第九十七話「月の魔法・4」
小五に上がる前の春休みだったかな。
年度の途中で産休に入った担任の先生が赤ん坊を産んだって聞いたから、友達数人と一緒に病院まで見舞いに行ったんだ。
その中に一人、ませたヤツがいてさ。帰り道、赤ん坊が四月生まれってことは、先生が妊娠したのは去年の八月ごろなんだぜ、とか言い出して。みんな、おもしろ半分に自分やきょうだいの生年月日を逆算し始めて。
そのとき、気づいたんだ。
自分の父親が、犯した罪に。
「殺してやろうかと思った」
世間話でもしているような口調で竜介がそう言ったとき、紅子は心臓が締め付けられるような胸苦しさを覚えた。
なぜ、竜介たちの祖父母は、英莉と涼音の二人と入れ替わりに紺野邸を出たのか。
そうしなければ、美弥子の生家へ申しわけが立たなかったからだ。
何も知らずに新しい母親に甘えている虎光と鷹彦が哀れでもあり腹立たしくもあり、可愛がっていた涼音さえもうとましくて、竜介は自宅を飛び出し、武術の師匠である泰蔵の家に入り浸った。
泰蔵夫婦は、竜介の様子からすべてを察したらしく、何も言わずにいてくれた。
誰も信じられず、誰にも相談できず――
学校がひけた後は、ひたすら鍛錬に打ち込んだ。
そうすれば、夜、何か考える間もなく、眠りに落ちることができたから。
「今もたまに、考えることがある……あのとき、師匠がいなくて、没頭できるものも何もなかったら、俺はどうなってたんだろうなって」
夏休みになっても自宅に帰ろうとしない竜介をみかねて、泰蔵はとうとう、
「盆くらい、帰ったらどうだ?このままここにいても、何も変わらんぞ」
と、帰宅を促した。
一人では帰らないと言う幼い弟子のわがままを聞き入れ、泰蔵が彼を伴って紺野邸の敷居をまたいだのは、盂蘭盆も最終日の、夕刻のことだった。
泰蔵が事前に連絡をしていたのか、家には貴泰も帰っていた。
久し振りに帰宅した長兄と遊びたがる弟妹をどうにか遠ざけ、真新しい供物の並ぶ仏間で、竜介は泰蔵と共に両親と向き合った。
貴泰と英梨は息子に頭を下げた。
「あのときは驚いたよ」
竜介は空っぽになったグラスを相変わらず手の中でくるくると弄びながら言った。
「てっきり頭ごなしに、家に戻れって言われるもんだと思ってたから。他人に頭を下げてるところなんか見たことがない親父が、まさか俺に向かって両手をついて詫びを入れてくるとは、ってね」
貴泰がそこまでする理由は、その隣にいた英莉が涙ながらに告げた言葉でわかった。
「私は涼音を連れてこの家を出ます」
だから、どうかこの家に帰ってきて。お願いします。
貴泰は、己のプライドを曲げても、英梨を失いたくなかったのだ。
「そのとき、やっとわかったんだ」
竜介はぽつりと言った。
「今、ここで親父を殴り倒しても、英梨さんが出て行ったとしても……もう、俺を産んでくれた人は戻ってこないって」
この世にいない人のために、今生きているこの人たちの幸せを、犠牲にしちゃいけないんだ、って。
彼はずっと手の中に持っていた空のままのグラスをおもむろに脇に置くと、空いた手で頬杖をついた。
月に照らされたその横顔は、これまでに紅子が見てきたどんな彼とも違っていた。
何かを諦めた、静かな大人の顔。その向こう側に、一瞬、当時まだ小学生だった彼が重なる。
母親を亡くした悲しみ、家族を裏切った父親への怒り、新しい家族に対する戸惑い――
この人はすべての気持ちを飲み込んで、耐えてきたんだ。
誰にも、何も言わずに、たった一人で。
紅子は何か言おうとした。
けれど、胸の痛みに呼吸を奪われて、声が出なかった。
ただ――涙だけが、頬を伝い、落ちた。
竜介は紅子の頬が涙で白く光っているのを見ると、驚いて言った。
「どうして、君が泣くんだ」
「別に、泣いてなんか……あれ、ホントだ」
紅子は否定しながら、自分の頬を触ってみて、濡れていることに気づいた。
視線を上げると、竜介が心配そうにこちらを見ている。
「あはっ……変だよね、あたし」
気遣われまいと笑ってごまかそうとしたけれど、うまくいかない。
「……だって、あたし、腹が立って」
紅子は涙でつっかえながら言った。
「貴泰おじさんも、英梨おばさんも……ずるい。そんなの、何も知らない虎光さんや鷹彦や涼音を、人質に取ったようなもんじゃん」
そのとき――
不意に、何かが紅子の肩をとらえた。
ゆっくりと世界が傾き、気づいたときには、竜介の胸に倒れ込んでいた。
「ありがとう」
すぐ耳元で、竜介の声がした。
頬に、吐息がかかった。
「俺のために、泣いてくれて」
彼にしてみれば、泣いている子供を慰めるときにするような、通常のスキンシップのつもりだったのだろう。
しかし、それは紅子に全身の血が沸騰したかのような衝撃を与えた。
涙は一瞬で蒸発し、次の瞬間、紅子は弾かれたように竜介から離れた。
竜介は首まで真っ赤になった紅子を、ちょっとびっくりした顔で眺めたあと、
「ごめん、酒臭かったかな」
と笑って頭を掻いた。
紅子は衝動的にものすごい勢いで首を縦に振り、言った。
「そそそうだよ、酔っ払い!」
紅子は衝動的にそう言い返すと、そっぽを向いた。
頬が熱い。
まっすぐ座っているはずなのに、世界がまだ傾いているような気がする。
本当は、お酒の匂いなんか、ほとんどしなかった。
なんだかわからないけれど――いい匂いだった。
鼻腔に残るその香りが心拍数を暴走させ続けるせいで、竜介の顔をまともに見ることができない。
「月の位置が、だいぶ変わったな」
明後日の方を向いたままの紅子のことをどう思ったのか、竜介は独り言のように言った。
「そろそろ休んだほうがいい。部屋まで送るよ」
2009.4.14
2021.05.25改稿
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