< 本を読んで思ったこと >
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本そのものの紹介については、 腑に落ちた本 へ。
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腑に落ちた本へ |
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「スカートの下の劇場」P114 - 121
たとえば親しい女友だちが非常に悲しんでいるとき、私が彼女をどんなに抱きしめて慰めてあげても、女というだけで彼女の核心に届かないというときに、マラ一本あればすむな、男に抱かせるのがいちばんだな、と思うときがあります。そのときに自分の男を貸し出してやりたい、それですむならいくらでも貸してあげる、それで幸せな気持になるんだったら、私を幸せにしてくれた男だから間違いない、そういう気持があります。ほんとうに嘆き悲しんでいる女には、なにか内側に入り込んでくれるものがなければどうしようもないときがあって、女の私にはできないけれど、男だったら、と思うからです。
「男流文学論」P289 - 293
上野:個々のエピソードは、あのとき、このとき、というふうにちゃんとちゃんと実在のモデルがいたんだろうなと思わせるリアリティがあります。さっきの例だって、高校生ぐらいの女の子がね、あのとき、淋しくて彼に抱いててもらいたかっただけなの、セックスしちゃったのはほんのはずみだったの、みたいなことってよくあるでしょう?あのぐらの年齢の女の子たちが、そのとき男の子にしがみついていたいというときの気持ちって、性欲とか肉欲とかじゃないですからね。
富岡:なんなの、接触欲?
(中略)
上野:すごくナチュラルなんです。
小倉:すごくやさしいしね。女性的な感情をよくわかってくれるし。
上野:自分が完全に受け身にまわって客体になってくれる。あなたのリクエストに応じますって。
富岡:それ、男をばかにしているじゃないですか。女でもそうだけど、自分が甘ったれたいだけで人に抱きしめてなんていうの?淋しいの、じっと我慢すればいいじゃないですか(笑)。
上野:ちょっと待ってください。我慢すりゃいいじゃないのって、これまで男のほうは我慢せずに、ご都合主義で女を抱いてきたわけでしょう?今度は女のほうも、我慢せずにご都合主義で男に抱いててもらいたい。
富岡:なんで自分で我慢しないの?幼稚なの?
上野:強くないからですよ。だって、人間の弱さを描くのが小説でしょう。強さを描いたって物語にならない。
富岡:まあ、小説の話はちょっとおいといて、いまそういう子が多いわけ?
上野:おばさんもそう。三十過ぎててもみんなそうだと思う。抱いててほしいっていう。
富岡:ウーン。どうして幼児のように他人に抱っこしてもらわなきゃすまないの?それに、そういう場合、なぜ女同士じゃいけないの。女はなぜ需要がないの?
上野:それは、異性愛の神話が強いから。
富岡:男ならいいわけ?ホモの男でも。
上野:そう。でも、男の弱みにつけこんでいるのはたしかだと思いますよ。女だったら相手を尊重しなきゃいけないから、そういうふうに自分勝手な頼みを人に押しつけちゃいけないという自制心が働くかもしれないけれども、男の異性愛にはつけこめる。だからこそ、ショートケーキを買ってきてもらっても放り出して、「私はこんなもの欲しくなかったの」って、男にだったら平気で言える。
富岡:私、その媚態が不愉快なのよ。
上野:それは、この小説が不愉快というのじゃなくて、いまの女が不愉快だと言っているのと同じでしょう。
富岡:要するにむちゃくちゃ言ってみたいわけでしょう。むちゃくちゃ言っても、そのむちゃくちゃを責めないで、ハイ、ハイ、みんなぼくが悪かった、電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんなぼくが悪かったんだよ、って言ってほしいわけね。そして、いい子、いい子、気が立っているんだから、ゆっくり寝たら、なんていって、頭撫ぜて寝さしてくれるようなことを要求しているわけ?
小倉:そうそう、そういう男の子がいたら最高。
富岡:ふーん。男はそれを要求していないの?女に。
小倉:いままでずっとそんなんやってきましたから。
富岡:もちろんそうですけど、いまの男の子はどうなの?
上野:力関係が逆転しましたから。
小倉:そんなの望むべくもない。
上野:望んでも聞いてもらえないと、諦めているんです。
富岡:女だけがそういうふうにやっている。
上野:男につけこんでいる。
富岡:私、あんまり好きやないな。
小倉:なんでそんなに。近親憎悪ですよ、緑に対する。富岡さんも、御主人にそんなこと言うてはりましたやんか。
富岡:アッハハハハ。
上野:内ゲバはやめようよ。
富岡:アッハハハハ。小倉さん、突然そんな変なこと言わないで。いつ言ってた、私?
小倉:言うてましたよ、ここで。偏頭痛がする時、相手が熱いタオルで温めてくれる。徹夜で何べんでもタオルは替えてくれるけど、それでもまだ気がきかん。
富岡:それは病気だからしょうがない。普通、そんなことやってくれって言いませんよ。
小倉:だから女の子は今みんな病気なんですよ。
富岡:ああ、そう。何が原因で?
小倉:この社会が原因で。
上野:女という病気ですよ。私は女という病気だから、あなたは私を看病する義務がある。なぜなら男だからと言ってるんです。
小倉:そう。同じ病人である女の子に向かって看病してって頼むのは失礼でしょう。
富岡:そらそうやね。そんなに病状が深いんですか。
小倉:危篤ですよ。
上野:この点は小倉さんと一致するのね。富岡さん、なにをいまさらカマトトやってるんです?
「増補<私>探しゲーム」 P247 - 249
脱がされたい女心の反映か、シルク・ランジェリー・ブーム 1988・12
−ウーン、つまんない。デートに行く前“予感”があったから、彼がプレゼントしてくれたシルクのパンティ、たんすの奥から引っ張り出してはいていったの。なのに彼ったら、あせりまくっちゃって、パンストごとパンティ脱がせたら丸めてポイッ、よ。ほら、男のくれたパンティって、まるで貞操帯みたいな感じってあるじゃない。彼のくれたパンティはいて、彼に会いに行くなんて、「気分はまるで処女」だったのになあ。終わった後、床にころがっているパンストつまみ上げて、そこからパンティ抜き出して「覚えてる?これ、あなたがわたしにくれたパンティよ」もないじゃない?シラけちゃって、言わずに帰ってきちゃった。というのは、R子の述懐。
私は返答に詰まって、こう言うのが関の山。
−でも、まあ、彼があなたのパンティにじゃなくて、パンティの中身に関心示してくれてよかったじゃない。(と、ここまではハヤシ・マリコ調かしらん?)
このところ、シルク・ランジェリーがブームである。西武百貨店池袋店の下着売り場では、昨年10月に売り場を改装して、シルクの下着の販売を強化、今年10月までの一年間の間に、昨年同期比三倍増に達しそうだという。下着全体が好況というわけではないから、シルク下着の伸びは目ざましい。アイテム別では一位ショーツ、二位スリップ、三位キャミソールの順。シルク・ショーツは、他のアイテムに比べると、何といっても安い。売れ筋は4000〜6000円前後。折からの中国ブームで、中国産の安い絹が上陸してきたことと、「洗えるシルク」が開発されたことが拍車をかけた。いくらなんでも、パンティまでクリーニングに出すわけにいかないもんね。このところ、ファッション業界は飽和気味。アウターは洋服だんすにあふれ、インナーも色とりどり。「誰でもひとつは欲しいですね」の基礎アイテムの“最後の秘境”がシルク・ランジェリーだった。ブームを支える購買層も、くろうと筋からしろうと筋へ。シルク・ランジェリーといえば、これまではお水っぽいお姐さんが男性にねだって買ってもらうイメージだった。男にとっても、おヨーフクより安く、その上、あからさまに性的なメッッセージを込められるとなれば、めっけもの。それがこのところ、キャリアOLや主婦など、しろうと女性が自分自身のために買って行く。−何てったって、肌ざわりがバツグンよね。という彼女達が、その高価なシルクのパンティを脱がしてくれる男の手を想像していないかといえばウソになる。そこには、高貴なシルクに包まれた価値ある自分のボディ、というナルシシズムもあるし、男がふと手を止めて、「これってシルク?」と尋ねた時に、「そうよ」とニッコリして、それほど値打ちのある女に相手が手を出していることを知らせたい自己満足もある。だが、残念ながらこれは女の思惑違い。たいがいの男は、女の下着になど関心を払わない。彼らに興味があるのは、その中身だけだからだ。考えてみるといい。男がパンティを脱がす手をふと止めて、「これって肌ざわりがいいね」と呟きながら、際限なくシルクの下着をなで回すとしたら、そっちの方がよほど気持ち悪くないだろうか。とはいえ、シルク下着は、女のナルシシズム・マーケットをくすぐってまだまだ伸びるだろう。しろうとの女が、パンティを脱がす男の手の前に、いつもオープンになったという証だろうか。シルク・ランジェリー・ブームに私はフクザツな心境である。
debi :
「男女平等」とは、男女が互いに尊重し合える価値(観)を作っていこうということ?それとも、必ずしも互いに調和しない欲求を満たすために、それぞれ
のして いこうということ?前者だったら価値(観)を共に作っていくのが道だろう。後者だったら、女・男とも負けてはいけない。より本能で(人生を)闘っていかなければ。
男女の気持ちは、一致して合すれば、これ以上のものはない、といえる幸せなこと(なのかもしれない)。でも、「相手の気持ちや場の状況を無視した見る・触る」と、「相手の気持ちや場の状況を一顧だにしない見て・触って」は、ちょうど対称するセクハラ(性的ないやがらせ)だ。「金やなにか力を笠に着た見る・触る・((他)人の気持ちを無視する)」と、「見(せようかな)・触(らせようかな)を笠に着た金をせびる・(労)力をせびる・((他)人の気持ちを無視する)」も、対称するセクハラ(性的ないやがらせ)だ。いやがらせや犯罪は世の中からなくなりはしないだろうが、そういう振る舞いはそう振る舞う人(発)のいやがらせなのだ、という認識(価値(観))は、世に漠として浸透することがあっていいと思う。
これ、堅いかな?TPOや限度をわきまえていれば(男ではたとえば高樹 洸の WebColumnの一節, 女性では女神に見えるのか、きれいな人・かわいい人と見られるのか、(この忙しいときに)邪魔(ばかり)しやがって、(俺に)恨みでもあるのか(このやろう)、と思われるのか、果ては西太后みたいな権化になるのか,
(相手の気持ちや場の状況を)無視する、一顧だにしない、などのピーキーな、極限に振り子を振った振る舞いでなければ)、男女のコミュニケーションの部分でもあるしね。
でもたとえばだけど、勝手に想像する陽気なイタリア人のような、女と見れば「きれいですね!」と口説いて歩く男と、およびでない男が声をかけてきたときには「あ〜ら、ありがとう!
have a nice day!(←なぜか英語?)」とかわして歩く女の人の組み合わせ、というような明るい雰囲気は、 20世紀末−21世紀初頭の日本 にはないよね。(←それに比べると、男女ともひとりよがりな、陰険な、険悪な内気な雰囲気(※)がある)。
「週刊文春2003年12月4日号」 P95 “ショッピングの女王 中村うさぎ ブスのくせに!” にこうある。
女が他の女を「ブスのくせに!」と言う時、(中略)心の底から、ブスを軽蔑しているのだ。偉い評論家だか人気タレントだか知らないけど、ブスはブスよ、女としての価値は私より下だわ、と、このように(女が女を:←debi注)ジャッジした結果、(中略)「女としての価値もない者が、この私よりも偉そうな顔をするのは不愉快である」、とこう(女は:←debi注)思ってしまうのだ。(中略)何故なら女たちにとって、「美しさ」は、知性も育ちも性格も凌駕するほどの至宝だから。(中略)しかし、この「美貌は女の至宝なり」という価値観は、どこでどうやって植えつけられたんかのぉ。そして、女の至宝が美貌なら、男の至宝は何なのだ。(以下略)
debi :
思うには、それ(価値観↑)は「植えつけられた」んじゃなくて、「女が自らの内側から発する」欲求なんじゃないのかなあ。「女」としての欲望は
「→私←」 だが、「男」としての欲望は 「←私→」 なのだと思う。だからたとえば、「あの綺麗な女が手に入らない!」と男が激怒することはあっても、「あの綺麗な女が自分を見ない!」とは思わないんじゃないか。「ナルシス君」と呼ばれる種類(分野)の人達を除いては。
(「女」としての欲望は、それすなわち “家族に価値の重きがある場合”の“母の強さ”(の源)なのだ(だったのだ) と想像する。)
※勝手に想像するイタリア人のような陽気で外向的で大らかな精神とは正反対の、内気な精神に特徴的な、他人とのコミュニケーションを求めているわけではない他者へのアプローチ。しかも小ずるく、「物理的」でない「言葉による拳」は暴力ではない、さらには言葉ですらない「仕草による嫌味の投げ付け」は暴力ではない(※※)とでも主張するような、計算高く立ち回る陰険さ(後ろ暗い不気味な精神)。ときおり背筋が寒くなることすらあるこの不気味な陰険さはいったいなんだ??!(゜o゜)
他者を傷つけないではいられない(八つ当たりのような、ある意味で、その他者に甘えすがっている and/or 求めている)ほどの不幸や欲求不満の類を行為者は抱えているということ??乾いている、あるいは水が注がれてもまだ足りない、あるいは水の質が悪くて潤され(足りてい)ない、という欲求不満を抱えているということ?そういえば、(満ち)足りている個人/瞬間はそんなこたぁしない、となにかに書いてあった。
※※「他者を傷つけようとする意図」イコール「暴力」で、火器か刃物か拳か言葉か仕草かは「手段(方法)」が違うに過ぎない。効力も、左記の並びで左ほど高い、とは必ずしもいえない、と最近認識され始めている。むしろ、悪質さや陰険さ(内気さ)は右に行くほど深い、とも言える。
暴力の行使者の心(人格)は、自分が今した行為によって目の前で苦しんだり傷ついたりしている人を見て内心衝撃を受けたり困惑・罪悪感にかられる「まともな心」か、見て心に満足感が広がる「酷い心」か、のどちらかか。ハリー・ポッターでいう光と闇?
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ねたみ |
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「若者たちの大神」
劇作家 山崎正和氏 の発言の中にこんなものがある。
「大衆社会で一番怖いのは、平等化からくるねたみだと思う。ねたみというのはね、上下の差が小さくなったときに起きるものです。それに、ねたみはいわゆる公の憤りと非常にくっきりとした違いをもっていますね。これは、たとえ自分のほうに落ち度があると知っていても起こる感情なんです。しかも、これは、ほうっておくと無限に自己増殖するんですね。大衆社会が退廃していく最初のきっかけはねたみなんです。この感情だけは、どうしたらいいのか私には分かりません」。
ねたみの感情そのものが悪いものだとは思わない。
「『ウサ』を感じない人などむろん一人もいないだろう。かりに『ウサ』など知らないなどと言う人がいたら、その人は普通の人間ではない。いや人間とは言えないかもしれない。感情のない人間といえるかもしれない。それは劣等感のない人間、嫉妬心のない人間が人間とは言えないのと同じである。(改段落)その誰でもが持っている『ウサ』を晴らすにはいかにしたらいいか(以下略)」(「心のウサが晴れる本」斎藤茂太 1992年11月16日第1版第1刷、2000年8月10日第1版第44冊発行)
ただ、ねたみ(という感情)が個人の、あるいは社会の、主要行動原理になったとすれば、それはその個人または社会(の精神)が退き廃れていく動きだろう。
ねたみにはまっている最中、人は、自身と他人を見比べ、上に見える人を許せず、下に見える人に悦に入るという価値判断がメインになっている。自身が自身に向かって満足できるか、恥ずかしくないか、という尺度ではなくなっている。神との対峙の伝統がなく、加えて生活の知恵としての価値規範まで失われてしまった(かもしれない)戦後日本社会は、ねたみが浸透する素地いっぱいだと思う。足りないのは、自分は自分、他人は他人という自律感と、その上での他への想像力、そして先へのビジョンだと思う。GLAYのTAKUROは「アジアに行って感じたのは、『目指すものがある』という国の国民が持つ強さ。そういう意味では『日本はゆるやかに滅んでいる』と思います」と世の中の感じを述べているし(週間「プレイボーイ」2001年7月31日号)、21世紀初頭、日本、このままじゃ、やばいんじゃないか。
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野球(2003) |
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2003年のプロ野球(日本)の終盤は、城島・井口・松中・小久保・ほかの王ダイエー・ホークス、星野阪神タイガースの対決で盛り上がった。
でも一方、 (マスコミ全般で伝え聞くところによる) 巨人の三山球団代表vs原監督で原監督引退、阪神の久万オーナーvs星野監督で星野監督引退、ダイエーの高塚球団社長vs小久保選手で小久保選手無償トレードの出来事があった。
2003年11月4日(火)付トーチュウ1・2面は、野球(界)に関する今年3回目のがっかり。
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野球(2004) |
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2004年のプロ野球(日本)の清原選手の去就騒動。
巨人の監督堀内氏の振舞い・思考・発想は、ちょうど同じ頃に起きているサッカー日本代表のジーコ監督の思考・発想(功労者としてカズやゴン選手たちを讃え、その恩に報いようとした)や、その案を支持した川口キャプテンの振舞いとちょうど正反対だ。
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腑に落ちた本へ |
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