< 本 >
 
腑に落ちる、または感銘を受けた本を紹介します。
 
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1.

「事実とは何か」 著:本多勝一 朝日文庫 表紙 表紙

1984年刊。当時新聞記者だった著者が、「事実とは何か」ということについて書いた記事・解説を集めたもの。姉妹編に、「職業としてのジャーナリスト」がある。
 


2.

ホール&オーツ」 著:林洋子 シンコー・ミュージック 表紙

1984年初版発行。ペンシルバニア・ダッチの血を受け継ぐダリル・ホールと、イギリス人・スペイン人・モロッコ人・ムーア人・イタリア人の血を引くジョン・オーツが組むデュオ、ホール&オーツの歌とそのバックグラウンド。War Babies(第二次世界大戦終戦後生まれ)、テンプル大学、フィラデルフィア、ブルー・アイド・ソウル、ニューヨークといった背景と彼らの歌を解き明かす。
 


3.

「マクリーンの川」 著:ノーマン・マクリーン 訳:渡辺利雄 集英社文庫

1999年5月初版第1刷発行。舞台はモンタナ州西部。1902年、カナダ経由のスコットランド移民の家庭に生まれ、ダートマス大学を卒業、シカゴ大学で英文学を教えたノーマン・マクリーン氏が1976年に出版した自伝的小説。モンタナ州の森、ミズーラの街、”ビッグ・ブラッドフット川”、長老教会派の牧師の父と愛したフライ・フィッシングを主軸・背景に、愛する弟の思い出を書いた本。1973年に70歳で教職を引退してから書き始められた。
 


4.

「理性のゆらぎ」 著:青山圭秀 三五館 表紙

1993年初版発行。1995年第36刷発行。“サイババ”をとりあげる、“若き科学者のデビュー作”。

<学歴>
私立広島学院中・高等学校 卒業
東京大学教養学部基礎科学科 数学・物理学専攻課程 卒業
東京大学理学部研究科 相関理科学専攻修士・博士課程 修了
<職歴>
平成3年 インド政府招聘研究員
平成4年 東邦大学医学部客員講師(麻酔科学第二講座)
平成6年 東洋伝承医学研究所副所長
平成7年 カリフォルニア大学ロサンゼルス校招聘研究員
平成8年 カリフォルニア州立大学文学部客員教授
<学位>
理学修士 変性意識状態における脳波の計算機による解析
理学博士 有機金属化合物における分子軌道の立体的解析
医学博士 吸入麻酔の代謝 −その量子論的研究−
 


5.

「アーユルヴェーダ健康法」 著:クリシュナ.U.K 春秋社

1992年初版発行。1956年インド・カルナータカ州生まれ、マイソール大学アーユルヴェーダ医学士過程、クジャラットアーユルヴェーダ大学大学院博士過程、岡山大学医学部で医学博士号を取得、1991年から1993年までミサワホーム総合研究所メディカル開発部に勤務した氏が、日本人のために書き下ろしたアーユルヴェーダ健康法。
 


6.

「『気』で観る人体」 著:池上正治 講談社現代新書

1992年初版発行。翻訳家池上正治氏が、人体を流れる気を解説する。鍼灸で知られるツボを結ぶ気の流れ経絡を紹介。さらに、鍼灸・気功を通して現代に流れる思想の潮流についても語る。すなわち、中世ヨーロッパの暗黒時代の一元論:唯心論、ここで勇気を振り絞って物質と精神の世界を切り分けたデカルトの二元論、中世から脱却したヨーロッパが安心または喜び勇んで逆に振り子を振った物質科学万能信仰・宗教を法律で禁止までする共産主義的な一元論:唯物論ときたなかで、現代、東洋医学・東洋思想に光が当たっているということは、人が高まっていくには、物質と精神の両方のアプローチがあるというゆるやかな二元論が浸透しつつあるのだ、とする。
 


7.

「COSMOS」上・下 著:カール・セーガン 訳:木村繁 朝日文庫

1984年初版発行。単行本は1980年発行。惑星探査機ボイジャーで有名な天文学者カール・セーガン博士が、近代科学のあけぼの、宇宙の姿、人類の未来について語る。誰かに読まれることを期待してボイジャーに積み込まれた、複数の言語によるあいさつの言葉や地球の情報を信号に換えて記載したレコード盤の話、宇宙からの人工的な声を聴き取ろうと耳を澄ませるアレシボ天文台の話など、ロマンあふれる。
 


8.

「COSMOS, EARTH, AND MAN」T・U 著:プレストン・クラウド
訳:一国雅巳・佐藤壮郎・鎮西清高 岩波現代選書

1981年初版発行。古生物学者プレストン・クラウドが、宇宙・地球・人間と進化の順を追ってその姿を浮き彫りにし、人口・環境・エネルギーなどについて提言する。海底の岩石の磁気を観測していくことで海洋底拡大説、ひいては大陸漂移説の証拠をつかんでいく物語は、科学の醍醐味を味あわせてくれる。
 


9.

ユニークな日本人」 語り手:グレゴリー・クラーク 聞き手:竹村健一 講談社現代新書

昭和54(1979)年11月20日第1刷発行。昭和60(1985)年9月25日第11刷発行。1936年イギリス・ケンブリッジ生まれ、1957年オックスフォード大学卒業、オーストラリア外務省勤務(中国担当官、駐ソ大使館員)、対外投資研究のため来日、上智大学教授になった語り手が、昭和54(1979)年に語る「日本人論」。
「感性主義と知性主義を縦軸に、破滅と合理を横軸にして楕円を描いてみせる認識」、「個別主義−普遍主義をx軸、発展をy軸にとって放物線を描く認識」の切り口によるこの把握は見事(だと思う)。

Gregory Clark Japan Website


日本では2004年6月に出版の、「 THE GEOGRAPHY OF THOUGHT How Asians and Westerners Think Diffrently... and Why  木を見る西洋人 森を見る東洋人 」 著 Richard E.Nisbett(リチャード・E・ニスベット) 訳 村本由紀子 ダイヤモンド社 も、感じるところが共通している。


「日本人論」は一般に、
中根千枝氏1926年東京生まれ)の「タテ社会の人間関係」(講談社現代新書1967)、ルース・ベネディクト氏Ruth Fulton Benedict、1887−1948、1946−47 アメリカ人類学会会長、1948 コロンビア大学教授に昇進、9/17没)の「菊と刀」(1945執筆、1946公刊)が有名。
(※千葉大学教員の選んだ100冊(1995)倉智恒夫氏(文学部)によると、ルース・ベネディクト氏は「菊と刀」を、フランスの英文学教授ルイ・カザミアン(Louis Cazamian)によるイギリス考 『イギリス魂−−その歴史的風貌』 (社会思想社・現代教養文庫、Ce qu'il faut connaltre de l'Ame Anglaise, 1927)をモデルにして書いたのではないか、という。ベネディクト氏は没後、1959年、「人類学者の研究生活(An Anthropologist at Work)」が公刊される。)

 


10.

若者たちの神々」1〜4 筑紫哲也対談集 朝日新聞社 表紙

1984年から85年、当時 『朝日ジャーナル』 の編集長だった筑紫哲也氏が、当代の若者たちの”神々”50人と会って話し、その素顔と考えを紹介、時代の気分を探る試み。”神々”は当時20代終わりから40代の人達。

神々:浅田彰、糸井重里、藤原新也、坂本龍一、ビートたけし、森田芳光、如月小春、新井素子、日比野克彦、北方謙三、島田雅彦、椎名誠、野田秀樹、村上龍、林真理子、戸川純、大竹伸朗、橋本治、三宅一生、北方謙三、島田雅彦、椎名誠、野田秀樹、村上龍、林真理子、戸川純、大竹伸朗、橋本治、三宅一生、山本耀司、鈴木邦男、山下和仁、小栗康平、中島梓、松任谷由美、中沢新一、細野晴臣、伊藤比呂美、高橋源一郎、鴻上尚史、楠田枝里子、ねじめ正一、松本隆、菱沼良樹、大戸天童、片山敬済、南伸坊、タモリ、渡辺えり子、川崎徹、山口小夜子、井上陽水、嵐山光三郎、中上健次、北村想、天児牛大、桑田佳祐、里中満智子、田原桂一、田中康夫

 


11.

若者たちの大神」 筑紫哲也対談集 朝日新聞社 1987年8月31日 第1刷 
表紙

1986年から87年、当時 『朝日ジャーナル』 の編集長だった筑紫哲也氏が、”若者たちの神々”より上の世代、 50代以上の人達22人と対談して、その素顔と考えを解き明かす試み。朝日ジャーナル掲載時のメイン・タイトルは 「時代の気分を語る」。筑紫氏にはほかに、当時10・20代の若者たち34人と対談してその気分を探る「新人類図鑑」T・U、39人の活躍する女性たちに話を聞く「元気印の女たち」(1987年刊)などがある。「新人類図鑑」は、(新)人類の図鑑という意と、(新人)類の図鑑という意がかけられているそうだ。

大神:井上ひさし、大島渚、山崎正和、富岡多恵子、李恢成、筒井康隆、森毅、山口昌男、手塚治虫、石原慎太郎、西部邁、澤地久枝、阿久悠、横沢彪、岸田秀、大城立裕、磯崎新、武満徹、菅直人、野坂昭如、別役実、堤清二


新人類:遠藤雅伸、中森明夫、小曽根真、木佐貫邦子、原律子、吉川洋一郎、原田大三郎、甲田益也子、川西蘭、加藤かおる、高見裕一、李泰栄、辻本清美、三好和義、安西英明、三上晴子、泉麻人、北村信彦、高野生・大、野々村文宏、川村毅、萬處雅子、小野寺紳、今井アレキサンドル、桜井さとみ、樋口尚文、結城恭介、秋元康、滝田洋二郎、藤原ヒロシ、西和彦、洞口依子、平田オリザ

元気印:吉永小百合、猪口邦子、松田千枝、山田詠美、中島伊津子、木野花、奥谷禮子、長谷川逸子、吉永みち子、宮迫千鶴、五輪真弓、江上節子、アグネス・チャン、中村あゆみ、松本小雪、島森路子、石岡瑛子、源啓美、都築直子、半田真理子、杉浦直子、佐藤綾子、西山栄子、三好礼子、清水真砂子、高橋アキ、吉成真由美、横山正美、久和ひとみ、佐野洋子、矢野顕子、河野美代子、山崎洋子、姜信子、篠原滋子、氷室冴子、平野レミ、土井たか子、瀬戸内寂聴

 


12.

「ジャズ解体新書」 後藤雅洋対談集 JICC出版局 

1992年刊。1947年生まれで ジャズ喫茶 を営む著者が、ジャズに関わる7人の人物と対談して ジャズの今を語る。対談相手は村上寛、油井正一、細川周平、ピーター・バラカン、柴崎研二、佐藤允彦、加藤総夫。
 


13.

「闘うプログラマー」上・下 著:G.パスカル・ザカリー
訳:山岡洋一 日経BP出版センター 表紙

Windows NT 開発物語。250人の人間が○年かかって600万ステップのオペレーション・システムを作っていく人間模様。
 


14.

「私がマイクロソフトで学んだこと」 著:ジュリー・ビック
訳:三浦明美 アスキー出版局

マイクロソフトの社員の一人である著者が、マイクロソフト社で働く人々の素顔と企業文化を語る。
 


15.

「ソフトウェア開発のダイナミズム」 著:ジム・マッカーシー
訳:三浦明美・福崎俊博 アスキー出版局

Microsoft社で Visual C++ Ver1.0 の開発チームを率いた経験を通して、著者が、ソフトウェア開発における人間の力学(※アメリカ合衆国にての話。国(文化)が違えば、たぶん働く力学も違う)を語る本(1992年に同開発チームに加わる)。
 


16.

「実録!天才プログラマー」 訳:岡和夫 発行:(株)アスキー 1987年初版
(原題:「Programmers at Work」 インタビュア:スーザン・ラマース 編:Microsoft Press社 1986年)

世に名を響かせたソフトウェアの開発に携わったプログラマー・デザイナー19人にインタビューし、その考え方・思想・哲学の部分を紹介する試み。

プログラマ・デザイナ:Charles Simonyi (Multiplan), Butler Lampson (Alto PC), John Warnock (PostScript),Gary Kildall (CP/M), Bill Gates (BASIC), John Page (PFS-FILE), C. Wayne Ratliff (dBASEU), Dan Bricklin (VisiCalc),Bob Flankston (VisiCalc), Jonathan Sachs (Lotus1-2-3), Ray Ozzie (Symphony), Peter Roizen (T/Maker),Bob Carr (Framework), Jef Raskin (Macintosh), Andy Hertzfeld (Mac OS), 岩谷 徹 (パックマン), Scott Kim (Inversions for Macintosh), Jaron Lanier (Moon Dust), Michael Hawley (SoundDroid用ソフトウェア)

 


17.

「スーパーSE」 − システム設計と管理の社会学 −
実践ソフトウェア開発工学シリーズ 日科技連出版社 著:板倉稔

1993年4月30日第1刷発行。富士通に入社し主にオンラインリアルタイムシステムの設計と開発に携わってきた著者が、”実践ソフトウェア開発工学シリーズ”のなかではあるが、ソフトウェアは工学と文学の間にあるものである、なぜなら、コンピュータ・システムとはその時々の社会の、ユーザーの、開発者の価値観を記述したものであるからである、として、「システム社会学」・「システム心理学」として本書を書く。
 


18.

「生きる」 著:畑正憲 筑摩書房

1970年8月25日第1刷、1976年3月5日第9刷発行。記録映画製作会社、北海道厚岸郡浜中町沖の”無人島”嶮暮帰(ケンボッキ)島での暮らしを経て、北海道に“動物王国”を持った畑”ムツゴロウ”正憲氏が、東京大学生物学科の学生時代に研究したアメーバの話を通して、「生きる」ことについて少年向けに語る。

ムツゴロウ氏が嶮暮帰島に渡ったのは1971年36歳のとき、翌1972年対岸に“動物王国”を開設、1979年、標津郡中標津町にムツ牧場を開設、この2ヶ所を称して“ムツゴロウの動物王国”と呼ぶのだという。1980年、フジテレビで「ムツゴロウのゆかいな仲間たち」の放送が始まったそうだ。 ムツゴロウ動物王国公式サイト

 


19.

「ロックの子」 著:桑田佳祐 構成:荻原健太 講談社文庫

1987年8月15日第1刷、1987年9月18日第2刷発行。ロックバンド「サザンオールスターズ」を作った桑田佳祐が、自分の音楽について語る。デビューの経緯、「言葉がはっきりしない」「日本語がわからない」といわれた氏の歌などについて話す。当時は歌謡曲、歌番組「ザ・ベストテン」が盛んで、“売れている” ロックバンドはツイスト、ゴダイゴ、サザンオールスターズで、何人かの“テレビに出ない” ニューミュージックのアーティストがいる、といった状況だった。
 


20.

「キリスト教2000年の謎」 著:小坂井澄 講談社+α新書

2000年3月1日第1刷発行。新千年紀・第三千年紀に入ろうとする西暦2000年にあたり、修道院生活をしたことがある著者が、キリスト教2000年の歴史を読み解く試みをし、これからの希望・展望を望む試みをする。キーワードは「福音」「復活」「聖書」「旅立ちと脱出」「十の言葉」「アーメン」「マリア様」「キリスト教会の試行錯誤」「終末」「あなたにとって神とは何か」の10個である。
 


21.

「むかつくぜ!」 著:室井滋 マガジンハウス

1991年6月27日第1刷発行。1998年1月21日第64刷発行。「丁度私にあっている、というか、それは私ゆえに起こる私の事件......というのだろうか、私が知らず知らずに呼びよせている事件というのだろうか...。」という室井滋の事件を綴った本。カバーには、『仕事のイライラ、失恋のモヤモヤをスッキリ治す』とある。『女優・室井滋のおかしなおかしな日常』。『ストレスの特効薬!』。
 


22.

「釈迦と女とこの世の苦」 著:瀬戸内寂聴
日本放送出版協会 NHK人間講座 2000.4-6

1922年生まれ、1956年「女子大生・曲愛玲」の新潮同人雑誌賞受賞で世に出た作家で、1973年に齢50余りにして得度受戒した尼僧の瀬戸内寂聴氏が、釈迦の誕生から入滅までを通して、その人生にまつわる十数人の女性の人生を描く。
瀬戸内寂聴氏によれば、釈迦いわく、人間にとって最も辛い苦しみは愛欲すなわわち「渇愛」で、
人生の目的は「真理(ダルマ)と利殖(アルタ)と愛欲(カーマ)」で、人が生きていくのに依るべきは「自己と法とを灯明とし、よりどころとして、他のものに依るな」である。釈迦が入滅間際に残した言葉は「ヴェーサリー(釈迦が個人的に好んだ都市。晩年の釈迦の教団運営をサポートした)は楽しい。ヴェーサリーは好きだ」で、「この世は美しい人の生命は甘美なものだ」である。
登場する女性は生母マーヤー、妻ヤソーダラー、苦行の後で疲労しきっていた釈迦に乳粥を布施することになったスジャーターほか。

瀬戸内寂聴氏については、1999年2月12日、驚きももの木20世紀(テレビ朝日 PM9:00-9:54)で(も)、「瀬戸内寂聴・魂の遍路」として放送された。
参考:寂庵公式サイト

 


23.

「プラトニック・セックス」 著:飯島愛 小学館

2001年1月10日第6刷発行。AV女優として世に出、芸能界で活躍する飯島愛氏が、自身の生い立ちを語る。
 


24.

「ボーイング747を創った男たち」 著:クライヴ・アーヴィング
訳:手島尚 講談社 表紙

2000年11月15日第1刷発行。2001年5月30日第5刷発行。自重・燃料・乗込み旅客・搭載貨物合わせて350t。350tの物体が空を飛ぶ驚きと、物体を創り出す男たちの夢とロマンと人間ドラマ。ユーザパンナムと開発社ボーイングの共鳴と葛藤と闘い、経営と開発の葛藤、要求した性能を実現するための技術的な闘い。大規模飛行機開発における人間模様は、大規模ソフトウェア開発に似ている。

本当に飛ぶか判らない新製品をテストするテストパイロットの感慨と感覚。飛行機のパイロットの「感覚」は、自動車のドライバーの「感覚」に似ている。
「操縦席のワッデルは、強いエネルギーと鋭い動きを、手と足と座席の上の尻で、じかに感じとっていた。鋭敏な感覚はすぐれたパイロットに共通する資質である。『感覚(フィーリング)』という言葉には、操縦索を通じて操舵の手応えを感じることができたかつての複葉機との密接な関係を思わせるものがあったが、ワッデルはいまでも、新しい飛行機に対する感覚を、技術的な裏づけと同程度に信頼していた。手と足で操縦していた最初の数秒間は、むしろ頭より感覚のほうが先行していた。この巨人機はじつに軽く操縦することができた。彼はその反応ぶりを、自然でなめらかだと感じた」。


巨人機の登場を見る社会の中の色々な目。知る権利を持ち、行政・立法・司法や世の中の出来事を“監視”する報道の役割の重要性はいうまでもないが、パパラッチやワイドショーや冤罪報道に代表されるような、売ることに力点のすべてを置き内容の質への検討はほとんどゼロという作業をする個人・部署・団体も存在する。

ロマンあふれる。350tの物体が宙に浮くだけで、胸が熱くなる。1970年1月22日の747パンナム初便に対するニューヨーク・タイムズ紙の論評。 「B747は多くの人々に、地球の裏側に住んでいる人たちも自分の隣人たちと同じなのだと認識できる機会を与えてくれるだろう」 。世界を今日の距離にしたのは、2000年で31年目を迎えたこのボーイング747ジャンボジェットと、このところ浸透著しいインターネットか。

 


25.

「ボーイング747−400の飛ばし方」 著:スタンリー・スチュワート(元英国航空機長)
訳:小西進(元全日空機長) 講談社

2001年2月26日第1刷発行。2001年6月15日第3刷発行。(日本航空が1990年1月に初受領した機体が航空会社への引き渡し45号機目だった)ボーイング747の最新鋭機−400の飛ばし方を、英国航空で機長だった著者が語る。二部構成で、一部ではロンドンを飛び立ってニューヨークに着くまでのコクピット内の仕事の様子が紹介され、二部では安全に飛ばすためのシステムのいろいろが紹介される。
大型旅客飛行機を定期便で運行する仕事は、たくさんあるチェック・リストを読み上げ、手順通りに計器を把握し、数値を入力し、スイッチ類を押していく仕事である、という。

 


26.

「旅客機 大全」 著:中村浩美 新潮文庫

1995年11月「旅客機 雑学ノート」として刊行、2002年3月1日文庫版発行。1946年生まれ、航空雑誌編集長を経て独立した著者が書く、現代ジェット旅客機についてのあれこれ。内容は、旅客機の値段、ベストセラー機は、世界の旅客機の総数は、ラバトリー・モジュール(化粧室・トイレの科学)、航空会社世界一は、地上から飛行をたすける、管制塔と管制官、ハイジャック、あんなブレーキこんなブレーキ、旅客機は何でできているのか、旅客機はここまで耐えられる、操縦とは、など多彩。
 


27.

「スカートの下の劇場」 著:上野千鶴子 河出文庫 河出書房新社

1996年10月25日第13刷発行。1989年8月単行本として刊行。1948年富山県生まれの社会学者上野千鶴子氏が、「女であることの謎」を解きにかかる本。

「本書が出てからさまざまの評をいただいた中で、国立民俗学博物館の栗田靖之氏からいただいた『これは下着を通してみたセクシュアリティの文明史ですね』という評が、もっとも的確でうれしいものだった」と“文庫版へのあとがき”にある。

 


28.

「男流文学論」 対談:上野千鶴子・小倉千加子・富岡多恵子
ちくま文庫 筑摩書房

1997年9月24日第1刷発行。1992年1月単行本として刊行。1948年富山県生まれの社会学者上野千鶴子、1952年大阪生まれのフェミニスト小倉千加子、1935年大阪生まれの作家富岡多恵子の三氏による、「『かしまし娘』の鼎談」。テーマは、 男の作家が書いた小説にあらわれる“性”。“男の眼(手)”による性の描写を女が切る(叩く)井戸端会議、といったところ。

取り上げられる 作家・作品 は下記。

吉行淳之介 「砂の上の植物群」 「驟雨」 「夕暮まで」
島尾敏雄   「死の棘」
谷崎潤一郎 「卍」 「痴人の愛」
小島信夫   「抱擁家族」
村上春樹   「ノルウェイの森」
三島由紀夫 「鏡子の家」 「仮面の告白」 「禁色」

 


29.

「増補<私>探しゲーム」 著:上野千鶴子 ちくま文庫 筑摩書房

2000年11月15日第9刷発行。1987年1月単行本として刊行。1948年富山県生まれの社会学者上野千鶴子氏が、自身の30歳代を突っ走った80年代の日本社会を描写した本。

同時代を論じるっておもしろい。あ、自分はこのために社会学してきたんだな、ということがよくわかる。考えてみれば、社会学っていうのは、できたはじめから『同時代の学』だったにはちがいない。どの社会学者も、自分が生きている同時代を読むためのコンセプトを作ろうと、悪戦苦闘してきたわけだ。(中略)『同時代を読む』専門家としての社会学者(中略)P.L.バーガーは、社会学者のことを『現代社会のシャーマン』と読んだ。時代を読むというこの『シャーマン』業」 単行本 あとがき 1986年12月 京都にて

「80年代の未曾有の円高、バブル経済の波の中で、わたしもまた“トレンドごっこ”に興じた。日本社会の80年代は、わたしの30歳代と重なっていて、自分の体力がゆるす限り、わたしは『時代の伴走者』であることを、たのしんだ。それどころか、『近代』にゲップの出た極道の三代目の気分で、わたしは時代の変化を助長する仕掛け花火にまで、手を出したのだった。あれから10年。早い時代の流れの中で、すでに『歴史』になってしまったものを見るのは、気恥ずかしい経験である。そこには、時代の愚かさごと、書き手の限界が表われる。そのようにして、それぞれの書き手は、おのおのの時代的制約を歴史の証言として残していくのだろう。わたしもまた、時代の落とし子だった。そのことは、恥じることなく明言しておこう。(中略)本書は、80年代の『歴史的資料』として読まれるだろう。(中略)わたしが試みた、ささやかな『世相探検』(中略)柳田國男が『明治大正史・世相篇』(1930年)のあとがきで書いたように」 増補文庫版へのあとがき 1992年4月 京都にて
 


30.

「うわの空 ドイツその日暮らし」 著:上野千鶴子
朝日文芸文庫 朝日新聞社

1996年3月1日第1刷発行。1992年7月単行本として刊行。1948年富山県生まれの社会学者上野千鶴子氏が、日本語による日本研究を講じるためにドイツのボン大学に1年間(1991年4月−1992年3月)赴任したときのエッセイ。1992年4月に幕を閉じた週刊誌「朝日ジャーナル」に連載された。当時の同誌編集長は下村満子氏。
 


31.

「文壇アイドル論」 著:斎藤美奈子 岩波書店

2002年○月○日第○刷発行。著者斎藤美奈子が捉えるところの、「文壇アイドル」の姿とこれを受け入れる社会についての把握(考察)。

「文壇アイドル」と呼ばれるのは、1980年代から90年代を中心にマスコミの寵児となった村上春樹、俵万智、吉本ばなな、林真理子、上野千鶴子、立花隆、村上龍、田中康夫の8氏。


「これらの著作者がどのように語られ、受け入れられたか(またはおとしめられたか)を追い、彼らスターを生み出した背景について考えようとする。著者の言い方を借りれば、『作家論』論」 (アマゾン・コムの紹介文)

「書評・作家論からゴシップ記事に至るまで周辺の膨大な資料を渉猟し、1人の物書きをアイドルに作りかえる時代の背景に果敢に切り込む」 (MARCデータベース)

これによれば、林真理子氏と上野千鶴子氏は(結局は)同じことを主張しており(当時、両者は「アグネス論争(1987年7月、『週間文春』誌上で林真理子氏が歌手アグネス・チャンの子連れ出勤を批判、この件に多くの人が意見を表明、『参戦』し、『アグネス論争(1987、1988、−)』となる)」で対立したりしていて、共に“女性の主張”ではあるものの、正反対(両極?)のことを主張している、と思われていた)、「男性に受け入れられた(上野)か・られなかった(林)か」が違いなのだという(斎藤美奈子氏いわく)。


また、ねたみ・そねみ・しっと」を「解放」したのが林真理子氏の「功績」のひとつ、なのだという(斎藤美奈子氏いわく)。
 


32.

「そんなバカな!」 著:竹内久美子 文春文庫

2002年9月5日第17刷発行。1956年生まれ、1979年京都大学理学部卒、同大学院博士過程を経て著述業についた著者が、リチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子説」を敷衍して人の行動を解釈する本(の最初の1冊(?))。1991年3月発刊の本の文庫版。

竹内氏の本を読んで感じる“腑に落ちる感じ”は、「いぬ」「ブラブラバンバン」「花園メリーゴーランド」等の柏木ハルコ氏のまんがを読んだときと同じ感じ。

 


33.

「賭博と国家と男と女」 著:竹内久美子 文春文庫

1999年2月25日第4刷発行。1956年生まれ、1979年京都大学理学部卒、同大学院博士過程を経て著述業についた著者が、リチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子説」を敷衍して人の行動を解釈する本(の何冊目か)。1992年8月発刊の本の文庫版。
 


34.

「日本アルプスの登山と探検」 著:ウォルター・ウェストン
訳:青木枝朗 岩波文庫 表紙

1999年1月14日第3刷発行。 (今からみると) 「現在日本に存する山行きの感覚」に影響を与えた“3大山行き者の1人” と思われる イギリス人 Walter Weston が、日本の山をイギリスの人々に紹介した本。原題は「MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS」(1896(明治29))。

“お雇い外国人”または宣教師として日本に来た明治時代の他の多くの欧州人と同じように、ウェストンも日本で見た・聞いたことを自国(欧州)向けに本に書いた。ウェストンは、宣教師として来日した1888(明治21)年から1894(明治27)年にかけて、飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈を歩いた。その情景と、そこで抱いた感慨を著した。


“Japanese Alps” という表現は、明治5年に大阪造幣局の技師として来日したイギリス人ウィリアム・ガウランドが日本での登山体験情報を提供した「日本案内記」(1881(明治14)年発行在日欧州人向け情報案内誌。アーネスト・サトウ(1843(天保14)-1929(昭和4)、A・G・Sハウス共同編集)に「信州と飛騨の境にある山脈 は『ジャパニーズアルプス』と呼ぶのにふさわしい」と記述があるのが“命名”である、とされる。
ウェストンが「MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS」をイギリスで出版したので、この呼称が広まったのだ、といわれる。日本国内では、「MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS」に感銘を受けた小島烏水の山行きとその感慨の表明(文筆活動)によりさらに広まった、といわれる。烏水の著作は、「日本アルプス」4巻(1910(明治43)年-1915(大正4)年)、「山谷放浪記」(1943(昭和18)年)、「山岳文学」(1944(昭和19)年)など。ほかに「アルピニストの手記」等、30冊を越える。日本山岳会創立メンバー7人のうちの1人で、初代会長。


“3大山行き者” は Walter Weston(1861-1940)、小島烏水(1873-1948)、田部重治(1884-1972)の3人。それぞれ方向が違う。


“アルピニズム”について、本書の解説(青木枝朗)にこうある。
“十七世紀以来、英国の上流階級では、子弟の教育の総仕上げとして成人前の若者を大陸旅行(グランド・ツアー)に送り出す習慣があった。それはいうまでもなく、見聞を広め、旅先での危機に対処する勇気、才覚を養うためだったが、このグランド・ツアーの大きな収穫の一つとして、アルプスの雄大な景観と、この山脈を境とする南北のまったく対照的な気候風土、人文の発見があった。 (中略) 山を美しいものと見なすようになったのは、この時代に始まった新しい嗜好である(M・H・ニコルソン『暗い山と栄光の山』序論)。 (改段落) 十九世紀に入ると、ワーズワース、バイロン、シェリーらのロマン派詩人たちがしきりにアルプスを讃える詩を書いて、山に対する畏怖と崇敬、憧れ、山に接する歓びをうたった。 (中略) 風景を愛でる心が生まれたのはこの時代である。−「風景、風景って言いますが、私たちの若いころは誰もそんなことを言いませんでした」−ある分別に富む老婦人の言葉を耳敏く聞き留めたところに、第一級の自然詩人といわれるワーズワースの真骨頂があったといえるのかもしれない。 (中略) 英国本土にも山水の美がないわけではない。ワーズワースが「簡素な生活、高尚な思索」の場として愛した湖水地方には、氷河によって刻まれた深い湖や渓流があり、スコットランド民謡に歌われるロッホ・ローモンドや、スコットの『湖上の美人』で知られるロッホ・カトリンなどは、いずれも英国の誇る景勝である。ただ、山の高さとなると、ウェイルズのスノードンが1085メートル、湖水地方のスコーフェル・バイクが978メートルで、ネス湖に近いベン・ネヴィスの1343メートルが英国の最高峰である。 (改段落) アルプスを訪れた英国人の目を奪ったのは、モンブランの4807メートルを筆頭に四千メートル級の高峰だけでも二十座を超える膨大な岩の塊であり、陽光を受けてきらめく氷河の美しさ、肝を冷やす断崖など、均整と調和という伝統的な美の観念をうち破る荒々しいもの、歪んだもの、巨大なもの、またその崩壊のすさまじさであった。この景観の驚異をさらに味わい尽くそうとすれば、危険を冒して山に登ることになる。それはワーズワースやラスキンが志した観照的な態度とは異質な衝動だが、スリリングな歓びを前にして躊躇わないのもまた英国人の本性だった。 (中略) −「危ないことが好きなのはイギリス人に決まっている」−ウェストンがおもしろがって書き留めた地元の人の言葉から、当時のアルプスの雰囲気がそのまま蘇ってくるようだ。 (改段落) こうして十九世紀のスイス・アルプスは英国人登山者のメッカとなった。アルプスの主峰三十九座のうち、三十一座の初登は英国人によって達成され、最後に残ったマッターホルンの初登(1865年)に成功したのが、『英国山岳会会報』の挿絵の取材でアルプスを訪れた木版師エドワード・ワインパー(1840−1911)だったことは、アルピニズムの発祥が英国のピクチュアレスク嗜好(← debi注:風景を「風景」として楽しむ発想)とスポーツの結びつきによるものであることを端的に物語っている。”

 


35.

「アーネスト・サトウ 一外交官の見た明治維新」 上・下 著:アーネスト・サトウ
訳:坂田精一 岩波文庫 表紙

2003年4月7日第61刷発行。1843(天保14)年生まれ、スウェーデン人の貿易商を父に、イギリスの女性を母に持ち、ロンドンで生まれる。父の職業とナポレオンの興亡時代という当時ヨーロッパ情勢により、スウェーデン、ドイツ、フランス、ロシアと国籍や住所を変えて育ち、学業優秀につき16歳でカレッジに進んだ氏は、日本のことを書いたローレンス・オリファントの本に魅せられ、18歳でイギリス外務省の通訳生の募集に応募し試験に合格、希望通り日本へ向かう。通訳官・書記官として、オールコック公使やパークス公使の秘書として、「革命前夜の日本を縦横に活躍」した。1929(昭和4)年、没。

アーネスト・サトウの日本滞在は総じて25年におよぶ。氏は日本についてたくさんの本を著し、日本語の文献を英訳してイギリスで出版したが、本書はそのうちの1冊。1862(文久2)年に横浜に着き、1869(明治2)年に一時帰国するまでの7年間の体験・見聞録。ヨーロッパ人一外交官が見た、日本の明治維新の様子が描かれている。

 


36.

「山と渓谷」 著:田部重治 岩波文庫 表紙 表紙

2000年4月14日第13刷発行。1884(明治17)年富山県生まれ1972(昭和47)年没。東京帝国大学英文科を出て英文学者となり、19世紀英国の批評家ウォルター・ペイターや詩人ワーズワースを研究した。海軍経理学校ほか東洋大学、法政大学等で教鞭をとる。英文学関係の著作は、「ペイターの作品と思想」「中世ヨーロッパ文学」「我が散文詩」など。

氏が山行きとその感慨を著した文章は1919(大正8)年に刊行され(「日本アルプスと秩父巡礼」)、それは増補・改訂が続けられて1930(昭和4)年、「山と渓谷」として出版された。彼は“日本アルプス(偉大な山)”と並んで“奥秩父(緑の渓谷美)”の山に登り、その感慨を著した。


彼の著作「わが山旅五十年」(1996年2月15日初版第1刷発行平凡社)の“解説”によれば、彼は“アルプス”や“アルピニズム”という表現を日本の山にそのままあてはめるのに抵抗を示し、「只今のところ日本アルプスという名称によって総括されている山脈を概括的にあらわすべき適当な名称が無く、かつ今俄かに適当なる名称を創造することも出来ない為め」この言葉を使う、としている。
 


37.

機長からアナウンス」 著:内田幹樹 原書房 表紙

2002年6月6日第5刷発行。全日空でボーイング747−400等の機長を務めた著者が、スチュワーデスとパイロットの関係や、パイロットができるまで、こんなお客さんやあんなお客さん、飛行場のクセ、UFOとの遭遇?、車に例えた飛行機の機種毎のクセなど、民間航空機のパイロットの日常のあれこれを紹介する。
 


38.

「マイ・アメリカン・ノート」 著:筑紫哲也

○年○月○日第○刷発行。昭和10年6月23日生まれ、1959(昭和34)年朝日新聞社入社、1968〜1970年米軍統治下の沖縄特派員、1971〜1974年にワシントン特派員として米国に滞在した氏の目による、当時の米国についての感想をまとめた本。新聞記者として同時代に居合わせた沖縄返還交渉、ニクソン訪中、ウォーターゲート事件などを取材したそう。
 


39.

「マイ・アメリカ」 著:立木義浩 集英社文庫

昭和57年4月25日第1刷発行。1937年徳島に何代か続いた写真館の家に生まれ、1965年日本写真批評家協会新人賞を受賞し(て世に出?)た日本人写真家立木義浩氏が写真と文で描く、1980年頃のアメリカの姿。
 


40.

アメリカとアメリカ人」 著:J.スタインベック
訳:大前正臣 平凡社 表紙

2002年9月10日第1刷発行。 John Steinbeck の最後の作品 「America and Americans, The Viking Press, 1966」 の完訳。
1902年生まれ1968年没の氏は、晩年「アメリカとは何か」「アメリカ人とは何か」を追い求めた。1962年刊行でノーベル文学賞を受賞した旅行記 「チャーリーとの旅」 と共に、氏が描き出したところによる、1960年代半ばまでのアメリカの姿。
二つの世界大戦で多勢のGIが海外に派遣され、イギリスやフランスやイタリアの田舎に駐留した状況・経験を通して、「私は、アメリカの島国根性の時代は終わったと信ずる」(P166)という表明に少し驚く。「前だったら、いわゆるごりっぱなフランス人が、私がフランス語をうまく話せないことに唖然としたら、私は消え入るような思いをし、ごめんなさいという気持ちになったろう。いまだったらそういうときには、残念ながら私のフランス語はまだまだ改善の余地がありますが、フランス人が英語をおぼえようとしないのは、もっとずっと残念に思います、というのが私の気持ちであり、私の返事である。英語は、高貴な言葉であり、急速に普及しているのですよ、と」。


氏の有名な著書に、1939年37歳のときに出版した長編小説「怒りの葡萄」(The Grapes of Wrath) 、1952年50歳のときに出版した自伝的長編小説 「エデンの東」(East of Eden) がある。
参考:ジョン・スタインベックMidori's Room
 


41.

「日本滞在日記(1804−1805)」 著:ニコライ・レザーノフ
訳:大島幹雄 岩波文庫

2000年8月17日第1刷発行。通商を求めて1804年に長崎に来航したロシア全権大使レザーノフ(1764−1807)が記した日本滞在記。
レザーノフはラクスマン(1792年根室に来航、1793年箱館から帰帆)がロシアに持ち帰った信牌を携え、戦艦ナジェジダ号とネヴァ号を率いて、1803年6月首都ペテルブルグ近くの軍港を出航、大西洋を横断し南米ホーン岬を廻り、太平洋を渡ってハワイに寄港、1804年7月カムチャッカ半島ペトロパブロフスクに約1ヶ月とどまって準備をした後同年9月に長崎に到着、という長い旅を経て、日本との通商交渉を行った。しかし通商は開かれず、1805年4月長崎をあとにした。本書は1804年8月19日にペトロパブロフスクを出航してから1805年4月5日に長崎を出るまでの日記。


−ラクスマンの来航−
1751年伊勢国の南若松村の商家に生まれた大黒屋光太夫は、1782年12月、伊勢白子浦から千石積みの廻船に船員として乗り組み、紀伊家の廻米、木綿、薬種などを積んで江戸に向かった。これが途中で暴風にあって難破、翌年アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着する。その後帰国の途を求めてロシア人の助けも得て仲間と共にカムチャッカに脱出、イルクーツクにたどり着く。ここでシベリア総督宛に数度にわたって帰国嘆願書を出すが許されないでいたところに、エリク・ラクスマンという人物と知り合う。エリク・ラクスマン(1737−1796)はフィンランド出身の博物学者でロシア学士院正会員でもある教授で、学術調査(探検)のため1764年からイルクーツクに滞在していた。彼は日本の漂流民の帰国に尽力し、露都ペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世と謁見、エカチェリーナ2世はラクスマン教授の次男アダム(1766−1803)を遣日大使に任命して、光太夫・磯吉・小市の3名を1792(寛政4)年10月に根室へ護送、同時に日露の通商の開始を求めた。松前に移動して幕府の派遣使と交渉となったがそこでそのまま通商開始とはならず、しかし幕府は日本人の救出に感謝して長崎への入港を一度認める「信牌」(しんぱい、長崎入港許可証)を手渡した。アダム・ラクスマンは「今度は長崎へ入港する」ことを約束し、漂流民2名(小市は病死)を引き渡して、自身は長崎へは向かわずに、1793年8月、箱館から帰帆した。彼は「日本渡航日誌(1792−1794)」を著した。

 


42.

「ソヴィエト見聞録」「続・ソヴィエト見聞録」 著:大蔵雄之助 講談社文庫

昭和61年11月27日第8刷発行、昭和62年2月5日第4刷発行。1931年福岡県生まれ、ラジオ東京(現TBS)入社、報道部勤務、1976〜1978年特派員としてモスクワに赴任した氏の目による、赴任当時のソ連の見聞録。著書はほかに、「ブレジネフ時代の終り」など。
 


43.

「朝日新聞」 朝日新聞社 アサヒ・コム・パーフェクト

2003年9月29日「埼玉県版 田中康夫・長野県知事 注文 上田知事へ 理念実現する気概を」 と 同「天声人語 最近の言葉から」 は、天と地の必要性を対比する。

作家で長野県知事の田中康夫知事は言う。「リーダーが自分の取り巻きや都合、心地よさで政治を行えば腐敗するということです」「県民のためによりよき社会を実現する心根が常に求められます」。第二次世界大戦後50年経ってゆるやかな腐りが始まっている日本においては、「真摯な言葉」に感じられる。

作家ファン・ゴイティソーロは言う。「理念を掲げて戦う者はやっかいだ」「天に根ざす者は、地に平和をもたらさない(スペインの詩人の言葉の引用)」。アメリカとビンラディン、イスラエルとパレスチナの関係を思うとき、もっともだと思う。(“抵抗勢力”の人々もそう思っているかも。)

前者は(他)人を無視して自己の利益に固執する執念(姿勢)を問い、後者は(他)人(の命)を無視して理念に固執する執念(姿勢)を問う。
地に偏りが過ぎれば悪代官が生まれ、天に偏りが過ぎれば狂信主義が生まれる、のだろう。

人を動かす力社会を動かす力

 


44.

雑誌 「Flash」 光文社

2003年11月4日号(通巻796号,2003年10月21日(火)発売)の記事「“解任”に徹底抗戦する男の原点を入手!辞めない男 藤井総裁の満面笑顔薩摩人写真」に胸を打たれた。涙が出そうでさえ、あった。
少年時代の氏の写真が出ているのだが、その輝くような笑顔には、悪い気(配)が何も感じられない(!)。周囲で一緒に写っている人たちの顔々も(!)、(前向きな)いい顔をしている。同時に掲載されている、あるいはテレビで報じられる道路公団総裁解任騒動の顔とは、別人のようだ。西武ライオンズの松坂投手がプロ入りしてすぐの頃のインタビューで、「プロに入ってどうですか?」と問われて、「大人って、汚い」と答えていたのを覚えている。人が生きていくのは、大変なんだなあ。

↑こういう写真を見ると、木曜劇場「愛という名のもとに」(フジテレビ系1992年1月9日−3月26日夜10:00−10:54)は、人生の一面を描いたドラマだったんだなあ、と感慨(出演:鈴木保奈美・唐沢寿明・江口洋介・洞口依子・石橋保・中島宏海・中野英雄、脚本:野島伸司、プロデュース:大多亮、主題歌:「悲しみは雪のように」浜田省吾、参照:ポニーキャニオンオンラインショップのページAmazonのページ)。


ブラックジャックによろしく
 


45.

「日本遠征記(一)」 ペルリ提督 編:フランシス・L・ホークス
訳:土屋喬雄・玉城肇 岩波文庫

1948年8月15日第1刷発行、2003年6月6日第10刷発行。アメリカのペリー提督が1852年、1853年、1854年の三度にわたって中国・日本周辺に来航した際の記録。ペリー提督の要求・監督の下、提督自身および乗組士官たちの覚書・日記を基にフランシス・L・ホークスが編纂した。原本は合衆国第33議会第2開期中に特殊刊行物第97として1856年春に印刷された。標題は「Narrative of the Expedition of An American Squadron to the China and Japan etc.」。序論にて日本の歴史、地理、政府、宗教、鉱物誌、ポルトガル・オランダ・イギリス・ロシアと日本との関係、などについて述べられているが、その観察眼は驚くほど冷静。
この認識によれば、言語的に日本人(語)は韃靼人(タタール人)が日本列島に流れてきて住み着いたものである可能性が高く、秀吉の時代にキリスト教が弾劾され禁教されるに至ったのは、フランシスコ・ザビエルの後、続いてやってきたポルトガル人達自身の仕業(倨傲、貪欲、因業)によるものとされる。

 


46.

「PPP45」 2004.MARCH
DREAMS COME TRUE FAN CLUB ISSUE

2004年3月版。POWER PLANT PRESS 45。
P2−15の "LOVE OVERFLOWS -ASIAN EDITION-" SPECIAL LONG INTERVIEW は、上記2.「ホール&オーツ」(1984年初版発行)の続きのような物語。ニューヨークのミュージック・シーン、そこで仕事として音を作っていくことと、ミュージシャンが自分の音を求めていくことの姿。
歌い手が吐いた言葉、それがメロディになりリズムになること、ポップミュージック(というか音楽そのもの?)の真髄、ドリカムは偉大だ。
一方、1984年のホール&オーツの訴えとこれによれば、ビジネスとしての傾きをドライ、作家のロマンティックな部分を探り当てる作業をウェットとするなら、ニューヨークのミュージック・シーンは、よりドライな方へ傾き行くようです。(利権のためなら戦争を厭わない精神の拡大と同傾・同根であるような)。それが少し懸念されるところ。その意味では、このままでは数年後は日本のミュージックシーンの方がすごくなるかもしれない。というか既に、だから90年代以降“全米ヒット曲”はすごくなくなちゃったのかもしれない。90年代以降は、J−POPの方がすごい。輝いている。そして、その商売の在り方の部分では(売る方ではなく作る方)、日本が後追いしないことを望みます。

 


47.

「フライトアテンダントのちっとも優雅じゃない生活」 著:レネ・フォス 訳:佐竹史子
ヴィレッジブックス ソニー・マガジンズ
Around the World in a Bad Mood by Rene Foss translation by Fumiko Satake

2004年6月20日初版第1刷発行。アメリカはミネソタ州ミネアポリス出身の著者が描く、米国でのフライトアテンダント(スチュワーデス)の生活。
実生活としてじつに共鳴して読める。
(こんなに共鳴して読めるということは、)21世紀初頭、米国と日本の生活の様式(様態)は酷似して(きて)いるのかな(人々は日々やさぐれている。あるいはやさぐれていることが、生きていく必須条件になっているとさえ思える状態・雰囲気に満たされている。やさぐれていない人は、あるいはそれを目指す人は、取り残されていくみたいだ(な雰囲気))。
あるいはそれは、ここ10年の日本(社会)の険悪化は、日本のバブル期以降に押し寄せる、「どうしちゃったんだアメリカ」の「『グローバリズム』の浸透」によるものである、だから日々の生活への感慨が同じになる、ということなのかな(2004年記)。
実際アニメ「サザエさん」(一家の日常生活を含め)のマスオさんやお父さんの会社員生活の描写は、(アニメ登場)当時の社会にはアニメにあるような穏やかな「ムード」があった、ということなのかな。それとも、(当時においても)アニメ製作者たちは(が)(たんに)「ロマンチスト」だった、ということなのかな。
そのような思い巡らしを、本書の著者レネ・フォス氏も、((母親の)日記による)同じフライトアテンダント(スチュワーデス)だった母親の時代についてしている。

 


48.

「JAF Mate」 2004年10月号

P30。スムーズ・ドライビング講座。
「(前略)車線変更したいと思ったら、最初にするのは『ウインカーを出す』こと。しかし、これをしない人が多い。その理由は意地悪をされるからだ。ウインカーを出した途端、合流される側の車が急に加速してきて入れてくれない、ということがよくある。だから、辺りの様子をうかがい車線変更をすると同時にウインカーを出したりするのだ。(中略)私は毎年ヨーロッパで数千kmは走るが、こんな意地悪をされたことはない。逆に、入れてくれようとすることが多い。この文化の違いは非常に残念だ。(後略)」
こういう種類の意地悪は、日本文化の一側面だったのか(な)。ニューヨークも車は互いに入れないというが、互いにぶつけあってでも、ということだから、上記のそれとはまた違う気持ちなのかな。

 


49.

「日本奥地紀行」 著:Isabella L. Bird(イザベラ・バード 1831-1904) 訳:高梨健吉
平凡社

平凡社ライブラリー。2000年2月15日初版第1刷発行。原書は1885(明治18)年に出版されたIsabella L. Bird氏の Unbeaten Tracks in Japan (日本の未踏の地)。日本では最初、1973(昭和48)年10月に平凡社の東洋文庫より刊行された。
イギリス生まれの氏は、明治11(1878)年6月から9月の3ヶ月間、東京から北海道まで旅行(探検?)した。本書は、その旅行記。
(まだ途中まで(第7信まで)しか読んでいないが、これがこんなにきれいだ、あれがあんなに雄大だ、という感想が2004年末に読む日本人私が共感できるのはなぜ?(2004年記))。

 


50.

「ブルーノート・レコード」 著:リチャード・クック 訳:前野律 監修:行方均
朝日文庫

2002年12月30日初版第1刷発行。1909年にベルリンに生まれ、ダンス・オーケストラ、ラグタイムやジャズ、ブギウギに憧れ、1925年(16歳のとき)にドイツに来たサム・ウディングのバンドでアメリカの黒人が演奏するのを初めて生で聴いてとりこになり、1928年(19歳のとき)にニューヨークに渡り、紆余曲折の後1937年(28歳のとき)にニューヨークに移り住んだアルフレッド・ライオン(Alfred Lion、1909−1987)。

そのアルフレッド・ライオンとマックス・マーグリスという人物が共同経営で1939年(30歳のとき)に創立したジャズのレコード・レーベル「ブルーノート・レコード」(−1979)の物語。

1985年2月22日、ニューヨークにてアルフレッド・ライオン親臨のもと「ワン・ナイト・ウィズ・ブルーノート」が催され、1986年、またアルフレッド・ライオン親臨のもと「マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル」が催された。「日本の聴衆はジャズをよく知っていて、このイベントがいかに特別なものかわかっていた。集まったバンドがソニー・クラークの<クール・ストラッティン>の最初の数小節を演奏し始めると、聴衆のあいだに一斉にどよめきが走り、あっけにとられた奏者たちが音をはずしかけたほどだった」。1987年2月2日、アルフレッド・ライオンは引きこもり先のカリフォルニアで他界した。「最晩年には、自分の偉業がついに認められたのを実感して、ライオンは世を去ることが出来たのだった」。

 

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