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08 一人称

自らを語る呼称の難しさ

 いつものようにWebを巡り歩いていたら、田口ランディという作家の方が、藤森直子さんのWeb日記から、一部、無断引用を行い、謝罪と文庫化に際し改稿するという記事を見掛けた。しばらく前に、整体師の片山洋次郎さんの著書からの無断引用が話題になっていただけに、少々、驚いた。以前、購読していたPC関係のMail ニュースの中に、この田口ランディという方のコラムが掲載されていたので、名前はよく憶えていたのだ。

 出版社のWebには、同氏による経緯説明文が掲載されているが、少々、言い訳がましく思えたので、Naoこと藤森直子さんをWebを覗いてみたところ、お知らせの中に、Naoさんとしての言い分が書かれていた。事の真相は当事者にしか分からないことだが、私の目にはNaoさんの言い分の方が、筋が通っているように思う。『取り急ぎのお知らせ』の文面からは、疲れた、話し合っても無駄、という雰囲気が滲んでいるように思う。被害を受けた側が納得していない説明文に何の意味があるのだろうか。

 今回、私が興味惹かれたのは、もちろん、この無礼な説明文のこともあったのだが、それよりも、無断引用され問題になった箇所の中にあった、『指さし一人称の青年』の話の方だった。

 Naoさんの職業はSMの女王様。客のM男(マゾの男こと)の中に、自分のことを『僕』や『俺』など、一人称で呼ぶことが出来ず、その代わりに人差し指で自らを指さす人がいるのだという。小さい頃から、何かエラソーな気がしてしまい、言うのが恥ずかしいのだそうだ。

 その一方、当のNaoさんの方も、昔、一人称では苦労してきたそうで、『あたし』と言うことが出来ず、中学くらいまで『自分』と言い続けていたとのこと。今は何とか一人称を使えるようになり、自らのことを『あたし』を『とてもラク』というNaoさんだが、なぜ、昔、『あたし』と言えず苦労したのか、その理由については分からないのだそうだ。

 ここを読む何人かの方はご存じだと思うが、実は私も、自らを『僕』や『俺』と呼ぶのに抵抗があるクチだ。私の場合、子供の頃は、普通に、『僕』や『俺』が言えていたように記憶している。成長して、中・高校生にもなると、公の場所で『私』という一人称を使うようになり、公の一人称と個人の領域の一人称の使い分けを覚え始め、社会に出るようになるころには、それが当たり前になっていたように思う。そして、気が付いたら、私は『僕』や『俺』というパーソナルな一人称に、心理的抵抗を覚えるようになっていた。

 公の領域で『私』というのには、心理的抵抗はない。しかし、例え会社の中であっても、『私』だけでは通せない。例えば会社の同僚や後輩、あるいは事務の女性と、世間話などをする際などの人間関係は、公のものというより、個人の領域である。

 「昨日のテレビ見た?」
 『見た見た、面白かった』
 「僕は最初に出てきたグループが良かったんだけど○○さんは?」

 …私はここで、『僕は』とも『俺は』とも言えない、言いたくない。この場合は、一人称を言わずに、

 『そうそう、あのグループが良かったよね』

 とだけ言うのだ。何か話しかけるときも、何か答えるときも、無意識、意識的を問わず、一人称を言わずに済む方法を探してしまうのである。

 ところが、時として、どうしても一人称を言わないと、話が通じない場面に出くわしてしまうことがある。こうなると困る、困る。一瞬、言葉が出てこなくなることもある。無理矢理、個人の領域でも『私』を使ってしまうこともあるが、仕方なく『僕』や『俺』と言ってしまうこともある。そして言った後に、何とも居心地が悪い思いをすることになるのだ。

 なぜ、私は『僕』や『俺』と言うのが嫌なのか?。『僕』の中には、幼さ、甘えのような響きとイメージを『俺』の中には、やや尊大な感じや、粗野な感じ、あるいはことさら男性であることを強調する意味合いをそれぞれ感じてしまう。このため、これらの言葉を自ら使うことに、嫌悪感を抱いてしまうのだ。

 私には個人の領域で私を称する、自らを体現出来る一人称がない。一時は全てを『私』で通してしまおうと思ったこともあったが、男性にとっての『私』は、やはり公の領域でのみ用いる一人称であり、使ってみると、何とも場違いな気がして、これまた嫌な感じになってしまう。

 こんな思いを抱いているのは、私だけなのだろう。そんなことを思っていた時に見付けたのが、上野千鶴子さんのミッドナイト・コールという文庫本だった。朝日新聞に連載されたエッセイをまとめたこの本の中に、『ジェンダー』というタイトルの項がある。そこに書かれていたのは、私と同じように、一人称に抵抗を覚える男性の話だった。

 もちろん、私と全く同じではない。ちょっと違うが、かなり近いことが書かれているように思う。そして私は、私と同じような問題を抱える人間が、他にも世の中いたのだということに安心した。それと同時に、この問題を指摘したのが、男性ではなく女性だったことに、軽いショックも覚えた。

 実は一度だけ、『僕』という男性を格好良いと思ったことがある。仕事の関係で訪れた、ある役職に就いている初老の男性が、自らのことを『僕』と称したのだが、これが妙に格好良く印象に残っていている。決してハンサムではなく、おじさんとおじいさんの間くらいの感じの方だったが、彼の言う『僕』の中には、幼さや甘えはなく、もちろん、『俺』や『ワシ』のような尊大さもない。いや、どちらかというと謙虚なイメージだ。

 あれくらいの世代になると、『僕』の中に甘えるようなイメージは含まれなり、格好良く思えるのだろうか。あるいは幼いころに使っていた『僕』ではなく、ある程度、人生経験を積んだ方が手に入れることが出来る、新たな『僕』という一人称なのかもしれない。私にも、いつかの日か、『僕』が違和感なく使える日が来るのだろうか。しかし、それまでは、私は自らの一人称を持てないまま、ふらふらと過ごさねばならなさそうだ。


2002/04/04:作成

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