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AIR二次創作小説「天空」

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第1章 風の中で

古今、この世界では幾多の悲しみ、別れが生み出されていた。

その起源を求めることは難しいが、歴史の中に埋もれ、人知れず存在する過去の出来事の中にこのようなものがあった。

人を慕うという最も喜ばしいことの中にそういった悲しみの源があるのだとしたらそれは何という皮肉なことであろうか。

だが、それは悲しみを乗り越えて進むという、ある意味での訓辞を与えているとはいえないだろうか。そのために例え多くの世代、時間を必要とするとしても。

それが叶うとき、彼らは大きな幸せを得ることが出来るのだろう。

そこは不安定な場所であった。

白い霧に包まれたような場所で、そこに存在するものの輪郭も曖昧に見える。

そんな場所の深奥に、一人の少女が立っていた。否、立っているという表現は正確ではないかもしれない。何故なら、その少女は背中に翼を持ち、浮いていたからである。

羽ばたいているというのではなかったから、その翼は本来の用を成しているのではないのかもしれなかった。ともあれ、少女はこの場所にいる。

少女の持っている羽根は白かった。何もない孤独なこの場所で、背景の白に紛れ込んでしまいそうなほど純粋な白であった。時々、そこから何枚かの羽根が落ち、どこかへ消えていった。だが、少女はそれに気付く様子もなく、どこか別の場所を見つめていた。

女性としての美しさを議論するにはまだ幼いともいえるような年頃だった。しかし、その美しさの片鱗は既に見せ始めており、どこか高貴とも感じられるような雰囲気と共に、見る者を感嘆させる姿を持っている。背中の羽根のもたらす幻想も少女を引き立てているのかもしれない。

だが、この少女にある表情は一定していた。そこにあるのは悲しみだけであった。時々流れ出る涙は、頬を伝わるが雫となって落ちる前に消えてしまう。もし彼女が笑ったら、さぞかし可愛らしい顔を見せてくれるであろうと想像を働かせることも出来ようが、実際の少女に浮かんでいるのは悲しみだけである。その悲しみが、余人には理解できないほど深いものであることを知っている者はいるだろうか。

ひとまず、この場所において少女は孤独であった。

ここに来る前、少女は自分にとって大切と思える人と旅をしていた。そして、もう一人の大切な人、即ち自分の母と再会することが出来た。だが、それは悲劇を生みだし、母だけでなく最愛の人をも失う結果になってしまったのだ。彼は、命を賭して少女を助けてくれた。自分の持っている羽根が、初めて用を成し、結果としてこの場所までやってきた。

だが、少女が行きたかったのはこのような場所ではなかった。彼と、一緒にいたかった。同じ時間を過ごしたかった。そう思うと涙が止まらない。

どれほどの時間をここで送っただろうか。永久ともいえる悲しみが少女自身だけでなくこの場所をも支配している。

少女は何かを探しながら、この孤独な場所でそれをずっと待ち続けているのかもしれない。

羽根のもたらす悲しみは、そのための使いであるともいえよう。

相当な時を経て、悲しみからの開放が訪れようとしていた。

その時が来るまで、気の遠くなるような長い間を、泣きながら過ごしている少女。

この世界にはたくさんの悲しみがあるが、それを少女は全て一人で抱えているかのようだった。

夏がすぐそこまでやってきていた。

日差しや空気は既にもう夏であることを明らかにしていたが、この名もない海辺の小さな町に、本当の夏がやってくるにはあと少しだけ時間を必要としていた。

「終わったぁっ」

「ねえねえ、早速遊びに行こうよ」

「うん、賛成っ」

「で、どこに行く?」

「そんなの歩きながら考えればいいよ」

「そうだね」

この町にある学校の教室からは、そんな賑やかな会話が聞こえてきた。ちょうど期末試験が終わったところで、苦労から開放された生徒達が早速どこかに遊びに行こうと仲間達で相談していたのである。

試験が終わり、もう少しすれば夏休みという更に大きな開放が得られる。どの生徒も、嬉しそうな顔をしていた。

「早く行かないと、バスに乗り遅れちゃうよ」

「うん、今行くから待っててよー」

「ほらほら、急いで」

仲良しグループであるその生徒の一団は、そういった賑やかさを残して教室を出ていった。

そういった生徒でなくても、概ね安堵や開放感を感じながら、一人また一人と教室を去っていく。試験の終わった教室に残っている意味などはない。つい少し前まで緊張に包まれていた教室は、既にひっそりとした場所へと移行しようとしていた。

そんな中、机に向かったまま教室に残っている女子生徒が一人いた。長い髪を机の上に不規則に乗せたままで、頬杖をついて静かに窓の外を眺めている。年頃の女の子らしい、可愛い子であった。ただ、残念なことに、この子の表情は決して楽しそうには見えなかった。笑えばきっともっと可愛く見えるであろうに、そう思わせる女の子だった。

この女子生徒の名前は、神尾観鈴という。決して人見知りするほうではないのだが、友だちを作るのが上手でないらしく、新しい学年になって三ヶ月以上が過ぎた今になっても、先ほどの子たちのように一緒に遊びに行くような相手もおらず、こうして教室に残っているのだった。

こうやって漠然と空を眺めていることは、観鈴にとって悪い気分ではなかったが、少し寂しいという気持ちも持っている。賑やかに教室を出ていくクラスメイト達を、うらやましそうに見つめていた。こうやって空を眺めているのは、そういったうらやましさを紛らす意味もあったのかもしれない。

空を見ていると、どこか懐かしいような暖かい気持ちになることが出来た。風の中に身を置いていると、時々その空の気持ちを味わうことが出来る。

ゆっくりと流れていく雲が、時々形を変えていた。雲の不規則な形は、観鈴にいろいろな想像力を発揮させた。雲が人の顔に見えたり、動物の姿に見えたりする。空の世界にあるそういった様々なものとの会話を、観鈴は楽しんでいるのだともいえた。静かな教室で外の青空を眺めていた観鈴だったが、やがて物足りなくなってきた。

ふと、教室の中に目を戻すと、既に他の生徒の姿はなくなっていた。結局、クラスメイトの子たちとは挨拶もしないまま今日が終わってしまった。

「にははっ。観鈴ちん、失敗」

そんな独り言を言いながら笑った観鈴だったが、表情はどこか寂しげであった。

静かな教室にいるのがいたたまれなくなって、そしてここから空を眺めているだけでは物足りなくなって、観鈴はようやく鞄を手に取って教室を出た。

だが、そのまま家には帰らずに、ささやかな寄り道をすることにした。

昇降口へ向かう階段を下りる代わりに、逆側に足を向ける。滅多に使われることのない扉を開けて、観鈴は「外」へ出た。そこは、他の場所よりもほんの僅かだけではあるが空に近い場所である。

屋上には、心地よい風が通じていた。

この町の夏の暑さはかなりのものであったが、風はその暑さを和らげてくれた。海からの風は涼しさを伴い、混じる潮の香が懐かしく、心地よかった。

観鈴の長い髪と、制服のスカート、胸元のリボンが優しく揺れた。

風に呼応するその動きが、一体感を感じさせた。

「うーん、いい気持ちだね」

それは自然な言葉だった。教室で見ているよりも空をより大きく感じることが出来る。そんな満足感があった。

風に身を任せたまま、顔を上げて青空に目を向ける。

実際にはほとんど変わらないはずであるのに、空と雲が近くなったように感じられた。そんな空を見て、風を受けて立っていると、自分はひょっとして飛べるのではないかと感じることさえある。

観鈴は時々こんなことを思うことがあった。

もう一人のわたしがあの空の中にいて、誰かをずっと待ち続けているのではないか、と。

他愛のない想像であることは明らかであった。だが、どこかでそれが単なる幻や空想でないという予感もしている。答えを見つけだすことは出来ず、またその必要もないと思っていたが、風を受けて空を見ている時に感じる懐かしさは、ひょっとするとそんなところに原因があるのではないかと観鈴は漠然と感じていた。

空から、海の方に目を向ける。

真上に近い場所にある太陽に照らされて、波が輝いていた。静かな海に陽光がきらきらと反射している。ずっと奥に見える水平線のところで、海は空とつながっている。海の青は空の青でもあった。生き物が存在するのに欠かせない空気と水。そういった意味で空と海は一体の存在であるともいえた。空を眺めている時と同じような安心感が、海からも感じられる。その両方を同時に望むことの出来るこの場所は、観鈴にとってはお気に入りとなっていた。一人でいる寂しさも、そんな大きな存在が優しく包み込んでくれるようでもあった。

「もう、すっかり夏だね」

観鈴は空に向かってそう話しかけてみた。

「うん、今日はいつもよりお日様もお元気さんだよぉ」

そんな声が観鈴に聞こえ、驚いた観鈴は後ろを振り返った。

そこには、観鈴と同じ制服を着た女の子が立っていた。観鈴よりも一回りくらい小さい、場合によっては中学生にも見えそうな女の子だった。ショートカットの髪が、快活そうな笑顔ととてもマッチしている。

夏を感じさせる女の子といっても構わないだろう。勿論、夏の暑さやけだるさではなく、爽やかさ、元気さを伴った女の子という意味である。

驚いた表情のままである観鈴に対して、目の前の女の子は人なつっこそうな笑顔を見せたままだった。そんな表情につられるように、観鈴の表情も変わった。一人ではないことが、どこか嬉しかった。

「風も気持ちいいねぇ」

観鈴の髪を、海からの風が大きく揺らした。佳乃の短い髪は、僅かに揺れるだけで、気持ちよさそうに揺れる観鈴の髪を、うらやましそうに眺めていた。

そんな佳乃の視線を感じ、観鈴は少しだけ嬉しくなった。

観鈴の中から寂しさが急速に消えていた。佳乃はそういったものをもたらすことの出来る不思議な存在感を持っていた。

「そうですね。ここで風を受けていると、とても気分がいいです。えっと……」

「あっ、あたしは霧島佳乃だよ。先輩さんは?」

そう認識しているにもかかわらず、佳乃はそんな飾らない子供じみた言葉遣いをしていた。この場合はそれがよい方向に働き、観鈴に大きな親近感を与えてくれた。

「わたしは、神尾観鈴。にははっ」

自然に笑みが浮かぶのを観鈴自身も自覚していた。こういう不思議な気分になったのは初めてであるといってもよい。

「よろしくお願いしますっ」

佳乃はそう言って小さくぺこりと頭を下げた。そんな仕草は歳よりも更に子供じみて見えるが、決して不快なものではなかった。

「こちらこそ、よろしくね」

観鈴が笑顔で答えた。

同時に、またやってきた風が、二人に涼気を与える。

「佳乃ちゃんはどうしてここに?」

観鈴が改めてそんな質問をした。屋上は快い場所であるにもかかわらず、ほとんど生徒が足を運ぶこともない。自分と違って、佳乃は友だちも多く明るそうに見える。さっきまで教室で騒いでいたクラスメイトたちのように、賑やかに遊んでいる方がふさわしいように思えたのだ。

「たぶん、観鈴さんと同じだよ。風が気持ちいいから」

「そっか……」

空と同時に海が見える。何も遮るもののない空とは異なり、残念ながら海の方を見るときにはフェンスが邪魔になっていたが、観鈴と佳乃はそのフェンスの編み目を掴みながら、並んで輝く水面に目を向けた。

同じ景色を眺めていても、一人の時よりも綺麗に感じられるのは何故だろうか。

佳乃の横顔に目を向けながら、観鈴はそんなことを考えた。

「よく、ここには来るの?」

佳乃がそんなことを聞いてきた。

「うんっ。佳乃ちゃんは?」

「あたしは、時々かなぁ。ここも好きだけど、学校には他にもいろんな場所があるから」

「そうなんだ」

「かのりんはね、飼育委員をやってるんだよ。だから、餌やりとかにも行ったりするし、ポテトが遊びに来てくれたりもするから」

「ポテト?」

「うん、かのりんのお友達だよ」

「ぴこっ?」

佳乃がそう説明した瞬間、奇妙な音が聞こえてきた。

「あっ、噂をすればなんとやらだねぇ」

駆け寄ってくる白い物体があった。珍種の犬のようにも見えるが、その正体は定かでない。観鈴は、可愛らしいと思いながらも不思議そうな表情でその様子を眺めている。

それにしても、屋上までどうやって上がってきたのだろうか。

「ぴこぴこっ?」

ポテトが観鈴に気が付いて、視線を向けた。心の奥を見通すような澄んだ視線が、観鈴を一瞬どきっとさせたが、そこに敵意のようなものはないのを感じて安心する。

「この人は、かのりんの新しいお友だちさんだよ」

「ぴこ」

「ポテトも仲良くしないとだめだよ」

「ぴこぴこぴこ」

その会話はよく分からないが、とりあえず佳乃の言葉に同意はしているようである。ポテトが前足をぱたぱたと振っている。彼なりの挨拶なのだろうか。

「にははっ」

そんなポテトを見て、観鈴も手を振った。ポテトが満足そうな表情になる。

「なんだか、楽しいね」

観鈴の口からそんな感想が漏れる。佳乃が自分のことを「友だち」と言ってくれたのが嬉しかった。観鈴にとっては「友だち」というのは字面以上に重要な意味を持っているのだ。孤独を癒してくれる存在……、観鈴が求めているのはそういったものなのだろうか。

「かのりんも楽しいよ」

「うん、よかった。もう、観鈴ちんは佳乃ちゃんのお友だちなの?」

「もちろんだよぉ。かのりんのお友だち一号さんに任命するっ」

どこかユーモラスに、観鈴にびしっと指を向けて、佳乃はそう宣言した。

観鈴は知らなかったが、佳乃にとっても「友だち」というのは特別な意味を持っていた。人なつっこい佳乃でもあり、例えばクラスなどでは友人は少なくなかった。実際、比較的仲のよい生徒達に、冗談交じりで「親友一号さん」「親友二号さん」などと奇妙な地位を付与したりもしている。だが、佳乃の中では「友だち」はそんな「親友」よりも大きな存在なのだった。

ある種、運命的な出会いでもあるといえる観鈴とは、どこか精神の深層で通じ合えると予感させるようなものがあり、それが佳乃をして「友だち」と言わしめたのかもしれない。

この時点では、これから起こる大きな出来事の片鱗すら予想していなかったが、空の下、風の中で佳乃が観鈴に出会えたことは大変喜ばしいことだった。

「にははっ、お友だち」

観鈴が嬉しそうに微笑んだ。そして、今いる場所に腰を下ろす。

挿絵1 佳乃がそれに倣って隣に同じように腰を下ろすと、今度は観鈴は足を伸ばし、体をそのまま仰向けにして寝ころんで見せた。同じように並ぶ佳乃。

制服が多少汚れてしまうけれども、それは気にしないことにした。

仰向けになって目を開けると、何も遮るものはなく、視界には青空だけが入ってくる。ひたすらに青い空と、白い雲。照りつける太陽の光が眩しかったが、その他にも、自分に本当に近い場所からも温もりを感じる。観鈴は佳乃の、佳乃は観鈴の存在を感じていた。その体温は太陽の熱に比べれば僅かなものであるかもしれなかったが、今の二人にとっては、それ以上に温かいものなのであった。

太陽の眩しさに目を閉じれば、その存在は更に大きく認識できるようになる。

「ぴこっ」

突然の二人の行動に、どうしてよいか分からずに戸惑っているポテト。

その声を聞いて、観鈴と佳乃が同時に笑い出した。

明るい笑い声が、屋上の空気を彩った。

空はそれを静かに見つめている。


海辺を縫うようにして続いている国道を、バスはゆったりと走っていた。信号もなく、すれ違う車も少ない、夏の昼下がりの道を、割合快適にそのバスは進んでいる。

もともとは古い道なのであろうか。海辺に迫る山をトンネルで突き抜けることもなく、海岸線に従うように幾度も幾度も曲がっていく。

そのたびに、海は少しだけ異なった姿を見せる。太陽の輝きが穏やかな波に反射して、不規則な光をもたらしている。どこか、魚の鱗のようにも思える。そうだとすると、海に澄む魚というのは、大きな海の風景を内包した存在といえるのだろうか。

バスの乗客は数えるほどしかなかった。

その乗客も徐々に降りていき、今は数人しか残っていない。その中に、一人の青年の姿があった。財布の中身を覗き込んでいる。運転席の隣にある料金表の数字を気にして、何度もそちらに目を向けている。

「次くらいが限界だな……」

クーラーの効いたバスの中から、外の景色を見ると憂鬱になってくる。

今の所持金では、次の停留所あたりで降りなければならない。

何故、こんな田舎バス路線に乗ったのかは、自分でもよく分からなかった。

五つか六つくらいの停留所を、止まらずにバスは進み続けていた。自動テープの、次の停留所のアナウンスもほとんど意味を成していないように思える。

そのテープが、新しい停留所の名前を告げ、同時に料金表の数字が更新される。

料金は三百七十円。財布の中に入っているお金は四百円。彼の言うように、そこが限界であろう。

ここからは炎天下を歩くことを避けられない。憂鬱の原因はそういうところにあった。

仕方なしに、青年は窓枠に取り付けられている停車ボタンを押した。皮肉のように軽やかな音色でなるチャイムが、次の停留所で止まることを知らせる。

海を見ながらバスはしばらく走り、久しぶりにその停留所の前で停止した。

料金箱にお金を投げ込み、バスを降りる。

夏に包まれたその停留所から、暑さから逃げるようにバスは去っていった。

バス停に取り残された青年は、空を仰ぎ見た。

夏満開といったひたすらな青空が広がっている。

静かではなかった。

暑さを助長するかのように、周りの木から蝉の鳴き声が聞こえてくる。

ひとまず、バス停のベンチに腰を下ろし、小さなバックパックの中から人形を取り出す。

「こんなところで、そうしたらいいというのだ?」

青年の名前は、国崎往人。職業は人形使い。

ある種の大道芸人のようなものだった。手にしている、少しみすぼらしい人形を操り、見物人から小銭をもらう。それが糧である。

ただ、往人の人形劇が普通と少し違っていた。人形には動力も紐も付けられていない。往人は文字通り手を触れずにその人形を動かすことが出来る。母親から伝えられた、不思議な力のためであった。本来は何のためにあるか分からないその力は「法術」であると母親に教えられた。今は亡き母親は、その力の使い道を明確には教えてくれなかった。ただ「好きなように使いなさい」と。

その意味を、往人は理解していなかった。ひとまずは食べるためにその不思議な力で人形を操る。

だが、路銀も尽きようとしていた。こんな田舎町に来て、芸の需要などがあるはずもない。ならば、なぜこんな所に来たのだろうか。

それは往人自身にも分からなかった。あえて言うのなら、何かに「導かれた」のだとしか答えようがない。

バス停の周りには何もなかった。無秩序に生えている草の中で、目立っているのはおそらく野生のひまわりの花。道路の向こうはすぐ海岸線で、うち寄せる波が音を立てていた。

ずいぶんと向こうの方に、民家が集まって建っているのが見える。とにかく、そこに行くしかないだろう。あとほんの少しだけお金があれば、炎天下を歩かずにそこまで行けたに違いない。そんな事実に理不尽さと不運を感じつつ、往人は歩き始めた。

夏は、既に始まっていた。

「暑い……」

常に往人の口から漏れてくるのはその言葉だった。

そんなことを言っても状況が改善して涼しくなるのではないということも、逆に暑さを助長するだけであることも分かっていたが、それでもやはりそう言ってしまうのだった。

炎天下を歩き、町の方までやってくる。

さっきバスを降りた停留所の近くには、朽ちた小屋が一軒あっただけで、一体何のためにこんな場所に停留所を設けたのか分からなかった。海を見ながら、滅多に車も通らない道を歩いていく。ひとまず、町に入ればどこか落ち着ける場所を見つけることが出来るだろう。

そう思って歩いてきた往人だった。

ガードレールの向こう側には海が、道を挟んだその反対側には青い稲が育ちつつある水田が広がり、その奥には夏らしい濃い緑に覆われた山が広がっている。

しばらく歩いた往人は、小さな交差点を、海岸沿いに続く細い道の方に曲がった。この町の外側を一気に通り抜けていく国道に対して、おそらく旧道と思われる道だった。旅人としての感覚が、往人にそちらの道を選ばせていた。相変わらずの日差しが厳しく、とにかく何か飲み物が欲しいと思った。財布の中にはほとんどお金が残っておらず、飲み物の自動販売機も単に往人に恨みを与えるのみである。

そして、ようやく往人が水にありつけたのは、この町の漁業基地と思われる小さな建物の片隅にある水道の蛇口によってだった。

吹き抜けに近いこの漁協の建物の中に、人が疎らにいて、魚を収めるプラスチックのトレーを運びながら雑談に興じている。多少の後ろめたさを感じつつ、その蛇口を砂漠の中のオアシスのように感じて近づいていく。

「おや、あんちゃん」

その時、近くに止まった軽トラックから降りてきた中年の女性に声をかけられた。

往人はびっくりしてそちらを振り向く。

「ああ、俺のことか?」

努めて平静を装う往人。

「見かけない顔だけど、こんなところに何か用事でもあるんか?」

「今日は暑いよな」

そんな見当違いのことを言う往人。だが、このおばちゃんは大らかな性格らしく、あまり気にしていないようだった。

「そうさな。ここ毎日、いい天気が続いてるわな」

「だから、ちょっとのどが渇いてな。そこで水を飲ませてもらおうと思ったんだけど、構わないか?」

「そうかね。別にそれは構わんけどな、あんちゃん、ヒマなんか?」

「ああ、ヒマだけならバケツに汲んで捨てるほどあるぞ」

「じゃあ、あたしと一緒にこっちに来なさい。ちょうど飯どきだ。あんちゃんも一緒にどうだ?」

のどの渇きの方がより深刻だったが、空腹の方も耐え難くなってきていた往人だった。そんな提案に心の中が音を立てて反応したような気がする。

「いいのか?」

「勿論さね。飯は賑やかに食べた方がいいに決まっとる」

「わかった。喜んでお受けする」

往人はおばちゃんのあとについて、漁協の建物の中に入った。

潮の香りに混ざって、魚特有の匂いもしている。

穏やかな波の見える一角で、三人ほどのおばちゃん連中に囲まれて、一緒に簡単な食卓を囲んだ。無骨だが味の方は文句無しの握り飯。焼き魚。野菜の煮浸し。素朴な食事ではあったが、今の往人にはそれも一級品に思われた。

水筒から注がれた冷たい麦茶を一気に飲んだ往人は、この僥倖をこういう言葉で示した。

「こんな美味い飯は初めてだ。すっかり世話になってしまったな」

「兄ちゃん、口が上手いな。でも、褒めてもこれ以上は何も出んぞ」

他のおばちゃんたちの笑い声が響く。

「いや、暑くて倒れそうだったので、本当に助かった」

「ならいいんだ」

「何か手伝おうか、ここの仕事を?」

「いや、今日はもう終わってしまったし、そんな気を回さんくてもええ」

「そうそう、わたしらももう帰るだけさ」

「そうか、とにかく、ありがとう」

考えてみると、こうして賑やかに食事するのも久しぶりのような気がする。田舎の人情に感謝しながら、体力的にも回復した往人は、食べ終わった後も底なしに話し続ける彼女たちに礼を言って、この場所を後にした。

だが、往人は重要なことを忘れていた。

外は暑かったのだ。しかも、ちょうど昼過ぎの今時分は日差しも暑さも最高潮になる頃合いである。

目的地があるわけではないから、またしばらくはこの炎天下をうろつかなくてはならなかった。

外に出て数分しかたたないうちに、どこか腰を落ち着ける場所が欲しくなった。

とりあえず、海沿いの道をそのまま歩いてみる。

海から風が来れば少しは涼しく感じられるのだろうが、このあたりは堤防が作られていて、無機質なコンクリートしか見ることが出来ない。

その反対側には、学校があるらしく、乾燥してやたらと暑そうなグラウンドと、その奥にあるどこにでもありそうな造りの校舎が見える。

授業中だからか、それとももう夏休みに入ってしまっているからなのか、学校には生徒の姿はほとんど見えない。

しばらく歩いていくと、その学校の正門が見えてきた。道が小規模なロータリーのようになっており、堤防が続いていた海側の方も、にわかに開けてきている。

ようやく海が臨めるようになった往人は、自然にそちらの方に足を向けていた。待望の海風が往人のもとを流れていく。

湿った風に、強い潮の香の混ざっていたが、とにかく気持ちがよかった。

立っていれば全身でその風を感じることが出来る。

左手には砂浜が続いている。今立っているコンクリートの護岸は、ちょっとした船着き場のようにもなっているらしく、もう一段下にある海際までの階段が設けられていた。

その一段に、往人は腰を下ろした。

日差しは相変わらず厳しかったが、風のおかげで気分はよかった。

青空と、その青を映したような海を眺めていると、どこか落ち着きのようなものを感じる。

大気と海水は人間を含めた全ての生物の源なのだという。だからこそ、その間に身を置くと、懐かしさと、こういった落ち着きのようなものが感じられるのだろうか。

ふと、往人はそんなことを思った。

往人らしからぬそんな哲学的な思考とは裏腹に、すぐにもっと現実的な感覚が往人を襲ってくる。

先ほど充分に食べて、今ゆったりと体を休めていると、これまでの旅の疲れが急速に表に現れてくる。

沸き上がった眠気に身を任せた往人は、膝の上に頬杖をつくような格好でそのまま眠りに入った。

しばらくたって、学校が僅かな賑やかさを迎えた。

既に夏休みに入っているので、学校に来ている生徒は限られていたが、補習を受けていた観鈴は、ようやくそれから解放されて校舎の外に出た。

結局、この日もひとりぼっちであった観鈴は、そのまま家に帰ろうとはせずに、すぐ前にある海を見にやってきた。

おそらく母はもう仕事に出掛けてしまった時間であろうから、家に帰ってもひとりぼっちなのは変わらない。

海からの風は、観鈴も気持ちよいと思った。

時々、この海辺に足を運ぶことがあるのだが、ここにいると屋上と同じように不思議な気持ちになることがある。

やや強い風が、特徴的な制服のリボンとスカートの裾を、そして綺麗な髪を泳がせる。

そんな風の中に身を置いていると、そのまま空に浮かんで飛び上がれそうな気がする。

人はどうして翼をもっていないのだろう?

そんなことを時々、観鈴は考える。

人間は他の動物とは違って、いろいろなことが出来る生物であるという。言葉を操り、道具や火を使いこなす。そういったもので、人間自体の肉体機能ではまかなえないこともする事が出来る。

だが、空を飛ぶことは出来ない。

それを観鈴は不思議に思っていた。

確かに、飛行機や気球に乗れば空に行くことは出来る。

だが、それは本当に「空を飛んでいる」というのとは違うような気がする。

昔、この世界のどこかには空を飛べる人間がいたのではないだろうか?

でも、何かを失って、人は空を飛べないようになってしまった。

そんなことを、中学校の時の作文に書いたことがあった。同級生や先生は、それを一笑に付したが、どこかで観鈴はその自分の感覚を信じていた。

こうして風を受けていると、ますます確信してくる。

観鈴は風と空が好きだった。

そんな観鈴が、ふと人の気配のようなものを感じた。

空に向けていた顔を地上の方に降ろす。

まわりを見渡してみるが、こんな日差しの中に誰もいるはずはなかった。

そう思った観鈴が、再び空に目を向けようとしたとき、船着き場の方に小さな影があるのに気が付いた。

「にははっ、誰かいるのかな?」

誰かいたら、話しかけて友だちになってもらえるかな……。観鈴は軽い期待を抱きながら、そちらの方に歩いていく。

果たして、そこには見慣れない一人の青年の姿があった。うずくまっているようにも見えるので、心配になって観鈴はそっと話しかけてみた。

「あの……」

返事はなかった。

「もしもし……」

やはり同じだった。代わりに、寝息のようなものが聞こえてきた。

うずくまっているのではなく、眠っているようだった。

観鈴は、少しだけ考えた後、この青年の肩をつついてみた。だが、反応はない。今度は軽く揺さぶってみた。それでも同じだった。

ぐっすり眠っているのだったら、起こしてしまってはいけないかもしれない。

この人とお話しすることが出来なくて残念だったが、今日は諦めることにした。

また明日、ここに来れば今度はお話しできるかもしれない。

そう思って、青年のそばを離れようとしたとき、彼の肩が僅かに動いた。顔を起こした青年が、すぐそばにいる観鈴の方に目を向けた。

不思議そうな顔をしている。

だが、観鈴は彼に対して、笑顔を見せた。

にははっ、第一印象、って大切だよね。

そんな風に観鈴は思った。学校ではなかなか友だちが出来ない観鈴。それは自分が変な子であると思われているからに違いなかった。この前、佳乃という新しい友だちは出来たけれども、まだ実感はわかずに観鈴は寂しい思いをしていた。

どこから来た人かは知らないけれども、この人だったら観鈴を変な子だとは知らないから、ひょっとしたら仲良くしてくれるかもしれない。

そう思った観鈴の笑顔だった。

「お前は誰だ?」

当然の質問を投げかけられた。

「うーん、風が気持ちいいですよね」

「おいっ、風はいいから質問に答えてくれ」

ちょっと無愛想だったが、悪い人には見えなかった。だから、観鈴は自分の名前を教えた。

「はい、神尾観鈴といいます」

自分の名前を口に出して言ったのは、久しぶりのような気がした。観鈴は自分の名前が好きだった。だから、まだ見知らぬこの人に名前を告げるのがどこか嬉しくもあったのだ。そして、最初の予感を信じることにした。きっと、この人は自分の友だちになってくれると。

「そうか。で、俺に何の用だ?」

やはり言い方は無愛想だった。どこか不機嫌そうにも見えるが、観鈴はさほど気にしなかった。

「一緒に遊びませんか?お友だちになって下さい」

「友だち? 俺がか?」

「はい。これをお近づきのしるしに」

そう言って、観鈴はさっき買ってきたお気に入りのパックのドリンクを差しだした。海岸沿いの武田商店の自動販売機でした売っていない逸品である。

青年、往人はちょうどのどの渇きを覚えていた。いくら睡魔に襲われたからとはいえ、この日差しのもとで数時間眠っていたのである。風が熱さを和らげてはいたが、寝汗に近いものが着ているシャツにもべっとりとついている。突然現れた見知らぬ少女を、鬱陶しいとも思っていたが、彼女の差し出す飲み物はとても魅力的に見える。

「もらってもいいのか?」

「はい、お友だちですから」

勝手に決めつけたような発言だが、渇きには抗しづらい。往人は観鈴の言葉を無視してそれを受け取った。一方の観鈴の方は、その無言を肯定と解釈したようである。

「あなたの名前も教えてくれませんか?」

パックについたストローを引っ張り出して穴に差そうとしている往人に、観鈴が尋ねた。

飲み物をもらった恩もあり、それくらいは教えてやっても差し支えないだろうと考えた往人は、特に意識することもなく答える。

「ああ、国崎往人だ」

「往人さんですか」

「呼び方は何でも構わない」

「でしたら、往人さん、って呼ばせてもらいます」

「……」

往人は肯定も否定もしなかった。それよりも、今はのどの渇きを癒すことが先決である。

ストロー口を突き抜けたストローから、ほのかに甘い香りが立ち上ってきた。

この暑さの中では、甘いジュースよりもお茶などの方がよかったが、贅沢は言っていられない。そもそも、お金を持っていないのだ。

「美味しいですよ、そのジュース」

観鈴が楽しそうな笑顔を往人に向けた。この年頃の娘にしては珍しいともいえる、純粋な笑顔だった。

だが、往人はその笑顔にどこかよくない予感を覚えた。

「そうか……」

ストローが、何かの抵抗を受けているように感じる。例えば、ゼリーに差そうとしている時のような。

とにかく、往人はジュースを飲もうと試みる。

吸ってみたが、なかなか中身が上がってこない。

「な、なんだ?」

ファストフードにある、シェイクを飲もうとする感覚に近かった。あんな甘ったるいのは勘弁願いたい。往人は思った。

更に強く吸ってみる。

ようやく、中身が口に入ってきた。

嫌なものを食べてしまったような、奇妙な感覚が口中を支配した。しかも究極に甘い。のどの渇きが癒されるどころか、助長されかねない代物だった。

「新手の嫌がらせか?」

往人は「どろり濃厚」と書かれたパッケージを見て、その次に観鈴の方をにらんだ。「どろり濃厚」は確かに偽りなかったが、そんなことに感心している場合ではない。

観鈴は「なんで飲まないのだろうか?」といいたげな、不思議そうな表情で往人を見ている。

「美味しいですよね」

「何を言うか」

往人はパックを観鈴に突き返した。

「飲まないんですか?」

「遠慮する」

「勿体ないですよ」

「なら、お前が飲んでもいいぞ」

「うん、そうしますね」

往人が口を付けたものであるにも拘わらず、観鈴は気にすることなく飲み始めた。心からの幸せといったような、満足そうな表情を見せる。そんな表情は純粋に可愛らしいと往人は思った。一瞬、本当はこのジュースは美味しいのではないかと錯覚したが、さっきの味と食感を思い出し、慌てて否定する。騙されてはいけない。

複雑な気持ちで観鈴を眺めているうちに、当の本人は好物のジュースを飲み終えたようである。

「往人さん、遊びましょう」

唐突に観鈴がそう提案する。

「何故だ?」

「往人さんは観鈴ちんのお友だちだから」

「勝手に決めるな」

「でも、さっき『うん』と言ってくれました」

往人には覚えがなかった。だが、飲み物に目がくらんで、知らず知らずのうちにそう言ってしまったのかもしれない。飲み物がこんな代物だと知っていたら力一杯否定したであろうが、もはや後の祭りである。

「やむを得んな……。ただし、条件がある」

「なんですか」

「俺は今晩、泊まるところも食べるものもないんだ。それを都合してくれるならつきあってやるぞ」

かなり無茶を言っている。だが、そこまで言えば、この人なつっこい女の子も諦めてどこかに行くだろう。

そう思った往人だったが、それは甘かったようである。

「それなら大丈夫です」

「本当か?」

自信たっぷりに答える観鈴に、逆に問い直す往人だった。

「はい。観鈴ちんの家に泊まれば大丈夫」

「飯は?」

「観鈴ちん、お料理も出来るからそれも大丈夫」

いつの間にか、観鈴の言葉が親しげになっていた。観鈴の提案も、もし本当ならば相当に魅力的ではある。

「……」

「観鈴ちんと遊んでくれる?」

「……」

往人はしばらく考えた。

だが、他に選択肢はなかった。これを断れば、今日も空腹を抱えて野宿である。こんな田舎町で、人形芸をやってもお金が手にはいるとは思えない。

「分かった」

「やった、にははっ」

観鈴が再び笑顔を見せた。嬉しそうに、往人の手を引っ張って駆け出す。

「俺のどこが気に入ったんだ……」

観鈴の心を知らない往人は、そう悩まざるを得なかった。

「観鈴……、でよかったか」

立ち止まって、手を引く観鈴を止まらせた往人が、声を掛けた。

「うん、どうしたの。往人さん」

「もう一つだけ頼みがある」

「なに?」

「飲み物を買ってきて欲しい」

「うん、わかった」

観鈴が正面にある古びた雑貨屋のような店に向かって走り出す。

「あっ、待った!」

慌てて往人が観鈴を呼び止めた。不思議そうに振り返る観鈴。

「さっきのジュースじゃなく、お茶にしてくれ」

「美味しいのに」

「俺は純和風なんだ」

「残念……」

しょんぼりとしている観鈴を、あえて往人は無視することにした。幸い、観鈴はちゃんとお茶を買ってきてくれた。今度は染み渡るような涼しさが体を駆け抜けていく。

それを見ている観鈴は、終始、本当に残念そうにしていたが、往人は気にしないことにした。


この町は初めてだという往人の話を聞いて、観鈴は張り切ってあちこち往人を案内した。

とはいっても、そう広い町ではないので、小一時間ほど歩き回ると、おおよその場所は教え尽くされてしまった。最初に出会った海岸から始まり、謎のジュースを何種類も売っている商店、観鈴の通っているという学校、人通りもまばらな商店街、新旧入り交じり雑多に住宅の並ぶ街角……。

説明しながらも、道を這う昆虫や空を横切る鳥に気を取られ、往人は半ば呆れながら付き合っていたが、宿と食事を質にとられていては致し方なかった。慣れというものもあるのだろうか、それほど観鈴の相手も嫌ではなくなってきていた。この気まぐれさには平行するが、往人を楽しませようとしているのは充分に伝わってくる。

旅の中で、こういったある種のふれあいに接することも、最近は滅多になくなっていた。

日がほとんど沈んでしまった頃、観鈴は「ここが最後」と言ってこの場所に案内してきた。

商店街の奥から、少し入ったところに、一つの建物が建っている。

建物の前は少し開けた空間になっていたが、そこには誰もおらず、寂しさを助長しているだけだった。

建物に沿うように置いてあるベンチに向かって観鈴は走り、そこに腰を下ろした。

「にははっ、ちょっと疲れたね」

「いや、俺はだいぶ疲れたぞ」

「ここが最後だから」

「ありがたい」

往人も、観鈴に並ぶようにして腰を下ろした。

「ところで往人さん?」

「なんだ?」

「さっきから気になっていることがあるんだけど、教えてくれる?」

「うん?」

「これ」

往人の右側に観鈴が座っている。往人は全財産でもあるバックパックを左側に置いていたが、そのポケットから覗いている「それ」を観鈴は指差した。

往人の商売道具、人形の手であった。

「そういえば、まだ見せてなかったな」

「これはなんなのかなー、ってさっきから気になってた」

「そうか」

往人はそう言って、人形を取りだした。

「わっ」

正直言って、みすぼらしい人形だった。単に人の形をしているというだけで、服を着ているわけでもない。旅の中で何度も使われて、白い布地も薄汚れてしまっている。

観鈴はそれが人形だったことに対して驚いたのか、小汚いことに驚いたのか、往人には分からなかった。

「何のために持ってるの?」

「これはだな、俺の商売道具なんだ」

「商売道具?」

いまひとつ、ピンと来ないようだった。

「よし、特別に実演してやろう」

金にならない芸をするのは、往人の主義に反していたが、観鈴には宿と食事を保証されている。それくらい見せても罰は当たらないであろう。

往人は立ち上がり、観鈴の目の前に人形を放り投げた。

「わわ、だめだよ」

観鈴の言葉を無視して、往人は意識を人形の方に移す。

ぴょん。

人形が立ち上がった。

立ち上がった人形は、観鈴の方を向き、びしっと敬礼して見せた。

驚く観鈴を尻目に、ちょっとした優越感に浸りながら、往人は人形を操った。走らせたり、ジャンプさせたり、簡単にいろいろな動作をさせた後、再び観鈴の正面に戻って、深々とお辞儀をする。

人形に手を伸ばそうとした観鈴に気が付いて、往人は意識を人形から外した。

生き物のように動いていた人形がぱたりと倒れ、単なる布の塊に戻った。

「あっ」

「演者には手を触れないようにお願いします」

往人がわざとらしく丁寧にそう言うと、観鈴は残念そうに姿勢を戻した。

「にははっ。不思議……」

「だろうな」

「ねえ、往人さん、どうやって動かしてるの?」

「俺の力だ」

「ちから?」

「ああ。上手く説明できないし、説明しても信じてもらえないんだが」

「そんなことないよ」

「端的に言えば、物に触れずに動かすことの出来る力だ」

「すごいな、往人さん」

そんな説明でも、観鈴は信用しているらしい。この信頼はいったいどこからくるのだろうか。往人は不思議に思った。とにかく、純粋な女の子である。

だが、観鈴は気まぐれでもあった。

日はもはやすっかりと傾き、東の空は既に夜の支配するところとなっていた。薄い明るさに遠慮するように、星がいくつか天空で輝いていた。

明るい星を見つけた観鈴が、興味をそちらに向けたとき、その観鈴の視界を横切るものがあった。

「あれ?」

「おいおい……」

人形と全く別の方向を向く観鈴に呆れながらも、往人も視線をそちらの方に向けた。

観鈴と空の星の間を、ゆっくりと泳いでいるのは、いくつかのシャボン玉であった。

「わっ、シャボン玉。どうしたんだろっ」

自分たちの他に誰もいないと思っていたので、その存在に少し驚いていた。当然、このシャボン玉を吹いている人間が近くにいるに違いない。

「こんなところで遊んでいるやつがいるのか?」

「にははっ、そうみたいだね」

「そう言えば、一つ気になるんだが……」

シャボン玉の一群が、再び観鈴たちのいる辺りに迷い込んできた。のんびりと漂うシャボン玉に手を伸ばした観鈴だったが、勿論、触れた瞬間に割れて消えてしまう。

「あっ……。どうしたの、往人さん」

観鈴が往人の方に振り返った。街灯に照らされていくつもの色に輝いているシャボン玉が、目の前の少女を幻想的に飾り立てていた。まるで、シャボン玉を身に纏っているかのようでもある。

「ここは駅のようにも見えるんだが、人が全然いない気がするのはどうしてだ」

「うん、それはね……」

観鈴がそう言いかけた時だった。

「この駅には、もう列車は来ないのですよ」

別の声が往人の背後から聞こえてきた。

「おわっ、誰だっ」

不意をつかれた往人が慌てて後ろを向く。

そこには、石鹸液の入ったプラスチックの小瓶と、先の開いたストローを持っている少女が立っていた。

年の頃は、観鈴と同じくらいだろうか。長い髪を小さなリボンで留めている。観鈴よりも穏やかさと落ち着きが感じられるのは、黒のブラウスと白のロングスカートという出で立ちのためであろうか。

ブラウスの黒と、髪の黒が競い合っているように思える。そしてその黒が強調されることにより、今度は少女の白い肌をいっそう引き立たせる。そんな魅力をもった女の子だった。

「こんにちは」

その声はどこか音楽的だった。

「あっ、遠野さん」

観鈴が嬉しそうにこの女の子に声を掛けた。

「なんだ、知り合いなのか?」

「うん、わたしのクラスメイトで……」

「遠野……、美凪と申します」

そう言って軽く頭を下げた。物腰のよい少女である。名字のあと、名前を言うのに躊躇があったように感じられたのは、往人の気のせいであろうか。

「こちらの方は?」

「往人さん。わたしのお友だち。にははっ」

往人より先に、観鈴がそう紹介した。「勝手に友だちと決めるな」と言おうとした往人だったが、タイミングを逸してしまった。

「国崎往人だ」

簡潔に補足する。

「そうでしたか」

「ところで、その遠野さんに質問だが……」

「はい?」

「さっきの言葉の意味は?」

「さっき、ですか?」

「そう、もうここに列車は来ないとか言っていたが……」

「そうなんです。最近まで、この町にも鉄道が通っていて、ここに駅があったのですが、先日、廃止されてしまったのです」

「そうか、残念なことだな」

「……はい」

少しだけ寂しそうに俯きながら、美凪が言った。鉄道が無くなっても駅に来ているということは、何か人並み以上の思い入れがあるのだろうか。

「それで、列車も来ない駅で、君は何をしていたんだ?」

シャボン玉ともすぐには結びつかない。

「親友と遊んでいたんです」

「ほう……」

「もう遅くなったので、彼女は帰ってしまったのですが、これが少しだけ残っていたので」

石鹸液を軽く振ってみせる。

「なるほどな」

「一方の国崎さんたちの方は?」

「往人さんは旅の人なんだって。この町にしばらくいるって言うからいろいろ案内してたの」

「しばらくいる」というのは観鈴の勝手な思いこみだった。しかし、わざわざ否定することの無意味さを悟り、往人はあえて黙っていた。

「そうですか、ゆっくりしていって下さいね」

「あ、ああ……」

彼女たちのペースに乗せられてしまっている気がする。

「それに、往人さんは不思議な力を持ってるの」

「不思議な力、ですか?」

「うん。ほら、あそこに転がっている人形。あれを動かせるの」

美凪の登場によって忘れ去られていた人形が、ベンチの前に放置されたままになっていた。

「むっ」

往人が慌てて回収する。大切な商売道具である。

「ねっ、往人さん、もう一度やってみせて」

観鈴がそうねだってくる。だが、往人に無賃で芸を見せるつもりはない。

美凪が興味津々という表情で往人を見つめているが、往人は全く顧みなかった。

「いや、今日はもう店じまいだ」

「残念……」

美凪が残念そうな顔をする。口数はそんなに多くないが、表情は豊かな子のようだった。

そう言いながら、ポケットから一枚の封筒を取りだした。

「残念賞を進呈します」

「いや、俺は別に残念ではないが……」

「細かいことは気にしないでください」

「そ、そうか……」

会話の流れで、往人はそのまま封筒を受け取ってしまった。表書きに毛筆で「進呈」と書かれている。ひょっとしてお金でも入っているかと往人は期待して、中を覗き込んだ。

中には紙切れが一枚入っているようだ。それを引っ張り出してみる。

「全国共通お米券」

往人は沈黙した。

「これをどうしろと?」

「日本人はお米を食べないといけません」

美凪が力強く主張する。

外見も可愛らしく、仕草も落ち着いて見える美凪だったが、どこかつかみ所のない奇妙さがある。観鈴にしろ美凪にしろ、とにかくこの町に住んでいる女の子というのはみんなこんな感じなのだろうか。そう思うと、往人は少しばかり身震いした。

「ま、それには賛成だな」

「日本人はお米族」

美凪が言った。

「お箸の国の人だから」

何故か観鈴もそう言って同調した。

「まあ、また会うこともあるだろう。しばらくの間、宜しく頼む。遠野さん」

「『遠野』で構いません」

「そうか。『美凪』じゃまずいか」

「いいえ。でも私は名字で呼ばれる方が好きですので」

「わかった」

「私ももう帰りますね。これももう終わりですし」

美凪がそう言ってストローを石鹸液に浸し、最後のひと吹きをした。強い息だったからか、今度は小さいシャボン玉が無数に空に舞い上がっていく。

「にはは、きれい。観鈴ちんたちも、帰ろう?」

「そうだな。腹が減った。食事はちゃんと保証してくれるんだろうな」

「うん。すぐ作るから」

「頼む」

三人が帰ってしまうと、駅は再び静寂に包まれた。無数の星の輝く夜空が、この町を見下ろしている。

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