「北川君、ちょっといいかしら」
五時間目の終わった後の休み時間に、ちょうど名雪や祐一がいないのを見計らって香里が北川に声を掛けた。どうやら、五時間目の授業中は白河夜船であったらしい北川は、眠そうな目をこすりながら、香里の方に顔を向けた。
「うん、なんだ?」
「あなた、さっきの授業中はずっと寝てたの?」
「うっ……。しかし、そんなことを言うために……」
「そんなわけないでしょう。実は、北川君に話したいことがあるの。放課後、ちょっと時間をもらってもいいかしら」
「ああ、わかった。教室に残ってればいいか?」
「ええ、お願いね」
香里は何気なさを装ってはいるが、それを北川に伝えるために相当の決心を必要としていた。北川も、香里がどんな話をしたいのか、薄々とは感じている。
教室の中ということもあり、それ以上は言葉を加えず、香里は一度教室を出ていった。北川も、入れ替わりで戻ってきた祐一と、昨日遊んだ新作のゲームについて話し始める。
すぐにチャイムが鳴り、二人は席に着いた。香里と名雪も、別々にであるが急いで教室に戻ってきて、自分の席に腰を下ろした。
六時間目の授業は、退屈であることには変わらなかったが、北川は時々香里の方を見ながら、漠然と教師の話を聞いていた。どちらかというと板書の少ないこの授業では、北川もほとんどノートを取っていなかった。
一方の香里は、真剣に教師の方を見ながら、その話の要点要点をノートに書き留めている。テストになればこの差が大きく利いてくるということを知りつつも、北川はノートを開くことはなかった。
今の香里の心境がどこにあるのか、それを知りたいと思っていた北川は、授業の方にはほとんど意識が向いていない。
祐一はそれなりにまじめに授業を受けているようだったが、名雪は相変わらず上下の瞼の仲がよいようだ。
そうして人それぞれの五十分が過ぎると、今日の授業もすべて終わり、開放感が教室を覆った。
掃除当番や部活のない生徒は、足早に帰宅の途に就く。名雪は早々に部活に向かい、祐一は今日も例の新作ゲームの攻略に挑戦すると言っていた。
北川も誘われたが、今日は別の用事があるといって断った。
「攻略の成果を後で教えてくれよな」
「ああ、期待してろよ。じゃあ、またな」
「つきあえなくて悪かったな」
「気にするなよ」
掃除の邪魔になっては悪いと思い、鞄を持って廊下に出る。
香里の姿を探そうとしたとき、当人が教室からやはり鞄を手にして出てきた。
「よっ、お疲れさん」
「今日はつきあわせちゃって悪いわね」
「いいって。それで、やっぱり場所を移すか?」
「ええ、そうしてもらえるとありがたいわ」
「じゃあ、行こうか」
そんな普通の会話の中に、これからの話に対する緊張感のようなものが微妙に含まれている。
校門を出ていつもの通学路を並んで歩き始めるが、二人とも普段より口数は少なかった。
「こっちを歩きましょう」
ある曲がり角まで来たとき、香里はそう言っていつもとは別の方向に曲がった。
静かな住宅街に雪が舞い、それが周りの音を吸い込んでいるようだった。自分たちの雪を踏む音以外は聞こえず、それが北川の緊張感を増幅させていく。
北川にはなじみのない道を、香里と並んで歩いていくと、やがて少し広い公園に出た。
いい季節になれば、花や緑が賑やかになるであろうこの公園も、今はひたすらに白に支配されていた。かろうじて除雪された小道を歩き、大きな噴水のある広場にたどりついた。
「この辺でいいかしら。喫茶店に行こうかとも思ったんだけど、やっぱり……」
「ああ、俺は平気さ。美坂こそ、寒くないか?なんだったら、俺の上着を貸すけど」
「ありがとう。でも私も平気よ」
その時、噴水が勢いよく水を噴き上げ始めた。
「こんなの見てると、ますます寒くなってくるな……」
「そうね。でも、冬の間でも動かしておかないと、凍結してしまうかららしいわ」
「なるほど」
そして、香里が本題を切り出した。
「北川君、この木の間から向こうに、建物が見えるでしょう?」
「ああ」
それは北川もよく知っている建物だった。自分の母親が入院していた、そして今は栞が入院している病院である。
「あの子……、栞のいる病室から、この公園がよく見えるのよ」
「そうか……」
「元気になったら、お姉ちゃんと一緒に遊びに行くの、ってそう言ってたわ」
「……」
「北川君に栞のことを言われて、私、いろいろ考えたわ」
「そうか」
「私には妹はいないなんて、嘘をついていて悪かったわね」
「いや、それはいいんだ。美坂のことだから、何か事情があったんだろうし。これは俺の推測だけど、美坂は苦しんでいたんだろ?」
「ええ……。どうしてあんなことを言ったのか、話すわね」
「いや、言いたくなかったら別に無理しなくてもいいぞ」
心配そうに香里の方を見た北川だったが、香里はゆっくりと首を横に振った。
「ううん、無理してたのは今までの方ね。私、さっきも言ったように、いろいろ考えたのよ」
「ああ」
「そうしてね、決めたの。意味のない現実逃避はしないことにするって」
「意味のない現実逃避?」
「ええ」
香里は北川の正面に立った。そして、一度大きく呼吸をした後に、静かに今までのことを語り始めた。
「栞は、昔から病弱だったわ。中学の時も半分くらいは学校を休んでいたの。そんな栞がかわいそうで、よく見舞いに行ったわ」
「やっぱり寂しかったのね。私が行くといつも喜んでくれた。勉強が遅れてるのも気にしてたみたいで、私が病院で教えてあげることもあったわ」
「そんなだったから、高校に進学するのは、両親はあまり求めていなかったみたいなんだけど、栞はどうしても行きたいってがんばってたわ」
「それだけじゃなくて『どうしても行きたい高校がある』って言うから、それはどこかって聞いたら、『お姉ちゃんと同じ学校』って言うの」
「『お姉ちゃんと一緒に登校して、お昼休みに一緒にお弁当を食べたりしたい』ってそんなことを言ってたわ」
「で、栞はがんばって、見事に合格したのよ」
お揃いの制服を着て、並んで写真を撮ったときのことを香里は思い出した。
「少し具合もよくなってね、この分なら大丈夫だってお医者さんにも言われてたんだけど……」
「待ちに待った入学式の日、初めて入った自分の教室で、栞は倒れたのよ」
「そのまま、病院に直行して、それからはずっと入院生活。勿論、私は何度も栞の見舞いに行ったわ」
「私は、栞のために、学校の話をいろいろしたの。栞はそれを楽しそうに聞いてたわ。私は、早くよくなってまた一緒に学校に行こうね、って心からそう思って栞に何度もそう言ったの」
「病気でつらい思いをしているはずなのに、栞はいつも笑ってたわ。テスト前で気が立っているときなんかは、私の方が栞に勇気づけられたくらいよ」
「私も栞も、確かに長い病気だけど、必ずよくなると信じていたわ」
一度、香里の話が止まった。黙って聞き続けていた北川は、それが何を意味するのかを敏感に察していた。
「でも……」
「秋もかなり深まってきたある日、私は家で両親に説明されたの、栞の病気のことをね。病気の名前は忘れてしまったけど、一つだけはっきりしていることがあるんだって」
「もう、数えるほどしか寿命が残されてないんだって、あの子は……」
「そのことは、栞には黙っているように言われたわ。私もそのつもりだった。だけど、その次に栞のお見舞いに行ったとき、いつもと同じようには栞は見られなくて……」
「栞は敏感に気付いたわ。私はどうしても隠すことが出来ないで、あの子に本当のことを教えてしまったの」
「その時、栞が取り乱して泣き出したりしたら、きっと私は今みたいにはならなかったわ。でも、私が栞に死刑宣告したとき、あの子は笑ってたのよ!」
「栞の笑顔を、私は大好きだったし、それは今でも同じなの。でも、それ以来、栞の笑顔がつらすぎて見られなくなってしまったの」
「栞が死んじゃうっていう現実も、受け入れられなかった。栞のいなくなったあとの自分なんて考えられもしないで」
「その時、私はこう思ったわ。『最初から妹なんていかったんだ』って思えばいいんじゃないの、って」
「そうすれば、妹を失う悲しみなんて味わわずにすむって、そう考えたのね。そして、私はそこに逃げることにした」
香里がすがるような目で北川を見つめていた。
いつも冷静な香里が、普段の学校生活の中でどれほどのものを抱え込んでいたのか、それを思うと、北川にはどうともいえない愛おしさのようなものが感じられた。
香里は、自分のそんな考え方が誤っていることを当然知っているだろう。それであってもそうせざるを得なかった香里の気持ち、そういったものを、北川はしっかりと受け止める。
友人として、いや、好きな人に対して、自分は何を言えるのか。そんなことは決まっていた。
「美坂は、間違ってたな」
「ええ、そうよ。逃げても意味なんかなかったの。でも、私は栞の存在を否定しようとした。だから、栞のお見舞いにも行かなかったし、家で栞の話題が出ても何も答えなかったわ」
「そのころだな、俺が栞ちゃんに会ったのは」
「そうね……」
「で、今はどうなんだ。結局、俺が美坂を追いつめた形になったけど。美坂のそんな事情なんか知らない俺は、『どうして美坂は妹の存在を隠すのか』ということだけで香里を追いつめて……」
「私も、最初は思ったわ、なんで北川君は私の見せたくないところに踏み込んでくるのって」
「……」
「でも、そうじゃないって分かったわ。普通だったら、『なんだ、この女は』って反感持つわよね。でも、北川君はそうでなくて、本当に私のことを心配してくれてるって分かったの」
「そうか、俺のしようとしたことは無駄じゃなかったんだな」
「無駄どころじゃないわよ。私の目を覚まさせてくれたんだから」
「……」
「もう、栞のことから目を背けないわ。現実にはしっかり向き合う」
「ああ……」
「でも、やっぱり怖いの。北川君にはそれを分かってもらってもいい?」
事実、香里の手は少し震えていた。今までため込んできたことを話して、気が楽になった反面、もう引き返せない覚悟を突きつけられているのも事実だからである。
そんな香里の手を、北川はそっと握った。香里の手は冷たかった。
香里は、北川の手の温かさと、握る力に安心感を覚え、その手を自らも握り返した。
ほんの少しだけ、北川は香里の体を引き寄せた。
今まで経験したことのなかった距離で、二人は向き合っていた。
不安とうれしさ、そしてまだ確実に存在している悲しさを同居させた表情で、香里は北川を見る。そんな香里が、北川にはとても綺麗に見えた。香里の心情を思うと、それは不謹慎であったとしても、思ったことは事実だった。
「でも、どうしてそんなに私のことを心配してくれるの?」
香里が言った。
「そりゃ、付き合いの長い友達だからさ」
北川はそう答える。だが、それに対して、香里は冷静にこう指摘した。
「うそね」
「……」
その意味が分かったので、北川は無言でしかいられなかった。
「だったら、本当のことを言ってもいいのか?」
香里も沈黙していたので、北川はそういう言い方をした。香里が自分の言葉を否定したのは、香里自身にも、少なくとも北川の気持ちを拒絶するつもりはないからなのだろうと推測したからである。
「ええ」
「美坂の今の立場を考えると、こんな時に言うべきじゃないとは思うんだけど……」
「こんな時だからこそ、言って欲しい言葉もあるのよ」
「……」
香里はそう言ったが、北川にはすぐに言うことは出来なかった。香里の不安定な気持ちに乗じるのではないかという、多少の後ろめたさがある。だが、北川が香里に対して持っている気持ちは、今やはっきりとして一点の曇りもない。それを気付かせてくれたのは他ならぬ香里自身であった。
「俺は、美坂のことが好きだ」
千金以上の価値を持つ言葉が、北川の口から発せられた。
香里は、それを聞いて目を潤ませ、静かに頷いた。この人がいれば、栞の運命ともきちんと向き合える。そんなことも思った。
「ありがとう。今は、それだけしか言えないけれど」
「わかってるさ。ただ、はっきりしていることを美坂に伝えたかった。それだけさ」
「うん、ありがとう」
前の「ありがとう」とは少し意味が違っていた。香里にとっても、この目の前の同級生に対して自分がどういう気持ちを抱いているのかはもうはっきりしている。だが、北川とは少し異なった意味で、香里も後ろめたさを持っていた。
お互いが想い合っていることはこの時点ではっきりしていたが、それを言葉というもので再確認するまでには至っていない。
そこにはまだ少しの時間ときっかけを必要とするようだった。
香里が、北川の胸に顔を埋めた。男性の体のたくましさ、頼りがいというものを、香里は初めて感じた。わずかの間だったが、香里はそうして北川に身を預けていた。
寒い公園の中だったが、今だけは温かいと感じられる。
やがて、香里は身を起こすと、病院の方を向きながらこう言った。
「明日、栞のお見舞いに行ってくるわ」
「それがいいさ、きっと栞ちゃんも喜ぶさ」
一度やんでいた雪が、再び降り始めた。
北川が駅に向かって歩き始めると、香里も静かにその後ろに続いた。
「お姉ちゃん?」
久しぶりにこの病室に入ったとき、栞は不思議そうな顔を見せていた。そんな栞に向かって、香里は優しく微笑みかけた。この子が、自分にとって大切な妹であること、香里はそれから逃げようとしていたのだ。取り戻さなくてはならない。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
栞が涙を見せていた。いつも笑顔で、自分の病気が治らないものだと告げられた時ですら笑っていた栞が、自分を見て泣いている。
香里は、もうじっとしていることが出来なかった。
「お姉ちゃん、会いたかったよ……」
「久しぶりね、栞。元気にしてたかしら?」
栞は涙を撒きながら首を何度も横に振った。
「元気じゃなかったよ。ずっと寂しかった。わたし、お姉ちゃんに嫌われちゃったってずっと思ってて……」
「ごめんなさいね、栞」
「ううん。お姉ちゃんに嫌われたんじゃなくて、よかった」
「栞に嫌われるのは、私の方かもしれないのよ」
「どうして、わたしがお姉ちゃんを嫌うの?」
「今まで来なかった理由を聞いてもらえるかしら」
抱きついていた栞がようやく体を離すと、香里は静かにこれまでのことを話し始めた。栞の笑顔が痛かったこと。「妹なんていない」って思いこもうとしたこと。そのために、大事な友人に偽りまで言ったということ……。
「わたしのせいでお姉ちゃんを苦しめて。ごめんなさい」
「なんで栞が謝るのよ。あなたはしっかりした強さを持ったいい子だった。私が弱かっただけよ」
「ううん、わたし、元気に笑って見せてたけど、本当はお姉ちゃんがいないと何も出来ない弱い女の子だから」
「いいえ、あなたは、私が誇りに思える立派な妹よ」
「大好きなお姉ちゃんがそんなこと言ってくれて……」
栞が再び声を上げて泣いた。香里は、そんな栞を抱き寄せながら言う。
「どうしたの、今日の栞は泣いてばかりで」
「だって、お姉ちゃんがいるんだもん」
「ありがとう、栞。でも、お姉ちゃんはちゃんと知ってるわよ」
「えっ、何を?」
「私のいない間、栞のことを見つめて支えてくれてた人がいるってこと」
「わたしを……、支えてた人?」
「そう。その人は北川って名前でしょう?」
「どうして知ってるの、お姉ちゃん……。あっ!」
「聞いたわ。私に、『栞にちゃんと会いに行け』と行ってくれたのもその人なのよ」
「そうだったんだ、北川さん……」
「あなた、病院を抜け出して、学校に北川君に会いに行ったでしょう?結局、会えなかったみたいだけど」
「うん……」
「で、代わりに別の人に会ったわよね。その人は、相沢君かしら」
「祐一さん?」
「この子、もうそんななれなれしい呼び方してるのね。私ですら『相沢君』なのに」
「お姉ちゃん、祐一さんのこと知ってるの?」
「当たり前じゃない。相沢君は、名雪のいとこよ。彼が引っ越してくる前からいろいろ話も聞かされてたの」
「名雪さんて、お姉ちゃんの親友だよね?」
「そう、相沢君が来るって決まってから、名雪はその話ばっかりしてたのよ。残念だけど、栞が付け入る隙はないわね」
「祐一さんとはそんなんじゃないよ」
「あと、念のために言っておくけど、北川君もダメよ」
「えっ?」
「北川さん、彼女がいるの?」
「今はまだいないみたいね。でも、それももう少しの間だと思うわ」
「そうなんだ……。ちょっと残念」
「ふふっ、栞は私と違っていい子だから、彼氏なんかすぐに出来るわよ」
「お姉ちゃんより先には無理だよ」
「そうね、私も負けられないわ」
涙目の栞が、ようやく笑った。お互いのことを大切に思っているこの姉妹は、たとえ会えなかった期間が長かったとしても、その気持ちを失うことは決してなかった。故に、こうして向き合えば瞬時にして仲のよい姉妹に戻ることが出来る。
栞の病気は、よもや膏肓に入っているのかもしれないが、そんなことは二人とも微塵にも感じてはいない。それを逃避というのは自由かもしれないが、そう言い切ることが出来るのはよほど冷たい人間だけであろう。
「だけど、無理しちゃダメよ、栞。この寒い中、学校に行って、中庭に立ってるなんて」
「うん」
「まさか、あんな寒い中でアイスクリームを食べたりはしてないでしょうね?」
「ごめんなさい、食べちゃった……」
「……」
「祐一さんに学校の売店で買ってきてもらったの」
「明日、相沢君には『妹を虐待しないように』って厳しく言っておくわね」
「だめだよ、お姉ちゃん。買ってきて欲しいって言ったのはわたしなんだから」
「ふふっ、冗談よ。でも、今の栞に出来ることは、自分の体に負担かけることじゃないでしょ?」
「うん……。でも、この病室で寝てるだけって、やっぱり嫌……」
寂しそうな顔をする栞。だが、香里はそんな栞の頭にそっと手を乗せて優しく言った。
「一度はあなたに会わない決めた私が、今、こうしてここにいるわ。栞が北川君や相沢君に会ってなければ、最後まで来ることはなかったかもしれないわね」
「……」
「でも、そうはならなかった。人は、自分の考えていない方向に向かわされることもあるみたいね」
「うん……」
「だから、私は今度、奇跡をお願いしてみることにするわ」
「奇跡?」
「栞の好きなドラマでは、よく起こるでしょう?絶対無理だと諦めていた相手が自分を好きになってくれたりなんて、あなた、そういうのが大好きだったでしょう」
「だって……」
「だったら、栞の病気は治るっていう奇跡だって起きる可能性はあると思わない?」
「そうだと……、いいな」
「奇跡っていうのは、ふさわしい場所では割と起こりえるものなのよ」
「ありがとう、お姉ちゃん。だったら、わたしはお姉ちゃんが幸せになれるようにお願いする」
「そうね、栞が私の幸せを願ってくれてるのなら、その奇跡っていうのを起こしてみなさい」
「うんっ」
栞が、また涙を見せた。今度は笑いながらの涙だった。
「今日は、本当によく泣くわね」
「だって、お姉ちゃんがいて嬉しいんだもん」
「それは、わたしも同じよ。栞がいて本当によかったわ」
香里は、しっかりと栞を抱きしめた。栞のぬくもりを感じながら、それを取り戻させてくれた大切な人のことも香里は考えたのだった。
そして、二月に入った。
二月の最初の日は、栞の誕生日だった。勿論、香里はプレゼントを持って栞に会いに行った。
一月の末から、徐々に元気がなくなっていき、時々咳き込んだり、つらそうな表情を見せる栞だったが、この日は嬉しそうにそのプレゼントを受け取った。
「開けてみてもいい?」
「もちろんよ」
「わぁっ、可愛い……」
香里が買ってきたのは、花をあしらった小さなブローチだった。前に贈って、今でも気に入って外出の時にはいつも身につけているストールによく似合うデザインのものを探してきたのだ。
「これをつけて遊びに行けるようになりなさいね」
「うん」
確実に体が蝕まれているのだとしても、この瞬間ははっきりとそうなる時が来ることを栞も香里も信じていた。
それから数日、そのつかの間の元気を反転させたかのように、栞の具合は悪化していった。
それでも、栞はまだ生きている。
病院に栞を見舞っても、寝たままであることもあった。
栞の手をそっと握り、それだけで終わる日もあった。静かに眠っている栞は、何を思っているのだろうか。そんなことを香里は考えた。
栞の病気がどのような状態にあるのか、香里は話さなかったが、名雪や祐一は薄々と気付いているようだった。
あからさまに気を遣うことなく、学校では普段通り振る舞ってくれる二人に、香里は感謝していた。北川には、もう少し多くを話していたので、彼も学校の中では名雪たちと同じように接してくれていた。学校の外では、本当に香里の支えになるために北川はいてくれた。
どうしても弱気になる香里を、時には言葉を以て、時には無言で支え続けているのが北川だった。
北川の気持ちを聞いて以来、香里は明確にはそれには答えていなかった。だが、香里にとっては北川は単なる支えだけという存在ではない。
ある意味では機械的に栞のいる病室に向かう香里は、そんな気持ちを心の拠り所にしているのだった。信じたかった、栞の病気が治るのだということを。
「次の誕生日は迎えられないだろう」
そう言われていた栞だったが、誕生日を一週間過ぎても、まだしっかりと生きていた。だがその病は篤く、誤差があったとしても結末は変わらないのではないかと感じさせる現実があった。
それでも、まだ栞はいなくなってはいないのだということを、香里はしっかり事実として認識し、それによって崩れそうになる心を支えていた。
時には、刹那的な気晴らしと知りながらも、名雪たちと遊びに行くこともあったし、授業中は勉強に没頭する。一人になると泣きそうになる自分を、辛うじて支える。その無理が破綻する前に、そっと北川が手を差し伸べてくれる。そんな絶妙のバランスの中で香里は生きていた。
そして、そんな生活は十日と続くことはなかった……。
二月十日。
この日も、北川はいつものように慌てながら学校に行く支度をしていた。
制服に着替えてリビングに向かい、急ぎの朝食を取る。
「あんた、時間は大丈夫?」
茶碗にご飯をよそいながら、母が言う。
「ちょっと急げば大丈夫。だから、早く味噌汁、母さん」
「わかってるわよ」
苦笑しながら台所のコンロに手を伸ばす。
一方の父は、北川の向かいに座って、新聞を読みながらお茶を飲んでいる。
北川と違って、時間に余裕を持って行動できる父が、今はうらやましく思えた。
その父の持っている新聞の一面、トップニュースの脇に、ある記事が目に入った。
「新薬開発により、株価ストップ高」
株価ストップ高という言葉の意味は北川には分からなかったが、その「新薬開発」という言葉に興味を覚える。
「父さん、ちょっと一面の記事だけ見せてくれない?」
「ああ、構わんぞ。しかし、潤が新聞に興味を持つなんて珍しいな」
「悪かったね」
「いや、誉めてるんだぞ」
「はいはい」
母の持ってきた味噌汁を受け取りながら、その新聞記事に目を通す。
ある製薬会社で、世界で初の難病治療薬が完成し、原因不明のために治癒率が零に近かった病気に、相当の治る可能性が出てきたという内容だった。昨日の記者会見で新薬の概要が発表され、それを受けて、午後の取引所で一斉に買いが入り、前日比五百円高のストップ高で取引を終えたと説明されている。
隣の枠の中にある「今日の言葉」の中に、その病気のことが説明されている。原因不明の慢性病で、徐々に衰弱して、やがて死亡に至る。今回の新薬は、その原因を特定できたために開発が可能になったと書かれている。
その病気の名前は、普段全くなじみのないものであったが、北川にとっては一点だけそうではなかった。
聞いたときは、「長ったらしい名前の難病」としか思わなかったが、その記憶が、目の前の活字と一致した。
栞の罹っている病気の名前である。
「おい、そろそろ父さんは会社に行くから、返してくれないか」
「うん、わかった」
興奮を隠せずに、北川は父に新聞を戻した。
そして、慌てて食事をかたづける。
「あんた、いくら慌ててるからって急ぎ過ぎよ。もっと落ち着いて食べなさい」
「わかってるよ」
言葉とは裏腹に、北川は高速で食事を終えた。そして、学校に向かって駆け出す。
香里は、このニュースを知っているだろうか?
途中にあるコンビニに寄って、家で取っているのと同じ新聞を買った。そして、一刻でも早く香里に会おうと全力で学校に向かって走っていく。まだ、予鈴までは充分に余裕がある。
教室に到着した北川は、香里の姿を探した。だが、まだ来ていないようだった。
はやる心を少しは落ち着かせようと、買ってきた新聞記事に改めて目を通すことにした。
経済や化学のことはよく分からない北川だったが、この新薬開発が画期的であるということは、記事の書かれ方からよく理解できた。
症例の多い病気というわけではなかったが、世界に数千人規模で栞と同じ病と戦っている人たちがいるのだという。栞だけでなく、そんな人たちにとっても希望の光たりえるのだろう。
北川は、栞の笑顔を思い出した。つらいときや寂しいときでも笑っていられるのは、栞の強さだったということに気が付いた。大好きな姉に嫌われたのではないか、自分の病気ももう治らない、そんな状況の中でも笑顔でいられたのは何故か。北川は考えてみたこともなかった。
ドラマの中にだけにある出来事のような奇跡を求めて、それを祈って、ついに手の届く場所までやってきた。
奇跡が起きたのは、誰のためで誰のおかげなのか。北川はそんなことを思ってみた。
「おはよう、北川君」
聞き慣れた、自分の一番好きな人の声が聞こえた。
新聞に落としていた目を上げて、香里の方に目を向ける。
「珍しいわね、新聞を読んでるなんて」
北川は、新聞を置いて立ち上がった。そして、心を落ち着かせるように自分に言い聞かせながら、香里に問いかける。
「美坂、今日の新聞は読んだか?」
「新聞?うちはお父さんが朝、持って出ちゃうから読まないのよね」
「そういえば、そんなことを言ってたかもな」
「それがどうしたの? 何か重要なことでもあるの?」
「ああ、かなり重要だと思う。うちも、親父が持っていくんだけど、たまたま朝、見つけたニュースがあったから、途中で買ってきたんだ」
「ふーん、そんなに重大なニュースなの?」
机の上にあった新聞を、北川は香里に差し出した。
「一面の脇の方にある記事……。これを読んでみてくれ」
「わかったわ」
北川の勢いに押されながらも、香里は鞄を自分の机に置くと、その記事を読み始める。
教室には他の生徒の姿は数人しかおらず、それぞれ授業の準備やら買ってきたマンガ雑誌に夢中になるやらで北川たちのことを気に掛けているものはいない。
香里の顔色が変わっていくのが分かった。
北川の記憶にも引っかかっている病名を、香里が思い出せぬはずはない。
「……」
「どうだ?」
香里が、にわかには信じられないという表情で北川のことを見つめていた。目がほんのわずかに潤っているのに北川は気が付いた。
「栞が、治るかもしれないっていうこと?」
北川は静かに頷いた。手術を経て、この薬を投与しても必ず治るというわけでなかったが、それでも完全な絶望からは救い出されたのだ。
誕生日まで生きられないと言われていた栞が、今までなんとか生きているのは、ひょっとしたらこの知らせを待っていたからではないのだろうか。
「北川君!」
「どうした、美坂」
「栞が前に私に言ったの。『わたしの病気は奇跡でも起きなければもう治らないんでしょ。でも、起こらないから奇跡っていうんだよね』って」
「……」
「その時、私はこう答えたわ。『ふさわしい場所では奇跡はそれなりに起こり得るものなの』って。北川君、私たちはそのふさわしい場所にいると思う?」
「俺は、そう思うな」
北川が断言する。香里が栞に向けた言葉も、北川の今の言葉も、気休めなどではなかった。心からそう信じていることであり、そう信じていたからこそ実際に奇跡が起ころうとするところまで到達できたのだといえる。
「私、今日、病院に行ってみるわ。先生なら勿論、この薬のことは知っているだろうと思うし、栞にも教えて励ましてあげたいわ」
「それがいいと思う」
北川が香里の肩にそっと手を乗せた。香里には、それがとても頼もしく感じられる。北川のその手の感触と、それだけでは感じることの出来ないはずの暖かみが香里の心を潤ませた。
香里が北川の顔をじっと見つめた。そうしていないと、こんな教室の中で泣き出してしまいそうに思えたのだ。
「ありがとう、北川君」
「いや、俺は何もしてないさ」
「何言ってるのよ。北川君の気持ち、私にはよく分かっているわ。私も……」
教室にはぼちぼちと他の生徒がやってきていた。それでも、この会話を誰かに聞かれていなかったことはある意味では幸運であったかもしれない。
予鈴が鳴り、その音と共にあわただしい二組の足音が聞こえてきた。
「おはようっ、香里」
「はぁ、なんとか間に合ったな……。おはよう」
祐一と名雪だった。
「あなたたち、相変わらず体に悪い登校の仕方してるわね……」
「俺は好きでやってるわけじゃない」
「わたしだってそうだよ」
「とてもそうは思えないんだけど……」
「美坂の言うとおりだと思う」
「俺もその見解に同意する。というわけで、名雪、明日からはもう少し楽に起こさせてくれ」
不満そうな名雪を、三人が包囲する。
「えっ?『起こさせて』って相沢君、あなた、名雪を起こしてるの?」
「俺の朝一番の仕事がそれだ……。あっ!」
つい口が滑ったことに気が付いた祐一が、慌てて口をつぐんだが、手遅れであった。
「あなたたち……、仲がいいのは結構だけど、それはちょっとやりすぎじゃないの?」
「そうは言うけどだな……。秋子さんですら手こずるんだからな、寝起きの名雪は」
香里も、そして北川も、パジャマ姿の名雪を起こそうと女の子の寝室に入る祐一の姿を想像している。いくらいとこ同士だからといって、少々行き過ぎではないかと感じているようだ。
それに対して、祐一はさかんに言い訳しようとしていたが、一方の名雪は、どうしてその必要があるのか、よくわかっていないようだった。
じきに担任の石橋がやってきて、朝のホームルームが始まった。
名雪たちとの会話は、香里にとっては心を少し落ち着ける役割を果たしていたようだ。
早く病院に向かいたい気持ちがあったが、六時間の授業をしっかり集中して受けたのはさすが香里であるといえよう。
放課後、真っ先に学校を出た香里を、祐一と名雪が不思議そうに見ていた。
「どうしたのかな、香里?」
「なんか、重要な用事があるって言ってたけど」
そんな二人に、北川が簡単に告げた。
「まあ、近く、詳しく話してくれると思うよ」
「そうなんだ。北川君、何か知ってるの?」
「まあ、知らないことはないけどな」
「なんかもったいぶってるな。どうも北川は香里のことになると真剣みが変わるぞ」
「そ、そんなことないぞ……」
「ま、そういうことにしておこうか」
「どういう意味だ?」
祐一は北川のその問いには答えなかった。
香里や両親が医師から受けた説明はこのようなものだった。
今回開発された新薬は病巣を探して直接攻撃するもので、二種類の薬を段階的に使用するものであるという。
栞の罹っている今の病気は、循環器に原因があるのだが、そのどこであるのかが特定できなかったことが今まで治療不可能だった理由の一つであった。
一種類目の薬を投与することにより、その病巣を特定することが出来るようになり、治療への糸口がつかめるようになった。
そのためには、手術を以て数箇所、病巣特定のための薬を打たなくてはならないのだそうだ。
その一種類目の薬によって病巣が明らかになれば、二種類目の薬をその近くに直接与えることにより、それを攻撃して治療することができる。
ただ、薬には副作用の起きる可能性も高く、体力的に弱っている患者の体力が手術に耐えられるかどうかの保証はないという。
特に栞の場合は、病状もかなり深刻に進んでいるため、仮に新薬の投与を決めるのだとしたら、一刻を争うのだといっていた。まだ実際の患者に対する臨床例に乏しいため、最悪の結果も覚悟しておいてほしいとのことだった。
香里は、どうするべきなのかは既に分かっていた。栞がこの話を聞けば、どう答えるのかも分かっている。
香里は、隣に座っている両親の顔を見た。しかし、香里が心配するまでもなく、両親の考えていることは香里と同じ場所の、更に先にあった。
「ええ、お願いいたします。栞を、治してください」
一片の曇りもない表情で、父が言った。その父の手を、母が心配そうに握っている。だが、その母も病気と闘うことになる栞のことをしっかり見つめている。
(あとは、起きるはずの奇跡を私がしっかり信じるだけね)栞の笑顔を思い浮かべながら、香里はそう思った。この笑顔を失ってはならない。栞だけでなく、自分や北川の未来のためにも。
そして、手術の前日になった。
病状が少し落ち着いた栞は、多めに点滴を受けて栄養を取り、明日の手術に備えている。
無理のない範囲でということで、面会も許されていた。
この日、香里は北川と一緒に栞の病室を訪れた。
「お姉ちゃん。それに北川さんも」
「こんにちは、栞ちゃん」
「お姉ちゃんと二人で来てくれたのは初めてですね」
「そうだね。さすがに俺は、しばらく遠慮してたから」
「今日は、いつもより楽になっています。明日の手術、がんばりますね」
「その意気よ、栞」
「うんっ」
しばらく、栞は黙っていた。そして、交互に香里と北川の顔を見たかと思うと、唐突にこんなことを言いだしたのだった。
「北川さん、お姉ちゃんのことが好きなんでしょ?」
「えっ?」
不意を付かれた北川は、思わず声を裏返らせて言った。だが、それが栞の指摘が正しいことを端的に示していた。
「お姉ちゃんは、こういうことにはためらいがちな人だから、北川さんがきちんと伝えてあげてくださいね」
「な、何をいうのよ、この子は……」
香里が顔を赤くしながら言い返そうとする。
だが、それを見た栞は笑顔になって更に言い足す。
「お姉ちゃんだって、本当は、ね」
「そうだといいんだけどね。確かに、俺は美坂……、いや香里って言った方がいいかな。香里のことが好きだよ。実際、それを伝えようとしたこともあるし」
「わっ、北川さん、かっこいいです!」
「き、北川君……」
「お姉ちゃん、最近は北川さんの話をよくしてくれるし、そうだったらいいなって思ってました」
困った顔をしている香里に向かって、もう一度笑顔で栞がこう言った。
「お姉ちゃん。わたしの手術がもしうまくいかなかったとしても、今まで生きてきたことを後悔しないように、大好きなお姉ちゃんの幸せそうなところを見ておきたいな」
真剣な妹の言葉を、香里はしっかり受け止める決心をした。
「そうね、ならばね……」
香里はそう言うと、隣に立っている北川の体を引き寄せた。
そして、静かに目を閉じたかと思うと、そのままつま先立ちになって北川の唇に自分のそれを重ねる。
驚いている北川の目をもう一度見る。再び北川の腰に手を回して、その体を引き寄せると、今度は北川も同じ動作で香里に応えた。
今度は、先ほどより長い間、唇が重なっていた。お互いの気持ちが、その部分を通じて通い合う気がした。すぐ近くに栞がいて、今の自分たちを見ていることを、意識しながら意識からは外していた。
やがて、香里が唇を離した。
栞の方を向いて、香里がきっぱりと宣言した。
「私は、いなくなる子のために見せたつもりはないのよ。ここまでしてみせたんだから、栞、裏切ったら承知しないからね」
「うん」
栞は、そんな姉の方を見て泣いていた。
「頑張るのよ、栞。私たちがついてるから」
涙目で、栞は力強く頷いた。
翌日、手術が始まった。
搬送用のベッドに横になった栞は、若干の不安は隠せないながらも香里に笑顔を見せていた。
「頑張るのよ、栞。私はここでずっと応援しているから」
「うん、お姉ちゃんがいてくれれば心強いよ」
「あなたは強い子なんだから、大丈夫よ」
自分が栞と同じ状況に置かれたら、笑顔でいることなんか出来るだろうか。そう考えたとき、香里は栞の持つ強さというものを実感した。自分が栞の存在を拒絶していたときでさえ、笑顔を見せていたと北川は言っていた。自分も栞も、北川をはじめとする多くの人によって支えられているのだということを改めて感じた。そして、その支えがあれば、確率的には五分以下であったとしても、栞の病気は治るのだと信じることが出来る。
看護婦に付き添われた栞の手を、香里はしっかりと握った。
手をつなぐということは、表面以上の意味を持っている。
香里は、自分の持つ生命力と運を与えるつもりで、栞の柔らかい手をぎゅっと握りしめた。
「行って来るね、お姉ちゃん」
「そうね」
手術室の扉が閉じると、香里は廊下にある椅子に腰を下ろした。たとえ何時間かかろうとも、ここから動くつもりはなかった。
扉の上の「手術中」のランプが点灯する。
入院患者のいる病棟は慌ただしく賑やかとも言えるほどであったが、その一番奥にあるこの手術室は、物音もほとんどなく静けさの中にあった。
外を見ると、相変わらずの雪が降り続いている。その雪でさえ、すべての物音を吸い込んで静寂をもたらす役を果たしているように思えた。
静かに舞う雪の結晶を眺めながら、香里は栞のことを考えていた。
生まれつき体が丈夫でなかった栞。
そんな栞が、自分を慕い、あこがれていたこと。
勉強を教えてあげると、嬉しそうにそれを聞いていたこと。
そんな栞が自分も嬉しくて、ちゃんと教えられるように自分も一所懸命に勉強したということ。
今から思えば、勉強が出来てよい成績を取ることが出来るようになったのはそれが原因なのかもしれない。
栞も頑張った。そして、周りからは難しいと言われていたこの学校に見事、合格した。
そんな栞の夢は些細なものだった。
「お姉ちゃんとお揃いの制服を着て一緒に学校に行く」
「昼休みには、一緒にお弁当を食べて、クラスの男の子のこととか、好きな本のこととかを話しながら過ごす」
「休みの日には一緒にお菓子やご飯を作って、お父さんやお母さんを喜ばせてあげる」
だが、それは叶わないうちに栞は倒れてしまった。
そして今、栞は文字通り命を賭けて病気と戦っている。
香里は、自分の部屋から持ってきた写真を取りだした。制服姿の自分と栞が、共に笑顔で並んで写っている。これを写真の中だけのことにはしたくなかった。
そのために、香里はひたすらに祈った。祈ることに意味があるか、そんなことはどうでもよい。とにかく、祈った。
手術の時間が無限であるように感じられる。外の雪が、それを示そうとしているかのように限りなく灰色の雲から降りてくる。
そんな静寂を、一つの足音が破った。
その足音の方に香里が顔を向けると、今の不安の中で最も頼りたいと思っている人の姿があった。
「北川君、来てくれたの?」
「ああ、栞ちゃんと、美坂のことが心配になってな」
「ありがとう。ごらんの通り、栞は今、手術中よ。時間はどれくらいかかるかはわからないわ」
「そうか……」
「私は、信じてるわ。栞は絶対に死なないって」
「それは俺も同じだ」
「でも、やっぱり怖いのよ。もし、ってことを考えると。扉が開いて、お医者さんが首を横に振ったら、私は耐えられるかどうか……」
「……」
「だから、北川君が来てくれてよかった。一緒に待ってもらってもいいかしら」
「勿論さ、最初からそのつもりで来た。俺なんかでも、美坂の支えになれればいいと思って」
「北川君?」
「なんだ?」
「昨日、北川君は私のことを初めて『香里』って名前で呼んでくれたわね。今日はまた『美坂』にもどっちゃうの?」
「そ、それはだな……、昨日は栞ちゃんもいたから……」
「それは関係ないでしょう?それとも、『香里』とは呼んでくれないの?」
「そんなことはないぞ。ただ、俺にとって、女の子を名前で……しかも呼び捨てで呼ぶことには大きな意味があるんだ。美坂は、それを受け入れてくれるのか?」
「愚問ね。昨日私がしたことを、北川君はもう忘れちゃったの?」
「そんなはずないだろう。俺は……」
香里も北川も、あの感触をはっきりと思い出すことが出来る。
「俺は、香里のことが好きだ。こんな時に言うのは不謹慎かもしれないけど、もう一度はっきりと伝えておくよ」
「私も、北川君のことが好きよ。私のことをこれからも支えてくれる?」
「ああ、勿論だ。好きな女の子の支えになれるというのは、男としてこんな嬉しいことはない」
「うん……」
「だけど、香里がそう言うなら、俺にも一つ言いたいことがある」
「えっ?」
「香里も、俺のことを『北川君』じゃなく名前で呼んで欲しい」
「分かったわ、潤」
さすがにこの場で抱き合うわけにもいかなかったので、香里の隣に座っていた北川は体を隣にそっと寄せた。
それでも不安で微かに震わせている香里の手を、北川はしっかりと握った。
北川も、香里と同様に栞の手術の成功をここから祈ることしかできなかった。だが、男の祈り方といううのは女のそれとは少しばかり違う。
栞が手術を受けるということを、祐一と名雪にも話していた。この二人も、今、別の場所で同じように祈ってくれているに違いない。
弱さと強さは紙一重である。
自分の弱さを認め、その上で大事な人に支えられながら、未来の笑顔を求めていく。
「手術中」のランプが消えた。
緊張する香里と北川が見つめる扉が静かに重々しく開き、入ったときと同じベッドに乗せられた栞が、医師と看護婦と共に出てきた。栞は、静かに眠っている。
「先生、栞は……」
医師は淡々と香里に答えた。その冷静さが、香里の心も支えてくれたようにも思える。
「出来る限りのことはしました。栞ちゃんは何とか手術には耐えられましたが、体力は限界まで落ちています。病巣が特定できるかは明日までには分かるでしょう。これから、集中治療室で様子を見ます。今の栞ちゃんは、ほんのわずかな病原菌にも耐えられないような状態なので、慎重を期す必要があります。申し訳ないですが、一週間は面会は出来ないと思ってください」
「はい……」
「最初に言いましたが、手術自体は成功です。今日明日、栞ちゃんの体力が保てば、治癒の可能性は極めて高くなるといってよいでしょう」
それだけ言うと、医師は運ばれていく栞を追っていった。
医師の背中を見つめる香里に、そっと北川が声を掛けた。
「よかった……んじゃないのか」
「ええ……」
「人事を尽くして天命を待つってやつだな。天命はそれを受けるにふさわしい人には必ず与えられると俺は信じているけど」
「ありがとう、北川君」
「あ、さっき言ったこと、もう忘れたか?」
わざと大げさに笑いながら、北川が指摘する。
「ごめんなさい、潤、だったわね」
「そうそう」
北川は、香里の肩にそっと手を置いた。北川の方を向いた香里の目に、涙が浮かんでいた。おそらく、今日と明日は満足に眠ることも出来ないだろうが、それでも北川がいてくれることは香里にとって大きな支えになるに違いない。そして、これからもずっと……。
雪の中で奇跡が起きようとしていた。
いや、それは正確な言い方ではなかったかもしれない。既に、これは奇跡ではなくなっていたのだから。
手術の三日後、栞は目を覚ました。そして、ここから治療の第二段階に入る。血圧、心拍数、体温など、あらゆる体況の管理のもとで、慎重に薬が投与される。
薬の効果に耐えられるだけの体力が必要とされ、こちらも詳細に管理された栄養が与えられる。
結果を言うと、栞の病気は手術の二週間後を境目として、急速に治癒していった。実験段階の臨床データにもないほどの回復だったという。
雪の降る日も少なくなり、テレビのニュースでは南の方から桜の花の便りが聞こえてくるようになった。
その桜の花が、この街にもようやくやってくる頃に、栞は退院した。
まだ時々は病院に通わなければならなかったが、激しい運動を制限される以外は、普通の人と同じ生活を送ることが出来るということである。
栞の笑顔が、花を咲かせている。それはこの街を彩る桜の花にも劣らないものであった。