第九回 死後の世界に行ったの・・・ってホントか?(後編)

さぁ、先月の続きです。1月たったから私自身何言ってたのか忘れ・・・あ、いやいやちゃんと話をしてシメますんで大丈夫ですって。じゃあ続きいきますかっ!ーえーと前回のヤツチェックチェック・・・。

前回は、死んだら思考をするための機能が思考の動きをしなくなる訳だから、自分の意識に訪れるモノは全くの「無」であるという話をしたわけですね。で、死後の世界はまったくもってうそっぱちなんだ〜、と問題が持ち上がったと。さて、その真相たるやいかに・・・?うーん空想科学ぅ。

そもそも人が誰かに死後の世界の存在を語るというのは、想像で話すのでなければ、その人の臨死体験に基づいているモノと考えるべきでしょう。臨死体験・・・人が死にそうになって意識がないときに感じる体験、というわけですが、今にも死にそうな状況、これには色々な状況があるわけですけど、意識がない時に何かを感じるという状況・・・これって何かと似ていると思いませんか?そうです、夢を見るという行為、コレと似ているのではないでしょーか?
以前(第7回だっけか)に夢について話したわけだけど、夢を見るのは脳の神経信号の動きであると語ってたハズ。今、人が死にそうなもしくは死んでしまってしばらくな時の体の状況を考えてみると、頭が思いっきり吹っ飛んで信号伝達が出来ないという状況で無いのならば、心臓が止まったとか、もう動くことはないとか、目が死んでいるとかいったコトで”死んだ”と考えられるわけで、この時意識をつかさどっている脳内は慣性の法則のごとく動いていると考えられるのではなかろーか?ということは脳がまだ働いているわけだから、信号が飛び交ってこの状態で意識を感じることができる考えられるのでは?つまり人が死んで(意識が無くなったり、しゃべらなくなったりの後)脳の動きが完全に無くなってしまうまで、脳の神経信号の動きがあれば、体感するモノがあると考えられるというわけです。このことがあってから奇跡的に助かったとすれば、この体感が臨死体験であると考えられるのですねぇ。

うーん・・・何か話が分かりにくくなってるやうな・・・。結局今までの話を総括すると人は死ぬとその意識は全く「無」となるわけで、死んだ後だと感じてるのは夢を見るという行為みたいなものであると。じゃあ結局死んだ後は自分自身は何も残らない・・・と考えるのはあまりにロマンがないというやつですよねぇ。自分を構成している粒子たちはいろんな所に移って行くわけだし、その中で意識を構成している情報系部分の設計図というモノが(体を形作るという遺伝子の類というやつですな)さらに小さく分けられないうちは、それがどこかに移って新しい意識の元になると考えることもできるのです。うーん、前世とか来世という考えもあながちウソではないかも・・・?

今回は思いついたコトをどんどん言っていったという感じだったなぁ・・・かちこちぃ〜


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