第九話「視線」
翌朝。
紅子は、階下から聞こえるかすかな物音と、味噌汁の匂いで目を覚ました。
枕元の目覚ましは、六時半。彼女が起床すべき時刻より、若干、早い。
今日の朝御飯は、あたしが当番だったはずだけど……?
祖母が亡くなって以来、一色家では家事の分担を当番制にしている。
ちなみに、昨日の夕食当番は玄蔵だった。
不思議に思った彼女は寝ぼけまなこをこすりながら、パジャマのままで二階の自室から台所へ降りた。
そこでは、見覚えのない背の高い男が料理をしていて、彼は紅子の気配に気付くと振り返り、にっこり笑った。
「や、早いねぇ」
その端整な顔立ちは、紅子と同い年くらいにも、やや年上にも見えた。
長めにのばした髪を後ろに流してまとめているが、幾筋か残ったおくれ毛が、額にかかっていた。
だれだ、こいつ?
まだ頭の回路が充分目を覚ましていない紅子は、うすらぼんやりしたまなざしで相手を見つめた。
が、彼はそんなことなど気にもとめていない様子で、慣れた手つきで作業を続けながら、一人でぺらぺらとしゃべり続ける。
「昨日はいきなりお邪魔して、悪かったね。お詫びといっちゃ何だけど、朝御飯、作ろうと思ってさ。もうすぐできるから、ちょっと待っててくれるかい。口に合うといいんだけど。あっ、台所、勝手に使っちまったけど、ちゃんと元通りに片づけておくからね」
相手のとりとめのないお喋りを聞いているうちに、紅子は、徐々に昨夜の出来事を思い出し始めた。
そーだ……昨夜……紺野とか言う父さんの知り合いが来て……
彼女の脳裏に、無精ヒゲとボサ髪の、むくつけき男の顔がよみがえった。
それが、目の前の青年のそれと重なる。
紅子は、回転速度がやや平常通りになってきた頭で尋ねた。
「あの〜……あなた、紺野さん?」
「そう」
相手はにっこり笑ってうなずいた。
「俺のことは、竜介って呼んでいいよ」
ふーん。
紅子は、ぼんやりと竜介の顔を見つめた。
もっとおぢさんかと思ったら、意外に若いんだ。あたしよりちょい年上くらい?
そのあいだにも、竜介のおしゃべりは続いていた。
「……だからさ、俺、ここでお世話になってるあいだ、食事当番させてもらってもいいかなぁ?単に居候するだけじゃ申し訳ないだろ。大丈夫、料理の腕には自信あるんだ」
……は?
紅子の目が点になった。
「……いそうろう?」
「そう、居候」
竜介は、笑顔を絶やすことなく、答えた。
「おじさんから聞いてない?俺、しばらくここに住むって」
制服姿の学生たちが、にこやかにあいさつを交わし合い、談笑しながら歩いていく、さわやかな朝の通学路。
その中をただ一人、憤然とした面もちで肩を怒らせ歩く女子生徒がいた。
紅子である。
ったくもー、ったくもー、ったくもーっ!!
うちの親父ってば信じらんないっ。
知り合いだかなんだか知らないけど、若い娘のいる家に、男を居候させるだなんてっっ!!
それもあんな気に食わない男をっ!
彼女は昨夜、自分の放った硬気功が竜介に止められてしまったことを思い出し、さらに気分が悪くなると同時に、奇妙なことに気付いた。
あいつ……包帯、してなかった。
竜介は今朝、半袖のTシャツを着ていたが、腕には、包帯どころか、昨夜のひどい傷さえ見あたらなかったことを、思い出したのだ。
紅子は、その場に立ち止まって、考え込んだ。
「どういうこと……?」
と、そのとき、誰かがその肩を叩き、不意をつかれた彼女は思わず悲鳴を上げた。
「ひゃあっ!!」
あわてて振り返ると、藤臣が、彼女の過剰な反応に当惑した様子で立っていた。
「あ……センパイ」
「ごめん、驚かすつもりはなかったんだ。さっきから何度か声をかけてたんだけど、気がつかないみたいだったから」
「あ、いえ、私のほうこそ、大声出しちゃって」
紅子は素直に頭を下げた。
「何か、考え事?」
「え?はい、まあ、そんなところです」
曖昧に笑って頭をかきながら、彼女はふと視線を感じて、辺りを見回した。
それまで二人のことを見ていた春香は、紅子がこちらを振り返ろうとしたので、あわてて物陰に隠れた。
隠れてから、自己嫌悪に陥る。
……何やってんだろ、わたし……。
別に、二人の様子を盗み見してやろうなどと思っていたわけではない。
紅子の姿を見かけて声をかけようとしたところ、藤臣に先を越されてしまい、そのまま何となく声をかけそびれてしまったのだ。
再びそっと様子をうかがうと、彼らは並んで歩き出すところだった。
今すぐ走っていけば、まだ間に合う。
気兼ねすることなど、何もないはずだった。
しかし、昨日の藤臣の言葉を思い出すと、彼女の足はどうしてもすくんだまま、動かなかった。
さて――
そんな三人のことを、おもしろそうにじっと見つめている、一羽のカラスがいた。
春香の背後の電柱にとまっていたそれは、不気味なほど大きく、狡猾そうな視線を彼らに注いでいたが、とくに紅子に対して向けられるとき、それは明らかに、他の二人とは違う感情を帯びていた。
すなわち、殺意に近い憎悪。
しかし、その不穏な視線に気付くものは、今はまだ誰もいなかった。
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