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第4章 転機

一月も半ばが過ぎる頃になると、祐一も学校生活にもようやく慣れてくるようになった。

噂では、期末試験とは別に学力診断テストというのが新しく行われるといわれており、一部の生徒を除くとどうともいえない不安のようなものを感じてもいた。

だが、それ以外は北川たちにとっても普段と変わらぬ学校生活があるのみであった。

祐一と名雪は相変わらず遅刻ぎりぎりで駆け込んでくるし、それを呆れた顔で見ている香里も普段と変わらない。日によって学校に来る時間がまちまちである北川は、そんな名雪たちに学校に着く前に会ったり、会わなかったりする。

ごく稀に、二人が余裕を持って登校することがあり、その時には思わず北川が「やべっ、遅刻寸前か?」と決めつけて、大いにクレームを付けられたこともある。

香里も、普段と同じ生活を送っており、授業中はもちろんであるが、休み時間の雑談や昼の食事時の会話なども、いつもとそう変わるところはなかった。

だが、時々、一人でいるときの香里が、どこか遠くを見ているような寂しげな、もしくは悲しげな表情を瞬間的に見せることに北川は気が付いていた。

そういった香里の表情を見るとき、北川はなんとも言い難い気分になる。

香里が妹の栞の存在を否定する理由はわからない。だが、香里が名目上はなんと言おうとも、栞という妹が現実に存在していることは完全な事実である。

香里に「やはり、妹がいるんだろう」とはもう聞けないことであるし、入院中の栞も、言葉の端々から香里が見舞いに来てくれない寂しさをほのめかすことが多かったから、そちらでも話題にしにくくなっていた。

仲がよいとはいえ、香里の繊細な心の中に関わる可能性が高い以上、名雪や祐一に相談を持ちかけることも出来ずに、北川は自分一人の中で、なかなか見えてこない解決策を探し続けていた。

理由はわからないが、この部分が解決すれば、香里も栞もあのような顔をすることはなくなるに違いないと信じていたのだ。

香里が、またそんな表情を見せていた。たとえば名雪とは違って、あまり感情の変化を大きく見せない香里のそんな様子は、大きな力で北川の心を打った。だが、クラスメイトのほとんど、いや、おそらくは全員が香里がそういう表情を見せていることに気が付いていないだろう。

クラスメイトが無関心というのではなく、北川の香里への関心が高すぎるだけなのであるが、北川をしてそうさせるものは何であるか、徐々にではあるが北川自身も認め始めていた。

憂いのある香里の顔を見たとき、決して楽しい表情をしているわけではないにも関わらず、香里のことを綺麗だと思ったことがある。言ってしまえば見慣れている香里にそんな感情を持ったという事実に気が付いて、北川は焦りを覚えた。

だが、一人の時間になると香里とその妹である栞のことを考えるようになっている自分に思い当たると、今までに経験のない気持ちというものが、少なからず含まれているということを自覚せざるを得なかった。

年頃の男の子と女の子であるから、学校の中ではそういった類の話題もあちこちで事欠かない。だが、自分がその当事者になるとは予想していなかったのである。

たとえば祐一と名雪の仲の良さといったもの、そういう恋愛感情とは少し離れたところにあるのが自分と香里のあるべき関係なのだと思っていたのだが、いつの間にかそうではなくなっていることに気が付いた。

もし、何らかの原因で香里と栞が仲違いしているのであったら、なんとかその修復を手伝いたい。それはもちろん、今でも思い続けているが、別の点で、たとえばそうすることが出来れば香里の気を引けるのではないかという打算が含まれているということに気付く。

香里の顔を思い出す。最近知ってしまったのは、決していい表情ではなかったが、それも魅力的である。もちろん、香里は笑顔だって見せてくれる。

北川の香里に対する気持ちが、そうして恋愛感情に変わっていったとしても、香里の方は北川を単なる仲のよいクラスメイトとして見続けているだけだという可能性はある。いや、寧ろその可能性の方が高い。

そう思うと、美坂姉妹を思う気持ちと同じくらい、自分の気持ちに自由にならないもどかしさのようなものを感じる。

それをどこかで明らかに出来ればまだよいのだろうが、そういった空間、もしくは相手というものは残念ながら存在していなかった。

普段の「美坂チーム」の会話は楽しいものであったから、ある意味ではそれがいっそう北川とそしておそらくは香里も苦しめているのだろう。

それでも、この仲のよいグループはかけがえのない存在であった。

金曜日になると、若干の開放感が感じられる。

学校はまだ次の土曜日も半日だがあるのは事実だが、北川たちのクラスでは土曜日の授業は比較的楽なものが多いこともあり、金曜日の放課後になると「一週間ももうすぐ終わりだ」という気分になるのだ。

こんな時には、その開放感に後押しされて、放課後にどこかに寄り道していくこともある。時々、クラブの休みがずれることがある名雪がいると、ほぼ確実にお気に入りの百花屋という喫茶店に寄っていくことになる。

この日は、名雪は部活なのでそのまま学校で別れ、途中まで一緒に歩いてきた祐一も、欲しいCDを買いに行くのだといって商店街の入り口近くで別行動となった。

香里と二人だけになった北川は、若干、言葉少な目に並んで歩いていく。

そうなると、どうしても香里のことを今までと違った形で意識するようになってしまう。

今までにも香里と二人で歩いたことは何度となくあったが、そういう事実すら忘れてしまったようにさえ感じられる。

そんな中、北川はなるべくさりげなく、香里にこう提案した。

「明日は土曜日だし、久々にちょっとコーヒーでも飲みに行かないか?」

「いいわね。私はどちらかというと紅茶党だけど」

「そうだっけか。ま、どっちかしかない店なんてないと思うから」

「せっかくだから、百花屋じゃないところにしない?ちょっと気になっているお店があるのよね、実は」

「ああ、それで構わないぞ。まあ、考えてみればいつもあそこだったしな」

「名雪と一緒の時は、もう仕方ないと思って諦めてるわ。別に百花屋が嫌いっていうわけでもないしね」

「まあな」

香里に案内されて、道を一本入ったところにあるこぢんまりした喫茶店にやってきた。

少し古風なインテリアの、落ち着いた感じの店で、香里の持つ雰囲気にもよく似合っているのではないかと北川は考えた。

値段がそんなに高くないということをメニューで確認して、密かに安堵していた。

北川はブレンドコーヒーを、香里はダージリンミルクティを注文した。

奥のカウンターの方から、微かに佳い香りが漂ってくるようになって程なく、注文したコーヒーと紅茶がやってきた。

半端な時間帯のせいか、周りには客の姿がほとんどなく、常連らしき中年の婦人がカウンター席でマスターと話しているくらいである。

しばらく、噂になっている臨時テストの話などをしていた二人だったが、一度会話がとぎれて、しばらくお互い、黙ったまま、相手の顔を見ていた。もう少し表情が緩やかだったとしたら、恋人同士に見えないこともないかもしれない。

その時、香里が例の遠くを見るような表情をした。ある意味での油断が香里にあったのかもしれない。教室で見せるときは、必ず一人でいる時であった。目の前にいるのが気の置けない相手の北川で、落ち着いた雰囲気の喫茶店で紅茶を飲んでいるということが隙を作ったのかもしれない。

北川は、当然その表情に気が付いた。そして、同じように一瞬だけ北川の表情も変化した。香里は北川のことを見ていたから、やはりそれを同じように見逃さなかった。

「どうしたの、北川君」

「えっ、いや、なんでもない」

その言葉は、字面とは裏腹に確実に狼狽を含んでいた。香里のことをじっと見ていたということを指摘されたと考えたためであったが、これは過剰すぎる反応だったといえる。

「そんなことないでしょう。この前も私の顔をじっと見ていたことがあったような気がするわ」

「……」

ここで黙ってしまったのは、自分を追いつめるような結果となった。香里は、別に北川を責めているつもりはなく、他の生徒ならともかく、北川に見られることは不快とは全く思っていなかった。

二人の心の中にはそういう差異があったのだが、その差異を把握できていない二人の言葉が、結果として煮詰まっていた物語を動かす力の一部となった。

「ごめんなさい、北川君を責めてるつもりはないのよ。私だって女の子だから、嫌な奴にでなければ見られるのは不快だと思わないし」

「そう言ってもらえれば」

北川は、香里の「女の子」という言葉にふと意識を向けた。同時に、香里もやはり自分と同じ歳の一人の女の子であるということを改めて認識する。たとえ頭がよくて冷静であったとしても、何かを抱えた女の子だということには変わりはない。

「紅茶、美味しいわね」

気を遣ってか、話題を変えようとした香里に対して、北川は更に話題を変えることにした。口にしていいことかどうか、自信を持っては言えなかったが、今を逃すと更に言えなくなるように思えたのだ。

「そういえば、美坂さ……」

「何かしら?」

「前に一回俺が聞いて、この前も相沢が聞いたことがあったじゃないか」

「うん?」

「ひょっとすると、本当は美坂にはやっぱり妹がいるんじゃないのか?」

「なんでそんなことを聞くのよ。いないって言ってるでしょう?」

きつい調子の香里の言葉だった。明らかにいらだちが含まれている。だが、同時にその言葉の中には、気付いて欲しいと訴えているような「弱さ」も感じられた。

固い殻と、それを破って中を見て欲しいという繊細な心が同時に感じられる。今の北川でなければ、それに気付くことは出来なかっただろう。

故に、北川はそこで引かずに、更に話を進めることにした。

「じゃあ、そういうことにしておこうか」

「しておく、って何よ」

「まあまあ。美坂に妹がいないっていうんなら、これは全く関係ない話になるんだけど、ちょっと前に変わった出来事があってな」

「変わった出来事?」

「ああ。去年の秋頃に、俺のおふくろが交通事故にあって入院したって話はしたことあるよな」

「ええ。大変だったわよね。お母さん、もう大丈夫なの?」

「おかげさまで、もう今までと変わらないよ。もともと騒ぎすぎだったようなもんだし」

「そう、よかった」

「サンキュ。で、おふくろが入院しているときに、その病院に見舞いに行ったんだ」

「うん」

「その時に、たまたま同じ病院に入院している女の子と知り合いになって、何回か話をしたことがあるんだ」

「……」

「おふくろが入ってるのは相部屋だったけど、その子は奥の方にある個室で、なんか寂しそうにしてたから、それからも時々見舞いに行ったんだよね」

「ふぅん……」

無関心を装ってはいたが、香里は既に北川の話に引き込まれていた。その女の子に対して、心当たりがあったからに他ならない。

「もうかなり長い入院だと言ってたのに、ずいぶんと笑顔が印象的な子だった。でも、やっぱり寂しがっていたみたいだね。いつだったか、ぽろっと漏らしたんだ。『大好きなお姉ちゃんがいつもお見舞いに来てくれてたのに、最近は来てくれないんです』って。『わたし、嫌われちゃったのかな』って泣きそうになってたから、『そんなことはないさ』って励ましてあげたんだけど……」

「なんで、北川君が栞のことを知ってるの?」

香里の気持ちを分からずに、いや、分かっていながらあえてそんな話をする北川に耐えきれなくなり、とうとう香里はそう言ってしまった。

香里の心の中で、様々な感情が矛を交えるように戦っていた。香里にとっても、栞は何よりも大事で、大好きな妹なのだ。その自分が栞に会いに行くことの出来ない理由を、北川は知らない。

それが、香里には理不尽に思えたのだ。普段の冷静な香里であれば、それが理不尽であるということなどは、瞬時も考え込むことなく理解しているはずである。だが、栞と北川という、自分が心を許せる存在が当事者となることであると、理性は感情によって覆い被されるようになる。

端的に言えば、今の自分の苦しみを、北川に理解して欲しいと思ったのだ。苦しみを北川にも押しつけるなどというつもりはなかったが、北川が栞のことも知っているのなら、自分の抱え込んだ苦しみというものを少しでも知って欲しいと思った。

香里は、そんな目で北川のことを見つめた。

そして、北川は、その香里の目を正面からしっかりと受け止めた。まだ出来ることが限られているにしても、北川の香里に対する気持ちは固まりつつあった。

「やっぱり、そうだよな」

「あっ……」

理由があるとはいえ、妹がいることを隠していたという後ろめたさが香里にはあった。うつむいた香里を、北川はじっと見つめていた。やがて、顔を起こした香里に、北川は優しく微笑みかける。

「美坂に、人には話せない事情があるんじゃないかとは思ってたさ。それを無理に聞き出そうとは思ってないから安心してくれよ」

「……」

「そんなこともあって、栞ちゃんっていう妹が美坂にいるんだというのは、少し前からほぼ確信になってたんだ」

「ごめんなさい……」

北川は、そんな香里の顔は見たくない。だから、ゆっくりと首を横に振って、「そんなことを言う必要はない」と伝えた。

「だけどさ、俺、美坂のことを……、その……、大事な友達だと思ってるから、自分でもどうしてこんな美坂を追いつめるようなまねをしちゃったのかよく分からないんだけど、とにかく、美坂の力になりたいと思ってるんだ」

うまく言葉がつながらなかった。北川の頭の中でも、香里を中心に様々な出来事と感情が渦を巻いて、自分のいる位置というものをはっきりとは把握できていなかったのかもしれない。

だが、この北川の言葉には偽りはなかった。正確でない部分はあるとしても。

香里の気持ちを思うと、今の北川には「よかったら話してくれよ」とは言えなかった。今の北川には、静かに香里を見つめることが出来るだけである。

手を伸ばして、冷めかけているコーヒーに口を付けた。味がほとんど感じられなくなっていたコーヒーに、ほの苦い芳香が復活していた。

向かいにいる香里も、ティーカップを手に取って、香里らしい優雅な仕草でそれを口に運んだ。

香里の方から、心地よいその芳香が伝わってくる。

「栞は、私の妹なの」

香里はそうとだけ言った。苦しそうな表情は変わっていなかった。何がそうさせているのか、まだ北川には分からない。香里の力になってやりたいと思う北川だったが、寧ろ追いつめる結果になってしまったのではないかとすら考えた。

だが、紅茶を飲み終わったとき、香里はふと笑顔を見せた。

その笑顔からは、栞のものと同じ種類のものが感じられた。やはり香里と栞は姉妹であり、共に本当の笑顔であることがふさわしい。

香里の笑顔を見て、北川は一歩も引かぬ決心をしたのだった。


その翌日。

この日は、珍しく定休日以外で名雪の部活が休みになっている日だった。

この季節は、校庭が雪で閉ざされるために、主に体育館を各運動部が交代で使うのだが、バドミントン部が、大会が近いということで臨時練習を行うことになり、陸上部は自分たちの練習場所を貸すことになったのだった。

六時間目の授業が終わった後、それを祐一に話そうとする前に、祐一は北川と一緒に新作のゲームをやりに行くのだと言って、そうそうに飛び出していってしまった。

「うー、今日は祐一と寄り道しようと思ったのに……」

「そんなに、新作のゲームっていうのをやりたいのかしら」

半ば呆れた表情で香里は言った。

「わかんないよ。でも、祐一は楽しそうにゲームの話をするから、きっとそうなんだと思うよ」

「ふぅん……」

「ゲームセンターのゲームだけじゃなくて、ボードゲームなんかも好きみたい。わたしもこの前、つきあわされたよ」

「ま、今日は私と一緒に帰りましょう。たまには女の子同士でもいいんじゃない?あんまり相沢君べったりだと、みんな噂は本当って思っちゃうわよ」

「わわわっ、そんなことないよ。わたしと祐一は……」

「まあ、いいから、行きましょう」

「うー」

まだ弁明したい様子であったが、香里はそれを無視して名雪の手を引いていった。

名雪の祐一に対する気持ちは、見ていておかしくなるくらいに分かることがある。しかも、この二人は一緒の家で暮らしているのだ。間違いがあるなどという下世話なことは思わなかったが、そうでないにしても実際のところはこの二人の本当のところはどうなのだろうかと考えたことがないとはいわない。もし、名雪や祐一が相談を持ちかけてきたら、自分に出来るだけのことはするつもりではあった。

では、自分は?

ふとそんなことを思ったことがあった。その時浮かんだ顔は、漠然としていた。それをはっきりさせるまでの余裕は、今の香里にはなかったのだ。

栞のことがある中で、大切な友人たちがそれをつかの間忘れさせてくれるような楽しい時間をくれる。それを壊すようなことはしたくなかった。

だが……。

「どうしたの、香里?」

名雪の声で香里は我に返った。

「ううん、ちょっと考え事。せっかくだから、どこかに寄っていく?」

「うんっ」

「まあ、どこかと言っても名雪と一緒なら決まっているんでしょうけどね」

「うー」

困った顔をする名雪を見るのが、香里には楽しかった。表情豊かな名雪がうらやましくも思えた。自分の持っていないものに惹かれて、親友とは仲良くなっていけるのかもしれない。

百花屋で注文したものは、いつもと同じだった。

イチゴサンデーを目の前にして、この世の春と言わんばかりの笑みを浮かべている名雪。

それに対して、どこか冷たい目でティーカップを見つめている香里。ティーカップが、香里に昨日の出来事を思い出させたのだった。

結局、北川には妹がいることを認めてしまった。それで、心が若干楽にはなったが、だからといって栞が元気になるわけではない。

「やっぱり香里、ちょっと変だよ」

「そうかしら」

スプーンをテーブルに置いて、名雪が真剣な目で指摘した。

どこかおっとりしていて、抜けているようにも感じられる名雪だったが、実はそういった鋭いところもあることを香里は思い出した。

普段と違う名雪の目を、香里は欺き続けることは出来なかった。

「うん。わたしは、香里の親友のつもりだよ」

周囲に他の客がいないことを確認しながら、名雪が言った。直接に「何か話したいことがあったら言って」とは名雪は言わない。それだけに、名雪の自分を思ってくれる気持ちがはっきりと伝わってくる。

昨日に続いて、また栞のことを話すのにはかなりの躊躇があったし、これを話せば、北川のことも言わざるを得ないだろう。

だが、ここまで来て隠そうとすることは、親友に対しての裏切りにならないだろうか。

香里はそう考え、決心した。

「ありがとう、名雪。実はね、こんなことがあったのよ……」

小さな声で、香里は話し始めた。

昨日、北川と一緒に喫茶店に寄ったこと。

そこでの話のこと。

今まで否定していたけれども、実は自分には妹がいるのだということ。

どうして隠してきたのか、理由のすべてはまだ話すことは出来なかったが、北川はある程度まで敏感にそれに気が付き、そんな自分の「力になりたい」と言ってくれたこと。

「こんな時、私はどうしたらいいのかしら」

すべて北川や名雪たちに頼ってしまうのは怖かった。だが、自分一人で抱え込むことが出来るのにも限界というのもはある。

そんな香里の顔を見ながら、名雪はにっこりと笑った。いつでもそうだが、名雪の顔を見ると、香里はとても安心できるのだ。

「それが、香里の悪いところだよ」

「えっ?」

「私だって、北川君だって、それに祐一も香里のことを考えてくれてると思うよ」

「……」

友達というのは、単に一緒に遊んだり馬鹿話をするだけの間柄なのではない。そうでないものも共有出来るのが友達だよ。名雪はそう言っていた。

黙っている香里に、名雪がこう続ける。

「私にはお父さんも兄弟もいなくて、それで寂しい思いをしたこともあるけど、その分、友達の大切さっていうのもわかると思うんだ。家族以外にも、自分を支えてくれる人の存在があるって」

「そうね……」

「香里には両方いるんだから、うらやましいよ」

「わかったわ。今はまだ言えないけど、名雪たちに聞いてもらいたいことが出てくるかもしれないわ」

「うんっ。それと……」

「うん?」

「北川君のこと、がんばってね」

真意のつかめない笑顔で、名雪がそう付け足した。もし、香里が自分の気持ちをはっきり自覚していたら、きっと顔を赤くしただろう。だが、今はまだそうならなかった。

それでも、名雪はそれ以上はあえて追求しなかった。

人を好きになることはそういうことでもあった。


香里と名雪が、百花屋でそんな話をしていたのとちょうど同じ頃、北川は祐一と一緒に同じ商店街にあるゲームセンターにいた。

祐一に誘われて、入ったばかりという新作のゲームをやりに来ていたのだが、北川自身もこのゲームを既にチェックしていた。東京などでは少し前から既に稼働しており、雑誌などで評価や人気具合などを聞いて、自分たちの街に入るのを心待ちにしていたのだ。

「ラッキー、そんなに混んでいないみたいだな」

「ひょっとして、マイナーなのか?」

「そんなことはないだろう」

財布から千円札を取り出した祐一が、両替機の方に向かっていく。北川は先んじて筐体の前に座り、百円玉を投入する。

ゲームが始まった。いきなり、多数の敵が上から押し寄せ、北川は必死でボタンを連打してそれを撃ち落としていく。なかなかハードなシューティングゲームのようである。

パワーアップアイテムが出て、それを取りに行こうとしたところで、待っていたとばかりに横から突っ込んできた敵に激突する。

「うぉっ、卑怯だぞ!」

「いや、それくらいちゃんと警戒しないとダメだな」

後ろに立ってみていた祐一が冷静に評する。

「ま、気を取り直して行くか」

「ああ、がんばれよ」

復活した戦闘機に乗って、再び撃ち合いを始める。

最初のボスのところまで到達して、善戦した北川だったが、敵弾を一掃する特別兵器がネタ切れになったところで、相手の攻撃に抗しきれなくなり、ゲームオーバーとなった。

「うーむ、かなりやりごたえはありそうだな……」

「ああ、次は俺の番だな。この手のゲームは好きなんだよ」

「よし、相沢のお手並み拝見と行くか」

祐一が入れ替わりに座り、百円玉を投入してゲームをスタートさせる。

北川はそれほどこの手のゲームが得意というわけではなかった。祐一は、「まあ、かなりのもんだ」と自称するだけあって、北川が引っかかった場所を難なくくぐり抜けていく。

敵の弾を引き寄せてから一気に逆側に回避することによって、隙だらけの敵に雨霰のように攻撃を当てていく。

「むむっ、さすがだな、相沢」

「まあ、このあたりまでは、北川に敵のパターンを見せてもらったからな」

件のボス戦に突入する。

かなりひやっとした場面があり、ぎりぎりで特別兵器を使わされた祐一だったが、一度使っただけで首尾よくボスを撃破する。

このゲームの腕前に関して、祐一の方に分があるというのを認めざるを得なかった。

四面まで進んでゲームオーバーになると、祐一は隣にあった空き椅子を引き寄せながら北川に言った。

「二人プレイも出来るみたいだぞ。今度は一緒にやらないか?」

「了解」

椅子を引いて、北川が祐一の隣に腰を下ろす。

それぞれ百円玉を突っ込んで、ゲームを開始する。

敵の攻撃は、さっきよりも激しくなっていたが、さすがに二人いれば、力でそれを突破することが出来る。

祐一の引っかかった四面もクリアして、ひたすら無抵抗の敵を撃ちまくるボーナスステージに入った。

「そういえばさ、相沢?」

目は画面を見て、指はボタンをひたすら叩きながら、北川が隣の祐一に話しかけた。

「うん?」

「この前、中庭で見かけた女の子だけど、今でも来ることあるのか?」

「ああ、毎日じゃないけどな」

「あの子、栞っていう名前なんだろ?」

「なんだ、北川の知り合いだったのか。だったら、最初からお前が会いに行けばよかったのに」

「いや、最初に見かけた時にはまだ栞ちゃんだとは分からなかったんだ」

「そうか。ところで、俺は栞ちゃんは香里の妹だって思ったんだけど」

「ああ、相沢が正しいよ」

「でも、香里は『妹はいない』って言ってたぞ」

「そうなんだよ。でも、この前、薄々とだけど、妹がいるみたいなことをほのめかしてた」

「うーむ。なんで隠す必要があるんだろうか?」

「そう、それが分からないんだよな……。美坂、時々、すごく悲しそうな顔をすることがあるんだけど、相沢は気付いてたか?」

「いや……。そうなのか」

「これは俺の想像なんだけど、何か俺たちにも言えない事情があるんじゃないかと思うんだよな」

「そうか……。仲がいいっていっても、ひょっとすると男には言えないようなことかもしれないし……」

「俺は、もし美坂が苦しんでるのなら、何とかしてやりたいと思うんだ。友達としてな」

「……」

「うん?」

祐一は、北川の言葉の微妙な響きに気が付いた。祐一と名雪の関係を、当事者である祐一が気が付いていないのだとしたら、新規参入である祐一が、北川と香里の関係を微妙に察することが出来たのもある意味では当然なのかもしれない。

「いや、なんでもない。もしかすると、名雪なら何か知ってるかもしれないし、機会があったら聞いてみるよ」

「ああ、サンキュ」

「とにかく、いい方向に向かうといいな」

「いい方向?」

「香里のこと、がんばれよ」

祐一の言葉の意味を、北川は受け止めにくかった。意味が分からなかったわけではない。少し前までの自分だったら「香里とはそういう間柄じゃない」というところだろうが、今の北川にはそういう否定も出来なかったのだ。

香里が何かの事情で苦しんでいるのだとしたら、そこから救う手助けをしたいという気持ちに偽りはなかった。しかし同時に、自分が香里に対して求めているものがある。

その正体に、北川は既に気付いており、だがそれをはっきりと表に出せずにいるのだ。

ただ、祐一のこの言葉を、北川は頼もしく感じたのは事実だった。

ボーナスステージが終わった。

北川は残念ながら三機差で祐一に撃破数が及ばなかった。

「むむっ」

「まあ、三機なんて誤差の範囲さ。ここからまた本番だぞ」

「ああ、気合い入れ直すぞ」

「よし」

さっきの会話はなかったかのように、二人は再びゲームに没頭した。

結局、帰りはもう薄暗くなる頃になったのだが、いつもの角で別れた後、北川は再び、香里に意識を向けた。この空の下に、香里や栞も生きているという事実が、北川の心に染み入ったのだった。

その日の晩、夕食を終えた香里は、机に向かって宿題と参考書の練習問題と格闘していた。

内容自体は、一度教わったことの反復練習であったから、式をたてて実際に計算する段階に入ってしまうと、そう意識を問題の方ばかりに向けなくてもよくなってくる。

そんな時、香里は昼間の名雪との会話を思い出した。

残りの問題もすべて解き終えて、勉強のあと独特の知的達成感を得る。

同時に、目の疲れを感じて、上を向きながらそっと指を閉じた瞼に当てる。

脳裏に、何故か北川の姿が浮かんだ。

今度は、その前の喫茶店での出来事を思い出す。

ちょうどその時、階下から母親の声が聞こえてきた。

「香里、お風呂に入ってしまいなさい」

「わかったわ、今、降りるわね」

時計を眺めて、もうずいぶんいい時間になったと感じる。ひょっとすると、名雪などはもう寝ているかもしれないわね。そんなことを思いながら、衣装ケースから着替えとタオルを取り出して一階にある風呂場に向かっていく。

セーターから、スカート、ブラウスと順に脱ぎ、タオルを巻いて湯気に満たされた浴室に入る。

体を一通り洗った後、広めの湯船にゆっくりと浸かる。

さすがに足を延ばしきることは出来なかったが、膝だけが若干湯から出てしまうくらいで、いい塩梅のお湯に身を任せていると、疲れた頭と体がゆっくり癒されていくのが感じられる。ウェーブのかかった長い髪も、湯にひたると瑞々しい輝きを見せてくれる。

「気持ちいいわね……」

小声で思わず香里は独語した。

リラックスした気分になると、それまで意識の外に置いていた、香里の内面が静かに頭の中で姿を現す。

その中心に来るのは、栞のことだった。

今までだったら、栞のことは一番意識して考えないようにしていたであろう。

治らぬ病気に冒されている栞。あの子の十六回目の誕生日までは、もうひと月もない。

それでも、栞は病気が治って、自分と一緒にまた学校に行くことを夢見て、けなげに笑顔を見せながら闘病を続けている。

その笑顔に対して、どうしても事実を隠し続けることが出来ずに、香里は栞に本当のことを告げた。

それでも、栞は笑顔だった。

その時からだ、栞の笑顔を自分が正視できなくなったのは。

だから、もう栞を見舞いに行くことはやめた。そして、必ず来る絶望的な苦しみから逃れるために、自分にこう思いこませようとした。「私には、妹なんていないんだ」と。

いない妹なら、失うこともない。

「そうじゃないだろう、美坂」

ふと、そんな声が聞こえたような気がした。

「えっ?」

香里はあわてて浴室の中を見渡したが、勿論、ここには誰もいなかった。

空耳だった。だが、なぜそんな声が聞こえたのだろうか。

香里には、自分の考えが間違っているということが既に分かっていた。

その誤りを、誰かに指摘されたというわけではない。仮にそうだったとしたら、たとえ名雪たちが言ってくれたのであったとしても、強硬にそれを受け入れるのを拒否したであろう。

だが、実際は、もっと巧妙に香里の心の壁は崩されていったのだ。

そもそも、北川君はなぜ栞と知り合いになったのか。偶然会っただけならともかく、病院に何度も見舞いにも行っているという。

自分たちの学校に編入してきたばかりの祐一さえ、栞と顔見知りであるらしい。

何かの力が働いているのでは?

迷信など信じない香里であったが、それでもそう考えたくなるような状況だった。

北川は、自分に「美坂の力になりたいんだ」と言ってくれた。そして、それに頼りたい自分の心もあった。

時々、冷たくも見える北川の言動が、実はそうでないことに気が付いて、香里は嬉しかった。

同時に、一人で栞のことを悩み続けていることが本当に正しいのか、疑問に思えるようになった。

「それが、香里の悪いところだよ」

名雪の言葉を思い出した。

名雪は、よく自分や祐一を頼りにしてくる。そして、自分はそんな名雪をみっともなく思ったり、図々しく思ったりすることはなかった。友達だと思っていたからだ。

そうしたら、自分はどうなのか?友達に支えられるのは、自分にとって、名雪たちにとって……。

栞は、自分が来なくて寂しがっている、悲しい思いをしていると北川は言っていた。

自分が栞の存在を否定することで、大事な妹を悲しませているのだ。

もし、本当に栞がもうすぐいなくなるのだとしたら、自分に会いたいという栞の願いを黙殺したまま逝かせてしまってもいいのか?

香里は心地よいはずの湯の中で、そんなことを考え続けていた。

そして、再び北川の顔が脳裏に浮かぶ。

心配そうに自分を見ている北川が、静かにうなずいたような気がした。

「ありがとう、北川君」

北川が、自分をどう見てくれているのかが分かった。同時に、自分が北川をどう思っているのかも。

そして、自分にはその前にしなくてはならないこともある。

香里の目から、一筋の涙がこぼれ、お湯の中に滴を立てた。

その涙にはいろいろな香里の気持ちが含まれていた。

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