高津本陣 高津本陣 Web Page 〜創作中心個人サークルの総合案内〜

第3章へ

第2章 見えない場所

初雪が舞い、急速に秋は冬へと変わっていった。

北川は、冬という季節があまり好きではなかった。明るく開放的な夏や、な んとなく浮かれた気分になれる春、食べ物の美味しい秋と比べると、重苦しい夜と暗く沈んだ空はどうしても好きになれなかったのだ。

香里は季節の好悪など気にしていなかったし、名雪は逆に冬が好きだと言っていたから、北川はその自分の感性をなかなか彼女たちには分かってもらえずにいた。

だからといって、普段のつきあいに影響があるわけでもなく、季節が巡るのが止まるわけでもなかったから、考えようによってはあまり意味のない相違なのかもしれなかった。

ともあれ、カレンダーは最後の一枚を残すのみとなった。三年生は受験や就職を控えて落ち着きがなくなったように見え、二年生の中でも、香里のように進学を心に決めている生徒にとってはそろそろ正念場の入り口に来ているということを、否応なく意識する時期になっていた。

まだ根雪とはなっていないが、外では積雪が徐々に日常のものとなっていた。教室に入る暖房は、少し前と比べて強さが増しており、休み時間には廊下にさえ出たがらない生徒が増えてきていた。

四時間目の授業が終わり、昼休みになると、重い腰を上げて学食の方へ向かっていく生徒達がいる。購買のパンの争奪戦に情熱を傾ける一部の生徒を除くと、そんな彼らの動きもどこか緩慢になっているように見える。

「混まないうちに行きましょう」

「うー、寒いよ」

席を立った香里が言うと、まだ眠そうな顔をしている名雪がのんびりとした口調で答える。

「水瀬さん、Aランチが売り切れるかもよ」

「えっ、それは困るよ。香里、行くよっ」

「はいはい……」

北川の冗談じみた指摘を真に受けて、名雪が勢いよく席を立った。半ば呆れた顔でそれを見ながらも、香里はどこかそんなやりとりを楽しくも感じていた。

「やっぱり寒いな……」

「そうね。このリノリウムの床がよくないのよ」

「全館、今はやりの床暖房にすべきだな」

「あ、賛成」

「でも、そうしたらますます外に出たくなくなるわね」

「確かに」

そんなくだらない会話をしながら、三人は学食までやってきた。冬場は、他の季節を比べて弁当の生徒が多いのだろうか、少し列は短いように見えた。

「お弁当を持ってくれば教室から出ないで済むものね」

「ああ」

「でも、冬だから温かいものが食べたいと思うけど」

「麺類の方は、いつもより人気みたいだな」

「そうね」

「水瀬さんは、今日もAランチでいいんだよね」

「うん。北川君は?」

「俺はカレーだな。美坂はどうするんだ?」

「私も今日はそうしようかしら」

「じゃあ、俺たちはこっちだな。先にもらえた方が席を確保することにしよう」

「そうね」

カレー列の北川と香里、ランチ列の名雪と、二手に分かれる。

結局、北川達の方が先に席に着き、名雪を待つ形になった。

「お待たせ、香里、北川君」

「いいのよ。冷める前にいただきましょう」

「そうだな、いただきます」

軽く手を合わせてから食べ始める。

食事の間は少し会話は少なくなっていたが、概ね食べ終える頃合いになってからは、またとりとめのない会話が再開された。

そんな中で、名雪がこんなことを言った。

「あっ、今日は大ニュースがあるんだよ」

「大ニュース?」

どことなく、嬉しそうに見える名雪。

「三学期からね、わたしのいとこがうちの学校に編入で来るの」

「えっ?」

「東京に、わたしと同じ歳のいとこがいるんだけど、伯父さんと伯母さんの都合で海外に行かなきゃならなくなって、こっちに来ることになったんだよ」

「同じ歳ってことは、わたしたちと学年も一緒なのかしら」

「そうだよ」

「ちょっといい、水瀬さん?」

「どうしたの?」

「一つ質問。そのいとこって男?それとも女?」

「男だよ。祐一っていうの」

「うーむ、それは残念……」

「何言ってるのよ、北川君。今でもこんな可愛い女の子二人に囲まれてるのに、それ以上望む気?」

「いや、それは一般論としてだな……」

「そうかしら?」

「そう、あくまでも一般論。例えば、クラスの男子に今の話をしてみろ。おそらく全員が『女の子の方がいい』って言うに決まってる」

「まあ、それは否定しないけどね」

「でも、女の子に聞いたら答えは違うと思うよ」

「そうかもな」

「だけど、いとこってことは、水瀬が二人ってことになってちょっとややこしいな……」

「同じクラスとは限らないじゃない」

「そっか……」

「でも、祐一とは同じクラスになれるといいな」

「その、祐一さんって人は、名雪とは仲がいいのね」

「うーん、わかんないよ。もう七年も会ってないから」

「その割には嬉しそうね、名雪」

「うんっ。あ、あと、北川君の言うようなことにはならないと思うよ」

「どうして?」

「祐一の名字は、水瀬じゃなくて相沢だから」

「そっか、いとこだからって同じ名字とは限らないわよね」

「うん。伯母さん……、祐一のお母さんはわたしのお母さんの姉なんだよ」

「なるほど。どっちにしても、新学期から美坂チームに新メンバーが加わるわけか」

「何よ、美坂チームって?」

「気にしない、気にしない」

「祐一が来るの、楽しみだよ」

「でも、その前に苦しみもあるわよね」

「えっ、何?」

「期末テスト」

「うーっ」

「思い出したくなかった……」

「現実逃避しようとしてもダメよ」

申し合わせたように、同時に俯く名雪と北川を見て、香里は笑った。

だが、その笑いの中に微かに影のようなものが存在していることに北川は気が付いた。

ちょっとした違和感のようなものであった。それは、お互いに親友と言い合えるような関係の名雪ではかえって気付かないようなものであり、北川のような位置にいたからこそ気付いたともいえる。

だが、北川にはその背景に何があるかは当然、知りようもなかった。

それだけで何かを追求出来るというわけではなく、その影を認識するにとどめて北川はそんな心の動きから離れた。

それからしばらく、休み時間の雑談の時などに、名雪は何度か祐一の話をした。

子供の頃にはよくこの街に来ていて、一緒に遊んだりしたということ。ここ数年は、お互いの家族の都合から、なかなか行き来が出来ずにいたということ。祐一の父は、仕事で海外赴任をしていて、母もその面倒を見るために外国に行くことになったこと。進学のことも考えなくてはならない祐一は、結局それにはついていかずに残ったということ。

香里は、北川とともに興味深そうにそんな話を聞いていた。名雪が、この祐一という同い年のいとこのことを慕っているということが言葉の端々から感じられた。同時に、北川には香里がそんな名雪の話をどこかうらやみながら聞いているようにも見えた。

気のせいかもしれないが、香里の言動から時折、そんな感情が密かに伺えた。だが、そう感じたことが果たして本当に正しいのかは分からず、仮に正しかったとしても、その原因が分からない以上、北川にはどうすることも出来なかった。

ただ、香里に対して、今までに持ったことのない気持ちというのを自分の中に感じていた。そして、その正体もまた、北川にとっては分からないものであった。


それから数日後のことであった。

二時間目が終わり、三時間目の科学の時間が教室移動であることをすっかり忘れていた北川は、トイレから戻ると教室が閑散としていることに気が付いた。

「あれ?」

のんきにそんなことを言っている北川を、残っているクラスメイトが諫めていった。

「次の授業は第二理科室だってよ。北川も急げよ」

「そうなのか」

「ああ、俺も遅刻はまっぴらだから先に行くぞ。じゃあな」

そう冷たく言い残して廊下に出ていってしまった。

「おお、もうこんな時間か」

時計を見ると、数分でチャイムがなる頃合いである。

北川は慌てて鞄から教科書とノートを取り出すと、理科室の方へ向かっていった。

理科室は渡り廊下を越えて、一年の教室の並ぶ奥にある。二年生は普段使うことのないところであるのだが、今日は臨時ということのようだ。

暖房による結露で廊下が滑りやすくなっているので、走らないようにしながらも早足で歩いていく。中庭にはもうすっかり雪が積もっており、僅かな雲の隙間から差している日差しがその雪に反射して眩しかった。

一年の教室が並ぶ校舎に入り、理科室のある突き当たりに向かっていく。

緑のリボンを付けた一年生の女の子が二人、奥からこっちに向かって歩いてくるのが見えた。

彼女たちとすれ違った時に、偶然、その会話が北川の耳に入った。

「美坂さん、ずっとお休みだよね。理恵は覚えてる?」

「美坂さんって、入学式の日からずっと休んでる……」

「うん」

「うーん、あんまり印象に残ってないかな。自己紹介もまだだった時だし……」

「そっか……。私は席が隣だったからよく覚えてるの。病気、早く治るといいのに」

「そうだよね。でも、あたしだったらずっと入院なんて耐えられないなあ」

美坂という名字に聞き覚えがあった。というよりも、毎日一度は口にする名字である。名雪に対しては「水瀬さん」とさん付けで呼ぶが、何故か香里に対しては「美坂」と呼ぶのが習慣になっていた。その「美坂」という名字が一年生の女の子の口から出てきたことに、北川は驚いた。既に二人の女の子は北川の後ろにいたが、思わず振り返ってそちらの方を見る。

しかし、もう彼女たちの後ろ姿が見えるだけで、会話の内容は北川には届かなかった。

彼女たちの話題にしていた「美坂さん」は香里の事ではないだろう。たまたま同じ名字の人がいるという偶然ではないとすれば、他に誰のことを指すのだろうか。

順当に考えれば妹かいとこということになるのだろうが、これまで香里といろいろな話をしてきて、自分たちの家族の話題になったこともあった中で、香里の口からそんな話が出たことはなかったような気がする。北川自身や名雪も一人っ子だということもあり、香里もそうなのだと半ば自然に考えていたのだが、香里に兄弟ががいないという話も逆に聞いたこともない。

いずれにしても、たまたま耳に挟んだ下級生の女の子達の会話が、北川の意識に残った。

いつまでも彼女らの後ろ姿を見ているわけにもいかず、チャイムの鳴る音が聞こえてくると、北川は慌てて理科室の方へ向かっていった。

科学の先生は遅刻には極めて厳しいので、余計なペナルティを課せられるわけにはいかない。

なんとか間に合った北川は、残っている席にようやく腰を下ろした。

その日の昼休みになって、いつものように北川と香里、そして名雪の三人は学食の方に向かっていた。

そして、これもまたいつもの通りにAランチを注文して満足そうな名雪と向かい合いながら、残りの二人もまたそれぞれの食事に取りかかる。

「しかし、本当に名雪はそれが好きね」

「うん。だってイチゴだよ。香里は好きじゃないの?」

「好きじゃないってこともないけど。よく飽きないわねとは思うわ」

「水瀬さんは、朝ご飯はパンのことが多いの?」

「うーん、ご飯の時もあるし、半々くらいだよ。どうして、北川くん?」

「いや、ふと思ったんだけどさ、パンだったらやっぱりイチゴジャムをたくさん乗せて食べるのかなって」

「わっ、どうして分かるの」

「どうしてもこうしてもないと思うけどね……」

名雪の驚いている表情は冗談には見えない。苦笑する北川と、もはや呆れたような顔をしている香里を、不思議そうに名雪が見つめていた。

「ま、いいわ」

「イチゴジャムは、お母さんの手作りなんだよ。他にもいろんなジャムを作ってくれて……」

「そういえばそうね。この前遊びに行ったときも……、あっ!」

「どうしたんだ、香里」

「いえ、一つ思い出しちゃったことがあるのよ」

「ひょっとして……」

「そう」

「何だ、二人して苦い顔して」

「北川君は知らないんだっけ?」

「そうかも」

「じゃあ、知らないでいた方がいいわよ」

「?」

あからさまに香里と名雪はその話題をうち切った。頭の中に疑問符を浮かべながら、北川もその話題から離れることを余儀なくされる。

新しい話題を持ち出そうとしたとき、北川は先ほどの休み時間に廊下で聞いた会話を思い出した。

「そういえばさ、香里って」

「なに?」

「香里には妹っているのか?」

「えっ、妹……?」

「そういえば、聞いたことなかったよね」

「そうかしら。でも、私には妹なんかいないわよ」

「弟がいるとか?」

名雪は単に興味津々という感じで会話に加わっている。

「妹がいない」と香里が言ったとき、一瞬だけ何か躊躇のようなものがあったのを北川は見逃していなかった。名雪と比べて、敏感に香里のことを見ていたから気付いたのかもしれない。直感的に、香里のその答えが正しくないと北川は感じた。しかし、なぜ単なる兄弟の話題でそれを隠さなくてはならないのかということまでは北川には分からなかった。

この時の香里は、ほんの僅かなものであったが、苦しそうな顔を見せたように感じられた。そして、北川にはその理由も分からなかった。単に考え過ぎなのかもしれない。

「いいえ、弟もいないわよ。でもどうして?」

「兄弟がいるのってうらやましいなって思って」

「水瀬さんも俺も一人だからな」

「そうね。でも私も残念ながら一人よ」

「そっか……」

「だけど、なんで弟か妹限定なの? 兄や姉ならいるかもしれないじゃない」

「そう言われてみるとそうだね」

「いや、単にイメージの問題だ」

「何よ、それは」

「香里って落ち着いてて大人っぽいから、年下の兄弟の面倒を見ていたりしてそう」

「そうそう」

「そんなものかしらね。ま、その話題はここまでね。冷めないうちに残りを食べちゃいましょう」

「うんっ」

やはりどこかに違和感を残しながら、北川も食事を再開した。結局、兄弟の話もここで打ち切りになり、あとは昨日のテレビドラマの話であるとか、午前中の科目で出された宿題の話であるとか、とりとめのない日常に戻っていった。

それ以上深入りすることが出来ずに、北川にとっては結局一年生の会話との間に整合性が取れずに違和感を残したままになってしまった。


その次の日の放課後、北川は市内にある病院に向かっていた。

一週間ほど前に、北川の母が交通事故に遭って入院しているのだった。

幸い、それほど深刻な事故ではなく、少しだけ足の骨にひびが入り、入院して経過を見守るという類のものである。母にとっても、ちょっとした主婦業の休暇くらいにしか思っていないらしく、驚いて見舞いにやってきた近所の母親仲間達と元気に病室の中で雑談していると聞いていた。

食事の支度や家の掃除、洗濯など、一家の守り手がいないということは何かと不便であると痛感していた。大して上手でもない食事を父と交代で作りながら、わびしくなった食卓を挟んで向かい合いながら男同士でそんな会話をしていたのだった。

経過の方も順調で、あと一週間ほどで退院出来るということらしい。その後はひと月くらいすれば、ほとんど今までと同じような生活に戻れるということだった。

事故の相手方も誠実な人だったらしく、定期的にお詫びと見舞いに来てくれた。その人が持ってきてくれた果物が、ベッドの脇の小さな棚に置いてある。

「おや、あんたなの」

「なんだい、せっかく学校帰りに来てやったというのに」

「そうね、ありがとう」

「具合の方はどうなの?」

「心配しなくてもいいみたいよ。時々、あれを使って歩いたりもしてるし」

立てかけてある松葉杖を指差しながら母が言った。

「こんなところで寝てるだけじゃヒマだし、ある程度動かないと、筋力が落ちちゃうって先生も言うからね」

「そうだね。あ、この果物もらうよ」

「いいわよ。たくさんあって困るくらいだから」

「その割にはずいぶん減ってるみたいだけど」

「ま、あんたみたいに来てくれる人が多いからね。これも母さんの人徳かしら」

「そういうことにしておくよ」

母親の元気な様子に安心して、北川は笑いながら籠の中の果物に手を伸ばす。名雪の父親も事故で命を落としたとということを思い出し、最初に母のことを聞いたときにはかなり取り乱した北川だったが、ここにきてようやく安心できたようである。

「母さんがいないといろいろ不便だから、早く退院してくれよな」

「母さんの偉大さが分かったでしょ?」

「ああ、父さんもそれは認めてたよ」

「わかればいいのよ。男の人はそういうのの価値をなかなか認めないからね」

「そんなことないよ」

母が笑いながら言った。

北川は果物を食べ終えたあと、しばらく話をして、病室を後にした。

「また気が向いたらくるよ」

「そうね、期待しないで待ってるわね」

廊下に出ると、患者や看護婦、北川のような見舞い客などが慌ただしそうに行き来している。母のいる病室は比較的落ち着いていたが、他はせわしなく動いている。

健常者にとっては、病院というのはやはり落ち着かない場所なのだろう。別に急かされているというわけではないのだが、北川はなるべく早く家に帰ってしまおうと思うのだった。

「その前にちょっとトイレ……」

ナースセンターの訪問者ノートに時刻を書きに行く途中に、北川は尿意を覚えて奥のトイレに向かった。

この僅かな時間が、北川に大きな変化をもたらすことになる。

「うーむ、やっぱり落ち着かん……」

検尿のコップを持ったパジャマ姿の入院患者が隣にいたこともあって、どうにもならぬそんな気持ちを感じながら、北川はトイレを出てきた。

そして、こんどこそ家に帰ろうと思ってナースセンターの方に向かって歩いていく。

カウンターに置いてあるノートを開き、二十分くらい前に書いた自分の名前を探す。何人かの他の人の名前の上に、自分の名前を見つけた北川は、今の時刻を確認するために、部屋の中の時計に目を向けた。

部屋の中では、白衣に帽子をかぶった若手の看護婦が四人ほどいるのが目に入った。その中の二人は休んでいるようだったが、残りの二人はカルテのような書類を見ながら話をしていた。

「栞ちゃん、ここのところ元気ないわね……」

「栞ちゃんって、二一一号室の美坂さんでしたっけ」

「そう。なかなか状況が改善しないからっていうのもあると思うんだけど」

「でも、美坂さんはいつも頑張っていますよね。ずいぶん入院も長いのに、強い子だと思いますよ」

「そうね。でも、ここのところちょっと、数値もよくないのよ」

「心配ですね。美坂さんというと、いつもお姉さんがお見舞いに来てくれてますよね。最近は見ないですけど……」

「そうなのよ、やっぱり寂しいんじゃないかしら」

そんな会話が偶然に聞こえてきた。

北川は、その「美坂さん」という固有名詞に反応した。ボールペンを手に取ったまま、動きを止めてその話に耳を傾ける。

「あの、すみません……」

「はい」

「ノート、記入させてもらってもよろしいですか?」

完全に意識がそちらに行ってしまっていた北川は、他の見舞客に背中から声を掛けられてようやく我に返った。

「あ、申し訳ありません……」

慌てて、今の時刻を記入して、ノートの前から離れた。

先ほどの看護婦二人は、別の仕事に取りかかり始めたらしく、部屋の奥の方へ移動していた。

聞き間違えでなければ、この看護婦は「美坂さん」と言ったはずである。そして「お姉ちゃんが見舞いに来ている」とも言っていた。

美坂というのは決して珍しい名字でもないが、かといってありふれたものでもないと思われる。一年生の教室の前で聞いた話と、今聞いた話が有機的に結びつく可能性を北川は感じた。

もう一人の「美坂さん」、即ち香里には一つ年下で同じ学校の生徒でもある妹がいて、その妹は今、入院している。ただ、名字が美坂であるというのは単なる偶然で、香里とは赤の他人であるという可能性も否定できない。実際、香里は「私には妹はいない」と言っていた。

しかし、香里がそう言ったときに、何か違和感のようなものを覚えたことも思い出した。根拠はなかったが、この時香里は嘘を言っているように思えたのだ。だが、そんな嘘を言う理由が分からない。

そんな事を考えながら、北川は雪の降り始めた中を家に帰っていった。

商店街の電気屋の店頭で流しているテレビが、天気予報を知らせていた。

夜から本格的な雪になり、かなりの積雪が予想されていることを告げていた。

「そうだよな、かなり冷えるしな」

そちらの方に一瞬だけ目を向けて、北川は恨めしそうな顔を空に向けて、背中を丸めて駅の方に歩いていった。

夕食と風呂を済ませた北川は、自分の部屋に戻って宿題を終わらせた。

寝るにはまだ少し早い時間だと思った北川は、読みかけだったマンガの単行本の存在を思い出し、本棚から取りだして読み始めた。

彼らの住む北海道のある街が突然戦争に巻き込まれるという、少し現実離れした設定での、切なげなラブストーリーなのだが、今回はなかなかその作品世界にのめり込むことが出来なかった。

十五ページくらいめくっていった北川だったが、やはり気分が乗らないので諦めて本を棚に戻す。

ベッドに仰向けに寝転がり、ぼんやりと天井を眺めた。

マンガに集中出来ないのは、やはり心に引っかかっていることがあるからのようだ。さっきまでの宿題には集中出来たのは、奇跡に近いものがあるように感じられた。

今日、病院でたまたま耳に挟んだ話。それと数日前に聞いた一年生の女子生徒の会話……。

香里は強く否定していたが、それだけに、そこに大きな引っかかりを感じていた。多分、香里には妹がいるのだろう。だが、どうしてその存在を否定しないといけないのか。

限られた情報の中から、北川は香里についていろいろと推測を巡らせていた。どうしてそういうことをするのかということも、今の自分には分かっていなかった。ただ、香里が本当のことを言っておらず、そこに何かしらの事情があるという、推測というよりは想像に近いことを根拠にしている。

北川には、香里が一瞬見せた躊躇と、その中に潜んでいる影のようなものが忘れられなかったのだ。

何らかの事情があるのだとしたら、それを知りたい。

それを知ってどうするのかはよくは分かっていなかった。おそらく、香里が悩んだり苦しんだりしているのだったら、その助けになりたいのだろう。

それは何故か、どんな感情に起因するものなのかは、この時の北川には分からず、おそらく明確に意識してもいなかっただろう。

これまでの友人とは違うものを、北川は香里に対して持ち始めていたのだった。

第3章へ

上に戻る


(c) 高津本陣・徐 直諒 since 1999.12