うん?」
「これからは、私のことは名前で呼んで下さって構いません」
「そうか。じゃあ、観測合宿のことは頼んだぞ、美凪」
「はい」
その笑顔に、往人はどこか頼もしいものを感じたのだった。
それから数日後、観鈴の体調が小康状態に入った。
ずっと寝たままであった観鈴が、久しぶりに起き出す。
止めるのも聞かずに、台所に立って自分と往人の食事すら作って見せたのだ。出来合のつゆに刻んだ薬味と錦糸卵、そうめんという簡単なものではあったが、往人にとっては何よりのご馳走に思えた。観鈴の、楽しそうな顔を見るのも久しぶりだったのだ。
「そういえば、観鈴に飯を作ってもらうのも久しぶりだよな」
「うん、観鈴ちん、頑張った」
「ああ。今は大丈夫なのか?」
「平気みたい。背中も足も、痛くない」
「それならいいんだけどな……」
気持ちよさそうにそうめんを食べる観鈴を見て、往人はほっとすると同時に危惧をも感じていた。理由もなく観鈴の体が快方に向かうということが信じられずにいたのだ。もし、この一時的な回復が観鈴の気力によるものなのだとしたら、その気力を奮い立たせるために何かが犠牲になっているのではないだろうか。観鈴にそうさせるまでに、この痛みは深刻なものなのではないだろうかと。
「ね、往人さん?」
パジャマ姿の観鈴が声を掛ける。
「うん?」
「これから、トランプして遊ぼ?」
「うーん。そうだなぁ」
少なくとも今の観鈴は、元の観鈴だった。それに、往人は僅かながら安心する。
「それよりも観鈴?」
「なに?」
「お前、『海が見たい』って言ってただろう。もし、調子がいいんだったら俺が連れて行ってやるぞ」
「いいの?往人さん」
「ああ、勿論だ」
ひょっとすると、これが最後の機会かもしれないと、往人は予感していた。
これまでに起きた出来事に相関関係を見いだすことは出来なかったが、何かがある目的に向かって動き始めているという流れを往人は察知していた。その流れに逆らってはいけない、そんな気がしたのだ。
「食べ終わったら、洋服に着替えるね」
「ああ、そうしろ」
残りのそうめんを二人は勢いよく食べた。夏らしい光景である。
縁側からは夏の木々が見え、空は惜しげなくその青さを見せている。あれだけ鬱陶しかった蝉の鳴き声も、今はそれほど不快感を感じさせない。
夏の中にいる。往人はそれを実感していた。
毎年夏になると感じられた、どこか懐かしいような感覚。他の季節にはない濃い青空を背景に、幻の少女の姿が思い浮かべられる。
「もう少しだな……」
着替えている観鈴を待ちながら、そよ風の中で往人はそうささやいていた。
「グッドタイミング」
観鈴を連れて外に出て、海岸に向かって歩いていると、学校の近くまで来たところで美凪に出会った。
「美凪じゃないか」
「あっ、遠野さん」
「こんにちは」
ピンク色の可愛らしい洋服を着ている観鈴と、制服姿の美凪。美凪は女の子としては背が高いということもあり、この二人が並んでいるととても同じ学年であるようには見えない。その差異が面白かった。
「美凪は今日も部活か?」
「はい。もうすっかり準備も整ったところです」
そう言いながら、小さくガッツポーズを見せる。
「にははっ」
その真似をする観鈴。
「というわけですので、今日これから、如何でしょうか?」
「観測合宿か?」
「はい、そうです」
「往人さん、かんそくがっしゅく、って何?」
「あ、観鈴には説明してなかったか。この前、学校で美凪に会ってな。俺とお前と、誘われたんだ」
「そうなの?」
「天文部の合宿があるから、俺たちも一緒に参加しないかって」
「そういうわけなんです。どうでしょうか、神尾さん?」
「わたしも、参加していいの?」
「はい、最初からそのつもり」
「うん」
「では、早速」
「ああ……。って、何も持たなくていいのか。というより、まだ昼間なんだけど」
「細かいことを気にしてはいけません、国崎さん」
「いや、極めて重要なことだと思うのだが……」
「星が見えるかどうかは、重要なことではないのです」
美凪は冗談を言っているようには見えない。観鈴を見る美凪の顔を見て、往人は反論を止めた。
確かに、今は観鈴と一緒に時間を過ごすということが何よりも大切なのだ。観鈴が友だちと言った、美凪と共に過ごす時間が。
三人で海岸までやってきた。
堤防から少し離れたところまで来ると、まだ自然の砂浜の残っている場所がある。美凪は持ってきたレジャーシートを広げて、そこに腰を落ち着けた。
真夏の日差しの中、目の前の海は輝いている。
「暑くないか、観鈴?」
「うん、大丈夫」
「体は痛くないか?」
「平気みたい」
観鈴の表情を見る限り、その言葉に偽りはないようである。
「まだ、一番星も見えないよな、さすがに」
青空を見上げて、往人が呆れたように呟く。
「しばらくしたら見えてきますよ。それに、本当の星は、目でなく心で見るものなんです」
「そうか……」
海と空を見ながら、往人と美凪が並んで立っている。
その傍らに座っていた観鈴が、自分も立ち上がろうとした。
そっと手を伸ばし、美凪がその観鈴の手を取った。
その瞬間、美凪の体に悲しみが流れ込んできた。
「あっ……」
ぎりぎりで声を押しとどめた。観鈴に感じた悲しみがどんなものであるのか美凪には分からなかったが、美凪には既にそれを受け止めるだけの強さがあった。
だから、美凪はしっかりと観鈴の手を握り、自分の隣に立たせた。
二人の長い髪が、海からの風を受けてたなびいた。
海と空は、多くのものを運んできた。そうして運ばれたものによって、この町とそこの人々の営みが形成されている。
「にはは。気持ちいい」
「来てよかったな、観鈴」
「うん」
美凪も、そんな観鈴を優しく見つめていた。
そんな時、もう一つの元気な声が聞こえてきた。
「あっ、往人くんだぁ」
自分たちの姿を認め、元気に駆けてくる女の子の姿があった。
まだ幼さを残している、だがしっかりとした強さを持った少女。
「観鈴さんに遠野さんもいたんだね」
相変わらず、謎の生物をお供にしながら、佳乃が満面の笑みを浮かべてやってくる。
「佳乃じゃないか、どうしてここに?」
「お散歩だよぉ。今日は海の方に行ってみなさいってお姉ちゃんが言ってたんだけど」
「そうか」
「霧島さんも仲間に入りませんか?」
美凪が、そんな佳乃を誘う。
「仲間?」
「はい。今日は天文部の観測合宿なんです。飛び入り参加も大歓迎」
「ああ。ここに学外の参加者もいることだしな」
往人が自分を指差しながら言った。
「うん。かのりんも仲間入りだよぉ」
「では、参加賞を差し上げます」
懐から白い封筒を取りだした美凪。
「久しぶりの登場だな……」
「あっ、皆さんにも差し上げます」
更に二つの封筒を取りだし、往人と観鈴に差し出す。
「あっ、これはあたしの方からの差し入れだよ」
手に持ったバスケットを佳乃は差しだした。
「うん?」
「『散歩のお供にするがいい』ってお姉ちゃんが渡してくれたの」
「食糧か?」
「たぶんそうだよ」
「聖の作ったものなら安心だな。ありがたく頂くとしよう」
「国崎さん、独占はいけませんよ」
「わかってるって」
「でしたら、観測は一時中断して、みんなでこちらに」
「もともと観測なんてしてないだろ」
「細かいことを気にしてはいけません」
「そうだよ、往人くん」
意味も分からず、佳乃が同調する。
「にはは、ごはん」
観鈴の意識も既にそちらに向いている。
ずっと流動食しか受け付けなかった観鈴が、自分からものを食べたがることに驚きながら、往人はこれまでの閉塞から自分たちが解放されているという事実を強く感じた。
自分は、観鈴に対して出来るだけのことをしたつもりだった。
だが、一人で出来ることには限界があるのだ。
美凪や佳乃、彼女たちが観鈴の所に来てくれたことで、それを実感する。
観鈴は、ずっと求めていたものを今手に入れているのだろう。それを得るための手伝いが、俺には出来たのだろうか……。
往人はそんなことを考えた。
「往人さんも食べて?」
観鈴の声によって、往人は意識を引き戻された。
「そうだな。俺ももらうことにしよう」
「美味しいね」
「食事は、賑やかなほうが美味しいものです」
美凪が言う。
「うん」
元気に答える佳乃。
思えば、今ここにいる人間は、みんな寂しい食卓を過ごしてきたのではなかったか。
往人、観鈴、佳乃、美凪。そして、聖に晴子、みちるや美凪の母も同じであっただろう。
賑やかな食事の風景。
そんなささやかなものを実現させるために、美凪はこういう観測合宿を開催した。佳乃は、豪華な食事を差し入れた。
観鈴は、みんなに笑顔を見せ、往人がそれを支えた。
ここにいる誰もにとって、お互いが大切な人となっていた。
そんな中で、観鈴はもう一人の自分に思いを向けていた。この人にも幸せになってもらいたい、と。
もう一人の自分があの空の中にいるのなら、今の自分のことを見てくれているのであろうか。
食事を済ませたあと、佳乃はポテトと共に元気良く走っていった。
美凪も、この奇妙な生物が気に入ったらしく、それを追いかけていく。
追いついた美凪がポテトに向かって例の封筒を差し出す。意味も分からないまま、それを加えるポテト。
暑さは相変わらずだったが、風がそれを和らげていた。
レジャーシートの上で、寝ころがって空を見上げている往人の顔を、観鈴が覗き込んだ。
「往人さん」
「なんだ?」
「ありがとう」
「……」
観鈴が、どういう意味を持ってそう言ったのか、往人には分からなかった。遠くで遊んでいる佳乃と美凪を見ながら、観鈴が目を細めた。その瞳には、確かに幸せというものが存在していた。
だが、同時に観鈴はまだ悲しみを抱えたままであった。それは観鈴自身の悲しみであって、同時に他者の悲しみでもあった。
「わたし、本当のお友だちが出来て嬉しい」
「そうか、よかったな」
「往人さんも大切な友だち」
「ああ」
もう、往人はそれを否定しなかった。
「今年の夏は、きっと忘れられないものになると思う」
「そうだな……」
おそらく、往人にとっても同じだろう。この夏と、この町が往人の記憶から失われることは絶対にあるまい。
その証明をするかのごとく、観鈴がそっと往人に顔を寄せてきた。
「……」
その意味を察する間もなかった。
静かに、観鈴が往人に唇を重ねた。
純粋な口づけだった。そこには、多くのものが内包されていたに違いない。
さっきの「ありがとう」の意味が分かったような気がする。
何も言わずに、観鈴が立ち上がった。往人も、体を起こしてこのかけがえのない場所の風景を目に焼き付ける。
遠くで、美凪と佳乃が手を振っていた。ポテトがぴょんぴょんと元気良く跳ねている。
「往人さん、遠野さんと佳乃ちゃんのところに行ってもいい?」
「ああ、行ってこい。無理はするなよ」
「うん、大丈夫だと思う」
観鈴が元気良く砂浜を駆け出していった。
ここから二人の所までの距離は、決して遠くはない。
すっかり痛みの引いた観鈴にとっては、何の問題もないはずであった。
だが……。
不意に観鈴が倒れた。
「まったく、抜けたやつだな」
肩をすくめながら、往人が立ち上がる。
苦笑いをしながら立ち上がろうとした観鈴だったが、再びバランスを崩してその場に倒れる。
ここが砂浜でなかったら、少なからず傷を受けていたであろう。
「観鈴っ!」
異変を察知した往人が、全速力で観鈴の方に駆け出す。
美凪と佳乃はその場で立ち尽くしたままで、すぐ近くにいるはずの観鈴を心配そうに見つめている。
「にはは、往人さん……」
観鈴は笑っていた。だが、その笑顔の中には確実に苦しみが混じっていた。
落ち着いたと見えた痛みが再発したのだろうか。観鈴をここに連れてきたのは間違いだったのか。
観鈴の体を支えながら、往人はそう考えた。
ようやく、美凪と佳乃が駆け寄ってきて、観鈴を覗き込む。
「歩くの、気持ちよかった」
「そうか。痛むのか?」
「……」
答える代わりに、観鈴は苦しそうに頷いた。
往人は背中にはなるべく触れないようにして観鈴の体を支える。
「足もなのか?」
「うん。急に痛くなって、立っていられなくなっちゃったみたい」
「休むか?」
「ううん。たぶん、これは休んでもよくならないと思うから」
「観鈴?」
「わたし、頑張ったよね」
「ああ、頑張ったな」
「だから、もう終わりにしてもいいかな?」
「何を言うんだ!」
思わず、往人は観鈴の体を強く揺さぶった。観鈴が苦しそうな顔をして見せたため、慌ててそれを止める。
「みんなと一緒に過ごして、観鈴ちんは楽しかった。ずっと欲しかった友だちにようやく会えたって思えた」
「そうだな。大切な友だちだよな」
往人が、美凪と佳乃に目を向ける。二人は揃って頷き、優しい顔を観鈴に向けた。
「だから、わたしはこれで充分。もう一人のわたしに会いに行かないと」
「もう一人のお前?」
「うん。往人さんには話したことがあるよね?空にもう一人の自分がいるような気がするって」
漠然としてつかみ所のない話だと思っていた。往人も感じている「空で自分を待っている少女」というのは、観鈴の言う「もう一人の自分」と同じなのだろうか。
「お空に?」
佳乃が観鈴に問いかけた。佳乃にとって、空にいるのは会うことの出来ない大切な存在だった。だが、その人とはしっかり話をし、自分の進むべき道を決めてきた。
美凪にとっては、空はある意味で聖域だった。大好きだった父が思いを巡らせ、様々なことを美凪に教えてくれた。父がいなくなったとしても、美凪が空に向ける憧れの気持ちは変わるものではない。
二人は、観鈴の言う空の少女に、悲しみを感じていた。観鈴が一人でその悲しみを背負っているのではないだろうか。そんな風に考える。
「うん……」
最後にそれだけ言って、観鈴は意識を失った。
誰も、この砂浜から立ち去ろうと言う者はいなかった。
往人が観鈴を寝かせて、佳乃がその看病をしている間、美凪は黙々と観測合宿の準備を進めていた。
日が傾き、やがて夜になる。
簡単な夕食を済ませ、意識を取り戻さないままの観鈴の傍らに座りながら、往人はぼんやりと夜の海を眺めていた。
静かな波の音が聞こえ、遠くの方から微かに聞こえてくる虫の鳴き声がその波音を引き立てる。
夜の海は暗黒の中にあり、全てのものを吸い込んでしまいそうにも思えた。そうだとしたら、観鈴の悲しみや痛みというものも吸い込んでくれればよいのに……。そんなことを考える。
隣では、美凪が望遠鏡を用意していた。
星を見るためというより、空を近くに感じるためのものと美凪は考えていた。佳乃はポテトと一緒に海岸を歩いている。往人を勇気づけるかのように、時々振り返っては元気に手を振っている。
静かだった。
昼間、観鈴が自分に口づけをしたことを思い出す。その唇も今はなにも語らずにいる。
そっと、往人は観鈴の手を握った。
観鈴の体温とともに、悲しみが流れ込んでくる。
「一体、お前はどこへいこうとしているんだ?」
その悲しみと向かい合いながら、往人は何も言わぬ観鈴に問いかけた。
天空には星が広がっている。
そこには無数の星があり、あるものは強く、あるものは今にも消えてしまいそうなほど心細く輝いている。
都会より遙かに多い星を、この町では見ることが出来た。
ひょっとして、俺は空を見るためにこの町に来たのではないだろうか。
この少女達に出会うために来たのではないだろうか。
往人はそう思った。
そうだとしたら、俺たちはこの町で出会い、どこへいくのだろうか。
その行き先には、何があるのだろうか。
古来、人間は自分の運命を星に重ねていた。
この世界に無数の人間がいるように、空には無数の星がある。
その中のどれかが、自分の運命を司り、自分を必要な方向へ導いてくれる。
自分の星を知ることは難しい。まして、他人の星を知ることなど出来ることなのだろうか……。
「星、見ますか?」
美凪が往人の隣に腰を下ろしていた。
望遠鏡を指差して、美凪がそう言った。
「あれって、よく見えるのか?」
「それはもう、バッチリ」
自信ありげに、美凪が答える。
「そうか、じゃあちょっとのぞかせてもらおうか」
「はい。是非そうして下さい」
往人は立ち上がり、望遠鏡を覗き込む。
丸く切り取られた空間が拡大され、肉眼では伺うことの出来ない天体の姿が見える。
これは、どこにある星なのだろうか。
一旦目を離した往人は、今見た星が無数にある中のどれの姿なのかを探し当てようとした。
「往人くん、どうしたの?」
「ああ、美凪に星を見せてもらっていたんだ。こいつから見えた星が、いったいどれなのか知りたくなってな」
「ふぅん……」
「でも、これだけ星があっちゃ、そんなのは到底分からないよな」
「ううん。あたしには分かるよ。往人くんが見た星は……、あれだねっ」
佳乃がない胸を張って、力強く指差す。
だが、どの星を指差したのかは、往人には分からない。
「うーむ……」
「本当はね、そういうのってあんまり重要じゃないと思うんだ」
「えっ?」
「星がたくさんあって、その下に自分たちがいること。同じ星をあたしたちみんなが見ていること。そういうのが大切なんじゃないのかな?」
「佳乃……」
「なんて、あたしらしくなかったかな」
佳乃が笑ってみせる。
「そういうものかもしれないな」
往人が賛同してみせた。空を通じて、自分たちは世界を共有している。そういう感覚だろうか。
だが……。
観鈴は、まだ目を覚まさない観鈴は、俺たちとこの空を共有できているのだろうか。
空を仰ぎ見て、往人は少女を捜そうとした。
「国崎さんっ!」
背後から、美凪の声が聞こえた。
「どうした?」
「神尾さんが、目を覚ましました」
「なにっ」
往人が走る。そのすぐ後ろに佳乃が続く。
「往人さん……」
今にも消えてなくなりそうな声で、観鈴が往人を呼ぶ。
「ああ、ここにいるぞ」
「空、きれいだね……」
「そうだな」
「わたしね、さっき、夢を見たの」
「何回も往人さんに話した夢の続きだった」
「その夢の中で、またわたしは空を飛んでた」
「でも、空を飛んでいるのは本当はわたしじゃないんだって誰かが教えてくれた」
「そうしたら、わたしの背中にあった羽根がなくなっちゃったの」
「羽根がなくなったら、飛べないよね」
「だから、わたしは空から落ちて来ちゃったの」
「地面が見えて、ぶつかるって思った瞬間、目が覚めた」
「そしたら、この星空が見えた」
「にははっ……」
力無く笑う。
「でも、これで分かった。もうひとりのわたしは、やっぱりいるんだって」
「もう、頑張ったから、空のあの子に会いに行ってもいい?」
「観鈴っ!」
往人が叫んだ。
だが、観鈴はそれに答えることなく、そっと目を閉じた。
「あいつは、どこへ行こうとしてるんだろうな……」
自嘲気味に、往人が自分を見守る美凪と佳乃に言った。
観鈴の大切な友だちになり、観鈴を守ろうと思っていた往人は、結局、何も出来ずに見送るだけになった。いや、逆に自分がいたことによって観鈴を苦しめただけなのかもしれない。
そういった自分を、往人は責めていた。
だが、残りの友だちの考えは違っていた。
自分の悲しみを乗り越えた二人は、悲しみというものがどこからやってきて、どこに向かおうとしているのかを知っていた。
往人が単に悲しみをもたらすために現れたのではないということも知っている。観鈴を本当の悲しみから救うのは、往人以外にありえないということも知っていた。
そして、そのために自分が何をしたらよいのかということも。
「往人くん」
佳乃が往人の両手を取った。
そして、往人の手のひらを、自分の胸に押し当てる。
そんな佳乃の行動に驚いて、目を見開いて目の前の小さな女の子を見つめる。
佳乃の胸は柔らかかった。ずっと忘れていた、懐かしい気持ちが思い起こされる。
すっと、体が軽くなったように感じた。
そんな往人に、美凪が諭すように言った。
「ここからは、国崎さんの役目です」
「……」
「私の、大切な友だちに会いに行ってください」
「観鈴に……、会いに?」
「そうです。そのための力を、国崎さんは持っているじゃありませんか?」
その時、往人のズボンのポケットから、何かが転がり落ちた。
それは、ずっと旅の供をしてきた、古ぼけた人形だった。
その人形が、何かを訴えかけて往人を見つめているように見えた。そう見えたのは、単に星の光の加減だったのかもしれないが、確かに往人にはそう見えたのだ。
人形はこう語りかけていた。
「お前の力は、何のためにあるのか、もう一度考えてみろ」
往人は母親の言葉を思い出した。
「この力は、あなたの好きなように使っていいのよ」
日々の糧を得るためだけのものだとは思っていなかった。その答えが、今になってようやく得られたように思えた。
「観鈴のところに行ってくる」
力強く、往人は宣言した。
星たちのもとで、堂々と立ち上がった往人に、もう迷いはなかった。
その両側に立つ二人の少女。彼女たちにも勿論、迷いはない。
往人の右手を、佳乃の両腕が包む。
往人の左手を、美凪の両腕が包む。
二人の女の子の体温を感じながら、往人は人形にではなく、天空に意識を送り込む。
往人の中で、何かが弾けた。
夜の海岸が、一瞬だけ光り輝いた。
足場のない不安定な場所で、二人の少女が向かい合っていた。
突然に現れた相手に驚きを隠せずにいる片方の少女は、長い髪を左右両側で束ね、和服に身を包んでいた。
もう片方の少女は、やはり二つの場所で髪を留めていたが、和装の少女よりもひとまわり以上幼く見える。
幼い方の少女は、みちるだった。
ここがどのような場所であるのかは知らなかったが、自分や親友が長い間持っていた悲しみの生まれた根元のような場所であることを悟っていた。
目の前の少女は、まだ悲しみを発し続けている。いや、この少女の存在自身が悲しみといってもよいだろう。それほどの悲しみとは、一体どこから生まれてきたのだろうか。
「そなたは何者じゃ?」
和装の女の子が問いかける。みちるが現れたことに対する疑問が、その表情から悲しみを一時的に除いている。音楽的な美しい声は、少女の高貴さを感じさせる。おそらく、美しい少女なのでもあろう。
「うにゅ、わたしの名前を聞いてる?」
「そうだ」
「みちる」
簡潔に答える。
「そなたはみちると申すのか。で、そのみちるは何のためにここに来たのだ?」
「そんなの、わからないよ。気が付いたらここにいたんだから」
「ふむ。だが、余人はこの場所を知ることすら出来ないはず」
「ふにゃ。難しいことはよくわからない」
幼さの残るその受け答えは、ずっとここに居続ける少女……、神奈の頑なさを多少なりとも和らげてくれたようでもある。
「変わった奴だな、おぬしは」
そこに、神奈はかつて同じ時間を過ごしたある人間の面影を見る。とたんに、意識から外していた悲しみが心の中に流れ込んでくる。
「みちるは名乗ったよ、あなたの名前も教えてよ」
「余の、名か?」
「そう」
「神奈という」
「ふむふむ、なるほど、神奈というんだ」
大げさに頷いて、みちるがその名前を反芻する。
改めてみちるが神奈の姿に目を向ける。これまで気が付かなかったが、神奈は普通の人間とは大きく違っているところがあった。背中に、鳥のような白い翼が付いているのだ。
そして、その翼を使うことなく、半ば浮かぶような状態でみちるの方を見つめている。
「みちるとやら、そなたは一体どのようにしてここにやってきたのだ?」
神奈が問いかける。ここは孤独な場所のはずである。実際、相当に長い時間を神奈はこの場所で過ごしてきたが、誰かが来たという経験はない。
「うーん、わからない。みちるは、自分の使命があるからって親友のところから駆け出してきたんだけど、無我夢中で走って、気が付いたらここに来てたみたいなんだ」
「ほう……」
「でも、どうしてここに来たのか、分かったような気がするよ」
「……」
「ここはたぶん、みちるの故郷なんだね」
「故郷?」
多くを知っているはずの神奈が問いかける番だった。
自分が、この世界に対してどのようなものをこれまでに生みだしてきたのか、神奈は知らずに過ごしてきたのだ。
「神奈って、とても悲しそうな顔をしてる」
「……」
「たぶん、笑えば美凪よりもずっと綺麗な人に見えるのにね」
「美凪?」
「うん、美凪はみちるの親友」
「ほう、親友とな」
「みちるはね、美凪を悲しみから救うために生まれてきた存在。その悲しみっていうのは、たぶんここから生まれて、悲しみを救うみちるもここから生まれていったんだと思う」
みちるがそう語っているとき、神奈の翼から一枚の羽根が剥がれ落ちた。
陽光を受けて僅かに輝くようにも見えたその羽根は、ゆっくりと下の方へ落ちていく。
だが、みちるの視界の中にあるうちに、その羽根が突然消えてしまった。
「みちるは、なんのためにここに戻ってきたと思う?」
「……」
「神奈は、たぶん、昔にとっても大きな悲しみを経験したんだと思う」
「……確かに、その通りだ」
自分の目の前で、大切に思っていた人を失う苦しみ。翼人と人間という枠組みを越えて、自分を愛してくれた人……。その人が傷つき、倒れる姿がいつも神奈の意識の中で像を成している。
「神奈は、その人が死んだって思ってる。でも、本当はそうじゃないんだよ」
「柳也どのが……、死んでいない?」
「うん。その人の残したものは、その時から今までずっと受け継がれてきてる。みちるも、その中から生まれてきた存在なんだね」
「それは、どういう意味だ?」
そう問いかける神奈に、みちるは首を横に振るだけで答えようとしなかった。
みちるは、悲しみの中から生まれてきた存在だった。
神奈の思い人だった柳也は、多くのものをこの世界に残した。空で悲しみ続けている神奈に対する絶望。未だ叶えられない開放を願って、自分の気持ちと力を託した後継者。そこから広がっていく、多くの末裔。
神奈と柳也の残した末裔たちが、千年の時を隔てて、再び一同に会そうとしていた。神奈が空で司っていたのは、悲しみ。その悲しみを受けた人間達は、どの時代にも存在していた。大切な夫を失うということ、自分の産んだ子を手に掛けなくてはならないということ、生まれてくるはずの命をその寸前で失うということ……。
だが、同時に彼らは幸せを願っていた。悲しみの中にいるからこそ、求めてやまない幸せ。それは、必ずしも望み通りに得られるものではなかったが、そこに向かって歩んでいくということは決して無意味ではない。
そんな多くの人たちの願いが、実を結ぼうとしていた。
その先遣としてやってきたのが、みちるではないのだろうか。
「みちるは、神奈に懐かしさを感じたよ」
「余に……」
「神奈の姿を見たとき、みちるは『ここから生まれたんだな』って感じた」
「……」
「どうしてだと思う?」
神奈がこの場所で持ち続けてきたのは、底のない深い悲しみだった。しかし同時に、自分をその悲しみから救ってくれる存在を求めて続けるということでもあったのだ。その中で、悲しみ自体を再生産していたのだとして……。
「余がそなたたちまで苦しめていたというのか」
「でも、ずっと苦しむために生まれてきたんじゃないんだよ」
神奈の末裔が悲しみを受けていたということは、自分自身に起因するのか。
神奈はそれをようやく悟った。その中から、みちるのような存在が生まれたことは、悲しいが決して永遠のものではないことを示していることにはならないか。
そして、その開放の時はすぐそばまでやってきている。
みちるが静かに言った。
「苦しくても、大切な人に見守られてそれを乗り越えようとする人がいるから」
「ほら、来たみたい」
みちるが視線を向けた先に、おぼろげに人の姿のようなものが現れた。
それは、ゆっくりとこちらの方に近づいてくる。女の子のようだ。
そして、その女の子を追いかけるかのように、もう一人の人間が姿を現す。
神奈の、そして柳也の末裔達が一堂に会する。今、ここにいない人も含めて。
「あっ……」
神奈とみちるを見た観鈴が、声を漏らす。
ようやく、目的地にたどり着いたのだ。
「そなたは……?」
「観鈴。やっぱり、いたんだね」
「やっぱりとは?」
「わたし、ずっと、もう一人の自分がどこかにいるような気がしてたの。その人に会いたいなぁってずっと思ってたんだけど、やっぱり会えたみたい」
「もう一人の、自分とな」
「うん。でも、どうしてかな。やっと会えたっていうのに、あんまり嬉しくないの。どうしてかな……」
「ほんとに、どうしてなんだろう……」
こみ上げてくるものを抑えきれずに、観鈴は泣き出した。もし、自分を冷静に観察できる観鈴がいれば、初対面の人間に対して何故いきなり癇癪を起こすのかを不思議に思うであろう。
だが、それはある意味では当然のことであった。神奈が、観鈴のいう「もう一人の自分」であるのだとすれば、最も観鈴に近い存在であるということに他ならないのだから。
みちるが、観鈴のそばに駆け寄り、そっと肩に手を置いた。観鈴はそれを振り払うことはしなかったが、泣きやむこともなかった。その泣き声に、神奈は心の奥を揺さぶられる。
自分も、あの時こうして泣いていなかったか……。
過去の記憶が蘇る。炎上する山、飛び交う矢。そんな中で、空に飛び立った自分。そこからの孤独。
自分に翼があることが恨めしかった。
「泣きやむがよい……」
神奈は観鈴に言ったが、観鈴は激しく首を横に振るだけだった。
そういった拒絶を前にして、神奈は自分の取るべき行動を決められずにいた。同時に、そのような困惑を、自分も発していたのではないかという事実に気が付く。
そういった意味で、確かにこの女の子の言うとおり、神奈と観鈴はお互い「もう一人の自分」というべき関係にあるのではないだろうか。
悲しみが大きく揺らごうとしていた。
神奈が絶対視していた悲しみが、崩れ始めていることに気付く。その悲しみは無意味なものでは決してない。だが、そのために多くのものを閉ざしていることの愚に、神奈は気付こうとしていた。
同時に、自分の世界を失う恐怖も感じている。神奈が観鈴の嗚咽を止められない理由はそのような躊躇の中にあるといってもよい。
そんな神奈を動かす、最後の存在が現れた。
「ようやく会えたようだな」
男の声だった。神奈の中から忘れたことのない声とうり二つだった。
「りゅ……」
その声は途中で止まった。容姿にしろ服装にしろ、そこに立っている男は柳也とは似ても似つかぬものだったからである。
柳也でないことは明らかであったのに、自分に近しいという確信がはっきりと得られていた。それに対する驚きも、途中まで出かかった言葉を止める役割を果たした。
更に驚くことに、この男が現れた瞬間、全く止まる気配のなかった観鈴の泣き声が止んだ。
涙目の顔を起こした観鈴。
見上げたところに、観鈴の大切な人がいた。
「えっ、往人さん……」
「観鈴には言ってなかったかもしれないな。俺は、空のどこかで自分を待っている少女というのを、ずっと探し続けていたんだ。その少女が、観鈴の言う『もう一人の自分』だということは考えもしなかったけどな」
「そなたは、柳也どのの末裔なのか?」
「柳也?」
「余の、大切な人間だ。彼に助けられて、余はここで生きている。だが、彼を犠牲にしてまで余は生き延びたくはなかった!」
「やはり、お前さんはなにか勘違いしているようだな」
「余が、間違っているというのか」
「そうだ。実にいろいろな意味でだ。ずっと分からずにいたものがようやく理解出来たよ」
そう言って、往人が頬を緩めた。その表情が、神奈には柳也のそれと重なって見えた。
それと同時に、往人の中に柳也の記憶が流れ込んだ。神奈と過ごした柳也の気持ちはどのようなものであっただろうか。最後に、神奈を救った時の気持ちは。
「えっと、お前さん……」
「神奈だ」
「そうか、神奈という名前か。じゃあ、神奈、お前は知っているか。その柳也という人間はあの時に死ななかったということを」
「何を申すか。あの状況の中でそんなことがあるはずがない」
神奈は自分をお前呼ばわりされたことがなかった。その事実と、新たに告げられた事実が、神奈を混乱させると同時に憤らせてもいた。同時に、恐れもあったのだ。
「お前は自分の随身を信じられないのか?確かに、柳也は大けがをした。その傷が原因で、長生きは出来なかった」
「……」
「だが、ずっと神奈の幸せを願い続けていたんだぞ」
「そんな……。柳也どのが生きていたという証拠でもあるのか」
「ある」
往人がはっきりと言った。神奈が驚きの表情を見せる。二人の様子を見守っている観鈴とみちるも、固唾をのんでそのやりとりを眺めている。
「それは……」
「この俺がここにいるということだ。柳也は子供を残した。その末裔が俺たちだ」
「俺たち?」
複数形であるということに観鈴が気が付き、疑問の声を発した。
それに答えるべく、往人が観鈴の方を向いて言う。
「そう、俺だけではない。柳也と、神奈の意思を受け継いでいるものがいる。観鈴、美凪、佳乃……。他にもいるのかもしれないけど」
「えっ、わたしたち?」
「美凪も?」
「ああ。柳也は、神奈を悲しみから救い出そうとずっと思っていたはずだ。柳也の子は不思議な力を持ち、それは後の代にまで伝えられた。今は、俺がその力を持っている」
「余を、悲しみから……」
「そういう意味で、柳也と神奈の子供というべき存在が、この世界にはいるといってよいのだろう」
「子供……」
「だが、神奈はここでずっと悲しみの世界に身を置いていた。だから、同時に二人はこの世界に数知れぬほどの悲しみを生んでしまった」
「それは……」
「その悲しみも受け継がれてきたんだ。俺があの町で出会ったのは、そんな悲しみの中にいる少女たちだった。それが、観鈴であり、美凪であり、佳乃だ」
「みちるも、そんな中から生まれたんだよ」
神奈に対してみちるが言った言葉の意味が分かった。
「みんな、友だちや家族を求めていた。それは何故だと思う?」
「共に暮らしたいから……か」
「その通りだ」
「ある意味で、お前は壮大な勘違いをしていたんだ。お前がその羽根に託すべきなのは、悲しみではない」
「うっ……」
「そうだよ、神奈さん」
観鈴が、神奈の手を取った。これまで離ればなれになっていたものが再会し、お互いの中にある悲しみを溶解させる。
観鈴が笑った。
同時に、神奈も笑った。
自分が久しぶりに笑顔になったということを自覚する。同時に、いつも制約の中にいた自分に笑顔をくれた人間のことを思い出す。
観鈴が手を放すと同時に、神奈の二つの目に涙が浮かんできた。
往人は、静かにそれを眺めている。そして、そっと頷いた。
それを合図にするかのように、涙が溢れて来た。
頬を伝わった涙が落ち、ちょうど風に流されていた背中の羽根に吸い込まれた。
羽根が、光ったように見えた。
この涙は、もはや悲しみとは違う別のものだった。
同時にその涙が、羽根の司るものを悲しみとは別のものに変えていく。
「往人さん……」
涙を流す神奈を見ながら、観鈴が言った。
「俺の力は、このように使うためにあったみたいだな。ようやく、見つけることが出来たよ。観鈴のおかげだ」
「往人さんが来てくれて嬉しかった」
「そうか」
「国崎往人、決めてくれるねぇ」
みちるが言った。
「いや、お前の役割も大したもんだろう。ここに来ることが出来たのは俺一人の力じゃない。佳乃や、美凪の力も借りたんだ」
「美凪、元気にしてる?」
「ああ、勿論だ」
だからこそ、往人はここに来ることが出来たのだ。
過去から引き継がれてきた悲しみが、自分自身の呪縛から逃れたとき、大きな力を往人にもたらしてくれた。
それが、天空の守護者を長い縛めから開放することとなった。
多くの時間を要したかもしれない。
無用な悲しみもあったのだろう。
だが今、それらの悲しみは多くの幸せを取り戻しながら消えていく。
新しい空が、世界を見守っていた。
その世界の中に自分たちはいる。
天空の守護者は、今は悲しみではなく幸せを司っていた。
往人がこの世界に戻ってきた。
既に、東の空は明るくなっていた。手を取り合うようにして砂浜に並んで座っていた美凪と佳乃は、最後の星の光と共に往人の帰還を感じ取った。
「ぴこっ」
最初に気付いたのはポテトだった。
その声に佳乃と美凪が振り向くと、無表情の往人が立っているのが見えた。
「往人くん」
「……」
「国崎さん……」
「……」
声を掛けても反応がないので心配した二人だったが、もう一度呼びかけようとしたときに眠りから覚めたように意識を取り戻した。
「おっ、美凪に佳乃」
「戻ってきたんだね」
「当たり前だろ」
「向こうは、どうでしたか?」
「まあ、いろいろあったな。一言では話しきれない」
「神尾さんには会えたの?」
「ああ。佳乃や美凪のことも話しておいたぞ」
「そうですか。神尾さんはご一緒ではないのですか?」
「うーん、そうみたいだな。だけど、そんな気はしていたから心配要らない」
「えーっ、神尾さんがいないとかのりんは寂しいよ」
「私もです」
「いや、あいつが消えてしまったということじゃないから安心してくれ。そうだな、向こうの話でもしようか」
往人が砂浜に座った。ちょうど、観鈴と最後に話をした場所である。
その往人に向き合うように、美凪と佳乃が腰を下ろす。
「そもそも、観鈴の持ってたあの悲しみというのはだな……」
朝日が海を照らし、波がその光を受けて輝いていた。
そういった光は、未来への希望を感じさせる。
一日の始まり。その中で、美凪と佳乃は自分たちの取り戻した幸せが、更に多くのものをもたらしたのだということを知った。
それから数日後。
相変わらずの暑さだった。この町の夏はまだまだ終わらないだろう。
そのような中、もう使われなくなった駅に三人は来ていた。旅立ちを見送ろうとする美凪と佳乃を連れて往人がやってきたのは、この場所だった。
「どうしてここに?」
美凪が尋ねる。ここは美凪にとっても様々な思い出のある場所である。
「いや、なんとなくだ。旅立ちといえばやはり駅だろう。バス停なんかでは荷が重すぎる」
「でも、ここにはもう電車はこないよぉ」
「ああ、それは分かってる。でも、気分の問題だろう。結局、この町ではバス代も稼げなかったが、俺はここから観鈴を捜しに旅立とうと思う」
「はい、お見送りします。でもその前に、私がとっておきの場所を教えてあげますね」
そう言って美凪は、使われなくなった駅舎からホームに出て、線路のあった場所を歩き始める。
「うん?」
不思議そうな顔をしている佳乃。そんな美凪の後に続き、往人と佳乃は駅から歩き始めた。
かつて線路が通っていた地面に、雑草が無造作に生えていた。だが、それを除けば、かつて列車が走っていたことが確かな事実にも思えてくる。先の方まで、このもと線路は続いているのだろうか。そして、三人はやがて見晴らしのよい築堤に出る。
そこからは、この町の様子を文字通り一望することが出来た。
町を突き抜ける国道。聖に会い、みちるに人形芸を見せた商店街。観鈴に美凪、そして佳乃の通う学校。初めて観鈴と言葉を交わした堤防。天体観測をした海岸……。観鈴の住んでいた家も、小さく認めることが出来る。
「ここです。景色が素晴らしいでしょう?」
「絶景だねぇ……」
佳乃が両手を空に向かって伸ばしながら言った。佳乃の笑顔が、夏の太陽のもとで輝いて見えた。
「そうだな。この風景、よく覚えておこう」
「神尾さんは、どこにいるのでしょうか?」
往人の傍らで、美凪が静かにそんなことを言った。
「わからんな。全く手がかりはないんだから」
「そうですか……」
「でも、俺は観鈴を見つけられる日はそう遠くないような気がするんだ」
「そうなんですか?」
「ああ」
「往人くん、早く戻ってきてね」
二人の話を聞いていたのか、佳乃がそんな元気な声を掛けてきた。
美凪と佳乃、いろいろな意味で対照的な女の子だった。だが、そんな彼女たちの魅力も突き詰めていけば同じ場所にあるのだろう。
「そうだな」
ここをかつて通った列車は、この町から、もしくはこの町に多くの人を運んだだろう。そして、同時にそんな人たちの様々な気持ちを運んだに違いない。
言うなれば、多くの人たちの心が駆け抜けていった場所だ。
心地よい風が吹き抜けた。
美凪の長い黒髪と、佳乃の短い髪を揺らした。
「往人くん、握手しよう?」
佳乃が往人に笑顔を向けて言った。
「ああ」
往人が佳乃の手を取った。
「私も加えてください」
そう言いながら、美凪がその上に自分の手を重ねた。
夏の日差しのもとであったから、少し汗ばんでいた。
だが、それはお互いの存在の証でもある。
美凪と佳乃の肩をそれぞれ叩き、往人は置いてあった荷物を肩に掛けた。
「じゃあ、行ってくる」
「はい」
二人の女の子に見送られて、往人はこの町を後にした。
もう一人の、大切な女の子を捜すために。
往人は、顔を上げ、天空に目を向けた。
この大空のもとには、必ず幸せがある。
そう確信しながら。