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第3章 母

観鈴は、ひとりぼっちではなかった。

まだ、心のどこかに心配や寂しさ、空虚というものは存在していたが、この特別な夏は、確実に観鈴を変えていた。

観鈴の欲しかった友だち、大切な人……。そんな存在はすぐに手の届くところまでやってきていた。

だが、その僅かな距離を、まだなくすことはできなかった。

この夏、この町で出会った一人の男が、観鈴やその周りにいる人間たちを大きく動かそうとしていた。

往人自身も含めて、まだ自分たちがその中でどんな役割を果たすのかは分かっていない。

目を閉じたまま、見知らぬ土地を歩くようなものであった。どこに何があるのか、足を踏み出すと何が待っているのかは分からない。

だが、進むことに躊躇はなくなっていた。

今までは、自分の持っていた、決められた世界の中にとどまっているだけだった。

だが、世界は空を通じて無限に広がっている。閉じた世界の中には悲しみしかなかったとしても、空の向こうにある幸せを求めて飛び立てばよい。

そんな勇気を、往人は与えてくれたのではないだろうか。

表向きは今までと変わらないとしても、変化は既に訪れていた。

その変化は、時として快いものではないにしても。

「七回の裏の攻撃、千載一遇のチャンスです」

「一打出れば逆転。やる気十分で次の打者……」

食事を終えた後、往人は居間に寝転がってテレビを見ていた。

別に野球を見たかったというわけではなかった。つけたチャンネルでやっていただけのことだ。他のチャンネルは、面白くもないドキュメンタリーとか、途中から見ても内容の分からないドラマをやっているだけである。

テーブルに置いてある麦茶のコップに手を伸ばそうとしたとき、往人は観鈴の手に触れた。

それと同時に、目を向けていたテレビの画面が消えた。

「あれ?」

体を起こした往人を覗き込むようにしながら、観鈴が隣に座った。

「往人さん」

「なんだ?」

観鈴の手に持っているものに気が付いて、半ば諦めたように返事をする。

「遊ぼ?」

「またそれか?」

「うん、トランプ」

嬉しそうにして、手に持った小さな箱を軽く振ってみせた。

「俺は忙しいんだ」

「でも、往人さん、寝ころんでテレビ見てるだけ」

「テレビ見ながら、今後の生活について考えていたんだ」

「今後の生活?」

少し寂しそうに、観鈴が往人を見つめた。

「新しい人形芸の開発だ」

「じゃあ、まだここにはいてくれるんだね」

「ああ。何しろ、全然稼げないからな……」

もはや、この町で路銀を稼ぎ出すことは諦めていた。そうなれば、人形使いとしてのプライドに関わることではあるが、他の手段でお金を稼ぎ出すか、歩いて次の町に向かうかするしかない。

だが、今の往人には、そうするつもりもなかった。

ずっとこの町に留まり続けるつもりもなかったが、逃げ出すようにこの町を後にはしたくない。そんな考えが往人の中にあった。

逃げ出すって、何から逃げるんだ……?

ふと往人はそう思ったが、答えは浮かび上がらなかった。この町で出会った何人かの少女。漠然とはしているが、彼女たちが自分をここにつなぎ止めているような気もする。

何もないようで、いろいろなことが起きているのだ。

今も例外ではない。

「往人さん、行っちゃいやだな……」

そんな観鈴の視線に、往人は抗いがたいものを感じる。

「どっちしても、しばらくは無理そうだから安心しろ。だけど、いつまでもこの家に居候するわけにもいかんよな……」

晴子には、観鈴のお目付役をいいつかっているが、このまま居続けていていいというものでもあるまい。

「観鈴ちんなら大丈夫。お母さんも反対してないし」

観鈴と晴子の間には、複雑な事情がありそうだ。そこまで踏み込む権利は自分にはないと判断した。

「そうだな」

「だから、トランプしよ」

「他のゲームにしないか?ほら、例のあれ」

「うん、わかった。でもその次は観鈴ちんとトランプ」

「そうだな、その辺が落としどころか」

観鈴がパタパタと部屋に駆けていき、小箱を持って戻ってくる。

中から正方形のタイルを取りだし、よく混ぜてから山を作った。

「じゃ、観鈴ちんから」

一枚引き、絵柄がつながるように置いていく。

「この子は、ここ」

そして、人の形をした木のコマを、道の絵が描いてある部分に置く。

「次は俺の番だな……。おしっ」

往人も、絵が続くようにタイルを並べる。

「ここに町を作るか」

「今度は観鈴ちんの番だね」

観鈴が新しくタイルを引く。

こうしている時の観鈴は、本当に楽しそうに見える。

脇に置いてあるコップの麦茶を飲みながら、そんな観鈴を往人は観察する。

観鈴は、往人にとってどういう存在なのだろうか。ある種の曖昧さの中を、往人は泳いでいるかのようだった。

ゲームを進めながら、往人はそんなことを考えてみる。

観鈴にとって、往人は友だちらしい。往人にとってはどうだろうか。少なくとも食事と宿を与えてくれるだけの存在ではない。だからといって、その先に踏み出すということは考えたことはなかった。

娘か妹か……、そういうものとも違う。そういった括りとは全く別次元のところに答えがあるということを知るのに、まだ少しの時間を必要としていた。

「にははっ、観鈴ちん、勝利」

観鈴がガッツポーズをしてみせた。

「初勝利だな」

「うん、観鈴ちん、頑張った」

このゲームで初めて勝った観鈴は、素直に喜びを表現していた。

前半で多少、手抜きをした往人だったが、後半にきちんと挽回できると思っていた。

だが、思いのほかタイルの引きが悪く、結局、観鈴にリードされたままゲームが終了してしまった。

「今度ばかりはやられたな」

たかがゲームといえ、やはり負けると悔しい。

だが、これで観鈴が満足してくれれば、今日は思いのほか早く開放されるかもしれない。

しかし、そんな目論見はもろくも崩れ去った。

「今度はこっち」

観鈴がトランプを取りだした。

「ちっ、覚えてたか……」

「うん、約束だから」

「で、今日は何をやるんだ?」

「神経衰弱」

そう言いながら、既に観鈴はカードを床に並べ始めている。

その時だった。

観鈴の手が突然、止まった。

「どうした?」

また癇癪を起こしたのかと、一瞬、往人は不安になった。

だが、そうではないようだった。観鈴の顔色が急速に悪くなる。

「おい、観鈴っ!」

「ゆ、往人さん……。痛いの……」

「どうしたんだ、どこが痛いんだ?」

「せ、背中……。羽根が痛いの」

「なんだって?はね、ってなんだ?」

手から落ちたトランプの札が無規則に散らばる。

観鈴の手は、痛みを感じる場所を求めるが、そこに届くことがない。

背中に伸ばそうとする手が、震えながら宙をさまよっている。

「往人さん……、わたしの羽根……」

痛みのあまり、正常な判断が出来ずにいるのかもしれない。いずれにしても、観鈴の痛みは、背中のあたりから発しているのは間違いなさそうである。

往人は急いで観鈴の隣に来て、代わりに背中に手を当てた。

「往人さん、痛い……」

苦悶の表情が浮かんでいる。外傷はないようだ。自分が触れたことが、観鈴の痛みを増大させているということもないようである。

「しっかりしろ!」

そう励ますことしか出来なかった。往人にはどうすることも出来なかったといってよい。今の今まで、楽しそうに遊んでいた観鈴に、いったい何が起きたのだろうか。予兆のようなものも全くなかった。

背中を丸めてうずくまる観鈴。

「非常事態だ、許せよ」

往人はそう言いながら、観鈴のブラウスのボタンを外した。

背中を刺激しないようにしながら、慎重にピンクのブラウスを脱がせる。

シンプルな白いブラジャーが見えたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。更に気を付けて、背中のホックを外す。観鈴の滑らかな肌が露わになる。

「少しは楽になったか?」

俯いたままの観鈴の手を取って、往人はそう声を掛けた。

だが、観鈴は首を大きく横に振るだけだった。

痛みは軽減しないようだ。往人は改めて観鈴の背中を見たが、やはり、そこには傷のようなものは全く見られなかった。

「何か、薬とかは置いてないのか?」

痛み止めでも飲ませて落ち着かせようと考えた往人だったが、観鈴は同じように首を振るだけである。理由の分からない痛みであっても、そのような薬の類が効かないということだけは本能的に分かっているようである。

「困ったな、どうしたらいいんだ……」

いつまでも観鈴を裸のままにしておくわけにもいかず、ひとまずブラウスだけを着せなおした。

今の往人には、観鈴の手を握って安心させてやることくらいしかできない。

ぎゅっと往人の手を握り返す観鈴。これほどの痛みの中でも、泣いているようではなかった。そこに、一点だけ安心を見いだした。

「そうだ、あいつに診てもらえないか?」

途方に暮れた往人の脳裏に、一人の人物の顔が浮かんだ。

一応、人形芸の場所を提供してくれている、霧島診療所の女医の顔である。

「確か、聖とかいったな。この時間でも大丈夫だろうか」

背中に気を付けながら、まだ苦しんでいる観鈴を背負うと、往人は診療所に向かって走り始めた。

「どうしたんだ、国崎くん、こんな時間に」

勢いよくカーテンの閉まった診療所の入り口から、聖が顔をのぞかせた。

まだ白衣は着たままで、その下に大阪の名所の名前の書かれたTシャツを着ているのもいつも通りである。

「急患だ、診てくれないか」

普段は冗談交じりで話をしている往人と聖だったが、往人の背負っている観鈴の方を見た聖は、瞬時に本職の医者の表情になる。

「わかった。早く診察室に運んでくれ」

「助かる」

診療所の中に入ると、奥の方から微かによい匂いが伝わってきた。食事を終えているのでそれほど空腹ではない往人だったが、それでも食欲を司る中枢を刺激される。霧島家では、食事中だったのだろうか。

「悪いな、食事中に」

往人の先を歩く聖に、背中から声を掛けた。

「気にすることはない。時にはそういうことだってある。病は人の都合など考えてはくれないものだ」

「そうだな……」

都合通りにかかる病気なんてあるはずはない。

診察室に入った聖が、壁際にあるスイッチを押す。ぴかっと光り、部屋の中が明るくなる。まだ痛そうにしている観鈴の表情が、にわかに明瞭に照らし出される。

「とにかく、そこに寝かせるんだ」

「わかった」

白いシーツの敷かれた、病院特有の固いベッドに観鈴を寝かせた往人は、その場所を聖に譲る。手を洗った聖が、慎重に観鈴の様子を観察する。

もう声を出してはいなかったが、観鈴の背中はまだ痛むようだ。

「どういう状態なんだ?」

聖が往人に聞いた。

「急に背中が痛み出したみたいなんだ。俺がさすってやろうとして、ちょっと触っただけでも耐えられないらしい」

「原因に心当たりはないのか?」

「全くない。今までに予兆みたいなものはなかったし、観鈴とは一緒に飯を食べていたから、それが原因とも思えない」

「そうか。ちょっと診てみる」

聖はブラウスのボタンを外し、ゆっくりと脱がせながら、観鈴をうつぶせにして背中の様子を見た。傷があるとか、みみず腫れが出来ているということはない。逆に、思わず見とれてしまうような滑らかな肌があるだけだ。

聖は慎重に、背中の真ん中に手を触れた。

「っ……」

観鈴の顔が歪んだ。

傷口に触れられた時のような、鋭い痛みが観鈴の体を突き抜けたらしい。

「このあたりか。外傷は全くないようだが……」

「ああ、俺にもよく分からない」

「傷でないとすると、こういう痛がり方はしないのだがな」

内臓が直接痛むのなら、もっとうずくような痛みになるはずだ、聖はそう言っている。

「内出血もないようだし、どうにも解せない……」

聖の医師としての腕前は往人には分からなかったが、不思議と往人には失望のようなものはなかった。

「ひとまずは、痛みを抑えないことにはどうしようもないのだが……」

「素人考えだが、普通の薬じゃ効かないような気がするんだ」

「だが、このまま放置しておくわけにもいくまい」

苦痛に歪んでいる観鈴の表情を見て、往人はいたたまれなくなっていた。聖の方は、さすがに冷静ではある。

その時、診察室のドアが開いた。

観鈴の方に完全に意識が行っていた二人が、驚いてそちらに目を向ける。

「お姉ちゃん、急患さん?」

私服姿の佳乃が立っていた。事情を知らない佳乃の笑顔が、この場合は若干救いに思えた。

「ああ、そうだ。悪いな、食事の途中で」

「ううん、いいんだよぉ。あっ、往人くんだ」

佳乃が往人に気付いたようだ。自分の名前を呼ばれて、心当たりを探した往人が、数瞬の後に、海辺で会った人なつっこい少女のことを思い出す。

「あっ、お前は?」

「なんだ、佳乃とは知り合いだったのか」

「知り合いというか、会ったことがあるという程度なんだが」

「どうしたの、往人くん?」

「見ての通りだ。俺の厄介になっている家の子が、急病になってな。医者はここしか知らないから慌てて連れてきたというわけだ」

「うん、この町ではお医者さんはお姉ちゃんだけだよ」

「そうなのか……」

「診察中だ。佳乃は部屋に戻っていなさい」

「うん……。あれっ?」

「どうしたんだ」

「患者さんって、観鈴さんだったんだぁ」

「なんだ、観鈴と知り合いなのか?」

「うん、同じ学校だよ。それで、かのりんのお友だちさん」

「そうか」

佳乃が、心配と興味を同居させながら診察室に入ってきた。

聖が制止する前に、佳乃は観鈴のところまでやってきた。

まだ痛がっている観鈴を安心させるかのように、佳乃はそっとその髪に触れた。

その瞬間だった。

佳乃の体の中に、何か衝撃のようなものが走った。

その正体は分からない。一瞬のものだったので、例えば冷たいコップに触れたときのような、ちょっとした刺激のようにも思えた。

驚いて佳乃は、観鈴の顔を覗き込む。

気のせいだろうか、観鈴の苦悶の表情が僅かながら薄れたような気がした。

「観鈴さん、大丈夫かなぁ……」

「佳乃、診察の邪魔をしてはいかん」

「そうだ。ここは聖に任せないとな」

往人が同調する。聖の方は、純粋に佳乃を心配しているようである。原因が分からないうえに、観鈴は病人である可能性が高い。

「うん。だけど……」

「どうした?」

「ううん、なんでもない」

珍しく姉の言葉に反論しようとした佳乃に、そう問いかけた聖だったが、佳乃の答えは、明瞭ではなかった。

観鈴に触った瞬間、佳乃が感じたものがあった。もやに包まれたような感じで、それが何であるのかは佳乃にも分からなかった。だから、答えようがなかったのだ。

しかし、佳乃の中で何かが警戒の声を発していた。

佳乃自身も気付いていないのだが、佳乃の持っている心の深奥にある感情が、観鈴に触れることにより反応を示したのだった。

そして、その反応は、往人という存在を触媒にして起きたものだった。

正体は分からないながらも、佳乃の中に存在しているその過去の記憶が、佳乃に助言を与えていた。

今は、往人を観鈴のそばにおいておくべきではない、と。

理由は分からなかった。だが、急に頭の中にわき起こったその指摘を、佳乃は直感的に真実だと判断した。

確かに、観鈴の痛みは往人のいる前で起き、往人のそばにいる間、ずっと痛み続けている。

佳乃は、急に悲しい気持ちになった。

観鈴の悲しみが伝わってくるような、佳乃自身の中にある悲しみが引っ張り出されるような不思議な感覚であり、その感覚は、この場所に居続けることを望んでいなかった。

「そうだ、往人くん。かのりんとお散歩に行こう?」

佳乃が、唐突にそんな提案をした。

「おい、なにのんきなことを……」

往人が呆れたような表情で言う。

「いや、その方がいいかもしれない」

だが、予想に反して、聖も佳乃の提案に賛成した。

「この子……、神尾さんが落ち着くにはもう少し時間がかかりそうだ。ひとまず、副作用の少ない薬を少しだけ与えて様子をみる」

「……」

「ここからは私の領域だ。国崎くんは少し心を落ち着けてきた方がいい」

「そうか……」

確かに、今の往人自身に出来ることは何もなさそうである。

「そういうわけで、往人くん。出発〜」

佳乃が往人の手を取った。そのまま引っ張られるようにして、診療所を後にする。

外は蒸し暑かった。空には星が輝いている。昼間と比べたら、だいぶ暑さはやわらいでいたが、それでも夏の夜特有のけだるさがこの町を支配している。

「散歩と言っても、どこに行くんだ?」

佳乃に手を引かれながら、往人は歩いていた。

観鈴、美凪、そして佳乃。この町に来て、ちょっと風変わりな少女に立て続けに出会った往人。

半ば惰性でこの町に留まり続けているが、それには何か理由があるのだろうか。

笑顔を見せている佳乃の横顔を見ながら、往人は漠然とそんなことを考えていた。

往人の中にも、ある種の予感のようなものはあった。この町では、何か特別なことが起きるのではないかと。

そういえば、今はもういない、往人の母親が、自分の持っている不思議な力の使い方を教えてくれたのも、こんな夏の日のことだったような気がする。

夏には、何か特別なものがあるのだろうか。

星空を見上げて、往人がそんなことを思う。

「お星様がきれいだねぇ」

そんな往人に気が付いた佳乃が言った。

「そうだな……」

「そうだ、往人くんをとっておきの場所に案内するね」

「うん?」

「こっちだよ。れっつ、ごー」

佳乃が歩幅を大きくして勢いよく歩いていく。

「じゃあ、案内してもらうか」

「うんっ」

今は、観鈴のことは少しだけ忘れておいたほうがいい。それが、ひょっとしたら気を遣ってくれたかもしれない佳乃に報いることにもなるだろう。

往人は、元気な佳乃の後ろ姿を見つめながら、そんな風に考えることにした。

「往人くん、置いてっちゃうよ」

振り向いた佳乃は、元気そのものに見えた。


「ほら、お星様がいっぱいだよぉ」

「ほう、これはすごいな……」

往人は素直に感嘆した。

旅の中で野宿を強いられることも何度もあったが、考えてみればこうやって星空を眺めたことは、久しくなかったような気がする。

「時々、あたしはここに来るんだよ」

町中から、田圃沿いの道を少し歩いたところにある、橋のたもとだった。小さな川が、涼しげな音をたてて流れている。

町の中よりも涼しく感じられるのは、この水のおかげだろう。

ほとんど人工の明かりもなく、佳乃の言うように満天の星空が空に広がっている。

「夏、だな……」

「そうだねぇ。あたしは、夏が好きだよ」

「そうか……」

「往人くんは?」

「まあ、冬よりは夏の方がいいな。泊まるところにも困らない」

冬にはそう簡単に野宿は出来ない。

「往人くんは、観鈴さんのところにいるんだよね」

「ああ」

「往人くんは、ずっと旅をしてる旅人さん?」

「そういうことになるな」

「一人で旅してるんだよね」

「ああ。昔は母親に連れられてたんだけどな」

「お母さん……?」

往人は再び母親の顔を思い出した。ある日突然現れて、自分を連れて回り、この力の使い方を教えてくれた母親。果たして、往人にとっては母とはどんな存在だったのだろうか。

「……」

そんなことを思い出しながら、往人は星空を見上げていた。佳乃はそれ以上問いかけることなく、往人に並んで同じ天空を見つめている。

星の明かりに照らされた佳乃の横顔が神秘的に見えた。普段の、子供っぽさといったものが隠されて、夜という陰が佳乃のもつ女性らしさを感じさせるようにも思える。

時々周りから聞こえる、蛙の鳴き声が、かえって静寂を強調していた。

そんな中、呟くように佳乃がこんなことを言った。

「あたし、お母さんの顔ってよく知らないんだ……」

霧島診療所で、聖以外の人間を見たことはない。佳乃の家庭環境というものを、往人はその一言から敏感に察した。

「お母さん、あたしを生んで少しして、死んじゃったんだって」

「そうか……」

往人の母親のことにも深く触れなかったのは、そういう感情というものをよく知っていたからなのかもしれない。

「でもね、あたしにはお姉ちゃんがいて、いつも優しくしてくれるし、お父さんもいたから、平気だったんだよ」

「……」

お姉ちゃん、というのは聖のことだろう。それに対して、父親のことは過去形で言ったという事実を、往人は聞き逃していなかった。往人自身も、父親の顔などは全く知らない。

「でも、本当は寂しくなかったか……?」

ゆっくりと、往人はそう佳乃にささやいた。何故そんなことを言ったのか、往人自身にも分からなかった。心の奥から、母親、そして家族という存在の温かみがわき起こってきたのだろうか。

「うん……」

「……」

「お父さんもお医者さんだったの。お父さんも、お姉ちゃんもあたしにいつも優しくしてくれたから、それ以上望んだらわがままだって思ってたんだよ」

「そうだな。でも、自分の気持ちまで偽ることはないんだぞ」

「お母さんに会ってみたいなぁ、って思ったことはあるんだけどね」

「ああ、俺だってそうさ」

「往人くんのお母さん?」

「そうだ。俺にこの力の使い方を教えて、すぐにいなくなってしまった、無責任な母親だけどな」

往人の表情が、遠くを見つめたものになっていた。この空のどこかに、母親の星を探そうとしているのかもしれない。

往人の、一見冷たく突き放したような言い方の中に、そうではない寧ろ逆の気持ちが籠められていることは、佳乃にはすぐに分かった。「いなくなってしまった」という意味も含めて。

往人は、静かに立ち上がると、佳乃の正面にある橋の欄干に腰を下ろした。若干、見下ろすような形で佳乃の方を見る。

ポケットの中に、人形が入っていたのに気が付いた。こんな時でも、商売道具を忘れてきてはいなかったのだ。妙な感心をする。

取りだした人形を、佳乃の目の前あたりに投げる。

「往人くん?」

往人は答えずに、力を集中させた。

人形が、命を吹き込まれたように動き出す。

佳乃の前を何度か行き来した。相変わらず不思議そうに、その様子を眺めている。

「不思議だよね」

「ああ。だけど、こんな力が何の役に立つのか、今になっても全然分からないんだけどな」

人形が動きを止めた。

「往人くんは、それを探して旅をしているの?」

笑顔で佳乃が言った。

「そう……なのかもな」

佳乃の言葉に、表には出さなかったが、心の中ではっとした。今まで往人は、そんな風に考えたことはなかった。力の真の意味はこのような場所にあるとは思っていなかったが、日々の糧を得る人形芸以外に使い道を思いついたことはない。仮にそういうものがあるのだとしても、それは自分で探すものではなく、運命的に「出会う」ものなのだろうと考えていたのだ。

空にいる少女がどこかで俺を待っている……。往人の中にあるそんな幻想的なイメージが、どこかでそういう考え方に根拠を与えていた。

それは、ある意味では正しかった。往人の持つ力を、本当に使うべき場所がすぐそこにあった。多くのものを内包している場所が、すぐ近くにある。

「俺の母親は、こんなことを言ってた。『その力は、あなたが好きなように使いなさい』と」

「うん……」

「その意味は、まだよく分かってないんだけどな」

「あたしはね、お母さんにもし会えたら言いたいことが一つだけあるの」

「ほう……」

「あたし、お母さんに謝らなくちゃ」

「どうしてだ?」

「お母さん、体が丈夫じゃなかったから、あたしを産んでから病気になって、死んじゃったんだって。だから、『ごめんなさい』って言わないと」

「まさか、『産まれてきてごめんなさい』とでも言うのか?」

往人の声が、ほんの僅かだけ大きくなった。

「……うん」

往人が立ち上がった。そして、座っている佳乃の手を引き、半ば無理矢理に立たせた。

力の加減を見せぬ往人に、佳乃は驚く。

「佳乃、間違ってもそんなことは言うんじゃないぞ」

「どうして……?」

「お前は、自分が産まれてきたのは間違いだと思ってるのか?」

「……」

静かに、佳乃は首を横に振った。

「確かに、お前の母さんは、長生き出来なかったかもしれない。だけど、お前の母さんも、そして父さんや聖だって、お前が産まれてきたのを喜んでくれたんじゃないのか?」

「うん……」

「だったら、間違ってもそんなこと言うな。俺が佳乃の母親だったら、そんなことを言われたら絶対に怒るぞ」

「……」

「お腹を痛めて産んだ子に、『産まれてきてごめんなさい』なんて、そんなこと言われてみろ。どんなに悲しいことか」

「……」

「それに、そうだな……、佳乃もいつかは誰かの嫁さんになる時が来るだろう。みんながお祝いをしてくれるその席で、お前は天国の母親に『ごめんなさい』って言うのか?」

「ううん……。往人くんの言うとおりだね。あたしが間違ってたみたい」

「そうだな。分かればいいんだ。じゃあ、佳乃はなんて言うべきだと思う?」

「お母さんに会えたら、『ありがとう』って言う。佳乃は、こんなに元気に生きてます、って」

「そうだ」

往人は、佳乃の体を引き寄せた。片手を橋の欄干の上に置き、もう片方の手は佳乃の肩に優しく乗せる。僅かに、佳乃の体温が感じられた。夏のけだるさの中でも、不思議とそれは鬱陶しくは感じられない。

「ありがとう、往人くん……」

「悪かったな、声を荒くしたりして」

「ううん」

佳乃が力強く首を横に振った。そんな佳乃の仕草が、可愛らしく感じられる。

「お前は、強いやつだな……」

往人はそんな風に言った。いつも明るく振る舞っている佳乃の中にも、人には見せられないものを多く抱えていたのだろう。そんな時に、佳乃はこの場所に来るのではないだろうか。

「往人くんに聞いてもらえてよかった」

「それにしても、母親、か……」

「往人くん……」

人間にとって、母親とは自分の存在の源である。どんなときにも頼れて、還ることの出来る存在、それが母親だ。言い換えれば、故郷といってもよいだろう。

自分も含めて、ここにその故郷を持たない人間がいる。

佳乃もそうであるし、ある意味では観鈴もそうである。

少し前に、酒を飲みながら晴子から聞いた話を思い出した。

晴子は、観鈴の本当の母親ではないという。しかも、観鈴の持つ癇癪癖のために、観鈴と心を通わせることも出来ない。決して、晴子が観鈴を愛していないわけではないにも拘わらずである。

直接の血のつながりがないだけに、そういった結びつきは欲してやまないものであろう。それが得られないのはなんと悲しいことだろうか。

「あいつにも、母親はいないんだ……」

「観鈴さん?」

佳乃が敏感に察した。

「ああ……」

「母親が本当にいないっていうのと、いたとしても心を通わせることが出来ないっていうのと、どっちがつらいんだろうな?」

佳乃が往人の顔を覗き込んでいた。元気づけるように、笑顔を見せて往人のことを励まそうとする。

言葉はなかった。だが、佳乃は今度は自分が往人を励ます番であると考えていた。

「きっと、どっちもつらくないんじゃないのかなぁ」

「えっ?」

「あたしはあまり頭がよくないから分からないけど、お母さんがいなくても、あたしにはお姉ちゃんがいるし、観鈴さんにだって、往人くんがいるよ」

「佳乃は、優しいんだな……」

「ううん。あたしは観鈴さんがちょっとうらやましいかなぁ」

「?」

「往人くんは、こんなに観鈴さん思いなんだから」

「からかうなよ」

笑いながら、往人は佳乃の髪をくしゃっと撫でた。

「そういえば、観鈴はもう落ち着いただろうか」

「やっぱり、心配なんだね」

「当たり前だろ。お前に引っ張られてこんなところまで来ちゃったけどな」

「うん、そろそろ戻ろう?」

佳乃が往人の手を引いて歩き始めた。

既に観鈴の痛みが落ち着いていることを、佳乃は知っているかのようだった。


観鈴は、静かな寝息を立てていた。

落ち着いた観鈴を、再び背負って連れて帰った往人は、慎重にベッドの上に寝かせた。

結局、痛み止めの薬はほとんど効かず、原因も分からなかったらしい。

そんな予測は、直感的に往人の中にあったらしく、聖がすまなそうに頭を下げた時も、責めるつもりは全くなかった。

「医者として恥ずかしいことではあるのだがな」

「いや、医学が万能ということもないんだろう」

「ああ……」

「とにかく、神尾さんの様子はしばらく注意して見ていてくれ。私も、もう少し調べてみることにする」

「手間をかけるな」

「いや、当然の責務だ。佳乃の友だちでもあるそうだからな」

「ああ……」

診療所でのやりとりを思い出しながら、往人は静かに眠っている観鈴の姿を眺めていた。呼吸を楽にするために、ブラウスのボタンは上から二つほど外してある。女の子を勝手に着替えさせることをためらって、往人は結局そのまま観鈴を寝かせたのだった。

少し前までの観鈴の苦しそうな表情は、今では微塵も感じられない。いったい、あの痛みは何だったのであろうか。

規則正しい、落ち着いた寝息を聞いていると、あの出来事が幻だったようにすら感じられる。

今の観鈴は、往人の前で安心しきっているようにも見える。

往人の気持ちも、少しずつ落ち着いてきていた。

観鈴の髪をそっと撫でて、往人は窓の手すりに手を掛けて、外の様子を眺めた。

どこかの草むらから、気の早い虫の鳴き声が聞こえてくる。

それを背景に、ぼんやりと浮かぶ街灯が淡く道を照らしている。だが、この時間に道を行く人の姿はなく、街灯はあまり役を成していなかった。

一方、空には星が輝いていた。

少し前まで、町はずれで佳乃と一緒に眺めていた星空である。

佳乃とは母親の話をしたのだった。母親の顔をほとんど知らない佳乃。僅かな時間しか一緒に過ごさず、すぐにいなくなってしまった往人の母。そして、互いのことを大切に思いながらも、心を近づけることの出来ない観鈴と晴子。

「その力は、あなたの好きなように使いなさい」

往人は、そんな母の言葉を思い出した。

ずっと思い出せずにいたのだが、この時の母は、寂しいような嬉しいような、複雑な表情をしていたことに気が付いた。

「わたしたちがこうしているみたいに、お金を稼ぐために使ってもいいし、もっと大きな目的を探し出して、そのために使ってもいいのよ」

「だけど、後で後悔するようなことだけはしてはだめ」

「わたしはね、あなたに母親らしいことはほとんどしてあげられなかったけど、今、あなたとこうして一緒にいることを選んでよかったと思うの」

「これから、あなたは自由になるのよ」

「その自由と、ずっと昔から伝わってきたこの力を、悔いのないように使って欲しいの。いいわね?」

俺の法術は、果たして何のためにあるのだろうか。

往人の中で、ずっと疑問に思ってきたことだった。

母親は、それには答えずにいなくなってしまった。今では、漠然とではあるがその理由が往人には分かっていた。自由とは、その理由を見つけるための自由ではないのだろうか。

路銀を稼ぐために使ってきたこの力を、今この町では何のために使っているのか。

答えが見つかりそうな気がしている。

人形を動かすというのは、これから起きる大きな出来事の予兆にすぎないものではないのだろうか。

天空に輝く星たち。それらは、人間の運命を司るものだと信じられてきた。

そうだとすれば、自分の星はどこにあって、どのように輝いているのだろうか。

観鈴の星は、佳乃や美凪の星はどこで輝いているのだろうか。

空に向かって問いかけてみる。

勿論、答えなど得られなかった。答えは自分で探さねばならない。そのために、為すべきことがいろいろあるのだろう。

空で俺のことを待っている少女がいる。

その少女は、今はどうしているのだろうか。

星の瞬きが、少女達のまばたきのようにも見えた。

「しかし、暑いな……」

往人はあえてそんな散文的なことを言い、部屋の中に目を戻した。ベッドでは、観鈴が静かに眠っている。

夏が、進んでいく。


同じ頃、佳乃は自分のベッドでなかなか寝付けずにいた。

開いている窓から、時々涼しい風が入ってくる。半開きのカーテンの間から僅かに星空が見えている。

佳乃は、少し前に感じた奇妙な感覚を思い出していた。

往人が運んできた観鈴。背中が痛いのだと言っていた。

観鈴に触れた瞬間に、佳乃の体を突き抜けたあの奇妙な感覚……、あれはいったいなんだったのであろうか。

懐かしさと同時に、深い悲しみのようなものも存在していたような気がする。

その悲しみは、佳乃の中に住み続けていた佳乃自身の悲しみに反応したのだろうか。

その悲しみが、佳乃にあのような話をさせたのだ。

「佳乃、間違ってもそんなことは言うんじゃないぞ」

往人の言葉を思い出す。重く、力強い言葉だった。

自分がずっと思っていたことを、明確に否定されたにも拘わらず、佳乃はどこかで嬉しく思ったのだ。

佳乃にとって、往人は不思議な存在だった。

姉の前でも話せないようなことも、往人の前では素直に話すことが出来る。そして、ずっと思い続けてきたことを、はっきりと否定した。佳乃は誰かに、そうやって否定して欲しかったのかもしれない。お母さんは、自分を産んで幸せだったに違いない。誰かにそう決めて欲しかったのだろう。

そんな佳乃は、心をいくらか軽くして散歩から戻ってきた。新しい大切な友だちである観鈴の容体も落ち着いてくれた。

本来なら、安心して眠ってよいはずだった。

だが、肩ひもだけに支えられた薄い布地の服を着たまま、ベッドに横になった瞬間に、心のどこかから、強い不安感のようなものがわき出してきたのだった。

その不安感は、佳乃の中であちこちを漂いながら、別の感情を形作っていった。

それは、悲しみだった。

佳乃自身の悲しみではない。それは往人や、他にもたくさんいる佳乃の周りの人たちによって乗り越えることが出来るようになったはずだった。

だから、今まで隠れていたものが、姿を現したのだろうか。そうではなく、往人という存在によって、呼び起こされたものなのだろうか。

「お姉ちゃん……、往人くん、なんだか恐いよ……」

正体のわからない恐怖から逃れようと、佳乃はぎゅっと目を閉じて毛布の中に潜り込んだ。

だが、それは逆効果だったのかもしれない。

視界を塞ぐと共に、佳乃の心の中も闇に包まれる。

その闇に乗じるかのように、過去の記憶が佳乃を支配した。

「この子を……」

佳乃のものでない声が、既に意識のない佳乃の口から発せられた。

まるで操り人形のように、佳乃が立ち上がった。そして、その過去の記憶の命じる場所に向けて、静かに歩き始めた。

佳乃の体は、星空を見上げていた。

だが、その意識は別の場所にあった。佳乃の体を借りて、その中で大きな戦いが繰り広げられている。

薄明かりに包まれた神社は、幻想的な雰囲気の中にあった。

本殿に続く石畳の道の上で、半ば見上げるようにして佳乃が立っている。

佳乃の目は、ずっと遠くを見つめていた。

その姿は、この神社よりも更に幻想的に見える。佳乃の瞳を見るものがいれば、その深さに引き込まれてしまうに違いない。

「ここは?」

佳乃が立っているのは、稲穂の中であった。

秋が近いのか、頭を垂れた稲が佳乃のあらゆる方向で金色に輝いている。

自分の知らない場所だった。どこか遠くの土地なのだろうか。生まれてからずっと、同じ町しか知らない佳乃には、どこか新鮮に感じられた。同時に、理由の分からない懐かしさがこみ上げてくる。

今は夕方なのだろうか。赤い夕日が自分を照らしているのに気が付いた。オレンジ色に染まった雲の方に目を向けたとき、その下に誰かがいることに気が付いた。

「あれ、誰かいるのかな?」

そこには、無表情の女の人が立っていた。昔風の和装である。

佳乃は、声を掛けようとした。だが、その前にその女性が佳乃に気が付いて、先に言った。

「あなたは、私の姿が見えるのですか?」

佳乃が黙って頷いた。

すると、この女性にようやく表情というものが現れた。それは、悲しみだった。

その悲しみは、佳乃の中にもある悲しみと強く反応した。

目の前の女性の目を、佳乃は見つめた。

同時に、その視線を通じて、佳乃の中に過去の記憶が奔流のように流れ込んできた。

「わたしは、名を白穂と申します。どうかお話をお聞き下さい」

遠くから現れた、無数の船の姿。

戦に出る、男の姿。

札を立てながら、やかましく怒鳴り立てる役人の姿。

腕の中で無邪気に笑っている赤ん坊の姿。

山道ですれ違う人々の、暗く沈んだ表情。

小さな建物を囲んで、口々に何かを叫ぶ人たちの怒りの表情。

言葉を選びながら、説得を試みる神社の神主の表情。

目の前を横切る、一筋の光。

弱々しく手を伸ばし、ようやく掴むことの出来た白い羽根。

「あなたも、こっちにいらっしゃい……」

そんな声が聞こえてきたような気がする。

その声はどこか優しく、暖かく感じられた。

だが、一方で、何者かが佳乃に警戒の声を投げかけていた。「そっちにいってはいけない」と。

美しい花の咲いた、白い道が先の方に続いていた。

その遙か先に、誰かが立っているのが見える。

その人に向かって、走っていってよいのか、佳乃は判断を付けることが出来ずにいた。

目を凝らして、道の先をじっと見る。

その先に、佳乃は人の姿があるのを見つけた。そして、その人物に吸い寄せられるように、ゆっくりと歩いていった。

どこか、懐かしさを感じさせる人だった。だが、そこに向かって駆け出さなかったのは、何者かが投げ続けている警戒の声のためであった。

やがて、その人物の姿が明らかになる。

佳乃の、知らない顔だった。だが、佳乃は一瞬でそれが誰なのかを察した。

今まで、佳乃の心の中にしかいなかった存在。記憶の中にはなく、話の中にしかいなかった人物だった。

「お母さん……」

佳乃の母は、優しく微笑んでいた。無条件に、佳乃の全てを包み込んでくれそうな、そんな笑顔だった。その腕の中にいれば、きっと何の心配もせずに生きていくことが出来るのではないか。そんな安心が感じられる。

母は、静かに頷いた。佳乃が自分のところに来るというのならば、しっかりと受け止めてやれる、そんな意思が籠められていた。

「いろんなものを抱えてきたのね」

優しくそう言った。

「うん……」

「お母さんのせいで、いろいろつらい思いもしたのでしょう?」

「……」

佳乃は答えることが出来なかった。それが正しいのか、正しくないのかが分からなかったからである。

「ここにいれば、もう悲しむことはないのよ。あなたは甘えっ子なんだから、お母さんのそばにいてもいいの」

「優しくしてくれるの?」

「ええ。自分の子供のことを大事にしない親なんていないのよ」

「うん……」

突然現れた幸せのかけらに、佳乃はとまどいを隠せなかった。佳乃がずっと心のどこかで望んでいたもの、だが、決して得られることはないと思っていたものが、すぐ手の届く場所にある。もう何歩か踏み出すだけで、それが手にはいるのだ。

「お母さんと一緒に、ここで暮らす?」

「……」

目の前の、母の姿が霞んでいた。

気が付かないうちに、佳乃は泣いていたのだった。急に溢れてきた涙が、佳乃の視界に立ちふさがる。陽炎のように、大好きな母親の姿が焦点を失ってぼんやりと揺らぎ始める。

涙は、嬉しいときと悲しいときに流れるものだと聞いていた。実際、佳乃もそんな気持ちを感じたときに涙を流したこともある。

だが、嬉しいと同時に悲しい時にはどうなのだろうか。

今の自分の気持ちは、佳乃自身にもわからなかった。

その時だった。

佳乃の右手にある古い傷が、うずくように痛み始めた。

佳乃の心の中に、別の声が直接語りかけてきた。

「我が子を……、どうかお助けください」

「私が、身代わりになります」

「あの人の残した、大切なものなのです」

語りかけるというよりは、一方的に主張しているかのようだった。

その声の主が、さっき見えた和装の女性のものであることが佳乃には分かった。

それは、過去の悲しみの記憶といってよい。

「私は、自分を犠牲にして我が子を生きながらえさせることを選びました」

「お母さんみたいに?」

「そうです。あの子が立派に育ってくれたのかはわかりません」

「……」

「そして、あの子の姿を見ることは叶わなくなりました」

「うん……」

「でも、あなたは一度離れてしまった母親にこうして会うことが出来たのです。もう、離れないでいてあげてください」

「お母さん……」

「母子は、本来は同じ場所にいるべきなのです」

「でも……」

佳乃は、反論を試みようとしていた。この女性の言うことは、おそらく正しいことなのだろう。無慈悲な仕打ちによって、無理矢理に引き裂かれてしまったに違いない。だから、佳乃にはそうあって欲しくない、そう言っているのだ。

だが、その主張を必ずしも受け入れられないと佳乃は思った。

それはどうしてなのだろうかを考える。

目の前では、佳乃の母が心配そうに自分のことを見つめている。

その、心の奥が一瞬だけ見えた。

それは、母が子供の幸せを願う気持ちだった。

同時に、佳乃の心の中に、佳乃を支えてくれる人たちの姿が浮かんだ。

大切な姉。

新しく出来た友だち。

空に浮かんでいる少女。

その人達が、佳乃に答えを教えてくれた。

「あたしは、違うと思う」

「……!」

「お母さんは、たぶんあたしに幸せになって欲しいと思ってくれてる」

「そうですね、きっと」

「あたしも、お母さんと一緒にいられたら幸せなんだと思う」

「……」

「でも、幸せはあたしとお母さんだけで抱え込むものじゃないと思うんだ」

「抱え込む?」

「お母さんは、あたしを産んでくれた大切な人だけど、いつかは、あたしもお母さんになるときが来ると思うんだ」

「……」

「でも、ここに残ったら、そんな幸せはなくなっちゃう」

「……」

「あたし、知ってるよ。あなたが命がけで守った子供は、その後、人を幸せにする手伝いが出来たって」

「どうしてそんなことが分かるのですか?」

「あたしたちがここにいるから」

「えっ?」

「幸せっていうものは、受け継がれていくものだと思う。お母さんがあたしを産んで、あたしがまた誰かを産むというのと同じように」

「そう、なの……?」

縋るような目で、白穂が佳乃を見つめている。

「うん。それでね、その幸せは、悲しみから人を救うために存在している魔法なの」

「魔法?」

「あたしはの魔法は、そのためにあったんだねぇ」

佳乃が手をかざした。

空から光が集まり、佳乃の目の前に集まった。

その眩しさの中から、一枚の羽根が現れた。

更に光が集まり、ついに臨界点に達した。

光が弾けた。

飛び散った羽根が輝き、消える瞬間に赤ん坊の姿を映しだした。

その赤子は、白穂の方を向いて、一度だけ笑い、そして消えた。

「う、うっ……」

白穂の目に涙が浮かんだ。

それは、佳乃の言うことが正しかったと認める涙だった。

ずっと悲しみ続けてきた。

その悲しみから開放されることは出来ないと思っていた。

だが、そうではなかったのだ。

「お母さん……」

佳乃が、再び母に向き合った。

「あたし、もう帰るね」

佳乃の声は寂しそうではあったが、そこには裏付けのある確固とした意思が籠められていた。

「お母さんと一緒に、ここで暮らせたらいいなぁって思ったけれど、やっぱり帰ることにするね」

「……」

「あたしには、まだ大切な使命が残っているみたいだから」

「そうね」

「大切な人が、待ってるの」

「……」

「あたしを守ってくれた人たちを、今度は助けてあげないと」

「ええ、そうなさい」

「あ、そうだ。お母さんに言いたいことがあったんだよ」

「そうなの?」

「うん。あのね、お母さん……」

「はい」

「お母さん、あたしを産んでくれて、ありがとう」

「……」

その言葉に、佳乃の母は涙していた。その涙を見て、佳乃は自分の決心が間違ってはいなかったのだと確信した。往人が教えてくれたことは、正しかったのだ。

「佳乃?」

「うん」

「あなたは、もうここにいる必要はないわね。あなたは、自分の世界で幸せになりなさい」

佳乃は頷いた。

さっきと同じ涙が、再び溢れてきた。

既に、道はなくなっていた。

足場を失って、佳乃はこの場所から落下していった。

急激に気圧が変わったときのように、ふっと意識が浮かび上がるように感じられた。

気を失いそうになり、佳乃は何度も首を左右に振って耐えようとした。

そんな抵抗も虚しく、意識がなくなりそうになったとき……。

佳乃は目を覚ました。

「佳乃っ!」

自分の体が揺れているのが分かった。

空に、たくさんの星が輝いているのが見える。

「佳乃。平気か?」

聞き慣れた声だった。

「お姉ちゃん?」

「そうだ、私だ」

「えっと、あたし、自分で立てるよ」

「そうか」

ゆっくりと、佳乃は聖の腕から抜け出し、自分の足で地面に立った。

足にかかる、自分の体重が頼もしく感じられた。

さっき見ていたのは、どこの世界だったのか、佳乃にはよく分からなかった。

しかし、何かを成し遂げたという充実感が感じられる。

「あたし、どうしてたの?」

「覚えてないのか?」

「うん。ごめんね、お姉ちゃん」

「夜中に部屋を見たら、いなくなっていたので心配したのだ。町中探して、ここでようやく見つけた」

「あたし、覚えてない」

「心配したぞ」

「うん……。でも、もう平気だから」

「そうか」

「あっ、さっきね、お母さんに会ったんだよ」

「……」

「それで、お母さんに、ありがとうって言ってきた」

「そうか、母さんは喜んだだろう」

「うん、そう思う」

「よかったな」

聖の中にも、母親の面影はあったのだろう。佳乃の姉であると同時に、母親の役割も果たさなくてはならなかった。

そんな聖は、佳乃の言葉をどう受け止めたのだろうか。

佳乃は、成長した。

ずっと頼りない妹だと思っていた佳乃が、立派な大人になりつつある。

それが嬉しかった。

佳乃は、自分の存在の意味を見つけたのだろう。

泣こうとした聖だったが、涙は出てこなかった。

だから、聖は代わりに、佳乃をしっかりと抱きしめた。

「お姉ちゃん……」

「……」

「ありがとう」

多くの人に見守られ、多くの人と歩むために、佳乃はこの町に戻ってきた。

空が優しく見守るこの町に。

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