第八十九話「喧嘩のあとで」


 濡れ縁に並んで腰を下ろしていた竜介と泰蔵は、背後から突然割り込んできた声に、驚いて振り返った。
「紅子ちゃん?」
「いつからそこに?」
 紅子の姿を認めるや、二人はほぼ同時にほぼ同じ質問を口にしたが、紅子はそれを全く無視して言った。
「黒珠を封じたら、今度はあたしの力を封じて、縁も切る?それって、あたしがもう用なしだから?バカにしないでよね」
「そうじゃない。君の生活のことを考えてるんだ」
 竜介は立ち上がると、紅子に向き直った。
「紅子ちゃん、君は、元の静かな生活に戻りたいと思わないのか?」
「思うに決まってるでしょ」
 紅子は憤然として言った。
「でも、それとこれとは別じゃない?ここまで巻き込んでおいて、事が済んだら縁を切るって、絶対ヘンだよ。どこかで偶然会っても、知らんぷりしろってこと?」
「違う」
竜介はかぶりを振り、根気よく説明する。
「ただ、俺たちが君の周りをウロウロしたんじゃ、迷惑だろうと思ったんだ」
「迷惑だと思ったら、あたしからそう言う。勝手に決めないでよ」
紅子は怒りに燃える目で、頭一つ分ほど高い相手の顔をにらみ上げた。
「それに、元の生活って言うけど、竜介たちだって力を持ったまま、普通に生活してんじゃん。同じ事があたしにはできないって思うわけ?それってやっぱバカにしてない?」
「バカになんかしてないって言ってるだろ」
竜介はさすがにイライラしてきたらしく、強い口調で反論した。
「どうして君はそう喧嘩腰なんだ。いいか、君はまだ、力を得て日が浅いし、俺たちと違って力を抑える訓練もしてないから」
 紅子はそれを皆まで聞かずにさえぎる。
「だったら、それを教えてよ。いきなり力を封じるなんて言わないでさ」
「だから、それは!」
「竜介、もういいじゃないか」
それまで二人のやりとりを黙って聞いていた泰蔵が、ようやく口を挟んだ。
「本人がイヤだと言っとるんだ。これ以上、ハッキリした答えはあるまい。……紅子ちゃん」
「はい」
 いきなり泰蔵から改まって名前を呼ばれたので、紅子は思わず裏返った声で返事をした。
「お前さんが持っているそれ。竜介に渡すんじゃなかったのかね」
 泰蔵がそう言って指さす先に目を落とした紅子は、
「あ」
と小さく声を上げると、ダンガリーのコットンシャツを握りしめていた力を、慌てて緩めた。
 竜介との口論で、思わず両手に力が入ってしまったらしい。
 シャツは彼女の手の中でくしゃくしゃになっていた。
 とはいえ、乾燥機にかけたせいで元からしわだらけだから、見た目にはあまり変わらないのだけれど。
「これ、その……」
口論の直後なので、なかなか素直にお礼の言葉が出てこない。
「ありがとう。……本当なら、アイロンもかけるべきなんだけど」
 義務的にそれだけ言ってシャツを差し出すと、
「ああ、洗ってくれたのか。悪かったね」
彼はにこりともせずにシャツを受け取り、泰蔵に向かって言った。
「じゃあ俺、ちょっと早いけど昼飯の準備してきます」
「おう、すまん。ゆっくりでいいぞ」
 泰蔵の言葉が終わるのを待たず、竜介はきびすを返して奥へ入っていく。
 表情の読めない顔。でもたぶん、怒っている。
 そのまま彼は、こちらをちらりとも見ずに、脇をすり抜けて行った。
 紅子が思い切ってうしろを振り返ったときには、もう彼の背中はそこになく――
 ただ、心の中に妙な後味の悪さばかりが残った。

「そんなところに立ってないで、座って茶菓子でもどうかね」
 ややあって、泰蔵が静かに声をかけてきた。
「あ……ありがとうございます」
 紅子は礼を言って、ついさっき竜介がしていたように、茶菓子を載せた盆を挟んで泰蔵の隣に腰を下ろす。
 泰蔵に訊きたいことがたくさんあったはずなのに、それらは頭のどこか隅のほうへ押しやられ、目下彼女の頭の中を支配しているのは、竜介を怒らせてしまったという、ただその一点のみだった。
 もっと正確に言えば、その事を気にしている自分を認めたくないという葛藤。
 彼女にとって、竜介が怒っていようが笑っていようが、そんなことは今朝何を食べたかということよりもどうでもいいことのはずなのだ。
 そうであるべきなのだ。なのだが――
「竜介のことは、悪く思わないでやってくれないか」
紅子の沈黙をどう解釈したのか、泰蔵が言った。
「あやつはあやつなりに、お前さんの先行きを案じておるのだよ。涼音と同じ年頃の子を見ると、どうも放っておけんらしい」
「はぁ」
納得がいかない。
「あたしは、涼音と同レベルってことですか」
「少なくとも、竜介の中ではな」
 泰蔵はそう言って笑ったが、紅子は笑えなかった。
 なぜ?
 涼音のことが好きじゃないから?
 自分よりずっと子供だ(と思っている)から?
 わからない――どうしてあたしは、こんなにムカついてるの。
 紅子が自分の感情の揺れを測りかねていた、そのとき。
「さて、と」
泰蔵が話題を換えた。
「こんな話をするために来たわけじゃなかろう。もっと他に、わしに訊きたいことがあるのじゃないかね」
 そう言われて、紅子はようやく、今ここで目の前のこの老人に訊いておかねばならないことがあるのを思い出した。
 竜介のことに気を取られている場合ではない。
 文字通り背筋を伸ばし、泰蔵の目を見る。
「失礼な質問だったら、ごめんなさい。でも」
 紅子は言った。
 話題が逸れたことに、なぜか少し安堵している自分を認めながら。
「父や祖母は、どうしてあたしに隠してたんでしょうか。父の実家のことや……おじいさんのことを。母方の祖父のことも、あたしには死んだと言ってたけど、もしかしてどこかで生きてるんでしょうか?」
 泰蔵は、答える代わりに、また少し笑った。
「お前さん、怒りっぽいところやせっかちなところは、八千代さんによく似ておるな」
 紅子は驚いて尋ねた。
「祖母を知ってるんですか」
「もちろん」
泰蔵はうなずいてから、感慨深げにどこか遠くを見た。
「さあて、長い話になるな。何から話したものかねぇ……」
 そう言って。
 老人は、ゆっくりと話し始めた。
 紅子の出生にまつわる、悲しい出来事を。

2010.01.12一部改筆


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