○社会を動かす力
 
 人を動かすもの。ひとつの個体におけるそれは、欲求である。では、観察する眼の照準を社会の動きに据えてみると、人々の欲求を魅きつけているものは何だろうか。関係を作り出しているものは何だろうか。

 それは経済の力、生身の力、原則の力の3つに大別できる。

 まず経済の力。これは関係を作り出す上で最も根源的なものであり、最も強く働く力である。経済の作用とは生命の作用そのもののことだ。生物とは物質とエネルギーの転換系のことであり、その作用を経済と呼ぶ(下記図参照)。

 <図:光合成と呼吸の化学式

 個人・法人においておカネの流れが動かなくなったとき、これをその人が破産したといい、生物個体において物質とエネルギーの還流が止まったとき、これをその個体が死んだという。熊が冬眠の前に食物を大量にとって脂肪を蓄えるのも、個人・法人が財産を蓄えるのも、ともに流出入の流れを途絶えさせないための方策であって、蓄えることそれ自体が「生きていること」ではない。
 どんなに素朴でノーマルな方法であっても、どんなに奇怪でアクロバティックな手段であっても、物質とエネルギーの転換が行われていること自体、その流れが維持され太くされ増殖されていくこと自体が「生きていること」「強く生きること」「命を引き継いでいくこと」であり、生命現象そのものである。社会が生き、活動しているということは、すなわち経済が動いている、作用しているということである。したがってこの経済の力は関係を作り出す最も根源的なものであり、最も強いものとなっている。

 関係を作り出す次に根源的で強い力は、生身の力である。生身の力とはすなわち、個人と個人の力関係、相手を楽しませる能力、相手に耐える能力、肌合いが合うか合わないか、波長が合うか合わないかなどのことだ。
 純粋にこの力について知るには、経済力を自身で生んだり維持する活動をしていない状態の集団、何かをしますよという目的集団を自ら作りそれを社会的立場にしようとする活動をしていない状態の集団、たとえば小学校の学級の様子を観察するとよいと思われる。
 この力によって関係が出来て枠組みが出来ることもあるが、それはより範囲が小さく移ろいやすいもので、多くの場合、ほかの力によって紡がれた枠組みの中で作用することが多い。しかしこの生身の力は、関係を作り出すうえで経済の力に次いで根源的なものであり、強い力である。

 最後に来るのが原則の力。これはある人にとっては宗教かもしれないし、ある人にとっては職業・社会の中での役割であるかもしれないし、ある人にとっては信念や信条や思想であるかもしれないし、またある人にとっては何か楽しみであるかもしれない。
 目的集団の目的。大義名分。錦の御旗。旗振り者の旗。この力は関係を作り出す力の中で最も弱いものとなっている。


 社会が動いているとき、団体が活動しているとき、関係が回転しているとき、この3つの力が調和していることが望ましい。実際にどの力が中心となって動いているのか、本来どの力が中心となって動くのが望ましいのかは、それぞれの集団なり関係なりの実際または性格によって異なる。
 けれども、どの力かが肥大したり、逆に衰退したり、3つの力のバランスが崩れると、その団体なり社会なりは健康な状態とはいえなくなる。


 ここに、仮に『地震予知研究所』なる組織を想定してみよう。この研究所は、一般の企業からの資金提供を主な財源とし、予想される東海大地震を予知すべく、日夜研究に取り組んでいる。集められた学者・職員は100人余りである。(※ここで挙げる組織は実在の同名・類似またはいかなる組織・団体とも関係がなく、3つの力を説明するための架空の話しである。)
 彼らの目的は地震を予知することで、そのためにひとつの組織として集まり、働いている。地震計の技術者はより微細な振動をより正確に捉える器械を作ることに懸命だ。地質学者は地震のメカニズムの解明と、どこにどういう測定器を設置すれば良いかを知るために努力している。コンピュータ技術者はどういうデータをどのくらいどこで得て、どのように処理すればいいか、関係者と連係してプログラム作りに励んでいる。彼らの努力によって、大地震の被害は最小限に食い止められるかもしれない(原則の力)。
 この研究のためのメインの資金提供者は、『住菱』と『三友』だ。施設の建設と設置費用、施設の維持・運用費、職員や研究者の人件費など、相当な経費がかかる。『住菱』と『三友』はこの経費を賄いその活動を維持し、同時に技術のフィードバックと自社のイメージアップを図っている(経済の力)。
 この『地震予知研究所』の活動は、在籍する職員や研究者達にとって日常であり、社会生活である。日々の生活があり、楽しみがあり、苦しみがある。好きな人もいれば、虫の好かない者もいる。尊敬できる人物もいれば、どうにも蔑んでしまう人物もいる。そういった中で、上司として同僚として部下として関わっていく(生身の力)。
 3つの力がバランスよく調和していれば、この活動は合理的で、スムーズに上手く行く。ところがこれがバランスを崩したらどうなるか。
 経済の力が肥大化すれば、『地震予知研究所』は主体性を失い、すべて『住菱』と『三友』の意向で動くようになる。東海大地震の予知が目的というよりは、それに名を借りた『住菱』と『三友』の利益追求団体に変わる。あるいは、職員・研究者の個々人あるいは特定の個人の収入の増大が第一義になり、“地震の予知”など、“どうでもよく”なる。
 生身の力が肥大化すれば、派閥争いがこの組織の主要行動原理になる。地質学者としての能力やコンピュータ技術者としての優劣とは関係なく、味方を集める才覚を持ち敵を陥れる策略に長けているものがボスとなる。競争の軸(スケール)に地震予知や予算獲得が入っていれば、それは健全な活動だが、派閥争いそのものが構成員にとって主要関心事となれば、それは『地震予知研究所』にとって生身の力の突出である。
 原則の力が肥大化すれば、教条主義や狂信主義に陥っていく。予算を度外視した研究計画を立てたり、職員や研究者の体力や感情のキャパシティを越えた研究活動に猛進しかねない。


 3つの力は、バランスして働いていることが望ましい。バランスである。これがどれかが過剰に肥大したり、どれかが過少にないがしろになった状態になると、その団体・組織・社会の活動はバランスを崩し、現実から乖離し、不合理なものとなっていく。


 社会を動かす3つの力は、もともとは経済の力がもっとも強く、次いで生身の力が強く、原則の力が最も弱い。しかし『地震予知研究所』を想定して想像してみたり、現実の政治(国政や地方政治)や行政、経済社会を見渡してみると、経済の力と生身の力の肥大による弊害は世界中で見られ、原則の力の肥大による弊害は世界各地で見られるが日本ではあまり見られない状態となっている(と思われる)。これはなぜだろうか。
 その理由は、日本の歴史にあると思われる。「日本」という存在が脅かされた経験が少なく、占領され踏み付けにされた経験はないという「日本」の歴史である。この歴史から、「日本」では「天皇」以上のイデオロギーは生まれなかったし、異なるイデオロギー間の深刻な争いも生じなかった。「日本」の自己表現は「天皇」以上のものはないし、「天皇」以外のものは今のところない。「天皇」は充分に今の私(達)を表現し、かつ「天皇」を自己表現としない者にも充分にやさしいものになった(っている)だろうか。あるいはこれから、「天皇」を越える自己表現を、「日本」は生むのだろうか。はたまたは「天皇」をも含む、何か新しい「日本の表現」を生み出すのだろうか。
 
日本の表現へ
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元版1990−1991
本版2003