第九十六話「月の魔法・3」


 紅子は竜介の顔から視線をはずすと、また自分のつま先に目を落とした。
「……ありがとう」
 素直に言葉が出た。
 初対面のときから自分の中にあった、彼に対するわだかまりが、どんどん小さくなっていく気がする。
 代わりに少しずつ膨らんでいくこの気持ちは――何だろう?
「そんなに前から気にかけてくれてたなんて。あたし、何も知らなかった」
 母親がいないということや、父たちが何らかの秘密を抱えているらしいことに、これまで不安や寂しさを感じたことなどなかったといえば嘘になる。
 父たちが、一色家の血縁関係について何かを隠しているようだと感じても、いつか、自分がもっと大人になったら話してくれるのだろうと思っていた。
 父親からも祖母からも、厳しくも大事に、何不自由なく育てられた。友達にも恵まれた。
 何も知らなくても、十分幸せだった。

 けれど、今――
 ずっと見ないようにしていた心の穴を埋めるピースが、やっと見つかった気がした。

「もっと早く教えてくれてもよかったのに」
 紅子が不満げにつぶやくと、竜介はグラスに酒を継ぎ足しながら弁解した。
「俺より師匠のほうが経緯をよく知ってるから、ここに来るまでは中途半端に話さないほうがいいと思ったんだよ」
次いで、グラスの中身を一口すする。
「それに、君は俺の話なんか聞く耳持たなかったろ」
 紅子はぐっと言葉に詰まった。
「……今は聞いてるじゃん」
「へえそうかい?」
「そうだよ!」
紅子はむきになって言い返す。
「そもそも、第一印象が最悪なんだよね!なんでもっとまともな格好で、玄関から来なかったの?」
「あーまあ、言い訳が続くけど、それは俺にも事情ってもんがあってだな」
彼は苦笑して頭を掻いた。
「あのときは、海外旅行中にいきなり実家から呼び出しくらって、空港から直接、一色家に行くように言われてさ。久しぶりだったから道には迷うし、腹は減るしで、一色家の長い塀をショートカットしようとしたら、たまたまそこに君がいたってわけ」
「……海外旅行?」
 あんな汚い格好で?
 紅子は疑わしそうに竜介の顔を横目でにらんだが、彼は真顔でうなずいた。
「そう。俺、バックパッキングが趣味なの。でもほら、このツラだろ?」
と、自分の童顔を撫でる。
「変なヤローに絡まれたり、未成年扱いされたり、いろいろ厄介だから、向こうではひげそりも散髪も一切しないことにしてるんだ。安宿ならあんな格好でもたいていオッケーだし」
 竜介の祖父はすでに仕事をリタイアして、現在は祖母と一緒にオーストラリアに住んでおり、彼はそこに何度か遊びに行くうち、金をかけずに海外に長期滞在する方法を学び、いろいろな国を旅するようになったらしい。
「危なくないの?」
 紅子の質問に、竜介はこともなげに答えた。
「危ないよ。色んな意味で」
そしてグラスの中身を飲み干すと、こう付け加えた。

「でも、少なくとも海外にいる間は親父の顔見なくて済むから、気が楽なんだ」

 紅子は昼間見た美弥子の命日を思い出し、言葉に詰まった。
 何も言えない紅子の顔をちらりと見てから、竜介は空っぽになったグラスに視線を落とすと、静かに言った。
「気づいてたんだろ?昼間、墓誌で美弥子さんの命日を見たとき」
「わかってたの?」
 紅子が驚いて竜介の顔を見ると、彼は頬をゆるめて言った。
「わからいでか。あの後、あからさまに様子がおかしかったじゃないか」
再び手の中のグラスに視線をもどし、続ける。

「君が考えてる通りだよ。うちの親父は、母さんが苦しんでいるとき、よそに女を作って、子供まで産ませてたんだ」

 静かな口調とは裏腹の、侮蔑的な言葉。
 紅子は返すべき言葉を見つけられず、竜介の顔を見ることもできず、ただ自分のつま先に視線を落とした。
 その沈黙を彼がどう解釈したかはわからない。
 ただ、彼は問わず語りに言葉を続けた。

 彼の両親――美弥子と貴泰の婚姻は、本人たちの意志とは関係なく、双方の親同士が決めたものだった。
 美弥子の実家は政財界では知られた旧家で、互いの「家」にとっては、この上なく理想的な婚姻であったらしい。
 夫婦仲は悪くなかった――少なくとも、鷹彦が生まれるまでは。
 鷹彦が生まれるのと相前後して、竜介たちの祖父が体調を崩し、社長職を息子である貴泰に譲ったのだが、それがすべての発端だった。
 貴泰は多忙のあまり東京の別宅に寝泊まりすることが増え、妻子のいる本宅へ帰ることが激減してしまったのである。
 元来、お嬢様育ちで気位が高く、少し神経質なところがあった美弥子には、これが不満だったようだ。
 顔を合わせれば口論になり、貴泰の足は本宅からますます遠のく、という悪循環。
 やがて、日奈の妊娠、朋徳の失跡と、騒動に次ぐ騒動に見舞われ、神経をすり減らしたのだろう。
 美弥子は毎晩、就寝前に睡眠薬を服用するようになった。

 そして――

「量を間違えたのか、それは今もわからない。遺書もなかったらしいし」
 事故だと思いたい。
 そんな気持ちが、言葉ににじむ。

 喪が明ける頃、貴泰は一人の女性と、一歳くらいの赤ん坊を本宅へ連れてきた。
 竜介たちの現在の母親である英莉と、妹の涼音である。
 英莉は、美弥子とはまったく違うタイプの女性だった。
 名家の令嬢として育ち、自分にも他人にも厳しく、良くも悪くも完璧主義者だった美弥子に対し、英莉はどこかふわふわと頼りなかったが、大らかで、女性らしい温かさがあった。
 鷹彦はすぐにこの新しい母親に懐き、竜介と虎光が彼女となじむのにも、さほど時間はかからなかった。
 涼音という妹の出現もまた、彼ら兄弟にとって、格別の出来事だった。
 家の中に、温もりと明るさが戻ってくる――
 そんな予感があった。
 ところが、貴泰が正式に再婚し、英莉と涼音が紺野邸に入るのと入れ替わるように、竜介たちの祖父母は日本を離れ、海外に移住してしまう。
 祖父の体調が優れなかったのは事実だ。
 だから、一年を通して温暖なオーストラリアへ転地療養するのだという表向きの理由を、当時、子供だった竜介は何の疑いも持たずに信じた。
 楽しく、平穏な毎日。
 しかし、それも長くは続かなかった。

2009.3.28

2021.5.22改稿


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