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花模様 モニュメント・考花模様
毎日新聞2000年1月8日オピニオン面に載った堀内正美・モニュメントマップ作成委事務局代表の「言」です。
 阪神淡路大震災から4年目の昨年1月17日、兵庫県内(被災10市10町)に出来ていた55カ所のモニュメント(慰霊碑・追悼碑など)を記した「震災モニュメントマップ」が完成した。
 被災地には、悲しみや苦しみを忘れたいという気持ちと、忘れてはならないという思いが交錯していた。が、私たちは、「6430名にもおよぶ尊い命を失ったつらい体験や、所属や肩書、国籍や宗教の違いを超えて互いに支え合った体験を、生き残った者として語り継いでいかねばならない。これこそ私たちの責務ではないか」と考えた。
 そんな時、モニュメントの写真(33カ所)と出合い、衝撃を受けた。愛する家族の墓は「個人の死」「プライベートな死」として、内なる思いから建てられる。一方、パブリックな空間に建つモニュメントは「みんなの死」として慰霊や追悼だけでなく、生きている者たちに向けてのメッセージが刻まれているのである。私たちはそれらを「震災モニュメント」と名付けた。あの時の体験を風化させず、365日どこかで震災が語られるためのツールとしてのマップづくりはこうして始まった。ただ不安があった。遺族の方々に受け入れられるかということだった。大学生の息子を亡くされたご夫婦に、マップを手渡した。
 「こんなにいろんな所に……。今までは死んだ息子の名前しか見えなかった私たちですけど、このマップを見て、ほかの亡くなられた方々の存在が初めて見えました。ありがとう。これからはみんなのためにも祈ります」と言われた。それまではこのご夫婦にとって愛する息子の死は「プライベートな死」であり、他の6429人の死と共有するものではなかった。「マップ」が心の扉を開いたのだ。その後、このご夫婦は各地のモニュメントを訪れ「みんなの死」と向きあい、息子の死を受け入れようと語り始めた。
 今、モニュメントを訪ねる「震災モニュメント交流ウオーク」が十数組の遺族の方々を中心に行われ、新たに作成した「2000年版震災モニュメントマップ」には、120カ所のモニュメントがしるされた。
 「死者は、その死によって、生き残った者に力を与える」。震災5年にこの言葉を改めてかみしめたい。
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震災モニュメントの物語と地図などを載せた「震災モニュメントめぐり」(葉文館出版)も、出版されている。

毎日新聞99年7月17日「阪神大震災特集」に載った
岩崎信彦・神戸大教授の「震災モニュメントが意味するもの」についての論考です。 
岩崎教授は、神戸大学の研究者有志による「震災研究会」の世話人。社会学の立場から、学生とともに震災モニュメントの歴史的、社会文化的意味を探る調査研究を進めています。 

慰霊碑は、歴史的に見て、死者のためだけでなく、残された人たちが「悲しみ」「苦しみ」を乗り越えていくためにも必要とされてきた。
人間社会には、「悲しみ」「苦しみ」を「忘れたい」という気持ちと、「忘れてはならない」という思いとが相反しながら共存している。碑はそのバランスを取るための「装置」であるとも言える。
碑には、死者の思い出の幾分かを「預かってくれる」働きもあるからだ。
遺族にとっても、生きていく上は、失った人のことを思い続ける状態から、いつかは抜け出さなければならないが、そのためには、まず十分に悲しむことができなければならない。
パブリックな空間である碑の前では、何度も「あの日」に立ち戻り、みんなで祈ることによって、遺族だけでは抱えきれない悲しみを分かち合える。そして、死者に「安らかに眠って下さい。私たちは懸命に生きています」と呼びかけることから、未来に向け立ち直る力は生まれるのではないか。
私は、阪神大震災は、「個人」が自らの豊かさばかりを追った大量消費社会の終わりを告げる契機になったと考えている。被災地では今、「協力し、助け合う人間の心のつながり」を基盤にした「新たな社会」を模索する動きが進んでいる。ボランティアの活動や、地域社会の取り組みに、その萌芽(ほうが)が認められる。
今回の震災に関していえば、モニュメントが非常に多いのが特徴である。それは、 「心のつながり」を求める被災地の空気と無縁ではない、と思われる。一人一人の死 を、遺族の体験だけで終わらせず、共通体験としながら新しい時代をつくっていきたい。そんな無言の意思が広がっているのではないか。
モニュメントは、「個」と「個」が結び合う新しい社会の足場の一つとなるかもしれない。 (談)          
毎日新聞ボランティア面(ホームページ版)に載った田原護立・毎日新聞社会部編集委員の評論です

時事雑談のカットモニュメント文化

 阪神大震災の被災地に、官民を問わず多くの「碑」が建立されていることは、この1月の時事雑談で紹介しました。今年になってから建てられたものもあり、「碑」の数は4月現在で確認できたものだけでも80を超えます。
 こうした「碑」を何と呼ぶのか、実はかなりむずかしいのです。震災にかかわる犠牲者の慰霊碑もあれば、復興と再生を祈念する碑もあれば、多くの人々との連携を記念した碑もあるという具合に、多種多様なのです。で、日本語ではなくモニュメントというカタカナを使って「震災モニュメント」と表現し、それらの設置場所を紹介した地図(震災モニュメントマップ)が作成されました。4月17日には、このマップを手に、モニュメントを巡り歩く会が開かれ、150人ほどが集いました。
 ボランティア団体「がんばろう!!神戸」が主催したこの会に参加し、被災地でも特に被害の大きかった場所の一つである神戸市長田区のJR線路沿いの街を約10・歩きました。確かに壊れた廃屋やビルはもうありません。しかし、目につくのは空き地ばかりです。初めてこの地を訪れる人であれば、すぐには分からないと思いますが、その空き地のすべてに、震災前には民家や商店があったのです。その比較を考えれば、街が復興しているとは、決して言えない現状なのです。
 そんな街にあるJR山陽線の新長田駅の改札口広場の壁に、高さ90・前後の、木彫りのお地蔵さんが掛けられています。駅員は「壁掛け地蔵さんです」と苦笑するが、プラスチックカバーの奥にある、そのお地蔵さんの左眉毛に大きなイボがあります。壁には「寅地蔵」とあります。由来を読まなくても、その名前とお顔から、故・渥美清さんというよりは「フーテンの寅さん」のお地蔵様であることは一目瞭然でしょう。
 なぜここに、神様になった寅さんがいるのかは、映画「男はつらいよ・紅の花」、つまり最後の48作目のエンデイングシーンで、寅さんが長田を訪れ、被災地の人々を励ましたからです。がんに犯され、恐らく自分自身の死期も予感していた渥美清さん。すべてを知りながら、ほぼ出来上がっていたシナリオを急遽変更して寅さんの「長田訪問」を実現た山田洋次監督。被災地に元気を取り戻そうと、寅さん誘致に情熱を燃やした地元の被災者の人々。多くの人々の思いが重なり合って、今、寅地蔵が、やさしく人々を見つめているのです。
 48作目で、長田ロケを行った山田監督から、こんな手書きのメッセージも届いている。
 「寅さんのような男が死んだら、お地蔵さんになるんじゃないかな、とその昔、渥美清さんと語ったことがある。1995年秋、寅さんシリーズの最後となった寅次郎・紅の花のロケを長田で行ったことを記念して、人情あつい長田の人たちがこのお地蔵さんを作ってくれた。天国の渥美さんも、さぞ満足だろう。山田洋次」
 こうした、被災地にまつわる個々の話は、時と共に消えてしまうか、忘れられてしまうものです。が、「碑」があることで、碑とともには「話」も消えることなく語り継がれるかもしれません。それが「モニュメントの文化」と言えないでしょ、か。半世紀以上も前の、人類の悲劇とも言える「ヒロシマ・ナガサキ」では、モニュメントが「語り継ぐ」ことの大きな支えになってきたことは、間違いない現実だと思います。
 悲しい性ですが、「形」がある方が、私たちは忘れないで記憶し続けられるようです。形なぞなくてもいい、と言いきる自信は、私にはありません。時間はかかりますが、これからも震災モニュメントを巡るつもりです。震災の教訓を自らに刻みつけるために。(田原 護立)


毎日新聞99年1月21日朝刊に載った「記者の目 薄れる記憶を戒める」です。筆者は、大阪・震災取材班の岸桂子記者。
 ◇「命」考えるきっかけに

 阪神大震災後、被災地には数多くの慰霊碑や記念碑が建てられた。震災4年の今年、その所在地を記した「震災モニュメントマップ」が初めて作製され、私は同僚と調査、取材にあたった。
 碑にかかわる人々は、愛する人を失った事実と真正面から向き合い、静かに、しかし圧倒的な強さで、命の重みを訴えていた。私はこの4年間、震災報道にこだわってきたつもりだったが、復興ばかりに目を奪われ、6430人の命が失われたという「原点」を忘れつつあったことに気付かされた。と同時に、10歳で父親を亡くし、その事実と向き合うことを避けてきた私自身を見詰め直す機会にもなった。
 マップに掲載されたモニュメントの数は55カ所。これまで私もいくつか取材しており、「各地にある」程度の認識はあった。しかし、50カ所を超えるとは予想もしていなかった。完成後、寄せられた情報も合わせれば、既に65カ所を超えた。建立者はさまざまだが、マップへの掲載許可を求めると、一様に「そんなに(数が)あるんですか」と驚いた。生き残った者の死者への思いの強さをうかがわせる。
 兵庫県西宮市の西宮震災記念碑公園には、犠牲者1080人の名前が刻まれた「追悼之碑」がある。取材で訪れた日、白いリボンで結んだ花束を手にした男性に出会った。花を供えた後、男性は碑の一点をずっと見つめていた。おそらく、親族の名前だろう。だれなのかは、亡き人と過ごす大切な時間を邪魔しているような気がして、最後まで聞けなかった。
 休日の都合がつく限り、碑を訪れているといい、「(碑は)心のよりどころになって、ありがたいです」と小さな声で話してくれた。表情に、年月を重ねても薄れることのない、亡き人を思う気持ちが痛いほど伝わってきた。
 芦屋市立精道小学校では、震災で児童8人と保護者7人が死亡した。震災1年を機に「祈りの碑」を建立したが、取材に訪れた時、前田文也教頭から一冊の文集をいただいた。そこに書かれた文章を読んで、私は言葉を失った。
 「死んでしまうこと/それは、輝く人生を終え/他の人の心の中で/永遠に生き続けること」
 震災当時、小学6年生で、親友ら十数人の死に直面した兵庫県立芦屋高1年、吉田恭子さん(16)の作文の一節だ。
この思いに至るまで、小学生だった彼女はおそらく、涙が尽き果てるほどの悲しみ、どこにもぶつけることのできない怒り、いろんなものと闘ったのだろう。その結果、この世を離れた命も、永遠に生き続けることを悟ったのだ。
 私の父は40歳で病死した。小学校4年生だった私は、ひたすら泣かないように、後ろを振り返らないようにと思うだけだった。忘れたことはないが、言葉に出したり、深く考えるのは嫌だった。だがそれは、単に父の死と向き合うことを避けていただけではないか。
 碑に刻まれた名前を見つめる男性の背中を見たり、友の死を深く考え、自分なりに位置付けた小学生の作文を読んで、「亡き人を思い続けることは、決して後ろを振り返ることではないのだ」と気付かされた。
 今回の取材で、子供2人を失い、長女が通っていた幼稚園に慰霊碑を建立した父親と会った。転勤のため、震災後は東京で暮らす父親は「今でも(子供のことを)話すのはつらいし、だれにでも話そうとは思わない。でも、被災地外では震災なんて話題
にならなくなった今こそ、私たち遺族やあなたのように震災を体験した記者が、命を語り、伝え続ける必要があると思う」と励ましてくれた。
 震災に遭ったのは記者生活1年目だった。さまざまな死と向き合い、あまりの惨状を前に記事なんて書けないと途方に暮れた時もあった。その後、震災の取材を続けるうちに、当初の戸惑いは薄れ、取材対象や関心は、被災者の暮らしの再建や街の復興などへ移っていた。
 だが、犠牲者の名前がぎっしりと刻まれた碑を見れば、多くの隣人が亡くなった現実をかみしめることができる。「やすらかに」「わすれない あなたのことを」などの碑文や、未来へ羽ばたく鳥をイメージした碑の形を見れば、生き残った人々の決意
を感じる。モニュメントは、立場の違いを超えて人と人が理解し合い、結び付く、一つのよりどころとなるはずだ。
 マップには、全国から反響が寄せられている。遺族だけでなく、震災に関心を寄せる人々にとって「6430人」の死がいつまでも重みを持っているためだろう。私も 「どんなに時を重ねても、命を無駄にしないという原点に返ればいいんだ」と、震災取材を続ける勇気が生まれた。
 マップが、「あの日」の出来事を語り継ぐとともに、命、生と死、そして自分自身について考えるきっかけになってほしいと願う。
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