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第3章 変化の兆し

その日の晩、北川はベッドの中でこの日の出来事について頭の中を整理しようとしていた。

美坂……栞という女の子の存在。そして、北川はまだ見ぬこの女の子が香里の妹ではないかと推測していた。それは、偶然聞いた一年生の女の子の会話と、同じく偶然に聞いた病院の看護婦の会話を根拠にしている。

だが、一方で香里は妹の存在をはっきりと否定していた。普通に考えると、それならば自分が推測したことは誤りであり、美坂栞という女の子はたまたま香里と名字が同じである女の子に過ぎないという結論になるのだろうが、北川には、香里が妹の存在を否定したときに浮かんだ表情が忘れられなかった。

何かを隠している、というよりも、そのことに触れられたくないとでもいうのだろうか、困惑と悲しみの混じったような表情であったが強烈に印象に残っていたのだ。

そうだとすると、今後は香里とその妹のことは触れないで忘れるようにするのがいいのだろう。しかし、そうはしたくないという気持ちが北川にはあった。もし、何かの事情があるのならば、香里の力になりたい。その力量が自分にあるかどうかは別としても、高校に入ってから少なからぬ時間をともに過ごしてきたクラスメイト、友人として何かできることはないかという北川の善良が心の中にあったのだ。

一方で、単なるそういった善良以外のものも実際には存在していた。その正体に本人たちが気付くためにはまだ少しの時間と成長を必要としていたが……。

ともあれ、手がかりが少ないために結論が得られない思索の中に身を置きながら、北川はようやく眠りの中に入ることが出来た。

翌日、学校で香里に会うと、表面上はいつもと変わらない女の子が待っていた。香里の親友である名雪も、特に香里に対する不審感のようなものを持っているようにも見えず、それが北川の自信を少し揺るがせてもいたのだった。

栞が本当に香里の妹だとしたら、なぜそれを否定するのか。その理由がわかれば、何かが進展しそうに思えるのだった。

それから何日かがたった。

放課後の掃除当番を終えて昇降口の方に向かうと、ちょうど話しながら歩いている香里と名雪の姿が見えた。

「あ、北川君も帰るところ?」

「ああ、ようやく面倒な掃除が終わったところさ」

「お疲れさま。そうしたらみんなで一緒に帰りましょうか……、といいたいところだけど、名雪は部活があるのよね」

「うん……、残念」

「そうか、水瀬さんは部長もやってるんだっけ」

「うん、そうだよ」

「なかなかそんなしっかり者には見えないのに、不思議よね」

「うー、ひどいよ、香里」

「ふふっ、冗談よ。私も、ちょっと図書室に寄っていくつもりだから、ここで失礼するわね」

「あっ、また明日ね」

「そうね」

結局、一階の昇降口の前で三人は別々の方向に分かれていった。

北川は、靴を履き替えて外に出る。同じく掃除当番をさせられていたのだろうか、帰りが少し遅れ気味の生徒の姿がまばらに見られる。

「今日はまた、母さんの見舞いにでも行ってやるか」

どうせ家に帰ってもすぐに勉強などしないだろうし……。そんなことを考えて、北川は病院に足を向けた。ひょっとすると、栞という女の子のことが何かわかるかもしれない。そんな淡い期待もあった。

途中、商店街の和菓子屋で饅頭を買い、駅と反対側にある公園を抜けて、病院の方に歩いていった。雪こそは降っていなかったが、空は相変わらずどんよりと曇っており、寒さが制服姿の北川にはより厳しく感じられた。一応、厚手のセーターを採用してそれなりに気候を考慮されてはいるらしいが、それでも本格的な冬になってくると耐え難くなる。女子生徒の方は、いくら人気があるとはいえあの制服に短いスカートではもっと厳しいのでないかと本気で心配している。だが、本当かどうかはわからないが、女の子の方が寒さには強いらしいのか、本人たちは意外に平気なようである。香里は「確かにちょっと寒いけど、耐えられないってほどじゃないわ」と言っていたし、名雪に至っては「体を動かしてれば平気だよ」と言う。遅刻寸前で走ってくる名雪のことを思い出し、二人して笑ったものだった。

ともあれ、病院の建物の中に入ると、ようやく人心地ついたように思えた。独特の雰囲気や薬品の混ざったような匂いはどうしても好きになれない北川だったが、今のこの暖かさだけはありがたく思えた。

正面の階段から二階に上り、この前と同じようにナースセンターの前に置いてある訪問者ノートに名前を記入する。そして、母のいる病室へ向かう。

冬の日がすでに傾き始めているなかで、母が待ってましたとばかりに体を起こした。

「あら、また来てくれたのね」

「ああ、きっと暇だろうと思って」

「よくわかったわね。退屈でしょうがないのよ。ほら、怪我って他にどこか体が悪いわけじゃないでしょ?」

「まあね」

「リハビリの時間も終わっちゃったし、もうちょっとやらせてほしかったんだけどねぇ」

「だったら、早く終わらせて退院してくれよ」

「そうね。先生の話だと、来週くらいには出られるらしいわよ。でもあんた」

「うん?」

「おうちの方は大丈夫なの。父さんと二人だけで、家の中がゴミ溜めみたいになってないでしょうね」

「大丈夫だって」

「帰ってからの初仕事が大掃除なんて、お母さんはいやだからね」

「わかってるよ。あ、これ、買ってきたよ」

「あら、気が利くじゃない。そこにお茶がおいてあるから、とってくれるかしら」

「了解」

ビニール袋から饅頭を取り出すと、お茶と一緒に母に渡す。病院の食事は美味しくないのよねーなどと言いながら、美味しそうにその饅頭を食べる。さすがに周りの患者や看護婦に気を遣って、小さな声で言うだけだったが、満足そうに饅頭とお茶というちょっとしたおやつを楽しんでいた。

「そういえば、この前、保険の集金って人が来たんだけど」

「いけない、掛け金を払う日だったわね」

「どこに置いてあるのかわからなかったから、また来てもらうことにしたんだけど」

「タンスの二番目の引き出しに証券が入ってるから。お金は……、お父さんにでも立て替えてもらっといて」

「わかった」

そんな会話をしながら、三十分ほどを北川は母親と過ごした。

「ちゃんと、勉強の方もしっかりやるのよ」

「わかってるって」

極めてありきたりなやりとりを最後に、北川は苦笑しながら病室を後にした。

廊下をナースセンターの前まで戻ってくると、見覚えのある看護婦の姿が目に入った。眼鏡をかけた一番若そうに見える看護婦で、北川よりも一回り背が低かった。前に来たときに、「美坂さん」の話をしていた看護婦の一人である。

北川は、少しの間迷っていたが、訪問ノートに帰宅時刻を書いた後に、思い切って聞いてみることにした。ただ、今はまだ栞にとっては赤の他人であるから、あくまでもさりげなさを装うことにした。

「あの、すみません……」

「はい、なんでしょうか?」

「ここに入院している美坂さんっていう僕くらいの歳の女の子がいると思うんですが……」

「美坂さん?うん、いますけど」

「その子、よくお姉さんがお見舞いに来ていませんでしたか。お姉さんの名前は、香里って言うんですけど」

「そうね……。栞ちゃん、確かにお姉さんがよく来てたわね。私にも嬉しそうにその話をしてくれるわね」

「そうですか。だったら人違いじゃないみたいです」

「えっ、どういうことなの?」

「僕は、お姉さんの香里さんの同級生なんですが、お見舞いに来たんです。妹さんの名前を急に忘れてしまって……。栞さんでいいんですね」

「そうだったの。栞ちゃんは二一一号室よ。今日は具合がいいみたいだから、お見舞いの人が来てくれたのなら喜んでくれるわよ」

「そうですか、よかったです」

「『最近はずっとお姉ちゃんが来てくれない』って寂しがってるみたいだからね」

「わかりました。励ましてあげますよ」

「そうしてあげてね」

「ありがとうございました」

無事に演技を終えて、北川は緊張続きの表情をようやく緩めた。だが、その甲斐があって不明になっていたことが一つ明らかになった。

やはり、香里には妹がちゃんといて、この病院に入院している栞という子がそうなのだ。

もう一つ意を決して、北川は栞の病室へと向かっていった。なにをしたいのかはよくわかっていなかったが、まずこの栞という女の子に会ってみたい。北川はそう思った。

二一一号室は廊下の一番奥にあった。母のいる病室と同じように、四人か六人部屋だと思っていた北川は、ここが個室であることを知って、さすがに躊躇した。ドアの傍らには「美坂栞」と書かれたプレートが一つだけ掲げてある。いざとなったら部屋を間違えたとか、同室の別の患者を見舞いに来た振りをすればいいと思っていたのだが、そういう逃げ道が断たれてしまったのだ。

だが、ここまで来て後には引けないと考え直し、半開きになったドアのノブを握って、意を決して手前に引いた。

その中にあるのは、母のいる病室とは違った雰囲気を持つ、静かな部屋だった。雲の間からわずかだけ漏れている夕日が部屋の中に射し込み、ベッドとそこに横になっている少女の顔を赤く染めていた。


そこは、病院共通の雰囲気とそうでない独特のそれの同居した、不思議な場所に思えた。そう広くはない病室には、小さな棚や時計など、無機質な必要最低限のものだけが置かれていたが、その唯一の例外が、壁に掛けられた小さな絵だった。この街の玄関口である駅前の風景を描いた絵で、季節は夏頃だろうか、濃い青色で描かれた空と人々の半袖姿が、更に今ここにいる自分たちとの違いを大きく浮き彫りにしている。

北川は、少女の方に目を向けた。薄く茶色のかかった髪はそれほど長くはなく、静かに枕元を流れていた。こちらを向けた顔には不思議そうな表情が浮かんでいたが、北川の姿を何秒か見ていた後、それは笑顔に変わった。愛想笑いといったようなものではなく、この女の子の本当の笑顔だった。

だから、北川にとっては彼女の最初の印象はこの笑顔になった。

そして、明らかに北川にはこの女の子の顔に香里の面影が見て取れた。香里の妹に間違いあるまい、北川はそう確信した。

「お見舞いに来てくれたんですか?」

可愛らしい声で、女の子が北川に話しかけた。病人であるという先入観があったからだろうか、その声は若干心細く聞こえたが、それは単に距離のためであったかもしれない。

「うん、そうだけど……。えっと、栞さん、でよかったんだっけ?」

「はい。あの……、申し訳ないんですけど、あなたは……」

「突然入ってきてごめん。俺は、北川っていうんだけど。美坂……、じゃなかった香里の友達なんだ。クラスも同じ」

「お姉ちゃんの?」

「そう」

香里の名前が出て、一瞬だけ寂しそうな目をした栞だったが、すぐに花の咲いたような笑顔になる。この比喩が適切であるのかどうかは、今の北川には残念ながらわからなかったが。

「お姉ちゃんの友達が来てくれたんですね。わぁ、ありがとうございます」

「ちょうど、俺の母親もこの病院に入院していてね。偶然、栞さんの名前が見えたから」

「そうだったんですか。ありがとうございます。一人でいると、やっぱり寂しいんですよ。お姉ちゃんも、そろそろ受験で忙しくなってきたのか、最近はあまり来てくれないし」

その理由付けが、本心でないことに北川は気がついた。やはり、何らかの理由で、これまで栞を頻繁に見舞いに来ていた香里がこなくなったのだろう。それと、香里が妹の存在を否定することに何か関係はあるのだろうか。

一番考えられそうな理由は、姉妹げんかというものだろうが、この栞の表情を見ているとそうは考えにくい。存在そのものを否定したくなるほどの仲違いというのはそうはあり得ないだろう。香里がそんなに冷たい人間でないということは、北川はよく知っている。

「そうなんだ……」

「お姉ちゃん、元気にしてますか?」

「ああ、今日も昼飯を一緒に食べに行ったよ」

「何か変わったことはありませんでしたか?」

「うーん、特に思いつかないなあ」

少し考え込む様子を見せた北川に、栞はあわてて言葉を加えた。

「あっ、なんか私ばかり聞いていてすみません。初めて会った人なのに」

「ううん、それは気にしなくていいよ。こっちこそ、栞さんには知らない人なのに、いきなり入って来ちゃって。しかも手ぶらだ」

「ふふっ、いいんですよ。ちょっと寂しかったですから。それとですね……」

「うん?」

「私のことは、『さん』付けじゃなくて『ちゃん』でいいですよ。お姉ちゃんのお友達ってことだったら、私よりも年上ですよね」

「そうだね。栞……ちゃんは、一年生なんだっけ?」

さりげなく、北川はそう問いかけてみた。廊下で聞いた話とつながるのなら、帰ってくる返事は決まっているはずである。

「はい。北川さんは知らないかもしれませんけど、私もお姉ちゃんや北川さんと同じ学校なんですよ。もうずっとお休みしてますけど……」

「栞ちゃん、そんな顔しないで」

「ごめんなさい。入学式の日に倒れちゃって、それからずっと入院したままなんです」

「そっか……」

それから会話がとぎれてしまい、しばらく北川は栞の様子を見ていた。特に点滴などを受けているようでもなく、ここが病室ということを忘れれば、かわいい女の子が休んでいる姿があるだけである。

夕日の角度が徐々に変わり、部屋が薄暗くなってきた。

「北川さん、そんなところに立っていなくてもいいですよ」

「そ、そうだね」

ドアのすぐそばに自分が立ったままであることに気がついた。

すぐ近くにあった明かりをつけたあと、もう少し栞の近くまで移動する。

備え付けのパイプ椅子を勧められて、北川はそこに腰を下ろした。

「北川さんは、お姉ちゃんと仲がいいんですか?」

にっこりと微笑みながら、栞が聞いた。

「悪くはないと思うよ。もう一人美坂とは仲のいい人がいて、よく一緒に今日みたいに学食に行ったりするんだ」

「あ、それって名雪さんって人じゃありませんか?」

「名雪……、ああ、水瀬さんだね。そうだよ」

「お姉ちゃんがいつも話してくれるんです。ちょっと変わった子だけど、私の一番の親友だって言ってます」

「そうだね。結構、性格は違うけど、その分だけ仲がいいし」

「その分、ですか?」

「ああ。仲のいい友達同士って、性格は似てるよりも正反対のことって多くない?」

「あ、そうかもしれないですね」

「似たもの同士だと、どうしても自分の嫌なところを見せられてるようで、仲良くなれないんじゃないかと思うんだ」

「そういうものかもしれないですね。でも、そうだとすると……」

「うん?」

「北川さんもお姉ちゃんとは違う性格なんですか?」

「うーん、それはどうなんだろう。一つだけ言えることはあるけど」

「なんでしょうか?」

「俺は、美坂ほどは頭がよくない」

「お姉ちゃんは、頭いいですから」

「だよな。しかし、今、言い切ったね」

「はい。お姉ちゃんにはよく勉強を見てもらいました。私、お姉ちゃんのこと大好きなんです」

「そうみたいだね。そうだ、今度、美坂に言っておくよ。たまには栞ちゃんのお見舞いにまた行ってやれって」

「……そうですね。お願いします」

一瞬だけ沈黙があったことに北川は気がついた。そして、その気持ちがあったとしても、香里にそのことを伝えるのはかなり難しいこともわかっていた。何しろ、香里には栞という妹はいないことになっているのだ。ここで自分が栞に会って話をしたということを、香里が知るはずもないだろう。

「まあ、美坂が忙しくて来られないんだったら、俺が時々、代わりに来てもいいけど。もちろん、栞ちゃんが迷惑でなければだけど」

「迷惑だなんてとんでもないですー。是非お願いします」

「俺は美坂ほど栞ちゃんに慕われると思えないけどね」

「お姉ちゃんは特別ですよ」

「そうだね。あっ、もうこんな時間だ」

初対面であるにも関わらず、かなり長い時間話し込んでいたことに北川は気が付いた。

「そうですね。すみません、話し相手になってもらって」

「ううん、構わないよ。それじゃ、また本当に来るかもしれないから」

「はい、楽しみにしていますね」

名残惜しさを感じながら、北川は席を立った。そして、この印象的な笑顔に見送られて、北川は病室を後にした。

さすがに、栞の病の篤さというというものには、北川は気付くことは出来なかった。

これで一部分を除いて、香里とその妹に関することのつながりがわかるようになった。香里には確かに栞という名の妹がいて、病気で長いこと入院しているということ。自分たちと同じ学校の生徒で、一つ下の一年生であるということ。

しかし、本人が妹の存在を否定していて、それが何故であるのかということだけはわからなかった。

あのときの香里の口調は、それ以上は追求しないでほしいと言いたそうであったので、北川としても何も言うことは出来なかった。

それを除けば、香里は今までと変わらない香里であった。

期末試験も終わり、冬休みが近づいてきた。

年が明けて新学期になれば、すっかりなじみの話題になった、名雪のいとこの祐一がやってくることになる。

北川も何回か聞かされていたが、香里はもっと名雪から祐一の話を聞いているらしく、半ば既知の人となっているようである。北川としても、新しい友人が出来るのは楽しみであったし、そうなれば「美坂チーム」も男女二人ずつになってバランスがとれるようになるだろうと、余計なことも考えていた。

香里のことも、おそらく自分には及びも付かないような事情があるのだろうが、その原因が分かれば解決の糸口になるのではないかと漠然と考えていた。そして、出来れば自分がその役を果たしたいと思うようになっている。

一年以上のつきあいで仲良くなったということもあるが、それとは別の種類の感情が芽生え始めていた。北川にとって、香里と栞が稀に見せる悲しい表情がどうしても忘れられなかった。姉妹だけあって、二人のその表情には深い共通点があった。それだけに、なんとか出来ないだろうかと思うようになっていった。

何かきっかけになるものが欲しい……。本当に自分が踏み込んでいい領域かどうかはわからないだけに、慎重を要すると北川は考えていた。

それ以外については今までと同様に香里や名雪と楽しく時間を過ごしながら、一方で、時々、病院に栞の見舞いにも行っていた。

退院した母の回復の方は順調で、家では既にほとんど今までと変わりなく家事をこなせるようになっていた。北川と父の二人は、その働きに改めて感謝するのだった。

やはり、香里は栞の見舞いにはずっと来ていないようで、栞は香里の話をよく北川にせがんでいた。

ひょっとすると、栞も香里が来ない原因を察しているのかもしれない。「栞ちゃんのお見舞いにも行ってやれよ」と伝えておくと言ったことについて、栞は何も言わなかったからである。

栞の時々見せる寂しさが、もっと深い悲しみによるものであるということには、残念ながら、北川には察することは出来なかった。北川を弁護する言い方をすれば、栞と知り合いになったばかりでそこまで到達することは酷であるといえるだろうが。

それでも、栞にとって北川が来てくれるということは楽しみでもあった。北川と話している時に、栞が見せる笑顔は偽りではなかったし、テレビドラマが好きだという、意外な趣味が一致したこともあって、話題には事欠かなかった。

特に、この秋に始まった「天空」というドラマは、二人とも楽しみにしていて、登場する女の子たちの悲しみの深さが明らかになるにつれて、その解放への道のりを心待ちにしているのだった。

年の瀬も近づき、学校も世間もいろいろとあわただしくなってきた。

結局、病状のために年末年始も病院で過ごすことになった栞を、なんとか北川は励ますことが出来たようだった。

まだ、物語は新たな展開を見せることはなかったが、その土壌は確実にできあがりつつあった。

そして、そのような中で、新しい年を迎えた。

香里にとって、北川にとって、そして栞、名雪にとって、それぞれ抱えている気持ちは大きく異なっていたが、やがてそれが同じ方向を向くようになっていく。


正月の華やかな雰囲気も徐々に落ち着き、学校という現実が始まると、その空気は急速に日常へと戻っていった。

二週間ほどの休みが明けて、北川も再び着慣れた制服に身を包んで学校へ向かう。

始業式の日は、幸いなことに天気もよく、寒さの方は相変わらずではあったが、それでもあの重苦しい空がないだけ、気分もよくなっていた。

北川も年末年始はそれなりに忙しく、ぎりぎりまで年賀状を書いていたり、母に追い立てられて部屋の大掃除をしたりと、あわただしく過ごしていた。病院の方も同じであろうし、栞もひょっとするとこの時期くらいは自分の家で過ごすのでないかと考えた北川は、そちらには足を運ばなかった。

栞が家に帰れば、当然に香里と顔を合わせることになるであろうから、もし何らかの理由でこの姉妹の間に溝のようなものが出来ていたのだとすれば、それが解決の方向に向かってくれればいいと、漠然と考えていた。

だが一方で、それはそう簡単なものではなく、出来ることならこの二人にとって何か力になれることがないか模索しようとしている自分にも気付いている。

現実的な時間と、それに伴って出来ること、そんなものの少なさに、どこか逃避しつつも、いつかそれに向かい合う日が来るのではないかという予感もしていた。

元日、香里から送られてきた年賀状を見て、一緒に初詣にでも行こうかとさりげなく誘うことを考えた北川だったが、結局そう踏み出すことは出来ずに、いつもの年と同じように両親と一緒に近くの神社に行って済ませたのだった。お約束ということで引いてみたおみくじは「中吉」と出ていた。恋愛運についても「努力が肝要。念ずれば通ず」と、学問運とさほど変わらぬことが書かれているのみだった。

この日の夕方、ぎりぎりに投函した自分の年賀状が届いているかどうか聞いてみようという大義名分のもとに、北川は香里に電話を入れた。

「あ、北川君。あけましておめでとう」

「ああ、おめでとう。今年もよろしく頼むよ」

「そうね、こちらこそ」

「そうそう、年賀状、サンキュ。俺のは届いてるか?」

「ええ、来てたわよ。次はもう少し余裕を持って書いてね。時間がなかったっていう焦りがにじみ出てるわよ」

「面目ない……」

「ところで、初詣はもう行ったのか?」

「ええ。今年は受験だし、学業成就のお守りも買ってきたわね」

「そうだよな、あまり考えたくないけど。で、やっぱり家族で行ったのか?」

「いえ、名雪とよ」

「ひょっとして、晴れ着二人組か? 俺も行きたかったな」

「残念ね。女同士気兼ねなしだったから、普段着のままよ」

「そうか……」

さりげなく、様子を聞いてみようとしたけれども、栞の存在が伺えるような言葉は香里の口からは出てこなかった。

結局、三が日も家族でのんびりと過ごし、もう今年は十八歳になるのだからと、父親に無理矢理に勧められた酒などを飲んだりして、気が付くともう学校の始まる時期になっていた。

宿題がほとんどなかったことに感謝して、新学期の最初の日に、そんなことを思い出しながら学校に向かった。

少し余裕を持って出てきたせいか、早出組のクラスメイトと挨拶を交わしながら教室に入る。香里も名雪もまだ来ていないようである。

「新学期になったら、祐一も学校に来るんだよ」

名雪が終業式の日にそう言っていたことを思い出した。どのクラスになるのかわからないが、来たらきっとそれを嬉しそうに話してくれるだろう。いつも遅刻ぎりぎりの名雪も、今日くらいは余裕を持って来るんだろうと思っていた北川だったが、その見通しは甘いことをすぐに教えられた。

予鈴が鳴って、ようやく名雪と香里が一緒に姿を見せた。

「あの人がそうなのね」

「うん、一緒のクラスになれるといいなあ」

「なんか、思った通りの人だったわね」

「おっ、美坂に水瀬さん、おはよう」

「あっ、北川君。おはよう」

「おはよう」

「香里はもう会ったのか?」

「ええ。ちょうど二人して走ってくるところに出くわしたのよ」

「なんだ、新学期早々、マラソンか」

「そうみたいね」

「うー……」

「第一印象はどうだった、香里?」

「悪くはないわね。今も言ったけど、思った通りの人だったわよ」

「思った通り?」

「名雪にさんざん話を聞かされていたから、私の頭の中でイメージが出来ちゃってたのよね」

「そうか」

「一昨日、一緒に映画を見に行った時も、その話ばかりだったのよ」

「だって、すごく久しぶりだから、楽しみだったんだよ」

「そうか、じゃあ俺も楽しみにしてるよ」

「うんっ」

そんな話をしていたところで、担任の石橋が教室に入ってきた。

休みの過ごし方などを話していた周りの生徒たちも、あわてて会話を引き上げて席に着く。

教壇に立った石橋は、満足そうに教室を見渡した後に、勿体付けるような表情で言った。

「あー、おはよう。今日から新学期になるわけだが、一つニュースがある」

「おおっ、なんだ?」

「明日から第二冬休みとか」

「いや、いきなり試験とかじゃないだろうか」

勝手なことを言い出す生徒たちを、石橋が手で制する。

「こらこら。静かにしろー。ニュースというのは他でもない。今日から我がクラスに転校生が編入で入ることになった」

「おおおっ!」

教室が賑やかになる。特に何かベタな期待をしている男子生徒たちは、立ち上がりかねないほどの勢いを持っていた。

「ちなみに、転校生は男だ」

彼らの期待は、一瞬にしてうち砕かれた。歓声に代わり、同じ規模のブーイングが教室に響く。

そんな様子を冷ややかに眺めていた女子生徒に、今度は入れ替わりでわずかに期待感が宿ったようにも見えた。

ふと近くの席を見ると、名雪が他の女子生徒の三倍くらい、期待を籠めた表情を見せていた。それを、楽しそうに香里が見ている。

「世の中、なかなかうまく出来たものだな」

北川は内心でそう思いつつ、自分も名雪のいとこという転校生がどういう人間であるのかということに急速に興味を持ち始めた。

教室の前のドアが開き、自分と同じ制服を着た生徒が一人入ってきた。

背は自分よりも少しだけ高いだろうか。正直、可もなく不可もなくといった容姿である。それなりに振る舞えば、割と女の子の人気も得られるのではないだろうか。一瞬の間に、北川はそう評価した。

「では、紹介する。というか、自分で名乗ってくれ」

石橋が隣の転校生を促した。

「はい。相沢祐一です。よろしくお願いします」

「というわけだ。みんな、いろいろ相沢君に教えてやってくれ。席は、そこが空いているな」

極めてあっさりした自己紹介だった。何かを期待していた生徒もそれが裏切られたことすら自覚する前に終わっていた。石橋も特にそれ以上を要求することなく、祐一は指示された空席に歩いていった。

その空席は、北川の席のすぐ近くだった。生徒たちが見つめる中、歩いてくる祐一に、嬉しそうに名雪が手を振っていた。祐一がそれに気付いたらしく、少し恥ずかしそうにしている。彼が感情を見せた初めての瞬間だった。

「俺は北川だ。これからよろしく頼む」

「ああ、こちらこそ」

本当にあっさりした人物らしい。それとも、単に緊張が抜けていないためだろうか。確かに、名雪が言ったように悪い人には見えない。なじんでくればいろいろ話も出来るようになるかもしれない。

ホームルームの終了したあとの休み時間、待ってましたとばかりに名雪が祐一のところにやってきた。

北川と香里も、興味津々といった風で吸い寄せられる。

「びっくりね」

「うん。でも祐一と一緒のクラスで嬉しいよ」

「あ、彼は北川君ね。割と私たちとは仲がいいのよ」

「割とっていうのはひどいな」

「気にしないの」

「ああ、さっき教えてもらった」

「まあ、知ってる人間がクラスにいてよかったじゃないか」

「そうだな。誰も知った顔のいない教室というのは居心地よくないからな……」

「ま、改めてよろしく頼むよ」

多少大げさに、握手などしてみせた。名雪のいとこということであれば、少なくともしばらくの間は「美坂チーム」の一員として行動することになるのだろう。授業のことはともかくとして、学食や購買のことなど、まだ祐一には知らないことがたくさんあるだろう。

始業式のために体育館に行き、戻ってきてもう一度、三学期の主な予定などのガイダンスを受け、この日は終わりになった。

お約束通り、祐一は転校生の常として他の生徒たちに囲まれて質問責めに遭っていた。普通と少し違うのは、妙にこの転校生と仲の良さそうな名雪にも他の女の子たちがたくさん集まっていたことだった。それはそうだろう、何しろ、席に着こうとした祐一に笑顔を向けて手を振っていたのだから。本人はまったく気にしている様子ではなかったが。

「今日は、あの二人に近づくのは無理ね」

「そうだな、俺たちは帰るか」

「そうね」

北川と香里は、鞄を手にして、一足先に教室を出た。

雪道を並んで歩き、名雪と祐一についていろいろと意見交換をした。いつもの場所までやってくると、そのまま香里に見送られて駅の方に向かっていった。

「じゃあね、また明日」

「ああ、またな」

北川が電車を降りる頃になって、再び雪が降り始めていた。

その翌日から、早速授業が始まった。

香里と名雪、北川の三人は近くの席に固まっていたから、その中にあった空席に配置された祐一も自然と同じグループに仲間入りすることになった。

まだ持っていない教科書があり、祐一はなるべく均等になるようにこの三人に見せてもらいつつ、授業を受けていた。余計な噂を引き起こさないための知恵だったのかもしれない。

だが、そんな祐一の考えもむなしく、新学期のこのクラスにはそういった話の好きな人が喜びそうな話題が既に広まっていた。

祐一曰く「考えなし」の名雪が、自分が祐一と同じ家に住んでいるということをクラスメイトたちに話してしまったのだ。

いとこ同士とはいえ、微妙な年頃の男の子と女の子が同じ屋根の下で暮らしているという事実は、その手の話題の好きな人には格好の話のタネになった。祐一もそれを危惧して黙っていることにしたのだったが、その努力は報われることがなかった。中には、いとこ同士であれば結婚も出来るということを知っている生徒もいて、それが一部生徒の好奇心を強力に刺激していた。名雪が、かなり仲良さそうに祐一に話しかけていて、祐一も拒むことなくその相手になっているという事実が一人歩きを始め、「実はあの二人は……」という下世話な噂をまことしやかに話しているような者もいた。

「名雪、軽率だったわね」

そんな様子を見ながら、香里が言った。

「ううむ。本人には全く悪気はないと思うんだけど……」

腕を組みながら、北川が答える。二人とも、勝手なうわさ話が一定以上になったら、この友達を守るつもりでいたのだが、幸い、そういうことにはなっていなかった。

名雪と祐一の仲が、妙な意味でなくいいということが自然にクラスに受け入れられるようになったし、祐一がクラスに急速になじむことが出来るようになった要因の一つにさえなった。そういう意味ではどこか抜けているような名雪のキャラクターのおかげであると言えなくもなかろう。

ともあれ、最初は辟易としたといった表情での愚痴が多かった祐一の話し相手になっていた北川だったが、それをきっかけにしていろいろ雑談などをするようにもなってきた。

昼休みには香里と名雪も含めて、四人で学食に行くようにもなり、北川が予想した通り、「美坂チーム」の一員となっていた。美坂チームもこれでバランスがとれるようになったというものである。

話してみると、祐一も北川に劣らず、なかなか面白いキャラクターの持ち主であるということがわかってきた。時々見せてくれるボケは、ある意味では名雪に通じるものがあるのかもしれない。そういう意味では、祐一と名雪がいとこ同士であることに妙な納得感を感じていた。


祐一も学校生活に慣れてきたある日のことだった。

四時間目の国語の授業中、祐一は腕や太股をつねったりして必死に眠気と戦っていた。

特に苦手で退屈な古文の授業で、意味のよくわからないことを板書をなんとかノートに取ろうとしていたが、字が既に歪みかけていた。

古文独特の音律が、この場合は眠気を増長する役目しか果たしていなかった。

そんな時、窓の外に目を向けてみた祐一が、ちょっとした異変に気が付いて、その眠気を幾分か吹き飛ばした。

窓際である祐一の席からは、学校の中庭の様子が見えるのだが、その中庭に並んでいる木の一本、その真下に一人の女の子がたたずんでいるのが見えたからである。

教室の中は、眠くなるくらいに暖かかったが、外はいつものように小雪がちらついている。そんな中、誰かを待っているかのように女の子が立っているというのが、祐一には気になったのだった。

距離があるのでその女の子の顔はわからない。ストールを羽織って、短めのスカートをはいているのが判別できたからそれが女の子だとわかったのであり、そうでなければ男か女かもわからなかったかもしれない。

学校の敷地の中であるにも関わらず、制服姿ではなかったから、たまたま何かの用事があって学校に来たか、それとも、迷い込んでしまったかのどちらかかもしれないと考え、意識を教室の授業の方に戻した。あまりいかめしい校門というものがないこの学校には、時々外の人間が入り込むこともあるのだ。その一例に過ぎないかもしれないと祐一は思ったのである。

しかし、授業は相変わらず退屈で、すぐに再度の眠気が襲ってきた。周りを見ると、船を漕いでいる生徒が少なくとも八人は目に入った。その中に名雪が入っていることは言うまでもなかった。さすがに、香里は真剣な表情で黒板を見ていたが、このままでは祐一自身も船頭の仲間入りしそうであることは確実だった。

そこで、授業から意識をそらすことだとはわかりつつも、再び窓の外に目をやって睡魔の誘惑から逃れようと試みる。外の寒そうな景色を見れば、少しは眠気が解消されるのではないかと淡い期待を抱いていた。

自然、先ほど女の子のいた中庭の木の方に目が向いていく。たまたまそこにいたのであったとしたら、もう十分はたっているだろうから、女の子はもういないだろうと祐一は思った。

だが、意に反して、そこには前と同じように女の子が立っていた。時々、校舎の方に目を向けて、何かを探しているようにも見えたが、その真意はわからなかった。

教師がこちらに背を向けて板書している隙をついて、祐一は前の席の北川に密かに話しかけた。

「おい、中庭に女の子がいるみたいなんだけど、気付いてたか?」

「いや……。それがどうしたんだ」

「なんか、ずっとあそこに立っていて、時々こっちを見たりもしているんだが、何か心当たりはあるか?」

北川が祐一の指さした方向を見て、女の子の姿を確認した。

「いや、さすがにわからんな。誰かの忘れ物でも届けに来たんだろうか?」

「うーん。でも、それならあんなところに立ってないで校舎に入ればいいと思うんだけど」

「さあな……。クラスがわからないとか」

チョークが黒板を叩く音が止まったので、北川はあわてて会話を中断して、前に向き直った。

それから、時々中庭の方に目を向けてみたが、女の子はやはり同じ場所に立っていた。この授業の間ずっとそうしていたとすると、一時間近い長さになる。風邪を引いたりはしないだろうかと、さすがに心配になってくるが、飛び出していくわけにもいかない。

チャイムが鳴って国語の授業が終わると、それを気にしつつも、ようやく開放感を感じられるのだった。

「ふー、ようやく昼休みだな」

「名雪は、今日は学食かしら?」

「うん、そうだよ」

「それなら、相沢君も同じね」

「ああ」

「だったら、みんなで学食に行きましょう」

「賛成っ」

連れだって、学食の方に向かっていく。廊下を歩いていると、やはりここから見える中庭の木のところに、女の子の姿があるのが見えた。

それを見た祐一は、急に何かを思い立って、突然、香里と名雪にこう言いだした。

「悪い、ちょっと先に行っててくれないか?」

「どうしたの、忘れ物?」

「まあ、そんなところだ」

「うん、わかったよ。祐一の席も取っておくね」

「ああ、サンキュ」

軽く手を振った祐一は、隣にいた北川に簡単にこう告げた。

「ちょっと見てくる」

「さっきの子か?」

「ああ」

意外に活動力がある奴だと思いながら、北川は祐一に任せることにした。

香里と名雪の後を追いかけて、自分は食堂の方に行く。

中庭に通じる重い鉄の扉を開けると、いきなり外の冷たい風が入ってきた。

そのまま回れ右をしたくなる衝動を押さえて、なんとか意を決して祐一は雪の積もった中庭に出た。

名雪の話によると、春くらいになれば気持ちよく弁当を広げたりも出来る中庭は、今の季節は雪に閉ざされた単なる寂寥の空間だった。

その寒々しさの中に、一人の女の子の姿が見えた。

自分が現れたことに驚いたような表情を見せた女の子だったが、会釈ともつかぬような笑顔をこちらに見せてくれた。

積もっている雪を見て、やはり躊躇を持った祐一だったが、このまま戻るわけにもいかずに、この女の子の方に歩いていく。

「こんにちは」

自分よりいくつか年下に見える女の子が、その顔に似合った可愛い声で話しかけてきた。

「ああ、こんにちは」

「この学校の方ですか?」

「そうだけど、君は、学校に何か用事があったの?」

「はい。知り合いに会いに来たんです」

「そうなんだ。俺の知ってる奴なら呼びに行ってもいいんだけど、残念ながら力にはなれなさそうだ」

「どうしてですか?」

「実は、俺はこの学校に転校してきたばかりで、ほとんど知り合いはいないんだ」

「そうだったんですか。でも、構わないですよ。来るって言ってから来たわけではないので、会えなくても構わなかったんです」

「でも、ずいぶん前から待ってたんだろう?」

「はい、でも構いません」

笑顔で女の子がそう言った。

「あ、申し遅れました。私は美坂栞っていいます。一応、一年生です」

「俺は、相沢祐一。君は中学生?」

「あー、ひどいです。高校一年生ですよ」

「あ、ごめん。てっきり……」

「てっきり、なんですか?」

可愛いい顔に少しだけ厳しい表情を見せて栞がのぞき込んだ。

「いや、なんでもない。どうしてよその学校に?」

「違いますよ。私も、この学校の生徒なんです」

「えっ?」

「でも、今は病気でお休みしているんですけどね」

割と人なつこく話してくれるので、祐一の緊張感もすぐになくなった。

「寝てなきゃダメじゃないのか?」

「そうなんですけど、ずっと寝てるのも退屈なので」

「そういうもんじゃないだろう。こんなところにいたら風邪引くぞ……、って風邪引いてるから休んでるのか」

「はい。そうなんです」

一瞬、ためらいがあったようにも見えたが、屈託のない笑顔でそう答えた。

「でも、祐一……、いえ相沢さんのおっしゃる通りですから、もう今日は帰りますね」

「いいのか、訪ねてきた相手には会えなくて」

「はい。大事な用事があるというわけでもありませんので」

「そうか。もし知ってる奴だったら伝えておくけど」

「いえ、また来ますので」

「わかった。それと、俺のことは別に『祐一』で構わないぞ」

「わかりました、祐一さん。わたしのことも『栞』でいいです」

「わかった」

「また会えるといいですね」

「そうだな」

結局、何のために来たのかわからないまま、栞は帰っていった。栞がいなくなると、祐一は急にここの寒さを思い出し、急いで校舎の中に戻った。

栞が会いに来た相手というのは、もちろん香里ではなかった。その相手には会うことが出来なかったのだが、祐一はそんなことは知ることは出来なかった。

午後の予鈴が鳴って、祐一は急いで教室に戻った。

「祐一、ひどいよー」

そんな祐一を、名雪の抗議が待ち受けていた。

「えっ、どうしたんだ?」

「祐一の席、ちゃんと取って待ってたのに……」

「あ、そうか。ごめん」

学食の話だと思い至り、祐一は手を合わせて謝った。

「まあ、今日はそんなに混んでなかったからよかったけどね」

「そうだな」

香里と北川が弁護してくれたので、なんとか祐一は解放された。

香里と名雪が席に戻ったのを見て、北川がこっそりと祐一に話しかける。

「結局、女の子と何か話したのか?」

「ああ。学校にいる知り合いに会いに来たって言ってたけど」

「やっぱり、そんなところか」

「でも、その割にはあの子……、栞っていってたかな、は誰にも会わずに帰っていったけど」

「えっ?そうなのか」

「ああ。なんでも風邪で休んではいるけど、この学校の生徒だとも言ってたし。どうしてもってほどじゃなかったんだろ」

「うーむ」

栞という名前に、北川は反応した。思わず、香里の方に顔を向けたが、授業の準備をしているようでこちらに気付いてはいないようだった。

入院しているはずの栞が、なぜ学校にやってきたのだろうか。誰かに会いに来たと言っていたが、それはやはり香里なのだろうか、それとも栞のクラスメイトの誰かだろうか。

北川はそんなことを考えた。ひょっとすると自分かとも思ったが、その可能性は低いだろうと考える。

「誰に会いに来たのか聞こうかとも思ったけど、俺はこの学校に知ってる人間なんかほとんどいないしな」

「それもそうだ」

そう受け答えしながら、北川は栞のことを考えていた。かといって、どうしてよいのかはよくわからない。

そうこうするうちに、五時間目の授業の担当教師が入ってきたので、会話はお開きとなった。さすがにもう、中庭には栞の姿はなかった。


その翌日、四時間目の授業中に中庭の方を見ると、また女の子が立っているのが見えた。昨日と同じく、ストールに短めの黒のスカートという姿がなんとかこの距離で確認できた。

北川には、それが栞であるかどうかははっきりとはわからなかったが、そういう先入観を持って見れば、髪型などからその子が栞であると思えなくもなかった。

昼休みになって、祐一は急いで教室を出ていった。香里は「今日は食欲がないから」といって、昼食をパンで済ませることにしていたし、名雪は陸上部の小会議があるとかで部室の方へ行ってしまったから、北川の身は一人浮くことになってしまった。仕方がないので、今日は購買で何か買って済まそうと思い、廊下を歩いていると、ちょうど向こうから戻ってくる祐一に会った。

「お、相沢、どうしたんだ?」

「ちょっとこれを買ってきた」

「うん? アイスクリームか?」

「ああ、栞が食べたいって言うから」

「今日も栞ちゃん、来てるのか」

「まあな」

「この寒いのに、大丈夫なのか」

「本人は平気だって言ってるけど。北川も一緒に来るか?」

半分冗談で祐一は言ったのだろうが、北川は本気に受け取って考えた。来ているのが本当に自分の知っている栞なのか、そして、会いに来ている相手は誰なのかが知りたいとも思った。だが、そうする勇気がまだ北川にはなかった。同時に理由はわからないが香里に対して後ろめたく思う気持ちもあった。

「いや、俺はいいって」

「そんな考え込むことでもないだろ。冗談だしな」

「そうだよな。はははっ」

笑い声に真相を紛らわせて、北川は学食にある購買の方に向かっていった。栞がアイスクリームを好きだということは、何度か見舞いに行ったときに話していて聞いたことがある。おそらく、祐一の会っている栞が、香里の妹で自分の知っている栞であることは間違いないと思われる。

漠然と様々なことを考えながら、戻ってきた北川はまだ食べている途中である香里と一緒に簡単な食事を済ませた。いつものように、くだらない雑談をしながら食べたはずだったが、何を話したのかはよく覚えていなかった。

「どうしたのよ、北川君?」

「えっ。どうしたとは?」

「なんか、私の顔をじっと見たりして。ひょっとして、パンくずかなにか付いてる?」

香里が恥ずかしそうにあわてて、口の周りに触れた。それが何となく可愛らしく見えた北川だったが、そんなことは口には出来なかった。

「いや、大丈夫だ」

「そう……。ならいいんだけど」

「美坂に惚れてるからだな。いや、冗談だけど」

「何を言い出すのよ、急に」

柄ではないとでも言いたげに、香里が笑って答えた。北川も、自分の本心が分からぬままにやはり笑うことしか出来なかった。

それから何回か、栞は学校に来て祐一に会っていたようである。

それを気にかけながら過ごしていた北川だったが、ある日、休み時間にいつものような雑談をしていたとき、祐一の口からこんな話題が出てきた。それは、前に北川も聞いたことのあるものだった。

「そういえば香里って、妹がいるのか?」

祐一もそこに思い至ったのだろうか。美坂という名字を聞いて、香里と結びつけようとするのは不思議なことではない。

北川は思わず、香里の反応を見ようと、その顔を密かに見つめた。

「……いいえ、私には妹なんかいないわよ。何でそんなこと聞くのよ?」

答えも、前に自分が聞いた時と同じだった。そして、前と比べていらだちのような気持ちがあるのが見て取れた。だが、同時にそこに一瞬のためらいがあったのも北川は見逃さなかった。しかし、その理由は依然として不明のままであった。

「い、いや……。そうか、じゃあ人違いかもな」

「人違いって?」

「いや、たまたま美坂っていう名字の知り合いが出来たんで、ひょっとしたらって思ったんだが」

「そうね。まあ、美坂なんてありふれた名字じゃないけど、そんなに珍しくもないんじゃない?」

「そういえば、少し前に北川君も同じことを聞かなかった?」

名雪が不思議そうな顔をしながら口を挟んだ。

「あ、そういえばそうだな」

北川は、さりげなく相づちを打った。

「わたしも、その時までは香里の兄弟のことは知らなかったんだよね。もうずいぶん長いつきあいになるのに」

「そうね。名雪は家族のことをいろいろ話してくれるけど、お母さんの自慢話ばかりで、私は押されちゃうのよね」

笑いながら香里が言った。父親のいないことも知っていたが、それでも名雪の家庭は幸せなのだと言うことも知っていた。

「水瀬さんのその手の話は、尽きないもんな」

「うー、そんなことないよー」

「家族だけじゃないじゃない。相沢君がこっちに来ることになった時も、しばらくは、祐一が、祐一がってばかり言ってたわよ」

「おい、そうなのか?」

「ああ、俺も証人になる」

「うー」

困ったような顔をする名雪と、肩をすくめる祐一。悪いことではないのだが、自分の知らないところで何度も話題になっていたことを知って、祐一は恥ずかしくなった。それでなくても、名雪と一緒に住んでいることが当人によって明らかになり、クラスの話題の人となっていたのだから。

隠し事には縁のないような名雪に、もちろん悪気はないのだが、どうしても考え込まざるを得ない祐一である。

「まあ、おかげで相沢君とはすぐにうち解けられるようになったんだから」

「そうだな。結果的にはよかったんじゃないのか」

「そういうことにしておくか」

「うんっ、そうだよ」

いつの間にか、話題は栞のことからは完全に離れていた。また前と同じく、「香里には年上の兄弟よりも年下の兄弟がいるように見える」という話になり、他の三人も一人っ子であることが再度確認されるような話になった。

「でも、兄弟がいる奴っていうのは、ちょっとうらやましいよな」

祐一がごく一般的な感想としてそう言った。残りの三人も、それぞれ多少思うところが違うながらもそれにうなずいていた。ただ、やはり香里の表情が、わずかに沈んだことを北川ははっきりと見ていた。

祐一が栞と香里のつながりをどう思っているのかはわからなかったが、北川にはその違和感がますますはっきりと感じられるようになった。出来れば、祐一に栞のことを聞いてみたいと北川は思った。パズルのキーとなる一片が欠けているような、落ち着かない気持ちであった。

その日の放課後、北川は病院に栞を見舞いに行った。

「あっ、久しぶりですー」

相変わらずの笑顔で迎えてくれる栞を見ると、北川には長期にわたって入院するようには見えなかった。壁に、ストールと白いセーター、黒のミニスカートという外着一式が掛けられているのに気が付いた。

「こんにちは。今日は学校帰りなんだけどね。栞ちゃんも、外出したの?」

服の方を見ながら、北川は言った。

「はい。今日はちょっと気分が良かったので」

「なるほど。あ、差し入れのアイス買ってきたよ」

「わー、ありがとうございますー。今日は二つ目ですっ」

「そうなの?」

「はい。お昼に一つ食べたんです。学校でなんですけどね」

「えっ?」

挿絵2「実は、外出って学校に行ったんです」

「学校って、俺や栞ちゃんの?」

「はい。ある人に会いに行ったんですが、今日も会えなくて、代わりに別の先輩に」

それが祐一であることを北川は察していた。栞がそういう言い方をするのは、祐一が北川を知っていると思っていないからであろう。

「そうんなんだ。当てて見せようか?」

「はい、なんですか?」

「その別の先輩っていうのは、相沢祐一って名前じゃない?」

「わわっ、どうしてわかるんですか?」

「ふふっ、実は、相沢は俺と同じクラスなんだ。俺の席の後ろが奴の席」

「わっ、そんな偶然ってあるんですね。びっくりですー」

「で、栞ちゃんが会いに行ったっていうのは誰なの?」

北川にはやはり、もっと直接的に「香里なのか」とは聞けなかった。そんな北川の葛藤をよそに、栞は楽しそうな笑顔で答えた。

「実は北川さんなんですよ」

口元に指を当てて、可愛らしい仕草をしながら言った。

「えっ?」

今度は北川が驚く番だった。全く予想していない答えではなかったが他の答えの可能性が高すぎて、そう言われるとは思っていなかったのである。

驚く北川を尻目に、栞はもらったばかりのカップアイスに手を伸ばした。

「えへっ、冗談です」

「なんだ……。がっかりだな。で、結局、誰なの?」

「それは、内緒です」

それだけ言うと、栞はアイスに取りかかり始めた。栞の答えは半ば正しかった。何度か足を運ぶうちに、会う目的が誰だかわからなくなっていたのだ。ただ、最初は北川に会えればという期待で学校に行った。その事実を北川が知ることは出来なかったのだが。

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