第八話「邂逅」
彼は、声のしたほうを植え込みの影からそっと見た。
長い髪を三つ編みにした、小柄な少女が、月明かりの下、険しい目つきでこちらを睨んでいる。
しまったなぁ……。
彼は頭を抱えた。
まさか、あの一瞬で気付かれたのか?
「出てこい、ってのが聞こえないの?」
再び、少女の声。
「それとも、引きずり出されたい?」
相手の近づく気配に、彼はあわてて立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。これにはわけが……」
「わけ?」
彼女は馬鹿にしたように、フンと鼻を鳴らした。
「ドロボーにどういうわけがあるっての?」
「ど」
泥棒って。
「俺は泥棒じゃない」
少女の眉が、ぴくりと動く。
「へーえ。こんな時間に人んちに忍び込んでおいて、ドロボーじゃありませーん、って?」
嘲弄するような口調。
「たまにいるんだよね。あの蔵見て、うちに盗みに入るやつ。でも、残念でした。あれ空っぽなの」
パキッ、ポキッ。
少女の指の関節が鳴る。
この流れは、かなりまずい。
「違うって、俺は」
「違うの?じゃあ、変質者?」
「だから、違」
「ま、いっか。どっちでも」
よくねーよ!
彼はそう叫びたかったが、それが声になる前に、間合いを詰められていた。速い。
「うちに忍び込んだこと、後悔させてあげるっ!」
そう言うや否や、小手調べだろう、正拳突きが来た。彼は紙一重でそれをよける。
「へぇ、やるじゃん」
少女は一歩下がって間合いを取ると、凶悪な笑みを浮かべ、そう言った。
「あのさぁ」
彼は空腹に頭痛が加わったような気がした。
「一分でいいから俺の話、聞」
「言いわけ無用っ!」
自分の気迫に相手が動じる様子をまったく見せないのが、彼女のしゃくにさわったらしい。
言葉と同時に、カミソリのような上段の蹴りが一閃、彼の耳元の空を切り裂いた。
今度の攻撃はそれだけでは終わらず、再び間合いを詰めて、拳での打撃へ。
「きみ、紅子ちゃんだろ?」
彼は少女の連続攻撃を実に軽々と避けながら言った。
「俺は、君のお父さんの知り合いで」
だがそれは、
「うそなら、もっとましなうそにしなっ」
と、さえぎられてしまった。
「うちの親父の知り合いに、あんたみたく汚らしい浮浪者なんかいないっ!!」
汚らしい。
浮浪者。
しかし、その時の彼は、確かにそう言われても仕方がないような格好をしていた。
最後に剃ったのがいつだかわからないような無精ヒゲ。
ぼさぼさの頭髪。
すり切れたジーンズ。
履きつぶしかけのスニーカー。
こんな姿で夜分、他家の塀によじ登っていれば、間違いなく立派な不審人物だ。
「だから、これにはわけが」
彼は懸命に弁解を試みる。
が、次の瞬間、蹴りと一緒に飛んできた、
「うるさいっ!!」
という怒鳴り声に、またもやさえぎられたのだった。
実を言うと、このとき紅子はかなりムキになっていた。
こちらはそろそろ息が上がってきているのに、攻撃がまだ一つも決まっていない。
しかも相手はまだまだ余裕のある顔をしている。
こいつ……かなりできる。
でも、なんで仕掛けてこないんだ?
打つのも蹴るのも、まるで手応えがない。
師匠である父を相手にしても、二回に一回はヒットさせられる自信があるスウィッチ・キックさえ決まらなかった。
ならば投げ飛ばしてやろうと腕をつかんだはずが、次の瞬間には空を掴んでいる。
まるで、実体のない影と闘っているようだ。
男は、別に攻撃を避けるために構えたりするわけでもなく、ごく普通に、いやむしろのほほんと立っているだけ。
見た目には隙だらけだ。
それがよけいに彼女の神経を逆撫でした。
疲れて動きが鈍るのを待ってる?
冷たい汗が、背中を伝う。これ以上長引けば、体力のないこちらが不利だ。
相手の思うつぼにはまってたまるか!
彼女は完全に本気になった。
次で絶対に決めてやる!
弱ったな〜。
男は密かにため息をついた。
話、聞いてくれねーんだもんなぁ。
彼から見れば、少女の本気など、毛を逆立てた子猫の本気みたいなものだが、爪を立てて向こうから飛びかかって来られると、あいさつに困った。
大人しくさせるためには多少手荒なことをしてもかまわないというのでなければ、猫じゃらしよろしく、彼女の気が済むまで適当に相手をしてやるしかない。
しかし。
今の彼に、そんな余裕はなかった。なぜなら、彼は
空腹
だったからである。
ああ……晩飯……。
と、そのとき。
「紅子」
玄蔵の声だった。同時に、彼が愛用している雪駄の音が近づいてくる。
「どうしたんだ?さっきからなんだか騒々しいが……」
ほんの一瞬、男の気が自分から逸れるのを、紅子は見逃さなかった。
彼が相手の気の異様な高まりに気づくのと、彼女の拳が硬気の塊を打ち放つのとは、ほぼ同時。
ヒュッ、という口笛のような鋭い音が大気を切り裂き、彼を襲った。
まずい。避けきれない。
彼はとっさに身を低くし、両腕を盾にする。次の瞬間、重い衝撃とともに、両腕に鋭い痛みが走った。
歯を食いしばってうめきを殺していると、ただならぬ気配を察したらしい玄蔵が、慌ててこちらへ来るのが見えた。
彼は自分の娘が使った技のなんたるかをすぐに知ったらしく、憤然となった。
「紅子、おまえは何てことをっ!!」
だが、紅子もまた、強いショックを受けていた。
「そんな……今の硬気を止めるなんて……」
彼女はそうつぶやくと、呆然とした表情でこちらを見ている。
もう攻撃する気力はなさそうだ。
彼はほっとして防御態勢をとくと、ひゅう、と喉の奥から長い吐息をもらした。
「いや〜、参った参った」
などと微苦笑しながら。
「まさか、最後の最後にこんな大技を仕掛けられるなんて、思ってなかったなぁ」
盾にした両腕をあらためて見れば、鋭利な刃物で斬りつけたような傷が無数に口を開け、血まみれ。
Tシャツとジーンズも、あちこちがぼろぼろに裂けて、血が滲んでいる。
やれやれだ。
ため息をつきながら、傷の痛みに顔をしかめていると、こちらをしげしげと眺めていた玄蔵が言った。
「きみ……ひょっとして、竜介くんかね?」
ようやく思い出した、と言わんばかりに。
男は照れたように笑うと、軽く会釈した。
「お久しぶりです、玄蔵おじさん」
彼は、紺野竜介と名乗った。
数分後。
「まったく、おまえときたら」
玄蔵は娘を叱りつけていた。
「相手が竜介くんだったから大事に至らなかったものの、一歩間違えば、今ごろ傷害致死で前科一犯だぞ」
紅子は、竜介の腕に包帯を巻きながら、ぷぅっと頬を膨らませている。
「……悪かったわよ」
「何だその謝り方は。大体おまえは」
「もういいですよ、おじさん」
竜介は、まだまだ続きそうな玄蔵のお説教をやんわりとさえぎった。
「誤解されるような真似をした、俺も悪かったんです。それより……」
「それより?」
おうむ返しに言ってから、玄蔵の顔にハッと緊張が走った。
なにやら心当たりがあるらしい。
「い、いや、その話は明日にしよう。今日はもう、ゆっくり休んで」
「いえ、違うんです」
「え?」
次の瞬間、全身から力が抜けてしまいそうな音が響きわたった。
竜介の腹の音である。
「すみません」
彼は、笑って頭をかいた。
「晩飯、まだなんです。さっきからもう、腹が減って死にそーで……何か食わしてもらえませんか?」
2009.11.1改筆
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