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kanon二次創作「雪景色の向こうに」

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第1章 秋の終わり

それほど長くない夏が終わり、既に秋も深まっていた。

遠くの山並みを色づいた葉が彩り、そのつかの間の美しさが消え去れば雪に覆われる冬という季節がやってくる。

秋は、人を変える転機になるのかもしれない。

この街で起きたある出来事も、世の中の営みの一つに過ぎないではあろうが、それでも、その人たちの心を大きく変えていた。

禍福はあざなえる縄のごとし、人間万事、塞翁が馬などという言葉を待つでもなく、一所懸命に生きる人には素晴らしい未来が待っているのだろう。

始まりは、そんな流れの中に身を置く人にそれを感じさせない。だが、そういうものなのであろう。

チャイムが鳴り終わり、今日一日の授業が全て終わったことを知らせていた。

帰宅前のホームルームも終了し、教室を開放感が支配していた。

一方では、早く面倒なことを終わらせたい掃除当番の生徒が、居残り組を追い立てている。

「そこ、邪魔、邪魔っ!」

「ごめんねー」

そんな声に追い出されて、ようやく鞄に勉強道具を詰め込んだ名雪を待つように、いつもの三人組は教室を出た。

名雪の他に、香里と北川である。一年から二年へのクラス替えの時にまた同じクラスになり、その時に決められた席が近かったことから、割と仲良くつきあっている間柄だった。

成績も所属するクラブも全く違う三人であったが、何故か馬があった。特に名雪と香里は親友といってもよい関係である。

「そういえば、名雪は今日は部活はお休みなの?」

「うん、定休日だよ」

「そっか、じゃあ一緒に帰りましょう」

「うんっ」

「そうだな」

昇降口で靴を替え、外に出る。

そろそろ、この制服で外を歩くには寒い季節になってきた。

男子生徒の制服は割と寒さには耐えられそうであったが、短めのスカートにそれほど厚手でない生地で作られた女子の制服は、これから迎える冬にあってはかなり厳しそうに思える。それでも、特徴的なこの制服は女の子たちに人気があり、制服目当てでこの学校を受験するという子もかなりいるのだという話を聞いたことがある。

ともあれ、香里を真ん中に挟むようにして、三人は並んで歩き始めた。

校門を出て商店街の方へ向かっていく。

「そういえば、今日はずいぶんとたくさん宿題が出たわね」

「うーむ、あまりそういうことを思い出させないでくれ」

「現実はちゃんと認識しておかないとダメよ」

「数学なんか、明日までだよ……。今日中になんて終わるかな」

「そこまで大変な量じゃないでしょ」

「いや、水瀬さんは寝るのが早いみたいだから」

「うん」

「名雪、いつも何時に寝てるのよ?」

「部活のない日は、九時くらいだよ」

「えっ、本当に? 今時、小学生でももっと遅くまで起きてるわよ」

「でも、それくらいに寝ないと次の日がつらいから……」

名雪は真剣に悩んでいるようである。

「その割には、今日もつらかったように見えたけど」

「そうね、五時間目なんか、ほとんど起きてなかったでしょう」

「うー、ひどいよ……。でも、これ以上早くは寝られないよ」

「それはそうよね」

「北川君、どうしたら眠くならないと思う?」

「俺に聞かないでくれ。俺だっていつも睡魔との厳しい戦いの中に身を置いているんだ」

北川が胸を張って答える。それを香里は呆れたような表情で見つめている。

「自慢するするようなことじゃないでしょ。要はやる気よね」

「香里は、勉強出来るから」

「あなたたちだって、やればちゃんと出来ると思うわよ」

「そうかな……」

「やる気になれないところに問題があるんだけどな、俺たちの場合は」

「うんうん」

「そんなことで意気投合しないでよね」

休み時間の会話の延長のようなことを話ながら、商店街の入り口近くまでやってきた。

「今日は水瀬さんも部活休みなんだし、もう少しどこかに寄って話していかないか?」

会話が盛り上がってきていたところだったので、北川がそんな提案をした。

「賛成。わたし、百花屋がいいよ」

「香里はどうだ?」

「悪いわね、今日はちょっと用事があるのよ」

「そっか……」

「それに、宿題もあるでしょ。今日はおとなしく用事を済ませて帰るわ」

「残念……」

「ごめんね、名雪、北川君」

「ううん、用事があるんじゃ仕方ないよ。わたしも帰って宿題するよ」

「そうだな、俺もそうする」

「じゃあ、ここで解散ね」

「うん、また明日」

それぞれ別の方向に向かっていく名雪と香里を北川は見送った。

ほんの少しだけの寄り道と思いながら、帰り道の本屋で漫画雑誌を立ち読みする。

だが、気付くと外はもう暗くなっていた。

「やべ、ホントに帰って宿題しないと……」

薄暗くなった道を、北川は早足で帰っていった。


北川達の誘いを断った香里であったが、実は済ませるべきである用事というものはなく、名雪や北川と同じように、そのまま家に帰っていた。

「ただいま」

機械的に靴を脱ぎ、スリッパを履いて自分の部屋に向かっていく。

「おかえりなさい」という母親の声が聞こえたような気がしたが、香里はそれには関心を払っていなかった。

部屋に戻り、また機械的に制服を脱いで部屋着に着替える。高校二年生という年の割には大人っぽい雰囲気を感じさせる香里の、波打った髪がしばし揺れる。どこか憂いのある表情をしながら、着替え終えた香里は、すぐに勉強に取りかかる気分にもなれずに、ぱふっと勢いを付けてベッドに倒れ込んだ。

「ちょっとだけでも、北川君たちとしゃべってくればよかったかしら……」

少し後悔した香里だったが、すぐにそれを頭から振り払う。

だが、代わりに香里の意識の中を占有するようになったのは、するべき勉強のことではなく、妹の栞のことであった。

何日か前に聞かされた事実を思い出す。

香里の妹、栞は、生まれつき体があまり丈夫でなかった。

小学校の頃からちょっとした気温の変化で体調を崩しがちで、中学生になってからも学校を休みがちになっていた。

出席日数もぎりぎりで、勉強の方も遅れ気味であった。

テスト前などになると、学校に行けない時は、香里がそばにいて勉強を見てやることも多くなり、きちんと栞に教えられるようにと、香里自身もしっかりと勉強をするようになっていた。

自分の知らないことを何でも教えてくれる姉、そして、自分と違って活発に動き回っている姉が、栞にとってはあこがれの存在ともなっていた。

そして、進学を考える中学三年生になったときに、栞は姉と同じ学校に進むことを希望した。

正直に言って、その時の栞の学力を考えるとそれは厳しいものであった。だが、栞は

「お姉ちゃんと一緒に学校に行って、お姉ちゃんと一緒にお弁当を食べたり、おしゃべりをしたりしたい」

という望みを持っていた。病気がちながら、いや、それだからなのかもしれないが、栞はしっかりした芯を持った女の子で、そのための努力も厭わなかった。

栞は、周囲も驚くほど勉強を頑張り、この地域ではそれなりに水準が高いといわれたこの高校に合格した。

学年を示すリボンの色が違うだけの、姉とお揃いの制服を見た栞は、本当に嬉しそうに喜んでいた。

まだ春休みの間であるのに、栞はわがままを言って香里に制服を着せ、自分も新しい制服に身を包んで、姉の隣に立ってみた。

常に栞の体調を心配していた両親も、この時ばかりはすっかり安心して、二人おそろいの制服姿の写真を撮ってくれたりしていた。

そして、栞が待ち望んだ高校生活が始まった。

しかし、ずっとあこがれていたはずの姉との登校は、わずか一日しか叶えられることはなかった。

入学式の後、初めて踏み入れた自分の教室の中で、突然倒れた栞は、そのまま保健室から病院に運ばれていった。

そして、次の日から学校は欠席することとなり、学校の代わりに病室で日々を過ごすことになった。

香里は、そんな栞のことを何度も見舞いに来ていた。

これまでも体調を崩して入院したこともあったので、それほど深刻に考えずに、「早くよくなるのよ」と声を掛けていた。栞も、自分の大好きな姉が来てくれるのが嬉しく、いつもベッドの中から学校の話をせがんでいた。

そして、入院が長期に及び、秋もそろそろ後半に差し掛かってきたこの前のある日のことであった……。

栞のいない食卓はどこか寂しかった。

寒さも厳しくなってきたせいか、久しぶりに早めに帰宅した父親がいるにも関わらず、夕食の席はどこか寂しげな空気を漂わせていた。

食事を終えて、一休みしようとリビングに向かおうとした香里を、父が呼び止めた。

「香里?」

「どうしたの、お父さん?」

「ちょっと話があるんだ。私が食べ終わるまで、部屋に戻らないでちょっと待っていてくれないか」

「うん、わかったわ」

その時には、まだ香里は事の重大さを理解していなかった。

冷めかけたお茶の入った湯飲みを持って、ニュース番組を垂れ流しているテレビをぼんやりと眺めていた。

やがて、食事を終えた父が、母と一緒にリビングに入ってきた。

香里がテレビを消すのとほぼ同時に、二人が向かいのソファに腰を下ろした。

そろそろ進路の話でもするのだろうか。そう思って若干身構えながら、香里は真剣そうな両親の顔を見た。

「香里に話しておきたいことがある」

心なしか、いつもよりも重い声で、父がそう切り出した。

「えっ、何?」

「栞のことだ」

「うん……」

あまり意識しないようにしていたのだが、これまでと比べても栞の入院は長かった。時々、一時的に帰宅することがあっても、あの入学式の日以来、ほとんどの時間を栞は病床で過ごしていた。

既に、一年生の出席日数が足らなくなることもほぼ確定している。

両親は時々、栞の主治医のもとに足を運んで、病状の話を継続的に聞いていることも知っていた。香里に何も知らされないのは、よくなっていないにしても、病状が悪化しているのでもないからなのだと、考えていた。

だから、今になって父が栞のことを持ち出してきたことに、不吉な予感を覚えた。

「一昨日、先生に栞の様子についてきいてきた」

「……」

「お前も分かっていると思うが、今回の入院はもうずいぶん長くなっている。よくお前が栞の見舞いに行ってくれてるから、あいつも少しは寂しがらずにすんでいると思うんだが……」

「お父さん、そんなことを言いたいんじゃないんでしょ?」

「……そうだ」

しばらく、言葉をとぎらせた父を、母が心配そうに見つめていたが、意を決したようにその先の話を始める。

「見た目はそれほど悪くないようだが、栞の病気は、世界でもあまり例のない難病であるそうだ」

「なんていう病気なの?」

「先生が説明してくれたが、なんとか症候群という、極めて長ったらしい名前だった。徐々に体が衰弱していき、最後には命に関わる発作が起きるそうだ」

「それで?」

「病が篤くなり、その発作が起きる前触れのようなものが、この前、栞に見られたらしい。はっきりと言うと……」

「……」

「栞は、もうそんなに長くは保たないのだそうだ」

隣にいた母が、目に涙を浮かべているのに気が付いた。おそらく、一昨日に父が主治医の話を聞きに行ったとき、母も同席していたのだろう。

香里は、その席に自分がいなくてよかったと思った。もしいたとしても、自分も母と同じ気持ちにしかなり得なかっただろう。それは父にとっても母にとっても望ましいことではないような気がした。

この二日の間、父はこれを自分に話すかどうか悩んでいたのだろう。

親というものは、必ずしも家族の全てのことを子供に話す必要はない。子供は、まだ未熟だから、厳しい現実をきちんと受け入れられる素地が整っているかどうかを、親は判断する必要があるのだ。

香里がそれに耐えうるかどうか、父は真剣に考えていたのだろう。そして、隠さずに話すべきだと判断したのだ。

「栞が?」

大好きな妹、自分を慕ってくれる妹……。その栞が、余命僅かな病の中にある。その事実は、香里に大きな衝撃を与えた。確かに体は丈夫でなかったし、今回の入院も長いものであるとは思っていたが、まさか命が僅かであるとまでは考えていなかった。

ショックで倒れそうになる心を、香里は必死に支えた。そして、それが香里の中にもう一つ、冷静な自分を生み出して、その自分が香里をしてこう父に尋ねさせめた。

「それで、栞はあとどのくらいなの……」

「長くて、来年の始めくらいだそうだ……」

「次の誕生日は迎えられないかもしれないのね……」

「そういうことになる……」

そう言って、父は俯いた。

部屋を沈黙が支配する。

「大事なことだから、お前にも話しておくべきだと思った。香里、お前にはこれからも今まで通り、栞のことを見舞いに行ってやってほしい。あの子は、お前のことを慕っているから、支えになってやれるかもしれない」

「わかったわ。言われなくてもそうするつもりだけどね」

「ああ。だけど、余命のことは、黙っていた方がいいと思う」

「……そうね」

「突然のことで、お前もショックだと思うが、私なりに考えて教えることにした」

「うん、ありがとう、お父さん」

「……」

「じゃあ、私は部屋に戻るわね。宿題が残っているのよ」

「ああ」

香里は、努めて冷静を装いながら部屋に戻っていった。

部屋のドアを開けるとき、取っ手を見る自分の視界が歪んでいることに気が付いた。

栞は、香里にとって何よりも大事な妹なのだ。

ベッドに仰向けになっていた香里は、枕元に置いてある写真を手に取って眺めていた。

入学式の前に、家の前で栞と並んで撮った制服姿の写真である。

庭に植えられている桜の木に付けた花が、二人の笑顔に負けないくらいに美しく咲いていた。

それが、今の香里には別の世界の出来事のように見える。この時、今のような現実が待っているとは想像もしていなかっただろう。

挿絵1「お姉ちゃんと一緒に登校する」「お昼休みに、お姉ちゃんと一緒にお弁当を食べながらおしゃべりをする」

そんな、ささやかなことしか栞は望んでいなかったのだ。だが、それすらも実現させてくれなかった。今、自分がいる現実というのは、それほどに無慈悲なものなのだろうか。

北川や名雪と寄り道をせずに帰ってきた理由は、そこにもあった。今の自分を、親しい二人にはあまり見られたくなかった。

最初のようなショックは少しだけ和らいでいたが、それによって事実が変わるわけでもない。

自分が不治の病にかかっているというのならまだ諦めもつくだろう。しかし、どうして栞がそんな目に遭わねばならないのか。

今度、栞に会いに行ったときに、自分はこれまでと変わらないように栞に接することが出来るのだろうか。

しっかり者の香里ではあったが、それでも抱えるには重すぎるものを抱えていた。逆に、しっかり者であるが故に、その重さを認識しすぎる結果になっていたのだともいえよう。

「栞のためにもね」

そう思って、香里はなんとか勉強に取りかかることにしたのだった。


そして、香里は栞の見舞いに来ていた。

何日もの間、香里は悩み、それでも大好きな妹の姿を見ずにはいられずに、意を決して病院に足を向けたのだった。

この日も、名雪や北川の誘いを断ってしまい、申し訳なく思いながらも、いつものように病院の門をくぐった。

栞のことは、仲のよい二人にすぐに紹介しようと思っていた。だが、入学式のその日に倒れてしまい、そのまま入院してしまったこの子を彼らに紹介するのには躊躇があった。二人のことだから、きっと栞を励ましたり支えたりしてくれるだろうとは思ったが、友達にそういった負担をかけさせたくはないと思ったのだ。

今となっては、ある意味でそれがよかったと言えるのかもしれない。栞の病が篤いということは、とても二人に言えるようなことではなかった。

そして、同じように、栞本人にも到底言えるようなものでもない……。

ナースセンターにある訪問録に自分の名前と今の時刻を書いた香里は、中にいる看護婦に会釈をしてから廊下を歩き始めた。

奥まったところにある小さめの個室が、栞のいる部屋である。

ドアの脇にある「美坂 栞」と書かれた札に目を向けて、僅かに開いたままのドアを開けて病室に入る。

「来たわよ」

努めて、普段通りに振る舞うように心がける。栞の余命のことは決して表に出してはならないと分かっていた。

「お姉ちゃん!」

ぼんやりと外を眺めていたらしい栞が、香里の声に、顔をこちらに向ける。無表情に近かった栞が、花を咲かせたように笑顔に変わる。

「寒くなってきたわね。でも、ここはずいぶん暖かいわ」

「うん」

「ほら、今日もアイスを買ってきたわよ」

「わっ、ありがとう、お姉ちゃん」

「しかし、あなたも物好きね。こんな季節にもなってアイスが食べたいなんて」

「美味しいものに季節は関係ないよ」

「そうね……」

半ば呆れたような顔をしながらも、カップアイスと格闘している栞の姿を見つめる香里の眼差しは優しい。

長い間売れずにフリーザーの中に入っていたと思われるアイスは、かちかちになっており、木のスプーンで食べるのもなかなか難しい。だが、部屋は暖かいのやがて程良く溶け始めて食べやすくなるだろう。

「お姉ちゃん、そろそろ期末試験じゃないの?」

「そうだったかもしれないわね」

「なんか、余裕っぽいなー」

「普段からちゃんと勉強してれば、期末テストくらいはどうってことないのよ」

「それは、お姉ちゃんだからだよ。普通はみんな、テスト前は慌てるよ」

「確かにそうね」

そう言いながら、香里は名雪や北川のことを思い出した。彼らは決して不真面目な方ではないけれども、授業中に居眠りしがちなのが禍して、テスト前にはとにかく焦っていることが多い。肝心のポイントをノートに取っていなくて、慌てて香里に頼ってくることも多いのだ。

「わたしも、テスト、受けたかったな……」

「そんなことを言う子は珍しいわね」

勿論、栞の意味することは分かり切っている。だが、あえてその言葉の表面だけを捉えることによって、香里はその奥にある深刻さを紛らそうとしていた。

「普通は、テストは嫌だから早く終わって欲しいって思うものよ」

「でも、受ければテストは終わるでしょ」

「そうだけどね。あなたの頭からは『テスト前には勉強しなくちゃいけない』ってことが抜けてるわよ」

「でも、お姉ちゃんは勉強しなくても大丈夫だって」

「ふふっ、私は栞とは違うのよ、普段の心がけが」

「あーっ、お姉ちゃん、ひどいー」

「とにかく、栞はちゃんと病気を治すように頑張るのよ。その後で嫌と言うほど勉強なんてさせられるようになるんだから」

だが……。栞が勉強できるようになんてなるのだろうか。香里は、改めて現実を思い出した。仮に、勉強出来たとしても、それは意味のあることなのだろうか。勉強とは、未来の自分のためにするものである。その未来がこの子にはないのだとしたら……。

香里は、慌ててそんな思考を頭から振り払った。少なくとも栞本人の前では、この子が余命幾ばくもないことは忘れていなければならない。

アイスを食べ終わった栞が、いつもと変わらぬ笑顔で香里の話を待ち続けている。

空になったカップを受け取り、ゴミ箱に捨てる。

「ねぇ、お姉ちゃん、『天空』っていうドラマ、知ってる?」

「ううん、知らないわ」

「十月から始まったんだけど、毎週楽しみにしてるんだよ」

「そうなの? また恋愛もの?」

「うん、そうらしいんだけど、まだ全然、そういうシーンがないの」

「ふぅん、どんな話なの?」

「海辺の町で人形使いの男の人が、女の子に出会う話。女の子の制服がすごく可愛いんだよ」

「へぇ……、うちの学校よりも?」

「うーん、どうかな。うちの学校のには負けるかな……」

「栞は、あの制服、気に入ってたものね」

「うん、早く着られるようになりたいよ」

「だったら、ちゃんと頑張るのね、闘病を」

「うん」

そう言いながら、香里は虚無感を感じていた。もしくは罪悪感と言い換えても差し支えないかもしれない。

目の前の栞は、自分の言葉を信じて、可愛らしい笑顔を見せてくれている。それは、この大切な妹が昔からずっと自分に見せてくれていた、純粋な笑顔である。

それに対して、自分は栞に隠し事をしている。それどころか、「頑張りなさい」などと、望みのない努力を栞にさせようとしているのだ。

「どうしたの、お姉ちゃん」

栞が心配そうに香里を見つめていた。

香里の心に、ある種の隙があったようだ。それを、栞は見逃さなかった。

「な、なに……?」

「今、お姉ちゃん、すごく悲しそうな顔をしてた」

「そんなことないわよ、気のせいよ」

「そうなの、それならいいんだけど」

そう言って、再び栞は笑顔を見せた。

今までと変わらない笑顔が、いや、今までと変わらないからこそ、この時の香里にはそれがとてつもなく痛く感じられた。同時に、隠し事を重ねていく自分に嫌悪感を覚える。

だが、一体自分はどうしたらいいのか。栞に本当のことを言うのか。そして、このかけがえのない笑顔を自分の手で壊すのか?

反射的に、香里は栞から目を背けた。

無機質な壁に、何の特徴もない風景画が一枚掛けられていた。そんな絵でも、栞にとっては「あこがれの外の世界」なのかもしれない。「この絵の場所に行ってみたい」と前にそんなことを言っていたのを思い出す。

栞は、香里の微妙な表情の変化に気が付いていた。

姉妹という間柄が、普通なら気が付かないようなそんなところまで教えてしまう。

「お姉ちゃん?」

「あっ、ごめんね」

「やっぱり、お姉ちゃん、変だよ。隠し事してるみたいに見えるよ」

「えっ?」

「好きな人でも出来たの?」

「……」

「ううん、そういうことじゃないよね……」

どこかで敏感に察しているのかもしれない。自分が思っているほど、栞は子供ではないのかもしれない。それに、栞には自分のことを考える時間がいくらでもあるのだ。自分の隠していることは、全く意味のないことではないのだろうか……。

「栞……」

そんな栞は、香里に笑顔を向けていた。もし、栞が何か察しているのだとしたら、なぜそれでも笑顔でいることが出来るのだろうか。

そんな強さに、香里は思い至ることが出来なかった。栞を見ていると、抱えている現実が両面から香里を押しつぶしそうになってくる。

「……」

「……」

時計の音だけが部屋に響いていた。あまりの静寂に、点滴まで音を発しているようにも感じられる。

「お姉ちゃん?」

栞の声に、香里はついに耐えきれなくなった。

「どうして、あなたはいつも笑顔でいられるの? こんなところにずっと閉じこめられたままなのに……」

「だって、お姉ちゃんが来てくれるから」

そんな答えで、香里が納得するはずはなかった。栞の答えは、一面では事実であり、別の一面では偽りであった。十五歳の少女が、薄暗い病室に閉じこめられて笑顔を保ち続けられるはずがない、普通は。

この女の子の本当の強さを知るには、姉妹といえども、香里の生活環境はあまりにも栞とは違いすぎていたのだ。

「そんなことないでしょ! 栞、あなたはね……」

香里には、これ以上、事実を隠し続けることは出来なかった。栞の笑顔がその引き金になったのだとしたら、ある意味ではこれ以上ない皮肉ではある。

栞は、そんな姉の告白を静かに聞いていた。

全て聞き終えたとき、栞にあったのは笑顔だった。ただ、僅かに涙が浮かんでいることを香里は見逃さなかった。

それをどうしても正視出来ずに、香里は逃げるように病室を後にした。あれだけ好きだった栞の笑顔が、今は鋭利な刃物のように香里の心に刺さっていた。同時に、自分を責めたい感情が、その刃を後押ししている。

どうやって家に帰ったのかもよく覚えていない。

どうすることも出来ずに、香里は自分の部屋に籠もった。枕元にある写真も、恐くて今の自分には見ることは出来なかった。写真を裏返したまま、本棚にあるもう読まなくなった本に挟んだ。

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