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深名線跡訪問記(2)

 幌加内を出ると国道から少し離れたところをやや西よりの北向きに進んでいきます。

上幌加内駅 上幌加内の集落、国道からもほど近いところに上幌加内駅跡があります。仮乗降場だったようですが、十メートルほどの線路と簡素なホームの一部、そして黄色地に黒文字の駅名板(線路標識として駅の手前に設置されているもの)が残されています。

 そこから先、雨竜川を挟んで国道の対岸に未舗装ながら幅の広い道が続いています。これが深名線の線路跡かどうかははっきりしませんがその可能性は高いです。ただ、整備済み(これから舗装がされるのでしょうが)のため、遺構はありません。雨竜川の景色がきれいなところで、深名線の車窓が伺えます。その道路はやがて左手に折れ、川を渡って行動の方へ合流していきます。この地点の地形がやや不自然で、手前に朽ちた倉庫が残っているのですが、ひょっとすると雨煙別駅のあった付近かもしれません。

この道です雨煙別付近 国道に戻って先に進みます。

 雨竜川を挟んで西側が国道、東側が深名線の線路跡となっていますが、山が両側に迫り狭い地形です。

 北に進んでいくと、対岸の線路跡にはコンクリートの崖補強が残っているのが見えます。しかしながら、割と最近まで残っていたガーター橋はすでに撤去されてしまっています。

第三雨竜川橋梁慰霊碑その先の切り通し 代わりといっては何ですが、その先にある有名な第三雨竜川橋梁のトラスはしっかり残っています。もちろん、深川寄りのガーター部分も健在です。

 この橋の先に踏切があったようで、道を通じてすぐ近くまで行くことができます。この橋は保存されることが決まっているようで、案内板や工事中に殉職された方の慰霊碑などが置かれてミニ公園のようになっています。

 踏切の逆側も、草ぼうぼうではありますがその奥の切り通しはよい線路跡の雰囲気を残しています。

 そこから進み、ほどなく開けてくると道の駅があります。「政和温泉ルオント」といい、日帰り入浴施設やコテージ風の宿泊施設もあります。この道の駅付近に政和温泉駅があり昔も温泉宿があったそうですが、今あるものはそれとは別の全く新しいもの。駅跡も遺構は何も残っていません。

政和駅 引き続き進み、次にやってきたのは政和駅跡です。国道から少し入ったところにあります。鷹泊や沼牛と似た基本的な作りの駅舎があり、蕎麦屋になっているようですが、冬期はお休みらしく取材日もまだ冬が終わっていないようでした。例のごとく農業倉庫が隣接していますが、駅裏は整地されてしまって鷹泊などと比べると駅の雰囲気は薄くなっています。

開基記念モニュメント廃道 駅前広場には色の褪せた「開基七十周年」のモニュメントが置かれています。

 その先も国道沿いに線路跡が続きます。

 深名線と国道は何度か左右位置が変わり、跨線橋ではなく踏切が設けられていたところもあったようです。現役当時は国道が妙なカーブを描いてその踏切を越えていたわけですが、今は解消されて直線に付け替えられています。その「旧道」が遺構として少し残っていたりもします。

 新富は特に遺構がないそうなのでパスして進み、添牛内の手前、国道二三九号が分岐するところでそちらに少し入ってみます。すぐに深名線を跨ぐ添牛内跨線橋があり、ここからは添牛内駅を見ることもできます。

 ですので、添牛内駅はこの国道の交差点の少し先です。

 これまでと同じような駅舎があり、駅前広場には秋にはコスモスの咲く花壇が設けられています。駅前にお住まいの農家の方の話によると、この花壇は深名線保存(廃線の保存ではなく、廃止阻止の意味として)の一環として作られたそうなのですが……。この農家の方には、二年前の早朝にここに来たときに小一時間ほどいろいろなお話(深名線の話から、農業の苦労話まで)を聞きました。ゆでとうきびもごちそうになり、大変お世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。

添牛内駅正面添牛内駅ホーム側 ここの駅跡もほどよい朽ち具合で雰囲気がよく、裏のホーム側の構造もよく残っています。名寄寄りには駅名標の「枠」だけがまだ健在。実質的には農家の物置として使われているようです。しかし、深川方は農地を広げる作業らしいものが行われているようで、その工事の一部が駅跡にも掛かり、ホームのコンクリートの先端部が取り壊されてしまいました。

 列車の停止位置を示す「0」の標識もあったはずのなのですが、おそらく同じ運命に……。

跨線橋、地名が北海道らしくでいいです 国道は何回か向きを変えながら進んでいきます。添牛内の少し先左に折れます。これを直進すると士別の方へ行ってしまうので気をつけてください。左に折れてすぐ先に跨線橋があります。

 その先、共栄駅はどのあたりにあったかわかりませんが、近くの集落は、以前に乗った代替バスの運転手の話によるとすでに二戸だそうで、主のいなくなった家屋が冬の雪の重みで崩壊している姿も見られる相当の過疎地になってしまっています。

橋脚 その集落の先にあるトンネルを越えてすぐのところにある深雪橋からは橋脚が見えます。が、すぐ手前にある橋台と奥に一本見える橋脚のどちらが廃線跡なのかわからないのですが……。

 この先は線路跡が国道のすぐ近くを通っており、朱鞠内の市街地の手前から整備された転用道路になって国道と併走、今はバス待合室や公園となった朱鞠内駅跡に到着します。

朱鞠内駅前(だった場所)にある観光案内板 ここも幌加内と同じようにレールと駅名標が置かれたモニュメント的施設になっています。待合室の中にはふれあいノートが置かれていました。現役当時からあったと思われる観光案内板はそのままで、もちろん、地図には深名線も記載されています。

 次の駅は湖畔。しかし、ここはわかりにくい場所にあります。地形図で目立つ築堤は深名線ではなくここから分岐する未成線の名羽線のもののようで、それと別の角度で延びる線路跡が湖畔に向かう道路と交差する地点の手前が駅跡のようです。しかし、撤去された川に架かる橋を含め遺構は残っていません。

この廃寺が資料館になっています 道沿いに、深名線やダム建設で亡くなったタコ部屋労働者の慰霊碑がありその近くにある案内板で何とか地形を理解することが出来ます。この建設には朝鮮半島から徴用された(強制労働と碑は表現していますが、その是非はふれないでおきます)人もいるそうで、近くにある寺を転用した記念館では深名線の姿を含めてそれらに関する写真を中心とした展示がされています。

 湖畔からは線路跡は朱鞠内湖の西から北を経由して進んでいきますが、併走する道道からも離れた場所を進むため見ることはほぼ不可能です。取材日現在はこの道道も災害のために途中で通行止めになっていることもあり、こちらの経路は諦めて朱鞠内から湖の東側の国道を進みます。

 先の母子里まで出てしまいますが、いったん通過して北側から蕗の台駅跡へ向かいます。遠別まで通じる予定ですが未完の道道を進み、未舗装の小さな道に入り、不自然な突端まで進むと蕗の台駅跡です。しかし、今は開けた空き地になっているだけで遺構は何もありません。

湖畔駅の板ぽつんと遺物が 朱鞠内湖の北側の線路跡は、道道からも少し離れた山中を通っていますが、白樺橋という橋の少し東側で線路に接近しているらしく、そこを入ってみると白樺駅跡がありました。ホームに降りるコンクリートの階段がかろうじて残っており、木製の「白樺駅」と書かれた看板が放置されています。一段下りたところにある空き地が駅だったようで、草むらの中にぽつんと固定ポイントの標識だけが残っています。それにしても、本当に何のためにここに駅が設けられたのかと疑問に思う場所です。

北母子里駅ホーム 母子里の集落の近くまで戻ると、線路跡の築堤がわかります。集落の南の外れに北母子里駅跡があり、今は携帯電話のアンテナ設備が建っていますが、裏手に回ってみると草ぼうぼうになりながらもホームがしっかり残っているのがわかります。駅跡はやや集落から外れた場所にあります。

鉄道標識の再利用 駅から離れた場所にある代替バスの停留所の近くにある横断歩道の標識には「母子里」という地名が表示されていますが、これはおそらく北母子里駅の駅名板が使われていると思います。わざわざ「北」に当たる部分を白で隠してありますので。

 北母子里の先は、深名線はいったん南側に進み、そこから東に折れて山を超えます。国道と交差するあたりまで線路跡はわかりますがそれ以上はさすがに追跡できません。

 ですので、道道を使って回り道をし、次の天塩弥生駅付近へ向かいます。

線路跡らしい雰囲気 当時の地形図を持っていないので駅跡を特定することは出来ないのですが、集落の深川寄りに線路跡の築堤が見えます。川を渡っているためそれなりの高さがあり、登ってみるとよい感じの線路跡です。レールこそないものの、枕木の破片や犬釘、ボルトなどがそのまま放置されており、川の向こう側の橋台も見ることができます。

 ライスターミナルのある場所あたりが西名寄駅跡のようですがここも遺構がありません。線路跡も平らにされて田畑の一部になってしまったようで跡形もなくなっています。

 天塩川を越える橋梁付近も完全に撤去済みですが、その先は線路跡が緑地帯になっているようで何となくわかると言った感じです。

最終カーブ 名寄の手前で線路跡が左にカーブしますが、この付近は鉄柵が残っていて「らしさ」を感じさせます。線路跡自体はビニールハウスが建てられて付近の民家の菜園になっていますが……。

 名寄駅の駅舎の脇に、深名線が発着していたホームがあります。向かいの一番線は現役ですが、こちら側は白線こそ残っているものの、線路跡は駐車場の一部となってしまっています。

 ともあれ、これでかなりの長距離でしたが全線探索が完了しました。

名寄駅の端

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