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もっとドイツを知ろう! 西ドイツの絵葉書(官製の絵葉書)
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Bevensen-Medingen ベフェンゼン=メディンゲン ベフェンゼン=メディンゲン(現バート・ベフェンゼン)は、ニーダーザクセン州にあり、リューネブルゲルハイデの東でイルメナウ川沿い、ハンブルクの南東約50kmに位置する人口8千人ほどの町です。バート・ベフェンゼンは、周辺の9つの村と地方自治体の形をとっており、3kmほど北西にあるメディンゲンもその1つです。5kmほど南にあるヤストルフもその1つですが、そこに鉄器時代の遺跡があり、一帯は古くから開けていたことがわかります。 ベフェンゼンは、763年に各地へ商品を売り歩く行商人の休憩地として記録があり、1162年に町が建設されました。空気がきれいなことから、1929年に空気療養(19世紀から流行した結核患者のための療法の一つ)の土地として、有名になりました。 絵葉書で紹介された写真は、周囲が森に囲まれたメディンゲンの修道院です。 この絵葉書の発行枚数は、2万枚です。 Bevensen-Medingen(現Bad Bevensen)の公式ホームページはこちらです。 |
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Coburg コーブルク コーブルクは、バイエルン州の北部、チューリンゲン州のすぐ南にあり、バイロイトの北西約60kmに位置する人口4万2千人ほどの町です。市の紋章は黒人の横顔ですが、これは聖マウリティウス(ムーア人)で、1430年から使われています。 コーブルクが最初に文献に登場するのは、1056年にポーランド王女のRichezaが大司教アンノ・フォン・ケルンに土地を贈与した際の証書です。1331年に皇帝ルートヴィッヒ・デム・バイエルから都市権を獲得しましたが、1485年からライプチッヒ領になり、ザクセン−コーブルク公国としてチューリンゲン地方との結びつきが長く続きます。しかし、1919年の住民投票で、チューリンゲンとの合併に88%もの反対票が投じられ、バイエルン州に組み込まれました。それが第二次世界大戦後、バイエルン地方がアメリカ軍に占領されて、コーブルクが西ドイツに属する結果になりました。(チューリンゲンは東ドイツへ。) 絵葉書で紹介された写真は、464mの高台に築かれたフランケンの冠とも呼ばれるコーブルク城砦(右上)と、コーブルク市内の風景、町を見下ろす女性(左)です。 この絵葉書の発行枚数は、2万枚です。 Coburgの公式ホームページはこちらです。 |
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Hannover ハノーバー ハノーバー(ハノーファー)は、ニーダーザクセン州の州都で、人口51万人を数える北ドイツの主要都市です。旧石器時代にさかのぼるほど古くから開けていて、1815年からはハノーバー王国になり、プロイセン=オーストリー戦争でオーストリー側についたことから、オーストリー敗戦の1866年にプロイセンに従属することになりました。第二次世界大戦で町の3分の2が破壊され、戦後はイギリス軍によって占領されています。 絵葉書で紹介された写真は、復興されたハノーバー市内の風景です。(ハノーバー在住のヘルベルト・グローベ氏撮影) この絵葉書の発行枚数は、2万枚です。 Hannoverの公式ホームページはこちらです。 |
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Holm-Seppensen ホルム=ゼッペンゼン ホルム=ゼッペンゼンは、ニーダーザクセン州にあり、リューネブルガーハイデの北端で、ハンブルクの南約15kmに位置する人口5700人ほどの村です。この葉書が発行された当時は、まだホルムとゼッペンゼンの2つの村でした。 1901年に人が住み始めた比較的新しい村で、1943年のハンブルク大空襲で多くの住民がこの地に疎開しました。 絵葉書で紹介された写真は、ホルム=ゼッペンゼンの風景です。 この絵葉書の発行枚数は、2万枚です。 |
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Kiel キール キールは、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の州都で、バルト海のキール湾に面する人口23万人ほどの港湾都市です。北海とバルト海を結ぶキール運河の東端に位置します。キールの名前は、フィヨルド(狭江)を意味する古語のKyleが転じたものです。 1233年から1242年にかけてホルシュタイン家の伯爵アドルフ4世によって建設され、1284年にハンザ同盟に加盟しましたが、1773年からデンマークの支配下になり、1864年のドイツ=デンマーク戦争(プロイセンとオーストリーの連合軍とデンマークとの戦争)、1866年のプロイセン=オーストリー戦争を経て、プロイセンに編入されました。良港があり、ドイツ海軍の基地が建設されたため、第二次世界大戦では連合軍の激しい空爆を受け、町の80%以上が破壊されました。戦後はイギリス軍によって占領されています。 絵葉書で紹介された写真は、オストゼーホールです。絵葉書の解説によると、展覧会や会議の利用に適しているそうです。 この絵葉書の発行枚数は、2万枚です。 Kielの公式ホームページはこちらです。 |
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Bad Mergentheim バート・メルゲントハイム バート・メルゲントハイムは、バーデン・ヴュルテンベルク州の北部にある人口2万2千人ほどの町です。 町が最初に文献に登場するのは1058年で、そのときはMergintaimという名前で記録されていました。1526年からドイツ騎士団の本拠地となって、歴代の騎士団の総長が居住していましたが、1809年にナポレオンにより領地を失いました。1826年に鉱泉が発見され、1926年に温泉を意味するBadが町の名前に追加されました。 絵葉書で紹介された写真は、温泉の社交広間(パンプルーム)の建物です。絵葉書の解説によると、建物は暖房つきで、鉱泉は胆嚢、肝臓、心臓、糖尿病、脂肪過多症、慢性的な便秘に効用があるそうです。 この絵葉書の発行枚数は、2万枚です。 Bad Mergentheimの公式ホームページはこちらです。 |
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Travemünde トラーフェミュンデ トラーフェミュンデは、シュレスビッヒ=ホルシュタイン州の南東部にあり、リューベック湾に面した人口1万3千人ほどの町で、リューベックの北東約5kmに位置します。旧東ドイツとの国境がすぐ東にありました。北欧との定期船の発着点ともなっています。 町は1187年に建設されましたが、1872年11月12日夜半から13日にかけてバルト海の暴風雨におそわれ、13日朝の高波により、多数の家屋が被害に遭いました。1913年から翌年にかけて保養所が作られ、ここで公共のカジノが行われるようになりました。 絵葉書で紹介された写真は、カジノに興じる人々(手前)と、海水浴場(右上)です。 この絵葉書の発行枚数は、2万枚です。 Travemündeの公式ホームページはこちらです。 |
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Travemünde トラーフェミュンデ 絵葉書で紹介された写真は、カジノの建物です。上の葉書に使われた写真は、構図から見て、この建物の右側と思われます。葉書の解説によると、この建物が(ドイツの)インターナショナルなカジノの場所であり、ルーレットやバカラが楽しめたそうです。 この絵葉書の発行枚数は、2万枚です。 |
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