第九十六話「月の魔法・3」


「ごめん」
 紅子は竜介の顔も見ず、すぐに謝った。
 「どうして」なんて訊くべきじゃない。
 少なくとも、自分なら家族のことを詮索されたくない。
「今の質問、聞かなかったことにして」
「いいさ、別に。隠しておくほどのことじゃない」
竜介は空になったグラスに酒をつぎ足しながら、言った。
「気づいてたんだろ?墓誌で、美夜子サンの享年を見たときに」
「わかってたの?」
 紅子が驚いて聞き返すと、彼は微苦笑した。
「きみはすぐ顔や態度に出るからね。心ここにあらずって感じだったから、あー、これは絶対気づいてるなぁって思ってた」
竜介は酒を一口舐め、続けた。
「きみが考えてる通りだよ。うちの親父は、母さんが苦しんでいるとき、よそに女を作って、子供まで産ませてたんだ」

 静かな口調とは裏腹の、侮蔑的な言葉。
 紅子は返すべき言葉を見つけられず、竜介の顔を見ることもできず、ただ自分の膝に視線を落とした。
 その沈黙を彼がどう解釈したかはわからない。
 ただ、彼は問わず語りに言葉を続けた。

 彼の両親――美夜子と貴泰の婚姻は、本人たちの意志とは関係なく、双方の親同士が決めたものだった。
 美夜子の実家は、紅子でさえ名前を知っているほど有名な旧財閥系の名家で、互いの「家」にとっては、この上なく理想的な婚姻であったらしい。
 とはいえ、夫婦仲は悪くなかった――少なくとも、鷹彦が生まれるまでは。
 鷹彦が生まれるのと相前後して、竜介たちの祖父は体調を崩し、社長職を息子である貴泰に譲ったのだが、それがすべての発端だった。
 貴泰は多忙のあまり東京の別宅に寝泊まりすることが増え、妻子のいる本宅へ帰ることが激減してしまったのである。
 元来、お嬢様育ちで気位が高く、少し神経質なところがあった美夜子には、これが不満だったようだ。
 顔を合わせれば口論になり、貴泰の足は本宅からますます遠のく、という悪循環。
 やがて、日奈の妊娠、朋徳の失跡と、騒動に次ぐ騒動に見舞われ、神経をすり減らしたのだろう。
 美夜子は毎晩、就寝前に睡眠薬を服用するようになっていた。
 そして――

「量を間違えたのか、それは今もわからない。遺書もなかったらしいから」
 事故だと思いたい。
 そんな気持ちが、言葉ににじんでいた。
 喪が明ける頃、貴泰は一人の女性と、一歳くらいの赤ん坊を本宅へ連れてきた。
 竜介たちの現在の母親である英莉と、妹の涼音である。
 英莉は、美夜子とはまったく違うタイプの女性だった。
 名家の令嬢として育ち、自分にも他人にも厳しく、良くも悪くも完璧主義者だった美夜子に対し、英莉はどこかふわふわと頼りなかったが、大らかで、女性らしい温かさがあった。
 鷹彦はすぐにこの新しい母親に懐き、竜介と虎光が彼女となじむのにも、さほど時間はかからなかった。
 涼音という妹の出現もまた、彼ら兄弟にとって、格別の出来事だった。
 家の中に、温もりと明るさが戻ってくる――
 そんな予感があった。
 ところが、貴泰が正式に再婚し、英莉と涼音が紺野邸に入るのと入れ替わるように、竜介たちの祖父母は日本を離れ、海外に移住してしまう。
 祖父の体調が優れなかったのは事実だ。
 だから、一年を通して寒暖差があまりなく、水や空気がきれいな海外へ転地療養するのだという表向きの理由を、当時、子供だった竜介は何の疑いも持たずに信じた。
 楽しく、平穏な毎日。
 しかし、それも長くは続かなかった。

「小五に上がる前の春休みだったかな、仲の良かった保健室の先生が赤ん坊を産んだって聞いたから、友達数人と一緒に病院まで見舞いに行ったんだ。その中に一人、ませたヤツがいてさ。帰り道、赤ん坊が四月生まれってことは、先生が妊娠したのは去年の八月ごろなんだぜ、とか言い出して、みんな、おもしろ半分に自分やきょうだいの生年月日を逆算し始めて……そのとき、気づいたんだ」
自分の父親が、犯した罪に。

「殺してやろうかと思った」

 まるで世間話でもするのと同じ口調で彼がそう言ったとき、紅子は心臓が締め付けられるような胸苦しさを覚えた。
 殺す。誰を?
 訊かなくてもわかる。
 なぜ、祖父母が英莉と涼音の二人と入れ替わりに紺野邸を出たのか。
 そうしなければ、美夜子の生家へ申しわけが立たなかったからだ。

 誰も信じられない。
 誰にも相談できない。
 何も知らずに新しい母親に甘えている虎光と鷹彦が哀れでもあり腹立たしくもあり、可愛がっていた涼音さえもうとましくて、彼は自宅を飛び出し、武術の師匠である泰蔵の家に入り浸った。
 泰蔵夫婦は、竜介の様子からすべてを察したらしく、何も言わずにいてくれた。
 一人息子だった玄蔵が家を出て、寂しかったから、というのも理由の一つかもしれない。
 学校がひけた後は、ひたすら鍛錬に打ち込んだ。
 そうすれば、夜、何か考える間もなく、眠りに落ちることができたから。
「今もたまに、考えることがある……あのとき、師匠がいなくて、没頭できるものも何もなかったら、俺はどうなってたんだろうなって」

 夏休みになっても自宅に帰ろうとしない竜介に、泰蔵はあるとき、
「盆くらい、帰ったらどうだ」
と帰宅をうながした。
「このままここにいても、何も変わらんぞ」
 一人では帰らないと言う幼い弟子のわがままを聞き入れ、泰蔵が彼を伴って紺野邸の敷居をまたいだのは、盂蘭盆も最終日の、夕刻のことだった。
 泰蔵が事前に連絡をしていたのか、家には貴泰も帰っていた。
 久し振りに帰宅した長兄と遊びたがる弟妹をどうにか遠ざけ、真新しい供物の並ぶ仏間で、竜介は泰蔵と共に両親と向き合った。
 貴泰は息子に頭を下げ、英莉は、自分と涼音はこの家を出るから竜介に帰ってきて欲しい、と思い詰めた表情で言った。
「そのとき、やっとわかったんだ」
竜介は言った。
「今、ここで親父を殴り倒しても、新しい母さんが出ていっても……もう、俺を産んでくれた人は戻ってこないって」

 竜介はしばらくの間、黙り込んだ。
 どこか遠い目をしてグラスを傾けるその横顔は、これまでに紅子が見てきたどんな彼とも違っていた。
 晩秋の庭は虫の声もなく、竜介の話が途切れると、風に揺れる木々の葉ずれの音がかすかに聞こえる他は、まったくの無音と言ってよかった。
 まるで、この世界で今、生きて動いているのが彼ら二人だけであるかのように。
 紅子は、この沈黙を和らげるに相応しい言葉を探したけれど、見つからなかった。
 ただ――ただ、涙だけが、頬を伝った。

2009.3.28


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