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アメリカ・イギリス占領地区[通貨改革以後 その2]

1Deutsche Mark(ドイチェ・マルク) = 100Pfennig(ペニヒ)

 ここでは、東西ドイツの分裂のきっかけとなった通貨改革時に発行された正刷切手を取り上げます。それより前の6月21日に発行されたポストホルン加刷切手は、こちらを参照してください。

1948.8.15 (日曜 Sonntag, Sunday)

1.ケルン大聖堂再建700年 付加金付き

 ゴシック様式の聖堂としては世界最大のケルン大聖堂(高さ157.38メートル、石材重量30万トン)が、建築技師のゲルハルト・フォン・リーレ(?-1260没)の設計によって、1248年8月15日から再建が開始されたのを記念して発行されました。
 ケルンの名前は、ローマ時代に建設されたローマ軍の駐屯基地である「コローニア・アグリッパエ」から由来しています。なお、アグリッパは、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が、後継者として考えていたオクタヴィアヌス(後の皇帝アウグストゥス)に不足していた軍事的才能を補うため、オクタヴィアヌスの片腕として補佐役を任された軍人でした。ケルン大聖堂の位置は、その基地の内部、ちょうど北東角付近の位置にあります。
 最初の寺院は、西暦400年から500年の間に作られた30〜40メートルの規模のアプス(後陣)と考えられています。その後の改築を経て、873年9月27日に聖堂(旧聖堂)が完成し、1164年に司教のライナルト・フォン・ダッセル(1120頃生-1167没)が、ミラノから東方三博士の聖遺物を聖堂に移したことで巡礼者が増加して、ケルンは発展していきましたが、1248年4月30日に火災が発生して、折からの強風でほとんど消失してしまいました。従って、現在の大聖堂は、再建後の新聖堂です。
 第二次世界大戦では、1942年5月30日(土)から始まった連合軍のケルン空爆以降、大聖堂は格好の標的になり、大小合計70発以上も被弾しました。特に、1943年11月3日(水)夜半の空爆による直撃弾は、高さ20メートル、広さ82平方メートルの亀裂を作る大きな被害を受けました。付加金付き切手の発行日の1948年8月15日(日)に行われた700年祭でも、まだ大聖堂は無惨な姿のままでした。修復は、1956年までかかっています。なお、ケルン大聖堂は、1996年に世界遺産に指定されました。

6+4Pfennig
聖母マリアの肖像
12+8Pfennig
東方の三博士の肖像
24+16Pfennig
ケルン大聖堂の全体
50+50Pfennig
ケルン大聖堂の前景

・1949年10月3日から、フランス占領地区でも通用しました。
・印面のバラエティがいくつか知られています。
・有効期限は1951年1月31日です。


1948.9.1 郵便料金改訂

1948.9.1 (水曜 Mittwoch, Wednesday)

2.建物図案シリーズ 通常切手

 通貨改革に伴う新通貨用のポストホルン加刷切手に代わって、新しい図案の切手が発行されました。このシリーズは、戦後の東西ドイツで発行された切手はもちろんのこと、戦前も含めて、ドイツで発行された切手の中でも、非常に変化に富んでいるシリーズとして有名です。色違い、印面のタイプ違い、目打ち違い、版欠点の多様さは驚くほどで、専門カタログが発行されているほどです。
 この切手は、ドイツ語の「Bauten」(複数形で、建物、建造物)から日本では建物切手と訳されていますが、「建物=屋根のある箱形の空間」をイメージすると、ブランデンブルク門がなぜ入っているのか疑問に思ってしまいます。そうイメージされる方には、むしろ、建造物という語感の方がよいかもしれません。

2Pfennig フランクフルト・アム・マインの議事堂
加貼り用
4Pfennig ミュンヘンのフラウエン教会
20gまでの印刷物
5Pfennig ケルン大聖堂
50gを超える外信印刷物の50gごとの追加料金
6Pfennig ミュンヘンのフラウエン教会
20gを超え50gまでの印刷物
8Pfennig フランクフルト・アム・マインの議事堂
市内用葉書
10Pfennig ケルン大聖堂
市外用葉書、100gまでの市内用書状、50gを超え100gまでの印刷物、50gまでの外信印刷物
15Pfennig ミュンヘンのフラウエン教会
500Markを超える価格表記の500Markごとの追加料金、10Markを超えて25Markまでの郵便振替手数料
16Pfennig フランクフルト・アム・マインの議事堂
加貼り用(旧市内用書状料金で用意したが、料金改定で該当せず)
20Pfennig フランクフルト・アム・マインの議事堂
20gまでの市外用書状、20gを超え250gまでの市内用書状、100gを超え250gまでの印刷物、外信葉書、20gを超え20gごとの外信書状の追加料金
24Pfennig ブランデンブルク門(東ドイツ側から見た向き)
加貼り用(旧市外用書状料金で用意したが、料金改定で該当せず)
30Pfennig ミュンヘンのフラウエン教会
250gを超え500gまでの市内用書状、20gまでの外信書状
40Pfennig ケルン大聖堂
書留料、20gを超え250gまでの市外用書状、250gを超え500gまでの印刷物
50Pfennig ブランデンブルク門(東ドイツ側から見た向き)
20gを超え40gまでの外信書状、市外用書留葉書
60Pfennig ケルン大聖堂
配達区域内速達料、250gを超え500gまでの市外用書状
80Pfennig ブランデンブルク門(東ドイツ側から見た向き)
20gまでの市外用速達書状、500gを超え1kgまでの市外用書状
84Pfennig ミュンヘンのフラウエン教会
加貼り用(旧市外用書留書状料金で用意したが、料金改定で該当せず)
90Pfennig ケルン大聖堂
20gを超え40gまでの外信書留書状、他
1Deutsche Mark リューベックのホルシュタイン門
小包、他
2Deutsche Mark リューベックのホルシュタイン門
小包、他
3Deutsche Mark リューベックのホルシュタイン門
小包、他
5Deutsche Mark リューベックのホルシュタイン門
小包、他

・1949年10月3日から、フランス占領地区でも通用しました。
・有効期限は高額面の1Markから5Markまでが1954年12月31日、他は1953年3月31日です。


1948.10.22 (金曜 Freitag, Friday)

3.建物図案シリーズ 追加・改訂

 最初に発行された建物図案シリーズは、4Pfennig切手と6Pfennig切手が茶色系統で紛らわしく、また、20Pfennig切手(青)と30Pfennig切手(橙)がUPU条約で決められた色(外信葉書は赤、外信書状は青)とちょうど逆であるので、色を変えることになりました。すると、新しい6Pfennig切手(橙)が、古い8Pfennig切手(橙)および古い15Pfennig切手(橙)と紛らわしく、新しい30Pfennig切手(青)が、古い50Pfennig切手(青)と紛らわしくなるので、他の額面も玉突き式に刷色を変更しています。
 また、新たに航空料金用の25Pfennig切手が追加されました。

6Pfennig ミュンヘンのフラウエン教会
20gを超え50gまでの印刷物
8Pfennig ミュンヘンのフラウエン教会
市内用葉書
15Pfennig フランクフルト・アム・マインの議事堂
500Markを超える価格表記の500Markごとの追加料金、10Markを超えて25Markまでの郵便振替手数料
20Pfennig ブランデンブルク門(東ドイツ側から見た向き)
20gまでの市外用書状、20gを超え250gまでの市内用書状、100gを超え250gまでの印刷物、外信葉書、20gを超え20gごとの外信書状の追加料金
25Pfennig ケルン大聖堂
20gごとの欧州宛書状の航空料金、欧州宛葉書の航空料金、100Markを超えて250Markまでの郵便振替手数料
30Pfennig ブランデンブルク門(東ドイツ側から見た向き)
250gを超え500gまでの市内用書状、20gまでの外信書状
50Pfennig ミュンヘンのフラウエン教会
20gを超え40gまでの外信書状、市外用書留葉書

・有効期限は1953年3月31日です。


1948.12.1 (水曜 Mittwoch, Wednesday)

4.ベルリン救済強制貼り付け切手

 西側の通貨改革に対して、ソビエトは報復措置として西ベルリンへの水道・電気の供給を停止し、周囲を封鎖したため、空輸による西ベルリンへの物資の輸送が行われました。こうした西ベルリン救済の一環として、アメリカ・イギリス占領地区の郵便物(ただし、ベルリン宛、東ドイツ宛、外国宛の郵便は除く)に寄付金として貼り付るための、2Pfennigの強制貼り付け切手が発行されました。この切手が貼られていない場合は、郵便物は差出人に返送されました。なお、すべての郵便物に貼られたわけではなく、除外された郵便物の種類もいくつかあります。
 フランス占領地区では、1949年から使用されましたが、各地域での使用時期はバラバラです。オーストリーにあるドイツの郵便局でも使用されました。
 目打ちなしと目打ちありが同時に発行されました。シートは、10×20の200面シートです。1956年3月31日までの長期間に渡り使用されたので、目打ちの違い、すかしの違いが多数あります。

無目打ち
目打ちあり

・有効期限は1956年3月31日です。


1948.12.9 (木曜 Donnerstag, Thursday)

5.ベルリン救済 付加金付き

 西ベルリン地区救済募金のための付加金付き切手が発行されました。

10+5Pfennig ブランデンブルク門
20+10Pfennig 同上

・目打ちは単線目打ち11ですが、11 1/2とのコンビネーションが存在します。
・有効期限は1951年6月30日です。


1949.4.22 (金曜 Freitag, Friday)

6.ハノーバー輸出見本市

 1948年にアメリカ・イギリス・ソビエト共同発行時代で発行されたハノーバー輸出見本市の切手が、1949年の東西対立により、アメリカ・イギリス占領地区でのみ発行されました。図案の中央に描かれた人物は、ドイツの画家であるハンス・ホルバイン(1497/98生-1543没、息子の方。父も同名)が1533年に描いたもので、ロンドンのハンザ同盟のメンバーでもあったドイツ人のヘルマン・ヒレブラント・ヴェーディックの肖像です。ホルバインは、ロンドンに渡り、当地で活躍するドイツ人商人の肖像画を他にも多く描いています。
 小型シート(売価1Mark)も同時に発行されました。

10Pfennig
ヘルマン・ヒレブラント・ヴェーディックの肖像と帆船と世界地図
20Pfennig
同上
30Pfennig
同上

小型シートの例

・有効期限は1950年5月31日です。

・小型シートは、オークションカタログからのコピーです。ご了承ください。


1949.5.15 (日曜 Sonntag, Sunday)

7.ドイツ横断自転車レース 付加金付き

 ドイツ横断自転車レースのための付加金付き切手が発行されました。
 この自転車レースは、1911年5月21日から27日にかけて行われたブレスラウ(現ポーランドのブロツラフ)−アーヘン間の1493キロメートルのレースが最初で、優勝者のハンス・ルートヴィッヒは54時間48分11秒で走破しました。
 第二次世界大戦直前の1939年6月1日から24日にかけて行われたレースは大規模なもので、ベルリンから現在のポーランドを経由し、前年にドイツが併合したオーストリーのウィーン、グラーツ、ザルツブルクを経て、南ドイツのアウクスブルク、西ドイツのケルン、ハノーバーを回り、ライプチッヒ経由でベルリンに戻るというドイツ一周の5049.6キロメートルもあり、優勝者のゲオルク・ウムベンハウザーは149時間33分51秒で走破しました。
 戦後は1947年に再開し、この付加金付き切手が発行された1949年のレースは、7月9日から23日にかけて行われました。レースのルートは、ハンブルク、ハノーバー、ビーレフェルト、ドルトムント、ケルン、フランクフルト・アム・マイン、マンハイム、フライブルク、ヴァルツフート、ジンゲン、ヴァンゲン、ガルミッシュ・パルテンキルヒェン、バート・ライヒェンハル、ミュンヘンの2833.4キロメートルで、優勝者のハリー・ザーゲルは85時間15分2秒で走破しました。
 なお、ほぼ同じ時期の1949年6月30日から7月21日にかけて、ツール・ド・フランスが行われています。こちらのコースは、4810キロメートルです。

10+5Pfennig
レースの選手
20+10Pfennig
同上

・有効期限は1950年8月31日です。


1949.8.15 (月曜 Montag, Monday)

8.ゲーテ生誕200年 付加金付き

 ドイツを代表する小説家、詩人、劇作家のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749生-1832没)の生誕200年を記念して、付加金付き切手が発行されました。西ベルリン地区ソビエト占領地区でも発行されています。なお。実際の誕生日は、8月28日です。

10+5Pfennig
ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン(1751-1829)画「カンパーニャのゲーテ」(1787年作)
20+10Pfennig
ヨーゼフ・カール・シュティーラー(1781-1858)画「ゲーテの肖像」(1828年作)
30+15Pfennig
フェルディナント・ヤーゲマン(1780-1820)画「ゲーテの肖像」

・有効期限は1950年8月31日です。


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