満開だった花が葉桜に変わっていくのと平行するように、栞の経過も順調に推移していった。一度、軽めの風邪を引いてしまい、周囲をかなり心配させたが、今ではすっかり元気になっている。
結局、去年の一年間はほとんど欠席ということがあって、もう一度一年生をやることを余儀なくされたが、それでも再び姉とお揃いの制服を着て学校に行けるようになったことは、栞にとってもその周囲にいる誰もにとっても喜ばしいことであった。
時々、病院に行くために遅刻や早退をすることがあったが、徐々にその頻度も減っていき、連休を迎える頃には、特別な変化がない限りは病院に来る必要もないと言われるようになった。数ヶ月前まで、明日をもしれぬ命であったことは、今の栞からは伺い知ることも出来ない。
一方、香里たちは進級して三年生となった。名雪たち三人はのんびりしたものだったが、香里はもう既に大学受験に向けて勉強を開始している。自分の進路をどこに見いだすのかはまだ定まっていなかったが、どの道を選ぶにしてもその勉強の基礎となる学力を付けておくに越したことはない。
忙中閑ありとはいうが、そんな中でも香里は北川と過ごす時間はきちんと持っていた。春の暖かな日差しは、二人の心を和ませて、共に過ごす時間をいっそう心地よいものにしてくれている。
「もうすっかり、栞ちゃんも元気になったな」
「そうね。体育以外の授業だったら、問題なく受けているみたいだし」
「本当によかったよ。それに、栞ちゃんが元気になって、香里の笑顔が見られる機会も増えたし」
「な、なに言ってるのよ……」
「あの頃は正直、香里を見ていてつらいときがあったよ。だけど、今こうして、香里が隣にいてくれている。俺のことを必要としてくれるというのも嬉しいしな」
「ええ、私にとって潤は本当に必要な存在よ。支えになってくれる人がいるっていうのは、とても安心できることだと思うわ」
「そうだな。栞ちゃんも、香里がいたからきっとここまで頑張れたんだし。それだけじゃない、俺だって香里がいて支えてくれているのが嬉しい」
「そうなの?」
「ああ、香里に支えになってもらいたいと思わなければ、こうしていつも会いたいとは思わないさ」
「ありがとう」
香里が北川の手を握った。寄り添うようにして公園の小径を歩いていく。思えば、ずっと自分の中に抱え込んできたことを、北川に話したのはこの場所だった。
そこから、香里と栞の奇跡が始まったといってもよい。
公園は、雪に閉ざされたあの時とは違うたたずまいを見せている。噴水の近くでは、子供たちが元気に遊んでおり、ベンチには座って本を読んでいる老人と、退屈そうにその周りを走り回っている飼い犬がいる。
そんな風景の中にいられること、そんな風景の一部になっていられることが香里にとっては嬉しかった。
好きな人がいる、それが香里という人間を大きく変えていた。
「そういえば、この前、相沢が言ってたぞ」
「何を?」
「今度の連休、みんなでどっかに遊びに行かないかって。栞ちゃんも少しずつだったら出かけられるようになるだろうしって」
「いいアイディアね。連休くらいは私も息抜きしたいし。でも、みんなって、私たちと名雪に相沢君、それから栞でしょ」
「ああ、そういうことだと思うけど……、それがどうかしたのか?」
「栞がちょっとかわいそうね」
「えっ?」
「だって、私には潤がいて、名雪には相沢君がいるじゃない」
「そっか。でも、相沢と水瀬さんは単にいとこ同士ってだけだろう?」
「自分以外のことになると、潤は意外に鈍いのね。私にはとうていそうは見えないけど」
「ということは?」
「そういうことだと思うわ。名雪の方は、相沢君がこっちに来る前からそういう気持ちだったみたいだし」
「確かに、あの頃の水瀬さんは相沢のことばかり話してたよな。最初こっちに来た頃は、相沢はとまどってたみたいだけど」
「潤に栞のことを全部話す前、名雪に言われたわ。『香里はなんでも自分で抱え込んじゃうのが悪いところだ』って」
「確かにそういうところはあるよな」
「あと、『北川君のこと、がんばってね』って言われたのよ。今から思うと、名雪も人のことを好きになっていたから、私の心の奥まで見えていたのかもしれないわね」
「そうだったのか、実は俺も相沢に言われた。『香里のこと、がんばれよ』って」
「名雪たちも、きっとうまくいってるんじゃないかしら」
「となると、やっぱり栞ちゃんは……」
「あの子は、これから頑張るのよ。そのうち、私たちにも自慢してくれるような気がするわ」
「そうだな」
北川はこの公園から見える病院を見上げた。あの病院で自分が栞に会ったことから始まったのだ。
そして今、考えられる限り一番幸せな結末を迎えている。
「香里、好きだよ」
「どうしたの、急に?」
「いや、なんとなく言いたくなったんだ」
「じゃあ、私も。潤、好きよ」
北川は満足そうに頷いた。
雪景色は既に消え去り、その先にある春に到達していた。
楽しみにしていた連休の初日は、あいにくの雨模様になっていた。
みんなでハイキングに出かけるという計画は残念ながら中止となり、代わりにメンバーは水瀬家に遊びに来ていた。
外に出かけられない代わりに、みんなで遊べるゲームをやろうと祐一が言いだしたのだった。
香里、北川、名雪、祐一、栞と五人が揃うのは実は久しぶりだったかもしれない。
「なんか見慣れないゲームね……」
「ちょっとルールがややこしいけど、まあ説明するから聞いてくれ」
「なんか、ユーモラスな絵ですね」
「こんな細かい駒、どうやって使うんだ?」
「あ、それも今から説明する」
思い思い、好きなことを言っていると、名雪の母である秋子が人数分の紅茶とケーキを持って現れた。
「こんにちは」
「おじゃましています」
栞と同じくらいに笑顔の似合う女性といったら、この人だろう。落ち着いた物腰とその表情は、遊びに来ているみんなの心を和ませる。
「あらあら、楽しそうね」
「わたしは、昨日ルールを教えてもらったんだけど、まだ全部覚えられないよ……」
「今度、私も混ぜてくださいね」
「お母さん?」
「ふふっ」
賑やかであることが、今は幸せの証でもあった。
さて、ゲームが始まった。
発展途上国の支配者層のトップとなり、外国からの援助資金を懐に入れて私腹を肥やすという、妙にリアルでユーモラスなゲームをやっていると、仲のよい友達とはいえ、ある意味で本性が出て面白い。仲のよい友達同士だからこそ、こういったゲームが楽しめるのかもしれないが。
「大統領、今年の予算を」
「そうね……、内務大臣には三、各将軍には一ずつ、そんなところね」
「俺は?」
「残念ながら、予算不足ね。今のままで頑張ってちょうだい」
「うぉっ、それはひどすぎる。ただでさえ海軍大臣なんて日陰者にされてるのに……」
「わたしも、こんな予算じゃ軍隊を養っていけないです……」
「栞ちゃん、私腹を肥やすの間違いじゃないの」
「何言ってるんですか、違いますよー。わたしは真面目な将軍なんですから」
「まあまあ、ここは現政権に不満を持つもの同士……」
「内務大臣、怪しげな謀議をしている勢力を懲らしめてあげなさいね」
「どうしようかな……」
「俺は、次の予算増額さえ約束してくれれば、大統領支持に依存はないけど」
「そうね、ちゃんと働いてくれれば悪いようにはしないわ」
それぞれが腹の中を探り合いながら、蓄財に励もうとしている。
「暗殺成功ね、相沢君、かなりため込んでたでしょう?」
「むむっ……、やっぱり甘かったか。こうなったら……」
「わわっ、祐一さんが動きますー」
「栞ちゃん、味方してくれ。俺が政権を獲ったあかつきには……」
「お姉ちゃん、わたしに冷たいんだもん……。わたしも我慢できません」
栞がカードを一枚出した。
町中に突然労働者の群が現れた。それを鎮圧するという名目で軍隊が動き出す。
混乱に乗じて、現政権に不満を持っている学生たちがデモを始めた。警察は予算を可決させるために議会を武力占拠しており、混乱はますます広まるばかり。ついには海軍まで動き始め、海兵隊が上陸した。
「こうなったらもう、クーデターしかないっ!」
「祐一さん、わたしついていきますね」
「頼むよ、栞ちゃん」
「そうはさせないわよ、栞」
「さて、俺はどっちに付こうかな……。まずは部隊をこっちに移動して、と」
なんだかんだ言いながら、みんなが自分の立場を楽しんでいた。
国政などそっちのけで、利権を争って軍隊同士が戦っている。
結局、香里の率いる大統領派によってクーデターは鎮圧され、哀れ首謀者の祐一は処刑台の露と消えた。
「うっ、一歩及ばなかったか……。やっぱり北川を信じすぎたのが敗因だな」
「お姉ちゃん、ひどいよー」
「先に向かってきたのはあなた達よ」
「だって……」
「まあ、再び体制の立て直しだ。いつまでも香里の天下が続くと思うなよ」
「わかってるわよ」
ゲームは四時間くらいで終了した。意外にもというと本人が拗ねるかもしれないが、勝ったのは名雪だった。さりげなく敵を作らずに立ち回り、着実に貯蓄額を増やしていたのだ。
「さすがにちょっと疲れたな」
「でも、楽しかったわよ。みんなの意外な一面も見られたし」
「うーむ……」
「でも、せっかくの連休なんだから、外に遊びにも行きたかったかも」
「わたしもちょっと思います」
「でも、贅沢言っちゃいかんぞ。世の中にはこの連休でも仕事って人もいるんだから」
「まあね」
「そろそろ雨はやんだんじゃないのか?天気が大丈夫そうなら、明日か明後日に行けばいいよ」
「うんっ、賛成!」
ゲームを片づけながら、一番乗り気の栞を中心に計画案を話し合う。
そんな栞の笑顔を、香里は幸せそうに眺めている。そして、その香里を北川が優しく見つめている。
「ね、祐一。香里と北川君って、やっぱり前とは違うよね」
唐突に名雪がそんなことを言いだした。
「ああ、俺もずっとそう思ってたんだ」
祐一が楽しそうに答える。
「な、なに言い出すのよ、急に」
「そうだよ。俺と香里は別にだな……」
不意を付かれた香里と北川が慌てて反論しようとしたが、その試みは祐一に即座に破られる。
「北川は、前は香里のことは『美坂』って呼んでたはずだよな。いつの間に変わったんだ?」
「変わったってことは何か理由があるんだよね」
名雪も祐一に同調して厳しく突っ込んでくる。
「お姉ちゃん、祐一さんたちに話してなかったの?」
「し、栞……」
「仕方ないな……」
北川はあっさりと降参した。
「ああ、俺たち、きちんとつきあうことにしたんだ」
「ええ」
「香里、ひどいよ……。わたしたちにも隠してるなんて」
「まあ、ほぼ分かってたけどな」
「隠すつもりなんてなかったのよ。ただ、改めて交際宣言なんてしにくかっただけよ」
「そういうことだ。それに、それを言うなら水瀬さんたちだってそうじゃないのか?」
「えっ、えっ……?」
「否定はしない」
「わたしは知らなかったですー」
名雪と祐一も恋仲になっていたということは、栞はまだ知らなかったようだ。少し拗ねたような顔で、祐一を叩いてみせる栞。
「わたし、密かに祐一さんのこといいなーって思ってたのに」
「たとえ栞ちゃんでも、祐一は譲らないよ」
「名雪、なかなかはっきり言うわね」
「わたしも、すてきな人を見つけます。応援してくださいね」
「ああ、もちろんだ」
名雪と祐一に見送られて、残りの三人は水瀬家を後にした。
既に雨は上がり、水たまりに夕方の赤い光が反射している。どうやら、明日と明後日は天気は回復に向かいそうである。
「またみんなで出かけられるの、楽しみっ」
栞が嬉しそうに言った。今度は香里と北川も遠慮なくお互いの顔を見ることが出来る。
「そうね。でも、まだあなたは無理しちゃだめよ」
「うん。でも……」
「どうしたの?」
「お姉ちゃんと一緒に出かけたり、仲のいいお友達と騒いだりって、わたしの夢だったの。それが叶って本当によかった。きっと、お姉ちゃんや北川さんが奇跡を信じてくれたからだと思う」
「俺は、何もしてないよ」
「そんなことないわよ。潤が私をあのとき支えてくれていなかったら、たぶん、今ここに栞はいないと思うわ」
「香里……」
「お姉ちゃんと北川さんがうらやましいな」
「栞っ」
軽く駆けだした栞を、香里が追いかけた。
「あっ!」
その栞が突然立ち止まって香里の方を向いた。ぶつかりそうになった香里が慌てて立ち止まる。
「どうしたのよ?」
「わたし、名雪さんの家に傘を忘れて来ちゃった……。取りに戻るから、お姉ちゃんたちは先に行ってて」
「ここで待っててもいいわよ」
「ううん、大丈夫だから」
香里の返事を待たずに、栞はもと来た道を戻っていった。
そんな栞の後ろ姿を見送りながら、北川が言う。
「ひょっとして栞ちゃん、俺たちに気を遣ってくれたのかな?」
「そうかもしれないわね。だったら、あの子の気持ちに甘えさせてもらいましょう」
「そうだな」
そう言いながら、北川は香里の隣にそっと腕を差し出した。その意図を知って、香里は北川の手を取って、腕を組んで歩き始める。こうして歩くのは初めてだったので少し気恥ずかしかったが、赤くなった顔は正面の夕日に照らされて北川に気付かれることにはならなかった。
春の日差しは、この時間になってもまだ温かさを二人に与えてくれていた。
そして、日差し以上に北川は、香里はお互いに温かさを与えているのだった。
その温かさは、これから夜になっても、冬になっても変わることはないだろう。香里にとっての北川は、そんな存在になっていたのだった。この人がいることの幸せ、そんなものがここにはあった。