第七話「来訪者」


 夕食を済ませた後、紅子は縁側に出てみた。
 昼間の蒸し暑さがうそのように、夜風が涼しい。もう秋が近いのだ。
 玄関の気配を探ってみたが、父の待ち人はまだ到着していないらしく、ひっそりと静まり返っている。
 客が来れば、やれお茶だ酒だとこき使われるに決まっているので、日課にしている体術の稽古を今のうちにすませておこうと思い立ち、彼女はスニーカーを履いて庭に降りた。
 いつものように、シャドーで形の練習をする。
 が。
 さっきの父の様子が気になって、どうにも稽古に集中できない。
 わざわざ上等の着物に着替え、玄関先まで出て待っているくらいだから、我が家にとってかなり重要な客のはずだ。
 それなのに、先刻の態度はいったい何なのだろう?
 まるで、「おまえは知らなくていい」とでもいわんばかりの、あの態度。
 一色家にとって重要なら、紅子にとって重要でないはずはないだろうに。
 それとも、あたしに知られると困るような相手なんだろうか?
 玄蔵の態度からして、来訪予定者は今朝の電話の相手で間違いない。
 問題は、あの雰囲気。
 歓迎――というよりは、ぴりぴりとしていて、警戒といったほうが正しい。
 上等の着物に着替えているのだから、腕に物を言わせるつもりはなさそうだけど――
 いったい、どんな人が来るんだろう?

 若い男からの電話がくることは、一色家の場合、別に珍しくない。
 玄蔵が、一色流練気柔術という合気道と気功を足して二で割ったような武術の師範をしているからだ。
 そして門下生や入門希望者はたいていの場合、男性が多い。
 でも、と紅子は首を傾げる。
 今朝の電話は、そんな感じじゃなかった。
 どうしてそう思ったんだろう。
 たしか、電話の相手は、朝早くに失礼します、などとありきたりのあいさつをして名乗った後、こう言った。
「玄蔵さんはご在宅でしょうか」
 道場の関係者は、玄蔵を「一色先生」または「一色師範」と呼ぶ。
 名前を呼ぶ人はあまりいない。
 と、いうことは。
 道場関係者ではなく、玄蔵の個人的な知り合い、ということか。
 紅子はとうとう稽古をやめ、腕組みをして考え込んでしまった。
「うーん。わっかんないな……」
 思わず独りごちてから、はっと我に返る。
 バッカみたい。なんであたし、さっきからこんなつまんないこと真剣に考えてるんだ。
 うちの親父に知り合いから電話なんて、いくらでもあるのに。
 そう自分で自分につっこみながらも、ふと、
 ちょっと事務的だけど、落ち着いた、いい感じの声だったな――
 などと思っている自分に気づき、紅子はかぁっと顔が熱くなるのを感じた。
 いやいやいや、と、思い切り首を振る。
 あたしは男に興味なんか……。
 と――
 そのとき。かすかな気配が、彼女の思考をさえぎった。
 何だろう。今、何か、動いた。
 険しい目で、ゆっくりと振り返り、庭を見渡す。
 聞こえる音といえば、鈴を振るような虫の声ばかり。
 夜空は雲一つなく晴れ渡り、青く澄んだ月の光が、辺りを真昼のように照らしている。
 庭のそこかしこには、女郎花(おみなえし)桔梗(ききょう)が早くも花をつけていたが、その花びらがわずかな風に揺れるさまさえ見て取ることができそうなほど、明るく、そして静かな、秋の宵だった。
 何の変化も感じられない。
 庭木の後ろにも、不審な影は見あたらない。
 しかし。
 彼女は全神経を針の先のように研ぎ澄まし、かすかな気の乱れを確かめると、大きく息を吸い込んだ。
「だれっ!?」
よく通る声が、辺りに響きわたる。
「そこで何してんのよっ、出てきなっ!!」


 それより少し前。
 一人の男が、一色家のすぐそばまでたどり着いていた。
「……やっぱりクルマ、頼めばよかったかなぁ」
 彼は、延々と続く土塀を前に、ため息をついた。
 道は知ってるから、歩いていけると思ったんだけどな〜。
「景色が変わってて道に迷うは、日は暮れるは……」
 そのとき、まるでタイミングを計ったように腹の虫が豪快な音を立てた。
「……腹は減るは」
 彼の記憶が正しければ、今いる場所から玄関まで、徒歩でゆうに五分はかかったはず。
 もう一度ため息をつくと、彼は恨めしそうに塀を見上げた。
「いっそ、こいつを乗り越えちまおうかな……そうしたら、早く晩飯にありつけるかも」
 晩飯。そう口に出したとたん、彼の頭の中からは、家人を驚かせてしまうかもしれないとか、第一、礼儀を欠いているとかいった理性的な考えは吹き飛び(いや、全く考えなかったわけではないのだが)、あとには食欲だけしか残らなかった。
 塀の高さは二メートルちょっと。
 仏閣などでよく見かけるような白っぽい土塀で、上に瓦がのっている。
 古ぼけて、今にも崩れそうに危なっかしいという点をのぞけば、越えられなくもないといった感じだ。
「ふむ」
 彼は無精ひげの生えたあごに手をあてて塀をためつすがめつ眺め、瓦の具合を確かめる。
 周囲を見れば、幸い、辺りに人影はない。
 普通の人間なら、この後、勢いをつけて「よじ登る」という格好になるのだろうが、彼の場合はまるで違っていた。
 持っていたボストンバッグを脇に抱え込み、二、三歩下がる。
 と、次の瞬間、わずかな助走をつけただけで、背中に羽根でも生えているように、軽々と塀の上に飛び乗ったのである。
 庭木に引っかかって音を立てるような失敗もなく、向こう側に着地を決めると、彼は小さくガッツポーズをした。
 楽勝だぜっ♪
 夕食へのショートカットに成功――と思いきや。
 すぐ近くに人の気配を感じ、彼はその場にうずくまったまま、あわてて自分の気配を絶った。
 相手が玄蔵おじさんでなきゃ、気づかれることはないだろう。
 などと楽観しながら。
 ところが。
「だれっ!?」
 少女の鋭い声が、明らかに彼めがけて飛んできた。
「そこで何してんのよっ、出てきなっ!!」

2009.10.30改筆


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