第九十七話「月の魔法・4」


 紅子の頬が濡れていることに気づくと、竜介は驚いた様子でグラスを置いた。
「どうして、きみが泣くんだ」
「……別に、な、泣いてなんか……」
 紅子はどうしようもなくあふれる涙を指先で懸命にをぬぐいながら、否定しかけてやめた。
 どう取り繕っても、これは泣いているようにしか見えない。
 視線を上げると、心配そうにこちらを見ている竜介と目が合った。
 だが、泣き顔を見られることよりも、そうして気遣われることのほうが今は辛くて、彼女はどうにかして彼の質問に答えようとした。
「だって……ふ、ぐすっ……可哀想すぎて……」
 嗚咽の発作と戦いながらなので、うまく言葉にならない。
 さっきまでの高揚感はどこへやら、なすすべもなく、ただ感情だけが突っ走っていく。
「まだ、しょ、小学生……だったのに……っく、そんな、大人みたいに……考えなきゃ……いけなかっ……た、なんて……」
何とかそれだけ言って顔を伏せると、目から落ちるしずくが、ぱた、ぱた、と、床にいくつか丸いしみを作るのが見えた。
 そのとき――
 不意に、何かが紅子の肩をとらえた。
 ゆっくりと世界が傾き、気づいたときには、彼女は竜介の胸に倒れ込んでいた。
「きみが悲しむようなことじゃない」
竜介は紅子の肩を抱き寄せ、言った。
「でも、ありがとう。泣いてくれて」
 彼にしてみれば、泣いている子供か何かを慰めるときにするような、通常のスキンシップのつもりだったのかもしれない。
 しかし、それは紅子に全身の血が沸騰したかのような衝撃を与えた。
 次の瞬間、紅子は彼を両手で突き飛ばそうとした。
 少なくとも、自分ではそうしたつもりだった。
 だが、どうしたことか、その手はやわやわと相手の胸を押すだけで、ほとんど力が入らない。
「……やっ、ちょっと……放して」
 そう言って紅子がもがくと、ようやく――といっても時間にすればほんの数秒なのだが――竜介は彼女を解放した。
 紅子は床に片手をついて平衡感覚を失った我が身を支えながら、もう片方の手で自分の胸を抑え、はね回る心臓と乱れた呼吸を静めようとした。
 目の端で竜介をとらえると、彼は苦いものを含んだような笑みを浮かべていた。
 それがどことなく残念そうにも見えたのは、紅子の気のせいだったろうか。
「ごめん」
と、彼は謝った。
「ちょっと酒がまわってきたかな。そろそろお開きにしないか」
 紅子はあわててかぶりを振った。涙はさっきの衝撃で乾いてしまっている。
「話は?あれで終わりなの」
あともう少しだけでもいい。彼の話を聞いていたい。
「竜介は全部納得して、こっちの家に帰ったの?」
「まさか」
彼は肩をすくめて苦笑した。
「親父のやらかしたことに気づいてから、たった4ヶ月だぜ。いくらなんでも、俺はそこまで物わかりよくねぇよ。本当にこっちにずっといるようになったのは、あれから1年くらいあとかな。少しずつ、この家にいる日が増えていって……そうだ、思い出した」
 何を?
 紅子がそう訊く前に、彼はふっと表情を和ませ、続けた。
「きみと初めて会ったときのこと」
 紅子は怪訝な顔をした。
「つい最近でしょ?」
 竜介はかぶりを振った。
「そうじゃなくて、前にも言ったと思うけど、俺はそれより昔、きみと会ってるんだ」
「いつ?」
「きみが二歳くらいのとき」
 紅子は怒ったように言った。
「そんなの、あたしは憶えてなくて当然じゃん」
「そりゃそうか」
 竜介はそう言ってくすくすと笑う。
「でも、なんで?あたしがこの家に来たってこと?」
「いや、俺が一色の家に行ったんだよ」
それから、彼はややためらいがちに続けた。
「……日奈おばさんの、葬式に出るためにね」

 日奈が亡くなったのは、竜介が紺野邸に戻らなくなったのと同じ年の、年末のことだった。
 紅子を出産したあと、それ以前にもまして体調を崩しがちだった彼女は入退院を何度か繰り返しながら、娘の3歳の誕生日を見ることなく、逝ってしまった。
 それはまるで、ろうそくの炎が少しずつ小さくなり、やがて燃え尽きて消えるように、静かに。
「俺は師匠に頼んで連れて行ってもらったんだ。玄蔵おじさんにも久し振りに会いたかったし……でも、行ってちょっと後悔したかな。おじさんは、とても話ができるような状態じゃなかった。ま、当たり前といえば当たり前なんだが」

 恋女房を亡くした玄蔵はひどくやつれ、その落胆ぶりは目に余るほどだったようだ。
 葬儀の喪主は彼のはずだが、実際に仕切っていたのは八千代だったらしい。
 彼がそのとき、いかに使い物にならない状態だったかがわかる。
 日奈の最期にも似て、葬儀はひっそりとしていた。
 弔問に訪れたのは日奈の学生時代の友人数名に、近隣の顔見知り、それと八千代が開いている茶道や華道の教室に通う生徒たちくらいであったし、親族席も喪主である玄蔵と八千代のほかは、泰蔵と竜介、それに黄根家からは朋徳の妹だという、四十代くらいの女性しか来ておらず、閑散としたものだった。
「それでも、二歳のきみには珍しいことだらけだったんだろう。八千代おばさんに抱っこされながら、目を丸くしてきょろきょろしてた。可愛かったな」
 そう言って懐かしそうに微笑む竜介を見ていると、紅子はなんだか照れくさくなってきた。
 彼は話を続けた。
「きょろきょろするだけなら問題ないんだが、あちこち指さしては、あれ何、これ何、って大声で訊くもんだから、おばさんはかなり困ってたみたいで、俺は着くなりベビーシッターに任命されたよ。奥の部屋でこの子と遊んでやってくれないか、ってね」
 もっとも、小学生の彼にしてみれば、慣れない葬儀の席で足をしびれさせるよりは、小さな紅子と遊ぶほうがずっと気楽に違いなかったが。

 最初は人見知りしていた紅子も、一緒に昼食を食べたりするうち、竜介に慣れたようだ。
 出棺の直前、死者と最後の別離を惜しむときには、小さな紅子は彼の腕に抱かれてその場に参列した。
 ふたを取り払われた棺の中の日奈は、美しく化粧を施されて、今にも起き出しそうだった。
 居並ぶ客人たちの手で、色とりどりの花がその枕頭を飾っていく。
 それを紅子は、眠そうに見ていた、と竜介は言った。
「日奈おばさんはきみが1歳をすぎたくらいからほとんど病院暮らしだったらしいから、誰だかわからなかったのかもしれない。泣かれるよりはずっといいけど……酷な話だよな。自分の母親がわからないなんて」
 弔問客が帰り、親族席にいた大人たちが棺とともに火葬場へ行って家の中が静かになると、小さな紅子は眠ってしまった。
 竜介の指を握ったまま。
 それは、竜介がほどこうと思えば簡単にほどけるくらいの、わずかな力だった。
 だが、彼はそうしなかった――できなかった。
「この子もいつか、たぶん、俺みたいに母親がいなくて寂しい思いや悲しい思いをすることがあるんだろうな、と思うとさ。もっとも、その日は朝が早かったから、途中で俺も一緒に寝ちまったんだけど」
そう言って彼は笑った。
「師匠もだけど、俺も、ずっときみのことが気がかりだったんだ。うちの涼音には両親はもちろん、兄貴が3人もいるのに、たった2歳で、きみの家族は祖母と父親だけになっちまった。二人に何かあれば、きみは独りだ。だから、本当はもっと早く、きみに会いたかった。でも……」
 八千代が、それをさせなかった。

 大人たちが日奈の骨董を持って帰ってきたのは、午後4時を少し過ぎたくらいだったろうか。
 冬のことで外はもう暗かったが、泰蔵と竜介は日帰りのつもりだったし、これ以上、魂の抜け殻のような玄蔵を見ているのも辛かったから、夕食の誘いを断り、一色家を辞することにした。
 朋徳の妹という人も同じ心づもりだったようで、連れのいない彼女は玄関から先には入らず、泰蔵たちよりひと足先に暇を告げ、帰っていった。
 泰蔵は紅子と一緒に眠り込んでいた竜介を起こすと、帰り支度をするように言い、八千代に辞去のあいさつをあらためて告げた。
 そのときのことである。
 彼は「ではまた、一周忌に」というようなことを気丈な女当主に言ったのだが、彼女からの返事は、予期せぬものだった。

「どうかもう、この家にはおいでにならないでください」

 八千代は言った。
 一色家は御珠とそれに連なる家々との交わりを一切絶つ、と。
 紅子には魂縒を受けさせない。
 御珠のことも教えない。
 神女ではなく、普通の娘として育てる。
 彼女はそう宣言したのだった。

2009.4.14


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