<テレビ番組について>

 
気に入っている(よく見る)テレビ番組です。
 
 


1.

晴れたらイイねッ! (フジ系 日曜朝7時)

フジ日曜朝7時からの “自然の中で(大人が)遊ぶ” 番組。
若手さんからベテランさんまで、フジテレビのアナウンサーさんが、身近な自然の中で遊ぶ。1994年10月放送開始。2007年3月25日放送終了。

記憶と把握に間違いがなければ、1981年放送開始・1996年3月に終了した世界のあちこちを紹介するクイズ番組 「なるほど!ザ・ワールド」 で “世に出た” ひょうきんアナ、益田由美さん(1977年入社)の主導で始まった番組。
 


2.

サンデーモーニング (TBS系 日曜朝8時)

TBS日曜朝8時からの一週間のニュースを振り返る番組「サンデー・モーニング」は、ずっと(永遠に)続いて欲しい。日曜日、朝の憩い、ホッとする朝のくつろぎの中で、世の中を見渡せる。司会 関口宏氏。

毎年年末に紹介する 墓碑銘 も、毎年末を締めくくるのに相応しい。これを見ているときはいつも、紹介される人が正しく生きたか・生きなかったか(たとえば仮にヒットラーでさえも)、どのように生きたか・生きなかったか、はあまり気にならない。今紹介されるあなた、あなたは、あなたらしく生きたのですか・生きることが出来たのですか、ということだけが気になる。短命でも幸せそうな感じがする人もいる。あなたの人生を全うしたのですか、よかったですね、あるいは全う出来かった人のためにも、今この瞬間だけあなたのために祈ります、という気にさせる。
 


3.

サンデージャポン (TBS系 日曜朝10時)

日曜朝10時からのTBSの一週間のニュースを振り返る番組「サンデー・ジャポン」も、ずっと続いて欲しい番組。何もない「お休み」の日曜日は、フジテレビ7:00からの「晴れたらイイねッ!」、TBS8:00からの「サンデー・モーニング」とこの「サンデー・ジャポン」を続けて見てしまいます。

人の持つ生きる力と、ハチャメチャな感じをパワーに持って、「日本の良心」の部分を発揮・発露しているような番組。
 


4.

めざましテレビ (フジ系 月〜金 朝5:25〜8:00)

1993年4月放送開始。平日朝のニュース。大塚範一氏と小島奈津子アナの暖かい雰囲気と冷静で沈着な切り口((上と連発になってしまうけれど)日本の良心の部分を代表しているような。(2003年3月で小島アナは卒業。高島アナへ。初代は八木亜希子アナ))、奥寺健アナと福元英恵アナの暖かいスポーツ、軽部真一アナの愉快な芸能ニュースと伊藤利尋アナの愉快な中継、森昭一郎アナと中野美奈子アナのニュース、高樹千佳子氏の華のある天気予報など。

公式サイト
 


5.

ニュース・ステーション (テレビ朝日系 月〜金 夜10:00〜11:30?)

1985年10月7日放送開始。久米宏氏、小宮悦子氏の二人のキャスターに、解説の新聞記者氏が一人付く形で始まったニュース。

1974年に始まったNHKの「ニュースセンター9時」で世に衝撃を与えた初代キャスター磯村尚徳氏の「自分の言葉でニュースを伝える」スタイルを受け継ぎ、これに久米氏の切り口の鋭さと切り込んでいく度胸と氏が持つ華が加わって世の耳目を集め、目を剥かせた。2004年3月26日放送終了。

JANJAN内久米宏氏降板記事
NHKは何を伝えてきたか−NHKテレビ番組の50年
 


6.

ニュース23 (TBS系 月〜金 夜11:00〜12:00?)

新聞記者で朝日ジャーナルの編集長だった筑紫哲也氏をメイン・キャスターに据えたニュース番組。筑紫氏の物事の把握に賛同するところ多い。「ニュースセンター9時」「ニュースステーション」の流れを受けての、TBSの夜のニュース番組。

筑紫氏のスタイルは、久米氏と違って当りは柔らか。取材対象にも視聴者にも強く訴求はしない。たとえばテレビ番組内で政治家と話すとき、久米氏のように(あるいは田原総一郎氏のように)本音を言うまで追い詰めたり切り込む・食い下がる、というスタイルではない。相手が表情や仕草で これ以上(本当のところを言うの)は無理だ と表明した時点で、「はあはあ」とその旨承ったり、「へっへっへ」と笑って終わらせる。「これこれについて誰々は□□以上を言うのは拒んだ。答えなかった。」 模様・風情 がテレビに映った、ことでよしとする。

公式サイト
 


7.

朝まで生テレビ! (テレビ朝日系 月1回 深夜時間帯(午前1時〜5時など))

1987年4月放送開始。ここ数年めっきり見なくなったけれど、開始された当初は、そのインパクトに肝を抜かれた討論番組。

「日本の官僚」をまとめた田原総一朗氏が司会、番組進行役 渡辺宜嗣氏、美里美寿々氏で、オリジナル・キャストのような論客と、取り上げたテーマについて賛成の人々・反対の人々・(その場の議論で決めたい人々)を 論客・実地に居る人 から集めて、議論する。

公式サイト

※年末にやっている「超激論バトル!!朝まで日本サッカー応援宣言」も面白い。
 2002年末はトルシエ監督と日本サッカー、2003年末はジーコ監督と日本サッカーがテーマ。
 


8.

脳力探検クイズ!ホムンクルス (TBS系 土曜夜8時)

この番組でやっている、幼稚園の園児を使った血液型別の性格判定の実験は、最近の大きな驚きのひとつ。これがもしやらせとか嘘とかではなく本当なら、A型は几帳面で正確、O型はアバウト、B型は飽きやすく言動に一貫性がない、AB型は発想が天才型などと広く言われている血液型による性格の違いは、絵に描いたような((^_^;)?)本当の真実だ、ということだ。新鮮な驚きでちょっとワクワク(なんでだ(^_^;)?)。

NHKスペシャルのようなドキュメンタリー、NEWS23のようなニュースと銘打っているわけではない「テレビの番組」だから、どこからが本当でどこまでが本当なのかは、見ていて確信は持てない。朝日新聞が当該番組を取材に行ったらやらせはなかったとか、週刊文春が調査したら嘘はなかったとか、そういうサイドからの検証が出ているわけでもない(2004年6月現在私が知る範囲では)。

だけど、これがもし本当なのなら、生まれ育った環境とか、当人が歩んできた経歴や味わった経験とか、容姿とか、スポーツが出来る出来ない・勉強が出来る出来ない・絵が描ける描けない・楽器が出来る出来ない・おしゃべりか無口かといった持ち合わせた能力の問題、(軽い)脳梗塞が起こる部位によって言葉が理解出来なくなったり喋れなくなったりするというし、などといった加わってくる他の様々な要素をさておいた「性格の」素の姿としては、血液型がほとんど決定要因なのだ、ということになる。

 


9.

たけしのTVタックル (テレビ朝日系 土曜夜9時)


2004年8月9日(月) 「日本の領土が危ない!?三宅激怒!!中国の野望 反日サポーター丸秘内幕激論バトル」
2004年9月27日(月) 「危険な隣国!?中国とのつきあい方マル秘大研究!!反日教育実態に三宅&議員が怒る」


油田やガスなど、資源が欲しいのは世界中どの人どの国でもみな同じ。だから欲しいものがあれば喧々諤々、主張し、言を争い、闘わすだろう。

でも、だからといって、軍隊が出てきて(=国(家)が武力に訴えて(でも))それを取る、のはやりすぎだ、それはダメだ、というのが“第二次世界大戦までで人類が学んだこと”だったんじゃないのか。だから、「民族自決」なる発想も生まれ、((近代の)帝国主義(の時流)を生んだ)ヨーロッパはアジア・アフリカに作った植民地を手放し、(その帝国主義(の時流)に乗った)日本が拡張した領土を手放すことは“正義”だとみなされたのだ、と思っていた。

でも、西暦二千年ちょっとになっていま、日本のまわりで起こっていることはこうだ。
北朝鮮は工作隊を日本列島に侵入させて普通に暮らしている人たちを拉致して行き、韓国は日本との間で領有権問題が起こっている島(竹島)に突如軍隊を進駐させ、中国は領海の決定上互いに主張が未だ整合していない領域でガス田開発を始めてしまい、その近辺の(こちらは明らかな)日本領海に潜水艦を侵入させて(つまり軍事力を行使して)威嚇(?)するに及んだ。

そこで思う。
第二次世界大戦後、日本は、反省し過ぎたんじゃないか?確かに、人を殺すやり方がひどかったとか、量が多かったとか、“仕方においてやり過ぎた”面はあったのかもしれない(こんなひどい言い方をするのは昨今の有り様を見回したうえでのことで、今もそしてとくに昨今以前の私の本心ではない)。でも西暦二千年過ぎのいま身の回りで起こっていることは、中国や韓国や北朝鮮が(我々に)教えていることは、欲しいものがあったら軍隊でも何でも使って何してでも取りなさいよ、ということじゃないか。

だったら、日本も“軍事力”を正々堂々と強化しようよ。「昔の日本帝国主義がうんぬん!」と糾弾されたって、もういいよ。そんなことは方便だ、勝てば官軍ということなんだよ、と今彼らが教えてくれているんだから。

考えてみれば、第二次世界大戦前の日本帝国主義だって、日本の自らの内側からふつふつと湧いてきたものではない。江戸の太平の世の中に、他所の国に攻め入って何かを取って来よう、なんて発想は無かった。だけどイギリスやロシアやアメリカの商船や軍艦が来航し、開港しないとひどいぞ、と脅され(高田屋嘉平の件、フェートン号事件、プチャーチンの来航、ペリーの黒船来航)、隣では中国がイギリスにひどい目にあわされているし(アヘン戦争と香港割譲)、開国して時流に乗らないと(彼らの流儀(帝国主義)に乗っていかないと)滅びる、滅ぼされる、と泡食って動き出した方向だ、ということじゃないか(オランダ国王ウィルレム二世の開国勧告もある)。

(前回はヨーロッパ・アメリカによって威され、主権を脅かされた。今回はごく周囲の国々か)

さあ、じゃあいま日本も、反省の「し過ぎ」はもうやめよう。そして、欲しいものがあったら取ろうよ、軍事力でもなんでも使って、その手段は問わずして。


(※↑これは、素朴な感慨、あるいは、憤りの類の表現であって、本心でそう思っているわけではありません)




中国は、領海の決定上互いに主張が未だ整合していない領域ではじめたガス田開発を、日中共同開発にすることにしたようだ。
心痛む四川省の地震への援助物資輸送者として、日本の自衛隊が来ることも可とする模索もあったようだ(これが日本側主導なのだともし明らかになったとしたら、噴飯物なのだが)。
中国は、少なくとも “戦略的互恵関係” として、日本とも共に未来を歩もうとしている?(2008年6月記)



2010年9月の出来事。朝日新聞2010年10月1日の記事 大国 覇権へ強硬策。2010年11月5日のビデオ流出。11月の北方領土問題。今後自分は、積極的に推進はしないけれども、憲法9条改正に反対はしないかもしれない。反対する理由は全てなくなったような気がする。
そして思った。中国なりロシアなりが外交にあたって「国内世論」を「言い訳(?)」に「領土問題」に臨むのなら、日本政府もそうすべきだと思う。なんで、日本政府だけ、批判にさらされ支持率が下がって政権存続の危機になってもなお我慢しているような言動・言説を繰り返さなければならないのかわからない。「国内の大統領選のために」日本との「領土問題」をかき回すんですよ?日本も、「選挙の争点のために」領海・領土に何かを作ったり、武力を送ったりしようよ。
←これだって自分の「本心」ではないけれど、「いい人」ならぬ「いい国」でいるからという理由で何かをどんどん奪われていくのなら、じゃあ、「いい国」でいるのはやめようよ。→今(後)、中国やロシアの軍事力は本当に脅威ではないのか?10年前、中国やロシアの今日のふるまいを想像できただろうか。10年後20年後を見据えたら、日本は軍事力増強の足枷を取り払うべきなんじゃないのか?いま、日本の内側に、ふつふつと湧いてくる軍備増強の欲望はないと思う。でも、このままじゃ、自分達が危なくなる危機に外から取り囲まれていくんじゃないだろうか?その輪は今後狭まっていくんじゃないだろうか?今日以後、2010年11月以降、日本軍国主義の復活がどうのこうのと言われたら、鼻で笑って輪をかけて軍備増強に向けて動けばいい。そうするべきなんじゃないのか?冗談ではなく、本当に危なくない?(2010年11月記)




 


10.

2005年5月のニュース(JRの脱線事故(福知山線))


なんとひどいことだ、と、起こった出来事と会社・社会のあり方に憤りを感じる人がたくさんいる一方で、この事故(の報道)を受けて、「線路に置き石をする人」が50人(50件)以上もいるそうじゃないですか(5月7日現在)。性善説・性悪説、右翼思想・左翼思想 - Wikipedia(2005年4月25日 (月) 14:09の版)じゃないけど、とかく、人の世は難しい、恐ろしい。

しまいにゃ枕木に火を放つ者まで現れました。仕事で、自分の足りなさを打ち消すために、他の第三者のチョンボを掴まえて離さずアピールする人もいるし、ああ、人の心って奇奇怪怪、魑魅魍魎。 (欲 - Wikipedia(2005年7月3日 (日) 00:55 の版)




 


11.

1980年代の音楽


2008年5月10日 Music Fair。郷ひろみ、スガシカオ&いきものがかり。感動した。とても“かわい”くてカッコよかったアイドル時代の後、ギャグに走っているのかと思ってたけど、郷ひろみって、こんなにカッコよかったっけ?!ギャグに走っていたんじゃなくて、王道を走ってたのかも。

2008年5月12日 SMAPSMAP。SwingOutSmappies の「BreakOut」1986年。こんなにカッコイイ曲だったっけ?!

2009年6月25日、マイケル・ジャクソンが亡くなった。アルバム「Thriller」が発売されたのが1982年12月1日。1980年代の音楽、MTV全盛時代だった。




 


12.

西暦2000年代の少子高齢化と年金と財政と医療費の負担や分配やと


2008年9月15日の報道によると、70歳以上の推計人口が2000万を超えたそうだ。年金が破綻したり、人々が将来を明るく展望出来なくなったりしている。1985年の本『日本の官僚』(田原総一郎 文春文庫)には、「国家百年の大計」を構想するのが われわれ(官僚)の役目 だと言っているとある。少子高齢の人口構成が訪れることは、30年前小学校の社会科の教科書に出ていた。

もし、これから、彼らが「国家百年の大計」などという言葉を発したら、「すみません、いまギャグをおっしゃられたのですか?」と言うことにしよう。

想像力があるかないか、職務に対して誠実か否か、テレビ番組『はじめてのおつかい!』を観て、自分自身に対して恥ずかしくないか?否か という意味では、「エリート」と「庶民」の間で違いはない。というか、いまの時代は、その部分は「庶民」>「エリート」なのかも。




2010年11月現在行われている第3次事業仕分けでは「ゾンビ事業」が話題になっている。第2次事業仕分けまでで廃止や縮減になった事業が、ほとんどそのまま、あるいは名前を変えてそのまま通ってくるのだという。
第2次事業仕分けまでは自民党・公明党政権が作った予算を民主党新政権が仕分けるという構図だったが、第3次事業仕分けでは、民主党新政権がGOを出した予算を民主党新政権が仕分けるという民主党内部の対立という構図なのだそうだ。結果、政権党内に政争が起こって、事業仕分けを廃止にする方向が出てきたと。
「ゾンビ事業」とはたとえば、廃止とされた「女性となんとか〜」事業が「ワークライフバランスなんとか〜」事業といったように名前を変えてそのまま出てきたようなものだそうだ。

2010年11月、法務大臣が、「なんで私がこの職をやるのだろう?私は何も分かっていないんだけど。国会で質問を受けて分からなかったら2つの答え方を持っていればそれでいい、ちょろいでしょ?」と、公の場で言い放った。

ということは、上2つの事柄から類推するに、各大臣たちは、「ゾンビ」を「ゾンビ」と見抜けなかった(から、仕分けの場で党内対立の構図になることになった)のではないか?見抜く能力はおろか、その気力がない、見抜こうという方向性・哲学が政権内・政権党内で共有されていないのではないか?

先の選挙で、民主党は、政治主導で国を動かすんだ、役所はビジョンも何も持っていないから、国を動かす役回りの人たちが、自身たち個人の利益ばかり考えて動いているから、と掲げて政権を取った。一体どうやったら、あの発言をする人物/あの発言を許してしまう組織・体制が「日本の法務行政」を主導出来るんだ?(難しい話ではなく、素朴レベルで分からない)

もう、民主党に政権を任せている理由はなくなったのではないか。

2010年11月現在行われている第3次事業仕分けで、行政側の説明者が、「国家百年の計」という言葉を口にした。「日本」を恥ずかしく思い、情けなくなってきちゃうから、頼むから あなたがたがそれを言う のだけはやめてくれ。「日本」をバカにしているのか?その言葉は「自身たち個人の利益(=特権意識)」を表現し強調するためにしか存在しないことはもう(少なくとも2年前には)分かっちゃっているのだから。

2010年11月の、仕分け後のゾンビ事業を目の当たりにして、ますますその思いは強くなった。いまの日本は、ある意味で 庶民=立派、エリート(になる人)=ダメ であるという、国家や王朝の末期の様相(←世界史によくある)を呈していないか?エリート(になる人)は「哲学」を必須で修めないと「ダメ」なんじゃないのか?もしくは、もしかしたら、一回滅びなきゃダメなんじゃないのか。もうここらへんで、歴史に学ばなければまずいんじゃないか?明るい話題・展望はないのかねえ。




 


13.

人と動物


20年前に訪ねたニュージーランドの北島オークランドの昼下がりのレストランのテラスでは、テーブルの上に雀がやって来て、手のひらからパンを食べた。いっぽう日本の雀は、人が近づけばあっという間に逃げ出すイメージ。30年前の夏休み、山奥(?)にある遠い親戚を訪ねたとき、牛小屋に居るゴキブリは人が近づいても微動だにせず、棒で突いても「何するんだよ、いつ飽きて開放してくれるの?」と言わんばかりと動じず、といった風情。でも都会の自宅に出没したゴキブリは、目にも留まらぬ速さで走り去るイメージ。これを叩いて退治するのは名人技に属するくらい大変なので、ゴキブリホイホイなどワナを仕掛けて退治するイメージ。祝16年目『超どうぶつ奇想天外!』2008年10月12日で観たニホンザルの振る舞いは、“ずるがしこいエテ公”のイメージ。他の土地に住むサルがどんな風情・振る舞いをするのかは知らない。

もしかして、その土地・地域・国に住んでいる動物の風情・振る舞いを観察すると、その土地の人と(その)動物の関係が、あるいはもっと、その土地に住む人々の心持ち・気持ちの在り方が判る、見て取れる、ということなのか。いや、推測が飛躍しすぎ?




 


14.

2008年11月


2008年11月7日昼、筑紫哲也氏が亡くなった。深く、ご冥福をお祈りします。日本にある種の軸が無くなったと、危機を感じる。この国では、第二次世界大戦終戦以降では、時代が下るほど、新世代の若者ほど、排他的な・互いに縛り合う・異なるものを認めない・異なるものを攻撃する・異なるものへの想像力がなくなっていく・自由が失われていくようにいつも感じるからだ。筑紫氏は、時代を追って増していくと感じるこの国の「少数派を潰して大勢に流れやすい部分」に対して、ある種の軸を持っていたと思う。筑紫氏無き後のこれからの日本が心配だ。と思わずそう思うほど、氏はひとつの軸として在ったと思う。

日本時間2008年11月5日昼、民主党オバマ氏と共和党マケイン氏のアメリカ大統領選挙は、オバマ氏に決まった。彼の国では日本とは逆に、若い世代ほど、暴走した自由経済に異を唱え、マイノリティ(少数派)である候補に支持を表明した。

よくいわれることだが、「日本という国は、自分の内側から何か考え方を生んで表明し主張し展開し後続する人たちが続いてそれが1つの閥に力に理論に原則になっていくことには疎い(日本史には、あんな原理を発見したアルキメデスやこんな法則を見つけたニュートンは居ず、あんな宗教を仕入れてきた空海やあんな考え方を輸入してきた最澄ばかりが居た。大学受験の勉強をしているとき、『黄檗宗よ、お前もか』と思わずつぶやいたことを覚えている。飛行機だって江戸時代に日本にこんな人が居たとか、和算の関孝和とか、『日本にもこんな人が居る』といってみせる話はときおり聞くけれど、違うのは、後続する者が居てそれが何かの流派になるのかならないのか、アイデアとしても人脈としても1つの固まりとして繋がっていくのか、そこに人のエネルギーが集まって、生き生きと分派したり増殖したり伸び伸びと何かが伸びていったりするのか、という部分だ)が、外からのものには弱い・無批判に受け入れる風土が在るから(第二次世界大戦後では、その雰囲気が時代が下がるについて増していくように感じるわけだが)」、内側で軸が無くなった危機は、外からのものによって代えられる・補われる・「大勢の暴走」に歯止めがかけられるかもしれない。

いずれにしても(かけられたとしてもかけられなかったとしても)、1つの時代が終わった・1つ時代が変わった、かもしれない。




 


15.

指標を知らない(!)ので、なんともだけど


2008年11月28日の朝日新聞のテレビ欄に、男女平等での国別順位が、今年日本は98位/130ヵ国になった、という記事が出ている。「祝女〜SHUKUJO〜」というNHKの番組についてのコラムだ。記者は、去年より下がった、と憂えている。

でも思うのだが、男女平等の理念に従って「出世」とか「ポジション選び」とかには性別は関与しないように、出産がそれに対して不利に働かないように、子育ては夫婦で出来るように制度を整えたのだが、当の女性たちが望まないから、という理由で幹部職に占める女性の割合が高くならず、でも会社の目標は「女男比が同じになること」だから、方向性に悩んでいる・模索している、という会社があるのを知っている。

そこで思うのだけれど、日本を国別順位130ヵ国中98位としたそのランキングの指標を知らない(!)のでなんともいえないのだけれど、もしかしたら、その指標で上位にいくような社会になることを、当の日本の女性たちが望んでいない・欲していない可能性はないだろうか?
嫌がる女性が無理矢理連れてこられて、とか、何かになりたいのに「女だから」という理由で妨げられた、とかを「男女差別」というのだと思う。

中身の検討なく男女平等という語句が出たらすなわち正しいと思うような“時代に合わせる”人とか、強烈な思想・信念として男女平等をあるいは男女差別を持つイデオロギニストとかではなく、信念は持っていていいのだがもっと肩の力の抜けた社会学者とか、あるいはもっと、対象のありのままの姿を観ることを旨とする、観察者の気持ちはニュートラルを保つことを要求される文化人類学者とか、あるいはもっともっと、観察対象の欲求や行動を冷静に観ることが出来る/観ることを問われる動物学者とかが、当の女性たちが望むところ・欲しているところを調査してくれないかなあ。それも結論ありきのひも付きプロジェクトとかでなく、10年かけるプロジェクト、純粋に事実を知りたいという学者たちが集まったプロジェクトとかで。それと、そのランキングについて、どこかの新聞か雑誌が「大きく」取り上げて見せてくれないかな。それを見て世の中の女性・男性たちがどう反応するか、見てみたい。


2009年9月12日の朝日新聞に、「女性差別解消、進まぬ日本」という記事が出た。女性差別撤廃条約に基づく女性差別撤廃委員会(CEDAW)の2009年8月の勧告を報じた記事だ。その中で思うところが2, 3 あった。

1つは同一価値労働同一賃金の原則について。自分はコンピュータ関係の仕事をしているが、この業界では、性別を理由にした賃金格差は聞いたことがない。他の業界にはきっと性別によって同一賃金でない業界があるのだろうな、と思った。新聞が調査報道として、業界ごとに洗い出して提示する報道をしてくれないだろうか。
たとえば「丸の内OL」と「エリート社員」、「秘書」と「秘書付きの役職」の関係は、同一の労働ではないから、同一賃金の原則には入らない。
女性にパート労働が集中するのは、社会の仕組みによってそれが余儀なくされている(当人たちにとって本望ではない)のなら、女性差別撤廃の目標に向かって改善が必要だ(「女性差別撤廃」という題目について反対する人が居るのだろうか?というのが、戦後民主主義を正義と信じた人/世代の人たちの実感ではないだろうか(戦後民主主義を嫌いな人/世代の人たちがどう思うか、何を望んでいるかは、自分にはわからない))。政権も変わることだし、心機一転、差別撤廃に向けて人々の意識、国や行政のありていな社会制度が変化に向けて動き出さないかな、と思う。女性たち自身がそういう労働形態を「じつは望んでいる」のなら、それは差別解消とは関係ない。差別の歴史のなかには、無知による落ち込み・取り残されというものはあるから、「啓蒙」すれば当人たちの意識が変わるという話なのなら、「救済」するためにぜひ「啓蒙」が必要だ。でも、いやそうではない、「啓蒙」は関係ない、本当に変化を望んでいないのなら、それはそもそも差別ではない。
まったく同じ仕事なのに雇用形態によって賃金が違う、同一価値労働同一賃金の原則に反する、という話は、これは女性差別とはまた別のこととして、存在すると思う(コンピュータ関係の業界は、この部分でも原則は守られていると思う、というのが実感です)。

もう2つ。待機児童がたくさん居る問題は小泉内閣の国民への裏切り(解消を宣言したが実現しなかった)としてあるいは行政をいま(只今直近に?)司っている人たちの国の将来への見通し能力の無さ・無知・ヴィジョンの無さ・あるいはやる気の無さとして存在し、育休に対する風当たりが強い問題は男・女・差別・平等の話ではなく、日本では休暇が取り難い、“"みんなで一緒"を崩す者は許さない”文化論とか民族性といった話として存在するのではないか。たまたま9月14日の朝日新聞の声欄に、日本とイタリアで仕事をした58歳の人の休暇や残業についての体験談が出ています(「イタリア」については、こんな証言(?)もあります:※1↓参照)。サマータイムは日本にはきっと合わないという議論の中にも、同様の視点がありました。介護早退について、仕事場でたとえばどういう仕打ちを受けるのか、ドラマ「任侠ヘルパー」第7話で描かれていました(こんな話もありますこれこれ)。


最近、女性差別についての記事や話題を目にするとき、こういう言葉・概念・考え方が頭に浮かぶ。 : 「最大多数の最大幸福」「最大幸福原理」 ジェレミ・ベンサム功利主義社会自由主義中道左派他人の邪魔をしていない行為・他人に迷惑はかけていない行為について :その心は、「差別は撤廃しなければand差別でないものを差別と呼ぶ/扱うのはやめて欲しい」です。女性が本当は望んでいる事柄/望んだ結果生まれた状況なのなら、結果生まれた形(の表面)だけを見て男性が差別している/男性が悪者であると言う/理解する概念は勘弁して欲しい。それは正義にもとる!という悲鳴です。その結果思いつく帰着先が、「他人を害さない限りにおいて、より多くの人の望んでいることが実現するのを目指すのが、『社会正義』なのではないでしょうか(最大幸福原理)」です。(2009年9月16, 17日記)
経済の分野では、失業者の割合という考え方・世の中の把握の仕方に、「完全失業率」という指標がありますよね。「15歳以上の働く意欲がある人のうち、職に就いていない人の割合」。性差別を取り扱う世界・分野でも、企業の役職についている人の性比という把握の仕方なかに、「完全役職者率」という指標を作ってはどうでしょうか。そうでないと、ある種の信念を持っている人から、“出世を望まない”女性はバカにされ、“素朴な正直者”の男性はしてもいない差別をしていると言われ、“悪者”であることになってしまいます。(2009年10月31日記)



朝日新聞2010年11月26日の記事「日本の『男女平等』国際ランク」。2010年11月に発表された世界男女格差指数(GGGI)の国際ランキングで、日本は134カ国中94位と出たそうだ。国連女性差別撤廃委員会のドゥブラブカ・シモノビッチ委員の「日本ほどの先進国で信じられない」旨の談話が出ている。でも、「欧米」の人がそういった文脈で言うときの、そういう文脈では、(今の)日本の文化風土は先進国(的)ではないと思う。そういう意味では、先進国的でも都会的でも成熟されても洗練されてもいないと思う。日本と欧米の文化は違うと思う。たとえば同じ日付の記事「耕論 子ども化が救う」。束さんという美術家の人の発言は実に腑に落ちる。違うから「悪い」というのではなくて、「違う」と思う。ある種の進歩史観を持つ人のなかには、 昔→今 に比例して日本は欧米化していっていると言う人がいるけど、ここでいう意味では、欧米化していっていないと思う。むしろ、今現在の、とりわけ若者の日本の文化風土は、どんどん違っていく方向だと思う。念のため繰り返して、違うから「悪い」というのではなくて、「違う」と思う。国連開発計画(UNDP)の調査では、尺度を「都会的な」「エリート的な」ものでなくした(GEM→GII)ら、日本の順位は109カ国中57位(GEM)から138カ国中12位(GII)へ、どんと上がったという。とても腑に落ちる。
男女の賃金格差は、「先進国」のなかで日本は最大級なのだそうだ(なんと、女性の賃金は男性の6割台!なんだそうだ)。その内訳をぜひ報道して欲しい。昇進する人の割合が小さいから、結果として賃金格差が大きくなっているのか?つまり、昇進する女性を増やさなければならないといっているのか?それとも、同じ職位でも男女格差が存在するのか?つまり、制度の字面上にも差別が存在するのか?業種別・業界別内情をぜひ知りたい。差別には反対だ。差別は嫌だ。新聞が調査報道をして明らかにすれば、差別が行われている業界への社会的圧力になると思う。
ジョイセフの事務局長は違う認識のようだが、日本の、性における女性の自己決定の自由度は格段に増しているんじゃないかな。男性が草食系といって「非難」される時代になった(非難されるようになったということは、男性の自由度は下がりつつあるのかもしれない?)ぐらいだから。(2010年11月27日記)

朝日新聞2010年11月29日 男女や人種の壁超えしなやかに働くには に、国の成長、国際競争という視点からのエリートたちの提言が載っていて、それによると、15〜64歳の女性の就業率(2009年):ノルウェー75%、アメリカ66%、日本60%、民間企業の管理職に占める女性の割合(2003〜2008年):イギリス・ドイツ・アメリカ30〜46%、日本9%、6歳未満の子どもを持つ女性の就業率:スウェーデン・アメリカ:60〜70%、日本34%だそうです。1965年生まれ、1948年生まれ、1950年生まれ、1957年生まれ、1946年生まれのこの人たちが述べる ここに載っている言説(GEM的)と、「いまどき」「若い女性」という言葉で連想する人たちの言説(GII的) の間にある溝、ミッシング・リンクは、「あと1、2年の間に」(ということは2012年までに)埋まるだろうか?ちなみにここでも「先進的な考え方」と「日本のやり方」が対峙して述べられている記述がある。

それとも、いま俄かには思いつかない第3の道が現れるだろうか。(2010年11月29日記)

2010年12月30日の社説。朝日新聞は前者を主張することになったようだ。2010年12月のTVタックル年末特番で、ギャルママたちは後者を主張した。10年後20年後、世の中はどうなっているだろうか。(2010年12月30日記)





朝日新聞2011年7月3日読書欄 「新・名前のない女たち」。そう、それは「冷淡な感じで取材」を「進め」ていいと思う。
朝日新聞2011年7月2日 be on Saturday 職場の理不尽Q&A。性別を入れ替えても言える。“きっとその人物は「とんでもないクソ□□ですね」、「平気でそういう言い方をしたり、露骨に○○扱いしたりできるくらいですから」。「△性であること以外に拠がない、小さなプライドを埋め合わせせずにはいられないのでしょう」。「残念ながら、こういう困った□□は」「社会の中にたくさん生息しています」「クソ□□が小さなプライドを守るために発した暴言を正面から受け止め、自分のがんばりや成果を否定する必要なんてありません」”(元は□□はオヤジ、○○は接待要員、△は男)。そう、その手の暴言を受けたときは相手にしないほうがいい。女性差別主義者は接待要員を求め、男性差別主義者は男芸者を求める。前者は都合の良い女を求め、後者は〃男を求めるのだな。老若男女のみんな、“差別”が絡んでいる際には、自分を大事にしよう。
朝日新聞2011年7月3日読書欄 「白い罪」。深い。“個人の現実の処世・人生”という視点ではなく、“人権”と“振り構える視点”で“差別”のことを考える際には/にあたっては、深い。
(2011年7月上旬記)

ある芸能人が何か書かれたときに問われて言った言葉を比喩的に思い出す。「これが東スポだから私は気にしませんけど、もし週刊朝日だったら訴えてるところですよ」。この15.項は個人のスキャンダルについてではなく世の中の人権とか平等とかについての話だけど、これが「柔らかい」「ゴシップ誌」だったら気にとめないけど、「堅い」「一流誌/紙」が言うのだったら、気になる。TVで、「報道」で報じたのなら気になる。身の回りの会話で、居酒屋でクダまいているなかで言うのなら気にならないけど、「真面目」な場面で国連だ人権だと言っている文脈で言うのなら、気になる。世の中で何が起こっているのか、事実を知りたい。
(2011年7月上旬記)

でもそもそもが、これは差別の話ではなくて、いまこの国は、社会体制・制度として、諸外国と比べて、生きるのに個人が無理を強いられている、ということ?
(2011年7月上旬記)





※1 2011年8月10日の朝日新聞に、「幸せなイタリア」と題してイタリアを横目に見た日本考が組まれています。そこに、「イタリアの普通の人々は仕事を生きる糧を得る手段と割り切って集中して片づけ、芝居を見たり家族と食事したり、自分と家族の時間を大切にします」という記述があります。(2011年8月記)



「人権」は、人間の「ライトサイド」しか照らさない。「ダークサイド」は、自分で深く掘るしかない。深く、深〜く掘るしかない
(2011年9月17日記)






 


16.

ボクらの時代 (フジ系 日曜朝7時)


ボクらの時代 2007年4月1日から。晴れたらイイねッ!の後番組。

2009年1月17日 小林武史×赤西仁×岩井俊二
1959年生まれでJ-POPを引っ張ってきたミュージシャンの1人小林武史、1963年生まれでスワロウテイルを監督した岩井俊二、1984年生まれでアイドルの赤西仁の語り。

1980年代全米ヒット曲ニューミュージックに夢中になり、演奏者の端くれだった私には、わくわくする対談だった。小林武史が自身をインディペンデントと言い、赤西仁がそれにはちょっと及び腰ですと述べたのが印象に残った(引っ掛かった)。もしかしたら、そのやりとりは時代(世代)を象徴しているかも、と。

2007年8月5日 坂本龍一×村上龍×見城徹 も興味深く見た。これは予め知っていたので、予約して録画までした。




 


17.

海老蔵さんの事件 (2010年12月)


2010年12月、有名な歌舞伎の俳優さんが怪我をした件が話題になっている。ひどい怪我をしてしまった氏に同情が集まるなか、俳優さんが一方的な被害者で気の毒なのだという見方と、相手方の言い分も合わせると、俳優さんが挑発したのではないか、怒って手を挙げないではいられなくしたのではないか、という見方と、たんに喧嘩両成敗的な、夫婦の喧嘩ではないけど犬も食わないような出来事だったのではないか、という見方と、いろいろだ。

俳優さんが挑発したのが悪かったのだ、怪我はいわば自業自得だ、相手方は自分(たち)の身とか名誉とかを守ったのだ、いわば義侠心の類だ、ということになれば、ドキッとしている人は世の中にたくさん居そうだ。「何もしていない」他人を怒らせようとする人、物理的な暴力以外のあらゆるひどいことを他人にして、でも体が当たった瞬間に鬼の首を取ったように被害者面するタイプの人って居るものね。
挑発っていうのは、程度やレベルは色々でも、そこから先はしないだろう・ここまでなら許せるかなという社会的な一定の信頼関係(一方的な期待、甘えの類ではなく)があって、その範囲内で互いの信頼度を読み合ってする場合か、相手の方が大人で、人間として挑発者より大きい場合なら「何事もなく」過ぎていくけど、それ以外の場合は、暴力の応酬やグダグダへ向けてのチキンレース(降りる勇気、続ける気力への挑戦)のスタート地点以外の何物でもないから。





 


18.

孤族 (2010年12月)


2010年12月朝日新聞が連載を始めた記事「孤族」の内容と、2010年12月30日に放送されたフジテレビを辞める高島アナウンサーの番組に、共通するキーワードを見つけた。

・高島アナウンサーいわく : 「こんなに認めてくれていたんだったら、辞めるなんて言わなきゃよかった」「(テレビでの仕事というのは、視聴者がカメラの向こうに居ると頭では分かっているのだが)認めてくれているという実感が湧かなかった。(だから辞めるのだ)」(以上大意)
・朝日新聞2010年12月30日の記事の結部 : 「認められない」「つながっていない」「そんな不遇感」「顔を上げて、すぐ近くに目を向けてみれば、自分はひとりではない、と気付かせてくれる誰かがいるかもしれない」(以上引用)

<何を><どういう風に>他人が認めてくれたら、人(彼女・彼ら)は「孤」にならないのだろう?
番組で見せた彼女の涙、記事で取り上げられた彼らの暴発、それらは何を表現しているのだろう。





 


19.

空から日本を見てみよう  ブラタモリ  (2011年2月)


たぶん、昨年から(本当?)、ゆる〜い散策番組がいくつか出ている。(相対性理論の曲が出色であるところの)テレビ東京の「空から日本を見てみよう」と、NHKの「ブラタモリ」だ。ほかにもなんかあったような。空から見る街の風景を眺めて流れる。街を歩いていて、微妙な斜面や石垣の色の違いに遠い歴史ロマンをはせる。「世知辛い世の中」なんていつの時代でも言ってるんでしょうけど、とかくギスギスした感じに疲れた気持ちには、このふざけた感じ、このボーッとした感じは癒されます。癒されるだけでなく、壮大なロマンも感じさせます。いつの頃からか、経済社会の指標は短期なものに、世の中からはロマンチストが消えていき、テレビの画面からは出演者同士の軋轢が伝わってくる番組が増えてきて(←本当なのか?、そんなの裏でやってくれ)と感じるご時勢のなか、最高です、このほんわか感は。一息抜いて、さあっ、明日からまた現実現実!と思えるような番組です。




 


20.

志村どうぶつ園特別編  (2011年3月19日)


ちょっと鼻水出た。(;_;




 


21

2011年7月24日


地デジ対応は皆さん済んだのかな?当方も、遅ればせながら地デジ対応テレビを、いままで持っていたブラウン管テレビより一回り画面の大きい液晶画面のテレビを買った。それで感じた/思ったことが2つ。

1つは、画面がずいぶん広くなって感じたことは、テレビ放送のアニメなどが、数少ない引かれた線と線の間にのっぺりと単色が塗ってあるだけ、という珍妙な絵画に見えたこと。映画のアニメのDVDを再生すると、あの広いスクリーンいっぱいに表現するように作ってあるからか、なんの違和感もない。というか、おお、きれいだ!!の一言。でも、テレビの放送のアニメ番組を観たとき、ちょっとした違和感・ギョッと感を感じた。これによってテレビのアニメ番組、のみならずテレビ放送そのものの画面のつくりが変わっていくのではないか。技術の変化がもたらす文化の変化到来の予感?

もう1つは、アナログテレビ時代に録画したテレビ放送などの画像が、昨日まで見ていた状態よりも
粗く表示されてしまうこと。このことは、買い換える前にいろいろ調べた情報のなかにあった。だから知識としては知っていた。でも、実際に目の当たりにすると、これはひどい((^^;))。パソコンで画像を再生するとき、データが持つ画素数などに合わせて、画面や絵のサイズが勝手に大きくなったり小さくなったりして(くれて)、絵そのものは人間の目に妥当な絵が表示・表現される。でも新しく買ったテレビでは、旧デッキのハードディスクに貯めてあった録画画像を見ると、パソコンで小さい画像データを意図的に大きく広げて見たときのような惨状になってしまう。
今只今放送されているテレビを観ていると、放送側の絵に合わせて、サイズがときどき変わる。それは数パターンある画面全体の縦横比に合わせるだけなのかもしれない。だからそれは違うことなのかもしれないけど、新しい高精細で大きなテレビではもともとの情報量なり画素数なりとにかく絵の状態に合わせてずいぶん小さく表示されてしまうことになる、ならまだ納得出来るけど、たぶん2〜3年後、ああ、昔の絵はいま再生するとこんなふうになっちゃうんだねえと受けとめられるとまだ思うけど、「もともと本来こんな風に見えたのではなかった」「こんな絵を観ていたのではなかった」状態の「画質」で再生されると、これは一種の文化への冒涜だ((^^;))とすら感じる((^^;))。
出来るなら、10年前に録った絵でも、20年前に録った絵でも、24インチなら24インチで観ていた「録ったそのときに見たその大きさそのイメージで」人の目に見えるようになるといいな。高精細でなくていいから。デジタル放送と比べると
ぼやけているのであってもいいから。これも一種のWYSIWYG?一種の上位(下位だっけ?)互換?的なもどかしさ。デジタルになった、両手を挙げて全部素晴らしいことになった!とはいかないんだなあ。(;_;
(2011年6月記)




 


22.

ニュースの深層 いつまで続く韓流ブーム 金慶珠 金泳徳 (朝日ニュースター、2011年7月25日)


現在日本で続いている韓流ブームについて、日本語を流暢に話す韓国の人2人が分析を試みた番組。少女時代やKARAのスタイルや訓練はSPEEDやMAXをお手本にしたものであること、売り上げの取り分のタレント、プロダクション、レコード会社の内訳、韓流コンテンツと日流コンテンツの経済規模、アジア各国のコンテンツビジネス状況についての分析や展望など、司会者の熱い気持ちを表現(隠し切れない)しながらも、努めて冷静な分析を試みた、事実に向き合おうとした、興味深い内容だった。

それらのなかで、いまの日本の性別世代別コンテンツ消費状況の分析が1つ興味深かった:

2010-2011年のいま、日本で、韓流ドラマに年輩の女性が飛びつき、K-POP(少女時代、KARA、東方神起、BEAST)に若い女性が飛びつき、AKB48などの未熟で幼い感じの日本女性アイドルに秋葉原系の男性が飛びついている、では秋葉原系でない年輩の男性と若い男性たちは?というものだ。彼ら(←自分でいうのはなんか変だけれど)はどんな「コンテンツ」を消費するのか/いましているのか?ビジネスの視点でいうところの、“ニーズ”を発見したり工夫して提供すれば「火が付く」のか?という話。
コンテンツ消費状況 年輩 若輩
女性 韓流ドラマ K-POP(少女時代、KARA、東方神起、BEAST)
男性 秋葉原系 AKB48などの幼い感じの日本女性アイドル
秋葉原系でない

以下は、自分の思い巡らし。

いま「年輩」で、秋葉原系でない男性である自分のこれまでの人生を振り返ってみると、小学生のころ、ピンクレディの写真が載った「小学○年生」は自分にとって大事なものだった。松田聖子は、曲も顔も素晴らしかった。はじめて小遣いで買ったレコードはゴダイゴで、中学高校時代は80年代の全米ヒット曲や「ニューミュージック」を夢中になって聴いた。社会人になってまだ若者だった時代(時期)には、90年代のJ-POPが大好きだった。2011年のいま、K-POPの人たちはきれいだと思うし、曲も顔も悪いとは感じないけど、3万円弱/月のおこづかいの財布を開こう、とは思わない。社会人になってまだ若者だった時代(時期)、トレンディドラマはよく観た。でもいま、いわれてみれば確かにテレビのドラマはあんまり観ない(「JIN」は好きで観たけれど)。

もしかしたら、彼ら(秋葉原系でない年輩の/若い男性たち)は、もともと(そもそも)「テレビドラマ」「アイドル」をあまり消費しないものなのか?
では、何を消費するのか?

自分の若いころだったら、自由になるお金の使い道は、自動車・バイク・楽器だったか。では、いま、何がある?(楽器についてはデータや分析を聞いたことがないけど、車やバイクは下火に向かっているようだ) 自分は違うけど、時代に関係なく、釣りが趣味の人は、かなりお金をかけて楽しむようだ。ゴルフもだ。では、他には何がある?自分は、服は好きでときどき買うが、ほとんどはユニクロか同等の価格のもので、スーツは、吊るしじゃないけど、5,6着あれば何年も着ている。クツは磨り減ったら買うが、1足1万円を超えることはまずない。しかも自分は“小遣い全部を服に注ぎ込む”タイプではない(それどころか、必要なら財務省に折衝して、自分の小遣い袋のヒモは広げない)。EASYTONEや登山靴は買うが、毎年毎季毎月買うようなものではない。ということは、高級な服飾や靴などの装いか、山登りや自転車や他のなにかなど、何か趣味に凝っている人はそこへ?でもファッションや習い事など、趣味にかける時間とお金は、女性より男性のほうが多いような気はしない(なにかのデータを持ってるわけじゃないけど)。え、時間とお金?

番組のテーマに戻って、「コンテンツ」はどうだ?インターネットで、ウィキペディアは好きでよく見る。でもこれは見ても参加してもお金は動かない。人のブログやYoutubeは興味を持ってときどき見る。でもこれもお金は動かない。映画は好きで観に行くが、多くて月に2本くらい。毎週通ったりすることはない。もしかしたら、いま、自分たちにとっては間違いなく「消費」(人生のうち生産活動ではない部分)でも、それは「お金は動かないもの」になっている?

「ボクら」の「消費」はどこに向かっているのか?
夜自分の自由になる時間は何をしている?飲みに出ている?「コンテンツ」なら、テレビを観ている?ニュースか?バラエティか?何を消費している?何を楽しんでる?え、読書?出版社は景気いいのか?え、ゲーム?それはありそうだなあ(そういえばゲームの項目は番組に出てきたけど、性別世代別消費の傾向は言ってなかったな)。
漫然と、とくに何かの目的に向かうこともなく、ただお金の遣い方がヘタなだけなのか?(^^;)
本当に、欲望や消費「そのもの」が細っているのか?
「消費する」時間がほとんどなく、持っている時間のほとんどを「生産する」立場に使っているのか?たしかにそういう人は多そうだ。でも、「ほとんどの人」がそうなのか?本当にそうなのか?「消費する」部分が全然ない生活、なんてのはありえそうにない。そんな人生は耐えられそうにない(え?あなた怠け者って誰か言った?(^^;))。でも、男性は自殺の数も自殺率も高いそうだし、我慢して頑張って耐えて生きている度合い割合が、他の属性の人に比べて高い=どこに消費がいっているのかわからない、ってこと?

うーん、そうかなあ。(-_-;)

女性が、女であることの謎を解くという手の本や文章はときどき見かける。自分のことなのに、何を言っているのか?と不思議に思うことがままあった。でも、なんのことはない、男が、男であることの謎を解く余地もあるのだった(?)…。



話はちょっと変わって、韓流芸能が日本やヨーロッパ、南米に広がり始めているのを「国策だから」とする論評があるが、実態は「国策」などではない、日本でも行政が cool Japan と冠していろいろ行っているが、あれは言葉のイメージ通りの「国策」といえるものか?韓国も同じですと「反論」していた。でも、自分が思うところでは、韓流コンテンツの世界への広がりを「国策」と日本で受けとめるときの気持ち・批評は否定的なものではなく、フランスには文化省があって国が予算をつけている、ブラジルにはスポーツ大臣がいて国として活動を支援推進している、それに比べて日本では文化やスポーツが尊重されていない、大切さがわかっていない、文化やスポーツの社会的地位が低い、とまで言う他所の国の状況を見習おうとするものと同じものだと感じている。素朴で正当な危機意識・自国自文化の向上へ向けての問題意識の現われだと感じている。実態が国策ではないのならその実態を冷静に分析するのは好感が持てるけど、否定的に論評されていると思っているのならその必要はないし、ムキになって否定しようとするのならその必要もないのではないか、と思った。

(2011年7月記)

と、思っていたら、なんと韓流の流行に抗議(?)するデモ行進が行われたようです。世の中にある人の気持ちって色々だなあ。たとえ話として、キュウリが嫌いな人はたんに食べなければいい、好きな人はどんどん召し上がれ!じゃダメなのか。汲々と息苦しい、非寛容な精神だ。韓流の芸能人のみなさま、身の安全にお気をつけて。自分も、他所の国に行ってもし排日運動に遭ったら、気をつけます。
ところで、とふと思ったのだが、もしかして、もしかしたら、韓流あるいはその周辺の人の中に、たんに「別に韓流を好きではない」人を「責める」発言なり動きなりがある/あったのだろうか?だとしたら、もしそうなのだとしたら、デモに出かける人の気持ちもわかる。自分はハンバーグが好きだからハンバーグを食べている、キュウリは苦手だから(自分は)食べないだけ、なのにこれを「責め」られたら、責められたのだとしたら、それは払い除けたい、排除したい、と言いたくなる気持ちはわかる。それは非寛容の精神ではなく自衛、「反撃」して「攻撃」「侵害」から身を守っているわけだから。
いまのところ、「韓流の盛り上がり」と「韓流の盛り上がりに抗議する人」の関係は、上記と逆の関係だと思っているので、私はデモの方を理解出来ない。誰かが好みのものをおいしく食べていて、誰かがとくに好きではないからと食べないでいて、なんで責められなきゃならないの?と思う。

※未成年の方、未成年の人は、家の中で、なぜ食べないの?食べなさい!!とバトルがあるだろう。でもそれは、あなたの健康や人生の幅を慮った愛情であるので(悪意では絶対ない!)、せいぜいバトルしてください。

(2011年8月記)

いま発売中の週刊ポストによると、デモの核心は反韓流ではなくアンチフジテレビであるようです(?)。
両者の間に、どちらかからどちらかへの、寛容の精神があるの?それとも、「責め」があるの(外野から見れば、一言余計だ、それを言わなきゃいいのに、的な)?それとも、個別具体的な出来事があるの(ここに描かれていたような、かたや恨みがあって、かたや恨まれる事をした自覚があって、というような)?うーむ。

(2011年8月記)






 


23.

テレビ・新聞とネット


うつろにだか何かをしながらだかに観て、ちゃんと覚えていないのだが、最近、社会学者かなにかの時事考で、既存のメディア、テレビ・新聞と、新しいメディア、インターネットの役割の棲み分けについて、興味ある考察を観た。
それによれば、テレビは、たとえばサッカーワールド杯の試合とか、オリンピックとか、甲子園といった大規模な催しやイベント、プロ野球のペナントレースのような恒常的な催しものを中継するといったようなことと天気や事故のような出来事の報道に、新聞は、政治や行政について記者クラブが持つ定例的で決まった取材に下ろされてくる情報の伝達とやはり天気や事故のような出来事の報道に特化する。一方、世の中に起こる出来事をどう考えるか、考察や評価、思考の部分は、インターネットの有象無象のなかに見出される/生み出されるようになる、ということだった。現在すでに、従来の社説や意見や主張の部分は、インターネットのブロガーのほうが鋭かったり面白かったりする、フェイスブックなどの誰もが意見を表明し合えるメディアのほうが、中国や中東をみるまでもなく、本音や可能性や鋭さが際立っている、一方でテレビや新聞は、たとえば同じ旧来のメディアである雑誌と比べても、記者が本音や良心やにしたがって大胆なことを言うことはどんどん出来なくなっていっているでしょ、でもそれは、視聴率や営業の安定性を希求し社会の構造体のなかにより組み込まれ染み込んでいくことに由来する「大胆さの消滅」は、それはそれで1つの健全な発展形であって、別に悲しんだり悔やんだりすることではない、イベントの放送や、公的な組織からの定例的な情報の伝達(への特化)は、間違いなく1つの重要な社会の中での機能・役割である、社会にとって必要な(新しい)ビジョンや思想の提示(という機能)は、それとは別の機能である、ということだった。大学生から大阪のおばちゃんまで、小学生からお年寄りまでが自分の意見を表明し合えるようになった状況のなかで、大新聞や大テレビ局が思想や発想を1つの方向に引っ張ることが出来る時代は終わった、量的(圧倒的な量)にも質的(思いもよらない発想の出現)にも、ということだった。

昔、子供の頃、SF作家が描いてみせる「未来の姿」にええ?本当にこうなるの?と思ったものが、現実にそうなってSF作家の想像力にびっくりしたり、そうはならなくて、なんだ、ほらこうじゃん、と思ったりした。近未来を「予言」してみせた社会学者の言は当たるだろうか。

(2011年8月記)




 


24.

カレログ


テレビのニュースや携帯のニュースで見た。数十年前のSF作家が描いた(相互)監視社会がついに到来!?(゜o゜)

グーグル検索監視カメラ プライバシー
情報漏洩
プライバシー

(2011年9月記)



25.

革新者逝く


スティーブ・ジョブス逝く。先見性・創造性・革新・発想を変える・カウンターカルチャーの気風・審美眼。いろんな言葉で形容された人。

「それから、もうひとつ」をもう聞けない、そうだ。

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Appleの追悼ページ

(2011年10月8日記)



26.

共済年金


2011年11月7日(月)。きょう観た複数のテレビ番組を信じる限りにおいて、もしそれが本当なら、今日まで年金を運営してきた人たち・団体は、たんに「頭の悪い人」「知性に欠けた人」「想像力がない人」ではなく、「悪い人」「極悪人」「軽蔑すべき人々」ではないか?

(2011年11月7日記)